FC2ブログ

「多数決」と言う「催眠術」

このブログでも何度か書いたんですけど、

現在「多数決」というシステムはまったく機能していないと思うわけです。


とにかく、国会議員の選挙から家族会議に至るまで、

「多数決」というシステムがうまく機能していることがほとんどないと言ってもいいくらいに、

全く役に立っていないというのが実体じゃないでしょうか?


そして、更に言うと「多数決」が最もおかしな方向に迷走した場合、

「多数決」は人間に対して「催眠術」のような作用を持ってしまうのではないかと思うわけです。


要するに、自分たちで決めているので、

どんなに納得のいかない結果が出てきても、従うしかないということに成ってしまうわけなのです。


そして、そのようなことが繰り返されていくうちに、

『多数決には従わなければいけない』という定型文が、呪文のような作用を持つようになって、

『みんなで決めたことですから』と言われてしまうと、どんな人も逆らえなくなって、

最終的には、「誰一人望んでもいないことを全員一丸となってやり続ける」という、

まさに、戦前の日本が陥っていった落とし穴に、世界中がハマってしまっているというように思うのです。


戦前の日本とは全く正反対の「多数決・民主主義」をやっているハズなのにです。


なぜ自分たちで決めたことなのに「そんなこと」になってしまうのかと言えば、

「多数決が機能していないから」

いや、「多数決が催眠術のように機能してしまっているから」としか言いようがないわけです。


これを、最も単純化して言うならば、

「多数決が大規模な社会には向いていない」ということなんじゃないかと思います。


現代社会のような「大規模な社会」においては、

全員がお互いのことを知り合うことも、全員が納得いくまで意見を交換することも不可能です。

そこで、どうしても代表者を介して意見が交わされるという形をとるようになるわけです。


そういうことが次から次へと伝言ゲームのように成って、

結果的には「トンデモナイ結論」が導き出されてしまうわけです。


例えばの話、マスゾエさんが「あんな人」だということを、

一千万人を超える都民全員が、都知事選の前に知ることは不可能ですし、

彼に投票した人は、『テレビで見てなんとなく頭のよさそうな人だったから』とか、

『親の介護とかやってて苦労した人らしい?』という程度のことで投票しているにすぎないわけです。
(その話自体も怪しいらしいですけどね)

・・・・・いい結果が出るワケがありません。


でも、それが現在の「多数決・民主主義」の実体でもあります。

国家元首でさえ、元をたどれば、全てこのようなシステムの下に選ばれているわけで、

言ってみれば、バイトの採用面接で、イイカゲンに書かれた履歴書一枚で、

『まっ、いいんじゃね?採用で』というぐらいの適当さが、国の最高機関にまで及んでいるということですね。


実際には、このようなことは「大規模な社会」だけのことでも無くて、

家族会議などの「小規模な社会」においても

『全員が納得いくまで意見を交換する』という前提が成り立っていなければ同じことで、

けっきょく『まっ、いいんじゃね?』の部分はまったく変わらないわけです。

そして、現代人は「大規模な社会」の中で

『まっ、いいんじゃね?』に慣れきってしまっていますから、

『全員が納得いくまで意見を交換する』ということをメンドクサイと感じるようになっていて、

それで、「小規模な社会」でも「多数決」は機能しなくなっているわけです。


実際、テレビや新聞と言ったマスコミが提供できる情報は、

自己申告の履歴書とそう大差はないわけで、

一般市民はいつもその「イイカゲンに書かれた履歴書」をもとに多数決に参加させられているわけです。


そして、「多数決」が決した後は、「みんなで決めたことだから」という呪文によって、

催眠状態になってしまうために、

「スキャンダル」や「よほどひどい失態」という「催眠術を解くための合図」が出されるまで、

それを「全員一丸となってやり続ける」というわけです。


「多数決」に依っている限り、この状態は絶対に抜けられないと思いますね。

とにかく、「形だけの全員参加」をやめる必要があるでしょう。

大規模な社会において、頑なに「全員参加」を守ろうとすると、必ず「伝言ゲーム」が始まります。


人数を絞って、「少人数の中での多数決」を、

徹底した意見交換の中から導き出すようなシステムを創り出す必要があると思うわけです。

当然、このやり方でも「おかしな結論」は多々出て来るでしょうが、

数をこなしていくうちに、徐々に修正されていくと思いますね。

※これは、長年「陪審員制度」が機能し続けていることで、ある程度実証されて
いると思います。逆に裁判で国民全員や地域全員参加の多数決で判決を下す
としたらどうなるでしょうね?そういう裁判に自分がかけられることを考えてみれ
ば、それが如何に恐ろしいことかがわかると思います。(でも、国家的規模で毎
日その「恐ろしいこと」をやっているわけですけどね)


まぁ、いずれにしても、「多数決を疑ってみる視点」を持つことは損にはならないと思います。

そして、その「視点」で世の中を見ると、

「現在の多数決」が如何に「おかしな結論」を導き出していることが多いかということが、

見えて来るんじゃないのかなと。

っていうか、「誰も賛成してない多数決」って「多数決」って言えるんですか?

『まぁ、いいんじゃね?』は、

そんなに「賛成」でもないような気がするぅ?


そんな風に思っちゃったりするぅ?



