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一人でも「時代」を創り出すことは出来る・・・・のかな?



「時代」とか「世界」と言うのは、その社会の大多数の人の動向によって創られているというのが一般的な考え方なんでしょうが、それはそれとして、個人的には、「時代」や「世界」と言うのは、本当は一人の人間によって創られるモノなんじゃないか?と言う風にも思っているわけです。


たとえば「流行」についていえば、「流行」は「時代」を象徴するモノの代表だと思うわけですけど、「マイ・ブーム」と言うのもありますよね。

つまり、「自分だけの流行」もあるわけです。


それと同じように「マイ・時代」もあるし「マイ・世界」もあるんじゃないかなと思うわけですね。

じつは、一般的に「時代」とか「世界」と言っているのは、そういう「マイ・時代」や「マイ・世界」の集合と言うだけのモノで、本当に、実体としての意味を持っているのは、一人一人の人が創っている「マイ・時代」や「マイ・世界」の方で、一般的な「時代」や「世界」が持っている意味と言うのは、予想外に小さいんじゃないかな?と思ったりもするんですよね。


それから、これもまた「流行」の話になりますが、ナニカが「流行」する時と言うのは、誰か一人とか、あるいはごく少数の人が「キー・パーソン」に成って、「流行の発端」に成っているということが多いように思うのです。

一般的に「流行」する前までは単なる「マイ・ブーム」ですが、それが、たまたま一般的な「流行」へ移行すれば、「時代」に影響を与えることも出て来るわけですよね。

ところがですね、おそらく、推測するには、その「流行」の「キー・パーソン」に成った人の中では、一般的な「流行」に成ったとしても、成らなかったとしても、起きているのは同じ事なんじゃないかと思うわけです。


つまり、どっちに転んだとしても、その人の中では、それは「マイ・ブーム」であり「マイ・時代」であり「マイ・世界」であるわけで、他の人の反応によって、どんなに周りの状況が変わったとしても「その人の中の時代」は、あくまで「そのマイ・時代」であって、「その人の中の世界」は、あくまで「そのマイ・世界」なわけです。


こんな風に言うと、「流行」の「キー・パーソン」に成るような人が持っている「マイ・ブーム」と一般的な人が持っている「マイ・ブーム」は質が違うというよな方向に話が行きがちですが、実は逆で、一般的に「流行」するモノよりも「流行」しないモノの方が、より一層強固な「マイ・ブーム」であるとも言えるわけで、むしろ、一般的に「流行」するモノの方が「マイ・ブーム」の「マイ」の部分が弱いということも言えなくはないわけです。


そう考えていくと、「時代」や「世界」と言うのは社会全体の動向で創られているんだという考え方も、もちろん、否定はしませんし、それこそが「時代」であり「世界」であることに違いはないわけですが、その一方で、「時代」や「世界」と言うのは、「個人」の中にあって、一人の人間によって創られているモノなんだという考え方も十分にあっていいような気がしますし、私としては、そちらの方をより重視していきたいなと思ってしまうわけなのです。


『なんで、そっちを重視するのか?』と聞かれれば、『そっちの方が、興味が持てそうだから』と答えますね。


マスコミが、ここまで「支配的」に成る以前のことならまだしも、現在のような完全なる「マスコミ支配」の世の中で、「一般的な流行」や「一般的な時代」や「一般的な世界」には、正直言ってもうウンザリですね。

何はともあれ、「時代に逆行していないモノ」には、まったく興味が持てませんね。

 
そんなこと、そう簡単にできないのはわかってるんですけど、『みんなが一人に一つの「時代」や「世界」を持っていて、その「チガウ時代」や「チガウ世界」をお互いに認められたり、共有出来たらいいよなぁ』

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。




「精神的なエネルギー保存の法則」



物理法則に「エネルギー保存の法則」というのがありますが、じつは、物質でないモノ、つまり「精神」にも「エネルギー保存の法則」は、成り立っているんじゃないかと思うことがよくあるわけです。

