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「抽象の領域」は「幅」ではなく「深さ」

前の記事で「抽象」と言うのは「濃縮すること」ではないか?

というようなことを書いたんですけど、

ここでは、その「濃縮」と言う作業が行われる「領域」について考えてみます。


まず、「抽象」という概念が現れてきた時期の話から始めます。


これは、私がリアル・タイムで体験してきたことでもありませんし、

まして、自分が生まれるよりもかなり前の出来事ですから、

あくまで、一般的に語られている美術史の流れから推測するとと言う話になるんですが、

もともと、現在言われているところの「抽象」という表現形態が現れてきたときには、

そこには「濃縮」と言う方向性もあったと思いますし、

必ずしも、「非具象」=「抽象」と言うことでも無かったんだと思うわけです。


ところが、ですね。

これなんかも、完全に憶測の域を出ない話ですから、

そうお断りして言うことなんですけど、

ムズカシカッタんだと思うんですね。

「抽象」が。

それで、やっているうちに、ワケワカンナク成って来ちゃって、

一所懸命になって、やればやるほど「オカシナモノ」が出来て来るし、

それでも、『これが新しい時代の芸術なんだ』っていう確信だけはあるから、

捨てることも、諦めることもできずに、

始めてしまった手前引っ込みがつかなくて、

『いや、これでいいんだ!』

『間違ってなんかいないんだ!』

『誰が何と言おうが、これが新しい芸術に違いないんだ!』

と自分に言い聞かせてガンバッテいると、

『アレ?後ろからついてくる人が居るの??』

つまり、グループを形成するようになっていったんですね。

これが「芸術の20世紀」において

たくさん出現した「~イズム」の始まりだったんじゃないかと思うわけです。


そして、もう一つクッツイテきたのがマスコミです。
(「芸術の20世紀」における不幸の一つは、「芸術」がマスコミにリンクしてしまったことだと思います)


まず、「~イズム」が形成されます。

すると、それまで「オカシナモノ」だったものが、

「それらしいモノ」のような気がしてきます。

専門家が何人も集まって、その方向性で間違いないと言い合っていくわけですから、

一人でやっている時よりも、数段、心強かったでしょうし、

また、そういう形で、グループ内でお互いに依存し合っていきますから、

抜け出せなくなってしまったということもあったのかもしれません。


そういう新進気鋭の芸術家グループというキーワードに、

マスコミが反応してきたというのは当然の成り行きだったでしょう。

そうなると、もうあとはジェット・コースターです。


『あのグループがスゴイ』となると、そっちに向かって『ダーッ!』となるし、

『いやいや、もうそっちは古いんだよ!今度はこっちだ』となれば、

また、そっちに向かって『ダーッ!』と、

そんなことを繰り返しているうちに、最初の目的だった「濃縮」なんて、

『ナニソレ!?そんなのあったっけ?』

という感じだったんじゃないでしょうか?


そこで、『抽象とは?』の問いに対する答えとして表れてきたのが、

「非具象」と言う言葉だったんでしょう。


それから、もう一つ、「抽象」の目的として、

「表現の領域を広げること」ということが

あげられるようになっていったように思うわけです。


つまり、「幅」ですね。

「表現の幅」を広げようとしたんですね。

「幅を広げようとしたことは悪いことだとは思いませんが、

マスコミとリンクしたものが「幅」を追求すると、

結果的には「限りなく薄く広いモノ」が生みだされていってしまう

ということはあると思うわけです。

要するに「芸術」と「マスコミ」は相性が悪いんだと思います。


尚且つ、「抽象」と「幅」も

必ずしも良い組み合わせではなかったんじゃないかと思うわけです。

「抽象」は「深さ」と組み合わせて考える方が有効なんじゃないかと思うわけですねぇ。


「抽象」は不定形な部分がありますから、

「幅」を広げようとすると、どうしても「薄めること」に成りやすいわけです。


だから、「抽象芸術」は「濃縮された表現」を

深い領域に落としていくのがいい組み合わせだと思うのです。


「深くて濃い表現」と言うのは、おそらく最もマスコミにのりにくいものですから、

そういう表現を追求していくことでマスコミの影響からも逃れられるわけですね。


いま、このマスコミが支配する世の中で、

「芸術」がそれをやらなきゃ誰がやるのか?と。


そんな風に思うわけなのです。




いまって、本当は「すごくラクな時代」なんでは?

