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「抽象的な視点」



「現代の芸術」においては、「抽象的な表現」以上に、「抽象的な視点」はとても重要なんだと思うわけです。


「表現形態」としては、「抽象」と「具象」のどちらか一方を重視する必要は無いような気がしますし、むしろ、それは合体させる必要があるんだと思っていますけど(表現的な折衷と言うよりも、精神的な融合に近い方向だと思っています)、「芸術における視点」としては、「抽象的な視点」を重要視した方が、「芸術」が見えやすくなるんじゃないかなと思っているわけです。


これは「創作」においても「鑑賞」においても言えることだと思いますが、「抽象的な視点」を持つことで、いろいろな意味で範囲が広がりますし、見えないモノや見えにくいモノが見えるように成るということが、確かにあるわけです。


たとえば、現在において「具象画」を見る時に、それを「具象的な視点」だけで見た場合、その絵が「上手いか、下手か」と言う話だけで終わってしまいます。

でも、そこに「抽象的な視点」を持ち込むことで、「具象」であっても、そこに「異・現実感」を見つけ出すことが可能に成ります。
そこで、「上手いか、下手か」と言うこと以外の「意味」が発生するわけですね。

それで幅が広がるんだと思います。


「表現」においては、常に「抽象」を選択するか、「具象」を選択するかは、意識されていますし、見る側も、だいたいそれを意識して見ています。


でも、「視点」については、人間は常に無意識に「具象寄り」だと思います。
それでないと生活できないような気がします。

やはり、モノを見たときに、それが「ナニ」であるかを判断するという「具象的な視点」が優先していないと、日常生活がしづらいような気がしますね。


だから、人間は意識して「抽象的な視点」を重視していかないと、「抽象性」を見逃してしまうようにできているんじゃないかと思うわけです。


また、「抽象」が嫌いだという方でも、案外初めから、「抽象的な視点」を持っている方もいるようですから、敢えて「嫌いな絵」を見るんじゃなくて、「好きな絵」の中に「抽象性」を見つけ出していけたら、少し”イイ”んじゃないのかなと。


それから、案外「抽象」が好きと言う方にも、逆の形で、これと同じようなことがあるみたいで、「抽象画が好き」と言う人が、
ほとんど「抽象的な視点」を持たずに「抽象画」を見ているということが、わりとよくあるような気がします。

そういうときにも、「抽象」が好きなんだから、それでいいといってしまわずに、「抽象的な視点」から見ていくと、見かたの幅が広くなるんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。


芸術における「技術」と「上手い」のチガイ



「技術的」=「上手い」なのか?と言うと、芸術においては、必ずしもそうでもないんじゃないかと思うわけです。

「技術」という場合は、あくまで、「手法」の問題であって、その「手法」を習得していれば「技術的」なわけですが、「上手い」と言うのは、そこに「世間的な評価」と言う基準が入っているんじゃないかと思うわけです。


いくら「誰も評価していないこと」を「上手く」できても、それを「上手い」とは言わない場合が多いということですね。
でも、それも「技術」ではあります。


逆に、他人から「上手い」と言われるために「技術」を使った場合に、それを「上手い」ということが多いんだと思います。


つまり、芸術においては、必要ならば「技術」は使えばいいでしょうが、「上手い」を追い求めてしまうと、「自分性」が失われる可能性が強いということでしょう。


だから、『「上手い絵」なんて描かないようにしよう!』

それでいて、『「誰も上手いと言わない技術」は磨いていこう!』

そうやって、『なるべく複雑なものを表現したい!』

しかも、それを、『できるだけ明快に見せられたらいいなぁ!』


もうチョット、シンプルに出来ないもんなんだろうか?
でも、もう、そっちにしか進む方向が残ってないから。


そんな感じ。



「発展」とは、「そっちにしか行けない方に行くこと」なんじゃないか?