 ※言うまでもないと思いますが、「物理学」のことなんてなんにも知らない人間が
  ほざいていることなので、その辺は聞き流してくださいネ。


たとえば、他人から何か「嫌なこと」を言われたのに、その場で言い返せなかったとき、ほとんどの人が、どこかで誰かに八つ当たりしたりしますよね(『えっ!?そんなことないの?』)。

そういう時は、一見すると、そこで起きたことに腹を立てているように見えても、実を言えば、他のところで「嫌なことを言われたこと」が原因に成っているわけですね。

つまり、その時、「精神的なエネルギー」が保存されていたということだと思います。

これは、なにも「嫌なこと」に限ったことではなくて、「嬉しいこと」でも同じようなことがあるわけです。


それから、たまたま、その人が八つ当たりをしなかったとしても、その「エネルギー」は「ストレス」として、その人の中に保存されるわけです。


そう考えると、「精神的なエネルギー」も「物理的なエネルギー」と同じように、消えてしまうことは無いんじゃないかなと、そんな風に思えてくるわけですねぇ。

こういう考えに基づいて言うと、「ストレス解消」などと言うのは、その「精神的なエネルギー」を変換して放出することと言うことに成るわけです。

つまり、「嫌なこと」を「楽しいこと」に変換して、相殺しているということなんでしょう。


この「精神的なエネルギー保存の法則」が成り立っているという前提で言うと(まぁ、話だけですから)、いま、自分たちに作用している「精神的エネルギー」と言うのは、宇宙で言うところの「ビック・バン」のようなものと同じように、人類創成の時点にまで遡った所で発生した「精神エネルギー」が先祖代々受け継がれてきたのかも知れ無いということですね。

そうなると、人類が、まだ半分くらいは「類人猿」だった時代に、起きたでkごとの中の「嫌なこと」があって、それに対する「嫌な感情」が何万年も保存されて受け継がれてきた結果、現在に至るわけですから、そう簡単に「ストレス解消」なんてできるわけがないですよね。

でも、こんな風に考えると、『「ストレス」って「保存されたエネルギー」なのね!』と言うことで、なんとなく、アキラメがつくような気もしれくるわけで、やや、気が楽になるような気もします。


なにせ「法則にのっとって保存されている」わけですから、それはもう、理路整然としているわけで、『もう、全然イライラなんかしない』わけですね。

というか、『法則に基づいてイライラする』わけですから、『全然イライラせずにイライラできるように成る』というわけです。


こういう「ストレス解消法」みなさんも試してみてはいかがでしょうか?

たぶん使えません。

では、また。




「サブリミナルの時代」



広告宣伝などの分野でよく使われる言葉で「サブリミナル効果」と言うのがありますが、広告宣伝に限ったことではなく、あらゆる意味で、現代は「サブリミナルの時代」なんじゃないかと思うのです。


「サブリミナル」は「潜在意識に働きかける」と言うような意味らしいですけど、要するに、人が意識していないところに情報を刷り込んでしまおうというような、そういう、やや不誠実な手法と言うことなんだと思います。


狭義の意味で言うところの「サブリミナル手法」がどれほど有効であるのかは、どうやら、いまひとつ定かではないらしいですけど、少なくとも、「マスコミ」を通じて流されている情報が、誰かの意図による場合でも、そうでない場合でも、かなりの「サブリミナル的な効果」を生み出してしまっていることは、ほぼ間違いないことだと思います。

現代社会と言うのは、「マスコミ」の影響に限らず、「教育」にしても「政治・経済」にしても、あらゆる意味で、いろいろなものが「大規模化」していて、「数の力」による「集団的な意識」が、ありとあらゆることに強く働きかけているわけです。

つまり、そういう「集団的な意識」と言うのが、非常に「潜在化」しやすいんだと思います。


例えば「テレビ・コマーシャル」で、有名なタレントがある商品を持ってニッコリ笑っているだけで、『この商品はいい商品に違いない』ということが「潜在意識」に刷り込まれてしまうわけですね。