このブログでも何度か言っていることなんですけど、

今の時代っていうのは、

本当は「すごくラクな時代」なんじゃないかなと思うわけなのです。


どう考えたって、100年ぐらい前と比べても

「生産力」や「効率」がトンデモナク違うわけで、

もっともっと”ラクなハズ”だと思うわけですねぇ。

産業革命が起きてからだいぶたった後の「100年前」と比べてもですよ。

産業革命以前との比較だったら、さらに大きな差があるんでしょうが、

そうなると、もう、差が大きすぎて

どのぐらいの差なのかがわからなくなるぐらいに違うと思います。


はたして、その差に見合うぐらいに”ラク”になってますか?

明らかに、それに見合うほどは”ラク”に成ってませんよねぇ。


それどころか、やや”ツラク”成っている人すらいたりします。

この数十倍~数百倍、いや、それどころか数千倍?っていうくらいの

『圧倒的な「差」は、いったい、どこへ消えてしまうんだろうか?』


これは、おそらく「世界経済」という「ゲーム」によって

起きていることなんだと思うわけです。

その「ゲーム」が「椅子取りゲーム」なんですねぇ。

つまり、少ない椅子を、それよりも多い人数で

取り合うというタイプの「ゲーム」をやっているわけです。
(要するに、限られた資源や食料を取り合っているわけですね)


ところが、いつの間にか「人数」よりも

「椅子の数」の方が多く成っていたんですねぇ。

それでも、「世界経済」が「椅子取りゲーム」であることに変わりはありませんから、

各国が「余っている椅子」を”キープ”するようになってしまっているわけです。


その椅子には誰も座りません。

使われませんから、価値が消えてしまうんですねぇ。

これが「消えてしまう差」に成っているわけです。


実際には、「椅子」が余ってしまった時点、

つまり「生産」が「消費」を上回った時点で、

「椅子取りゲーム」は成立しなくなっているわけですが、

人間の進化の歴史の中で、

「食うのに困らない時代」と言うのが初めてのことだったので、

また、そういう「時代」が、あまりにも唐突に現れてきてしまったので、

人間たちが、まったく対応できなかったんだと思います。

  ※これは、世界中から飢餓が無く成ったということではなく、
   いまだに飢餓が存在するのは、「食料」が足りないからで
   はなく、「食料」が不均衡に分配されているからで、「椅子
   取りゲーム」によって、その不均衡が生み出されていると
   いうことです。


それで、「椅子」は余っているのに「椅子取りゲーム」だけは続けるという

「異常な事態」が発生しているわけです。

しかも、その「余った椅子」は、使われずに価値が消えていってしまいますから、

「余っていること」にも気が付かれずに、

今もまだ「椅子」が足りないと思われていたりするわけですね。

それで、”ラクなハズ”なのに、みんな、いつも”カツカツ”しているというわけです。


おそらく、「椅子」が余りはじめたのは

「第二次大戦後しばらくしてからだと思います。

だから、そのあたりから、

「世界のどこか」に「バブル経済」が発生するようになってきたんだと思うわけです。

つまり、「誰も座らない椅子」=「消えてしまうはずの差」こそが

「バブルの温床」に成るわけですね。


もう、そろそろ、「椅子が余っていること」に

気が付いてもいいんじゃないかと思いますが、

この状況が都合イイ人が居るんですねぇ。

その人たちが、みんなに「椅子取りゲーム」を続けさせて、

そこで余った椅子の一部が自分の所に集まってくるような

仕組みを作っているんだと思います。


世界的な規模で、とてつもない量の「椅子」が余っていますから、

その中のほんの一部分でも、かなりの富に成るわけですね。

他の大半が捨てられて消えていってしまって、

世界中の人が”カツカツ”していても、

その人たちはあまり気にしないみたいですね。


と言っても、そんなズル賢い人たちばかりではなくて、

「動物的な生存本能」に従って行動している人がほとんどなんだと思います。
(まぁ、そういうのが利用されてしまうわけですけど)


もちろん自分も含めての話ですけど、人間は「ゲーム」を提示されると、

反射的に「競争心」や「闘争心」を駆り立てられて、

「椅子」が余っていても、

その「余っている椅子」を奪い合うようになりますし、

「一つの椅子」を勝ち取った者は、

必ず「二つ目の椅子」を取りに行くわけです。


これは、もう、『人間がそういう風にできている』と言うのに近いことなんでしょう。

だから、そう簡単にやめられないと思います。


つまり、「椅子取りゲーム」自体をやめない限り

この状況からは抜け出せないということです。

「ゲームじゃない」と言うことに成れば、

反射的に「競争」や「闘争」に向かう人は少ないでしょうから。


まず、「生産が余剰を生み出すようになってきているという情報」を世界中にひろめて、

「ゲーム」が終わったことを告げる必要があるわけです。
(同じことが軍事的なパワー・ゲームにも言えると思います)

まぁ、終戦の時の天皇陛下の「人間宣言」みたいなものでしょうか?