「進歩」とか「発展」と言うと、そちらに向かった方がイイだろうという方向に向かって行くことなんだと思うわけですけど、そういうのが、そう思いどおりに行くとも限らないわけで、実際には、「進歩」だと思っっていたことが「後退」であることも多いし、「発展」だと思ってやったことが、どこでどう間違ったのか「荒廃」につながってしまうなんて言うことも、まぁ、よくあるわけですね。


で、なにが言いたいのかと言うと、「発展」なんて言っていますけど、「イイ方向に進む」なんてことは、人間が計算してもできることではなくて、「発展」っていうのは、本当は、「そっちにしか行く方向がないと言うときに、その方向に向かって行くこと」なんじゃないかと思うわけです。


つまり、イイもワルイもなく「そっちにしか行けない」ということですね。
実際には、そういうのを「発展」と言っているんじゃないかと思うわけです。


そう考えると、確かに、「科学や技術」が「進歩」するたびに、いちいち、『これが本当に”イイモノ”なのか?』と問いただされて、『うん、間違いない”イイ”だろ!』ということに成ってから、それが選択されていくことなどほとんどなくて、いつも「見切り発車」的に試されて、『あまりにヒドイ時だけはやめる』と言うのが普通です。

『よく考えてみたら、そうでもなかった』と言うときでも、その「科学や技術」は「いちおうは発展」ということで生き残って行くわけです。


でも、「原発」のことなんかも、よく議論の対象に成りますけど、いくら「賛否両論」があっても、けっきょく「そっちにしか行けない」んだとすれば、必ずそっちに行きますよね。


まぁ、「原発」で言えば、人間は「肯定」にしか行けないと思いますね。
「イイ・ワルイ」とは別にですね。

そして、やってみた後で、『あまりにヒドイ時だけはやめる』ということに成るわけです。


これが、現時点での、「人間の限界」なんだと思いますね。


「遺伝子操作」なんかでも、やっぱり、『一度はやってみないと気が済まない』と言うところだと思います。

そして、『あまりにヒドイ時だけはやめる』ですね、たぶん。
そうでも無ければ、「いちおう発展」ですね。


『そんなんじゃまずいだろ!』っていう気もしますが、『そんなんでいいんじゃないの?』っていうような気もします。


とにかく、人間は「新しい方向」を提示されると、必ずそっちの方に向かって行きますね。
でも、これは、必ずしも人間に限ったことでも無いかもしれませんね。
どんなものでも、だいたい「新しい方向」に向かいます。

ただ、人間がチョット他の動物よりも”目ざとい”ということなんじゃないかと思います。


それで、いろんな「新しい方向」を見つけ出してしまうんですね。
だから、けっこう「発展しちゃった」わけですよね。

それは、それで悪いことではないでしょうし、どちらかと言えば、イイことなんだと思います。

まぁ、それ以前に『イイもワルイもなく決まっている』って話ですけどね。


ただ、「イイもワルイもなく決まっていること」だからと言って、何もしないでもいいということでも無くて、そこで「あーでもない、こーでもない」と考えるのが、「いま人間に出来る唯一のこと」なんじゃないのかなと。


そして、その中から、また「少しマシな発展」が生まれたりもするのかなと。

そんな風に思っているわけですね。 


『だから、なに!?』 

『あら、ただそれだけなのよ、ダメかしら?』

『ダメです!』

『・・・・・・・・・』




「抽象画」と「模様」の違い



「抽象画」って、「抽象化」すればするほど「模様」っぽく成ると思うんですね。
そして、そうなると、「抽象画」と「模様」の違いって何なのか?ということに成って来るわけです。


ほとんどの場合、作者の中では「ゼンゼン違うモノ」なんだと思うんですけど、その違いが見た人に伝わるのか?と言うことになると「?」ということなんだと思います。

 ※『いえ、おんなじですよ、絵具で模様を作ってるだけですよ』なんて言う人も居らっ
  しゃるでしょうが、少し無理があるような気がしますね。


「抽象画」の方は「自己表現」として描かれているわけですし、「模様」の方は「装飾」としてデザインされているわけですから、根本的に違うハズなんでしょうが、なぜか「抽象化」すると「模様化」するということに成ってしまうわけですね。


おそらく、これは「抽象画」が「立体表現」を使わない時に起きてくる現象なんだと思うわけです。
つまり、立体的に描かれたモノと言うのは、あんまり「模様」っぽく見えないんですね。