ここで言う、「有名なタレント」の「有名な」=「みんなが知っている」の部分が、「数の力」=「集団的」と言うことなんだと思います。


ほとんどの人が、「コマーシャル」で誰が宣伝していようが、その商品の内容とは直接関係がないということはわかっていても、それは、「表面的な意識」においてであって、それが「潜在的な意識」になると、『有名な人が勧めているんだから、きっとイイに違いない』に成ってしまうわけです。
(実際には、とくに勧めてすらいないことも多いのにね)


それから、「教育」において、たとえば「国語」の授業で、「夏目漱石」が教科書に載っているのを見ていると、「夏目漱石」の書いた本が好きな人でも嫌いな人でも、それどころか一冊も読んだことがない人でも、「夏目漱石」はいい作家であるということには、ほぼ逆らえなくなってしまうというわけです。


こういったことが、「美術」の授業でも「音楽」の授業でも起きているわけですね。


これらの例は、「意識の潜在化」がまだ見えやすいですが、とくに直接的な「利益」とか「目的」と言ったものが無いようなケースだと、どこが「サブリミナル的」に働いたところで、それが、どんな「効果」を生み出したのかは、もう、ほとんど見えなくなってしまうことが多いので、より一層深く「潜在化」していくわけです。


現代は「情報の時代」ですから、こういう「集団的な情報」が非常にたくさんあるわけです。
というよりも、現在「情報」として通用しているのは、こういう「集団的な情報」だけだと言ってもいいかもしれません。

早い話が、どんなに理に適ったことでも「一人の人が言ったこと」だと、「情報」としてはほとんど意味を持たないし、それとは逆に、かなりオカシナことでも「集団的な情報」であれば、ほぼ間違いなく通用してしまいます。


『いやいや、権威のある一人の人が言ったことなら、「情報」として成り立っているだろう』ということはあるわけですが、それは「権威のある」=「みんなが認める」なわけですから、一人でもすでに「集団的な情報」に成っているわけです。


そして、その「集団的な情報」が「サブリミナル効果」を生み出してしまうわけですね。


例えば、人気のある芸能人が着ている服はたいてい流行りますし、「芸能人おススメの本」もベストセラーに成ることが多いです。
内容とは、ほとんど関係ありません。

つまり、「コマーシャル」じゃないのに「コマーシャル」に成ってしまうわけですね。
(こういうのを「一種のコマーシャル」としてやっている場合もあるんでしょうけどね)


そう考えると、現代社会自体が「巨大な広告媒体」であるとも言えるわけで、現在の社会の中で起きていることと言うのは、すべて「広告・宣伝」であるともいえるし、そういう「広告・宣伝」によって「潜在化された方向性」に従わされた結果であるとも言えるわけです。

しかも、その「方向性」は「個人の意思」ではなく、「無意識」の状態で「刷り込まれて「潜在化した意識」ですから、ほとんど「個人の意識」を反映していないわけで、「有名人がナンの気なしに言ったこと」や、「大した意味もなくテレビに流された映像」なんかが、「社会の方向」を左右していたりするということです。

ただ、それが見えにくいために、『そこまでじゃないだろう?』と思われているということでしょうね。


この「サブリミナルの時代」で何が悪いのかと言えば、このところ、明らかに「個人の意思」が無力化して来ていて、ほとんど「自分の意思を持っていない」と言うような人が増えていることです。


実際、二十数年ほど前に「ケイタイ」や「インター・ネット」が普及しだしたころには、「ケイタイ」や「ネット」に必要性を感じない人もそれなりにいたようですし、ほとんどの人が「ケイタイ」や「ネット」を利用するようになるまでには、それなりの時間がかかったような記憶がありますが、この数年間で普及した「スマートフォン」などのタブレット端末の時点では、『スマホなんてゼンゼンいらなーい、必要ないし』と言っていた人が、翌週には『やっぱり、ラインやりたいからぁ』と言って、すでに慣れた手つきでスマホをいじっているというようなことが、確かにあったような気がします。

どう考えても、「自分の意思」でやっていることとは思えません。


『スマホぐらい持っていないと、時代に置いて行かれるよ!』という「集団的な情報」が、どこかで刷り込まれているんだと思います。


「スマホ」ならまだいいんでしょうけど、こういう「個人の意思の無力化」はあらゆることに反映していて、かなり重要なことでも「自分の意思」で決めていないという人が急激に増えているような気もします。


