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「異現実の世界」

一つの考え方として、「芸術」とは「異現実の世界」を創り出すことなんだと思っているわけです。


なんで「非現実」ではなくて「異現実」と言うかというと、

「非現実」と言うと「現実離れした」とか「現実には有り得ないような」というような感じがあって、

どうしても「奇をてらったモノを狙う」というニュアンスが含まれてしまうような気がするわけですね。

その「奇をてらった」を避けるために違う言葉を使っています。


「異現実」の方は、「今見ている現実」とは異なるものであるが、

ある種の「現実感を伴ったモノ」というイメージで考えております。

つまり、「現実離れしたモノ」や「有り得ないモノ」ではなくて、

「ミョーに現実的なモノ」とか「ナゼか有り得るような気がしてくるモノ」と言った感じです。


まぁ、「異現実」と言ってみたところで、その辺のところがどれほど違うのかわかりませんけど、

一応自分なりに、そんな風に言っているということですね。


そして、そういう「異現実の世界」を創り出すことが「芸術」だとも言えるんじゃないかと思っているわけです。


さらに言うと、私の場合は、その「異現実の世界」を「鑑賞者」に見せるだけではなく、

「鑑賞者」にその「異現実の世界」の中に入って来てもらいたいと考えているわけです。

つまり、外から眺めるのではなく、作品世界の中に入って見てもらおうというわけです。


実際、人が「芸術作品」に感動する時と言うのは、

多くの場合、無意識のうちに「その作品の世界」の中に鑑賞者が入り込んでいて、

その中で「作品の世界感」を共有出来ている時なんじゃないかと思うわけです。


そういうわけで、私の場合は出来るだけ「絵の世界」に入って行き易くなるように、

「入り口」として絵の中に「枠」を設定しているというわけです。

     ※これは「物語り」で言うところの「枠物語」(『アラビアン・ナイト』に代表されるような)
       に近いもので、「異現実の世界」への「入り口」に当たるものだと思っています。

つまり、いきなり見せられたら「違和感」を感じるようなものでも、

「枠」を通って、「異現実の世界」の中に入ってしまえば、

「違和感」よりも、むしろ「臨場感」を感じられるんじゃないかと思うわけです。

そして、そういうところで生まれるチョト・チガウ「現実感」を「異現実感」と呼んでいるわけなのです。


この手法を取ることで、本来ならば「リアリティ」を感じられないようなモノに

「ミョーなリアリティ」が生まれてくれれば面白くなるんじゃないのかなと思っているわけですね。


いずれにしても、いろんな人が持っている「異現実の世界」を見せ合うような、

そんな「芸術感」が一般的に成っていけば、

きっと「芸術」はもっと楽しい分野に成っていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「神の言葉」・「悪魔の言葉」・「人間の言葉」

宗教的な意味で言うところの「神の言葉」とは、

神が語ったとされている言葉や、神の代弁者として認められた人が語った言葉と言うことに成るわけです。

そして、その「神の言葉」に反するような「言葉」を「悪魔の言葉」とすることが多いと思います。

要するに、「神の教えに背く」というパターンですね。


ただ、これらをよーく考えてみると、すべて人間が語っている言葉であるわけです。


どんな宗教においても、同じだと思うんですが、

「神様が実際に人前に姿を現す」ということは無いと思うのです。
(預言者や現人神などは、本当の神様ではないと言う前提でですけどね)

だから、当然「神の言葉」も人間が直接聞くことは出来ないんだと思います。


つまり、「神様」と言うのは「無限にして絶対なモノ」ということですから、

現れてしまうと「その現れた姿」に限定されてしまうわけで、

「現れること」が出来ないということだと思います。


これは、「神の言葉」でも同じことで、具体的な「言葉」にして現してしまうと、

その「言葉の範囲」に限定されてしまうわけですから、

「無限にして絶対」ではなくなってしまうわけです。

つまり、それはもう「神の言葉」ではないということですね。


そうなると、本当の「神の言葉」というものは存在しないということに成ってしまうわけです。


そもそも、「言葉」と言うモノ自体が「人間レベル」のものなわけで、

常に「何らかの限定」を含んだものなんだと思いますから、

「神の言葉」と言ってしまうと、「神の無限性」が崩れてしまうわけですね。


ほとんどの「宗教」においては、そこのところを、

『神様が人間にもわかるように、「人間の言葉」で神の無限性を説明しているのだ』

という風に解説していると思います。

そして、それを説明するために「神によって使わされた」とされるのが

「その宗教の教祖(始祖)」である場合が多いと思います。


ただ、その「教祖様」は、やはり「人間」なわけです。

そして、「人間」は、悲しいかな「無限」ではないわけです。

「教祖様」たちは、たいていの場合コテコテに「有限」です。
(『実は私も無限なのです』と言い始めると、アブナイですけど)


