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「多数決」の歴史



「多数決」って当たり前のように成っていますけど、いったいいつからあるんでしょうね?
もしかしたら、原始時代からあったりするんでしょうか?


それは、ともかくとして、この「多数決」っていうものが、どうも最近アヤシイ感じがしているわけなんですね。

要するに、「多数決」って、本当にみんなの意見が汲まれているの?って言うことなんですね。


「多数決」がいつからあったのかは知りませんが、それが、社会や政治の中心的な位置に導入されるようになったのは、「民主主義」が成立してからだと思うわけです。

つまり、「民衆の政治」とともに「多数決」=「最良の手段」と言う公式が出来て来たんだと思います。

まぁ、「みんなの意見」を反映させていけば、「民衆にとって最良の社会」が実現するに違いないということなんでしょうね。
確かに一番普通に考えれば、そうなるんだと思います。


でも、そのごく当たり前の公式が、どうもうまく成り立っていないような気がするわけです。


これは、他の記事でも書いたことがあるんですけど、現在、「多数決」がまともに機能しているとは、全く思えないような状況になってしまっていますね。


それから、これも、他の記事に書いたことがあることですけど、人間は個人としては、おおむね理に適ったことをするのに、集団化すると、おおむね理に適っていないようなことをするという性質があると思うのです。

と言うよりも、集団化した人間と言うのは、一人一人の「人間の意思」ではなくて、「組織の意思」で動かされているんだと思うわけです。

当然「組織の意思」は「人間の意思」を無視することが出てきますし、人間は組織から排除されたくなければ、「組織の意思」に従わなければならなくなります。

それで、「多数決」が機能しなくなっているんだと思いますね。


おそらく、これはもう結論に到達しているようなことなんじゃないでしょうか?
つまり、「多数決」は「最良の手段」ではないということですね。

それどころか、『「多数決」が「民衆の意見」を十分に反映させることは、ほとんど無い!』と言うのが事実なんじゃないかと思います。


本当の意味で、「多数決」に反映されているのは、「民衆の意見」ではなくて、「社会の意見」です。


つまり、社会が「効率化」を目指していれば、人間がそれを嫌がっていても、そちらに向かいますし、社会が、「競争」を目指していれば、人間がそこから離れたくても離れられなくなります。


一人一人の人間は、確かに、それぞれ「自分の意思」で行動しています。
しかし、その「自分の意思」の中に、すでに「社会の意思」が刷り込まれているわけです。

社会に限らず「人間の集団」には必ず「規範」があって、それに従わないと、その「集団」から排除されます。

それで、その規範が刷り込まれてしまうわけです。

そして、その後の「人間の意思」は、もう「集団の意思」にすり替えられてしまうわけです。


そして、その「集団の意思」が「人間の意思」を無視することがとても多いわけです。
しかも、それは「自分の意思」でもありますから、誰にも文句が言えないというわけです。


結果的に「政治」と言うモノは、ほとんどの場合「デタラメなことをする」ように成っているわけですが、それを「民衆が決定させられている」ので、文句が言えないようにできているわけです。


とりもなおさず、もうそろそろ、「多数決」を捨てる時が来ているような気がするんですねぇ。


「多数決」が、いつからあるのかわかりませんが、「多数決の歴史」を終わらせないと「民衆の政治」は実現しないと思いますね。

「多数決」で、出来るのは「社会の政治」ですね。
「これが、ホントの社会主義なんじゃないの?」っていう気もしますね。


「多数決」を排除するには、「無作為抽出の代議員制度」が一番いいように思いますね。


要するに、どんな「コンコンチキ」が代議員に成るかも知れないということですね。
そんな人がどのくらい居るのか知りませんけど、そんなには居ないと思うんですね。


少なくとも、今の「選ばれた代議員」の方たちほど多くなければいいわけですから、

『GO でしょ!』


そんな風に思っているわけです。



現在形の「リアリズム」について



これは、私の個人的な感想なんですけど、現在形の「美術」(とくに「絵画」かな?)に置いて、「リアリズム」に戻りつつあるような傾向があるように思うわけなのです。
(最先端の美術ということに成ると、もっとトーイ・トコロに行ってしまったという印象ですが)