もちろん「〇〇っぽく見えるかどうか」ということは、そんなに大事なことではないのでしょうが、まぁ、やっぱり「作者の意図」が伝わりやすい方がイイんじゃないかとも思うわけですね。

だったら、「立体表現」使えばいいじゃないかということなんですけど、そうすると、今度は「抽象」っぽく無く成って来ちゃうんですねぇ。


今度は、「模様」とは逆に、「立体的」に描くことが、「抽象的な印象」を妨害するような構造に成っているわけですね。

要するに、見る側の人の中に、『抽象とはモノを描かないことだろう』と言う固定観念が、すでに出来上がってしまっているわけです。

しかし、、本来の「抽象表現」は必ずしも「モノを描かない」ということとは関係なくて、【「単なる現実の模倣」ではない「ナニカ」をもって「モノゴトの本質」を抽出して表現しようとすること】なんでしょうから、「モノ」を描いても、別にサシツカエはないんじゃないかと思います。


実際、「スーパー・リアリズム」の絵が、「ある種の抽象性」を持っていることは確かなことだと思います。
その場合、「現実以上の現実性」が「異・現実感」のようなものを生み出しているんでしょうね。
つまり、「抽象性」と「具象性」が同居しているわけです。

「現実まで」が「具象」で、「現実を超えたところから」が「抽象的」に成るということだと思います。


これは、必ずしも、「スーパー・リアリズム」に限ったことでも無くて、どんな絵にも「抽象性」と「具象性」は、どこかで同居しているんだと思います。

ただ、その比率によって「具象画」と「抽象画」と言う分け方があるだけなんだと思うわけです。


そこで、話を「模様化」に戻すと、「模様化」するか「具象化」するかの二者択一だとしたら、「具象化」した方が、少しマシなんじゃないかなと思うわけです。

見る側と同じように、創作する側にも、『モノを描いたら抽象じゃない!』と言うような固定観念が出来てしまっていますから、現在の「抽象画」においては、『「模様化」は許されても「具象化」は許されない』というような空気があると思います。

でも、私はどちらかと言えば、「模様化」の方に違和感を感じるんですね。


今述べたように、全ての表現が【「具象」と「抽象」の同居】による産物なんだとしたら、「具象化」に違和感を感じる理由は無く成るわけですが、全ての表現が【「模様」と「絵画」の同居】から現れているということは無いでしょうから、そこには違和感が発生するということに成るわけです。


また、「具象」と「抽象」は「手法の問題」にすぎませんが、「模様」と「絵画」は「目的の違い」だと思うわけです。
やはり、「目的が違うモノ」は「根本的に違うモノ」なんじゃないかと思うんですね。


そんなことから、「抽象表現」は「模様化」するよりは「具象化」する方が、少しマシなんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「芸術作品」=「作者そのもの」ということについて



よく『「芸術作品」と言うのは「作者ソノモノ」なんだ!』と言われることがありますよね。

その通りだと思います。


でも、よく言われる割に、このことがあまりシビアに捉えられていないような気がします。
そして、これを、もっとシビアに捉えていった方がイイんじゃないかと思うわけです。


たとえば、「ウマイ絵を描く」ということは、「その絵の作者がウマイ生き方をしている人だ」ということに成ります。

つまり、そういう「イワユル・ウマイ絵」を描くということは、自分が『世の中をウマイこと渡っている人間ですよ』と世間に向かって言っているようなもんだということですね。

でも、実際には、それと反対のことを言っていたりしますね。
たとえば、『自分は生きるのがヘタだから、絵ぐらいはウマク描かないと』みたいに。
だけど、それだと「作品」=「その人」じゃなくなってしまいますよね。

つまり、「その作品」は「その作者」を現していないということに成ってしまうわけなのです。


もしも、もともと「モノスゴク絵がウマイ人」だったとしても、本当に「生きるのがヘタな自分」を現したいならば、「ウマさ」を捨てる方向にもっていかなければならないハズですね。

つまり、「イワユル・ウマさ」ではない「チガウ・ウマさ」(要するに、人から「ウマイ」と言われ無いような「ウマサ」ということでしょうね)を、見つけ出す必要が出て来るということだと思います。