これは、インター・ネットが普及した現在ではそう難しいことでも無いはずです。


そうすれば、「まだゲームをやっている人」を見かけた人は、

きっと、『アハハ、まだやってるんですか?オノダさん(ヨコイさんでも可)』

などと言うでしょうから、
(例えです。オノダさんもヨコイさんも、嫌いなわけじゃありません。念のため)

やっている人も、やる気が失せると言うものでしょう。


そうなったら、どうなるんでしょうね?

あくまで”もしも”ですけどね。


たぶん、8時間労働なんて有り得ないと思いますよ。

そんなに働いたら、また余っちゃいますから。

それに、週休4日・5日も当たり前なんてことに成るでしょうね。

それどころか「月労働5日」なんていうことだってあり得なくもないかもしれませんよ。
(かえって、疲れたりして?)


そうなれば、当然「消費」も伸びますから、景気も良くなりますし、

それでも”チョット多く”働けばいいわけですから「ノープロブレム」なわけです。
(それぐらいの方が疲れなかったりして?)


なんて言う都合のいい話がどこかにないもんでしょうか?

『ないです!!』


『でも、空想って楽しい!』

そんな話でした。


こんな記事を最後まで読んだアンタがワルイ! 

♪チャン チャン♪
(♪ホワッ ホワッ ホワッ ホワワワワ~ン♪でも可)




『「悪い人」が出現するのは、ほとんど「教育」と「環境」のせいだ』とは思いませんが、『もしも、そうだったたら』と言う話

良くも悪くも「教育」や「環境」が人間を作っている部分って大きいと思うわけです。

やっぱり、ドブのような環境の中でスクスクとまっすぐに育つ子は稀だと思いますね。


まぁ、だからと言って、「悪い人間」が居るのは

すべて「教育」と「環境」のせいだとは言いませんけどね。

でも、『もしも、仮に「教育」と「環境」さえ整っていれば、

「悪い人間」がほとんど出現しないとしたら』

という、ヒジョーに興味深くもありオモシロクもあるという話です。


もし、そういうことになれば、

当然、「教育」と「環境」に「社会の総力」を結集して、

この二つを整備していくようになるでしょう。

・・・・と言いたいところですけど、果たしてそう成るでしょうか?

『そうでもないんじゃない?』と言う気がしますね。


要するに、既にいらっしゃるんですね。「悪い人」が。「社会の総力」の中に。

しかも、けっこう「社会の総力の中心」に居らしたりします。


だから、「社会の総力」を結集してしまうと、

そういう人によって「教育」や「環境」の整備が阻止されてしまうわけです。

「悪い人」達にしてみれば「お仲間」が居なくなってしまうわけですから、

”おさみしい”んでしょうね。


そうはいっても、そんな一進一退を繰り返しながら、

数百年~数千年もかけて、人間は「教育」と「環境」を少しづづ整えてきたわけです。

「それなりの教育」と「それなりの環境」が普及したことは間違いないと思います。


でも、なぜか、「悪い人」が減りません。


つまり、足りないんだと思います。

とくに「教育」ですね。


「教育」はかなり急速に普及してきましたが、

「質」が向上していないんだと思うわけです。

要するに、「ムズカシイこと」や「高度で複雑なこと」は

「教育の質」ではないということだと思うわけです。

少なくとも、「悪い人が出現しない社会」のための「教育の質」

ではないということですね。


だから、その種の「教育」がこれだけ普及してきているのに、

「悪い人」が減らないということでしょう。

これは前にも書いたことがあることですけど、

「人間」についてほとんど教えられていません。


「文学」や「道徳」みたいなものを教えていれば、

自然とそういった「人間性」も養われていくだろう。

という「成り行き任せ的な方針」に

問題があったのは明らかだと思うんですが、どうなんでしょう?


もっと、直接的に「人間であること」を訓練していかないと

ダメなんじゃないかと思いますね。

「教育」や「環境」が大事、というのと同じように、

人間は「訓練したこと」は出来るようになりますが、

「訓練していないこと」は出来ないと思います。

つまり、「悪い人」が出現しないような「訓練」が

されていないということでしょうね。


だから、「教育」がこれだけ普及しているのに、

一向に「悪い人」が減らないんだと思いますよ。

それどころか、「やや増えてる?」もしくは「かなり悪質化してる?」

という感もあるわけですよねぇ。


とは言っても、そういう種類の「教育」を、ほとんどやってこなかったわけですから、

いきなり、何を教えればいいのかがわからないという問題があるわけで、

まず、先に、その辺のところをよく研究して

ノウハウを作ってから、そういうことをやって行けば、

きっと、ある程度の成果が表れて来るんじゃないかと思いますね。


ただし、そこで「教育学者」のような立場の人を中心に置いてしまうと、

けっきょく、また、同じような繰り返しになってしまうので、

そういった人たちは外さないとうまくいかないでしょうね。


少なくとも、そうやっていくうちに方向が定まっていくんじゃないでしょうか?