つまり、「抽象表現」に限界が見えてきたことで、「具象表現」に戻ってきているんじゃないかということですね。
戻ってきたというよりも、行き過ぎて跳ね返ってきたという感じなのかも知れませんね。


個々の作家のスタイルについては、それぞれの自由なんでしょうが、「芸術」と言う分野として、『「抽象」の方は放っといていいんですか?』ということが気に成るわけなのです。


「芸術全体」として考えた場合、「抽象表現」をホッタラカシにしてイイとは思えないということですね。


「芸術」と言う分野としての「抽象」と言う「問い」に対する「答え」は、まだ提示されたことが無いような気がするんですね。


「具象表現」に関しては、もともとシッカリした「体躯」を持っていたように思いますし、その「体躯」を持ったまま、行き詰って行ったということなんだと思います。
(もう、具象はダメなんだっていうことじゃないですよ)


しかし、「抽象表現」に関しては、いまだに、そういう「シッカリした体躯」に当たるモノが示されたことが無いような気がするわけです。

「芸術の20世紀」に置いては、常に「抽象表現」にまつわる「仮の回答」が提出されては、引っ込められるでもなく、霧散してしまうというようなことの繰り返しだったような気がします。


もちろん、そうした「仮の回答」は、今も「名作」と言われているわけですが、それなのに、そのスタイルはどれも一過性の「流行り」であったように見えてしまうわけなのです。


つまり、それらは「個々の作家のスタイル」であって、「芸術全般」としての「抽象に対する解答」ではなかったということなんだと思います。

だから「体躯」を感じられないんですね。
そして、「体躯」を持たないまま行き詰ってきているわけです。

やはり、「芸術全般」としての「抽象に対する解答」が、示されていてしかるべきだったように思うわけです。


まぁ、「体躯」を持った状態で行き詰っても、「体躯」を持たないまま行き詰っても、どっちみち行き詰るなら同じことだと言われれば、そうかもしれませんけど、

私は、そう思わないということですね。


そこを、ホッタラカシにして、「リアリズム」に戻ってしまうと、方向がさらにズレていってしまうと思うんですよね。
だから、今のうちに、「抽象に対する解答」を導き出しておいた方がいいんじゃないのかなと。

そんな風に思います。


要するに、「抽象表現について考えること」が「メンドクサイこと」になって来てるんだと思います。

みんなで寄ってたかって「抽象」を論じていた時には、それについて、一所懸命に考えていた人も、それについて考えることがメンドクサクなってきたら、考えなくなってしまったわけですね。


でも、芸術って、「みんながが考え無く成ったから、自分も考えなくなる」じゃなくて、どっちかっていうと、「みんなが考えなくなったから、自分は考える」の方なんじゃないのかなと。


そんなわけで、「現在形のリアリズム」は「抽象」の方にこそ見つけ出していきたいもんだなと。
「具象」で行くなら、見つけ出すべきは「現在形のアンチ・リアリズム」に成るんだと思いますね。
「具象」と「抽象」を両立させる形で論じられないと、展開できなくなっているんだと思うんですよね。

それでないと、同じところを堂々巡りすることに成るんだと思います。


そんな中で、「出来ないこと」は『できませんでした』と言うべきでしょうし、そういう「出来ないこと」こそ、無駄でも一所懸命になってやるべきでしょうし、「出来ること」があるなら、他人からどんなにバカにされてもやるべきでしょう。


そういうのが、いま「芸術」と言えるモノなんじゃないのかなと。


私はそんな風に思っているわけです。


「現在形の創作」



かなり昔の時代までは、「現実を写し取ること」や、そこに「アレンジを加えること」を「創作」と言っていたんだと思うわけです。
でも、現在それを「創作」と言えるのか?と言う問題があると思うんですよね。

つまり、今でもまだ「現実」などの「既存のモノ」を模倣することを基盤にした作業を「創作」ということが出来るのか?ということですね。


それを肯定した場合、極端に言うと、「カメラ」や「コピー機」に著作権が発生するということにも成りかねないんじゃないかと思うのです。


それはともかくとして、やはり、写し取る作業は「現在形の創作」では無いような気がします。


そうなると、「現在形の創作」とは、どういうモノに成るのか?ということです。

おそらく、それは、「非現実のモノ」に「具体性」を与えることなんじゃないかと思うわけです。
つまり、「非現実のモノ」を、ただ単に提示するだけじゃなくて、そこに「実体」を与える作業が「現在形の創作」と言える作業なんじゃないかということです。