この点に関しては、新興宗教やカルト宗教の「教祖様」でも、

現在、世界的な宗教に成っているような宗教の「始祖様」でも、

全く変わりがないはずです。


確かに、過去において「宗教」が担ってきた役割があったことは間違いないことだと思いますし、

それが今でも続いていることも否定はしませんが、

それを今後も続けていくのか?ということに成ると、

私は、もうそろそろ「人間の言葉」に耳を傾ける時期なんじゃないのかなと思ってしまうわけなのです。


そして、それは「人間の言葉」を「人間が語る時期」でもあるわけです。


これまでは、なんだかんだ言っても、結局は「神の名を語っていた」ようなところがあったと思うわけです。

いや、必ずしも悪い意味ではなく、それを信じて言ったり語ったりしたことでしょうから、

それは、その時代において「立派なこと」だったのかも知れません。


しかし、現時点で、それと同じことを繰り返すことは、

やはり、「神の名を語ること」になってしまうような気がします。


現時点での「信仰」には常に「疑い」が入り込んでいると思うのです。
(一人一人の人間の中にではなく、現代という時代の中に潜在している「疑い」ですね)

だから、そこでの「信仰」とは常に「盲信」に変化していく可能性を秘めていますし、

「布教」とは常に「押しつけ」に変換されてしまうわけです。


つまり、「神への疑いを含んだ時代」においては、

「神の言葉」を伝えることが、必ず「神の名を語ること」になってしまうわけです。


そんな中で、「人間」は「人間の言葉」を「神の言葉」としてしまうのではなく、

「人間の言葉」として語っていく必要が出てきているんじゃないでしょうか?

当然、「神様」の持っている(かつて持っていた)「絶対性」には及びもつかないでしょうし、

ほとんどの「人間の言葉」には「間違い」が含まれているでしょう。


そして、その「間違い」の責任はすべて「人間」に帰って来るわけです。

それを語ったのも「人間」だし、それを聞き入れたのも「人間」ですから。


そんな状況の中で、「人間の言葉」を懸命に語り、

その懸命に語られた言葉に、また懸命に成って耳を傾け続けることは、

決して容易なことではないかも知れませんが、

そういう方向こそが、現在「人間」に指し示されている方向だと思います。


たとえば、「スピリチュアル」と言うのがありますが、

「スピリチュアル」を信じている人たちが、それを「宗教」だと思っているのかどうかはわかりませんけど、

やはり「何らかの絶対」を設定したものは「信仰」だと思いますし、

その「信仰」を「何らかの形で語ること」は「宗教」に当たると思います。


「スピリチュアル」においては、「愛」を「絶対原理」とする場合があるようですが、

この考え方自体はとても好きな考え方ですし、

そういうことを言っている人も好感の持てるような人である場合が多いので、

ケチをつけてもワルイかな?とは思うんですが、

『「愛」だけじゃいけないんですか?』と思ってしまうわけなのです。

つまり、『なぜ「愛」を「絶対原理」としなければならないのか?』ということですね。


『どうして「信仰」にしてしまうのかな?』と思ってしまうわけですね。

言い方を変えれば、『「人間の愛」では不足ですか?』ということです。

もっと言えば、『「愛」の裏側に「憎」があってはダメでしょうか?』ということです。


「完璧で汚れのない愛」でなければダメなんでしょうか?


そんなことないんじゃないかと思うわけです。

「不完璧」なモノでもいいんじゃないかと思うんですね。


私は、「真理」と言うモノ自体が「変容し続けるもの」なんじゃないかと思うのです。

つまり、『全てのモノがネジレながら反転し続けている』というのがこの世の中の実体だと思うわけです。

だから、「不合理」と「合理」が混在していられるわけで、

説明できないことがあるのも当然のことですし、

「不合理」はネジレてどこかで「合理」とつながっているから、両立していられるわけです。

※『それじゃあ、「真理」とは言わないだろう!』と言われてしまうかもしれませんが、
そういう「変容する姿」が全体としてつながっていて「整合性」をもっていることを
「真理」と考えることは可能だと思います。
というか、そうでも考えないと、こんなに矛盾した世界を説明することなんてできる
わけないと思いますね。

「不変にして永遠であること」を「絶対」とか「普遍」としてしまうと、その辺のところ
を、説明する必要が出てきますけど、「真理」を「不変にして永遠であること」ではな
く「変容し続けること」とすれば、そこのところを説明する必要は無く成ります。
      