『誰だかよく知りもしないような人が、ナンの気なしに言ったことなんかで、そんな重要なこと決めちゃっていいんですか?』と、まぁ、そんな風な気がしてしまうわけですね。


『いや、別に自分が「ケイタイ」とか「スマホ」とか持ってないから言ってるわけじゃないですよ』
『あー、ビンボーだから買えないんだぁ、というのもぜんぜん見当違いです!』
『それとは関係ない話としてなら、まぁ、ビンボーではあります』



『オーホッホッホッ!ビンボーが何だっていうの!?』

『あたくし、そんなことはカエルのションベンほども気にしていなくてヨーホッホ!オスカル!!』

「えっ?オスカル??・・・・・・・カエル?」

『・・・・・・・・・・』

「・・・・・・・・・・アンタはだれ?」

みたいな。


「ことば依存」



現代社会にはいろいろな「依存」があると思いますけど、「ことば」にも「依存性」がある場合があるんじゃないかと思うわけです。


このブログの中ではたびたび、「天才」という「ことば」には「依存性」があるんじゃないかと言っているんですが、この「天才」などは「現在最も依存性の高いことば」の一つだと思います。
これは「才能」、という言葉にも、ほぼ同じようなことが言えると思います。


要するに現代人にとって「天才」や「才能」は「逆らえないモノ」になってしまっているわけですね。

たとえ、少し無理してさからったとしても、『あぁ、自分に才能がないからヒガンデるんだ』と言われるのがオチでしょうし、『「才能」よりも「努力」の方が好きですねぇ』なんて言っても、『あぁ、そうですか』と言われてオシマイです。

当然「逆らうこと」がバカらしくなってきますよね。


まぁ、そんな感じで「逆らえないモノ」になってしまっているわけでしょうね。


それから、こういう「ことば依存」のもう一つの特徴は、「抜け出せない」&「やめられない」と言うことです。


たとえば、「仕事ができる」なんて言う「ことば」も、「依存性があることば」の一つだと思います。

今の時代、人間的にとても勤勉で誠実な人でも、『でも、あの人、仕事できないよねぇ』の一言で、吹き飛ばされてしまいます。
コッパミジンです。

反面、「やや人格に難あり」な人でも、『でも、あの人、仕事は出来るから』の一言で「中の上」くらいまではいけます。
「すごく出来る」だと、それだけで、『出来る人っていうのは、えてしてそういう性格なんだよ』ということに成ってしまいます。


でも、そこで『いや、人間性も大事なんじゃないか?』と気づいた人が、即座に、『仕事なんかできなくてもいいじゃないか』とはならずに、『まぁ、出来ないよりは、やっぱり出来た方がイイでしょう』と言うところから”抜け出せない”ということですね。


それで、「依存」し続けることに成るわけです。


内容なんか、ほとんど関係ありません。

つまり、実際に「仕事ができる必要」も「本物の天才である必要」もなくて、「そう言われていること」だけでも通用する場合が多いです。

だから「ことば依存」なんですね。


要するに、「出来ること自体」よりも「できるという言葉」に「依存」しているんですね。
だから、本当に「出来ようが、出来まいが」関係ないということになるわけです。

「天才」と言われてしまうと、もうそれだけで逆らえなくなってしまっていて、『「その天才」は百年後にも「天才」と言われるだろうか?』ということを考えることが、ほとんどなくなっているということです。
(それ以前に、『今もまだ「天才」は居るのか?』ということもあるわけですけどね)


そして、更に言うと、現在、この「ことば依存」がかなり拡大してきているんじゃないかと思うわけです。


昔から「神」や「仏」は「依存性」のある「ことば」だったと思いますけど、これは、「神」や「仏」の性質上、当然と言えば当然だと思いますし、そういう、「順当な依存性」のある「ことば」は昔からそれなりにあったんだと思うわけです。


でも、現在は「順当じゃない依存性」を持った「ことば」が増えてきているような気がします。


たとえば、「若い」という「ことば」もその一つじゃないかと思います。

ちょっと昔までは、「若い」=「いい」ではなかったと思いますけど、現在は、とにかく、ほとんどの人が「若い」と言われたがっているように見えますし、「若い」=「未熟」と考えている人はかなり少なくなって来ていると思います。

実際には、「若い」=「未熟」と言う傾向があるのは誰でも知っているハズなのにです。
(というか、当たり前過ぎますよね)

それから、「スリム」なんて言うのも「ことば依存」の一つだと思いますね。
「痩せている」と言うことが「均整がとれた体型」とは無関係に信望されているように思いますね。
こういうことから、「拒食症」のような摂食障害などが、起きているんでしょう。


こういった「ことば」には、「順当じゃない依存性」が含まれていると思うわけです。


こういう「ことば」が日に日に増えていくような気がするんですが、そういう「ことば依存」を拡大し続けていくと、相当生きづらい世の中に成るような気がするんですが、どうなんでしょう?


これからは、「薬物」や「アルコール」、「タバコ」などと同じように、「依存性のあることば」があるということぐらいは、考えておいた方がいいんじゃないのかなと。


逆に言うと、現在は、それらの「依存性のある言葉」が、その人の年齢も、精神状態なども一切考慮されずに、飲み放題な状態ということです。

だからと言って、「ことば」を法的に規制することは難しいでしょうが、「要注意なことば」については、注意を喚起するくらいのことはしてもいいんじゃないかなと。

そういうことを考えてみました。





「インテリアとしての芸術」と「表現媒体としての芸術」



「芸術」と言えば「表現」でしょう。

一応そういうことに成っているわけですが、実際には、「インテリア」としての性質が強い「芸術」もあって、現実には、そちらの方が「コンスタントに売れる芸術」だったりもするわけです。


この「二つの芸術」は、なかなかハッキリとは分けにくいんでしょうが、どう考えても、この「二つの芸術」は別の意図をもって制作されていますし、違う方向性を持っているわけですから、やはり、ちがうジャンルとして捉えたほうがいいような気がするわけなのです。

 ※こういう話の中で、「ジャンル分け」と言うようなことを言うと、けっこう嫌がる方
  がいらっしゃいますが、「分ける」と言うことは、「文化の基盤」となるものだと思
  います。
  たとえば、『何でもいいからお腹いっぱいに成ればいい』と思っている時には「単
  なる食物」だったものが、『どうせなら美味しく食べたい』ということで、「料理」とい
  う「文化」が生まれるわけですが、そこで、「肉や魚」と「果物」を「分けること」から
  「デザート」と言う「新たな文化」が生まれるわけです。
  そして、一度「デザート」として分けられたあとは、もう、それを、「肉や魚」と「同じ
  ジャンル」として考えることに意味があるとは思えなく成ってしまうわけです。

  これは、まったく逆の方向から言うと「ジャンルをまとめること」にも、同じことが言
  えると思います。


「ジャンル分け」を嫌う人に言わせると、「ジャンル分け」をすることで、「自由」が拘束されて、イキイキした表現が妨げられるということに成るわけですが、実際には、「不自由」に成るのは、「同じモノ」を無理に分けた場合であって、「違うモノ」を分けても「自由」が拘束されてしまうことは無いでしょうし、むしろ、「違うモノ」を無理に「同じモノ」として扱おうとすればその方が「不自由」に成ると思います。


それから、もっと大事なことは、「チガウもの」が分けられていないことで、作家の「創作に対する立ち位置が不明瞭になっている場合が多いということです。

つまり、自分が「部屋に飾って心地よい作品」を目指しているのか、それとも「表現媒体としての作品」を目指しているのか、また、そのどちらが「自分にとっての芸術」であるのか、ということが、初めからキッパリとわかっている人が意外と少ないような気がします。
(私はわかってませんでした)