もともと、古典的な「写し取るタイプの創作」に置いては、現実に存在するものを写し取ることで、それを、「芸術」と言う「非現実的な世界」に取り込んで、提示することを「創作」と言っていたんだと思います。

つまり、作業としては「現実を写し取ること」でも、そこに、「芸術という非現実の空間」を「創作」していたということでしょう。

ところが、技法が確立されていくにつれて、それを「創作」と言える領域が狭まって行ったために、それを「創作」とは言いにくく成って行ってしまったんだと思います。

「写し取る作業」自体も、写し取られるように成ってしまったわけですね。


要するに、それは「芸術」ではなく「技術」になってしまったということでしょう。


そこで、どうしても「現実」を「芸術という空間」に取り込むのではなくて、「取り込むモノ」自体を創り出すことが必要に成ったわけでしょうね。

それが「抽象表現」ということだと思います。


そして、「現在形の創作」に至って、その「取り込むモノ」を創り出して提示するだけじゃなくて、そこに「具体性」を与える必要が出てきていると思うわけです。


つまり、「抽象表現」にも「具象性」が必要に成って来ていると思うんですね。

百年くらい経って、ひっくり返ったとも言えるのかも知れませんね。


「抽象表現」に置いては、「具体性」を問題視されることは、その百年くらいの間、ほとんど無かったように思います。

どちらかと言うと、「いかに具体性を排除するか」ということが重要視されてきたように思いますね。


それが、もう出尽くしたということなんでしょうね。

実は、だいぶ前からそうなっていたんだと思いますし、個々の作家の中では、「具体性」に対する取り組みもあったんでしょうが、当初の、「具体性を排除する」と言う方向性が邪魔してたんじゃないかと思いますね

要するに、「抽象」で「具体性」を取り入れようとすると、どうしても、「ややチュートハンパな感じ」に成ってしまうので、やろうとするたびに、引っ込めざるを得なくなるといったところだったんじゃないでしょうか?

それで、「半抽象」みたいなものをやっている人は、『いや、具象ですよ』みたいな顔をしていないと格好がつかないという状況があったような気がします。


それから、「抽象をやってみたら意外と幅が狭かった」って言うこともあると思います。
つまり、「抽象化」することで、限りなく表現の幅が広がると思われたのに、「具体性」のないモノを現そうとすると、意外なほど表現の幅が狭いんですね。

それで、「「具体性」が、また必要に成ってきているんだと思うんですね。


そんなところで、【「非現実的なモノ」に「具体性」を与えること】が、「現在形の創作」と言えるんじゃないのかなと。

そういう風に思っているわけです。



「善」と「偽善」は本当に違うモノなのか?



いわゆる「イイ人っぽい行い」を見て、『そういうのは偽善だろ!』と言うのをよく聞くわけですけど、おそらく、それを言っている人は、「善」とは、もっと「素晴らしいモノ」だと言っているんでしょうね。

でも、本当に「善」と「偽善」はそんなに違うモノなんでしょうか?
実を言えば、「善」と「偽善」って、そんなに違わないんじゃないか?と思ったりもするんですね。


たとえば、「寄付」と言うのがありますけど、「お金持ち」の人が「寄付」をするのを見て、それを「偽善」であるということがありますが、、『そういうのは、自分の体裁を繕うためにやっているに違いない』ということなんでしょうね。たぶん。

でも、もしも、「自分の体裁」のためだったとしても、少なくとも、「寄付」をしない「お金持ち」も居ることを考えれば、そこにも、多少の「善意」が含まれているという風に言えるんだと思うわけです。

まぁ、要するに、「善」でもあるけど「偽善」でもあるということなんじゃないかと思います。


そう考えていくと、『じゃあ、「本物の善」って、どういうモノなんだ?』と成るわけです。

一切の「偽善」を含まない「純粋な善」と言うモノが、存在しえるでしょうか?
少なくとも、「人間の場合」に限ってですね。

たぶん、無理だと思うんですね。


「カミやホトケ」のような、「善のカタマリ」みたいなモノを想定した場合は別として、「人間」の場合は、「善」と「偽善」は、ほとんど分かちがたいモノなんじゃないかと思うわけです。