取り敢えず、「教育」と「環境」さえ整っていれば、「悪い人」が出現しないとすれば、

そういうことに成るわけです。


とは言っても、これは、

『もしも、仮に「教育」と「環境」さえ整っていれば、

「悪い人間」がほとんど出現しないとしたら』

という話で、まぁ、実際は、それでも「悪い人」は出てくるわけですから、

こんなこと考えてもしょうがないんですけどね。


でも、考えると、少し良くなるような気がしてくるのは不思議なもんです。


『なんじゃい!?このイイカゲンな終わり方は!!』


『どんなモノでも人の心を動かすことは出来る』という問題

「芸術をやる喜び」って、いったい何なのだろうか?と考えると、

それは、「人の心を動かすこと」なんじゃないかと思うわけです。


「感動」とまではいかなくても、人の心をほんの僅かでも動かせたら、

『なにか「意味」が生み出せたんじゃないか?』

と思えたりするということなんでしょうね。


そういう感じで、真正面から、真面目に考えていると、

「人の心を動かすこと」が、なかなか大変なことだなと思えて来るんですけど、

もう少し、ナナメからと言うか、真面目さを崩して考えていくと

実は、「人の心を動かすこと」は、

そんなに大変なことでも無いような気がしてくるわけです。

というか、極端に言うと

『どんなモノでも人の心を動かすことは出来る』とさえ思うのです。


たとえば、唐突に人が階段から転げ落ちれば、見ていた人はびっくりしますし、

暴風雨の中を何事もない様子で平然と傘もささずに歩いている人が居るだけでも、

大抵の人の眼は、その人にクギ付けです。

技術もいりませんし、努力もいりません。

チョットした思い付きだけで十分です。


要するに、そういう「チョットした思い付き」を「絵」にしたりするだけで、

人の心を動かすことは出来るということです。


でも、それが問題だと思うわけです。

それを、やってはいけないような気がするわけです。


つまり、『どんなモノでも人の心を動かすことは出来る』ということが問題なわけです。

少なくとも、「芸術」でそれをやってはいけないんじゃないかなと。

そういう風に思うわけですね。


でも、現在の「芸術」においては、

そういうことが最もスタンダードな考え方の一つに成っている

と言ってもいいような気がします。


とにかく、変わったことや、他人のやらないことをやって、目立つこと、

そういうことを「芸術」という枠の中に収めて見せること、

そんなことが「芸術の本質」であるかのような空気があるのは

確かなことだと思います。


要するに「オリジナリティ」ですね。

これが、「他人と違うこと」と言うことに成ってしまっているわけです。

それで、「他人と違うこと」が

「芸術の本質」であるということに成ってしまっているわけです。

そこが、私は”チガウ”と思うわけなのです。


私は「オリジナリティ」は、あくまで「自分であること」だと思います。

「他人と違うこと」は「自分であること」の「結果」ですね。

「人の心を動かすこと」も同じです。


つまり、自分であればあるほど、結果的に「他人と違う」と言うだけです。

「他人と違うこと」を目的にしてしまうと

「自分であること」が二の次にされてしまうという

本末転倒が起きて来るんだと思います。


本来は、「自分であること」を求めるのが、「芸術の本質」なんじゃないかと思います。

そして、その結果として、「他人とは違う独自の世界」が生まれて、

それによって、「人の心を動かすこと」が出来たら、

『うれしいでしょうね』ということだと思います。


だから、「自分であること」を抜きにした場合は、

「人の心を動かすこと」も「他人と違うこと」も、

「芸術」とは無関係のことになってしまうんだと思うわけです。


それなのに、その「芸術と無関係のこと」が

「芸術のスタンダード」に成っているわけですね。


出来れば、こういう状況から抜け出して、

「芸術」が「自分であること」を追求していかれるように成ればいいと思うわけですが、

それには、「鑑賞者の力」が必要に成ると思っているわけです。


「創作者」側に規制を設けることは難しいですから、

「鑑賞者の眼」が必要に成るわけです。

「鑑賞者」が、「自分である作品」を選んで「他人と違う作品」を選ばなければ、

結果的に「自分であること」が「芸術のスタンダード」に成っていくでしょう。


いずれにしても、今の「芸術」において、

『どんなモノでも人の心を動かすことは出来る』ということが、

とても問題なんじゃないかなと。


そういう風に思うわけです。




「カプセル画」という構想(空想)

