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「感動」とは「慣れないもの」ではないか?



「芸術」をやっている人は、多かれ少なかれ「感動」を生み出したいと思ているんだと思います。

でも、この「感動」って、けっこう定義し辛いモノなんじゃないでしょうか?


どうしても、「人によって感動するポイントが違う」と言うことがあるので、定義するのが難しいんだと思います。


ですから、あくまで一つの話としてということに成るわけですけど、「感動」っていうのは、「慣れないもの」じゃないかと思うわけです。

つまり、「何度見ても初めて見たときと同じような強い印象があるもの」と言うことですね。
そう言うものこそ、本当の「感動」なんじゃないかと思うわけです。


例えばの話、何かを見たり聞いたりしたときに、『おおぉっ!いいんじゃないか!?』と思ったとしても、次に見たときには、『そうでもないか?』に成っていたとしたら、それは、やはり「感動」とまでは言えないものだったということなんだと思うわけです。


また、それよりは少し良かったとしても、何回か見たらやや飽きて来たとか、最初に見たときほどではなくなってしまったとか、そういうのも含めて、やっぱり「感動」とは少し違う性質のものなんじゃないかと思うわけですね。


逆に、本当に心の底から「感動」したようなものというのは、何度見ても、また、何年たっても色褪せるようなことは無くて、ほとんど、初めて出会った時と同じような「心の状態」が再現されるような気がします。

そう言うものこそが「感動」と言うにふさわしい気がするわけですね。


そして、当然のこととして、そういう「本物の感動」を創り出せたら嬉しいなと思うわけです。


こんな風に言うと、読んだ人は、『お前みたいな者に、そんなタイソウな作品が描けるわけないだろう!思い上がるんじゃない!!』
と思われるでしょうが、これは、必ずしも作品の出来・不出来と言うことではなく、「その感動」が「本物」かどうかということを言っているわけなのです。


つまり、「小さくても本物の感動」と言うのもあるんじゃないかと言うことですね。


「名作」と言われるような作品は「大きくて、尚且つ、本物の感動」を生み出せるのかも知れませんが、そういう大それたものを狙おうということではなくて、「小さい感動」であっても、時間とともに色褪せてしまわないような、そういう意味での「本物の感動」を目指していきたいなと思っているわけです。


ただ、これは、初めから「小さい感動」lを狙って行こうということでもありません。

『どうせ「大きい感動」なんて無理に決まってるんだから、「小さめ」を狙って行こう』というような「安全路線」ではないです。


つまり、目指すところを「感動の大きさ」ではなく「本物の感動」にしようと言うことですね。
もちろん、「大きくて本物」なら一番いいに決まってますよね。
でも、それは”結果的に”と言うことであって、狙うべきものではないような気がするということですね。


それから、一人の人間が一所懸命になってやったことと言うのは、人の心を動かす力があるような気がするわけです。
(そうであってほしいという希望的観測も含めてですけど)


だから、そういう「全力投球の作品」と言うのは、作品の出来栄えとは別のところで、たとえ小さくても「本物の感動」を、生み出せるんじゃないのかなと。


そんな風に、本当に心の底から思っているわけです。




「抽象の中に具象を見つけること」と「具象の中に抽象を見つけること」



よく、抽象画を見た人が、『この部分が〇〇みたいに見えますね』と言うことがありますが、そういう時、その人は「抽象の中に具象を見つけている」ということなんだと思うわけです。


また、それとは逆に、具象画を見た人が、描かれている具体的なモノとは無関係に、『この部分の色がイイですねぇ』と言うことなんかもよくあるわけですが、そういう時、その人は、「具象の中に抽象を見つけている」と言うことに成るわけです。


これらのパターンは、どちらも作者の制作意図を、かなりの所まで無視しているわけです。
でも、だからと言って、そういう見方が悪いとは思いませんし、それ以前に、そう見えてしまうものを、どうこう言っても始まらないと思いますから、もし、どうしても、そう見られたくないならば、そう見えないように描くしかないと言うことなんんでしょう。

それができないからと言って、それを見た人のせいには出来ないと思いますね。


で、私といたしましては、そういう見方が「いいか・悪いか」と言うこととは別に、「絵の中に作者を見つけること」を推奨しているわけなのです。


もともと、「抽象」と「具象」と言う概念が必ずしも対立していなかった時代には、いちいち、そんなことを考える必要もなかったのでしょうし、わざわざ「具象画」の中に「抽象的な美しさ」を見つけ出す必要性を感じるような機会があまりなかったわけです。