つまり、「善」を行えば、必ず「偽善」もついてくるということですね。


だから、「善」の中から、重箱の隅をつつくように「偽善」を探し出してしまうと、「善」は、一切行うことが出来なくなってしまうような気がしますね。

ということは、世の中から「善」が無く成ってしまうということです。


それは、チョット困るので、「善の中の偽善」を探し出すのは、なるべくやめようと思うわけです。


あまりに、あからさまに「自分のためだけにやったこと」を、あまりに、あからさまに「人のためにやったような顔をする人」は別ですけどね。


そういうのは、かなり「純粋な偽善」ということに成りますね。
『この人なんか、そーとー純度高いわぁ!』っていう人も、チョクチョク見かけますけどね。

出来ることなら、「善」の方でお願いいたしたい!


そんな風に思います。



絵画空間における「接地」と「浮遊」



私の場合、「抽象表現」の中に「具体性」を取り入れようという考えで絵を描いているので、「抽象画」なんですけど、「モノであること」を目指しているわけです。
(「現実のモノ」というわけではありません)

そこで、「そのモノ」が「絵画空間」の中で、「接地」しているか?もしくは「浮遊」しているのか?と言う問題が出て来るわけですねぇ。


一般的に「抽象画」では、「モノ」を描きませんし、むしろ、「モノ」や「空間」から離れようという傾向があるわけですから、この問題に悩む必要はないのかも知れませんけど、いざ、「モノ」を描こうとすると、「そのモノ」を「絵画空間」においてどこに位置づけるのか
と言う問題が避けて通れなくなるというわけです。


「モノ」以前に「抽象画」に置いては、「空間であること」も「否定」または「無視」される傾向があると思いますから、そこに「位置」と言う概念が存在しないという場合も多いと思います。

つまり、「空間」でも「距離」でも「立体」でもないような「純粋な絵画の世界」と言うのが、ほとんどの「抽象絵画」の追究してきたものなんだと思います。

私は、その「純粋性の追究」によって、結果的に、「芸術」が「肉体」を失って、かえって「表現の幅」が狭く成ってしまっていると思うので、「具体性」を取り戻そうと思ったわけですね。

それで、「モノ」を描こうと思ったわけですけど(「非現実ではあるが物質的な実体感を伴ったモノ」と言う感じです)、その結果、こういった類のさまざまな問題に直面することに成っているわけですね。


つまり、「現実のモノ」であっても「非現実のモノ」であっても、「モノ」である以上は、「そこに在る」ということが必要に成るんですね。と言うか、その「そこに在る」ということが示されることで、それが「絵画空間」の中で「モノ」に見えて来るんだといってもいいんじゃないかと思います。

いずれにしても、そこに「位置」を設定しなければならなくなるわけです。
要するに、その辺をゴマカシたくなかったということですね。


それで、その「モノの位置」が「着地」しているのか?
それとも、宙に浮いて「浮遊」しているのか?ということが突きつけられることに成るわけです。


ところが、「モノ」ではありたいんですが、「現実のモノ」ではありたくないわけです。


要するに、「接地」や「浮遊」という「位置関係」を現実と同じように説明してしまうと、「現実のモノ」に近づきすぎる感じがするんですね。

「具体性」は欲しいのに、「現実性」は欲しくないということですよね。
まぁ、ワガママですし、無理です。
でも、なんとかしたいわけです。


それで、「接地」でも「浮遊」でもない、そういう「位置」を作りたいわけなんですね。
でも、ゴマカシたくはない。

まぁ、正直言ってチョット・ゴマカシてるとは思いますけどね。

そういう「非現実的な位置」を作り出すのになんとなく慣れてきています。


これは、言葉で説明されても、読んだ人は困るんでしょうが、「宇宙」を考えてみればわかりやすいと思います。


「具象画」に置いて、例えば花を描いたとき、その花が「接地」しているということは、花瓶に生けられていたりするということなわけですが、その花瓶は、また更にテーブルに「接地」していて、ということですから、最終的には、地球に「接地」しているということに成るわけですね。