「芸術の20世紀」と言う「洗脳」

このブログは「芸術の20世紀喪失宣言」というタイトルなんですが、
(この前まで、もっと長かったんですが最近になって短くしました)

なんで「20世紀喪失」なんて言うことをやっているかと言えば、

『受け入れられなくなったから』ということなわけです。


つまり、「芸術の」の部分を抜きにしたとしても、

私は「20世紀」という「時代」を受け入れがたいと思っているわけです。

そして、その「20世紀」の発端にあるのが「芸術の20世紀」だと思っているわけなんです。


なんで受け入れられないのか?というと、「オカシイこと」が多すぎるからです。

もちろん、いつの時代にも「オカシイこと」なんて山ほどあるでしょうが、

「20世紀のオカシサ」は別格だと思うのです。


たとえば「20世紀」以前の時代は、封建的で身分の格差なんかも大きかったわけですから、

そういった意味で「20世紀」はずいぶん良くなっているわけですし、

いろいろな文明の利器も開発されて科学も進歩していますから、

『「いいこと尽くし」じゃないか!』ということに成るはずなんでしょうが、

なぜかそう成っているようには思えないということです。


間違いなく、進歩していますし、間違いなく、発展しています。

これだけ「いいこと尽くし」なのに良く成らないとすれば、

『ナニカ決定的に足りないことがあるんじゃないか?』と思うわけです。


私は「20世紀以前」と「20世紀以降」の決定的的なチガイは、

「人間が置き去りにされるようになったこと」だと思うわけです。


つまり、人間が創っているはずの「時代」に人間自身が置いて行かれるようになってしまったわけです。


「20世紀以前」の「オカシイこと」は、ほとんど、「人間がまだその程度だった」ということだったと思います。

要するに、人間が「発展途上」の部分に「オカシイこと」があったわけですね。

こういうのについては、「ある程度諦めるしかない」と思えるわけです。


要するに、その後、人間が進歩した分だけ「オカシイこと」が少なく成っていくハズだったわけですね。


ところが、そうは成らずに、20世紀以降になってからは、

「オカシイこと」が、「発展途上」の部分だけではなく、

明らかに「成熟した部分」においても、頻繁に「オカシイこと」が現れて来ます。


たとえば、非常に高度に発達した医療において、最も多く達成されているのは、

『人間の「不健康で不幸福な時間」をより長く伸ばすことだ』と言えば言い過ぎに成るでしょうか?

でも、たとえ言い過ぎだとしても、ある程度は事実でもあります。


確かに「医療」は高度に発達して成熟しているわけですし、

その結果『人間の「平均寿命」は伸びた』と言うことは出来るわけですが、

その場合の「平均寿命」を「健康寿命」に置き換えた場合どうなんでしょうか?


『いや、それでも伸びているだろう!』

そうかもしれませんが、少なくともただ単に「平均寿命」で比べた場合よりも、

かなりその差は縮まってしまうんじゃないでしょうか?

その「差が縮まった部分」というのが「不健康寿命」の長さなわけです。

それは、ほぼ「不幸福期間の長さ」でもあるわけです。


もしも、このようなことがあるとすれば、「長生き」と引き換えに「不幸」も手に入れてしまっているわけで、

得したのか損したのかよくわかりませんね。


こういう「オカシイこと」は「20世紀以降」になってからずいぶん増えているように思いますね。


そして、さらに「オカシイこと」には、

そういうことが「オカシイこと」だと自覚している人が非常に少ないわけです。


私は、これを一種の「洗脳」だと思うのです。

おそらくは、マスコミによる影響が最も大きいでしょうね。
(教育も大きいですけど)

とにかく、現代人にとって、マスコミが流した情報は絶対的で逆らえないモノに成っているわけです。


それが、「洗脳」された状態の人と同じくらいに成っているように思えるわけです。


でも、「洗脳」されてますから、誰も気が付きませんし、認めません。

そして社会全体が「洗脳」状態なので、それを修正する人が居ないわけです。

これが「20世紀以降」の「オカシイこと」の「オカシサ」なんだと思います。


「20世紀」までは、そういう「オカシサ」を「長足的な進歩・発展」によってカバーしてきました。

でも、「進歩・発展」がやや頭打ちの状態を迎えた現在に成って、

その「オカシサ」が浮き彫りになって来ているわけです。

それで「受け入れられなくなった」と言うわけですね。私の場合は。



さて、ここで『なんで、芸術なのか?』ということです。

それは、「20世紀の芸術」には、「オカシイこと」が圧倒的に多いからです。

というよりも、むしろ、「オカシイこと」こそが「芸術的であること」と思われているようなところもあります。


これが「芸術の20世紀」における「オカシサ」の特異な部分です。

つまり、「オカシイこと」こそが「芸術の本質」であるかのような

すり替えが出来上がってしまっているわけですね。


これは「芸術」における「オリジナリティ」と関係があると思います。


「芸術の20世紀」においては、

「オリジナリティ」こそが「芸術性」であると考えられていたところがありますから、

当然、それを追いかけることには、皆が必死だったわけでしょう。

そこで、「オリジナリティ」について、

「自分であること」ではなく「他人と同じでないこと」と考えられてしまったことが

「オカシイこと」の始まりだったのかもしれません。


「オリジナリティ」が「自分であること」であれば問題はなかったのかも知れませんが、

「他人と同じでないこと」としてしまったために、逆に「自分であること」が踏み倒されてしまったわけです。

つまり、「自分であること」をソッチノケで「他人と同じでないこと」を

やらなければならなくなってしまったということです。


結果的に「オカシイこと」が次から次へと生み出されていくことに成って、
(「オカシイこと」であればあるほど「誰もやってない」可能性が高いわけです)