これは、今のところ、『実現できないのかなぁ』と思っていることなんですけど、

私は「カプセル画」という構想を持っているんですねぇ。


これは、ごく簡単に言うと、

人が入れるような大きさの「カプセル」を作って、

その内面に「絵」を描くという感じのモノなんですが、

     ※「プラネタリウム」みたいなものを想像していただければ
       いいのかも知れません。
       ただし、基本的に一人の人が入って見ることを想定しています。
       それから、足元(下側)まで球形の画面であるのが理想です。
       つまり、鑑賞者が宇宙空間に浮かんだような状態で、
       「絵の中に浮かんでいる」という感覚を創り出したいわけですね。
       (まぁ、難しいですよね)

当然、人が中に入って見るということに成りますから、

『入口をどうするのか?』とか、
(できれば真ん中の下から入れるようにしたいんですねぇ)

『そんなものを置いておく場所なんかないよね』とか、

『照明はどこからあてるのか?

だいたい、球面の全方向にどうやって照明を当てるのか?』等々、

さまざまな問題があって、「ほぼ実現不可能」なような気がしているわけです。
(それよりも、資金面がいちばんの問題なわけですけどね)


でも、まぁ、頭で考えるだけなら、出来るので時々考えているわけです。


そもそも、なんで「カプセル」に絵を描こうなんて言うことを思いついたかと言うと、

現在、実際に、私が描いている絵に対する考えからきています。


私の場合、「表現の多重化」という考えを持っているんですが、

そのことに関係して、「額」と「絵」の関係性を深めていこうと思っているわけです。
(実際の順番は「額」から「多重化」に至ったんですが)


私の中での「額」とは、

「絵の世界」を「ほかの世界」とキッパリと区切るための「境界線」であり、

「絵の世界」を、そこに封じ込めておくための「結界」でもあると思っています。
(なぜ、封じ込めるのか?と言うのは長くなるのでここでは省略します)


そうやって、「絵の中の世界」と「ほかの世界」を創り出すことから、

「多重化」の第一歩が踏み出せると思うわけです。


それに対して、自分の中で唯一の「境界や結界を必要としない絵」が、

この「カプセル画」と言うことに成ります。


「カプセル画」の場合、見る人が「絵」の中に入ってしまいますから、

「ほかの世界」は「カプセル」の外側と言うことに成るわけです。

要するに、「カプセル」自体が「画面」でもあり、

「境界」でもあるということに成るわけですね。

つまり、「カプセルの内側の面」が「画面」で、

「カプセルの外側の面」が「境界」と言うことに成ります。


結果的に、この「カプセル画」は、私にとって唯一の「額を必要としない絵」でもあり、

「多重化を必要としない絵」でもあるということに成ります。


「額」や「多重化」について考えることも、

けっこう楽しい作業だと思っているわけですけど、

実を言えば、それは「ある種の拘束」でもあるんですね。


つまり、いつも「額との兼ね合い」を考えながら「絵」を描かなくてはなりませんし、

それでいて、「独立した絵」としても成り立たせたいわけですから、

不自由な部分も出てくるわけです。

また、「多重化についても、表現を「多重化」させて重ねていく度に、

何かが犠牲にもなるということがあるわけで、

そういう時には、いつも「小さな苦痛」を感じているわけです。


その点で、この「カプセル画」について考えるときだけは、

とても自由で、奔放な気持ちになれるというわけです。
(まぁ、実現性を無視して考えているから自由になれるんですけどね)