また、そういう、「イワユル・ウマイ絵」を、ありがたがって見るということは、見る人が「そういうウマイ生き方にアコガレテいる」ということに成るわけです。

『そんな風に裏からものを見なくても・・・』ということもあるんでしょうが、「芸術作品」=「作者そのもの」ということを、少しシビアに捉えていくと、こんな風に成るんだと思うわけです。


そして、このように、この点を厳しく考えていくと、「芸術」が見えやすく成って行くことも確かなことなんじゃないかと思うのです。


「芸術作品」=「作者そのもの」ではない、と考える人ならともかく、「芸術作品」=「作者そのもの」だろう、と考える人ならば、やっぱり、その「作者そのもの」がどんな人なのかということを、キッチリと見極めてこそ、初めて「その作品に触れた意味」があるんだと思います。


それでなければ、「作品」と「作者」がズレていても気づかずに、一番肝心なところを見ていないということに成ってしまうんじゃないのかなと。


そんなことを思ってしまうわけなのです。




「次元」って、本当は一つなんじゃないか?



「3次元」=「空間」とか、「4次元」=「時間」とか、「次元」の捉え方として、「次元」には種類があるということに成っているわけですけど、実際は、そういうのを全部ヒックルメタ・モノを「次元」という風にも考えられなくはないんじゃないかなと思うわけです。


つまり、「全部の次元」全体で「一つの次元」という考え方があってもいいような気がするわけですね。

 ※お断りしておきますが、これは、物理とかの話ではなくて、むしろ、「哲学的な
  好奇心の探究」と言ったものです。


そもそも「次元」と言うモノを分けて考えるというのが、どうもシックリこないんですね。


「次元」っていうのは、「世界」を見る時の「視点」なんだと思うわけですけど、確かに、その「視点」によって「世界」の捉え方が違ってくるんだと思いますし、そこでの説明には意味があるんだとは思うんですが、それは、あくまで「仮の座標軸」みたいなものなんだと思うわけです。

つまり、理論上の仮定だろうと思うわけですね。
でも、それがあまりにも当然のことのように、「~次元」と言われてしまうために、いかにも「次元」にたくさん種類があって、いろいろな「次元」が交錯して世のなかが成り立っているんだというような錯覚が生みだされているんじゃないかと思うわけです。


実際には「すべての次元」が一体になっているのが「この世の中」で、それを、敢えて分けて捉えているのが「次元」なんだと思います。


だから、「~次元」という風に分けて考えると、捉え方としては理解し易くなるのかも知れませんけど、けっこう「世界の捉え方」がズレて来ることも多いように思うわけですね。

だいたい「空間」を「三次元」と言ったり、「時間」を「四次元」と言ったりする必要って、あまりないような気がします。
「時間」は「時間」で十分だし、「空間」は「空間」で何一つ過不足なくことが足りるわけで、「~次元」に置き換える必要なんて、ほとんどないんじゃないでしょうか?


どちらかと言えば、浮世離れした「物理学」のような分野での必要があって、「次元」を分けて考えるようになったんでしょうが、そんな難しいことを、「中学生」や「高校生」に教えるもんだから、やや、無理が出て来るんだと思うわけです。

それで、「時間」と「空間」が、まったく別の「次元」であるという、チョット不自然な認識が生まれてしまうんじゃないかと思います。
(まぁ、違うには違うんでしょうけど)


じつは、別の「次元」なのは「仮の理論上の次元」だけであって、「本物の次元」は一つしかないというのが、どちらかと言えば自然なのかなと。


そんな風に思っております。
(よく知りもしないことを言って、どうもすいません)



「カルト芸術」:「芸術」はどこまで「自由」であるべきなのか?



『芸術は自由であるべきである』これに異論はないわけです。

しかし、ですね。
そこに、『どこまで自由であるべきなのか?』ということが抜けているんじゃないかと思うわけです。


現在「芸術」には、ほぼ「無際限の自由」ともいえるものが与えられている状態だと思うわけです。
しかし、その「自由」には、本当に一切「限度」を設定しなくてもイイもんなんでしょうか?

例えばの話、「人の心を腐敗させるような芸術」は許されるのでしょうか?
あるいは、「刺激で感性がマヒしてしまうような芸術」はどうなんでしょう?