それが、更に、マスコミに乗ってしまうと「洗脳」に成って、

誰も逆らえなくなっていきますから、もう、誰にも止められません。


現に今でも、その当時生みだされた「オカシイこと」が、ウヤウヤシク美術館に展示されていたりします。

現在の視点で見て、明らかに「オカシイ・モノ」でも、誰にも止められません。

刷り込まれてしまっていますから、そう簡単には戻れないわけです。

それが「洗脳」と言うモノなんでしょうね。


そして、そういう「芸術」が生み出した「オカシイ感覚」が

社会全般に徐々に普及していったんだと思うわけです。


まぁ、これを読んでいる人なんかでも、

『そんなことは無いだろう?いくらなんでも言い過ぎだろう!』と言う人がほとんどでしょうね。

「時代による洗脳」ですから、そこから抜けられるのは、私のような「底抜け脱線人間」くらいです。

「マトモな人」ほど抜けにくいと思います。


あとは、「キーワード」や「合図」が必要なのかも知れません。

催眠術を解く時に「パチンッ!」と指を鳴らす「アレ」ですね。

そういう「合図」に成るようなものに、たまたま気づいた人が抜けられると思います。


まぁ、社会がこの「洗脳状態」から抜け出さないと、全てのことが始まらないと思いますが、

どっちみちいつかは抜け出すのでしょうから、出来れば早い方がイイと思うんですけど、

それがいつに成るかはわからないので、何ともやりきれない気持ちなわけですね。


「芸術」が一歩先を行っているのはいいことなのかも知れませんけど、

「オカシイこと」まで先を行ってしまっているのはどんなもんなんでしょうか?と。


そんな風に思いながらやってるわけですね。




「技術的達成」と「努力的達成」

「達成」には「技術的達成」と「努力的達成」があると思うわけです。

      ※ここでの分け方としては、「練習して上達すること」は「努力的達成」で、
        「その上達した技術で試合に勝つこと」が「技術的達成」と言う感じです。

        これ、言葉としては”ややズレてる”と思うんですけど、他にイイ言葉が
        思いつきませんでした。

そこで、どちらの方がより嬉しいんだろうか?と考えてみたわけです。


結論から言うと、私の場合「努力的達成」の方が「嬉しい」ような気がしますね。

つまり、試合に勝ったり、人から評価されるよりも、

誰もいないところで一人で練習していて「出来なかったこと」が「出来るように成った瞬間」が

「嬉しいの頂点」であるような気がするわけですね。


「すでに出来るのがわかっていること」で勝ったとしても、『そうでもない』ということです。


こう言うと『またまたぁ、本当は勝った時が一番嬉しいんでしょう?』と言われそうですけどね。

これは、言い方を変えると伝わりやすいんじゃないかと思います。

「勝てるとわかってる相手に勝った時」と「勝てそうもない相手に勝った時」でどっちが嬉しいか?

だったら、やっぱり「勝てそうもない相手に勝った時」なんじゃないですか?


「勝てるとわかってる相手に勝つこと」の方がより「技術的達成度」が高いということです。

「勝てそうもない相手に勝った時」と言うのは、相手よりも「まだ技術が未熟」ということでしょうから、

「技術的達成度」としては低く成るわけですね。

一見「努力的」とも少し違うように見えるんですが、

技術が未熟な者が勝つには「どこかで努力するしかない」わけですから、

「努力的達成」と言うことに成るんじゃないかと思うわけです。

その試合の中でナニカを習得した部分があったんだろうというようなことですね。
(それが技術とも限りませんけどね)


これ、なかなか伝わりにくいような気もするんですけど、

「とってもムズカシイことが出来たときの喜び」も確かにありますけど、

「すごく単純なことを延々とやり続けて『ついに終わったぁー!』っていう喜び」もありますよね。
(この場合は、両方とも「努力的達成」なんですけど、「ムズカシイこと」よりも「単純なこと」のほうが
 より「努力的」に成るということです)

『そっちの方が好きっ!』っていう人もそれなりに居るんじゃないかと思います。


そんなわけで、「芸術」においても「技術的達成」を切り捨てて、「努力的達成」を目指しております。

まぁ、たまには「技術的達成」も欲しくなりますけどね。

どっちを取るか?と言った場合は「努力的達成」を取るでしょうね。


じゃないと、けっきょく「嬉しいの頂点」が見られませんから。

やっぱり、どうせだったら「一番嬉しい」がイイじゃないですかと。


そんな風に思ってやっているわけですね。




「芸術」は「捨て石」によって創られる?

「芸術」と言うのは「捨て石」の数で創られていくところがあると思うのです。


たとえば、一人の作家の中で言えば、

駄作とまでは言わなくても「いま一歩」な作品や「ナニカが足りない」作品をたくさん描いているうちに、

いつしか「ヤッター!」な作品が出来るということはあると思うわけです。


まぁ、私の場合だと「これ、もしかしてヤッタんじゃね?」(オマエは若者かっ!)な作品ぐらいですが、

それでも、時々は『もしかしてイイんじゃないの?これ』

『いや、イイでしょう間違いなく、これは』

ということはあるものです。


かと言って、次からもそういう作品ができるのか?と言うとそんなことでも無く、

また、「いま一歩」や「ナニカが足りない」を繰り返していくわけです。


そういう「捨て石」が「芸術」を創っているところはあると思います。


これは、一人の作家の中に限ったことでも無くて、

その時代に居る人の中で「捨て石」に成る人が居て、

はじめて「時代の芸術」が形成されていくような気がします。


そして、これもやはり一定数を超えたときに新しい流れが生まれて来るということだと思います。


そう考えれば、自分も”少しは”「芸術」に貢献しているのかな?と言う気に成れたりもします。

でも、こういうことが実はとても大事なことのような気もします。

そう考えれば、自分も”たくさん”「芸術」に貢献しレいるのかな?と言う気に成れたりもします。


『よっしゃ、バンバン「イマイチ作品」を描こうじゃないか!』

『いや、あなたの場合いつも通りで大丈夫ですよ』

『アッハハハ・・・・ん?』

と言う感じ。




「長い題」:詩のような題

絵に「長い題」をつけようと思うように成ったのは、このブログをやっていたからじゃないかと思います。

今後も、自分の絵に「詩のような題」をつけていきたいと思っています。

  ※この記事を書いた時点で、既に「長い題」(その1~4)までを
   このブログに投稿しています。


絵があって、それに対応した「題」をつける場合もありますし、

「題」が先行していることもあります。
(むしろ、そういうパターンの方が多くなっているくらいです)

