「多数決」の歴史
「多数決」って当たり前のように成っていますけど、いったいいつからあるんでしょうね?もしかしたら、原始時代からあったりするんでしょうか?
それは、ともかくとして、
この「多数決」っていうものが、どうも最近アヤシイ感じがしているわけなんですね。
要するに、「多数決」って、本当にみんなの意見が汲まれているの?って言うことなんですね。
「多数決」がいつからあったのかは知りませんが、
それが、社会や政治の中心的な位置に導入されるようになったのは、
「民主主義」が成立してからだと思うわけです。
つまり、「民衆の政治」とともに「多数決」=「最良の手段」と言う公式が出来て来たんだと思います。
まぁ、「みんなの意見」を反映させていけば、
「民衆にとって最良の社会」が実現するに違いないということなんでしょうね。
確かに一番普通に考えれば、そうなるんだと思います。
でも、そのごく当たり前の公式が、どうもうまく成り立っていないような気がするわけです。
これは、他の記事でも書いたことがあるんですけど、
現在、「多数決」がまともに機能しているとは、全く思えないような状況になってしまっていますね。
それから、これも、他の記事に書いたことがあることですけど、
人間は個人としては、おおむね理に適ったことをするのに、
集団化すると、おおむね理に適っていないようなことをするという性質があると思うのです。
と言うよりも、集団化した人間と言うのは、
一人一人の「人間の意思」ではなくて、「組織の意思」で動かされているんだと思うわけです。
当然「組織の意思」は「人間の意思」を無視することが出てきますし、
人間は組織から排除されたくなければ、「組織の意思」に従わなければならなくなります。
それで、「多数決」が機能しなくなっているんだと思いますね。
おそらく、これはもう結論に到達しているようなことなんじゃないでしょうか?
つまり、「多数決」は「最良の手段」ではないということですね。
それどころか、『「多数決」が「民衆の意見」を十分に反映させることは、ほとんど無い!』
と言うのが事実なんじゃないかと思います。
本当の意味で、「多数決」に反映されているのは、
「民衆の意見」ではなくて、「社会の意見」です。
つまり、社会が「効率化」を目指していれば、
人間がそれを嫌がっていても、そちらに向かいますし、
社会が、「競争」を目指していれば、
人間がそこから離れたくても離れられなくなります。
一人一人の人間は、確かに、それぞれ「自分の意思」で行動しています。
しかし、その「自分の意思」の中に、すでに「社会の意思」が刷り込まれているわけです。
社会に限らず「人間の集団」には必ず「規範」があって、
それに従わないと、その「集団」から排除されます。
それで、その規範が刷り込まれてしまうわけです。
そして、その後の「人間の意思」は、もう「集団の意思」にすり替えられてしまうわけです。
そして、その「集団の意思」が「人間の意思」を無視することがとても多いわけです。
しかも、それは「自分の意思」でもありますから、誰にも文句が言えないというわけです。
結果的に「政治」と言うモノは、
ほとんどの場合「デタラメなことをする」ように成っているわけですが、
それを「民衆が決定させられている」ので、文句が言えないようにできているわけです。
とりもなおさず、もうそろそろ、「多数決」を捨てる時が来ているような気がするんですねぇ。
「多数決」が、いつからあるのかわかりませんが、
「多数決の歴史」を終わらせないと「民衆の政治」は実現しないと思いますね。
「多数決」で、出来るのは「社会の政治」ですね。
「これが、ホントの社会主義なんじゃないの?」っていう気もしますね。
「多数決」を排除するには、
「無作為抽出の代議員制度」が一番いいように思いますね。
要するに、どんな「コンコンチキ」が代議員に成るかも知れないということですね。
そんな人がどのくらい居るのか知りませんけど、
そんなには居ないと思うんですね。
少なくとも、今の「選ばれた代議員」の方たちほど多くなければいいわけですから、
「GO でしょ!」
そんな風に思っているわけです。