しかし、その地球は宇宙に「浮遊」していますよね。
つまり、どんなに「具象的な絵」であっても、本当は「接地」と「浮遊」の両方の要素を持っているということなんですね。

ただ、「具象画」の場合は、そのどちらか一方の要素だけを切り取って見せていることが多いということなんだと思います。


そして、私の場合は、その両方の要素を「絵画空間」に描き入れようということですね。
そうすることで、「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を創り出しているわけです。
(自分でそう思っているだけですけどね)


私の場合、「背景」にあたる部分と(「空間」も、表現しますから、「背景」と言う感覚もあります)、、主題としての「モノ」の部分との間の層に、「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」を描くことで、「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を作っていることが多いですね。


「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」と言うのは、「接地」と「浮遊」のどちらともとれると思うんですね。


つまり、フレーム・アウトした先がどうなっているかがわかりませんから、それが「接地」しているのか「浮遊」しているのか、ということが曖昧に成るわけですね。


こんな話、読んだ方は、ナニ言ってんのかサッパリわかんないでしょうが、それはそれで、ご愁傷さまです。
でも、、なんとなくこの問題はクリアーできたような気がして来ているので、よかったなと。

そんな風に思っております。

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『よかったな、じゃネェーよ!』

この記事を最後までお読みに成った方がいらっしゃれば、それはそれで、謹んでお悔やみを申し上げます。



絵画空間における「壁」と「空」



前の記事と似たようなことです。


たぶん『こんなモン読まなきゃよかったよ!』と言う方が多いと思いますので、そういう方は、ここで思いとどまってください。


さて、前の記事と似たような話ですけど、私の場合、「抽象画」なんですけど、「モノ」を描くことを目指しております。

そこで、いろいろな問題に直面せざるを得ないことがあるわけですね。


前の記事の〈絵画空間における「接地」と「浮遊」〉も、その一つなんですが、もう一つの主な問題として、【絵画空間における「壁」と「空」】と呼んでいることがあるんですねぇ。
(まっ、いま名付けたんですけど)


前の記事にも書いたんですけど、私の場合、「モノ」を描くことによって必然的に、「空間」も描くことに成っているわけです。

つまり、「なんとなく空間を感じさせる」と言うのではなくて、「ここは縦・横・奥行きのある空間ですよ」と言う表現を使うということですね。

「モノ」を「実体」として描くと、どうしてもこれが必要になってくると思います。
まぁ、要するに「場所」や「位置」を表現するということだと言えばいいんじゃないかと思います。

「モノがある場所」ですね。


そこで、出て来るのが、この【絵画空間における「壁」と「空」】ということに成ります。


ここで言う「空」は、「抜けていく空間」、言い換えれば「無限の奥行」ですね。
「無限遠の距離感」と言うようなことです。

また、ここで言う「壁」とは、「抜けていかない空間」、言い換えれば「有限の奥行」です。
まぁ、「距離が設定された距離感」と言う感じですか。


この二つを「風景画」と「室内画」に置き換えて言うと、「空」と「壁」に当たるんだろうということですね。


そこで、問題としては、これも前の記事と同じように、やはり、「具体性」は欲しいんですが、「現実性」は欲しくないということがあるわけですね。

それで、「空」と「壁」のどちらか一方ではなく、その二つを両立させるようなことが必要に成ってきたわけなのです。


どちらか一方に限定してしまうと、どうしても「現実感」が出過ぎてしまうということですね。
でも、その辺をボヤカシたり、ゴマカシたりはしたくないので、両立させようと思ったわけです。


つまり、見ようによっては無限遠の「空」にも見えるし、違う見方をすれば、突き当る「壁」が感じられるというような、そういう「具体性はあるけど現実性が薄い空間表現」を目指しているわけですねぇ。


こんなこと言うと、『おいおい、随分と偉そうじゃないか?』と言われそうですが、今のところ、ほぼ偶発的に「そんな感じ」に成っているという段階です。


とっても、ムズカシイです。
(私にはムズカシイです)

