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「著作権」について



前に、『「著作権」について』という記事を書いたことがあるんですけど、記事を整理していて、間違って削除してしまったので書き直します。

 ※私はこれまでに300件近い記事を削除しているんですねぇ。
  (自分なりに、どうしても恥ずかしくなってしまう記事がたくさんあるので)
  コメントなど入れて頂いた方に、この場を借りてお詫びいたします。

前の記事の細かい内容は覚えていないので、たぶん、前の記事と同じ話には成らないと思いますけど、言いたいことはだいたい同じです。


まず、「著作権」と言うのは、創作者の権利を守るために必要なモノと言うことに成っているわけですけど、私は、芸術に関する限りは「著作権」がそんなに必要なモノでもないんじゃないか?と思うんですね。

あくまで、「純粋な芸術に限って」という話ですけどね。


なんで「著作権」が必要ないのか?と言うと、「芸術」と言うのは「惜しみなく与えられるもの」だと思うからです。
つまり、『出し惜しみしちゃいけないんじゃないの?』というようなことです。
言いかえれば、『金もらわないとやらないんですか?』ということですね。

これを言うと、『そんなこと言ったって、アナタ!』と言われるんでしょうが、やっぱり、私の中の芸術は『金もらわなくてもやりますよ!』なのです。


まぁ、たぶん『自分が売れていないから、そんなこと言えるんだろ!』と思われてしまうんでしょうが、それでも、やっぱり言いますね。
『そんなに「権利」が欲しいなら「芸術」なんてやりませんよ!!』と。

もっと割のいい仕事はあるわけですから、わざわざ一番割の悪い「芸術」なんてやるわけがないと思いませんか?


でも、それじゃあ、なんで、そんな「芸術」をやってる人たちが「著作権」に目の色を変えるんでしょう?

おそらく、それは、「売れる人」と「売れない人」の境遇の差があまりにも激しいからです。
それから、「売れる人」があまりにも少なくて「売れない人」があまりにも多いからだと思います。
まぁ、誰もが、そう思っているでしょうが、その通りだということですね。


とにかく「売れる人」に成ると、いきなり「先生扱い」に成りますし、「売れない人」は「クズ扱い」です。

しかも、「売れる人」は、千人に一人くらいですから(「千人」っていうのはテキトーな数字ですが、アシカラズ)、「売れる人」に成った途端に「権利」を守ろうとするわけです。

それに、自分がそんな「千人に一人」に成ったわけですから、『自分って、スゴイんじゃないの?』と思ってしまうわけですね。
だから、『権利が守られて当然』ということなんでしょう。


みんな口をそろえて、『すべての人の作品が輝いていますよ』なんて言うんですけどね。
それなのに、『売れている人の作品だけが守られるのは当然だ』という「著作権」の設定には、ほとんどの人が、そこに疑問を感じていなかったりもするわけです。

もしも、本当に『すべての人の作品が輝いている』のであれば、超有名作家の作品と、超無名作家の作品は、ほぼ同じ値段で取引されるべきですよね。

そうでないならば、「輝いている作品」と「輝いていない作品」があるということに成ります。


『「輝きの程度」に差があるんだ』ということは出来るでしょうが、「すごく輝いている作品」=〇〇億円、「そこそこ輝いている作品」=0円、というのでは、それを「輝き」と呼ぶことに意味がありません。

「〇〇億円」と「〇億円」ならわかりますけどね。


要するに、『すべての人の作品が輝いています』は「建前」だけということですね。


でも、その「建前」が通るようにした方がイイと思うわけです。
「芸術」の世界だけは、そういう「建前」と「ホンネ」が一致していないといけないように思うわけですね。
じゃないと、そういう「律義なモノ」がどこにも無く成ってしまうと思うのです。


でも、「売れてないモノ」を含めてスベテの権利を守るのは無理なので、「芸術」は「著作権」とは違う形で守られるようになればいいなと思うわけです。


だから、「芸術」が何らかの形で守られるという前提であるならば、『「著作権」なんか要らない!!』と言いたいわけなのです。


守られるべきは「芸術」であって、「芸術家」でも「芸術作品」でもないと思います。
「芸術」を守ったり、育てたりすることこそが必要なことだと思うわけです。

それなのに、「芸術家」や「芸術作品」の権利は守られているのに、「芸術」は守られても育てられてもいないというのが現状だと思います。


そんなことなら、私は「著作権」なんていらないですね。
だから、私の作品をマネしていただいてもかまわないと思っています。

むしろ、うれしいぐらいのモンです。


『オマエの絵なんか、誰もマネしねェーよ!』
という「著作権」の守られ方・・・・・・・もありますけどね。


という風に思っているわけなのです。




「絵の中の時間」



絵の中に「時間」ってあるんでしょうか?
これは人によって考え方がわかれるところだと思います。


過去には、絵の中に「時間」という概念を取り込もうという試みもあったように思いますけど、現在は主流とは言えないでしょう。
やっぱり絵と「時間」はマッチしにくいんじゃないかと思います。


そこで、私の個人的な考え方なんですが、「絵の中の時間」は「静止」であるという風に考えるようにしています。

つまり、前後に「時間の流れ」はあって、『その流れの中の「静止した瞬間」が切り取られている』という捉え方ですね。


これ、言葉で言ってしまうと「あたりまえ」にしか聞こえないと思うんですけど、意外と意識しにくいことのような気もするんですよね。


要するに、「時間」が「有るか・無いか」と言う捉え方に成りがちなんだと思います。
そこを、敢えて「静止」と考えることで、一つの方向性が見えてきたりもするんじゃないかと思うわけです。


私の場合、「モノ」をできるだけ「クッキリと」描きたいと思っているので、「時間の流れ」に伴う「動き」や「移ろい」を出来る限り排除したいという気持ちがあるんですねぇ。

だから、「動きを持ったまま静止している状態」や「移ろい行く寸前の瞬間」と言うような「時間的な静止」を描きたいという気持ちがあるわけです。

そういう「クッキリとした静止」が描きたいんですね。

 ※こういうことを「流動的だが静止している」と言っています


まぁ、言うだけなら簡単ですよね。
実際は、そうウマクはいきませんけどね。


『絵の中の時間は「静止」である』
そういう風に考えることで、一つでも割り切れることがあればいいかなと。


そんな風に思っているわけですね。



「マニアック」と「ポピュラー」の逆転



マニアックな性質のモノとポピュラー性の高いモノだと、一般的には、「今の時代のモノ」が「ポピュラー」で、「古い時代のモノ」や「時代を先行したモノ」というのは、どちらかと言えば「マニア向けなモノ」と言う印象があると思うわけですが、

美術に関しては、この「マニア」と「ポピュラ-」の関係が逆転している場合が多いように思うわけです。


つまり、コンテンポラリーな美術こそが最も「マニアック」で、過去の美術の方が「一般的」=「ポピュラー」であることが多いわけです。


たとえば、「マニア」が多いコインや切手などのコレクションについて言うと、「いま流通しているコイン」や「今使われている切手」はコレクションの対象にはならないことが多いわけです。
(少なくとも主流ではないように思います)
まぁ、はじめから発行数が少ないと決まっているような「記念切手」や「記念コイン」などは、コレクションの対象に成るんでしょうが、
そちらも、やはり「現行の硬貨」とはやや性質が違うものだと思いますので、厳密に言うと、ごく一般的な意味での「今のモノ」ではないような気がします。


つまり、「マニア」と言うのは「実用性」とは関係ない所に惹きつけられるような人なんだと思います。
だから、「今使われているモノ」=「実用的なモノ」よりも、むしろ「もう使われなくなったモノ」=「実用性を失ったモノ」の方に惹かれるんじゃないでしょうか?
(「記念切手」や「記念コイン」も実用性重視ではないという意味では同じだと思います)


これは、必ずしも「切手」や「コイン」に限ったことでも無くて、他のモノでもほとんどの場合、この法則は当てはまるような気がするわけです。

要するに「コレクター」や「マニア」にはそういう性質があるんだと思います。


「芸術」に関しては、「芸術」自体が実用性を求めないジャンルだとも言えますから、「現在形のモノ」が最もマニアックになるのも不思議ではないのかも知れませんし、「現在形の美術」を、すでに「時代を先行しているモノ」であると考えれば、その時点で「今のモノ」ではないということに成るわけで、そういう前提で言えば、「現在形の美術」が「マニア」向けであることは、むしろ当然と言ってもいいことなのかも知れません。


ただ、美術以外の芸術のジャンルだと、必ずしもそう成っていないような気もするので、やはり、「美術」と言うジャンルは、、その点では、やや特殊なんじゃないかとも思うわけなのです。


たとえば「音楽」にしても「演劇」にしても、それぞれ「芸術」の中に含まれる分野であるわけですが、やはり、「現在形のモノ」が最も「ポピュラー」で、「過去のモノ」はどちらかと言えば「マニア」向けと言うようになっていると思います。

「音楽」や「演劇」も実用性を求めるようなものではありませんが、こういった逆転現象はほとんどないと言ってもいいような気がします。


ちがうのは、「音楽」や「演劇」においては、「現在形」=「時代を先行したモノ」ということが、必ずしも主流ではないということだと思います。

「美術」だけが、「時代に先駆けようという意識」が突出して強いように思うわけです。


「時代に先駆けようという意識」が悪いということは無いと思いますけど、それは、あくまで「創作者側の意識の問題」であって、「鑑賞者側」としては、それが本当に「時代を先行したモノ」なのか、それとも、ただ単に「奇をてらったモノ」なのかは、先の時代になってからでないとわからないわけですから、そこに、「不透明感」が生じてしまっているわけです。

この「マニア」と「ポピュラー」の逆転現象における「不透明感」と言うものが、現代美術の在り方を象徴しているようにも思うわけです。


おそらく19世紀半ばくらいまでならば、美術においても「現在形の美術」こそが「最も人気のある美術」であったんだと思います。
ところが、「芸術の20世紀」以降に成ると、「最先端の美術」は、常に「最もマニアックな美術」であって、「最も人気のある美術」ではなくなってしまうわけです。


マニアックな人気というのは、ある意味で「人気のない人気」と言うようなところがあって、「一般的に言うところの人気があるモノ」つまり「ポピュラーなモノ」は「マニアック」ではなくて、「一般的に言ところの人気がないモノ」こそが「マニアック」であるということに成りますから、人気のある所には「マニアックな人気」は無く、人気のない所に「マニアックな人気」があるということに成ってしまうわけです。

そして、何が言いたいかと言うと、この「マニア」と「ポピュラー」の逆転を元に戻した方がイイような気がするわけです。
やっぱり「現在形のモノ」が「一般的に人気のあるモノ」という形に成っていたほうが自然だと思うわけですね。

「現在形のモノ」が「マニアックなモノ」であることに問題があるというよりも、その「マニアックの不透明感」が問題なんだと思います。


この逆転現象を元に戻すには、「最先端の美術」をやっている人が「専門知識」や「マニア性」は持たないが「美術を鑑賞しようという意識」はあるというタイプの鑑賞者(要するに一般的な鑑賞者と言うことですね)に対して、「わかりやすい芸術」を提供していこうという方向性が必要に成るんだと思います。

つまり、「不透明感」を払拭して「透明な美術」を提供する方向を模索していけば、もう少し、良くなるような気がするわけです。

これは、どちらかと言うと、「鑑賞者側の視点」を重視した考えですが、実を言うと、「創作者側」に立った場合でも、やはり「透明な美術」を目指すことは有効なんじゃないかと思います。

あまりにも『先へ先へ!』と行き過ぎて、「創作者側」も何をやっていいのかわからなく成って来ていると思うんですよね。
ハッキリ言って、現在「ハッキリと目標が見えている人」ってあまりいないと思いますね。

超一流の創作者から、超無名の創作者まで、実際の所『ヤミクモにやってる』っていう部分はあるんじゃないかと思います。


そういう「不透明感」を取り除くことが出来たら、一番”ラク”に成るのは、意外と「創作者」の方なのかも知れませんね。

だったら、「透明な美術」を目指しましょうよと。


そういう風に思ったりもするわけです。




「独創性」は「技術」を要求するモノだと思うのです



よく「芸術」の場で「独創性」を重視するあまりに、『独創性さえあれば、技術なんていらないんだ!』というようなことを言われることがありますが、実は「独創性」こそ「技術」を要求してくるものであるという側面もあると思うわけなのです。


要するに、いくら「独創性」だけがあっても、何の「技術」もなければ、それを強く現すことが出来ないということですね。
つまり、「独創性」を打ち出そうとすれば、その「独創性」が「技術」を要求してくるわけです。

だから、自分の「独創性」を見つけ出した創作者というものは、「独創性」と「技術」の二つの間で、酷く振り回されるということに成るんだと思います。

 ※ここで言う「独創性」とは、一般的に言われるような「優れた独創性」という意味
  ではありません。
  すべての人に、同じ量の「独創性」が備わっているという前提で、「見つけ出す」
  という言葉を使っています。
  つまり、本来の「独創性」は、それぞれの人の中の「長所・短所」などのあらゆる
  要素を含んだ「その人性」を指している言葉だということになります。

こういうことは、「技術」にも「独創性」にも、どちらについても言えることだと思いますけど、「要るか?要らないか?」という基準ではなくて、『どこまで、それらの要求を高められるか?』また『どこまで、その高い要求にについて行けるか?』そして『どこまで、それらについて行こうとするのか?』というような基準で考えるべきなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。

「タブロー」であるということ



最近の「芸術の展示」を見ていると、『こっちの芸術と、そっちの芸術は、本当に同じ芸術なんだろうか?』と思うことがあるわけです。


要するに、違うタイプの芸術を同じモノとして見せられる機会が多いので、それに違和感を感じるわけですね。
同じ芸術でも、ジャンルがまったく違うモノのように見えるということなんだと思います。


いろいろなバリエーションが楽しめる事はいいことだと思います。
ただ、それは違うジャンルであることを前提とした場合の話で、明らかに違うジャンルのモノを無理矢理同じジャンルに押し込めてしまうことには意味を感じないですね。


ハッキリとした方向性を持った展示は、やはり見やすいと思いますし、違う方向性の作品を一つの展示として見せるには、そこに何らかの主張が無ければ意味がないと思うわけです。


どうも、現在の「芸術の場」における風潮として、『「抽象」も「具象」も両方同じように楽しめないといけない』とか、『「作品」と「パフォーマンス・アート」を違うものとして区別してはいけない』とか、『「タブロー」と「イラストレーション」を同列に扱わなければいけない』とかと言うような、そういう空気があるように思うわけです。

