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現在考えられる「神と芸術」の関係」(つづき)



前の記事からの続きに成ります。


さて、「芸術」も「宗教」も、19世紀~20世紀にかけての「人間の意識の変化」によって、「すべて」というモノを目指すようになってきたんじゃないか?ということです。

こういう傾向はけっこう前から続いているんだと思いますけど、「すべて」は、そう簡単に到達したり現したりできないので、なかなかそこから卒業できないというところなんでしょう。


ただ、ここで一つ問題があって、「宗教」において、「すべて」を「真理」であるとしてしまうと、結果的に「宗教」が「無意味化」するということがあるわけです。

つまり、「宗教」以前の「単なる畏怖心」のようなものに戻ってしまうような気がするわけですね。


「宗教」が今のような形になる前にも、「自然」や「世界」に対する「畏怖心=オソレ・オノノキ」のようなものはあったでしょうし、それは、「人間」だけでなく「動物たち」の中にもあるんだと思います。

そして、そこから「神」のような「絶対的なモノ」を想定したことで、「宗教」は「宗教」たり得たように思いますし、それこそが、「宗教の文化的側面」を形成していた要素だと思うわけです。


つまり、「畏怖心」だけだと、根源的な感情ではあっても、素朴すぎるために「発展性」が無く、「文化」とはなりにくいんじゃないかと思います。

「すべて」も、それと同じようにあまりにも「根源的」であるために、「文化」にも「宗教」にも成らないんじゃないかと思うわけですね。


というよりも、「宗教」が「すべて」を追究すると、結果的には「宗教」としての意味を失ってしまうんじゃないかと思います。
言い換えれば、「すべて」は、「追究する必要」も、「信仰する必要」も、「真理と呼ぶ必要」もないということです。


「すべて」は何と言っても「すべて」ですから、なにも要求することなく「すべて」として、あらゆるものを含んでしまっていますから、ナニカを探求する「必要」も「意味」も全く無く成ってしまうわけです。

そうなると、もう、それを「宗教」と呼ぶことにも意味がなくなってしまいますし、そこに「信仰心」を持ち出してくる理由も何一つ無く成ってしまうわけで、「宗教」において「すべて」を「真理」としてしまうと、『へぇ~、そうなんだぁ~』と言うだけのことに成ってしまうんじゃないでしょうか?

もはや、それを「信仰」と呼ぶことにも意味は無いかもしれません。


つまり、それは「オソレ・オノノキ」から数千年を経て、それ以前の状態に戻ってしまったということに成ってしまうわけです。

それがワルイということではありませんが、それは、やはり、「後退」であるというような気がします。


これは、同じようなことが、「芸術」にも言えていて、「芸術」においてもやはり、「すべて=完全な普遍性」を現そうとして、それを極限的に追及していってしまうと、そこには「無意味」と言う「芸術の残骸」が残るだけなんじゃないかと思うわけです。


これは「芸術の20世紀」が証明して見せたことの一つだと思いますが、その「芸術の20世紀」という実験を行った本人たち(巨匠と言われる人たち)が、その「無意味」と言う「実験結果」を発表することなく、放置してしまったために、その後の「芸術」が「混迷の渦」から逃れられなくなってしまったんだと思うわけです。


少なくとも、私は、「20世紀」の「芸術」や「宗教」において、自分の「芸術的探究」や「宗教的研鑽」が、結果的に『無意味であった』と言っている人を知りませんし、それどころか、その点に疑問をはっきりと提示してから死んでいった人すら知りません。

今さら、それをどうこう言うつもりはありませんが、それも、やはり「後退」であるとは言わざるを得ないわけなのです。


そして、なんといっても、「今」ですね。

いま、「宗教」においては、私は「人間が宗教を卒業する時」が来ていると思うわけですが、「芸術」においても、「すべてを現すこと」は不可能であるということがわかって来ていると思うのです。

そうなると、やはりある程度「限定されたモノ」を現していくしかないということですね。

つまり、「宗教」においても、「芸術」においても、「絶対」や「究極」を追究することを諦めなければならなくなってきたということだと思うわけです。


「宗教」においては、もともと「絶対」を追究すること自体に「宗教の本質」があると思いますので、そこで「宗教の時代」は終わってしまったんだと思うわけです。


「芸術」においても、やはり「究極」は、昔からのテーマであったとは思いますが、そこを少し妥協したとしても、まだ「芸術の役割」は残っているような気がしますので、それで、「芸術の時代」は継続できるような気がしているというわけです。


また、これはある意味で「妥協」ではあるかもしれませんが、「後退」とは言えないと思うのです。
つまり、「前進」するための「妥協」ということですね。


もちろん、今でも「究極的なすべて」を現せれば一番いいんでしょうが、それは不可能であろうということで、「妥協」するわけですが、もともと「すべて」が絶対的な目的なわけでもないわけですから、そこを「妥協」したとしても、少しでも「真実」に近づければ、少しはいいんじゃないのかなと。

そんなところでしょうか?


そんな中で、今、「芸術」が追求していくことと言えば、「すべて」を現すことが不可能であるという現実を受け入れたうえで、さらに、それを現そうとし続けることと、そういうことに対する純粋で懸命な姿勢を示すことなんじゃないのかなと。


それは「現在の芸術」が示すことが出来る「究極的な姿勢」であると言ってもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「絵の大きさ」について



「絵の大きさ」っていうのは、どうやって決めるもんなんでしょうね?