「真理」も「普通のモノの一つ」に成るということです。
ただ、「真理の変容」はたぶん「人間のサイズ」を超えているので、人間には把握で
きないと思いますけどね。

たとえば、「宇宙の果て」に向かって行くことは、「宇宙の中心」に向かうことでもあるわけで、

当然「その中心」こそが「果て」でもあるわけですから、

「果て」に到達することは不可能でもありますが、

いつどこにいてもそこが「果て」でもあるというわけです。


この説明で分かるように、まったく意味がありません。

要するに、『ナニを言っているのかわからんのだよ、キミ!』という感じですね。

それを、「神の名のもと」に言ってはいけないような気がするわけです。


「愛」と言う「言葉」は「人間の愛」を想定して語られるべきだと思いますし、

「神の愛」や「絶対原理としての愛」は「愛」と言う「言葉」では語りきれないはずです。


これは「愛」を「神」に置き換えても、また、他のどんな「言葉」に置き替えても言えることだと思います。


すべての「言葉」は「限定」を含んでいますし、

如何なるものも「言葉」に置き換えれば「その言葉の範囲」に限定されてしまいますから、

「絶対」を「言葉」にして伝えることは不可能なハズです。

それをやろうとすれば、「神の名を語って伝えること」になってしまうと思うわけですね。


こんなことを書くと、信仰心の厚い方からは『悪魔の言葉だ!』と言われてしまいそうですけどね。

でも、私は「コテコテ人間」なので、「人間の言葉」として語っております。


「コテコテ人間の言葉」ですね。

『うわっ!ベトベトする』




「科学」とはいったいナニなのか?

「科学」という言葉は普段何の気なしに使っているんですが、

はたして「科学の本当の実体」ってナニなのだろうかと考えてみたわけです。


「科学」は一般に『わからないことを研究してわかるようにするものだ』と言われることが多いですけど、

私は『科学とはその時点で、既にわかっていることだ』と思うわけです。


確かに、「わからないこと」を研究するのも「科学」なんでしょうが、

「科学」における「研究」と言うのは、必ず「わかっていること」を使って行わなければいけない

というルールに成っていますから、やはり「わかっていること」が前提に成っているわけですね。


そこで、私は『科学とはその時点で、既にわかっていることだ』と思うわけです。

それに対して「わからないこと」が「神秘や不思議」=「非科学」ということに成るわけですね。

当然、「わからないこと」がわかるようになった場合は、

例え、それが、それまではどんなに神秘的で不思議なことだったとしても、

わかったトタンに「神秘や不思議」ではなくなって「科学」に成るというわけです。


ところが、これは、まったく逆のことも言えて、

「わかっていると思われていること」が何かのきっかけでわからなく成ったり不確かに成ったりすると、、

それは、その瞬間から「科学」ではなくなってしまうわけなのです。


そして、更に言えば、ありとあらゆることに置いて、

「今わかっていること」でも、それが続くとは限りませんし、

「今わからないこと」でも、いつかはわかるかもしれないわけです。

しかも、それらが、また元の「わかっていること」や「わからないこと」に戻ることもあるわけですから、

すべてのことが、「科学」と「神秘や不思議」の間を行ったり来たりしているわけで、

そこには「絶対的な法則」のようなものは存在しないのかも知れませんね。


たとえば、現在の視点で見た場合、如何にも「絶対的な法則」であるように見える、

「物理法則」なども、人間には計り知れないようなとてつもなく長い時間の果てには、

変わってしまうのかも知れませんし、

実を言えば、それは「果てしない時間」の問題ではなくて、

たまたま、それが「わかったり」、「わからなく成ったり」するというだけのことだと思います。


つまり、現時点においても「その変化」は潜在的に内包されているということだと思うわけです。


それで、取り敢えず、「今わかっていること」を「科学」と言っているわけですが、

その「今わかっていること」の中には、常に潜在的に「わからなくなる可能性」が有りますから、

「科学」は「神秘や不思議」を内包しているということに成ります。


つまり、「科学」と「非科学」は常に両立しているということに成るわけです。


こうなると、もう「科学」と「非科学」を分ける意味もないのかも知れませんが、

それだと、ほとんどの話ができなく成ってしまうので、

便宜上「今わかってるような気がするぅ?」ということを「科学」と呼んでいるわけです。

そして、そういう「わかっていること」を前提に置くことで、

人と話をすることが出来るようになっているんだと思います。


だから、「科学」には「それなりの価値」があると思いますし、

「それ以上の価値」は無いと思います。

これは「神秘や不思議」も同じですね。

対等ですから。


話しが回りくどいわりに、それだけです。

では。



すべての「宗教」は「相似形」なのか?

世のなかにはいろいろな宗教があるわけですが、

実は、「宗教」と言うのはすべて「相似形」であって、本質的には同じものだと思うわけです。


もちろん、「その宗教」を信仰している人にとっては、

『そんなことは無い!私の信じている「神」以外の「神」など居るはずがないのだから』

ということに成るんでしょうが、そういうこと自体が、ほとんどの「宗教」でいわれることなわけで、

そういうところも含めて「相似形」だなと思うわけですね。


と言っても、最近の傾向としては、

「宗教」の側でも、『宗教は相似形である』ということをむしろ積極的に認めているという感じもするわけです。

少なくとも、とくにカルト的な性質の団体や原理主義的な傾向の宗派以外の、

比較的大規模な「宗教」や「宗派」では、

自分たちとは「チガウ信仰」も認めていこうという流れに成っているようですし、

それどころか、「チガウ神」ですら、お互いに尊重していこうとする傾向があるように思えます。
(それで争い事は減っているのかも知れません)