まして、抽象の方は、現在言われるところの抽象画とはやや趣が違っていたでしょうし、まだ、それほどまでに鑑賞者を考え込ませるような「意味ありげなモノ」にはなってはいなくて、敢えて、「具象」を見つけ出すまでもないようなわかりやすいデフォルメとか、幾何学的な模様に近いものしかなかったと思いますから、曖昧模糊とした形の中に『この部分は何かに似ているんじゃないか?』と言うような、見方をする余地はそんなに無かったような気がします。


それが、「具象と言う概念」と「抽象と言う概念」が対立するものとして捉えられるようになって、鑑賞者に対して、「具象」の中には「抽象」を、「抽象」の中には「具象」を「見つけ出すこと」が、ナントナク要求されるようになっていったような気がします。


前述のように、その見方が悪いということではないんですが、その前にある「抽象と具象の対立という構図」には、やや無理があると思いますので(私は「具象」と「抽象」は、常に両立していると思っています)、その辺から、無理な要求が発生しているのであれば、その部分はない方がいいんじゃないのかなと思うわけです。


要するに「芸術の世界全体」に「抽象と具象の対立」という構図が頑としてあるために、鑑賞者としては、そのどちらかに偏った見方をすることを、なんとなく適切でないことのように感じているんじゃないかと言う気がします。

それで、無意識のうちに「具象画」を見ると「抽象性」を探してしまうし、「抽象画」を見ると「具象性」を探してしまうんじゃないかなと思うわけです。

実際は「具象画」であっても「抽象画」であっても、「絵」は「絵」であることに違いがないわけで、やはり「絵」として見るのが、最も単純に考えれば、適切なんじゃないかと思うわけですね。


要するに、「花の絵」であっても、それを「花」として見るのではなく、あくまで「花の絵」として見るということですね。

さらに言えば、「花の絵」の中の「花の~」の部分よりも「~絵」の部分に重点を置くということです。


一方、「抽象画」で言えば、「ナニでもないナニカの絵」と言うことに成るわけですが、やはり、同じように「ナニでもないナニカの~」の部分ではなく、「~絵」の部分を見ていこうということです。

つまり、この見方だと、「抽象」も「具象」も同じように見ることが出来るということです。


なんで、こんな見方を推奨しているかと言えば、前述の「作者の意図を理解してほしい」と言うこともあるんですが、それ以上に、「鑑賞の幅を広げる」と言うことがあるわけです。


「花の絵」を「花の~」として見てしまえば、「花」に収まってしまいます。
「~絵」として見ることで、「その絵」の中に「花ではないナニカ」が見えてきます。

それが、「その絵」の中に「作者が込めたモノ」だと思うわけです。
つまり、「作者が最も伝えたかったモノ」と言ってもいいと思います。


これを見ないと、「絵」を見た意味の大きな部分が無く成ってしまうような気がするわけです。


と言っても、実際は、ほとんどの人が、こんなことを意識しなくても、多かれ少なかれ、「作者の意図」を汲んでくれていますから、全く無く成ってしまうというわけでもないんでしょうが、まぁ、出来れば、ストレートに「絵を見る」と言う感じもあっていいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったりもするわけなのです。




「流行」と「時代」



「流行」と「時代」の違いについてです。


この二つは、「似て非なるもの」だと思うわけです。


確かに、一つの時代の中で、何かが流行すると、「その流行」こそが「その時代そのもの」であるように見えますよね。

実際にも、それは「その時代」を象徴するものの一つではあるんでしょうが、それでも、やはり「流行」と言うのは「時代」には成り得ないものなんじゃないかなと思うわけです。


要するに、「流行」はサイクルが短いんですね。
だから、「時代」とは成り得ないんじゃないかと思うわけなのです。


逆に言うと、「その流行」がとても長く続いて、「時代そのもの」にまでなったとき、それを、まだ「流行」と言うのか?と言うことに成ってくるわけです。

おそらく、それは、もう、「流行」とは言えなく成っているような気がしますね。


そこで、「流行」と「時代」の長さとはどのぐらいなのかなと考えて見るわけですね。

私のまったくもって個人的な感覚で言わせていただくと、「流行」は、数年から十数年と言うところじゃないかと思うんですが、場合によっては、一年未満と言うこともあるでしょうし、特殊なケースであれば、20年~30年近いこともあるだろうと思います。