そして、そういう時に、『いや、それはジャンルが違うでしょ』なんて言うと、たちまち「頭の固いヤツ」というレッテルを張られてしまうわけなのです。


しかし、敢えて言ってしまいますけど、『チガウものはチガウとしか言いようがない!』わけです。
それ以前に、『いったいドッチが頭固いのか?』と思いますね。

それぐらい、現在の「芸術の場」には『意味のない、~しなければいけない』が多すぎますね。

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という話の中の「タブロー」と言うジャンルについてです。


この「タブロー」という言葉は、あまり一般的に使われない言葉だと思いますが、要するに「絵として独立した絵」と言うような意味だと思います。


そういう、いわゆる「タブロー」と「イラスト」や「マンガ」みたいなものを、同列に並べて見せられたときの、居心地の悪さには慣れることが出来ないですね。

まぁ、『腹が立つ』と言うほどではないですけど、不自然な感は否めないということです。
これは、どちらのジャンルにとっても不幸なことなんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか?


そこで、その居心地の悪さはどこから来るんだろうか?と考えてみるわけです。


そもそも、何をもって「タブロー」と言っているんでしょうか?

例えばの話、「イラスト」でも額に入れて独立させれば「タブロー」なのか?
それとも、「タブロー」には、そういう「物理的な独立」以外にも「チガウ意味の独立」が必要なのか?
あるいは、「作者」が「タブロー」だと言えば「タブロー」だというようなことなのか?


私は、「タブロー」の条件は「背景を持たずに存在していること」だと考えています。
「背景」と言っても、「絵の中の背景部分」と言うことではなくて、「その絵の意味」を成り立たせている根拠と言うようなものです。
そういう「その絵の意味や根拠が、その絵自体の中にある絵」を「タブロー」と言うんじゃないかと思うわけです。
逆に言うと、「その絵の意味や根拠が、その絵の外にある絵」は「タブロー」とは言えないと思うということですね。

つまり、一見独立して「存在」しているように見えても、その「存在」が何らかの「背景」によって支えられた「存在」である場合は「タブロー」とは言えないということです。


たとえば、「キリスト教絵画」でも、「宗教的な意味」を抜きに考えた場合にも「意味」を持ち得るものは「タブロー」であると言えるでしょうが、「キリスト教」と言う「背景」がないと「意味」を失ってしまうようなモノ、つまり、「宗教」の宣伝や布教活動のためにだけ描かれた絵は、「宗教画」ではあっても「芸術表現として独立した絵」ではないということに成るわけです。


「マンガ」にしても、基本的に「ストーリー」を「背景」にして「存在」するものですから、いくら、その中の「一枚の絵」を抜き出して額に入れたとしても、やはり、「タブロー」と言うのは難しいと思います。

もちろん、「キリスト教絵画」と同じで、「ストーリー」などの「背景」が無くても「存在」し得るだけの「意味」を「一枚の絵」の中に作り上げることが出来ていれば「タブロー」と呼べるわけですが、けっこう大変だと思います。


これは、「イラスト」にも同じことが言えると思いますが、「タブロー」として成り立たせようとすると、本来の「マンガ」や「イラスト」からは離れていってしまうわけで、「マンガ」や「イラスト」としての性質を失わずに「タブロー」でもあるというモノを創り出すのは、かなりの至難のワザだと思います。
(その点では、「宗教画」よりも難しいような気がしますね)

やはり、もともと「マンガ」は「ストーリー」を「背景」に作られたジャンルですし、「イラスト」は「ナニカを説明するための絵」として確立されたジャンルですから、「ストーリー」や「説明するためのナニカ」という「背景」を必要とするわけで、また、そういう条件に適した性質を持っているわけです。

まぁ、一言で言えば「説明的な絵」であるということですね。
それは、良く言えば「わかりやすい」と言うことですし、悪く言えば「単純」と言うことでしょう。

つまり、「背景」を含めた場合「わかりやすい絵」に成るわけですが、「背景」を抜きに見た場合には「単純な絵」と言うことに成ってしまう可能性が高くなってしまうわけです。
だから、ここで言う「タブロー」の条件満たすのには、向いていないスタイルということに成るわけです。

それで、それらの絵と「タブロー」とを同列に並べて見せられると、居心地が悪くなるわけですね。
あくまで、『私は』ということですけどね。


要するに、「タブロー」を見る時と、「他の絵」を見る時で、いちいちスイッチを切り替えないとならなくなるわけですね。

『そんなにカタイこと考えないで、気楽に見れば?』という考え方の人も居らっしゃるんでしょうが、『その作品をキッチリと見極めたい』と思う人も居て当然だと思うわけです。

というよりも、「その作品」を「芸術」として捉えるのであれば、鑑賞者がそういう見方をすることで「芸術としての意味」が完成するんだと思うわけです。

また、それとは逆に、「タブロー」を「イラスト側」の視点で見て、『なんか古臭い感じのスタイルだよねぇ』とか、『オシャレじゃない』とか、『重くて見ていて疲れる』などと言われることも多いと思いますが、そういうことも、「タブロー」の意味が一般的な鑑賞者に浸透していないところから、生じていることのような気がします。


「芸術の展示」を見る時に、こういう居心地の悪さを感じている人はけっこういると思うわけですが、それを口に出して言う人はあまりいませんから、いつまでたっても、そういう状況が続いて行くわけですね。


「イラスト風の絵画」が「タブロー」として扱われるケースは、日増しに増えていく一方という感じですが、やっぱり、言ってしまいますねぇ。

『チガウものはチガウ!』と。
(優劣ということではありませんよ!)


これは、おそらく絵を売る立場の人たちが作り出した状況だと思うわけです。

売る側からしたら、当然、「いろいろな絵」が売れた方が儲かるわけだし、一人の人が「いろいろな絵」を買ってくれれば売り上げ倍増なわけですから、『「抽象」も「具象」も両方同じように楽しめないといけない』し、『「タブロー」と「イラストレーション」を同列に扱わなければいけない』ということに成っていた方が都合がいいんでしょう。


まぁ、それは商売ですから仕方ないことだと思います。
(「芸術」が商売になっていること自体も、また別の意味で問題だと思いますけど)


でも、それだと「鑑賞者」がマンマと乗せられたことになってしまうわけですから、『いろんなタイプの絵が楽しめていいよね』ということでも無いと思うわけです。

やはり、そう言う商売だけで主体性のない画廊や、美術館としての方向性を打ち出していない企画などは、「鑑賞者」が拒否したり、批判したりする権利があると思うわけです。


一つの企画展で、と言うよりも、「美術館としての方針」がもっと要求されていいように思います。


いずれにしても、絵は「タブロー」であることに帰るべき時だと思います。
それでないと、「芸術としての絵」と言うジャンルは無く成って、「ファッション」や「デザイン」に吸収されてしまうでしょうね。

『何が悪いんだ?』と言われるかもしれませんが、やっぱり、言ってしまいますねぇ。

『チガウものはチガウ!』と。


そんな風にしか言いようがありませんね。




「タブロー」であるということ(つづき)



前の記事の続きです。


「タブロー」と言うのは「背景」を必要としない「独立した絵」のことだと思う、ということを書いたんですが、その「タブロー」とは具体的にはどんなモノなのか?と言うことです。
      
 ※ここで言う「背景」は「絵の中の背景部分」ではなく、「その絵の意味や根拠」です。
  つまり、「その絵がその絵であること」以外の「根拠を必要としない絵」=「表現とし
  て独立した絵」が「タブロー」であるということです。
  その逆に、何か他の要素を持って「補完されないと表現として成り立たない絵」は
  「タブロー」とは言えないということです。

まず、はじめにお断りしておきますが、『「背景」を持たずに存在する』と言ってしまうと、とても難しいことのように聞こえてしまうかも知れませんが、実を言えば、「背景を持たずに存在すること」自体は、特に難しいことでもありませんし、むしろ、「背景」を持っていることよりも「普通のこと」なのかも知れないというくらいのモノだと思いますから、決して、「タブローであること」が『とても”スゴイ”ことなんだ!』とか、『大変なことだから、そうヤスヤスとはできないことなのだ!』というようなことが言いたいわけではありません。


「タブロー」であっても”スバラシイモノ”もあれば”そうでもないモノ”もあるでしょうし、何らかの「背景」を持ったうえで成り立っている絵にも”スバラシイモノ”もあれば”そうでもないモノ”もあるでしょうから、どちらがイイという話でも、どちらがタイヘンと言う話でもありません。

要するに、『チガウものはチガウ』と言うだけのことです。


そして、どういったものを「芸術表現の中心に近い位置」に設定するか?という話です。
(これも、また、「中心に近い」=「エライ」ではないですけどね)
つまり、ジャンルの問題ですね。
「上・下」ではなくて、「横並び」のチガイと言うことです。


どうも、現在の「芸術の場」では、「ジャンル」の話をすると、『「芸術」を枠にはめて見ている』とか『そういう見方をすると「芸術の自由」が妨げられる』というような、考え方があると思います。


しかし、現在の「芸術の場」において、「不必要な枠」や「妨げ」に成っているのは、むしろ、「ジャンル」や「カテゴリ」をあまりにも排除しすぎているために、「自由」が「不自由」を生み出し、「解放」が最もタチの悪い「拘束」となっているという状況であり、また、その状況を盲目的に擁護している「そういう考え方」の方だと思います。


この点について、私は「カテゴライズ」と言う作業は、文化の基本を成す作業の一つだと思いますので、ナイガシロにしてはいけないように思っているわけです。

それは、「重箱の隅をつつくようなジャンル分け」とは根本的に性質の違うものだと思います。

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さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここから本題に入ります。


「背景を持たずに存在できる絵」と言うのは、具体的にはどういうものを指すのか?ということですね。


たとえば、「宗教画」は「タブロー」と言えるのか?
「イラスト」や「マンガ」は「タブロー」と言えるのか?


「宗教画」は「宗教」と言う「背景」を前提としていますし、「イラスト」は「説明する対象」を前提としていますし、「マンガ」は「ストーリー」を前提としているわけですから、それぞれ「背景」を持っているわけです。

でも、だからと言って、即、『それはタブローではない』と言うわけではなく、その「背景」を取り除いた場合も成り立つだけの要素があれば、それが「その絵のタブローとしての意味」に成るんだと思うわけです。


そう考えれば、「タブロー」であることは、それほど特別なことでも無いということに成るわけです。

要するに、「背景」となるような「情報」や「予備知識」などがない状態で見たときに、その絵に惹きつけられる要素が残って居れば
『その絵は独立している絵である』と言えるような気がしているわけですね。私は。

と言っても、すべての人を”惹きつける”ことは出来ませんし、また、その逆にすべての人を”惹きつけない”ということも、そうそうあることではないでしょうから、実際には、「タブロー」と「タブローではない絵」の間に境界線を引くことは出来ないわけですが、あくまで、考え方として、「背景を取り除いた後も人を惹きつけるだけの要素がある絵」を「タブロー」と言うんじゃないか?と言うことに成ります。

 ※要するに、その絵が何らかの「背景」を前提にして描かれた絵であるのか、それ
  とも、「その絵であること自体」を前提にして描かれた絵であるのか、というところ
  のチガイで、「絵」が区別されていた方が、創作者にとっても、鑑賞者にとっても、
  やりやすくなったり、見やすくなたりするんじゃないかと思うわけですね。
        
それでは、そういう「背景を取り除いた後も人を惹きつけるだけの要素がある絵」とは、いったいどういうものなのか?

私は、それを一言で言うなら、その絵の持っている「物質的な存在感」ではないかと思うわけです。
つまり、「物質的な存在感のある絵」が「タブロー」で、「物質的な存在感のない絵」は「タブロー」ではないということです。


ここで、大事なのは「物質的な存在感」と「物質としての存在感」のチガイです。


「物質としての存在感」と言うのは、まさに、その絵を物質として見た場合の「存在感」に成ります。
つまり、「大きさ」や「厚み」や「素材」などと言うような、「モノ」としての「存在感」ですね。
これと「タブローであること」はあまり関係ないと思います。


一方、「物質的な存在感」と言うのは、「絵の中の世界」で表現された「物質性」によって生み出されている「存在感」と言うことに成ります。

要するに、本当の物質であることとは無関係に、「絵の中で創り出された存在感」と言うことですね。

こちらが、「タブロー」の条件だと思うわけです。


「圧力」を感じる絵っていうのがあると思うんですね。
というか、『イイな!』って思う絵は、だいたいそういう絵なんじゃないかと思うわけです。
少なくとも、「タブロー」として見た場合に『イイな!』っていうような絵は、そういう絵だと思います。


「背景」を持たないということは、「その絵」が「その絵」であること以外に、拠りどころがないということですから、「その絵」の中に「存在感」がないと、「チカラ」が出てこないということだと思います。


この「その絵の中で創り出された存在感」と「他の場所から持ってこられた存在感」が区別されていないような気がするわけです。
その「他の場所から持ってこられたモノ」が「背景」にあたるわけです。


そこを区別しておかないと、もっとも純粋に「絵であること」があやふやになってしまうような気がするんですね。


やっぱり、「絵」の中心には、もっとも純粋に絵であって、最も根源的に絵であること、つまり、「背景を必要とせずに独立した絵」であることが置かれていたほうがいいんじゃないのかなと。

これも「横並びのチガイ」ですけどね。


そんな風に思ったというわけなのです。



「権利」



「権利」と言うと、「法」で規定されたモノと言うことに成っているわけですが、そういう「法律」で決まっている「権利」ではなく、もっと、純粋に自然に存在する「権利」ってあるもんなんでしょうかねぇ?


まぁ、例えばの話、『「人間」には「生きる権利」があるんでしょうか?』っていうようなことですね。

はたして、本当に「生きる権利」があって生きているんでしょうか?
実は、ただ単に生きているだけなんじゃないか?
それを、自己肯定するために、そこに「権利がある」と言っているだけなんじゃないか?

そんな感じで、「権利」について考えます。


だいたい「権利」なんてものが果たして本当にあるんでしょうか?
「法律抜きに考えて」っていうことですね。


「法」で規定されている「権利」以前の段階で、「権利」って言うモノがあるのかどうかが、かなり怪しいと思うわけです。


実際は「権利」なんてものは存在しないんじゃないか?っていう気もするわけです。


動物にしろ、人間にしろ「生きる権利」や「〇〇する権利」があってやってることなんでしょうか?
それとも、何の「権利」もなく、傍若無人にいろんなことをやってるんでしょうか?


どっちかっていうと「傍若無人説」の方が有力なんじゃないでしょうか?


要するに、「権利」っていうのは、人間が勝手に自分の行いを正当化するために、『権利があるからやってるってことにしとこう』みたいなとこがあるような気がするわけです。

こんな風に言うと、『じゃあ、好き勝手にやったっていいんだ』ということに成りそうなんですけど、もちろん、そういうわけではなくて、というか、むしろそれとは反対で、『だからこそ、好き勝手にやってると収拾がつかなくなるんじゃないの?』ということが言いたいわけなのです。


つまり、もともと「権利」なんてものはなくて、みんな自分勝手に「傍若無人」をやっていても、なんとなくバランスが取れているのは、
そこに「自然の摂理」が働いているからだと思うわけです。


でも、「人間」と言う動物は、その「自然の摂理」からやや外れてしまっているわけです。

 ※これを言うと、『そういうのは、人間のおごりだ!』と言う人が居ますが、それを
  言っていることで、「人間の暴走」が止められるとは思えませんし、むしろ、それ
  を助長しているようにすら思えるので、そういう形だけの「謙虚さ」には意味がな
  いと思いますね。
  客観的に見て、やはり「人間」は、一般的に考えるところの「自然の摂理」からは
  外れてきてしまっていると思います。

だから、「人間」がその「傍若無人」をやってしまうと、「傍若無人な傍若無人」になってしまうということですね。
「権利」っていうのはある意味で、「そういう人間の傍若無人な傍若無人」を規制するためのものなんじゃないかと思うわけです。


「権利」と言うと、「~してもイイ」と言うような気がしますが、実は、誰かにとって「~してもイイ」と言うことは、その相手にとっては「~されても文句が言えない」と言うことです。
ということは、全ての人間に同じ「権利」が与えられた場合、一方的な「傍若無人」が出来にくく成るということに成るわけです。

と言っても、まぁ、一言で言えば『止める権利を与えとけば、きっと誰かが止めるだろう』と言うようなことですから、必ずしも、凛とした感じじゃないですけどね。
他に「人間の傍若無人な傍若無人」を止められそうなものはないので、そこに期待するしかないということだと思います。


私は、現在社会が最もやるべきことは「人権を確立すること」だと思いますが、それは、どちらかと言うと「人間の傍若無人な傍若無人」を規制する必要があるからで、必ずしも「弱者擁護」と言うことだけでもないんだと思います。

要するに「弱者を擁護すること」も含めて、人間が「ムチャな傍若無人」を止めた方が、なんとなく全体として上手くいくんじゃないだろうかということなんだと思います。

まぁ、「普通の傍若無人」程度に収めるということですから、そんなに立派なことでも無いですけどね。


それは、「人間の社会」の話としても、もっと大きな「自然界全体」の話としても同じでしょうね。


そういう意味で、「権利」っていう、ものは、「人間」が勝手に作って、勝手に自己を正当化して、勝手に自己を規制するためのものであって、世の中の「根源的な法則」として存在するような大それたものではないけれど、なぜかあった方が少しマシで、無いと絶対にうまくいかなくなるというようなもの、つまり、人間にとってはそう言うモノなんじゃないのかなと。


そんなことを思いつきました。




「多重化」は「芸術に残された最後の領域」かも知れない



このブログでも何度か書いていますが、私は、今後「芸術」は「多重化」していくしかないと思うわけです。
つまり、「芸術に残された最後の領域」が「多重化」だと思うわけなのです。


ここで、「芸術の多重化」と呼んでいるのは、(出来る限り)既存の表現形態の中で、複数の独立した表現を重ね合わせていって、一つ一つが、ある程度まで、独立した表現としても成り立っていながら、全体が一つのまとまった表現としても成り立つようにすることで、重層化した世界感を生み出すというよなことです。


その「多重化」がどうして「芸術に残された最後の領域」なのかと言うと、他のことはぜんぶ出尽くしてしまったとしか思えないからです。
だから、あとは”組み合わせていく”しかないんじゃないかと思うわけですね。


そういうと、ナントナク”仕方なくそっちに行く”ように聞こえてしまうかもしれませんが、必ずしもそういうわけではなくて、「組み合わせ」は、他の分野においても行われていることでもあり、しかも、とても有効な方法でもあると思っていますので、むしろ、積極的にそちらに向かうことはイイことだと思うわけです。

もちろん、「多重化」なんて必要ないような「純粋でストレートな表現」もあっていいでしょうが、その領域が残っていないのに、そこに固執することはあまりイイことではないと思うわけですね。


なんで「純粋な表現の領域」が、そんなにも少なく成ってしまったかと言えば、「芸術の20世紀」において、あまりにも精力的に刈り取られてしまったからだと思います。


つまり、「芸術の20世紀」においては、一人一人の創作者が、それが本当に「自分のスタイル」であるのかどうかを吟味することなく、次から次へと新しいスタイルを作りかけては完成させずに放りだすということを繰り返していたために、「人間の世代交代のサイクル」を「新しいスタイルが創り出されるサイクル」が追い越してしまったわけです。

 ※これは、必ずしも「力不足の作家」が、そういう中途半端なことをやったと言う話
  ではありません。
  「力のある作家」も「ごく普通の作家」も、やっていたことに大差はないと思います。
  違うのは「「力のある作家」は、よりたくさんの「スタイル」に手を出すことが出来て
  しまうということです。
  つまり力がある人ほど、たくさんの「スタイル」を刈り取ってしまったと言うことに成
  るわけです。

  「芸術の20世紀」においては、「本当の自分のスタイル」を時間をかけて見つけ出
  すことが出来た人は少なかったと思います。

たとえ未完成の状態でも、一度提示されたスタイルと言うのは、「スタイル」としての位置を持ってしまうようで、それを、ちがう人がやれば「モノマネ」のように見えてしまうわけです。

ハッキリ言うと「芸術の20世紀」において提示された「スタイル」は、実際には、ほとんどすべてが未完成であったと言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

だからこそ、恐ろしい勢いで量産されてしまったんだと思いますが、その結果、それが「人間の世代交代のサイクル」を圧倒して、現在の「芸術の場」には、「純粋な表現の領域」がほとんど無く成ってしまったんだと思うわけなのです。


本当は「新しいスタイル」がそんなにたくさん量産されることはあり得ないことで、一人一人の創作者が生涯を通じて一つの「スタイル」に到達するというのが本来の姿だと思います。
というよりも、すべての人が「独自のスタイル」を獲得できるわけではなく、そこに到達できる人は、そう多くは居ないはずでしょう。


それならば、「スタイル」が出尽くしてしまうまでには、「人間の世代交代のサイクル」が何世代も入れ替わるくらいかかるわけですから、一通り出尽くしたころには、はじめの頃の「スタイル」は、もうとっくに忘れられているでしょう。

だから、また、その「スタイル」に近いものが生みだされても「モノマネ」のような違和感を感じないわけです。
(あくまで、偶発的に似かよった「スタイル」になってしまった場合ですが)

そういう循環が出来ていれば、常に「純粋な表現の領域」が確保されていたんだと思います。


でも、実際には、そうならずに、「純粋な表現の領域」はどんどん狭められてしまったということです。

そんな中で、極端に狭くなってしまった領域の中で足の踏み場を探して、ちょっとでも早く着地した者だけが、なんとか「表現の領域」を確保するというような状態が、今の「芸術の場」の状態だと思うのです。


そういった状況から抜け出すために、私は「芸術の20世紀を喪失すること」を選択したわけですが、『喪失しました』と言っても、キレイサッパリ消すことが出来るわけでもないので、やはり、「一度提示されてしまったスタイル」はもう「足の踏み場」とはならないわけで、そこで、ギュギュウ詰めになってしまった「芸術の場」に「空き領域」を作るためには、当然のこととして、「芸術の領域」自体を広げなければならないということに成るわけです。

それには、「多重化」することしかないように思うというわけです。


さて、そこで、『なんで、既存の表現形態の中で多重化しなければならないのか?』ということです。

現在、多くの創作者が、表現形態を組み合わせることを模索していると思いますが、私が知る限りでは、「既存の表現形態」の枠を外すような試みが多いような気がしています。

つまり、まったく違う表現形態との間で「コラボレーション」するということですね。

そういうのがワルイと言うことではありませんが、ただでさえ、「純粋な表現」と言う「枠組み」を、やむを得ず部分的に崩しているわけですから、出来るだけ、その「崩し」を少なくしたいと思うわけです。


それで、私の場合は「既存の表現形態の中での多重化」にこだわっています。

 ※「既存の表現形態の中での多重化」と言うのは、要するに「絵」なら「絵の中で
  の多重化」ということです。
  つまり、「絵と、絵と無関係のモノとの間での多重化」ではないということです。

  私の場合、「額や題」を使って「多重化」することを考えていますが、「額や題」
  はもともと「絵」を前提にして存在するものだということで、「絵の中」として
  扱っています。
  私自身は、「絵の中での多重化」を中心に考えていますが、必ずしも、ほかの表
  現形態との間で「多重化」することを否定的には考えていません。
  ただ、範囲を際限なく広げてしまうのは避けた方がいいと思っています。
  
これは、広げられる「領域」は少ないかもしれませんが、最低限の「純粋性」は保存されるんじゃないかと思っています。
逆に言うと、「表現形態の枠組み」まで崩してしまうと、最低限の「純粋性」までも失われてしまう可能性があると危惧するわけですね。


「領域を広げること」は悪いことではないと思いますが、「領域を際限なく広げること」は、結果的に内容を薄めることにしかならないと思うのです。

どんなに濃い一滴の「純粋性」であっても、限りなく広い海に落とされてしまえば薄まってしまいます。
そこは、やはり、限りある「領域」の中での「多重化」を何とかして成し遂げなければならないんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

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『ああ、もう少しチカラが欲しい!』
(「パワー」と言うよりも「エナジー」ですね)

そんな風にも思います。

『いや、ホントに』


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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