『いや、そう言うモノは人から選択されずに消えていくから大丈夫なんだよ、キミ!』

・・・・・そうでもないような気がします。

『それでも、人々がそれを選択したならば、それを芸術として受け入れるべきなんだよ、キミ!』

・・・・・それで、みんながツラクなっても?


要するに、『芸術は自由であるべきである』
これは、「理想論」なんじゃないかと思うのです。


もちろん、『芸術は自由であるべきである』と思います。
でも、それは「理想」であって、「実現不可能なこと」でもあるような気がするわけです。

私自身も、『出来るだけ自由であるべき』とは思いますけど、『ナンデモアリなんだ』とは思えませんね。


これは、決して「芸術」を頑なな考え方で縛り付けようと言うモノではありません。
むしろ、逆で、今の状態が『チットモ「自由」には見えない』ということです。


「自由」を追い求めて、いつの間にか「不自由」になっている人、

「裕福な暮らし」を求めて、休む間もなく働く人、

「平和」を求めて、「戦争」をする人、

みんな同じですね。


「理想」を追って、「現実」が抜けているんですね。

もちろん、「芸術」が「理想」を追うのは間違いでは有り得ないと思いますけど、「実現段階」まで含めての「理想」であるべきなんじゃないでしょうか?


少なくとも、一応一通りやってみて、『イマイチだな』っていうときには、戻ったり変えたりしないとダメなんだと思うわけです。
そこにシガミツクことほど、「芸術の中心」から遠いことは無いと思いますね。


そういう「芸術に与えられた無際限の自由」にシガミツイタ結果、生み出された「極端な芸術」というのは、言ってみれば、「カルト芸術」と言うべきものなんじゃないかなと思うわけです。


「宗教の自由」を過剰に保護すれば「カルト宗教」が現れてくるように、「芸術の自由」も行き過ぎれば、「カルト化」するのは当然の成り行きだと思いますね。

そして、「宗教」における「カルト」が、誰のためにもならないのと同じように(一部の「教祖様」だけは別かもしれませんけど)、「芸術」の「カルト化」も、おそらくは誰のためにもならないんだと思います。
(こちらも「一部の方」は別なのかも知れませんけどね)


「カルト宗教」は「宗教」本来の目的を失っています。


つまり、「極端に世俗的なもの」と「無理矢理に神聖なもの」が、「教祖」の都合だけで、使い分けられて、「善」とか「得」とかと言うような「宗教本来の姿」が無く成ってしまうわけですね。

だから、誰のためにもならないんでしょうね。


「芸術」も「カルト化」すれば、それと同じように、「本来の姿」を失ってしまうのでしょう。


そもそも、「芸術」や「宗教」においては、その「本来の目的」自体が、ハッキリ提示されていないようなところもあるわけで、そこのところを、ある程度「規定」しなければ、このような「カルト化」という現象が現れて来るのも避けられないんだと思うわけです。


しかし、その「規定」自体が、何らかの形での「拘束」になってくるわけで、その段階で、もう「無際限の自由」ではなくなってしまうわけなのです。


「無際限の自由」をとるか、「制限付きの自由」をとるかは、意見が分かれるところでしょうが(おそらく現時点で「制限付き」を選ぶ人は少ないでしょうね)、『どちらも試してから決める』というのは、普通に考えても当然のやり方だと思うんですがどうなんでしょうね?


でも、この手の話には、必ず「ヒステリックな反応」をする人が居らっしゃいますね。

『それは、もう、その人が「カルト化」してるから!』

そんな風に思います。



「学問」の落とし穴



「学問」は「人間」にとって必要なモノだと思いますし、「学問」に興味を持って考えることは意味のあることなんだと思います。

ただ、「学問」を「既存の学問を習得すること」だと思ってしまうと、それが「落とし穴」になってしまうように思うのです。


だいたい、「学問」で学ぶようなことと言うのは、かなり偉大な学者たちが、一生をかけて研究したようなことなわけですから、それを、いきなり一般人が「理解」できるわけがないんで、ほとんどの場合は、ただ単に、「教科書」や「本」に書いてあることを「オボエタ」と言うだけなんだと思います。