それに対して、「時代」となると、やはりかなり長くて、数十年以上続かないと「一つの時代」と言うには、物足りないような気がしています。


おそらく、この長さは、「人間の生涯の長さ」が基準に成っていると思います。

つまり、一人の人間の生涯の中で、何度も入れ替わるようなものは「流行」で、生涯に一つだけだったり、入れ替わりがあるとしても、それが一度だけというのが「時代」と言うことだと思います。


現代は、「時間の進み方」が高速化していますから、その辺のところが、かなり曖昧になって来ていて、5年とか10年くらい続いたものでも、それを「時代」として扱う傾向があるような気がしますが、人生の中で何度も入れ替わりがあるようなことを、後から振り返ってみたときには、「流行」と言う風にしか思えないことが多いと思いますので、それは、やっぱり「時代未満」の「流行」と言うことに留めておくのが妥当ではないかと思うわけです。


さて、なんで、そんなことにこだわるのか?と言うと、まぁ、要するに、自分が「絵」を描いているからなんですね。


つまり、「流行するような絵」を描きたいのか?それとも、「時代に残るような絵」を描きたいのか?ということがあるわけですね。


それ以上に、私といたしましては、「時代を超えた絵」を描きたいと思いますけど、それは、あくまで「理想を言えば」と言うことでしょうから、せめて、「時代に残るような絵」を描いていきたいもんだなと思っているわけです。

そして、その辺のところが、「現在の芸術」に欠けているところでもあるような気がするわけです。
なにかにつけて、「オリジナリティ」や「新しさ」を追い求めてしまうために、常に「流行止まり」で「時代」を形成することが出来なくなっていると思います。

それなのに、それを「時代」と言うことにしてしまっているような気がしますね。

しかも、その「流行のサイクル」をドンドン縮めていかなければ、「流行」にすら成り得ないというような仕組みが出来上がってしまっていて、「芸術」が、自分で自分の首を絞めてしまっています。


ということで、もう少し長いサイクルで、やっていきたいもんだなと。
それでないと、「今」という「時代」が無く成ってしまうんじゃないのかなと。

そうなったら、もう、「時代の芸術」もなくなってしまうでしょうし、まして、「時代を超えた芸術」なんて、有り得ないものに成ってしまうわけで、そうならないように、少し長めに、『千年先を見つめてやっていきたいなぁ』と。

そんな風に思っているわけです。






「能力」よりも「使力」



「使力」と言う言葉なんて無いんですけど(たぶん)、つくってみました。


なんでつくったかと言うと、今の時代、どれだけの「力」を”持っているか”ということよりも、どれだけの「力」を”使えるか”ということの方が大事なんじゃないかと思うからなんですねぇ。


これは、すでにある言葉で言えば、「努力」に近いものですが、「努力」が「努力する」と言う「行動」を現すのに使われることが多いのに対して、「使力」は「持っている力を使う能力」という意味で、「やや特殊な能力である」と言う風に考えています。

つまり、「行動」と言うよりも、その「やや特殊な能力」自体を指しているわけですね。
言い換えるならば、「自己使役力」と言うようなものです。

これが大事だと思うわけです。


つまり、「どのような力を、どれだけ持っているか?」と言うことよりも、「持っている力をどのように、どれだけ使えるか?」と言うことが大事なんじゃないかと思うわけですね。


たとえば、『努力も才能のうちだ』と言ったりしますけど、あれは、やや無理があって、「努力」と「才能」は対極的なモノだという固定観念が既に一般的になってしまっていますから、『努力も才能のうちだ』と言ってみても、結果的には「形だけ」と言うことに成ってしまうわけです。

やはり、「努力」と言う言葉だと、『それは能力ではない』と言う印象が付いて回ってしまうわけで、それを「能力の一種である」とするには無理があるような気がするわけです。


そこで、「使力」と言う言葉をつくってみたわけですが、これが、どう大事なのかと言うと、たとえば、スポーツなどで、スター・プレーヤーばかりを集めた「スーパー・スター軍団」みたいなのがありますけど、そういうチームが、必ずしも常勝ではないわけです。

おそらく、そのチームに足りないのが「使力」なんじゃないかと思うわけです。


間違いなく「能力」においては圧倒的なのに勝てないとすれば、その「能力」が使われていないということでしょう。


これまで、こういうところは「監督・コーチ」や「脇役的なプレーヤー」による「ツナギ効果」で、カバーされてきたわけですが、そういう「主役」と「脇役」を役割分担したやり方もあっていいとは思いますが、一人の人間の中に「能力」と「使力」があるというのも、考え方としてアリなんじゃないかと思うわけですね。


そして、一人の人間が、そういう「能力」と「使力」を併せ持っていることが、重要になっていくんじゃないかと思うわけです。


チーム・プレーのスポーツの場合、「脇役」の「ツナギ効果」もまた、面白さの一つになるでしょうが、同じスポーツでも個人競技の場合は、「脇役」に期待することは出来ないわけですし、スポーツ以外の個人的な分野(芸術など)においては、当然、一人の人間がやらなければならないことに成るわけですから、この「使力」と言うことを意識していくことで、「自分の能力」を最大限に引き出すことが出来れば、かなり、いいんじゃないかと思うわけですね。


とくに「芸術」においては、もはや、「能力」や「才能」でできることはネタが尽きていて、その領域がほとんど残っていないというのが現実だと思います。

そんな中で、この「使力」と言う方向性を如何に具体化できるかと言うことは、大事な鍵になっていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「ビンボーな絵描き」は減ったのか?



昔から、「絵描き」はビンボーと決まっているものです。
ところが、現時点で、「ビンボーな絵描きさん」なんてあまり見ないわけです。


いや、実際は、そこそこ居るだろうとは思いますけど、「昔と比べると」と言う話ですね。
と言っても、「絵描きさんがビンボーな確率についての正確なデータ」なんてあるわけないんで、かなりいい加減な話ではありますが、少なくとも、昔のように「絵描きさん」=「ビンボー」ではなくなっているような気がするんですね。

でも、じゃあ、「絵描き」が「稼げる職業」に成ったのかと言うと、そんなわけはなくて、今も昔も、その点は全く変わっていないような気がします。


だとしたら、なんで、「やつれて貧相な絵描きさん」をあまり見ないんでしょう?


おそらく、それは、「絵に専念する絵描き」が少ないからなんだと思うわけです。
要するに、他の仕事で収入を得ている人が多いということですね。たぶん。


これは、なにも「アルバイトしながら絵を描いている」みたいな「下積み型のパターン」だけに言えることでも無くて、
「絵画教室」をやって居たり、美術系の学校で講師をしていたりと言う、「ちょっと成功してる型のパターン」でも同じことだと思います。

他の仕事をすることがワルイとは言いませんが、他の仕事をしているということは、要するに「絵に専念していない」と言うことに成るわけです。
(美術関係の仕事だとしても、「自分の絵に専念しているとは言えないでしょうから)

こういうのって、「絵描き」のクイブチが増えて、昔よりも良くなったということなんでしょうか?
それとも、「絵描き」はビンボーなまま、絵に専念していた方がよかったんでしょうか?
どっちなんでしょうね?


それについては、よくわかりませんが、確かなのは、「絵に専念している絵描き」が少なくなったということだと思います。


もちろん、時代背景などの条件が違うわけですから、一概に比較はできないでしょうが、少なくとも、「後先考えないで絵に専念している人」が、少なくなったことだけは間違いないような気がします。


で、なにが言いたいのかと言うと、『専念していなくても、芸術を達成することが出来るのか?』っていうことなんですねぇ。

『できないと思います!』

いや、出来る人も居るんでしょうが、圧倒的に少なくなると思いますね。
少なくとも、現在「芸術」が置かれている位置は、そういう位置だと思うわけです。

つまり、現在の「芸術」は、とても難度が高い位置に置かれてしまっているんだと思います。


本当ならば、「芸術」はもっと敷居の低い位置に置かれるべきだと思いますが、今はそう成っていませんから、やはり「専念しないと達成できないモノ」に成っているような気がします。


出来るだけ、早くこの「芸術の置かれている位置」が解放されて、もっと、誰でも近づける位置に置かれるように成ればいいと思いますが、なかなか、そう成りそうな様子はないので、それまでは、「ビンボー絵描き路線」で行くしかないんじゃないかと思うわけです。


とにかく、なんとかして「自分」を「仕事」などの「社会的拘束」から解放しないと、「芸術」に近づくことすらできないというのが、本当の所だと思います。


と言うことで、「ビンボーな絵描き」を積極的に目指していこうと思います。


こういうのって、イイワケみたいに聞こえるんだろうなぁ。
でも、イイワケじゃなくて、本当に思ってることなんで。


こんな風に言うしかないわけのなです。




もしも「写真」が無かったら、「絵」はどうなっていたのだろう?