前の記事に書いた「接地」と「浮遊」に比べると、かなり”ビミョー”な表現でしかそうならないみたいですね。
しかも、それが、まったく予測できません。


とにかく、「空間を抜こう!」とすると、いきなり【「無限遠」寄り】になってしまいますし、これじゃあダメだというんで、「抜けていかない空間を作ろう!」となると、今度は、いきなり距離が設定された【「壁」寄り】に成ってしまいます。


まぁ、それでも何度もやっていると、少しは慣れて来るもので、このところ、ある程度は要領を得てきています。
(それでも、この表現にはソートー時間がかかってしまうんですが)


そんな感じで、「空のような壁」または「壁のような空」を作っております。
その上に「接地」と「浮遊」が両立した「位置」を作って、さて、そこに描く「モノ」ですね。
今のところ、ここが、まだ弱いと思っています。

「形」ですね。

「モノの形」が弱いんですね。


要するに、「現実のナニカ」に似てきてしまったり、「漠然とした形」になってしまったりすることが多いということですね。


まぁ、なに言ってるかサッパリわかんなかったでしょうが、最後まで読む人も居ないでしょうから、

『じゃあ、いいんじゃないの?』

ということで。



「抽象表現」における「現実性」と「非現実性」



またまた、前々回から続けて似たような記事です。

読まないに越したことは無いと思いますが、「イミガワカラナイ言葉の羅列」みたいなのがお好きな方はどうぞ。


さて、またまたまた、自分の絵についての話で恐縮なんですけど、私が目指しているところの『抽象画なんだけど、「モノ」を描こうと思ってるんだよ!』ということにまつわる問題ですね。


前回、前々回の記事でも書いたんですけど、「抽象画」にも「具体性」があったっていいんじゃないの?ということでやっているわけですが、

 ※私は「抽象」と「具象」は対立する概念ではないと思っています。
  むしろ、常に両立している概念ではないかと思いますし、「具体性のない抽象」
  も「抽象性のない具象」もあり得ないと思っています。
  ですから、より積極的に「具体性を追究する抽象」があっても、何の問題もないと
  いう風に思っているわけです。

そこはやっぱり「抽象画」ですから、「具体性」を求める上でも「現実性」は出来るだけ出したくないわけです。


でも、「具体性」は出来るだけ高めたいわけですから、何かしらの形で「現実味」を出していく必要があるんだと思うわけです。


まぁ、ショッパナから矛盾してますよね。


これは、上手く説明できる気がしないんですけど、まぁ、人間が「現実」だと思っている「イワユル現実」とは「チガウ現実」を創り出して、それを、出来るだけ”リアル”に表現していこうということです。


所詮、「チガウ現実」ですから「現実」ではないわけで、それを「現実」とか「リアル」と呼んでいいのか?っていう問題はあるんでしょうが、他の言葉を使っても意味が伝わりにくいのは同じようなものなので、一応、「非現実の中の現実性」ということにしています。


この「非現実の中の現実性」が、「抽象表現」を再活性化してくれるんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「現実」とか「具体性」を避けよう避けようとしてきたために、「実体感」や「手ごたえ」を失ってしまった「抽象表現」に、そういう「シッカリした部分」を取り戻せるんじゃないかなと言う風に思うわけですね。


「実体」や「肉体」を取り戻すことで、「抽象表現」は再活性化するような気がしますし、「抽象表現」に「ある種の幅」を展開できるようになるんじゃないかと思います。


もともと、「抽象表現」は「自由な表現形態」を求めて、現れて来たんだと思うんですが、それが、実際にやって行くとだんだん「不自由」に成って来たんだと思います。

「抽象性」だけを追究していくと、どんどん「表現の幅」が狭く成って行って、身動きができないように成るんだと思います。


やはり、「抽象」と「具象」は両立していて、初めて「実体」を持ち得るんじゃなかと思うわけです。
どちらか一方に偏ると、平面的で、「実体感」のない世界や、無機質的で「精神性」のない世界しか表現できないように思います。


さて、そこで、「非現実の中の現実性」ですが、やっぱり「そのまんまの現実性」では、ちょっとダメで、「現実のモノ」に「現実の現実性」があるように、「非現実のモノ」には「非現実の現実性」があっていいと思うわけですね。