ところが、それを、どうしたって「ワカッタ」と思ってしまうわけで、そうすると、どうしたって、自分が「オリコウにナッタ」ような気になってしまうんですねぇ。

これが、「学問の落とし穴」になってしまうような気がするわけなのです。


つまり、実際には「オボエタ」だけなのに、自分で考えて「ワカッタ」んだと思ってしまっていますし、それどころか、かなり「オリコウにナッタ」つもりで居るわけですから、もう、それ以上考えて学ぼうとはしなくなってしまうわけです。


ほとんどの場合、また違う本を読んで「チガウコトをオボエル」だけなんですね。
それで、けっきょく、知識が増えていくだけで、「本当の理解」に到達することが出来なくなってしまうわけなのです。


「オボエタ」だけでも、何かの役には立つんでしょうが、「学問」が「人間」にとって、本当に意味があるのは、「考える」ということにおいてなんだと思うのです。

「オボエタ」だけだと、そのほとんどの部分が失われてしまうような気もするんですね。

結果的に「学問」によって、その「学問の一番重要な部分」が阻止されてしまうことになってしまうわけなのです。


それで、チョー一流大学を出ていたり、チョー沢山の本を読んだりしているのに、チョートンチンカンな人っていうのが、よく居らしたりするんだと思います。


たぶん、そういう人が「アホ」なわけじゃなくて、やや従順すぎるだけなんだと思います。

「本を読め!」と言われるから、本を読んで、「考えろ!」と言われないから考えない。
それだけなんじゃないでしょうか?

おそらく、そのほうが、世間的にチョーウマクやって行くのには、近道なんでしょうね。

そして、そうすればチョー一流企業に就職できて、チョー高給取りに成れるかもしれないですね。
でも、チョーつまらない生き方のような気もしますけど、その辺のところ、そういう人たちってどう考えているんでしょうね?


『ああ、考えないのか?』

『じゃあ、良かった』


いえ、皮肉じゃなくてですよ。
取り敢えず、不幸じゃないのならば、いいんじゃないかと思いますね。

『チョー良かった』とまでは思いませんけど。


ただ、「学問」で、もう少し純粋に「人生」が楽しめたら、もう少しイイのかなと。


そういう風に思ってみたりするわけです。




現在考えられる「神と芸術の関係」



「芸術」と「宗教」は、昔から深い関係があったんだと思います。
「哲学」もそういう分野だといっていいでしょう。

それらは、いずれも「真理を追究する」ということで近い位置にあるんだと思うわけです。


だから、「神」が「究極の真理」であると信じられていた時代においては、「神の世界」を表現することこそが「芸術」でもあったんだと思います。

 ※これは世界中のいろいろな地域で同じようなことが言えると思います。
  「神」が「仏」に成ったりするというだけですね。


過去のことはさて置き、現在の「神と芸術の関係」とはいったいどんなものなんでしょうね?


これは、「信仰」をお持ちの方には到底納得のいかないことなんでしょうが、私は「神の時代」は、もうトックに終わってしまっていると思っているわけです。

ですから、現在考えられる「芸術」の目指すところは、「神の世界を現すこと」ではないように思うわけです。


そこで、『じゃあ「ナニ」を目指すんだ?』ということになるわけですね。


まず、「神の時代」がどのようないきさつで終わっていると思うのか?ということです。

「宗教の歴史」をはじめからたどるのは難しいでしょうけど、「絶対的なモノに対する信仰」という、「現在の宗教」の形式」ができてからのことで言うと、そういう【「絶対的なモノ」を想定する以前の「信仰」】から、

 ※こういったものを「原始宗教」というような言い方をしますが、私は「宗教」よりも
  前に「信仰」があったのだと思っています。
  「自然」や「世界」に対する「畏怖心」のようなものは、原始の時代の人間の中に
  もあったでしょうし、動物の中にもあるのだと思っています。
  こういった「オソレ・オノノキ」を、「信仰心」と言うことは出来るでしょうが「宗教」と
  いうのには、やや違和感を感じますね。

【「絶対的なモノ」を想定した現在形の「宗教」】が生みだされたことで、「宗教」が「文化的な側面」を併せ持つようになったように思うわけです。

そして、そのことによって「宗教」は飛躍的に発展したともいえるでしょうし、「人間社会」にとって、不可欠の要素に成ったともいえるでしょう。

また、その結果、「宗教」が、「真理」を追究する分野に成ったとも言えるんじゃないかと思うわけです。
つまり、「絶対者」と言う「究極の真理」ですね。


ここから、「宗教」と「哲学」や「芸術」が結びついていくことに成ったんだと思うわけです。


そして、「現在の宗教」はと言うと、その「絶対者」を「普遍化」する傾向があるように思うわけです。

たとえば、昔ならば、「神」も「教理」も違う「異教」同士が認め合うということはあり得なかったんでしょうが、現在は、どちらかと言えば、『そういうのは、ノー・プロブレムなんですよ!』という考え方の方が主流と言っていいでしょう。

つまり、「あちらの神」も「こちらの神」も「おなじ神」ということで、「普遍的な神」を想定するようになったということなんでしょうね。たぶん。


本来は「神」自体がもともと普遍的なわけですから、当然と言えば当然でもあるんでしょうね。
でも、じゃあ、なんで「教義」や「神の名」が違うのか?と言う矛盾もあるわけですが、まぁ、その辺には目をつぶって「普遍的な神」ということを重視していこうということなんでしょう。

それで、争い事が減っているのは確かなことだと思います。


でも、そうなると、「芸術」は「どの神の世界」を表現すればいいんでしょうか?
もちろん、「確固たる信仰」を持っている芸術家はいいでしょうが、そういう「宗教」を持たない芸術家や、それこそ「より普遍的な神」を追究したいという芸術家はどうすればいいのか?


この辺のことから、「芸術の20世紀」において、「芸術」は「混迷」に巻き込まれていくことに成ったんだと思うわけです。

これは、必ずしも「芸術」を「宗教」と結びつけて考えるときに限らず、「宗教」が追求すべき「神の姿」を見失っていったのと同じように、「芸術」も追及するべき「真実の形」を見失って行ったということなんだと思います。


つまり、どちらにおいても、「絶対的なモノ」を想定することが出来なくなってしまったということでしょう。

それで、「神の時代」が終わって行ったんだと、まぁ、私は思っているわけですね。


現在の「宗教」においては、『「神」とは「すべて」である』と規定する傾向があるように思います。

そういうことをわりとはっきりと言っているのは「スピリチュアル」の人たちでしょうが、「スピリチュアル」に限らず、多くの「宗教」でこういう考え方が普及しているんじゃないでしょうか?


つまり、「神の絶対性」を追究していくと、「すべて」に行き着くんだと思います。


それは、おそらく「すべて」が「唯一の世界を分割しない言葉」だからだと思うのです。

「言葉」と言うのは、基本的に「世界を二分する性質」があります。
たとえば、「神」と言えば「神」と「神じゃないもの」に「世界が二分される」ということですね。

でも、「すべて」だけは「すべてじゃないもの」を想定することが出来ないので、「絶対性」が崩れにくいわけです。

もしも、「すべてじゃないもの」があったとしても(無いでしょうけど)、それは見つけられた瞬間に「すべて」の中に取り込まれてしまいますから、けっきょくは、それも「すべて」に含まれているということに成ってしまうわけですね。


さて、そこで、「芸術」ですが、「芸術」もやはり、「すべて」を現す方向に向かったのだと思います。

つまり、それが、「抽象表現」ということなんだと思うわけですね。


「具象表現」は「限られたモノ」を現すのには適していますが、「いろいろなモノ」を含んだ「世界」や「モノ」の「根本原理のようなもの」を現すことに向いているとは言えないというわけですね。

「すべて」とまでは言わないまでも、「いろいろなモノ」を現すのには、やはり「抽象表現」が必要に成るんだと思います。


と言うあたりが「20世紀~現在」までの芸術と宗教の在り方なんじゃないかと思うわけですけど、実際には、「芸術」はこの辺のところでかなり長い間停滞していると思いますね。
というか、「芸術の20世紀」半ばあたりからは、「やや後退気味」なんじゃないかなと。
そんな気もするんですがどうなんでしょうね?


さて、そこから先の話なんですけど、長くなってしまったので、

次の記事につなげます。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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