これは、要するに、

『そこに「神」がいて、それを「信仰」する人が居れば、それはみな同じことなのだ!』

ということなんじゃないかと思うわけです。


ただ、ここで一つ問題があって、先述の「カルト教」や「原理主義」ですね。

これらも含めて、「相似形」なのか、それとも、「そういうのだけは別」なのかということです。


少なくとも「カルト」や「原理主義」の側ではそれを認めないでしょうし、

「リベラルな宗派」の側でも、

「カルト」や「暴力的な原理主義者」とは一線を画しておきたいということがあるでしょうから、

やはり、今のところ「そういうのだけは別」が主流なんだと思います。


でも、そういうことは、「宗教」の「本質」における問題と言うよりは「実践」における問題でしょうから、

おおむね、「宗教」は「相似形」であるといってもいいような気がするわけです。


「宗教」が「相似形」であるという前提で言えば、

もはや「教典」も「細かい教義」も必要ないはずですし、

要は、そこに「何らかの神」がいて、人間に「信仰心」があればそれだけで十分なハズです。


そして、こんなことを表すために出て来たのが「スピリチュアル」と言うモノだと思うわけです。


誤解のないように言っておくと、

私は「スピリチュアル」の考え方にも、それを信じていらっしゃる方々にも

おおむね、好感を持っていて、決して「やめちまえ!」と思っているわけではありません。

これは、他の「宗教」についても、ほぼ同じです。


そういう前提で言うことなんですけど、

『それでもまだ「絶対的なナニカへの信仰」は必要なのでしょうか?』


「絶対性」と言うよりも「不完全性」

「信仰」と言うよりも「愛着」では足りないでしょうか?


取り敢えず、自分のことで言うと、

「不完全な人間の愛着」で十分すぎるくらいに満足しています。

だから「絶対的なモノ」や「完全な愛」の必要は感じません。


今のところ、そういう感じでやっておりますです。はい。




「宗教」の「行き止まり」

前の記事に続いて、これもまた「宗教」についての話です。

信仰をお持ちの方には納得いかないことに成ってしまうでしょうが、

真面目に考えていっていますので、そこのところはお許しください。


さて、いきなりですが、私は「宗教」には「行き止まり」があると思うわけです。

つまり、あるところで必ず”にっちもさっちもいかない”状態に成ると思うんですね。


要するに、人間には「神様」が把握できないという問題があるわけです。

だから、「信じる」しかなくなってしまうというわけです。

そこが「宗教の行き止まり」だと、私は思うということなのです。


これは「神様」をほかの言葉に置き換えたとしても同じで、

「人間」は「人間のサイズを超えたモノ」は把握できないわけです。

しかし、「信仰」の対象に成るようなものは、必ず「人間のサイズを上回るモノ」ですから、

絶対に把握することは出来ないわけです。


そこで、「信じる」しか無く成るわけですが、「把握できないモノを信じる」ということは、

結果的に「盲信」を免れるすべがないということに成ります。

「盲信」を免れるには、そこに「疑い」を持ち込むしかないわけで、

そうなると、「純粋な信仰」が崩れてしまいます。


そこで「行き止まり」です。


その「行き止まり」を突き抜けるには「盲信」を恐れずに「信仰」に突き進むしかないわけです。

つまり、やや極端な言い方をすれば、『全ての宗教は盲信である』ということです。


でも、それが絶対に悪いということではありません。

「盲信的なモノ」の中にも「悪くないモノ」だってありますから。


たとえば、「親子の愛情」なんかも、かなり「盲信的」な場合があります。

動物の行動で「インプリンティング」と言うのがありますが、
(生まれて初めて見た「動くもの」を親だと思ってしまうというアレですね)

あれなんかも、完全に「盲信」ですが、それが本当の親であれば何の問題もないことですから、

決して悪いものではないのでしょう。

これは、人間の親子間の愛情についても同じようなことが言えるんじゃないでしょうか?

「その親」がマトモでありさえすればいいわけですね。
(ただ、「その親」がマトモじゃなかったときはけっこう悲惨なことに成るわけですけど)