そこで、「現実の現実性」とは違う、「非現実の現実性」を作り出す必要があるわけです。


「現実の現実性」には無いような「ナマナマしさ」や「臨場感」を、「非現実のモノ」において、創り出していけたらいいんじゃないか?と言う風に思うわけですね。


これまた、矛盾した言い方になってしまうんですけど、「リアルであればあるほど非現実的に見えるような現実感」と言った感じでしょうか。


とにかく、そういうような「非現実の中の現実性」を、いつも念頭に置いて絵を描いています。


もちろん、「そういうことが出来ますよ」って言うことじゃないですよ。
そう上手くはいかないですけど、「目指すところとして」ということですね。

やっぱり「現実」に引っ張られますし、また、『そうじゃないとウソなんじゃないか?』っていう気もします。
「現実」を「外そう外そうとする」のも『チガウかな』と思うわけですね。

だから、あまり「奇抜な形」に成ることは避けようと思ってもいます。

そうすると、無意識のうちに「現実のナニカ」に似てきたりします。

 ※私の場合、「現実のナニカに近いか遠いか」と言う規準は、かなりのところまで捨て
  て、「自分の中から出て来たものかどうか」と言う規準を重視するようにしています。


こんな状態ですから、いつも迷っています。
でも、迷った結果がなるべく”ブレない”ようにしようと思っています。


『なっ!』(いや、自分に)



「創作」って、実は「すごく大変な作業」なんじゃないのか?



「創作」とか「芸術」について、『誰でもできますよ~』とか『すぐにでも、やる気さえあればできるんですよ~』なんて言うのをよく聞きますよね。

本当にそうだと思いますし、私自身そんな感じでやっているとも言えるわけです。


でも、その反面、「創作」って、実は「すごく大変な作業」なんじゃないのか?と思ったりもするわけです。


要するに『創作って何なの?』って言うことの考え方によって、その辺がだいぶ違ってくるんだと思います。

取り敢えず「絵を描いたり」、「モノを作ったり」すれば、「創作」と言えるのか?ということですよね。


もちろん、広い意味では確かに「創作」なんでしょう。
でも、例えば、人の作品を「模倣することに徹した作品」を「創作されたモノ」と言えるのか?ということに成ると、「創作」の意味を少し狭めただけでも、それを「創作」とは呼べなくなってしまうような気がします。


「創作」の中の「作」の部分はあっても、「創」の部分が無いというところでしょうか。
で、その「創」の部分って、いったいどういうモノなんだ?ということに成るわけです。

それは、「その人の感性を現すようなものを創り出すこと」なんだと思うわけですが、その「自分の感性」っていうのが、人間にはなかなか掴めないんですねぇ。


少なくとも、「情報の渦」の中で、洗脳され続けて育ってくるような状態の「現代人」にとっては、「自分の感性」を正確に捉えることなんて、到底できることではないように思えるわけです。

ほとんど不可能に近いんじゃないか?と思えるほどです。


『そんなに難しく考えなくても…』ということも言えるとは思います。

そう考えれば、『素直に”イイ”と思ったものを、そのまま表現すればいいんだ!』ということでしょうし、それ以上考えなくても、それが「創作」なんでしょう。

それでも、とくに問題は無いのかも知れませんけど、それでは、やや物足りなくなってきているような気もします。
「現代の創作」が、そこを疑っていく必要を迫ってくるわけです。


『素直に”イイ”と思ったものを、そのまま表現すればいいんだ!』と言っても、

その「素直に”イイ”と思ったもの」とは、本当に、その人が「無垢な状態」でも「”イイ”と思うモノ」だったのだろうか?ということですね。

現代においては、そんなことはほぼ有り得ないことだと思います。


現代社会においては、「情報の渦」から完全に外れている人は、もう、ほとんど居ないといってもいいほどですし、その「情報の渦」の影響力は「絶対的」と言ってもいいほどですから、そんな中で、いくら、『素直に”イイ”と思ったものを、そのまま表現すればいいんだ!』と言っても、まったくなんの基準にもならないということですね。


そこで、現在においては、どうしても、『ナニが自分にとっての”イイ”なのか?』ということから、探していく必要があるんじゃないかと思うわけです。

そして、それを『何とか見つけ出せたかな?』と言うところで、ようやく、それを「創る」ということに成るわけですね。
やっぱり、『けっこう大変な作業なのかな?』と思いますね。


こういうことを言うと、「芸術の門戸を狭める」と思う方もいらっしゃるでしょうが、私は、「現代の芸術」の持つ最も重要な意味は、そういう「チョット大変な作業」の中にこそあると思いますので、そこに置いてこそ、「門戸が広く開かれる」ことが大事なんじゃないかと思うわけなのです。


『誰でもできるんですよ~』と言われてしまうことで、一般人が、その「一番肝心な部分」には近づけないように成ってしまうわけですね。

『誰でもできるんですよ~』の部分だけだと、ほとんどの人がすぐに飽きてしまいますし、やめてしまったりもしますよね。

人よりちょっと早く技術を習得した人だけが、他の人から褒められて、「イイ気持」に成るので続けられるわけです。
でも、そんな時、その人の中で、それはもう「芸術」ではない「チガウ・モノ」になってしまっています。


専門的に「芸術」をやっている人たちは、多かれ少なかれ、この「チョット大変な作業」をやっていると思います。
でも、その人たちが決まって『誰でもできますよ~』と言うわけです。
そして「チョット大変な作業」については、まずもって語られないですね。

「技術的な面」については「大変そうに言う人」が結構いらっしゃいます。
でも、むしろ、「技術」こそが、「誰でもでき「ること」なわけで、「技術」は少し時間をかけて努力さえすれば、それこそ「誰でもできること」だと思います。


本当に大変なのは、「自分の感性を見つけ出すこと」であって、さらに、それを「具体化」することです。
そして、そこに「現代の芸術の本質」があるんだと思います。


だから、そういう「芸術の本質」に対して、「門戸を広げる」、のであるならば、『「創作」って、「ナカナカ大変な作業」なんですよね~』『でも、誰にでもできるハズではあります』

ぐらいに言う方が、かえっていいんじゃないのかなと。


そんな風に思ったりもするわけですね。



「ナニでもないモノ」とは「ナニ」なのか?



「ナニでもないモノ」とは「ナニ」なのか?

『いや、そりゃ、「ナニでもないモノ」ですから、「ナニ」でもないですよ!』と言う感じの中から、「ナニカ」を創り出そうとするのが「抽象」という手法なんだと思います。

要するに「ナニカ」と言う「枠」を外すことで、より「普遍的」で「純粋」なものを「表現」しようとしたわけですねぇ。たぶん。


しかし、現在に至って、その「ナニでもないモノ」が、逆に「枠」になって来ていると思うわけです。


「ナニカ」を表現すると、その「ナニカ」の範囲に表現が限定されてしまいます。
それで、その「ナニカ」と言う「枠」を取り払って、表現の範囲を広げようとしたわけなんでしょうが、けっきょく「ナニでもないモノ」でも、やはり、それを表現すれば、その「ナニでもないモノ」の範囲に表現が限定されてしまうことに変わりがなかったということでしょうね。たぶん。


それで、「ナントナク行き詰っている」感じがするんだと思います。


「ナニカ」を表現すること=「具象表現」

「ナニでもないモノ」を表現すること=「抽象表現」

 ※もう少し先まで言えば、「ナニでもないモノ」を表現することで、より強く「ナニ
  カ」を表現しようとすること=「抽象表現」と言う感じでしょうか。

いずれにしても、どちらか一方では足りなくなってきたんだと思うわけです。

「抽象」と「具象」に限らず、あらゆることにおいて、これまで、対極にあると思われてきた二つのモノを、融合させて、両立させてやらないとならなくなってきているわけです。


それで、いま、「ナニでもないモノ」とは「ナニ」なのか?と言う問いに対しては、『それは「出来るだけナニでもないモノ」であり、且つ「出来るだけナニカであるモノ」である!』と答えたいですね。


まぁ、要するに、『ガンバリます!』ってことですね。
そんなことで良かったんじゃないかと思いますね。

『十分でしょ、ダメですか?』


それ以上のことをやろうとすると「行き詰る」んだと思います。


でも、『そんなことで良かったんじゃない?』なんて言ってますけど、『ガンバリます!』って、結構大変です。

それでも、、『ガンバッテ、ガンバリます!』





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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