まぁ、そんなわけで、「カプセル画」という構想、

いや、「カプセル画」という”空想”についてのお話でした。


当面、私自身は出来そうもないので、もしよかったら、誰かやってみてください。


『うまくいけば、ウケルかもよ?』


いや、そういうことじゃなくて、

自分の「絵」の中に、人が入って見てくれるっていうのが、

『なんか、イイじゃないですか?』っていうことですね。



「多様化」と「多重化」

時代とともに、世の中のいろいろなことが

「多様化」してきているとよく言われたりしますけど、

「多重化」と言うことが言われる機会は、

それに比べると少ないような気がします。


私は「芸術の多重化」を目指してやっているんですが、「芸術」だけじゃなくて

他のことでも、もう少し「多重化」と言うことが

考えられていいような気がしているわけです。


もちろん、「多様化」がワルイと言うことではないんですが、

「多様化」ばかりで「多重化」が少なすぎると言う気がするわけです。


「多様化」はいわゆる「ヴァリエーション」だと思います。

それに対して「多重化」は「密度」だと思うんですね。


まぁ、例えは悪いかもしれませんが、ハンバーガー・ショップで言えば、

ありとあらゆる種類の「〇〇バーガー」があるのが「多様なバーガー・ショップ」で、

種類を絞って、ベストな食材を組み合わせることで『これが美味しいよ!』と言うのが

「多重化したバーガー・ショップ」と言うようなことだと思います。


そういうと、「多重化した店」の方が、断然いいように聞こえますが、

もう一方で、人間と言うのは贅沢にできていますから、

どんなに美味しくても、一種類じゃ満足できないということがあるわけで、

いろいろな種類の中から選びたいとか、

今日は違う種類のものが食べたいということに成るわけです。

現に、チェーン展開しているような店舗では、

ほとんどの場合「多様化路線」でやっていますよね。


ところが、なぜか、単独のお店だと、

単品メニューの店が人気があったりすることも多くなります。


要するに、チェーン店には、もともと「多様化」を求めている人が行くわけですから、

それでいいということでしょうし、

単独店には、そういう「多様化」を、それ程求めていない人が行くわけですから、

そちらもまた、それでいいということなんでしょうね。


つまり、「多様化」と「多重化」には、

それぞれの「向き・不向き」があるということだと思います。


「多様化」と「多重化」の比重にやや偏りがあるために、

その辺のところが、見えにくく成っているんじゃないかなと思うわけです。


「多様化に向いているモノ」と「多重化に向いているモノ」があると思うんですね。


「芸術」は「多重化」に向いていると思いますし、

ここで言う「多様化」には、それほど向いていないように思うわけです。


それなのに、「芸術」においても「多様化」が進められつつあるという印象があって、

そういう場面に出会うと、なんとなく場違いな印象を受けることも多いわけです。


「多様化」がイケナイと言うことじゃなくて、

「多重化」がソッチノケと言うのが場違いに感じるわけですね。


実際、「現在の芸術」においては

「新しいヴァリエーション」を提示することが求められているような気がしますし、

その「新しいヴァリエーション」を示しさえすれば、

「内容の密度」はそれほど問題にされないという傾向はあると思います。


これは、「現在の芸術」が抱えている

「行き詰まり」からきているような気がするんですね。

早い話が、「新機軸」が求められているわけです。

でも、今はもう、一つの「新機軸」が現状を打開する時代じゃないと思うんですね。

そうやって「多様化」することに頼って行ってしまうと、

「幅」だけが広がって行って

「密度」はドンドン薄まって行ってしまうんじゃないでしょうか?


現状においては、限られた領域で「多重化」していくことで

「芸術の密度」を取り戻して、

そこから、新たなスタート・ラインを仕切りなおすような気持ちが

必要なんじゃないかと思うわけです。


そういうわけで、出来るだけ範囲を広げずに、

狭い範囲で「多重化」していこうかなと。

そういう風に思ってやっておりますです。




「社会問題」は「社会の大きさ」から発生している?

ときどき思うことなんですけど、

「社会で起きる問題」は、

ほとんど「社会の大きさ」で決まっているんじゃないだろうか?

そんな感じがするわけです。


たとえば、「戦争」ですが、

「国」という規模の「大きさ」があって、

はじめて「戦争」という概念は成り立つんじゃないかと思うわけです。

「一人のオヤジ」と「一人のおじさん」が争っても

「喧嘩」であって「戦争」ではないでしょうし、
(なんで「おっさん」限定なんだ?)

「戦争」と言うよりも「平和」に近い印象すらあります。


それから、「社会的な格差」や「貧困」といった問題なんかも、

「都市」と言う「大きさ」から発生しているように思いますね。

「村」単位だと、「貧乏」止まりで、「貧困」までいかないような気がします。


そして、何が言いたいかと言うと、

『ちょっと「社会」が大きすぎるんじゃないか?』ということが言いたいわけです。


「社会」にしても「企業」にしても「地域」にしても、

みんな「大きさ」が大きすぎると思うわけです。

要するに、「社会の大きさ」に合わせて

「問題の大きさ」も大きく成ってしまっているように思うわけです。


『だったら、小さくすれば?』と思うわけですね。

もともと「社会」が大きく成って行ったのは「効率」を上げるためだたと思いますが、

もう、それほど「効率」を重視する必要は無く成って来ていますし、

「大きすぎる社会」は、むしろ「効率」を悪くするということも

わかって来ているわけですから、

それだったら、「大きい社会」を捨てて、

もう少し「小さい社会」にシフトしていってもいいんじゃないかなと思うんですね。


「小さい社会」で「おじさん」同士が何をやったって、たかが知れてます。

そんなにひどいことは起きないと思いますよ。


それに、「小さい社会」で「おじさん」同士が仲良くしていたら、かなり平和な感じですよね。

そういうの、私はけっこう好きですね。


『その国「おっさん」しか居ないんですか?』

『いえいえ、若い女の子もいますよ』

『「おっさん」と「若い女の子」だけってのは、どう考えてもおかしい!』


まぁ、そんな「小さい社会」もあっていいんじゃないかなっていうお話ですね。




「長い題」=詩のような題(その2)

絵に「長い題」をつけることについては前にも書いたんですが、いま、けっこう続けてそういう「長い題」を思いついていて、「絵」とはほとんど関係なく、たくさんの「長い題」がたまってしまっているので、取り敢えず、メモの意味もかねてここに記録しておきます。

とは言え、やはり恥ずかしいタイプの「題」もあるので、『まぁ、これなら人に読まれても耐えられるかな?』と言う範囲のものに成ります。
(前回の中では、『ゴッホへの手紙』と言うのがけっこう恥ずかしかった)

前回の「題」はほとんどのものが「作品」と一応は一対に成っていたんですが、今回の「題」については、「作品」との対応関係はかなり希薄で、「題」に対応している「絵」が、まだ、ないものもあります。

かと言って、その「題」に合わせて「絵」を描こうということもないので、順次できた「絵」に当てはまるものがあれば採用していこうと思っています。

『 』の中はその絵を呼ぶときの呼び名(「ニックネーム」)のようなものです。

あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひめられた

そのものの うちに ひめられた

なかみというものが あるのなら


そういう なかみを みてみたい


はなのなかみや ひとのなかみ 

いしのなかみに うみやかぜのなかみ


そんな いろんななかみを みてみたい


『きっと みんな そうおもっている』んだ とおもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

じつをいうと これがなにかなんて どうでもいいんです


そんなことより あなたに 

このえのなかで さわってほしいいのです

そんなことより あなたに 

このえのなかで いきをしてみてほしいのです 

そんなことより あなたに 

このえのなかの すべてのものに 『つつみこまれてほしいのです』


つまりは あなたに このえのなかで いきてみてほしいということです

そうすれば きっと 

これがなにかなんて もう あんまり きにならないとおもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

じぶんより おおきなものが あるとおもって

それが えがけたら いいだろうと おもって

それが みれたら うれしいだろうと おもって


なんとか えがこうとしましたが 

じぶんよりおおきいので えがけるわけがありません


つまりは そういうえっていうことです

つまりは なんにも えがけやしないっていうことです

つまりは とほうもない じかんをかけて

つまりは ぜんぶのちからを つぎこんで

できもしないことを やろうとしただけっていうことです


でも それでいいんじゃないかと おもいます

わたしは それでじゅうぶんです


つまりは そういうことが 『つたえたかったこと』なんです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みぎとひだりに うえとした

よのなか ふたつに わかれてる

みぎとひだりに うえとした

なんでも みんな わかれてる

みぎとひだりに うえとした

ひとつのものなんて ありゃしない


ひとつのものが みたいなら

つくりださなきゃ みられない

それでも ひとつが みたいなら

ふたつのままじゃ みられない


うん そんなことが できるなら

うん そういうふうに できたなら


ふたつのものは ひとつのもの

ひとつのものは ふたつのもの

ひとつは ふたつで ふたつは ひとつ


そう そんなことが できるなら

そうそう そんなふうに できたなら


みぎも ひだりも おなじむき

うえも したも おなじばしょ

よのなか すべてが ふたつで ひとつ


そんな よのなかは 『きっと たのしい』

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もとにもどる そこにかえる

すべてのものは もとのかたちに もどっていく

もといたところに かえっていく


なににもどる どこにかえる

すべてのひとは うまれたばしょに かえっていく

じぶんが でてきたせかいに もどっていく


どうせ もどるなら 『なんで そこから でてきたのだろう』

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前回同様、「詩」としては、オソマツな感じがするんですが、「題」なんで、それでいいと思っています。
(私は「美しい言葉」を使うことは出来ないみたいですね)