ただ、今のところ「題」に合わせた「絵」を描こうとは思っていません。

今後は、そういうパターンも出て来るかも知れませんけどね。


取り敢えず、「絵の意味」が見た人に少しでも伝わるようにしたいわけでわけすが、

なかなか、そう簡単には伝わりませんから、

せめて、『伝えたいんです!』ということだけでも伝わればと思って、これをやっております。


『詩のような』と言っても「詩」ではありません。

あくまで「題」です。

ただ、そこに「意味」を持たせたかったわけです。


はじめのうちは、単に「長い題」と言っていたんですが、

だんだん「意味性」が強くなってきた感じがするので、「詩のような題」=「詩題」と呼ぶことにいたしました。


そんなわけで、「詩題」=「ポエティック・タイトル」です。




「長い題」=詩のような題(その1)

先日このブログの記事で、「無題と言う題」はなるべくなら使いたくないので、「秘題」という考え方をしていきたいというようなことを書いたので、それとは、やや反対方向の話に成ってしまうんですが、ここでは「長い題」について考えてみました。

  ※「秘題」と言うのは「テーマ」=「タイトル」=「題」がないわけではなく、
   でも、それを言葉にするのは難しいので、『題はあるけど隠されて
   いる』というような意味です。
   これも「姿勢」としては持ち続けていきたいと思っています。

「長い題」と言っても、ただ単に”「題」が長い”というのではなく、どちらかと言うと、「文章」としてある程度の独立した内容を持った「題」と言うことです。

イメージとしては「詩」に近いと思います。

必ずしも「絵」の内容と一致しているということではなく、それでいて「絵」ともつながりを感じるような、そういう「文章(詩)」を「題」として考えているわけですね。

私の場合は、このことに限らず、いろいろな方向からの「芸術の多重化」と言うのを考えているので、このようなことをついつい考えてしまうというわけなのです。

と言っても、「絵」がなかったら、なにを言っているのかサッパリわかりまヘンやろから、ここから先を読む方は、その点、十分覚悟してお読みくださいまし。

『・・・・さてと・・・読む人がほとんどいなくなったところで』

もともと、この「長い題」の発想は「額」からきています。
私は、「芸術」は「多重化」していく方向に向かうしかないと思っているので、いろいろな意味での「多重化」を考えていて、その一つが「額と絵の間の多重化」なんですが、「多重化」の中で、比較的難易度が高いのが「美術」と「言葉」との間の「多重化」だと思うわけです。

でも、もともとあった「額と絵の間の多重化」という考えの中で、「額」を使えば、「絵と言葉の間の多重化」も行けるんじゃないかと思っていたわけです。

「美術」は「視覚的な芸術」ですから、視覚的な表現を含まない「言葉」とはギャップが大きすぎて、「多重化」することが「わざとらしさ」になってしまうような気がするわけですね。
(これは「音楽」などの「音響表現」にも言えることかもしれません。そちらはまだ考えてませんけど)

たとえば「絵」の中に文字が書き込まれていることがありますけど、その「言葉」に意味があればあるほど、どうしても、『純粋な絵と言えるのか?』というような「違和感」が出てきてしまうと思います。

そこで、『額になら文字を入れてもいいんじゃないか?』と思ったわけです。

当初は、「額」に着色する予定でしたから、その塗装に紛れたような形で、『読もうとすれば読めるけど、敢えて読もうとしなければ「額の塗装」に見える』と言うような、そんな感じで「文章」を入れてみようかなと思っていたわけです。
(これも一種の「秘題」ですね)

ところが、実際に「額」を作ってみたら、そんな余裕は木っ端みじんに吹き飛んでしまって、とても塗装まで辿り付けずに現在に至る、というところです。

しかも、その過程で、「額」自体の構想がどんどん「多重化」していって、「文章」の入り込む余地はもう無く成ってしまいました。

それで、しばらくの間「言葉との多重化」については、ホッタラカシにしていたんですね。
でも、ある時、描いていてどうしても気に入らない絵があって、その絵は、ボツにしようと思っていたんですが、なぜか、その絵の「題」だけが唐突に浮かんで来たということがあって、その「題」が「長い題」だったというわけです。

その「長い題」は「手紙」のようなもので、十数行ほどの文でできていました。
その「手紙みたいな題」っていうのが、気に入ったので、『こういう感じも悪くないんじゃないの?』と思うようになったというわけです。

でも、いくら「題」が気に入っても、絵は気に入らないままだったので、他の絵にも「長い題」を考えたんですが、そういう「手紙みたいな題」は、今のところ出来ていません。

まぁ、それでも二十数編ほどの「詩」のような「題」が出来ています。

なんとなく、これらも気に入っています。
何よりも、悩まないのがいいですね。

私の場合「抽象画」に「題」をつけようとすると悩んでしまうんですねぇ。
『抽象は題がつけられちゃダメなんじゃないか?』みたいなところから抜け出せなくなるわけです。
ところが、独立した「詩」だと思うと、意外と悩まずに思い着くんですね。
そして、その思いついたことが割とスンナリと「文」に成るわけです。

こんな事を言うと「詩」を真面目に書いている人には怒られてしまうんでしょうが、「文学」として「詩」をやろうと思っているわけでもないので、そんなにこだわらずに、書きっぱなしでもさほど気に成らないので、気が楽です。
(気が付くとけっこう直したりしてますけどね)

さて、このまま終わるのは、さすがに気が引けるので、最後に「長い題」の例を挙げておきます。
これらの「題」は必ずしも一つの絵に一つの「題」と言うことではなく、
入れ替え可能な場合もあると思っています。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」のようなものだと思ってください。

それから、最後のが最初に思いついた「手紙みたいな題」です。
その絵はいまだに気に入らないので今のところボツですね。
「題」だけ残っちゃいました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひかりとは

ひかりとは いったいなになのか


すべてのものを みえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


すべてのいろを みえさせて

すべてのかたちも みえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


すべてのかげを つくりだし 

すべてのかげを きえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


ぼくのなかを てらしだし 

きみのなかも てらしだす


あぁ ひかりとは 

そんなひかりとは いったいなになのか


『それがしりたい』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

くらくて どんよりしているけど

これは 『きぼう』を えがいたえなんだ

だから あおときいろのわくが えのなかで おどっているだろ


そのせいで このえが かえってくらくみえるとしても

それは ぼくのせいじゃないし もちろん きみのせいでもない


それは みんなのせいなんだ 


そのみんなって だれなんだろう

このえのなかには きみと ぼくしか いないというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もえるような いろ

もえるような くうき

もえるような せかい

じかんも くうかんも ほかのものも みんな もえつくしてしまう


そんないろ


そんないろに さわったら こおるほどつめたかった


もえるように つめたいいろ

そんないろが

えのなかでは 『ちょうどいい いろ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは うつくしい


しんじられないことだけど

すべてのものは うつくしい


しんじられないことだけど

すべてのひとは うつくしい


しんじられないことだけど  


『それが ほんとうのこと』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみは このえに なにをみるのか?
 

このえに なにかが かいてあるわけじゃない

きみがみたものは きっと きみがかいたんだ

きみが すばらしいとおもうとき それは きみがかいたえだ

きみが つまらないとおもうとき それも きみがかいたえだ


いま きみは

このえのなかに 『なにかを みつけださなければならない』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もしもあなたが しょくぶつだと おもわないで みたとして
      
もしもあなたが ひとだと おもわないで みたとして

もしもあなたが くうきやひかりだと おもわないで みたとして

それでも なにかが つたわるでしょうか


それでは
 
『ひとや しょくぶつや ひかりやくうき』として みたなら どうですか


それでは

もしもあなたが あおとしろの わくをとおして 
  
このえのなかに はいって みたなら どうでしょうか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この さびついてしまった ふうけいをみてくれ


うみも そらも じめんも うずをまきながら ながれこんでいるものも

すべてのものが さびついてしまっている

これを ふうけいというのだろうか


こんなところには ぜったいに いきたくない


でも えのなかだったら 

『いってみたいと おもう ばしょ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ゴッホへのてがみ』


ヴィンセント 

きみのえが ふつうになったよ

おかげで ぼくたちは こんなにじゆうになれたんだ 

ありがとう


ぼくたちも まだ なにかに しばられているけど 

あとひゃくねんもしたら みんな またすこし じゆうになれるとおもうんだ 

だから ぼくは きみよりも すこしじゆうなきもちで しんでいけそうだよ
 

もういちどいうよ

ありがとう ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

そして もうひとりのゴッホへ 

もっともっと たくさんのゴッホたちへ


これは きみたちのえだ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ついしん : ぼくは もうすこしちがうえを さがしにいこうとおもっている

        ぼくも ひゃくねんごの だれかから 

        こんなてがみを もらいたいから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと、文学的には、オソマツな詩なんでしょうが、自分では気に入っています。
たぶん、足りないくらいで丁度いいんだと思います。

このスタイルの「題」でいこうと思っています。



「不変であること」と「普遍であること」

「普遍」と「不変」の違いって、けっこう見過ごされているような気がするんですね。

おんなじ「ふへん」だし、場合によっては意味も似て来るので、

ほとんど区別しなくなっていることも多いんじゃないかと思います。


要するに「不変」と「普遍」は持っている雰囲気が似ている言葉なんだと思います。

でも、場合によっては、かなり意味が違ってくるんですね。


「不変」の方は、読んで字のごとく「変わらないこと」なわけですから、

それ以上むずかしく考えることもないんでしょうが、

問題は「普遍」の方でしょうね。


「普遍」の意味が解りにくいんですね。

しかも、範囲が曖昧で意味の幅が広いので、漠然としたイメージに成りがちなんだと思います。


たとえば、「芸術」においても「普遍的な作品」と言うような言い方をすることがとても多いわけですが、

その「普遍的」が「時代を通しての普遍性」を意味するのか、

それとも、一つの時代の中で「より多くの人に受け入れられるという普遍性」を意味するのか、

そこのところが説明されずに、ただ単に「普遍的な作品」と言われていることがほとんどだと思います。

それで、発音が同じで、尚且つ、意味も似ている「不変」と同じような扱いになってしまうんだと思います。


つまり、「時代を通しての普遍性」という意味だけが強調されてしまうということですね。

確かに、その場合は、「変わらないこと」と同じ意味に見えるわけです。

ところが、「時代を通しての普遍性」と「不変であること」も同じ意味というわけではないと思うんですね。


要するに、「普遍」は「変わらないこと」とは言っても、「モノが変わらないこと」ではなく、

「価値が変わらないこと」を意味する言葉なんだと思います。

それに対して「不変」の方は、基本的には「モノが変わらないこと」ということなんでしょう。

「モノ以外」についていうときには、それについての説明を付け加えられることが多いと思います。

たぶん、だからわかりやすいんでしょうね。


それとは逆に、「普遍」の意味が曖昧になるのは、

そういう説明がなく「普遍性」や「普遍的」という言葉を使ってしまうことが多いからなんじゃないかと思います。


ということで、本日の結論といたしましては、

「不変」は「モノが変わらないこと」であり、「普遍」は「価値が変わらないこと」である。

そして、「普遍」を使うときには、”ナニについて”「価値が変わらない」と言っているのかを説明した方が
(「多くの人に対して同じ価値がある」とか、「多くの時代において同じ価値がある」とか)

少しイイかな?と。

そんな風に思っております。


『これはナニ?!・・・・・たわごと??』

『ええ』

「美しいこと」と「醜いこと」

「芸術」をやっていたりすると、「美しいこと」っていうのは、

いったい、どこで決まっているんだろうか?と思ってしまうわけなのです。


「美しいこと」と「醜いこと」を分けている「モト」に成っている要素が知りたいなと思うわけですね。


私の場合は、基本的に「そのモノの本質に近いこと」は「美しいこと」だと思っているんですけど、

それを人間に当てはめて考えると「本能」が一番人間の本質に近いようにも思えるわけです。

でも、人間の場合はその辺のところがやや複雑化していて、

人間の中に「動物的な本能」と「人間的な本能」が、相反する形で存在しているように思うわけです。

      ※この場合の「人間的な本能」は、後天的なモノも含めていっています。
        後天的なモノを「本能」と呼ぶのか?という問題はあるでしょうが、人
        間の場合は、後天的なモノも「人間の本質」に近いことがとても多い
        ので、これも「一種の本能」だと思っています。


たとえば、動物の場合だと

猛獣が弱い草食動物を殺して食べてしまっても、「大自然の摂理」として

それはそれで「美しいこと」なんだと思いますし、

また、草食動物の方も、猛獣に対して身を寄せ合って逃げ惑う姿というのは

「草食動物のあるべき姿」として「美しいこと」なんだと思うわけです。

       ※ここで食物連鎖の中の順列を使ったのは説明しやすかったからで、
         実際は、同じ種の動物の中でもこれと同じようなことは成り立ってい
         ると思います(強い者がリーダーになるというようなことですね)。


ところが、これをそのまま人間に置き換えると、

どうしても、「弱い者いじめ」とか「卑怯者・臆病者」と言った「美しくないもの」のイメージが

思い浮かんでしまうわけなのです。

そして、そういう感覚も、「人間の本能」であると言わざるを得ないほど

「人間の本質」に近い所に位置を占めてしまっているわけですね。


つまり、その部分が「動物の本能」とは少し違う「人間の本能」なんだと思うのです。


そして、人間の場合、人間の中にある「動物的な本能」と「人間的な本能」を両立させて、

もともと持って生まれた「動物的な本能」に、自分の行動で「人間的な意味」を付け加えることが出来たとき、

それが「美しいこと」に成るんじゃないかと思うわけです。


こういったことを、私は『本能に近く、欲望からは遠い』と言っているんですが、

言い方を変えれば、「人間的な本能」をかなぐり捨ててまで、「動物的な本能」に従った場合、

結果としては「醜いこと」にしかならないということだと思っています。


それは「本能に従っての行動」と言うよりは「欲望に溺れての行動」と言うことに成ると思うわけですね。


「本能」を見失えば「本質」をも失うでしょうし、

「本能」も「欲望」で塗りつぶしてしまえば、「美しいこと」ではなくなってしまうでしょう。

「本能」に「人間的な意味」を与えられれば、「美しいこと」が生みだされるようになるのかなと。


今のところ、そんな風に思っています。




「物語り」が機能しなくなってきていると思うのです

もともと、「物語り」というものは、「人間の行動上の欠点」を補正するために、

人間自身が、果てしなく長い歴史を繰り返す中から作り出した「人間矯正ツール」だと思うわけです。


世界中にある「民話」も「アラビアン・ナイト」も「ギリシャ神話」も、

それどころか、諸々の「宗教の教典」なども含めて、

「すべての物語りという形式」は、この「人間による自己補正機能」という性質を持っていると思うのです。


しかし、現在、その「物語りの機能」が働かなくなってきているんじゃないか?と思うわけなのです。


このことに限らず、私は「芸術の20世紀」において、

「芸術における規定」が破壊されたことの影響があらゆることに及んでいて、

それこそ、ありとあらゆることの「規定」が崩壊しつつあるという風に思うわけです。


「規定」が崩壊してしまうと、「勧善懲悪」や「純愛」や「人情の機微」と言った、

これまで「物語りの王道」であったものがすべて成り立たなくなってしまうわけです。


つまり、「勧善懲悪」を読んでも「わざとらしさ」しか感じられなくなり、

「純愛物語」を読めば「有り得ない」と思うようになり、

「人情味あふれる話」は「ウットーシイから遠ざける」ようになってしまうわけです。


これまでは、なんとかかんとか「物語り作家」たちの四苦八苦の「ストーリー・テリング」によって、

そういった「イワユル王道」にヒネリを加えて、

「王道を外しているようでいて外していないような」という感じの絶妙な位置で

「物語り」を成り立たせてきたんだと思います。

しかし、そろそろ、それも通じなくなってきていて、

作家がせっかくそういう絶妙さで内容のある「物語り」を創作しても、

読む側が、その内容の部分だけを排除して読むようになってきているような気がするわけです。


要するに、その「内容の部分」と言うのが、「物語りの機能」と言うことなんだと思います。


おそらく、「規定」が崩壊した「現実社会」の中で生活している人たちにとって、

「物語り」の中の「人間補正機能」の部分が受け入れられないんだと思います。

一言で言えば、「お説教」のように感じるんでしょうね。
(まぁ、「人間矯正ツール」なわけですから、「お説教」でもあるんでしょうね)


「現実社会」では「規定」が崩壊しつつありますから、

そこで生活している人たちは、当然その余波を受けているわけで、

そこでは、「勧善懲悪」も「純愛」も通りませんし、

ましてや「人情」などは粉々に破壊されてしまって、

『本当に、そんなものがかつて存在していたのか?』というようなありさまですから、

いくら「物語り」の中とは言え、そういうものを「有り得ない」と思うのは当たり前でしょう。


でも、そこを「補正」してきたのが「物語りの機能」だったわけですから、

現実では有り得ないことでも「物語り」の中で読むと、それが有り得るような気がしてきて、

結果的に「人間の行動上の欠点」が補正されてきたわけです。


でも、現在の社会にドップリとつかって生きている人たちにとっては、

もはや、そんなおおらかな気持ちはなく、

『取り敢えず見たくないものは見ない』という方を選択する人がだいぶ増えているように思います。


そして、そういう読者の姿勢が「物語り作家」の側にも反映してきていて、

結果的に「作家」の側も「補正機能」を排除した「物語り」を

書くようになってきていると言えば言い過ぎでしょうか?
(無意識にやっている場合が多いとは思いますけど)


この状態を招いたのは「芸術(美術)」の責任だと、私は思っていますが、

「物語り作家」もこの状態を受け入れてはいけないように思うのですがどうなんでしょう?


いま、「物語り作家」は「世の中から嫌われるような物語」を書く必要があると思います。

「作家」は「優等生」や「イイ人」で居てはいけないような気がします。
(「美術」でも同じことが言えると思います)

     ※こう言うと、とくに「美術」に関しては「奇をてらったモノ」を思い浮かべる人が居る
       かも知れませんが、実は今一番”嫌われている”のは「普通のモノ」です。
       
       つまり、現在においては「奇をてらったモノ」や「人の気持ちの裏をかくようなモノ」
       の方が、むしろ、「優等生的」であり「イイ人的」であって、「真っ当なモノ」や「真面
       目なモノ」こそが、最も現代人の感情をサカナデするわけです。

       「人の感情をサカナデすること」を推奨しているわけではなく、「マトモ」を「サカナ
       デ」と感じる状態が異常なわけで、その「異常」に流されることは、「芸術」という
       立場から言えばイイとは言えないだろうというようなことです。
      
そうやって、「現在」に対して苦言を呈することが、「物語りの機能」を有効にして、

その「物語り」を後世に残るようなものにすることにつながるんじゃないのかなと。


そういう風に思いますです。ハイ。




「単焦点画」と「多焦点画」

「絵」には「単焦点画」と「多焦点画」があると思っています。


まず、私が「単焦点画」と「多焦点画」と言っているのには、二通りの意味があって、

一つは、絵を描く側の「単焦点画」と「多焦点画」で、

もう一つは、見る側の「単焦点画」と「多焦点画」です。


描く側の「単焦点画」と「多焦点画」とは、絵の中に複数の「消失点」を設定して描くということです。
(こういうことは構図的にかなり昔から研究されていることだと思います)


たとえば、大きな絵の右端を見る時と左端を見る時では、鑑賞者の視線の角度はかなり違ってきます。

そういう場合に、右端に描き込むものは

右端を見る時の視線の方向に合わせて描くと言うのが「多焦点画」です。

ただ、背景など焦点をずらすのが難しい部分もありますし、

複数の消失点を設定した場合に、そのツナギ目をどう処理するのか?という問題もあるので、

まぁ、そういう意識をもって描くということなりますけどね。


一方、そういうこととは無関係に一つの視点から一つの視線の角度で見た場合だけを考えて描くのが

「単焦点画」だと思っています。


見る側の「単焦点画」と「多焦点画」とは、

そういう「視点」や「視線」の変化を考慮に入れて見るか否かということに成ります。


例えば、「群像図」を見るとき、中央に描かれた主役を中心に見て、

他の人物はあくまで主役を盛り上げるための脇役であると考えれば、
(要するに、そちらの方を注視しないということですね)

それは、その絵を「単焦点画」として見ていることに成りますし、

端の方に描かれた人物にも注意を向けて、

そちらにも一つの独立したストーリーを見出そうとするような見方をするのであれば、

それは、その絵を「多焦点画」として見ているということに成るわけです。


まぁ、実際には「多焦点画」として描かれた絵を見るときは、

鑑賞者の視点が、その絵を「多焦点画」として見る方向に誘導されて

結果的には見る側でも「多焦点的な見方」をするようになるというように、

この双方は一致している場合が多いと思います。


さて、ここで何が言いたいかと言うと、

私の場合は、描く側としても見る側としても「単焦点画」を目指していきたいということなわけです。

先日、「一瞥の力」という記事にも書いたんですけど、

人が「芸術」で感動するときと言うのは、

ほとんどの場合、「一瞬の一瞥」によって感動しているんじゃないかと思うわけです。


要するに、一瞬で「スパンッ!」と入ってきたものですね。


そうなると、やっぱり「単焦点画」の方が適しているように思うわけですね。


もちろん、それでいて長く見ていて視線が彷徨う間も、飽きが来ないのであれば

もう、言うことないと思いますけどね。

その点については、「焦点」とは無関係な、

色や明暗の対比とか、筆触やマチエールの面白さなど、いわゆる「絵のディテール」の部分で、

彷徨う視線を常に楽しませることが出来ればいいんじゃないかと思います。


そちらの話はともかくとして、

とにかく、「一瞬で見る人の中に入って行けるような絵」を目指しているわけです。

そして、そうなると、絵があまり大きくない方がイイと言うことが出てくるわけです。


先ほどの「多焦点画」についての話からも分かるように、

絵が大きいと、どうしても鑑賞者の視線の角度が大きく変わってしまうということが出てくるわけです。

それから、絵が大きく成ると必然的に絵の中の要素の一つ一つもそれぞれ大きくなりますから、

全体が「群像化」する傾向があるわけです。

そうすると、どうしても鑑賞者の視線が、その一つ一つの要素に留まる傾向があるわけですね。

それで、「一瞬の一瞥」の力が弱くなるような気がするわけです。


単純に言って、人間の左右の瞳の間の距離は、たった数㎝ですから、
(いま自分の目で計ったら6㎝強でした)

その左右の眼の視野の角度を重ね合わせた範囲は、

(個人差があるにしても)それほど広い範囲ではないと思います。


また、人間の眼は焦点を絞って対象物を見ようとするときに、

両眼の視野が重なり合った範囲の中心部分で対象物を捉えようとしますから、

焦点を絞ってみている範囲と言うのはかなり狭い範囲に成りますし、

そういう時に、周りがどの程度の範囲まで見えているかと言えば、

そちらも、あまり広範囲に見えているとは言えないように思います。


と言っても、実際は人間の目の「視野」にはかなり広角な範囲があるのも事実ですから、

ある程度は大きくても問題ないんですが、やはり一定の大きさを超えると、

視線の角度を変えてみるようになると思います。

まぁ、離れて見れば、大きな絵でもあまり視線を動かさないで見ることは出来るわけですが、

それだと、大きい絵を描いた意味がほとんど無く成ってしまうような感じもします。
(大きい絵の方が細部が”見やすい”し”描きやすい”ということはありますが)


いずれにしても、絵が大きいことに、大した意味はないと思っているので、

小さくても力のある絵を描いていきたいと思っているわけです。

そして、それが「一瞬の一瞥の力」を生み出すと思うわけなのです。


いずれにしても、「小さい絵の時代」が来ると思っているので、

それには、この「単焦点画」と「多焦点画」と言うことをある程度意識していたほうがイイんじゃないのかなと。

まぁ、そんなことを思ったわけなのです。



「平等」の「社会的な機能」について

「平等」は、社会的な「正義」とか「道徳」として捉えられることが多いと思いますけど、

実は、「社会的な機能」として捉えた方がわかりやすいし、

本当の意味で「平等」が実現されるためにも、

そういう解釈の仕方をしていった方がイイんじゃないかと思っているわけです。


要するに、『正しいからやる』ではなくて『そっちの方が都合がいいからやる』と言うことです。


今でもまだ、「平等」よりも「不平等」の方が都合がイイという人もいるんでしょうが、

「不平等」は、そういう人たちにとってすら、その人たち自身が思っているほどは

「都合のいいモノ」でもなくなってきていると思うわけですね。


たとえば、「不平等」がお好きな方々にとっては、

「弱者救済」というのは、「都合の悪いモノ」と考えられているのかも知れませんが、

実を言えば、その「弱者」から自分たちが利益を吸い上げていたりもするわけです。


実際、昔から権力者の立場を支えているのは、常に「底辺にある人」なわけで、

「下層」がなければ、「不平等」すらもなりたたないわけです。


そういう「上層」と「下層」の差を少なくして、出来るだけフラットな世の中を作っていこうというのが

「平等」と言うことなんだと思いますけど、

いろいろな意味で「平等」という意識が刷り込まれている現代社会においては、

その「上層」と「下層」の差を、いっそのことなくしてしまった方が

かえって、都合がよくなってきているわけです。


実際、100年も200年も時代を逆戻りしようというのなら別ですが、

現代社会の延長上に未来社会を考えるならば、

もう「平等」という考えを根本から外した社会構造と言うのは有り得ないでしょうから、

少なくとも、「建前上の平等」だけは維持していくことに成るわけです。


そういう状態の中でナントナク誤魔化しながら、「見えない所」で「不平等」を作り出しては、

そこで悪銭を稼ぐというようなことをやってきたのが、現代の権力構造の実体だったような気がします。


ところが、最近になって急激に情報の流通が活性化したために、

「見えない所」がほとんど無く成って来て、「カクレ不平等」を作り出すのが大変になってきたわけですね。

そこから得られる利益よりも、「カクレ不平等」を作り出すために使う手間の方が大きくなってきたわけです。


一昔前ならともかく、ここ十数年くらいのことで言うと、

明らかに、『普通にやっていたほうが「トク」なんじゃないか?』っていうような「カクレ不平等」を
無理に作り出して、一時的に利益を得たとしても、

その後あっという間に、じり貧の状態に陥ってしまうというようなケースが増えていると思います。


『だったら、いっそのこと「平等」にしちゃった方がトクなんじゃないですか?』ってことですよね。


そうは言ってみたものの、そういうことで「平等」が実現しそうもないなと感じてしまうのは

けっきょく、「不平等」がお好きな方々がいるということなんだと思いますね。


つまり、そういう人たちにとっては、ソンしてでも「不平等」な方を選んでしまうわけで、

『なんとしてでも「平等」にしたくない!』ということなんだと思います。


まぁ、言ってみれば彼らにとって「不平等」は「趣味」みたいなものでしょうね。

それどころか、同じ「不平等」でも「カクレ不平等」じゃないとどうも納得できないというような、

「マニア」の方なんかもいらっしゃるようで、

『純粋に好きだからやってるんですよ!』と言われたら、なんと説明したらいいんでしょうね?そういう人には。


さらには、ここにきて、そういった「マニア」の方々の「マニア度」がイッちゃってて、

『この人、最終的にソンしないと気が済まないんじゃないの?』と言う方まであらわれてきているみたいだし、

もう説明しようがないでしょうね、そういう人には。


まぁ、取り敢えず、「不平等」はソンになって来てるみたいですよと。

そんな風に思っているわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR