FC2ブログ

本来の「教育」とは「人間に成る方法を教えること」なんじゃないか?と思います



現在「教育」の場で教えられることは、ほとんど「学問」が主流となっているわけですけど、実は、本来の「教育」とは「人間としての在り方」を教えるものなんじゃないかと思うわけです。

つまり、「人間に成る方法」を教え込むのが「教育」の役割なんじゃないかと思うわけです。

 ※これは、必ずしも「道徳」とか「文化」とかいうことではなく、もっとダイレクトに
  「人間に成る方法」を教えるという話です。
  つまり、「人間」とはどういうもので、どういうことをすれば「人間と言えるもの」
  に成れるのか?ということを教えるのが「教育」の本来の目的ではないか?
  と言うことですね。

 ※ここで、「人間に成る方法」と言っているのは、「完全な人間になること」を目標
  としたことではありません。
  あくまで、「人間未満の人間」を「最低線の人間」と設定して、その「最低線の人
  間に成る方法」を教えるのが、本来の教育の在り方なんじゃないかという話に成
  ります。


これを言うと怒る人も居るのかも知れませんけど、ハッキリ言って、「学問」なんて、みんなに教える必要はないような気がします。
まして、「芸術」や「音楽」や「体育」を無理にやらせたってロクなことはありません。

でも、みんなに絶対に教える必要があることが一つだけあるとしたら、「人間に成る方法」だと思いますね。


もちろん、多くの人が「芸術」や「音楽」にかかわりを持って行った方がイイとは思いますが(「学問」についても同じだと思います)、それは、必要最低限でもいいような気がします。

「人間であるために必用最低限の芸術や音楽」はそんなに多くはないと思います。

要するに、「芸術」や「音楽」が、「一人一人の人間」に興味が有るか無いかということとは関係なく、「人間全般」にとって必要なモノだということがわかっていればそれでいいんだと思います。

つまり、興味がない人も「芸術」や「音楽」を踏みにじってはいけないということですね。
そういう関わり方だけでも十分だと思います。

 ※今の「教育の場」においては、「芸術」や「音楽」を強制的にやらせている反面、
  「芸術の本質」や「音楽の本質的な意味」に関わりを持たずに育つ人がたくさ
  んいるという状態に成ってしまっていると思います。

これは、「学問」についても同じで、全ての人に現在のような「小難しい学問」を教える必要があるとは到底思えないわけです。

まして、現在の教育においては、一番肝心な「人間に成ること」をまったく教えていませんから、『そんなことばっかり教えている場合じゃないんじゃないの?』と思ってしまうわけなのです。


「学問」や「芸術」や「音楽」や「体育」などをどれほど教える必要があるのかはともかくとしても、少なくとも言えることは、「人間に成ること」が最優先で教えられるべきだということだと思います。

「人間に成ること」が一通り「学習」されてから、他のことをやればいいんじゃないかと思いますね。


とにかく、「教育」において、如何なるものにも優先するのが「人間に成ること」だと思うんですけど、その辺どうなんでしょうね。
でも、最優先どころか、「教育」においてまったくと言っていいほど無視されているのが「人間について学ぶこと」だと思います。


ハッキリ言って、そこが抜けているから「教育改革」みたいなことを、いくらやっても成果が上がらないんだと思いますねぇ。


「イジメ」も無く成る気配すらないし、「学級崩壊」なんて言うのも進んでいることはあっても良くなったという感じはしませんね。
それから、「生徒」以前に「先生」の方からして「人間に成ること」を学んでいない人がけっこういたりします。

そんな状況で、「教育改革」出来るわけないと思うんですよねぇ。


でも、逆に、他のことはホッタラカシでも「人間に成ること」だけを重点的に教えれば、他のことは後からついてくるんじゃないかと思います。


なんと言っても一番大事なのは「自分と他人を理解する技術」を身に着けることだと思います。
それと、「自分の信念を持つこと」ですかね。

その二つくらいでも、かなりいいような気がします。

「人間に成る方法」は他にもいろいろあると思いますが、取り敢えず、「自分」と「他人」を理解しようという姿勢だけでも持っていれば、それだけでも、「人間の条件」をかなり満たしていると言えるような気がするわけです。

そして、更に「自分の信念」を持っていれば、周りに振り回されて意見が変わってしまったり、極端に矛盾したことを平気で言ったりということも少なく成ると思うわけです。


そんなことで、そこそこ『人間だなぁ』と思うわけですが、こんな事、今誰かが教えているでしょうか?
「教育」だけでなく、「親」も「大人」も、誰一人教えていませんよね。

その結果「逸脱した人」が増えているように感じるのは私だけなんでしょうか?

『そういうことは親が教えるべきことだろう』と言うのは、現時点では、もはや空論と言ってもいいと思いますね。
現在の「親」は「教育機関」としての機能を失っていると思います。
(「お受験」や「親の見栄のための教育」は別でしょうが)
『忙しくてそんな暇はない!』と言うのが実情じゃないでしょうか?

あとは、『どう教えていいのかわからない』ということもあると思います。
自分も教わっていないわけですから、無理もないと思います。


それで、この「人間に成ること」と言う「教育の最も重要な部分」が抜け落ちてしまったんだと思います。


とにかく、「人間としての最低限度」がほとんど守られていないと言う気がする今日この頃なので(自分だって、守れないことはよくあると思いますし)、そこの所を何とかして欲しいもんだなと思うわけです。


『今日この頃』と言うよりも、実際には昔から続いていることなんだと思います。

本当のことを言うと、「人間」って、まだ本当の意味で「人間」に届いていないような気がするわけです。
つまり、歴史上まだ「人間が人間であった時代や国」はないということです。
要するに、「人間」っていう水準が意外と高いんですね。

だから、「人間としての最低限」が出来る人が少ないわけです。
そうなると、やっぱり教えないとならないということなんじゃないの?という風に思うわけです。

この部分を成り立たせないと、いくら時間や手間をかけても、他の「教育」は全部無駄になってしまう可能性すらあるわけですから、
ここにもう少し力を入れて頂きたいもんだなと。


そんな風に思いますね。



本当に「芸術の物差し」は「好み」だけなのか?



よく、「芸術を測る規準」について、『そんなもん理屈並べたってしょうがないんだ!「好き・嫌い」がすべてだろ!!』というようなことを言う人が居ますけど、あれは、本当にそうなんでしょうかねぇ?


私は『それは違う!』と思うわけです。
というよりも、『それ、全然違うでしょ!』というくらい違うと思うわけですね。

ハッキリ言って、『好みがすべて』と言ってしまったら、オシマイだと思います。
というか、そういうことを言っている人は、「芸術の物差し」についての答えが出せない自分にいら立って、悔し紛れに『理屈なんかいらないんだ!好みしかないんだ!!』と言っているだけなんだと思いますよ。


確かに「芸術を測ること」はなかなかできませんし、さらに、そこに厳密な規準を設定するとなると『無理です』ということに成ってしまうのかも知れませんけど、それは、「芸術」に限ったことではなくて、他のどんなことでも厳密な規準となると、ほとんどの場合設定できないと思うわけです。

でも、だからと言って、例えば「料理」について、「美味しい」とか「不味い」という基準が全くないということではないわけで、やはり「美味しいモノ」もあれば「不味いモノ」もあるというのが本当のことなんだと思うわけです。

ただ単に、「全ての人が美味しいと言うモノ」や「全ての人が不味いと言うモノ」はないということです。

『そんなの、当たり前でしょ!!』っていうことですよね。


「絶対的なモノ」なんてどこにもありませんから、どんなことについても「絶対的な規準」なんて設定できるわけないというだけのことですよね。

「芸術」が特別ということは無いと思います。


私は、この「芸術の物差し」を設定できなかったことと、そのことを誤魔化し続けてきたことが、現在の「芸術の行き詰まり」を生み出している原因の一つだと思うわけです。

『そりゃ、規準がないわけですから、行き詰りますよね』っていうことなんじゃないかと思います。


「規準」がないということは『何をすればいいのかわからない』と言うことです。
もう少し言い方を変えれば、『何をすれば人を感動させられるのかがわからない』と言うことです。
さらに言えば、『自分でも何がイイと思っているのかわからない』ということです。

当然、行き詰ると思います。


結果的に、現在の「芸術の規準」となっているものは、「人と違うこと」・「誰もやっていないこと」と言うことに成っていると言ってもいいと思います。


これは、他のことで考えればわかることですが、「料理」で言うと、「味」という規準がない中で、「ほかの店で出していないモノ」と言う基準だけで判断していった場合、「美味しいモノ」が作り出される確率はどのぐらいあるでしょうね?

少なくとも「味」と言う規準を持っていたほうが確率が高く成ることだけは確かですね。


「芸術」においても、「料理」の「味」に当たるようなモノ、つまり、「人間がイイと思う芸術」というのがあるんだと思うわけです。
それが、キッチリとした言葉で示せないということはあっても、「好み」以外にはなんにもないということではないと思います。


やはり、芸術作品を見ていて、「ウマイ・ヘタ」と言うのを抜きに考えても、「明らかにチカラがあるモノ」もありますし、「明らかにチカラのないモノ」もあります。

それを、全て「好き・嫌い」だけで判断するというのには無理がありますし、それは事実と違うと思うわけです。


一人でも「好き」と言う人があればイイのか?

「好き」と言う人が多ければ多いほどイイのか?

「好き」と言う人が一人も居なければダメなのか?


実際には、「好き」と言う人の数とは無関係に、「チカラのある作品」と「チカラのない作品」があります。
それは間違いのないことだと思いますね。

ただ、それが『人に好まれるとは限らない』と言うだけのことです。


「好き」と言う人が多いのは、ただ単に「流行っているモノ」ですね。
「芸術」とは必ずしも関係ないことだと思います。

そして、それが「売れるモノ」でもあります。


「芸術の規準」としては、「他人と違うこと」ではなくて、「自分であること」だと思うわけです。
「作者が現れている作品」には「チカラ」があると思いますし、「作者が現れていない作品」に「チカラ」が感じられることはないと思いますね。


「イイ絵」とかいうことじゃなくて、「芸術表現としてのチカラ」ということです。


「人と違う」なんてことはどうでもいいことです。
そんなのは、『ふっ』って吹いたら飛んでっちゃいますね。

なんの規準にもならないと思います。


『いかに自分であるか』 

これしかないと思いますよ。私は。



「艶ムラ」も使いようかな?



油絵の「艶ムラ」を嫌う人はけっこう多いと思いますけど、それでいて、ほとんど気にしないという人も結構いたりしますね。
(まぁ、絵に”チカラ”があると、あまり気に成らないと思いますけど)

でも、「艶ムラ」を積極的に使っている人も中には居るんじゃないかと思うわけです。
まぁ、要するに、自分が使っているんですけどね。

 ※正確に言うと、積極的に使っているのは「艶ムラ」と言うよりも「発色のムラ」です。
  「強い発色の部分」と「深い発色の部分」を作っているということですね。

油絵具はいろいろな種類の油や樹脂を使いますから、どうしても「艶ムラ」が出てしまうことがあるわけです。
そういう「艶ムラ」は確かに作品を見にくくしますし、同じ色が違う色に見えてしまったりすることもありますから、けっこう厄介な場合が多いわけです。

でも、ヤリヨウによっては、この「艶ムラ」は有効な技法に成る場合があると思っているわけです。


基本的に、不適切な油の調合によって出来てしまった「艶ムラ」は、あまり美しくないことが多いです。
でも、「艶のある部分」と「艶のない部分」を意識して作った場合は、その「艶のチガイ」が効果的になる場合があります。


油絵具の色が好きな人の中には、下に置かれた色が薄い上塗りの層を通して湧き上がってくるような、そういう深みのある色合いが『たまらなく好き!』っていう人も多いと思います。

だから、艶を揃えてそういう深みのある色合いを画面全体に醸しだしたいと思うわけですね。

でも、そこをおさえて、画面の中に出来るだけ油で溶いていない艶のない状態の絵具を最後に使った部分を作るわけです。

確かに、薄く伸ばした絵具を上塗りした時の油絵具の色は美しいと思いますし、それは、ほかの絵具では出せないニュアンスだと思います。
でも、発色の強さと言うことで言うと、やはりダイレクトに顔料の色彩が飛び込んできた時が、一番強く成ると思うわけです。

一見無駄に見えるかもしれませんが、同じ色を(微妙に変化させたりしながら)何度も塗り重ねていくと、顔料のカタマリがとても強く発色してきて、その部分がとても力強く感じられるわけです。

 ※これは、私が個人的に感じていることなんですけど、同じ色を何度も塗り重
  ねていくと、強い発色が出て来ると思っています。
  (数回と言うより十数回~数十回ですね)
  おそらく、下に置いた絵の具が上に乗せた絵の具の油を吸収して、乾いた
  ときに発色の妨げに成って来るバインダーとしての油が吸い取られて、画
  面の表層ではかなり少なく成るんだと思っています。

たぶん、日本画の「岩絵の具」のような発色の仕方に近く成って来るんだと思います。

 ※本当の意味で、「油絵具」と比較されるべきなのは「アクリル絵の具」では
  なく、実は「岩絵の具」だと思います。「岩絵の具」の発色を身近に知る機
  会に恵まれている日本人は、そのことをもう少し意識して行ってもいいよ
  うな気がします。

そして、そういう「強い色」の部分と、もともと油絵具の特徴である「深い色」の部分を組み合わせていくと、表現の幅が広がるんじゃなかと思っているわけなのです。


アクリル絵の具に対して、『油絵具は素晴らしいんだ』ということを語るときに、ついつい、『この色の深みが~』とか、『アクリルで描いた絵はどことなく~』というような曖昧な表現を使ってしまうことがありますが、実際は、それらの『~』の部分のほとんどが、こういった『艶ムラ(発色ムラ)』に由来していると思うわけです。

ということは、逆に考えると、そこを使わないならば、『アクリルでいいじゃないか?』ということなわけで、いろいろな意味で利便性に勝るアクリル絵の具の方が優れているという話になってしまうわけです。

実際問題として、『艶ムラ』や『発色のムラ』を使う必要性を感じない場合は、アクリル絵の具でいいんじゃないかと思います。


「艶ムラ」や「発色のムラ」を使う場合にこそ油絵具を使う必要性が高く成るんだということですね。


でも、それを曖昧な表現で説明してしまうから『なんとなくカッコイイから油絵やってるんですけど、ダメですか?』的な人や、『いいじゃんアクリルで、おんなじようなもんでしょ?油絵と』的な人に分かれてしまって、『なんで油絵具なのか?』『どうしてアクリルでいいのか?』という部分が抜けてしまうわけです。

その結果、「本来は油絵向きの人」が、なんとなく便利だからという理由でアクリルで描いていたり、「アクリル向きの人」が意味もなく油絵を描いていたりすることがあると思うわけです。


そんなわけで、「油絵具」と「アクリル絵の具」のチガイとは「艶のチガイ」であり、「発色の幅のチガイ」であると。
そう言い切ってしまおうと思うわけです。

まぁ、そういう感じで『艶ムラも使いよう』なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

追記

ここで「艶ムラ」と言っている中には、「絵の具の伸び具合」も含まれていると思います。

「油絵具」の伸びを良くするには、乾性油を多く使うことになりますから、結果的に、「艶」も出ることになります。
「アクリル絵の具」と「油絵具』のチガイは、この「絵の具の伸び」によるところも大きいと思うわけです。
(それも含めて、ここでは「艶」と言っています)

それから、「艶」には、「絵の具の表面の艶」と「絵の具の色としての艶」があると思っています。
たとえば、「アクリル絵の具」であっても、「グロス・メディウム」などを混ぜると「絵の具の表面の艶」は出ますが、必ずしも「艶のある色」に成るとは限りません。
つまり、見た人が「艶」を感じるのは、どちらかと言うと「絵の具の色としての艶」の方である場合が多いわけです。

そして、そういう「艶を感じる色」を出すには、「絵の具の伸び具合」によるところも大きくなるわけですね。

「油絵具」で描かれた絵であっても、年月が経てば、「艶」はなくなっていきますし、当然「艶ムラ」も薄れていくわけですが、「艶を感じる色」の「感じ」の部分については、それほど変わりませんし、それは「艶ムラ」についても同じようなことがいえると思います。




「芸術」は意外と新しいジャンルなのかも知れない



「芸術」って、実は、けっこう新しいジャンルなんじゃないのかな?と思うことがあるわけです。


要するに、「現代美術」についてなんですけど、それ以前の「芸術」とは違う、別のジャンルなんじゃないかと思うわけですね。


確かに、古典からひとつながりの流れで「現代美術」に至っているわけですから、それを同じジャンルとして考えるのが普通なんでしょうが、それにしても、あまりにも短期間のうちに方向性が180度変わってしまったようなところもあるし、美術史の中でのつながりはあっても、やっていることとしてはほとんどつながっていないとも言えるわけで、それを同じジャンルとして捉えていることの方にやや無理があるように思うわけですね。


そもそも、「現代美術」と言っていますが、もう100年くらい前からのモノをそう呼んでいるわけで、『チットモ現代じゃない!』っていう感じもあるわけですし、さらには、『いったい、いつまで「現代」で通すんですか?』っていうこともあるわけです。

これは、「現代美術」と呼ばれているような「今の芸術」が、「それまでの芸術」とはハッキリと違うジャンルであったことからきているんだと思うわけです。


つまり、実は違うジャンルであったのに、無理に同じ「芸術」と言うジャンルの中で捉えようとしたために、取り敢えず「現代」と呼んでみたけれど、実は、それは「現代の芸術」ではなくて、「それまでの芸術」ではない「新しいジャンル」だったということなんじゃないかと思うのです。

だから、「そのジャンル」を続けている限り、「現代」から抜け出すことが出来なくなってしまったと言うことなんじゃないでしょうか?


その「新しいジャンル」に名前が与えられなかったために、「芸術」がとても解りにくいモノに成っていることは間違いないと思います。

まったく方向性の違うモノを同じモノとして説明しようとしても無理ですから、どうしても、『そういうことは頭で考えてもわからないんだ!』とか、『どうせわからないヤツにはわかりゃしないんだ!』とかという強引な話になってしまうんだと思います。


ただ、もう100年も経ってしまっていますし、今さら、その「もう新しくはなく成ってしまった新しいジャンル」に、新しい名前を与えることにも無理が出てきているわけです。

おそらく、いまさらなんと名付けてもシックリは来ないでしょうね。


だったら、「今の芸術」をそのまま「芸術」として、「古い方の芸術」を「昔の芸術」つまり「かつては芸術だったモノ」と言う捉え方にしてしまった方が、まだ、少しはマシなんじゃないかと思うわけです。


こんなことを言うと、「古典芸術」を愛している人からは叱られるし、「現代美術」を愛している人からも、『美術の歴史を理解してもいないヤツがナニを言うか!』と言われるんでしょうが、『それじゃあ、いつまで「現代」を続けるんですか?』とお聞きしたいわけですね。


「現代美術」~「現代アート」~「モダン・アート」~「コンテンポラリー・アート」と言う風に、言葉面だけを少しづつ変えていっても、けっきょく全部「現代」であることに変わりはありません。

「現代」にハマリ込んで抜けられなくなっているということを認めないと、いつまでたっても「未来」は来ないと思いますね。
それどころか「現在」すら来ていないっていう気がします。


私は、個人的に「芸術の20世紀」を一度断ち切って、新たに出直すという考え方をしていますが、

 ※この「新しいジャンル」が出発した時点にある「芸術の20世紀」において、舵を
  切り間違えたところが多々あったと思いますし、そのことが、その後なし崩し的
  に、そして不適切に、修正されてきてしまったことは、見過ごされてはいけない
  と思っていますので、私の場合はそれを一旦「喪失」するという考え方をしとて
  います。

どういうやり方を取るかは、個人的な問題だ思いますので、ここでは置いておくとして、少なくとも、「昔の芸術」と「今の芸術」は切り離して考えた方がイイような気がしますね。

それでないと、「いま何をすればイイのか」は見えて来ないと思います。
いえ、もちろんて、そう考えたからって、それが見えて来るっていうことじゃないですよ。
『私にはそれが見えてますよ』っていうことを言ってるんじゃなくて、『魚が居ない所で釣りやっても釣れませんよね』っていうことを言ってるわけです。

『私には簡単に釣れますよ』と言っているわけではありません。


「昔の芸術」と「今の芸術」が違うジャンルだということと、「今の芸術」がスタートした時点で、それが「新しいジャンル」だということが理解されないままに、、「テキトーな方向性」を与えられてしまったという重大なエラーがあったことを認めていかないと、結果的には、意にそぐわない形で「流行を追わされること」にしかならないと思いますね。


『「芸術」って、まだ歴史の浅いジャンルだったみたいだよ』

『いや、「芸術」は、まだ始まっていないのかも知れないよ』


そんな風に思うわけですね。


『それなのに、やや終わりかけてきてます』


そんな風に思いたくはないですけど。



「芸術の100年構想」



「芸術」って、そう簡単に達成できないだろうと思っているわけです。
『最低でも100年ぐらいかかるんじゃないか?』と思っているわけです。
だから、自分の制作に関しては『100年かけて完結すればいいだろう』と思うようにしているわけです。
『それじゃ、途中で死んじゃうだろ!』ということは考えないようにしています。


というか、「芸術」と言うモノ自体が「未完成」でもいいような気がしているわけですね。
「完結」や「達成」を目指すというよりも、生涯を通じての「その人の生き様」こそが「芸術」の本質なんだと思うのです。
(「作品」は副産物と言ってもいいぐらいですね)