「宗教」だって同じことで、「その宗教」がマトモであればいいわけですが、

その「マトモならばいいだろう」という基準自体が

「宗教」としては「行き止まり」なんじゃないかと思います。


それから、もう一つ言えることは、現代の生活の中で考えた場合、

「宗教」で救われている人は、もしも、「宗教」が無かったとしても大丈夫な人なんじゃないかと思いますが、

「宗教」で疲れ果ててしまった人というのは、

「マトモじゃない宗教」にハマらなければ、

もう少しいい人生を送って居られた人なんじゃないか?と思うんですね。

もちろん、そこから立ち直る過程で、多くのことを学ぶ人も居らっしゃるでしょうが、

そうでない人が居るということも否定はできないと思うわけです。


これは、「薬物依存」や「ギャンブル依存」や「悲惨な結婚生活」なんかにも同じことが言えますが、

そこから学んで結果的にプラスに転じることが出来る人も居ますが、それが出来ない人も居ます。

でも、そういうことと「薬物やDVなどを含んだ悲惨な生活」を無くしていった方がイイだろうということとは

別のことだと思います。


「宗教」の場合、そこのところが、昔と今では違うような気がするんですね。

つまり、「宗教で救われる人」と「宗教で疲れ果ててしまう人」の比率が逆転しているように思うわけです。
(「なんとなく宗教をやっている人」ではなくて、「強い思いで信仰している人」に限っての話です)


要するに、現時点で「宗教」を「信仰すること」は、一種のギャンブルだということです。

だから、「宗教」には「行き止まり」があって、

そこから先は「盲信」覚悟でのギャンブルであるということをわかったうえで、

そちらに身を任せるのか?という選択基準があった方がイイんじゃないかと思うわけです。

でないと、「宗教で疲れ果ててしまう人」が後を絶たないような気がします。


もしかしたら、

いま、「神様」が『私を捨てなさい』と言っているのかもしれませんよ。


いや、こういうのが「神の名を語ること」になってしまうわけですね。


「神様が言っていること」というよりも、「人間が思うこと」として、

「おそらくは原始時代から持ち続けてきた習慣」としての「信仰」を、

一方ではスマホを操作しながら、まだ、これから先も続けていくのか?

ということだと思います。


「宗教」や「信仰」を否定するということではなくて、

そういう「機能」を「人間の中」に見つけ出せないのか?ということですね。

もし、それができたら「神様」も褒めてくれるんじゃないですか?

おっと、また「神の名を語ること」ですね。


言い直すと、

『それができたら「人間」は自分で「自分」を褒めてやってもいいんじゃないですか?』

そういう風に思うわけです。





「現実」の中に「真実」は無い・・・そこまではいいとして

「現実」と言うと、「真実」と比べて、

やや表面的というか、どことなく浅いというか、なんとなく単純というか、

要するに、人間にも容易に理解できる範囲のものが「現実」だなと、そんな感じがするわけです。

「真実」の方は、人間には到底理解できないものと言う感じですね。


「現実」も「真実」の一種ではあるんでしょうが、

その中で、人間にとってわかりやすいものを「現実」と言っているような気もします。

そして、そういう「現実」を除いた「狭義の真実」が一般に「真実」と言われているんじゃないかと思います。


そういう前提で言うと、

『「現実」の中に「真実」はない』ということに成るわけです。

この話には、『同意』の方も結構いらっしゃるんじゃないかと思います。


そこで、『そこまではいいとして~』という話です。


どうして、「真実」はこんなに見えにくいんでしょうか?

なぜ、時として「現実」が「真実」を覆い隠してしまうように感じるのでしょうか?

また、それ以前に、人間にとって「真実」はそうまでして必要なモノなのでしょうか?

      ※まぁ、それ以前に『「現実」だけで十分だろ!』という人も居らっしゃるでしょうから、
        そういう人から見れば、意味のない話に見えるでしょうが、
        ここでは、そこのところは飛ばします。

おそらく、「真実」が理解しにくいのは、

それが「人間のサイズ」を上回っているからだと思うわけです。

つまり、「人間のサイズ」以内のモノが「現実」で、それ以上が「真実」ということですね。


その「人間のサイズ」がどのくらいかと言えば、

たぶん、「形あるもの」や「限られた時間内のもの」というようなことなんじゃないかと思います。


だから、「形のないもの」や「時間を超越したサイクルを持つもの」は把握できなく成るんでしょうね。

そう言うものが「真実」なんだと思います。


「真実」と言うと「普遍的」で「永遠に不変」であると考えてしまいますが、

実を言うと、それが「人間サイズの考え」なんだと思います。


「形のないものの世界」や「時間を超越した世界」では、

「不変」や「永遠」は意味を持たないような気がしますので、

「普遍性」や「真実性」はそういったこととは無関係に存在するとも言えるわけです。


つまり、「真実」も「不定形」であって、変容し続けているということなんじゃないかと思うわけですね。

ただ、その「変容」が「人間のサイズ」を超えているわけです。

だから、把握することは出来ません。


おそらく、人間が理解できるのは

「それが人間に把握できるサイズを超えているということ」ぐらいまでじゃないでしょうか?


そして、その絶対に把握できないようなものである「真実」を

把握できないと知りながら、探求し続けることを「智」と呼ぶんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。


『・・・・・・だからナニ!?』



「その絵の答え」

「一枚の絵」には、「一つの答え」があると思っているわけです。


「自己表現」として描かれた絵には、その作者なりの「答え」があるはずですし、

作者はそういう「答え」を探し出して、その絵の中に写し込む必要があるんじゃないかと思うわけです。


ここで一つ問題があって、

「その答え」を「その絵の中」で創るか、

それとも「チガウ場所」で創った「答え」をそこに写し込むのか?ということがあるわけです。


ふつう、専門的に成ればなるほど「チガウ場所」で「その答え」を用意しておいて、

それを、「本作」に移し込んでいくというスタイルをとることが多いように思います。


これは、「具象画」であれば、

デッサンやエスキースを重ねて練り上げた構図を使うというようなことで、わかりやすいですが、

「抽象画」の場合も、一見「イッパツ描き」のようでいて、

実は、けっこう「練られた図案」を使っていることも多いんじゃないかと思います。
(というか、「本当のイッパツ描き」で力のある作品を描ける人って、そうは居ないと思いますね)


でも、私の場合、人間が非常にまじめにできているので、
(本当です)

『その絵の「答え」はその絵の中で創り出さなければいけないんじゃないか?』

と思ってしまうわけなのです。

それで、「イッパツ描き」どころか「ヒャッパツ描き?」っていうようなことに成ってしまうわけです。

まぁ、一番効率の悪い描き方と言うことですね。

どうやら、それが私にとっての「マイ・スタイル」らしいです。


私の場合、そういう「制作過程の紆余曲折」を現したいというようなところもありますので、

どうしても、そうなってしまうのだと思います。


いや、実を言えば、『制作過程をどこか短縮できないか?』

『こんなところに時間をかけなくてもいいんじゃないか?』と、いつもセコセコと考えているので、

ちっとも、この「マイ・スタイル」を受け入れられているわけではないんですけど

そうかと言って、「その絵の答え」が「その絵の中で創られていない」ことにも、

どうも釈然としないので、しかたなく、そんなことをやっております。


チョット、馴染んできたけど。



「継承」と「モノマネ」のチガイ

「継承」することは大事なことだと思うわけですが、それが「モノマネ」とやや近いことに成るわけです。


やはり、「モノマネ」に陥るのは避けたいわけですから、

「継承」と「モノマネ」を見分ける必要があるんじゃないかと思います。


私は、「継承」と「モノマネ」のチガイは、

受け継いでいるのが「スタイル」であるかどうかで分かれているんだと思うのです。

つまり、「スタイル」を受け継いでしまっている場合は「モノマネ」であるということです。

これは、意図的にマネしている場合も、そうでない場合も同じだと思います。


反対に「スタイル」以外のモノを受け継いでいる場合であれば、

よほど露骨にマネしなければ「継承」に成ると思うわけですね。
(というか、「スタイル」以外のモノは、露骨には成りようがないという感じがしますね)


「スタイル」って、「その人らしさ」だと思うんですよねぇ。

だから、『そこはマネしちゃダメなんじゃないの?』って思うわけですね。

それに、『そこをマネしちゃったら、「自分らしさ」はなくなっちゃうんじゃないの?』と言うことです。


こんなことを言うと、『マネしていいモノなんてあるわけないだろ!』と言う人が居るかもしれませんが、

実際は、人間はナニカの影響から逃れられませんし、

ナニモノにも影響されないモノなどほとんど生み出すことは出来ないと思います。

だから、そんな風に言っている人は、「自分のマネ」に気が付いていないだけだと思うわけです。

そういうのこそ、むしろ、危険だと思いますね。


さて、そこで「他人のスタイル」に影響されてしまわないようにするにはどうすればいいのか?

それには、「自分のスタイル」を創り出すことしかないわけです。

「自分のスタイル」だと確信できるものを創り出していれば、

「他人のスタイル」に振りまわされなくなるでしょうし、

逆に、「自分のスタイル」がないと、どうしても「他人のスタイル」に乗っ取られて、

しかも、それに気が付かなくなってしまうでしょう。


それで、なんとしてでも「自分のスタイル」を創り出そうと思ってやってきて、

なんとなくできてきたかなって思っているんですけど、

出来て来た「ソレ」が、どうも。


かなり、厄介なみたいなんで困ってるわけですが、
(時間的に難ありな感じ)

たぶん、もう離れられません。


残念。・・・だけど、少しイイのかな?

そんな感じ。



「地上の楽園」

よく南国の島に行くツアー旅行のキャッチコピーなんかで、

そういう手つかずの自然が残っている場所が「地上の楽園」と言われることがありますけど、

未開発の場所を「地上の楽園」と言うのならば、

開発されマクリの「都会」とは、「地上のナニ?」に成るんだろうなと思うわけです。


「地上の地獄」っていうのは、いくらなんでも”怖すぎ”なのでやめといて欲しいと思いますけど。

でも、やっぱり「都会」と比べての「地上の楽園」なんだと思いますから、

そうなると、どう考えても「都会」の方は、あまりいいイメージが出てこないような気がするわけですね。


しかし、よく考えてみると、「都会」と言うのは、

人間が、ある意味で「楽園」を築きあげようとして開発を続けてきた結果なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「都会」こそが本当の「楽園」であるハズなわけです。


実際、現在の「都会」での生活は、ほんの数世代前の時代の人から見ても

間違いなく「楽園」のように思えるものだと思います。


そんな中で、「未開の地」を「楽園」と呼んで、自分たちが長年かけて築き上げてきた「都会」を

「逆・地上の楽園」と呼ぶような事態になってしまったのだとしたら、

どこでどう食い違ってしまったのだろうか?と思うわけですが、

実際問題として、「都会」って、良くなったんでしょうか?

それとも、悪くなったんでしょうか?

なんで、「都会」を「地上の楽園」であると感じられないんでしょうね?


まぁ、それは「ないものねだり」と言うことなんでしょうが、

それだけでもなくて、「都会」の変化が速すぎるんだと思いますね。

『「楽園」だなぁ』と感じる前に、もう次の形に変わってしまうから、

「人間」が「都会」に追いつけなくなってきているんだと思います。


だから、「未開の地」に「楽園」を感じるのかも知れないですね。

一生懸命についていかなくてもイイと言うんですか?

そういう安心感みたいなものが「楽園」を感じさせるんだと思います。


「都会」に居ると、いつも「便利さ」に一生懸命ついていかないとならないし、

いつも「新しい便利さ」を習得することを迫られる感じがするわけです。


もう少し時間を「スロー」にすることが出来れば、

「都会」は信じられないほどの「地上の楽園」に感じられるように成るような気がするんですね。


そうすれば、『毎日が楽園生活』ということに成るわけで、万々歳だと思うんですけどねぇ。

どんなもんでしょう?


『そんなウマイ話があるわけないだろう!』

『ですよねぇ』

まっ、もしも、そんな風に成ったらいいなっていう話ですね。



人間が卒業するべきもの

このブログの中では、度々『人間はもう「宗教」から卒業した方がイイんじゃないか?』と言っているんですが、

これは、必ずしも「宗教」だけに限ったことでも無くて、

他にも「そろそろ人間が卒業した方がいいモノ」があると思っているわけです。


実を言えば、そういうのがけっこうたくさんあって、

「差別」や「権力」なんかもそういうものだと思いますが、

こういったものは、人間の精神の根源的な部分に刻み込まれているようなところがありますから、

かなりシブトイだろうなと思います。


でも、もう少し、早く辞めた方がイイなと思うのが「政治」・「経済」・「法律」の三つなんですね。


この三つから卒業できれば、人間はかなり先まで生き延びられるような気がします。

逆に、それができなければ、おそらく、人間はあっという間に「地球資源」を使い果たしてしまうでしょう。

そして、それまでに、やっきになって宇宙への移住を具体化させようとするでしょうし、

きっと、なんとしてでもそれをやってのけるでしょう。


でも、たぶん、そこで人類は死滅するに違いありません。

「宇宙」には適応できないと思いますね。


現在の「政治」・「経済」・「法律」を維持していけば、

「競争」や「時代の高速化」は避けられませんし、

それらを前提にしたことしか考えられないでしょう。


結果的に「地球」は使い果たされてしまうでしょうね。

先が見えてきたところで、なんとか「スロー・ダウン」したとしても、

おそらく、人間は満足しないでしょうから、きっと「宇宙」へ出ていくことに成ると思います。

そこで「The End」だと思います。


「政治」・「経済」・「法律」の三つから離れた発想がないと、

「地球資源」を長持ちさせることは出来ないと思うんですね。


そうやって、ツナイデいるうちに、きっと何かいいことを考え付くんじゃないですか?

まぁ、自分が生きている間のことでも無いので、無責任な言い方に成りますけど、

それしかないような気がしますね。


どっちにしても、トンデモナク先の話でしょうから、こんな言い方もないんですけど、

『おらぁ、宇宙で死にたくないだぁ~』

『頼むから地球で死なせてくれや~!カネならある』

『・・・・スイマセン「カネならある」は嘘です』

という感じのことを、いま、自分のDNAに刻み込んでいるところです。

『カネならある』の部分は削除しました。


これで、たぶん大丈夫かな?

とは思えませんけどね。




「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」

現代の絵画は

「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」という二つの路線に、

かなりクッキリと別れてしまっていると思うわけです。

 ※この記事は「美術館で芸術を見る」という前提で描いていますが、
  私自身は「芸術が創り出す幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、
  「日常空間」の中に「非日常空間」を生み出すことが出来れば、そ
  れが理想的だと思っております。

要するに、「家に飾るような絵」と「美術館で見るような絵」と言うことになるわけですが、

この二つは、「インテリアとしての絵」と「芸術表現としての絵」と言ってもいいと思います。

これをさらに言い換えれば、

「何の気なしに見ても疲れない絵」と「見るとチョトつかれる絵」と言うことになります。


この二つが、別れてしまっていることは、ある程度仕方がないことだと思うのです。

やっぱり、目的が違うというところがあるわけですし、

目的が違うものは、別れていたほうがイイような気もします。
(やや、離れ過ぎのような気もしますけど)


しかし、この「二種類の絵」が、実際には「違うもの」に成っているのに、

混同されていることが非常に多いと思うわけです。


これは、「芸術」や「絵画」の歴史を考えれば当然のことで、

もともと「絵画」は「インテリア」などの装飾品の一種として成り立ってきたわけで、

そこから、徐々に「芸術(表現)」としての性質を持つようになっていったのでしょうから、

ある時点から、突然「芸術」に成ったということでは無いわけで、

「芸術性」を持つようになった後も、長い間「インテリア性」を同時に要求され続けてきたわけです。


それが、「芸術の20世紀」に入ったころからは、

「絵画」などに「純粋な芸術性」が求められるようになっていったことで、

徐々に「インテリア性から離れた絵」が現れてきたんだと思います。

と言っても、「インテリア性から離れた絵」が出てきた後も、

「インテリアとしての絵」は存在し続けるわけですし、需要もあるわけですから、

当然高く評価されるものも出てくるわけで、

現在に至るまで、常に「芸術の流行」は

この「二種類の絵」の間を行ったり来たりしてきたと言ってもいいと思います。


まぁ、そんな状態ですから、この「二種類の絵」が混同されているのも当然と言えば当然ですのことですね。


いずれにしても、この「純粋な芸術性」という需要を満たすために、

「美術館」と言う「非日常的な空間」が、一般化していったんでしょう。


そして、こんどは、その建てられた「美術館」に見合うような「作品」が、

「創作者」の側に要求されるようになっていったというわけです。


その後は、「美術館」が巨大化すれば、その「巨大化した美術館」に見合う「作品」が、

「美術館」が近代化すれば、そういう「近代的な空間」に見合うような「作品」が

要求されるようになっていくという状況に成っているともいえるわけです。


つまり、もう「芸術」が主導しているのではなく、「メディア」が主導しているというくらいで、
(これは、「美術館」に限らず、「画廊」でも「マスコミ」でも同じようなことが言えると思います)

「芸術」は、それに合わせてついて行くのに精いっぱいというような状態と言えば言い過ぎかもしれませんが、

「創作者」が「メディア側の要求」に影響されている、

あるいは、「メディア側の期待」に応えた「創作者」が生き残っていくというのは事実でしょう。


そして、この「メディア側の判断」が、やや「客観性」や「純粋性」を欠いている場合があるわけです。


もともと「純粋な芸術性」という需要を満たすべく建てられた「美術館」であったハズが、

その「美術館」によって「芸術の純粋性」が損なわれようとしているというところがあるわけです。


「インテリアとしての絵」に「芸術の純粋性」を求めるのには、もともと無理があるでしょうし、
(目的からして違うわけですから)

「芸術表現としての絵」は「非日常空間を必要としますから、

そういう空間を運営している「メディア」の影響を避けられません。

そうなると、どちらにも「純粋な芸術」は無く成ってしまうわけです。


「美術館」はもう少し「開かれた空間」であってもイイように思います。

「無選別の作品」を展示するような日があってもいいと思いますし、

価値の確定していない作品を買い上げる勇気を持つべきだと思います。


その為には、「美術館」が「新たな市場」を創り出す必要があります。

閉鎖的になっている「絵画市場」をオープンにして行くためにも、

「美術館」のような公共性を持った機関が「新たな市場」を作り上げる必要があると思います。


また、「キュレーター」や「学芸員」と言った考え方も変えていった方がイイんじゃないでしょうか?

高額な有名作品を買うよりも、安い「価値の確定していない作品」をたくさん保有して、

ランダムに展示していくという考え方であれば、専門知識を持っていない人間が選んでも問題ないわけで、

ある程度のレベルにある作品をたくさん展示するというやり方もあっていいように思います。


選別の規準は「非日常空間で見る絵」ですね。
(絵に限りませんけどね)

この規準で選んでいないからツマラナクなるんだと思います。

この規準を打ち出すだけでかなり面白くなると思いますよ。

まぁ、ツマラナイ時も多いでしょうけどね。

それは、有名な画家の展示でも同じでしょ?


少なくとも、そういう「ハズレ」を楽しむっていうのも「芸術的な視点」なんじゃないのかなと。

いや、それどころか「ハズレ」こそが、実は最も「非日常的」と言ってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

※ここに書いたことは「芸術の現状」を踏まえた上でのことで、私個人といたしましては、「日常的な空間」の中に「非日常的な芸術」(これを「幻想」と言ってもいいと思います)が持ち込まれるように成ることや、そういうことが常識になっていくことを希望しておりますです。ハイ。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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