何が言いたいかと言うと、ちょっと「絵の大きさ」が大きくなりすぎているんじゃないかと思うわけです。


昔から、大きな絵はあったでしょうが、昔から、今ほど「大きな絵が主流」と言うことでは無かったんじゃないかと思うわけですね。


私の場合は、キャンバスを張る木枠を自分で作っているので、「大きさ」も、「縦・横の比率」も、自分勝手に決められるわけなんですけど、市販の木枠だと、F~号と言うように大きさや縦・横比が決められているわけで、まったく自由と言うわけでもないですし(特注品は別として)、その他にも、出品する展覧会の決まり事など、いろいろと都合や制約があって、「絵の大きさ」や「縦・横比」を、好き勝手に選べるとも限らないわけですけど、そんな中で、「絵の大きさ」や「縦・横比」の選択基準となってくるのは、どんなことなのかなと、考えてみたわけです。


まず、「絵の大きさ」について、よく思うことなんですけど、いわゆる「有名な絵」の「現物」を見たときに、『意外に~』っていうことがよくあると思うんですね。


要するに、『えっ!こんなにチッチャイの!?』とか、『あれっ?この絵がこんなに大きいと思ったことなかったなぁ~』っていうことがけっこうよくあるんですよね。

自分以外の人の話でもそういうことを、よく聞くような気がします。


それで、たいてい「思ったよりも大きかった時」は、文句が出ないんですが、「思ったよりも小さかったとき」には、どことなく不満ということが多いわけですねぇ。

とくに、その展覧会や美術館の目玉になるような絵が、思っていたよりもかなり小さかったというときに、そういう傾向が出るような気がします。


なんというか、ややセコイ話ではありますが、美術館の入場料に見合うだけのボリュームのモノを見せてほしいというような、いわゆる「コスト・パフォーマンス」的な、計算が無意識のうちに働いてしまうんじゃないでしょうか?


「絵の真価」が「絵の大きさ」と関係ないモノだと、頭ではわかっていても、やっぱり、『大きいことはいいことだ!』的な「満足感」も、どこかに作用してくるんだと思います。

まぁ、料理で言えば、『おいしくても、やっぱり、お腹いっぱいに成らないと!』ってとこですかね?

ほとんどの人が「芸術」と「お腹いっぱいに成ること」とは、関係ないと思っているんじゃないかと思うんですけどね。


ところがですね。

自分で「絵」を描く時はと言うと、「大きさ」を強く意識することはあまり無いですね。

「大きい絵」には「大きい絵なりの苦労」があるでしょうし、「小さい絵」にも「小さい絵なりの苦労」があるんでしょうが、そういう、「どっちがムズカシイか?」とか「どっちがタイヘンか?」ってことじゃなくて、描いている時に「大きい絵だから」とか「小さい絵だから」とかいうことで、「その絵の方向性」を決めようとは、私の場合はほとんど思いません。


少なくとも、自分のことに限って言うと、「絵の中の世界観」に「大きさ」という感覚はもちこんでいない場合が多いと思いますし(「絵の中の大きさ」と「現実世界の大きさ」は別物だと思います)、『小さい絵だからこのぐらいでいいかな?』と言うのも極力避けたいと思っています。

とくに「抽象的な性質の濃い絵」に、「大きさ」という感覚が必要だとは思えないんですね。
これは、実際の画面の大きさについても言えることですし、また、絵の中の世界感についても、概ね同じことが言えると思います。


例えば、「大きい絵」と「小さい絵」を並べて見たときに、明らかに「小さい絵」が見劣りするようでは
『これは、いかん!』と思うわけです。

また、『まぁ、大きい分だけインパクトがあるかな?』っていうのなんかも、『ダメでしょ?』と思ってしまうわけですね。


やっぱり、「小さい絵」でも「大きい絵」に負けないような「画面の圧力」が欲しいと思いますし、「大きい絵」でも「大きさ」に頼らないような「強さ」、つまり、その絵を「小さくしたとしても変わらない力強さ」が欲しいと思ってしまうわけですね。


もちろん、壁画や大きな画面をいくつも並べた絵のように極端に大きなものは、長辺が2~3メートルくらいまでのサイズの絵とは、ややコンセプトが違うものだと思いますから、ここでの話は、一般的に言うところの「タブロー」ということですけどね。

 ※絵肌の表情が判別できる距離から見たときに(絵の性質にもよるでしょうが、
  3~5メートル以内というところでしょうね)、一つの視点で全体が見通せない
  サイズの絵は「タブロー」とは言えないような気がします。
      
  「タブロー」という言葉は、「独立した一枚の絵」ということだと思いますが、一
  つの視点で全体が見通せないということは「独立した一枚の絵とは言えない」
  というのに近いような気がするわけですね。

いずれにしろ、「絵の価値」と「絵の大きさ」が関係ないんだとすると、何で「大きさ」を決めるのか?ということに成るわけですが、私は、「抽象画」の場合、『絵の性質やテーマによって大きさを決める必要はほとんどない』と思っていますので、「最も見やすい大きさ」で決めていると思います。


それから、私の場合「額」を作ることを前提としていて(まだ、できてませんけど)、その「額」の長辺が、「絵」の長辺の2~2.5倍ほどに成る予定なので、それを考えると、あまり「絵」を大きくできないんですね。


「大きさ」にこだわらないのに、なんで木枠を自作するのか?と言えば、「縦・横の比率」です。

私の場合は、今のところ、「縦・横比」が「16:17」と「7:11」と言う二種類にしています。
既成の木枠は「大きさ」によって「縦・横比」が限定されてしまうので、自作しているわけですね。



まぁ、ひとのことはわかりませんから、他の人がどんなふうにして「絵の大きさ」を決めているのかは、知る由も有りませんけど、少なくとも、現在の『小さいよりは大きい方がエライ!』みたいな考え方にはかなり抵抗がありますね。


『大きい絵を、絵として見せられる人が力量があるんだ』と言うのも、チガウと思いますね。
少なくとも、「いい絵」=「大きい絵」ではないことは誰でもわかっているはずですし、同じ作家の絵の中で「最大の絵が一番優れた絵である」と思っている人なんていないはずなのに、なぜか、こういう考え方がまかり通っているというのは不自然としか言いようがないですね。


実際は、「力量の差」と言うよりは、ただ単に、描きなれた大きさが描き易く感じるという程度のことだと思いますね。

初心者は、「小さい絵」から始めますから、どうしても、いきなり大きい画面を与えられると戸惑ってしまうだけだと思います。
慣れてしまえば、「大きさ」はあまり関係ないと思いますね。