だから、生きているうちに完結できるように逆算して構想を立ててしまうと、そこで終わってしまうような気がするわけですね。
むしろ、「とうてい生きているうちに到達できないような構想」で臨むというような意気込みですね。


ええ、「意気込みだけ」です。

『でも、そこ、大事ネ!!』


そんな風に思っているわけです。




「意味」と「価値」



「意味」と「価値」の二つを、日ごろ、同じように使っていることが多いような気がするわけです。


たとえば、『そういうのって、「意味」ないですよね』と言うのと、『そういうのって、何の「価値」もないですよね』と言うのが、ほとんど同じことに成ってしまっているわけです。


でも、実は「意味」と「価値」は、けっこう大事なところが違うような気もするんですね。
そして、その「意味」の方が「芸術」に深く関係していると、私は思っているわけなのです。

まぁ、「価値」の方は『そうでもない』ということですね。


要するに、「価値」には利益的な性格があるんだと思います。
それに対して、「意味」は非利益的という印象があるわけですね。

とは言っても、「意味」にも利益的な面がないわけではありませんから、「利益」と「非利益」の比率のチガイと言うことなんだと思います。

つまり、「価値」は利益重視で、「意味」は利益軽視な感があるということです。


たとえば、「食べ物」と「芸術」や「音楽」を比べた場合、「価値」は「食べ物」の方が高くなるでしょうが、「意味」においては対等だったり、「芸術」や「音楽」の方が上回っていたりするということに成るわけです。


人間は、「芸術」や「音楽」が与えられない場合でも、嫌いな「食べ物」ですら生きのびられますが、「食べ物」が与えられない場合は、好きな「芸術」や「音楽」でも生きのびられません。

嫌いな「芸術」や「音楽」では、命が縮まるかもしれません。
つまり、それだけ、「食べ物」は利益的で、「芸術」や「音楽」は非利益的だということですね。

「食べ物」の「価値」は絶対的ですが、「芸術」や「音楽」の「価値」はそれに比べれば大したことがないということです。


それなら、「芸術」や「音楽」なんてどうでもいいのか?と言うことに成りますが、そこで「意味」が出てくるわけです。


「価値」においては低くなりますが、「意味」においては高く成ることもあるだろうということですね。

生きるだけなら、「価値」だけで十分でしょうが、もしも、生きているだけで他にはなにもないということなら、そこに生きている「意味」がありません。

やはり、「食べて・寝て・死んでいくだけ」だったら、「意味」があるとは言えないでしょう。
そこで、「幸福」とか「喜び」とか言う人間にとって必要不可欠のものになりつつある心の状態が、求められるように成るわけです。

つまり、「意味」と言うのは、「価値」の中でとくに、人間の「心の豊かさ」や「知性」や「感性」などを満たしてくれるものと言うことなんだと思います。


それで、「芸術」との関係が深く成るんだと思います。


そんなわけですから、「芸術」においては「価値」よりも「意味」を創り出していきたいもんだなと。

そんな風に思うわけです。


「売れるモノ」には「価値」がありますが、「意味」においては「売れるモノ」の方が「売れないモノ」よりも高いとは限りませんし、「売れないモノ」の方に「意味」があることもあるわけです。


そういう「意味性」が強いモノを創り出せたらいいんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけなのです。




「利ザヤレス・経済」



現在、経済の中で一番根本的な部分にあるのが「利ザヤ」と言う考え方だと思うわけです。
でも、その「利ザヤ」という考え方をなくせたら、「経済」が少しだけ”マシ”になるような気がするわけです。


「経済」って、本当は「等価交換」でも成り立つんじゃないかと思うんですよねぇ。
いま現在、既に回ってしまっている「経済の流れ」と言うモノを、まったく抜きに考えたらという話ですけどね。


つまり、「おカネ」ですべてを回しているから「利ザヤ」が発生するわけで、「おカネ」を「モノ」に置き換えて考えたら、「利ザヤ」はどう考えてもほとんど発生しなくなると思うわけです。


だって、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」を交換する人っていないですよね。
自分が既に「鉛筆」持ってるのに、「鉛筆」を手に入れるために「消しゴム」もつけちゃう人が居るわけありません。

交換する可能性があるとしたら、「赤い色の鉛筆」と「青い色の鉛筆」ぐらいでしょう?

つまり、「等価交換」です。
たとえば、「鉛筆」と「消しゴム」を交換することがあるとしても、やっぱり、ほぼ「等価交換」が原則に成るでしょうね。


ところが、ほとんどの「経済活動」において、行われているのが、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」の交換なわけです。
「消しゴム」の分が「利ザヤ」っていうことですね。


これ、厳密に言ったら「詐欺」だと思うんですよ。
「法律的に」ではなくて、「道徳的に」でもなくて、「私的に」ですけどね。

積極的な意味での「嘘」が入っていなければ、法律上「詐欺」にはなりませんが、「利ザヤ」には、消極的ではありますが「小さい嘘」が含まれているように思います。
(あくまで、話です。別に「商売」すべてを本気で否定しようということではありませんので)


つまり、「ごく普通の一本の鉛筆」を『これはただの鉛筆じゃないんだから、「+消しゴムの価値」があるんだ』と言って売れば、「詐欺」に成りますが、だまって売れば「詐欺」にはなりません。

要するに、『なんとなく「鉛筆+消しゴム」くらいの価値があるんじゃないか?』という雰囲気を醸し出しただけなら、「詐欺」にはならないわけです。


その「雰囲気づくり」を「商売・営業」とか「広告・宣伝・PR」等と言っています。
そこに「小さい嘘」があると、私は思うということです。

その「小さな嘘」が「詐欺」的になっているわけですね。
(だから、話だけです)