こういうことが、とても大事だと思うわけです。
でも、意外と軽視されていると思うわけですね。
というより、「ほぼスルー」されているような気がします。


『いいモノはいい!それで十分だろ!?』と言うのが主流派だと思います。
確かにそうなんでしょうが、その「いいモノ」が見えてこなくなってしまうわけですね。

結果的に「どっちつかず」になってしまうわけですね。


要するに、「自己表現」であろうとすると「インテリア性」からは遠ざかっていきますし、「インテリア的な芸術」を目指せば、当然「自己表現」としては不完全燃焼になってしまうということでしょう。
でも、その両方が捨てきれないということが出てきてしまうんですね。


この二つが、初めからはっきりと分けられていれば、おそらく、かなり諦めが付けやすいんじゃないのかなと思うわけです。
「自分とはちがうジャンル」のことだと思えば、諦めやすいですからね。


現在は、この二つの中間に位置している創作者がとても多いと思います。
というよりも、この二つを上手く折衷した作品がけっこうウケがよかったりしますね。
それだけ、分けられてこなかったことの弊害が現れて来ているんだと思います。


もちろん、それでも「いい作品」も「そこそこの作品」もあるんでしょうが、問題は「作品の出来栄え」ではなく、「創作者の姿勢」なんだと思います。


いくら「出来のいい作品」でも、「姿勢」や「方向性」のないモノは「芸術」とは言えないような気がします。
やはり「作家の姿勢」が示されていてはじめて人の心を動かすことが出来るんだと思います。


それで、尚且つ「出来栄え」もよければ、それに越したことは無いでしょうが、そう上手くいくことばかりでもないでしょうから、せめて姿勢だけでも示せたらなと。

そんな風に思うわけです。





「小さい絵」の必要性



先日も似た内容の記事を書いたんですが、私は、今の絵は大きくなりすぎていると思っているわけです。
(「絵」に限らず「芸術作品全般」に言えることだと思います)

さらに言えば、「小さい絵」の必要性を感じてきているわけなのです。

 ※ここで言うところの「小さい絵」とはキャンバスサイズで30号以下くらいのものを
  想定しています。
  べつに、米粒に顔を書くという話ではありません。

つまり、「小さい絵」で、如何に人の心を動かせるのかと言うことが重要になって来ているんじゃないだろうか?と思っているわけなのです。


「大きい絵」に限らず、「特殊な技法や素材を使った絵」などは、インパクトや物珍しさがあるので、それだけでも、人の心を惹きつける要素に成ります。

当然、その分「芸術作品」として人目を惹くのには有利なわけですが、その「有利さ」を使わずに人の心を動かせるということが、大事なことになって来ているんじゃないかと思うわけです。


当然のことなんですが、「芸術作品」による「感動」は「作品の大きさ」によって決まることは無いはずですし、また、そうあってはならないと思います。


そういう意味で、やや「大きい絵」に見飽きてきている現在、「小さい絵」の必要性が出てきているんじゃないかなと思うわけですね。


ここで、「大きい絵」とはどのくらいからなのか?ということがあるわけです。


まず、人間の本能的な反応として、自分の体の大きさに迫る大きさのモノに対して、「驚異」や「畏怖」を感じてしまうということがあると思うわけです。

そして、それを超える「大きさ」と言うのは、人間にとって「大きいモノ」と認識されることが多いような気がします。

そして、そういう否応なしに感じられてしまう「大きさのチカラ」と言うのは、出来るだけ、避けたほうがいいんじゃないか?ということですね。


また、そういった「物質的な大きさのチカラ」で言ったら、絶対に工業技術で作りだされるモノの方が「大きな力」を持っているんじゃないかと思うわけです。
(それ以前に、「自然」や「宇宙」には到底及びもつかないんですけどね)


要するに、一口に「感動」と言っていますけど、そこには「驚愕」や「畏怖」も含まれてしまっているわけで、それらが、みな「芸術による感動」だとも限らないということだと思います。


つまり、「大きさのチカラ」は「驚愕」や「畏怖」は生み出せるが、それらは、本当の意味での「芸術による感動」とは少し違うモノなんだと思うのです。


例えばの話、原始人にいきなりジャンボ・ジェットが飛んでいるのを見せたら、そりゃあ、ブッタマゲルに違いありません。
その線で言ったら、とうてい「芸術」などは太刀打ちできないと思うわけです。


そこで、『それは感動ではない!』と言い切ることは難しいでしょうが、『それは芸術による感動ではない!』と言い切ることは出来るような気がするわけです。


そういう「驚愕」や「畏怖」も、確かに「感動の一種」であるとは言えるのでしょうが、それは「芸術による感動」とは少し違うモノなんじゃないでしょうか?

だとすれば、「芸術」においては、そういう「驚愕」や「畏怖」のチカラをなるべく使わない方がイイような気がするわけです。


そう考えると、「芸術作品」を大きくするということには、もう少し慎重な態度が必要なんじゃないのかなと、そんな風に思うわけなのです。

もちろん、「芸術による感動」をより大きくするためには、「大きさのチカラ」を使ったっていいんじゃないか?と言う風にも思うわけですが、そこに頼ってはいけないんじゃないか?とも思うわけです。


そして「今の芸術作品」は、、そこに頼っている部分があるように思えるということですね。


私は、「芸術作品」と言うのは、「必然性のある大きさ」の範囲で「できるだけ小さく」と言うのが理想だと思っています。

つまり、『出来る限り精神的であるほうがイイ』と言うことですね。
その為には「できる限り物質性を排除したい」と言うわけです。


自分が「絵」をやっているから言うわけじゃないですけど、とくに「絵」の場合は、「大きさのチカラ」を使うことに慎重になった方がイイような気がしています。

「立体作品」の場合は、しょせん「物質」であることが前提なわけですから、「物質性」を排除することは出来ないわけですが、「絵」の場合は、「非物質的な平面世界」と言う「モノではないモノ」を表現媒体にしているわけで、せっかく与えられている、その「特殊な場所」の特徴を殺してしまうのはモッタイナイと思うんですね。


作者や鑑賞者にはその気がなくても、「作品」を大きくすれば、必ず「大きさ」が「チカラ」を持ってしまうわけで、結果的には、「絵」にも「物質性」が発生するような気がしますし、実際に、「絵を見たときに、「大きさのチカラ」で圧倒されることはよくあることだと思います。


出来れば、そういう「大きさのチカラ」に頼らずに、「絵のチカラ」で人を惹きつけたり、人の心を動かしたりしたいと思うわけですね。
そして、これは「芸術」が「より純粋な芸術」であるために、必要に成っていくことなんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「テレパシー芸術」?



『作品なんか創らなくても、頭の中にある表現したいものがダイレクトに伝わればいいのになぁ』と思うことがあるわけです。


他の人もこんな風に思ったりするのかどうかはわかりませんけど、「芸術」をやっていて、とってももどかしく感じることがあるわけですね。


つまり、「頭の中にある表現したいモノ」が形のないモノの場合、それを形にして現すと、『どこかがチガウ!』と言う気がするわけですね。

ところが、形にしないことには『ナンニモ伝わりやしません』から、とってももどかしく思うわけなのです。


そんな時、ふと思うわけです。

『作品なんか創らなくても、頭の中にある表現したいものがダイレクトに伝わればいいのになぁ』
という風に。


要するに「テレパシーのようなもので伝えられる芸術」があれば、「作品」なんて要らないんじゃないか?と言うことですね。


なんたってダイレクトなわけですから、ある意味で完璧なわけで、文句なしのハズなわけですから、これ以上の表現手段はないんじゃないかとも思うわけですね。


ところが、この「テレパシー芸術」も、どうも、やっぱり、もどかしいみたいなんですねぇ。


もしかすると、本当に伝えたいのは「頭の中にあるモノ」だけではなくて、「創る」と言う「行為」なのかも知れませんね。


けっきょく、その両方を伝えたいんだとすれば、四苦八苦しながら「ナニカ」を創り出さないとならないのかなと。


まぁ、そんな風に考えて、今日もまた、『昨日より少しイイかな?』っていう、何とももどかしい絵を描くんでしょうね。


そんなことに少し慣れてきました。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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