 ※実際に「絵の大きさ」にハッキリした影響があるのは、絵肌の「テクスチャー」など
  「画面が持っている物質的な性質」の部分だと思います。
  そういうモノを総称して「マチエール」と言っているんだと思います。
  「大きい画面」と「小さい画面」で、「まったく同じマチエールの画面」を作った場合、
  明らかに「小さい画面」で「マチエール」の影響が強く出るでしょうし、「大きい画面」
  では、影響が小さくなるでしょう。
  また、画面の大きさによって、「同じテクスチャー」の持つ「画面の中での意味」が
  違ってくるということも出て来ると思います。

  もちろん、そうした「マチエール作り」も、「絵画技法」の一つであるとは思います。
  しかし、一般的に言われるところの「大きい絵を描くための力量」と言うのは、そうい
  うことを考えて言われていることだとは思えません。
  ほとんどの場合、「画面の構成力」のことを言っているんだと思いますが、「構成」に
  関しては、「大きさ」とは無関係だし、また、そうあるべきだと思います。
  それは、ただ単に、細かい構図で描くのには、小さい画面だと描きにくいという程度
  のことだと思います。


要するに「小さい絵」だと『このぐらい描けていればいいんじゃないか?』もう少し意地悪に言えば、『このぐらい描けていれば、他人から褒められるんじゃないか?』と自分が思いやすいというだけのことじゃないでしょうか?


「大きい絵」としては、「それなりに迫力がある絵」でも、縮小したら、急に弱々しく成ってしまうようならば、『ダメでしょ!』と思いますし、「小さい絵」で、「それなりにまとまっている絵」でも、拡大したら、薄まってしまうようならば、『やっぱり、ダメでしょ!』と思います。


まぁ、いずれにしても、「絵の大きさ」については、もう少し、真剣に(というか真面目にと言うべきでしょうね!)、考えられるようになっていった方がいいんじゃないかなと言う気がします。

これは「縦・横比」についても同じですね。


「自分のサイズ」や「自分の縦・横比」というのを持っていることは、むしろ普通のことなんじゃないでしょうか?


「絵の中での大きさ」と「物質的な大きさ」は違うモノだと思いますが、だからこそ、「大きいこと」にも「小さいこと」にも「根拠」が必要に成るような気がします。


「作者の中の根拠」がなく、その場の都合だけで、「無理に大きくされたり小さくされたりした大きさの絵」というのは、どこか「漠然とした作品」になってしまうような気がします。


『そういうのって、けっこう大事なことなんじゃないの?』

そんな風に思いますね。





「スピリチュアル」が「一人カルト宗教」に成ってしまうという危険性



この10年~20年ほどの間に、「スピリチュアル」とか「スピリチュアリズム」という言葉を耳にする機会が、ずいぶん増えたように思うわけですが、まぁ、「ブーム」っていうことなんでしょうね。たぶん。


「ブーム」なんて言うと、怒る方も居らっしゃるでしょうが、「スピリチュアル」をやっている人が、みんな「極める」っていうような方向でやってるわけでもないんでしょうから、現在の、「スピリチュアル信者急増」は、やっぱり、一つの「流行現象」という面もあるんだと思うわけです。
 (それが、悪いことだとは思いませんけどね)

 ※これは、私の勝手な考えですから、『イヤだな!』っていう風に思う方が
  いらっしゃれば、先に謝っておきます。『ごめんなさい!』
  それから、「宗教」や「スピリチュアル」に対して、やや否定的な意見には
  なると思いますが、それらを否定しようと言う意図で書いているわけでは
  ありませんので、アシカラズ。

まず、この「スピリチュアル・ブーム」はどこから来たのか?ということなんですけど、私の勝手な考えでは、これは、日本が「カルト宗教天国」のようになっていた時期があったことに端を発しているように思えるんですねぇ。


大学などには必ず「宗教系のサークル」がたくさんあったり、駅前の広場では、ちょっと怪しげな「勧誘活動」をしている人たちが居たりということが、ごく普通のことだったころのことですね。


あの人たちって、どこ行っちゃったんですか?っていうことですよね。


私は、その人たち自身や、そういう人に成るはずだった今の世代の人たちが、いま、「スピリチュアル信者」に成ってるんじゃないかと思うわけなのです。

必ずしも、「カルト信者」=「スピリチュアル信者」ということではなくて、「カルト天国」の時期には、「やめとこう」と思って手を出さなかった人まで含めて、「スピリチュアル」なら「安心だからやってみよう」に成っているんだと思うんですね。

そういう「安全な感じ」があったから、「ブーム」に成ったんでしょうね。
しかも、それがけっこう長く続いているということなんでしょう。


そして、その「カルト天国時代」を、さらにさかのぼって考えていくと、どうやら、「超能力ブーム」と言うものに突き当たるんじゃないかと思うわけです。

私自身も子供の頃、あの「ユリ・ゲラー・ブーム」をリアル・タイムで体験していますし、実際、興味津々で見ていたクチなんだと思います。


日本中で、『うちの子がスプーンを曲げたんだ!』とか、『壊れていた時計が突然動き出したんだよ!!』と言うことが起きていたわけですけど、その人たちは、どこへ行っちゃったんでしょうね?


つまり、そういう人たちこそが、「スピリチュアル・ブーム」の素に成っているんだと思うわけです。


私のように、
『なんだ、ゼンゼン曲がんないじゃん!』
『いや、待てよ!すごーぐチョットだけど曲がってるんじゃないか!?』
と思ってた人も含めて、あの時代以降の世代の人というのは、完全に「不思議のトリコ」になってしまったんだと思うんですね。


ちょうど、「科学万能の時代」にあって、「科学」とは対極にある「不思議なモノ」が子供たちに限らず、「興味」の対象に成ったのは当然の成り行きだったような気もします。


その後、「科学万能の時代」にも、「高度経済成長」にも、やや陰りが出てきて、その最終局面を意味する「バブル」の時期に至って現れてきたのが、「カルト宗教の乱立」という現象だったように思いますね。


つまり、「超能力ブーム」によって「不思議のタネ」を巻かれていた人たちの中で、「バブル」と言う「コヤシ」を与えられて、そのタネが「カルト」という形で芽を出したわけですね。


そして、その後、その「カルトに懲りた人たち」や、「カルトを遠巻きにしていた人たち」が、安全な「スピリチュアル」にイッキに流れ込んでいったんだと思います。


私自身は、いつも「スプーンが曲がらなかった人」だったので、そちらに接近したことは無かったんですけど、それですら、「不思議の魅力」にはそれなりに興味を持っていたと思いますし、何かしらの影響は受けていたと思いますね。


私の場合は、いつしか、「神」とは、一人一人の人が「自分の中に創り出すもの」だと思うように成ったので、
 
 ※もう少し言い足すなら、『「神」とは「自分の中に創り出すもの」であり、それが不可
  能であることがわかった後も追い続けるという行為の中にある「人間が本質的に持
  っている純粋性」に対して、人間が「名前」をつけて「姿」を与えたものである』という
  ことに成ります。
  それが人間にとっての最大限度の「神性」なんだと思いますね。

「与えられた神性」や「そこに在る神性」を信仰するということはありませんでしたけど、まぁ、「スピリチュアル」は「カルト宗教」なんかとは違って「安全」なんだし、どちらかと言えば『そういう考え方って、いいんじゃない?』とも思ってました。

でも、ここにきて、『待てよ、本当に安全なのか!?』と思うようになってきたんですねぇ。


一言でいうと、『「スピリチュアル」って、実は「一人カルト宗教」なんじゃないのか?』っていうことなんですねぇ。


「スピリチュアル」はハッキリした教義や経典を持たないことが多いようですし、考え方自体が過激とは言えないですし、具体的な「洗脳」もないわけですから、「カルト化しそうな要素」がほとんどないように見えるんですけど、それなのに、このところ、急激に「スピリチュアル」の人たちが言う言葉のハシハシに「カルトの片鱗」があるように感じることが増えてきたんですねぇ。


まず、「覚醒」と言う言葉です。
これをよく耳にするんですね。

私は、「人間」が、『人間にすら届いていない』と思ってますから、この「覚醒」という言葉を聞くと、『それは、とうてい人間の範囲外でしょ!』と思ってしまうわけです。

だから、『ある時、突然、覚醒しました!』みたいなことを耳にすると、どうしても、「カルト的な無理」を感じてしまうわけなのです。


それから、「瞑想」や「浄化」という言葉も、どうしても「カルト」とイメージがダブってしまいますね。

最近になって、とくに思うようになったんですが、「瞑想法」や「自己浄化法」のような、ある種のトレーニングには、脳内に「特定の物質や状態」を発生させる効果があるんだと思うんですけど、それが、「自己洗脳」的な状態を創り出してしまうんじゃないかと思えるんですね。

そして、この「自己洗脳」が非常に危険なんじゃないかとも思っているわけです。


あとは、「不食」という言葉ですね。
これが「スピリチュアル」と結び付けられているというようなことを聞いたときに、『「スピリチュアル」はカルト化してるんじゃないか?』という「疑い」が、私の中で決定的になったような気がします。

と言っても、『食べなくたって生きていけるんですよ!』っていう話について、『そんなの、どうせウソだろ!?』と言うことではないんです。


むしろ、単純に言って『食べたほうがいいんじゃないですか?』っていうことなんですよね。


たとえば、「オウム真理教の教祖」が「空中を浮遊すること」が、、『本当にデキルのか?』っていうことじゃなくて、『そんなこと、べつに出来なくていいでしょ?』ってことですよね。

そういうことが出来るといわれても、『飛行機が墜落する瞬間にジャンプすれば助かるんだぜ!』と言われたのと、ほとんど変わりがないようにしか、私には思えないんですね。


それと同じように、『食べなくても生きていけるんだ!』と言われても、私は、「食べること」を、人間が生きている中で「最もスバラシイこと」の一つだと思っているので、「そのスバラシイこと」をしないことの方を、「スバラシイこと」のように言われると、どうしても「カルト化」を感じてしまうわけなのです。


いずれにしても、「スピリチュアル」において、このような形で「自己洗脳」状態が創り出されてしまう危険性は間違いなくあると思います。
しかも、けっこう高い確率かも知れません。

意外なんですけどね。

「完全に安全」だと思っていますから、みんな「完全に油断」してるんですね。
それで、人によっては、スッポリとはまり込んでしまうんじゃないかと思います。

それに、「人からの洗脳」ではなく「自分による洗脳」ですから、非常にハマリやすいと思いますし,非常にヌケにくいような気がします。


もちろん、「教祖さま」はいらっしゃいませんから、そちらに貢がされるという「経済的なダメージ」だけは避けることが出来ますけど、「精神的なダメージ」はほとんど同じなんじゃないかと思います。

いま、「スピリチュアル」を信じている方や、そちらに少なからず傾倒している方は、つねに、「反対側の視点」を持っていたほうがいいような気がしますね。


そういう「反対側の視点」が「悪魔のささやき」のように感じたら、「やや危険」かなと。

失礼ながら、そんな風に思ってしまうわけなのです。


最後にもう一度、念のため、『ご気分を害された方が居らっしゃいましたら、ごめんなさい!』







「心の省資源化」:「精神的エコロジー」こそ大事なのでは?



「省資源化」とか「エコロジー」と言うと、「物質的な資源」の「無駄」を減らそうということだと思うんですけど、実際に、今一番「無駄」にされているのは「人間の精神」ではないかと思うわけです。


そして、「精神」こそ、最も「無駄にしてはいけないモノ」なんじゃないかと思いますし、「精神を無駄遣いすること」は「物質的な資源」を「無駄にすること」以上に、人間にとってもマイナスなんじゃないかなとも思うわけなのです。


「地球上の資源」が限られていることは確かなことですし、それが現在のペースでいけば、近い将来尽きてしまうこともはっきりしているわけですから、それを『大切にしましょう!』ということに問題はないんでしょうが、「心の省資源化」は、それを遥かにしのぐほど大事なんじゃないかと思いますね。

それに、「人間の心」が無駄遣いさていると、結果的には「その人間」が必ず「資源の無駄遣い」をするようになるという気もします。

そして、「人間の精神」も、やっぱり、あんまり「無駄」にしていると尽きてしまうんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。


なんとなく、今の風潮として「物質優先」と言うか、もっと端的に言ってしまえば、「おカネ優先」という空気があることは間違いないことだと思います。


たとえば、『「仕事」とは「おカネ」のために「イヤなこと」をすることだ』と思っている人と、『「仕事」とは「ヤリタイこと」をして「おカネ」を貰える場合もある、そういうものだ』と思っている人、どっちが主流か?と言えば、まぁ、間違いなく前者なんでしょう。

つまり、それだけ「おカネ」が優先されているということでしょうし、「おカネ」のために「心」を犠牲にすることは当然のことだと思われているということでしょう。


これは、実際には「仕事が好きな人」でも、ほぼ同じことが言えていて、いくら「仕事が好きな人」でも「おカネ」を貰わなくても「その仕事」を『もちろん、やりますよ!』という人はかなり少ないでしょうから、やっぱり、「おカネ、込み」での「好き」なんでしょうね。


さらに言えば、こういうことには十分気が付いていて、尚且つ、そういう状態は良くないと思っている人でも、必ずしも、そういう人が「心の省資源化」を目指しているとは言えないような気がします。

要するに、「心」は「モノ」ではないので、『如何に無駄にされているか?』や『如何にすれば無駄をなくせるのか?』ということが、見えにくいということなんだと思います。

でも、そう考えれば「人間の心」が、かなり無駄にされてしまっているのも当然ですね。
まぁ、目に見える形がありませんから、見過ごされていることが多いように思います。


また、「人間の道徳感」の中に、そういう「心の無駄遣い」を「忍耐」とか「辛抱」などとダブらせてしまう性質があるために、「心を有効に活用しているケース」と「単なる心の無駄遣い」の違いが、一層見えにくくなっているということもあると思いますね。


現代社会で、最も「心の無駄遣い」の原因になっているのは「競争社会」でしょうね。


「競争心」はもともとそんなに悪いモノでもなかったんでしょうし、むしろ、「人間の本質」に近いものだと思いますけど、現在の「競争社会」においては、子供のころから「教育」やマスコミの「情報」を通じて、「競争」と言う「キーワード」が徹底的に刷り込まれてしまいますから、それはもう「催眠術」のようなもので、その「キーワード」が提示されると「パブロフの犬」のように、「条件反射的」に「意味のない競争」へ向かわされてしまうようになっているわけです。

「意味のある競争」は「人間の本質」に近いものなんでしょうが、「意味のない競争」は「心の無駄遣い」にしかなりません。

そして、現代社会は、この「意味のない競争」であふれています。


なぜなら、「意味のない競争」は誰でも簡単にできますが、「意味のある競争」は「労力」を必要としますから、努力しなければならないわけです。
だから、より安易な「意味のない競争」であふれかえっているんだと思います。


今の時代においては、「意味のある競争」ですら、「絶対に必要なモノ」ということでもなくなってきているような気がしますが、まして、「意味のない競争」なんて、無い方がイイに決まています。

しかも、「意味のない競争」だとわかっていても、あまりに「意味のない競争」が多く、主流を占めてしまっているために、「その競争」から離れることは、「ドロップアウト」することを意味するようになっているわけで、それで、なかなか離れられないような構造になっているわけです。


だから、ドンドン「人間の精神」が「無駄遣い」されてしまうわけです。


また、これも「競争社会」と似たようなものですが、「効率主義」も「人間の精神」を「無駄遣い」する原因になっていると思いますね。


現代社会においては、常に「効率を上げること」が目標とされていますから、その為に「人間の精神」が「無駄遣い」されることになってしまいます。

これも「効率化」が悪いわけではなく、現代社会においては「効率化」は、機械や社会機構などの「システム」によって、行われるものに成っていて、それは「個々の人間」の役目ではなくなっているわけです。

それなのに、社会が「人間」にも「効率化」を求めるような仕組みになってしまっているために、そこでも「人間の精神」が「無駄遣い」されてしまうわけです。


たとえば、昔なら、人が手で作っていたものを、今は機械で作っていますから、誰が作っても、手作業の数十倍~数百倍の効率で作ったり出来てしまうわけです。

そこでの「人間の効率化」なんて「鼻くそ」みたいなもんです。
それなのに、その「鼻くそ」のために「人間の精神」が「無駄遣い」されています。


本来ならば、「今、人間がやること」は、「効率」とは正反対のことなんじゃないかと思うわけです。


「人間」は、やりたいことを好き勝手にやらせると、かなりのことをやったりするもんだと思うわけですね。
そこで、「効率」が悪くなるなんてことは気にしなくていいような気がします。
もともと、「人間」っていうのはそうやって発展してきた生き物なんだと思うわけです。

それなのに、自分たちが作り出した、「機械」や「社会」に支配されて、一番肝心な「人間の心」を「無駄遣い」しているなんて、どう考えても納得いかないですねぇ。


こんなペースで「心の無駄遣い」をしていたら、「地球資源」よりも先に「人間の精神的資源」の方がスッカラカンに成っちゃうかもよ!

『いや?なんか、もう、そう成って来てるような気もする』

と、言う風に思います。



美術館はもっと「簡素な空間」でいいんじゃないだろうか?



美術館と言うと、かなり大きな施設であることも多いですし、それなりに、ゴージャスな造りになっている場合も多いと思うわけですが、このところ『美術館って、もっと「簡素な空間」でいいんじゃないか?』と思うことがあるわけです。

つまり、美術館と言うのは、「単なる箱」でいいんじゃないかと思うわけですね。

高額の「美術品」を扱うことがあるので、セキュリティーの問題はあるんでしょうが、その点は置いといてと言う話であれば、もっと、「スカスカな空間」でいいような気がします。

「美術展」は「展示品」=「中身」が大事なわけで、本来は「美術館」=「箱」なんてどうでもいいハズなわけですから、要するに、そこに、やや「おカネ」をかけすぎているような気もするわけですね。


それに、はっきりしたコンセプトを持った小規模な美術館が、もう少しあってもいいんじゃないかと思うんですよね。


観光地なんかに行くと、よく小さな美術館がありますけど、そういう所で、しっかりした「主張」を感じられるところは少ないような気がします。

そういう美術館に出会ったときは、けっこう嬉しく思ったりもしますし、『こういうのでいいんじゃないのか?』と思ったりもします。


有名な作品がたくさん展示されているということよりも、「そこでしか見られないモノ」が「そこに在ること」の方に価値があるような気もするんですよね。


そういう「独自路線の美術館」と言う方向も「アリ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思いますし、規模の大きな美術館に関しても、「箱」が立派過ぎると、企画展などの方向性が見えにくくなったりもするんじゃないのかなと。

そんな風にも思うわけです。


いずれにしても、もともと王侯貴族の宮殿と言うところから、今の美術館のイメージができてきているような気もしますので、もう、そんな時代でもないんじゃないのかなと。


それに、肝心な「芸術の方向性」がだいぶ変わってきているわけですから、今さら「宮殿」と言うのも、ややズレて来ているようにも思います。

「作品」自体や「企画のコンセプト」を”スパッ”っと見せるためには、むしろ、「簡素な空間」の方が効果的なんじゃないかなと。


それに、「日本」には「日本にしかない美術館」なんて言うのがあってもいいような気がしますね。

なんでもアメリカやヨーロッパのスタイルを踏襲するんじゃなくて、「日本的な美術館」なんて言うのもあってもいいんじゃないのかなと。
(展示品が「和もの」と言うことじゃなくてね)

そういうのだったら、少しくらい「おカネ」がかかってもいいんじゃないの?

と、そんな風にも思っているわけです。



「脳内仕分け」



ちょっと前に、政治の世界で「事業仕分け」と言うのがありましたけど、「創作」について考えるときに、頭の中を、「創作に関係すること」と「創作に関係ないこと」に、「仕分ける」ということがあっていいように思うわけです。


これは「創作」以外のいろいろなことにも当てはまるんじゃないかと思いますけど、こういう「脳内仕分け」的な作業をやることで、頭の中の「漠然とした部分」がある程度クリアーに成るということはあると思います。


人間の脳と言うのは、かなり「曖昧領域」が広くできていて、そのことによって、複雑な思考ができる仕組みになっているんだと思います。

その反面、そういう「曖昧な情報」が漠然としたままだと、使われずに終わってしまうということも多いんじゃないかとも思いますので、そういう「曖昧領域」にある情報を「仕分ける」ことで、「曖昧さ」の「イイ部分」はそのまま残して、情報が整理されれば、少しいいんじゃないかと思うわけですね。


こういうことを、意識しないでできる人も居らっしゃるのかも知れませんが、自分のことで言えば、意識的に「仕分け」た方がいいような気がします。


これは、実はこのブログを書くように成って気が付いたことで、私の場合、「芸術関連の記事」と「そのほかの記事」がだいたい半々なので、何について書こうかと考えている時などに、自然と「創作関連のこと」と、「それ以外のこと」が、頭の中で分かれれていることに気が付いたわけです。


そして、そのことから、普段「創作とは無関係のこと」を「創作の場」に持ち込んでしまっていることに気が付いたというわけです。


まぁ、単純に言って、不要なモノを持ち込まない方が「集中」しやすくなると思うんですね。


『これは不要だな』と思うものをなるべく持ち込まないようにすることで、「スイッチ」を切り替えやすくするということですね。


それでも、迷うこととか、わからないことなんて山ほどありますから、せめて少し整理されたらチョットはいいんじゃないかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけですネ。





「絵を並べて見比べる」というやり方



製作中の「絵」を何枚か並べてみるというやり方についてです。


自分が描いている絵というのは、どうしても客観的に見られなくなってくるものだと思うんですが、たとえ、全部自分の絵だったとしても、何枚かの絵を並べて見比べると、なぜか、それらの絵が、客観的に見えて来るということがあるわけです。


もちろん、人の絵と見比べれば、より客観的に見られるハズなんですが、それをやってしまうと、他人との比較にとらわれて、結果的に「自分の絵」が見失ってしまうということがあるので、それはなるべくやらないようにしています。

それで、結果的に自分の絵を並べてみて、ナントナク「客観的」に成ったような気分に成っているというわけです。


少なくとも、その時点で自分が気に入っている絵と並べてみて、明らかに「画面から来る圧力」が無いなと思ったら、「その絵」は、そのまま描いていても『ラチが明かない』ということなんだと思います。


そんな風にしていくことで、その時点での「自己ベスト」を目標にすることが出来るということですね。
そして、それを足掛かりにして、少しづつ「自己ベスト」を更新していこうということです。


一枚の絵を描いている時には、「その絵」の中にはまり込んでいるので、「客観的」であることは、なかなか難しいと思いますが、数枚の絵を並べて見比べると、意外なほど「客観的」に見ることが出来ます。
(二枚だと難しいような気がします)

たぶん、一枚一枚の絵としてではなく、数枚の絵を同時に視界に入れると、「数枚の絵全体」を「一つのモノ」として見るので、その中のどこが弱いかがすぐにわかるんじゃないかと思います。


逆に、気に入らなかった絵の「イイ部分」が見えてくるということもあるようです。

『どうもアカンな!』と思っていた絵をほかの絵と並べてみることで、『こういう方向にもっていったらいいんじゃないか?』というようなことが見えてくることがあります。

単独で見ていたら、とうてい見えてこなかっただろうなと思うようなこともあったりしますね。


そういうわけで、私の場合、イーゼルに後付けの部材を取り付けて、上下二段に数枚の絵を並べて見られるようにしています。
(私の場合、20号くらいまでのサイズで描いていますので)


大きい絵の場合は、なかなか難しいでしょうが、このやり方は、けっこう有効だと思っています。


製作中の絵を、並べて見るっていうところがポイントですね。

描きあがった絵だけではなくて、描きかけの時点で比べると、よく見える部分があると思います。
また、その中に、描き上がっている絵を混ぜるのも有効だと思います。


それから、同時に視界に入るようにするというのも大事なんじゃないかと思います。

なんとなく、立て続けに見れば同時に見るのと変わらないんじゃないかと思ってしまうんですが、同時に見ないと「全体」が「一つのモノ」に見えてこないので、効果が薄いと思いますね。


まっ、そんな感じで、取り敢えずおススメです。



「額の意味」



絵を額装しないことは、もはや”当たり前”と言っても過言ではなくなってきているわけですが、私は、やっぱり「絵」にとって「額」は必要なモノなんじゃないかと思っているわけです。


現在の傾向として、「現代アート」であればあるほど「額装しない」と言う感じもあると思うんですけど、私は、むしろ、それとは逆に「絵」を「芸術」として独立した状態に保つためにこそ、「額」は必要だと思うわけなのです。

つまり、「額」という境界線の内側は「芸術の世界ですよ」という「コトワリ」として「額」があったほうがいいんじゃないかと思っているわけですね。


そして、そこからさらに発展させていって、「額」に「他の意味」を付け加えられたら、もう少しいいんじゃないかなとも思っているわけなのです。


もともと、「額」には「絵」を装飾的に飾ることや、「絵」をインテリアとして他の調度品と馴染ませることなどの「意味」があったんだと思いますが、それらは、どちらかと言うと「絵」を「装飾品」として考えていたことから発生していた「意味」であったように思うわけです。

しかし、現在「絵」は、昔よりも「芸術」としての性質が一層強くなっているわけですから、それに合わせて「額の意味」も変わっていって当然だったのだと思います。

そこで、「装飾品であること」を離れて「芸術」であることを強く表すために、「額装を嫌う傾向」が出てきたのだと思うわけです。

しかし、本来は「額」をやめてしまうのではなく、変わってきた「額の意味」に合わせた、新たな「意味づけ」をする必要があったように思うのです。

先に述べた「芸術世界」の境界線と言うのも一つの「額の意味」だと思いますが、それは、かなり昔から存在していた「額の意味」で、「装飾としての意味」と同時進行で、「額の意味」を形成してきたものだと思います。

それだけでも、「額の意味」として十分に成り立っているとは思いますが、やはり、時代の変化に伴って「芸術の意味」が変化していくのと同じように「額の意味」も変化することを要求されているように思いますので、

ここは、やはり「新たな額の意味」を作り出す必要性があるんじゃないかと思っているわけです。


私が考えるところの「新たな額の意味」とは、先に述べた「外の世界との境界であること」と同時に「外の世界とのツナギであること」です。
つまり、「絵の世界」と「外の世界」を区切る結界であると同時に、「外の世界」と「絵の中の世界」をつなぐ役割を「額」に担わせようということですね。


これは、位置取りとしては、「装飾としての意味」と、ほぼ同じ位置取りに成るわけですが、違うのは、「額」を含めた「絵」を「装飾品」として捉えて、周りの調度に合わせるのではなく、「絵」と「額」が一体となった「芸術」として、周囲の「装飾品」とは無関係に、独立した芸術作品として、より一層「自立した存在感」を創り出そうとするところです。


「アート」であることを強調しようとしたはずの「無額」が、むしろ、オシャレなインテリアになってしまっていることは、ほぼ間違いのないことだと思います。


もちろん「装飾性」を追究した「アート」があってもワルイとは思いませんが、本来、「自己表現としての芸術性」を追究していたはずなのに、いつの間にか「インテリア化」してしまっているような場合は、軌道修正する必要があるのだと思いますね。

そういう意味でも、「額」に「新たな意味」を作り出すことが必要なんじゃないかと思っているわけなんですね。


そこで、私が考えているところの「外の世界」と「絵の中の世界」を「ツナグ」と言うのはどういうことかということを次の記事に書きます。




「絵の中の枠」と「絵の外の枠」



さて、前の記事の続きに成ります。


「額」には「新たな額の意味」が与えられる必要が出てきているんじゃないかと言うことです。


そのためには、「絵の中の枠」と「絵の外の枠」という考えが有効だと思っています。


つまり、「絵の中の世界」と「絵の外の世界」それぞれに「枠」を設定して、その二つを絡ませることで、「外の世界」と「中の世界」をつなぎ合わせようというわけです。


なんでそんなことをするのかと言えば、「多重化」することが必要だと思っているからです。


「芸術」に限らずどんな分野でも言えることだと思いますけど、一つの「切り口」だけで表現しようとすると、ある程度のところで限界が来てしまうと思います。

そこで、「新たな切り口」を模索することに成るわけですが、現在の「芸術」においては、その「新たな切り口」が、「芸術」という領域から外れてきているという傾向があると思うわけです。

つまり、もはや「芸術」を逸脱したものの中にしか「新しい切り口」が見つけ出せなくなってきているということだと思うのです。


そこで、「芸術」と「芸術じゃないモノ」を「ツナグ」と言う作業が必要なんじゃないのかなと。
そして、そういう作業をこれまで、ナントナク手つかずにしてきたんじゃないのかなと思うわけです。


でも、手つかずにした結果「芸術」から逸脱してきているということならば、逸脱して「そっち側」に行ってしまうよりは、その前に「そっち側のモノ」を取り込んで、「こっち側」に引き込んでしまえばいいんじゃないかと思うわけです。


こういうことは「芸術」以外の分野では、割と普通に行われていることのような気もするんですが、「芸術」においてだけは手つかずのままに成っていたように思います。

おそらく、そういう「ツナグ作業」が行われる前に、「逸脱」へ向かってしまって、その方向付けがずっと変えられなくなってしまったということじゃないでしょうか?
(そういう「逸脱」が許された唯一の分野が「芸術」だったということでしょう)


その手つかずにされてきた「ツナグ作業」に当たるのが「多重化」することだと思うわけです。


つまり、「芸術じゃないモノ」の方に「新しい切り口」を見つけ出して、そちらにジャンプしてしまうのではなくて、あくまで、「芸術の中」で「多重化」するということですね。

「芸術」の側に「芸術じゃないモノ」の方を引き入れるわけです。


その為に「ツナグ」と言う作業が必要に成ると思っているわけです。
その作業を「額」でやろうということですね。


現在、私が考えている「多重化」は、「絵の中の枠」と「絵の外の枠」という「二重の枠」が基本に成っています。


「絵の中の枠」と言うのは、「絵の中」に「枠」の性質を持った部分を描き込むということです。

過去においても、いろいろな画家がいろいろな形で、「絵の中」に「枠」の性質を持った部分を構成した例がありますが、私の知る限りでは、「多重化」と言えるような例はないように思います。

 ※完全に写実的に「額」を描き込むという、いわゆる「トロンプルイユ(だまし絵)」
  の手法では「レンブラント」の「額の中の少女」という絵は完成度が高いと思いま
  すが、これは、「外の世界」を取り込んだとは言えないような気がしています。
  その絵で、取り込まれたのは「額」までですね。

  他では、「クリムト」による「装飾的な部分」などがありますが、「多重化」とは、少
  し方向性が違うような気がします。
  「クリムト」の装飾的な部分は、完成度は高いと思いますが、境界線が曖昧なた
  めに「枠」と言うよりも「背景」に近いと思います。

  あとは、「芸術の20世紀」において、「アンフォルメル」の画家たちの中で、「枠」
  に近い感覚を使っているものがあると思いますが、これも「多重化」という意味で
  は完成形に達していないように思います。
       

自分でやってみてよくわかりましたが、大変です。
まぁ、労力や時間の問題おあるんですが、それ以上に、問題なのは、かなりの割合で、「絵」が犠牲に成ることです。

つまり、「絵」と「枠」を相互に作用させ合うということは、「枠」によって、ある程度「絵」が喰われてしまうことに成るわけです。
だから、かなり「強い絵」を描く必要があるということに成ります。
(それでも、喰われますけどね)


この「絵を喰ってしまう」というところで、過去の画家たちは「絵」を切り捨てられなかったんだと思います。
私の場合、『これしかない!』と思って、断腸の思いで「ある程度、絵を切り捨てる」と言う作業をやっているつもりです。

あとは、今の時代に成って、初めて「枠」という発想が使えるようになってきたということもあると思います。
つまり、いろいろな「芸術に関する固定観念」が破壊された現在であるからこそ出来るようになったことが、いろいろあると思うわけですが、これも、その中の一つだと思うわけですね。


さて、ちょっと話が逸れてしまいましたが、「絵の中の枠」と言うのは「絵の中に構成された縁取り効果」と言うことに成ります。


私の場合は、現時点で、以下のことを意識して考えています。

1.はっきりとした境界線であることを示す。
2.「枠」にも「絵」としての性質を与える。
3.「絵」と「枠」が相互に関連し合っていることを表現する。
4.四辺のうち二辺を閉鎖し、二辺を解放する。
  (二辺だけで「枠」であることを表現する)
5.「絵の中の枠」は、出来るだけ明快な形と色で描く。


次は、「絵の外の枠」の方です。

これが、いわゆる「額」に成ります。

チョット、長く成ったので、次の記事に続けます。



「絵の中の枠」と「絵の外の枠」(続き)



前の記事の続きです。


次は、「絵の外の枠」の方です。
これが、いわゆる「額」に成ります。


ただ、今までにあるような「額」とは少し概念が違ってきます。

今までの「額」は、あくまで「絵」をショーアップするためのモノ、つまり「絵を見やすくするためのモノ」でしたが、この「絵の外の枠」では、「絵」との相互作用が「多重化の条件」に成ってきますので、結果として、「絵」を見せるためと言うよりも、「絵」に対して働きかけるという性質が強くなります。

従って、前の記事に書いたように「絵を喰ってしまう」と言うことも出てくるわけです。
また、このことは「絵の中の枠」以上に「絵の外の枠」との関係で強く表れて来ますから、結果的に、「絵を見やすくする額」ではなく、「絵を見にくくしてしまう額」と言う性質が避けられないことになります。


『絵が見にくくなったんじゃ本末転倒だろ!』と言われるんでしょうが、それがどうしても必要だと思った時は、「ナニカ」を切り捨てることが必要に成って来るということもあるんだと思っています。

『絵が見にくくなること』=『絵がダメになること』ではないと思いますし、『絵が見やすいこと』=『絵がよく成ること』でもないと思います。


「絵の見やすさ」を少し犠牲にしてでも、その絵における「意味」を創り出したいわけです。


「現在の芸術」が進んでいる方向に従って、「芸術の領域」を「芸術の外側」に広げていってしまえば、「芸術の持つ意味」は失われていくでしょうし、また、漫然と現状に留まって居ても、そこに「意味」が生まれることは無いでしょう。

そうなると、どうも「芸術の領域」の中で「多重化」することくらいしか思いつかないので、これをやっていこうと思っているわけです。


そこで「絵の中に侵入する額」という発想で、「絵の外の枠」について考えているわけです。


さらには、額によって「外の世界とのつながり」も現せたら、一層いいと思っています。
こちらは、「絵から発散する額」という発想です。


ただ、まだ、実物ができていないので、その辺のところはまだよくわかりません。


取り敢えず、現在は「内額」と「外額」」の「二重額」という構想で考えています。
つまり「絵の中の枠」と合わせると「三重枠」と言うことに成ります。


これを簡略化して説明すると、「絵」~「絵の中の枠」~「内額」~「外額」となります。


「内額」~「外額」の部分が「絵の外の枠」に当たります。


これらの間で、それぞれ境界線を越境して相互に「侵入」しあう形です。

越境していながら「結界」としての性質を失わないために、「多重化」する必要があるということですね。


取り敢えず、こんな感じで「絵の中の枠」と「絵の外の枠」を考えております。


正直言って、出来上がるかどうかはわかりません。

「絵」を描くだけでもアップアップの状態です。


まして、いつできるかなんて見当もつきませんが、私にとって、「芸術」とは、そんなことをやることなんじゃないかと思っています。


『ダメでもともと』なんで。

そんな風に思っているわけです。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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