『もしも、「写真」が無かったら、「絵」はどうなっていたのだろう?』
これを、時々考えてしまうわけなのです。


「絵」は明らかに、「写真技術の登場」によって影響を受けたと思いますし、現在でも、まだ、「写真の影響」はかなり強いと思います。


もしも、「写真」と言うモノが、まったく初めから無かったら、当然、「絵」は現時点とは、かなり違うモノに成っていたんじゃないかと思うわけですね。

そして、更に言うと、その「写真が無かった時の絵」の方が、「絵の本来の姿」なんじゃないかとも思うわけです。

たとえば、「写実的な技術」一つとっても、「もしも、写真が無かったら」と言う前提で考えると、今でも、「写実画」には実用的な価値があるということに成ります。

「芸術」云々とは別の価値があるということですね。
つまり、「写実画」には「芸術」とは違う「別の位置」が与えられていたのかも知れないということです。


これだけでも、「絵の持っている意味」は、現在とだいぶ違ってくるでしょう。

 ※今、写実画を描いている人は、写真をもとにして描いていることが多いと思います。
  つまり、写真がないと、写実画もあり得ないものに成ってしまっているわけです。
  そう考えると、今の写実画とは「写真を描いていた絵」ということになりますね。


さて、そこで、そんな「もしも、写真が無かったらの世界」で、「絵」はどんな風に成って行ったんだろうか?と考えてみるわけです。


と言ってはみたものの、全く見当もつかないというのが本音ですねぇ。
それだけ「写真」の「絵に対する影響」が大きいと言うことだと思います。

また、「写真の影響」が強くなってきた時期と(カラー写真の登場も含めて)、「芸術の20世紀」の中で、「芸術」自体の持つ意味が激変していった時期が、かなり重なり合っていることで、それはより一層「見当もつかないもの」に成っているんだと思います。


まぁ、それでも、これを空想してみることは面白そうなので、やや、無理矢理にでも、やってみようと思います。


まず、真っ先に頭に浮かぶことは、『写真が無くても、「抽象画」って本当に現れてきたんだろうか?』と言うことです。

おそらくは、「抽象画」は存在したでしょうし、それは「芸術の向かうべき方向」として、他に行き先が無かったでしょうから、きっと、「抽象画」は現れてきたんだと思います。


しかし、『「写真」が無かったとしても、「今と同じ抽象画」が存在していたのか?』と言うことに成ると、だいぶ話が違ってくるんじゃないだろうかと思うわけです。


もともと、「アカデミックな表現」に行き詰まりを感じていた「芸術」が、「写真技術の登場」によって、「抽象表現」に向かって急激に方向転換することに成ったことは間違いないことなんじゃないかと思います。


つまり、「抽象表現」自体と言うよりは、「急激」の部分が「写真の影響」だったんじゃないかと思うわけですね。
そして、その「急激」こそが、「芸術の20世紀」の「特徴」でもあり、その「本質」でもあると思うわけです。

ということは、「もしも、写真が無かったらの世界」における「抽象表演」とは、ある意味では「アンチ・芸術の20世紀的な抽象表現」であったのかも知れないということですね。


これが、私には興味があるわけですねぇ。

私は「芸術の20世紀」は「混迷」や「間違い」を非常に多く含んだ時代であると思っていますので、その「混迷」や「間違い」に晒されていない状態の「ピュアな抽象表現」とは、どんなものなんだろうか?と言うことに非常に興味があるわけです。


と言っても、その「ピュアな抽象」を『こんなモノに違いない!』と簡単にわかるわけがないですから、取り敢えず、想像してみるだけなんですけどね。


まず、考えられることは、「写真がある世界」における「絵」は、当然「写真では現せないようなモノ」を要求されるということです。
ところが、「写真のない世界」では、「写真で現せるかどうか」は関係なくなって、「より純粋に芸術を追求すること」が要求されるだろうということです。

そうなると、現在のように「非具象的なモノ」を「抽象」とする傾向は、かなり弱くなるんじゃないかと思います。
「非具象」=「写真で現せないモノ」ということの影響が大きかったのは間違いのないことだと思いますからね。

「具象ではない」と言うことが強調され過ぎたことは、「芸術の20世紀」における「間違い」の一つだと思いますので、そこが、弱く成れば、「具象」と「抽象」の間の壁が、少し低くなって、少しだけ、自由になれるような気がします。


このこと一つとっても、「もしも、写真が無かったら」と言うことを考えることは、無駄にはならないような気がします。


まぁ、長くなってしまうので、それに、たいして具体的なことも思いつかないので、この辺でやめておきますけど、『もしも、写真がなかっら・・・・・』は面白いテーマだと思いますので、これからもろいろ考えてみようかなと。

そんな風に思っています。




「ビンボー」と「貧困」の違い



「ビンボー」と「貧困」は、ほとんど同じイメージだと思うんですが、でも、ナニカが違うという感じもあるわけです。


私なんかも、かなり「ビンボー」なような気がするんですけど(『いや、もしかすると気のせいか?』 『・・・あぁ、気のせいじゃなかった』)、「貧困」かと言うとそうでもなくて、実を言えば、かなり豊かな暮らしをしていたりするわけなのです。

確かに「おカネ」はないんですが、そんなに「おカネ」を使わないんで困ってないんですね。
つまり、「貧」だけど「困」ではないということです。


私の場合、今は妻の収入に頼って、絵を描くことに専念させてもらっていますから、「ビンボー」と言うのも失礼な話なんですけど(働いている妻に対してですね)、取り敢えず、困ってはいないですねぇ。


『女房を働かせといて、なにを偉そうなことを言っているんだ!』と言われそうですけど、一応、私なりに一所懸命にやっている結果がこうなっているわけですから、まぁ、その辺のところは、大目に見てやっているわけです。
(いや、自分が)


それはともかくとして、ここで言う「ビンボー」と「貧困」の違いって、いったいどこから来るんだろうかと思うわけです。
ただ単に、「困っているかどうか」と言うことだけでもないような気がするわけですね。

私は、「ビンボー」と「貧困」の決定的な違いは、「本人が受け入れているかどうか」だと思うわけです。


つまり、その「ビンボー」を本人が受け入れていれば「単なるビンボー」で、本人が受け入れていない場合は、「貧困」に成るんだと思います。
私の場合だと、むしろ積極的に「ビンボー」をやっているところもありますから、「豊かなビンボー」と言うことに成るわけですね。

逆に言うと、客観的に見て「裕福」でも、本人がそれを「裕福」として受け入れていない場合は、どこか貧しいという印象があって、それも、どちらかと言うと「貧困に近い貧しさ」と言う感じがしてしまうわけです。


そして、現代社会では、この「ビンボーを受け入れている人」が、
昔よりも少ないような気がするわけなのです。


例えば、江戸落語に出て来る「長屋暮らし」などは、「破れ障子にせんべい布団」と言うような、かなりの「ビンボー生活」だと思いますけど、ちっとも「貧困」は感じないですね。

むしろ、楽しそうです。

これは必ずしも「落語の中の世界」だからということだけでも無いような気がするんですね。


要するに、周りもみんな生活レベルが同じくらいで、当時の江戸は「江戸全体」が豊かだったんでしょうから、「食うのには困らない」と言うことがあったんだと思います。
それで、『宵越しの銭は持たねぇ』みたいな感覚があったんでしょうね。

これなんか、どちらかと言うと『すすんでビンボーに成ったろうじゃねぇか!』と言う感じですよね。
たぶん、「ビンボーを受け入れやすい状況」があったんだと思います。
さらに言えば、「ビンボー」を楽しむような状況があったといっても過言ではないような気がします。


ところが、現代社会では「食うのには困らない」と言うことが、「ビンボー受け入れの条件」にはならないみたいです。


「貧困層」と言われる人たちでも「スマホ」や「パソコン」を持っていることはフツウでしょうし、「クルマ」だって持っているかも知れません。
また、かなり立派な家のローンを支払うために「ビンボー」に成っているというような、「貧困層」なのか「富裕層」なのかよくわからないような人たちも、場合によっては「貧困」に含まれていたりします。

つまり、それだけいろいろ持っていても、まだ「ナニカに困っている」と言うことですね。
要するに、現代は「ビンボーを受け入れにくい状況」にあるんだと思います。


現代と言う時代の中で、「ビンボー」を受け入れるにはどうすればいいのか?
まぁ、単純に言って、二つのモノのうち一つを諦めればいいんだと思いますね。

「二者択一」が発生した時に『自分にとって重要なモノを取って、他は捨てる』これだけでいいような気がしますね。


そうすれば、現代は「江戸時代」以上に、「ビンボーを受け入れやすい時代」に成るんじゃないかと思いますね。


現代人は、いつも二つとも取ろうとするんですね。
それで、二つとも取れないと悔しくてその状況を「受け入れられなく」なってしまうわけです。


私といたしましては、「リッチな貧困」よりも「豊かなビンボー」がいいんじゃないのかなと。


『どっちもよくねぇよ!!』という声が聞こえてきそうですけど。

「そんな馬鹿な?!」

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。





はたして「描写力」が必要なほどのモノを「創造」することが出来るのか?



『「抽象画」にも「描写力」は必要なモノなのだ!』と言われることは多いですし、『いや、むしろ「抽象画」にこそ「描写力」が必要なのだ!』と言われているのもよく聞くような気がするわけです。


でも、その「描写力」って本当に必要なんでしょうか?


確かに、「描写力」が全く無かったら、何も表すことが出来ないですから、それは、必要なんだと思うわけですが、ただし、問題は、『それがどの程度か?』と言うことなんじゃないかと思うわけです。

また、それ以前に、「抽象」の場合、『はたして、「描写力」が必要なほどのモノを「創造」することが出来るのか?』という問題があるわけで、具体性のない所から、「ナニカ」を創り出す「抽象表現と言う作業」において、そこまで、繊細で厳密な「描写力」が必要に成るほどの「非現実的なナニカ」を創り出すのは、かなり大変だと思うわけです。

そんなことが出来るなら、それは素晴らしいことだと思いますし、それならば、当然「描写力」も必要に成るんでしょうが、現実には、なかなか難しいんじゃないかと思ってしまうわけなのです。


実際のところ、『頭の中で「ナニでもないナニカ」を創り出して見ろ!』と言われると、どうやら、人間の頭と言うのは、そういうことにあまり向いていないようで、かなり苦労するわけです。

まして、「描写力」が必要なほどの「繊細なナニカ」を創り出そうと思ったら、その時点で、あっという間に行き詰ってしまうような気がします。


まぁ、人間の頭で創り出せるものと言えば、『なんとなく形があるのかな?』ぐらいの「曖昧なモノ」なんじゃないでしょうか?
そういうものを創り出すのでさえ、四苦八苦&七転八倒と言うのが現実だと思います。

さらに言うと、そういう「曖昧なモノ」を、あまり描写しようとすると、ミョーに整然とした「ワケガワカラナイのに単純」と言ったツマラナイものになってしまうような気がします。

「単純明快」と言う言葉がありますが、そういうのは「単純難解」だと思うわけです。


私といたしましては、どちらかと言うと「複雑明快」と言う路線を目指していますので、これは、近づきたくない正反対の方向なわけですね。


自分のことはともかくとしても、やはり、「現在の抽象表現」においては、「描写力」にかまっている余裕がないほどに、「ナニでもないナニカを創り出すこと」に力を使う必要があると思うわけです。

そして、それを「写し取ること(=描写すること)」ではなくて、「表現すること」に努力する方が重要なんだと思うわけです。


この表現形態を、なんと言ったらいいのかわかりませんが、「描写」とはハッキリと違う作業だと思います。


「描写」は、「正確に写し取ること」に意味がありますが、こちらは、「正確に」ではなく、「強く現すこと」で、意味が増すというようなことです。


「曖昧なモノ」を「曖昧に現す」のではなく、「曖昧なモノ」を『なんとかしてクッキリと現す』と言う感じなんでしょうか。


まぁ、いずれにしても、私の場合、描写をしている余裕はあまりないですね。

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。



「真実]と言う「嘘」



「真実」と「嘘」とは正反対のハズなんですけど、少し視点を変えてみると、正反対であるハズの「真実」と「嘘」が重なって見えてくることがあると思うのです。

 ※以下、「真実」とか「嘘」と言っているのは、その時々で「真実らしく見えるもの」や、
  「嘘に見えてしまうもの」というようなことです。
  「究極的な真実」や「究極的な嘘」は、人間の容量を超えていると思いますので。


「現実の世界」で言う「本当のこと」には、けっこう「嘘」が混じっていると思うんですね。

言い方を変えれば、「現実の世界」では「嘘」が適度に混じっていることの方が、かえって「本当のこと」のように見えるということなんですね。


そして、それとは逆に、「ピュアな真実」と言うのは、「現実の世界」においては、むしろ「嘘」っぽく見えてしまうということがあるわけです。


例えばの話、『私は人間である』という言葉は、「現実の世界」においては、「本当のこと」にしか聞こえませんが、じつは、『人間とは何なのか?』という根本的な問いを適当に流してしまっているわけで、その辺から、問いただしていこうとすれば、そう簡単に『私は人間である』とは言えなく成ってしまうわけです。


ところが、そこで、仕方なく『私は人間ではないのかもしれない』と言えば、「真実」には少し近づくことが出来るのかもしれませんが、「現実の世界」における「本当のこと」からは少し遠ざかってしまうわけです。

つまり、そんな風に考えると、「真実」に近づこうとするということは、ほとんどの場合、「嘘」のような話にしかならなくなってしまうと言ってもいいくらいで、「現実の世界」から見れば、「有り得ない話」と言うことになってしまうわけなのです。


そんな中で、なにが言いたいのかと言うと、「嘘という真実」を言う者が必要なんじゃないかと思うわけです。


「真実」が、現実の世界においては「嘘」になってしまうという性質を持っているとすれば、「その嘘」を言う者が居なければ、「真実」もなくなってしまうということです。

だから、やっぱり、「嘘という真実」を言う者は必要なんだろうと思うわけですが、それは、誰なのか?と言うことです。


私は、それは「芸術」と「哲学」の役割だと思っているわけです。


つまり、「芸術」と「哲学」だけが、「嘘という真実」を言うことを許されると思っているわけです。
(かつては、「宗教」にもその役割があったと思います)


「許される」というと、『「芸術者」や「哲学者」は「嘘」を言ってもいいんだよ』というように聞こえてしまうかもしれませんが、もちろん、そういう話ではなくて、「芸術者」や「哲学者」には、世間から「嘘つき」だと思われても、「真実」を言う責務があるということです。

つまり、「許される」と言ってはいますが、むしろ厳しくなっているわけで、『嘘を言ってもいいんだよ』と言うよりも、どちらかと言うと、「芸術者」や「哲学者」は、人から「嘘つき」だとののしられ、叱責されても「嘘という真実」を言い続けなければならないということですね。


そんなわけで、『「芸術者」と「哲学者」は「嘘」を言わなければいけない!!』
という、ミョーな結論に到達いたしました。


まぁ、これなんかも、「嘘という真実」の一つと言っていいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



「一瞥の力」



つね日頃から、「一瞥の力」と言うものを身に着けたいなと思っているわけです。


ここで言う「一瞥の力」とは、「創作する側」としては、一瞬見ただけでも、力強さが伝わるような絵を描くということですし、「見る側」としては、一瞬見ただけでも、、そのものが持っている力を感じ取ることが出来る眼力を持つということです。


実のところ、人間の「判断」や「印象」と言うのは、ほとんどの場合、瞬間的な「一瞥」によって決まっていることが多いと思います。
つまり、瞬間的に伝わらなかったものは、、その後、時間をかけても伝わらないことの方が多いということですね。


もしそうだとすれば、やはりこの「一瞥の力」を身につけないと、「伝えられるもの」も「感じ取ることが出来るもの」も少なくなってしまうということでしょうから、そこは何とか身に着けていきたいなと思うわけですね。


でも、その反面、「じっと見続けていたくなるようなモノ」を描きたいという気持ちもあるので、その辺が難しい所ですね。


まぁ、「描く側」としてはなかなか難しいでしょうから、せめて「見る側」としての「一瞥の力」くらいは身に着けておきたいもんだなと。
でも、よく考えたら、他人の絵をあまり見ないので、身に着けていても使わないかも?

いずれにしても、ほとんどの場合は、まず最初の段階で、「一瞥」によって判断されてしまうのは事実だと思います。
そして、その判断を否定することが出来ないんだとすれば、その「一瞥の判断」に「作品」をゆだねることになるわけです。

だから、「一瞥の力」を重視していこうかなと。

そんな風に思うのです。
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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