まぁ、「絵」が少しでも伝わりやすく成ればいいかな?ということですね。

『成ってないか?』
『あー、まだ、もうチョットやなぁ』




「言葉のサイズ」を超えるモノが表現したいモノ

「芸術」のような表現形態があるのは、

「言葉では表せないモノ」があるからなんだと思うわけです。

「言葉」では表せないから、

「言葉」よりも曖昧で不確実な表現を使わなければならなくなるんだと思います。


要するに、そう言うモノは、「言葉のサイズ」を超えているんだと思うわけです。

だから、当然「言葉」では表しきれないということなんでしょうね。


本当は、「言葉」で表せるなら、その方がイイような気もします。

少なくとも、その方がワカリヤスイのは確かでしょう。


でも、「言葉のサイズ」を超えてしまっているので、どうしようもないということです。

それで、どうしても、「言葉」よりも曖昧で不確実な表現方法に

頼らなくてはならなくなrんだと思います。


「芸術」を「曖昧」とか「不確実」なんて言うと怒る人も居るでしょうが、

実を言えば、そういう「曖昧さ」や「不確実性」こそが「芸術」の特徴でもあるわけで、

そういった「ゆらぎ」の部分が「芸術」に深みを与えているとも言えるわけです。


「言葉のサイズを超えるモノ」と言うのは、

つまり、「人間のサイズも超えているモノ」でもありますから、

所詮、「人間サイズ」の人間が

そういう「自分より大きいサイズのモノ」を表現するには、

「ゆらぎ」みたいな「曖昧」で「不確実」なものが必要なんだと思うわけです。


そういう部分が、

現在の「芸術の中心」に近い所にあるモノなんじゃないかと思うんですね。


いま、「芸術」に必要なのは、「言葉のサイズを超えるモノ」を現そうとすることであり、

それと同じことを、さらに「言葉で把握しようとすること」なんだと思うわけです。

その二つが、「芸術」と「哲学」と言うことですね。


そして、「芸術」には「哲学」が不可欠であって、

「哲学」には「芸術」が不可欠なんだということでしょう。


そういう「芸術」と「哲学」が一体化したモノが見られたとして、

その先に何があるのかはわかりませんが、

その先にあるモノを見たいと思うわけですね。


だから、やっぱり「言葉のサイズを超えたモノ」を表現したいと思いますし、

それを、さらに「言葉」でも把握したいと思うわけです。


出来るかどうか?なんて考える必要すらないと。

まぁ、今のところ、そんな風に思いますね。


「欲」を捨てなくたって幸せになれるよ!

『「欲」にとらわれていると、本当に大切なものを失ってしまうんだよ!』

と言われることがありますよね。

確かにそうだなと思います。


でも、そういう時に、

たいてい「完全に我欲を捨てること」の方へ話がいってしまうのは

チョト違うんじゃないかとも思うわけです。


要するに、『「欲」って、全部捨てないとダメなんですか?』

ということがあるわけです。


「欲望」に溺れて、本質を見失うから、「大切なもの」を失うことに成るわけで、

少しぐらい「欲」があっても、物事の本質を見失ってしまわなければ、

それでもいいんじゃないかと思うわけです。


もちろん、「物事の本質を見失わないこと」自体が、

人間にとっては「大きすぎる課題」であるわけですから、

それだって無理と言えば無理なんでしょうが、

それと同じように、「欲を捨てること」も無理と言えば無理なんじゃないかと思います。


ただ、、「物事の本質を見失わないこと」は「生(セイ)」を目指しているように思えるんですが、

「欲を捨てること」の方は、

どこか「死」や「無」を向いているような気がしてしまうわけなのです。

つまり、「存在」を否定しているように思えるんですよね。


「欲」っていうのは「生命」の本質に近い所にあるモノだと思いますから、

「欲」を全部捨てようとすると、「生命」が維持できなく成るような気がするわけです。

そして、結果的に「存在」すら消えてしまうような、そんな気もしてくるわけですね。


だから、「欲を捨てる」という発想でもって、ものを考えないようにしています。

どちらかと言えば、

「本物の欲」と「マガイモノの欲」を見極めていきたいと思っていますね。


「本物の欲」は「本当に欲しいモノ」ですね。

「マガイモノの欲」は「本当はたいして欲しくないモノ」です。


「本当に欲しいモノ」や「本当にやりたいこと」だけを望む分には、

なんにも悪いことは無いような気がします。


「たいしてほしくないモノ」や「やりたくもないこと」を執拗に望むと、
(たとえば、競争心や見栄だけでですね)

いろんな弊害が生まれてくるように思いますね。


そんなわけで、

『欲を捨てなくたって幸せに成れるよ!』と言いたいわけなのです。


それどころか「欲」は「幸せの素」なのかも知れないと思います。


だから、「自分の欲」から逃れたいと思ったときは、

『待てよ!そいつ、マガイモノなんじゃないのか?』と疑ってみてもいいのかなと。


実は「本物の欲」を追いかけていくと、

けっこうそれだけで手いっぱいで、

「マガイモノ」にかまってる暇なんてないんじゃないのかなと。


そういう「本物の欲」って意外なほど「ピカピカ」していたりして?

「自分の欲」ってこんなに美しいものなのかって思えたら、

『チョトいいんじゃないですか?』と。


そんな風に思っているわけなんです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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