でも、それが「経済の根本」でもあるわけです。


だから、常に「モノを売っている人」がお金持ちになって、「モノを買っているだけの人」が貧乏人に成っているわけですねぇ。

「モノを買っているだけの人」ていうのは、要するに「労働」を売っているわけですが、そこでも「等価交換」は成り立っていませんから、二重に「利ザヤ」を取られているわけです。

お金持ちになれるわけないですよねぇ。


つまり、資本主義経済の下では、常に「労働者」は二重に「利ザヤ」を取られているということに成るわけです。

それに対して、「資本家」は「労働者」から「利ザヤ」を取る権利を与えられていますし、「商売」でも「利ザヤ」を得る権利を与えられています。

自分が「消費者」に成った時だけ「利ザヤ」を取られる側に成りますが、取る機会が二倍に成っているので、ソコソコ上手くやっている程度でも儲かるようにできているわけです。

まぁ、「資本主義」ですから「資本家」に有利にできているわけですね。
当然と言えば当然なんですが、「資本」を持たない人にとっては当然でもないわけです。


もともと「資本」に恵まれていない環境に生まれても、「資本」を稼ぎ出すことは出来るでしょうから、そこはそれほど大きな問題でもないと思いますけど、実は、もっと大きいのは「資本家に向いている人」と「資本家に向いていない人」が居ることだと思います。


「資本主義社会」で最も不平等なことがあるとすれば、「資本家」と「労働者」が対等ではないということだと思うわけです。

その「不平等」を生み出しているのが「二重の利ザヤ」と言うわけです。


「資本」を持っていることで有利になることは仕方ないとしてもですよ。
生まれつき「お金持ちの人」と「ビンボー人の人」が居るのはイカントモシガタイという前提で考えて、そこのところの「不平等」に目をつぶったとしても、この「職業選択の自由」が「不平等」に直結しているということは、「自由で平等な社会」としては、マズイんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう?


要するに「やりたい仕事」が「資本家的な仕事」じゃない人は、ほとんどの場合自動的に「ビンボー人」を選択させられることに成るわけですねぇ、「資本主義社会」では。


でも、みんなが「資本家的な仕事」をやりたいわけじゃないと思うんですよね。

まぁ、自分のことで言えば、私なんかも『まったく興味ないです』
ただ、私の場合は「ビンボー」も嫌いじゃないんで、あまり困っていないんですが、それでも、もう少し”マシ”なぐらいには成ればいいなと思ってますね。


それに「資本家系の仕事」は好きじゃないけど「ビンボー」も嫌いという人も居るでしょうから(いや、それが普通だろ!)、そういう人たちにとっては、「資本主義社会」が「自由でも平等でもない社会」になってしまっていることは、気の毒な気がしますし、自分自身も「ビンボー」は嫌いじゃないですが「自由や平等」は好きなので、そういった部分でも「自由で平等な社会」に成ったらいいなと思うわけです。


そんなわけで、経済の中から「利ザヤ」という考え方をなくせたら、少しイイかなと。

そんな風に思ったわけですね。


もちろん、「現行の経済」と言うモノを全く無視して、チャラにしたところから始めるという話ですが、実際に、「利ザヤレス・経済」は不可能ではないような気がします。

完全な「利ザヤ0・経済」は難しいでしょうが、現在の「利ザヤ」を前提にした経済から、考え方として「利ザヤレス」を前提にした経済への移行を考えることは可能だと思います。
(まぁ、考えるだけならできるっていう程度ですけどね)


実際は「青い色の鉛筆」と「赤い色の鉛筆」を交換していけばいいだけのことですから、出来ないことでも無いはずなんですが、「利ザヤ」が絶対に「あるべきモノ」という固定観念が出来上がってしまっているために、それが出来なくなっているという部分はあると思います。


ただ単に、「100円のモノ」を100円で売ればいいだけなんですけどね。
『それじゃあ、利益が出ないだろ!』となってしまいます。

要するに『利益が無ければいけない』という思い込みが邪魔しているわけです。
本当は余剰な利益が出なくてもうまくまわっていればいいんじゃないかと思いますね。

「企業」っていうのは。


これは、現在の「おカネ」という概念が介在すると、どうしても成り立ちにくく成ることだと思いますが、考え方としてだけでも「利ザヤレス・経済」はアリなんじゃないのかなと。


『それ「社会主義」なんじゃないの?』
いや、根本的な概念が違うということだと思います。

「国家」や「社会」が管理しなければならないということ自体が「利ザヤ・経済」であることを前提としてしまっているわけですね。

「利ザヤレス・経済」を前提に考えれば、「国家」や「社会」が管理していなくても、自由な経済の中で「等価交換」が自然に循環するはずです。


そんなことを思いつきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『いや、だから話だけです』

『別に頭がおかしい人間が言っているわけではありません』

『オカシイとしても少しです』



「結果・〇〇主義」という主義



今の世の中のことを見ていると、『本末転倒』というか、『それ、オカシイでしょ!』というか、『ちょっと待ってください!!』というか、とにかく、『なんでそうなるの!?』ということが非常に多いような気がするわけです。


たとえば、現在の社会は「民主主義」・「自由主義」っていうことに成っているわけですけど、そこのところを追求していけばいくほど、「自由」じゃなく成って行ったり、「非民主的」になってしまったり、ということがよくあると思うわけですね。


こういうのは、何も社会的な「主義」に限ったことでも無いと思います。

たとえば、「ポジティブ」については、このブログでもよく書いているんですが、現在、「ポジティブ」は、それを支持している人たちにとっては、一種の「主義」のようなものに成っていて、その「ポジティブ主義」が、非常に「ネガティブ」だったりすることがあるわけです。

要するに、「悪いもの」まで無理に「ポジティブ」に捉えようとするために、その反動で、どこかが「極端なネガティブ」になってしまうということでしょう。

しかも、「悪いもの」に限って意地になって「肯定=ポジティブ化」しようとしますから、結果的に、極端に「ネガティブな扱い」を受けるのは、むしろ「良いもの」であったりするということが出てきてしまうというわけです。

まさに[本末転倒]ですね。
こういうの、最近、非常に多いと思います。


こういうことが起きてしまうのは、「自由主義」や「民主主義」や「ポジティブ主義(?)」と言うような、それぞれの「主義」の問題ではなくて、実は、「主義」と言うモノ自体の問題なんじゃないか?と思うわけです。

つまり、どんな「思想」でも「考え方」でも、それを「主義」にしてしまうと、それを人間が実践しているうちに、いつの間にか、こういう「本末転倒」が起きてしまうというような、そういう根本的な性質が「主義」にはあるんじゃないかと思うわけです。


どんなに立派な「考え方」であっても、実践するのは「人間」ですから、どうしたって不完全なわけです。
その「考え方」を、間違った解釈で捉える人も居るでしょうし、裏側から抜け穴を探し出して、自分の都合のいいように利用してしまう人だっているでしょうから、「その考え方」の「完璧さ」や「立派さ」は、ほとんどの場合役に立たなくなってしまうわけです。

ところが、それが、その時点で「主義」という形をとってしまっていると、形だけでも、その「主義」に基づいている限り、それらの「間違った解釈」や「ウラ利用法」でさえも否定されにくくなってしまうわけです。

その結果として「本末転倒」が多発してくるんだと思います。


だから、そういうことを防ぐためには、「結果・〇〇主義」と言う「主義」を前提にして行った方がイイように思うわけです。

つまり、どんな「考え方」でも、それを「主義」と言うような形で打ち立てる時には、その前に、それらの「考え方」が「結果的に成就していくこと」を前提として、はじめて、そこに「主義」としての価値を認めようというようなことですね。

それを「主義の前の主義」として設定していった方がいいんじゃないかなと。
(言ってみれば、「法律」と「憲法」のような関係ですね)


そんな風に思います。




『考えないでものを創ってはいけない』と思うのです



ナニカをつくるときには、いろいろなことを考えて四苦八苦しながら創り出すというのが普通だと思います。


でも、なかには考えなくてもできてしまうモノもあるわけです。

『四苦八苦しなくてもできるんだったら、イイことじゃないか?』とも言えるのかも知れませんが、私は、『考えないでものを創ってはいけない!』と言いたいわけなのです。

 ※ここで言う「考えて創られたもの」とは、「思想や信念を持って創られたもの」
  というような意味です。
  「創る」と言う作業の中で、どこかにそういう「考える」と言う工程が含まれてい
  れば、それは「考えて創られたもの」と言っていいと思います。

おなじ「つくる」でも、「作る」の方だったら問題ないのかも知れませんが、それが「創る」の場合に関しては、考えて創らないといけないような気がするわけです。


「創る」と言うことは、それまで世の中になかったものを創り出すということですから、新たに「創られたもの」が現れるたびに、世の中の「モノの領域」が変化することに成るわけです。
(「新製品」が発売されると、それがシェアを占めて、「旧型」は排除されるというようなことです)

と言うことは、「考えないで創られたもの」が現れるたびに、当然「考えて創られたもの」が排除されてしまう可能性が出て来るということです。

そうなると、「考えないで創られたもの」が「モノの領域」の中で、徐々にシェアを広げていくことに成るわけです。

「考えて創られたもの」でも「考えないで創られたもの」でも、最終的に、人間がそれを「選択」しているわけだから、「シェアを広げていくもの」つまり「モノの領域に生き残っていくもの」と言うのは、「いいもの」なんだという解釈もできるでしょうが、その「選択」においても「考えること」という工程が入っているとは限らないわけですから、それが場当たり的な「選択」である場合も多いわけで、その場合は、そういう「考えない」がドンドン増えていって、「考える」の「領域」は食いつぶされてしまうわけです。

そして、残念ながら、実際には、その可能性が非常に高いと思います。

 ※現実に、現在の世の中には、この種の「考えない」が蔓延しているように見ます
  が、その「考えない」と「もっと昔の時代の考えない」は違うものだと思います。
  「教育」が普及する前の時代の「考えない」は、ある意味「考えられない」だったわ
  けですが、現在の「考えない」は、「考えられるのに敢えて考えない」ですから「考
  えない度」がはるかに高いと思うわけですね。


人間は、もともと「考えることで発達してきた生き物」ですから、「考えない」を肯定し続けていくと、問題が出て来るんでしょうね。

「芸術」においては、とくに強く『考えないでものを創ってはいけない!!」と言いたいんですが、必ずしも「芸術」に関してだけのことではなく、他の分野においても言えることだと思います。


ところが、むしろ「芸術」でモノを創るときの方が、『考える必要なんかないんだ!』とか、『考えてばかりいないで、手を動かせ!』などと言われることが、、とても多いような気がしてしまうわけですね。


私は、そういうのは、とても無責任な考え方だと思うんですが、どうでしょうか?
私には、そういうことが「考えない政治」や「考えない教育」や「考えない子育て」と同じように聞こえてしまうんですねぇ。

しかも、そういうことを言っている人たちに限って、そういう「その他の考えない」に関しては、かなり、手きびしい意見を持っていたりすると言う気も致しますです。ハイ。


まぁ、そうはいっても、いつも考えていたんでは疲れてしまいますから、せめて「新たなものを創り出すとき」ぐらいは、『考えて創りましょうよ!』と。


そんな風に思うわけなのです。



「抽象」とは「濃縮すること」



「抽象」と言うと、決まって「具象」との比較で考えられてしまう傾向があって、「具象」とは無関係のところで「抽象」を考える機会が意外なほど少ないわけです。
(評論家のような人以外では、『ほとんど無い』と言ってもいいかもしれません)

でも、本当は「抽象」というのは「具象でないこと」ではないと思うわけです。


確かに、「抽象」という概念には、「具象の不自由さから逃れるためのモノ」とか、「具象の不必要な部分を切り捨てるためのモノ」と言うような、「非具象」としての意味があると思いますが、それは、あくまで、現在言われているところの「抽象」が発生してきたときの状況から(「具象」が定型化しすぎて抜け出せなくなっていた状況から)、そういう意味付けが主流になっていただけなんだと思います。

だから、それから100年以上も経った現在に至って、まだ、その考え方を維持している必要はないと思うわけです。
つまり、もう、「抽象」を「具象」との対比で考えるのはやめた方がイイんじゃないかと言うことですね。

もう少し、純粋に「抽象」とはどういったことなのか?ということが考えられてもいいような気がするわけです。


本当の意味の「抽象」は、読んで字のごとく「抽出」して「表象」することなんだと思います。

それは、みんなわかっているはずなのに、いざ『抽象って何なんですか?』ということに成ると、「具体性を排除すること」というイメージから逃れられないということがあるわけですね。


実は、「具体性」と「抽象性」は正反対ではなく、むしろ、近い所にあるモノだと思います。

「抽象表現」のために、「具体性」を一部分切り捨てる必要があったのは事実なんでしょうが、それは何のためだったのか?ということが抜けてしまって、「具体性を切り捨てたこと」だけが強調されて、刷り込まれ続けてきたということなんじゃないでしょうか?


実を言えば、大事なのは「なんのために?」の部分で、「具体性を切り捨てること」ではなかったように思います。


その「なんのために?」を一言で言えば、「濃縮するため」だと思うわけです。
つまり、「現実を写し取るという意味の具象では不可能な濃度」を、表現の領域に持ち込みたかったということじゃないでしょうか?

手短に言えば、「赤い花」を描くときに、さらに濃度を高めようとすれば、「現実より赤く描く」と言うことに成るわけで、そこで、「現実」を無視する必要が出て来るというようなことだと思います。

これぐらいだと「抽象」とは言われませんが、そういうことを、やり続けていけば「抽象」と言われるようなものに行き着くということです。

「より赤く」と言うのと同じように、「より花である」と言うことをやっていくと、なぜか「現実の花」から逸脱していかざるを得ないということでしょう。


この「現実からの逸脱」と言うのが「非具象」という考え方につながってしまうわけですね。


しかし、「具象」=「現実」ではありませんし、「具体性」=「現実性」でもありません。
さらに、「現実からの逸脱」は結果であって、目的ではないわけです。


目的はあくまで、「濃縮」ですから、「濃縮するための逸脱」でなければ意味がありません。
そして、その「濃縮」には「具体性」も必要だったんだと思うわけです。

というよりも、「具体性」こそが必要なモノであったと言ってもいいんじゃないでしょうか?


要らなかったのは、「拘束となっている現実」であって、「その現実を写し取るという意味の具象」だったわけで、「全ての現実」が無用のモノであるとは限らなかったと思いますし、まして、「全ての具体性」が要らないなどと言うことは有り得なかったわけです。


「抽象」=「非具象」=「具体性を破壊すること」という間違った解釈が成立してしまった結果として、「抽象」の本質である「濃縮」は、ごく初期のころには追求されていたと思いますが、確たる成果を見ないうちに、いつの間にか「抽象」自体が追求されることは無く成り、「具体性を捨てること」だけが追求されるようになってしまったんだと思うのです。


言葉の上では「似たようなモノ」に聞こえるかもしれませんが、「抽象を追求すること」が「濃縮」であるのに対して、「抽象を追求せずに具象性を捨てること」は、「得るモノ」(抽象)は無く、「それまであったモノ」(具象)は捨ててしまうわけですから、「濃縮」とは逆の「薄めること」になってしまうわけです。

当然の結果として、一時期「抽象芸術」においては、『非常に内容の薄い』としか言いようのない作品が多発した時期があったと思いますが、そこのところの明確な解釈が成されていないと思うわけです。

そして、『ただ、ナントナク』その「薄さ」を繕い続けているというのが現状なんじゃないかと思います。

でも、もうとっくに擦り切れてしまっている布地を繕い続けているわけですから、すぐに、また違うところに穴が開いてしまいます。


もう、そろそろ丈夫な布地が必要なんじゃないかと思います。


そういうわけですから、取り敢えず、「抽象」は「濃縮すること」だということを念頭に置いて行きたいもんだなと。
それから、「具象性」も「具体性」もムキに成って捨てる必要なんてないでしょう?と。

いや、まさに、それこそが「丈夫な布地」なんじゃないのかなと。


そんなことが言いたいわけなのです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR