FC2ブログ

「線で描けないモノ」は描かない(なるべく)



最近になって、考えるようになったことなんですけど、『「線で描けないモノ」は描かないようにしよう!』と思っているわけです。


以前は、どちらかと言うと「線で描けないモノ」の方に価値があると思っていたような気がします。
たぶん、そう言うモノの方が深みがあると思っていたんでしょうね。
(今でも、そういう絵も好きだったりはしますけどね)

それに対して「線で描けるモノ」と言うのは、どこか単純なモノだろうと思っていたわけです。


でも、最近になって、自分の絵に関する限り、「線で描けないモノ」と言うのは、ただ単に、自分が把握できていないだけなんじゃないか?と思うようになってきたんですね。

その辺を、やや誤魔化して「モヤモヤ」っとした感じに逃げているんじゃないのか?と思うようになったということですね。


それで、『「線で描けないモノ」は描かないようにしよう!』と思うようになったと言うわけです。


そういう考え方をするように成ってみると、確かに、「線で描けないモノ」と言うのは、どこか自分が掴みきれていないというところがあるらしく、「線」で現わそうとすうと、思っていたのと全然違う感じに成ってしまったり、また、どう描いていいのかわからなかったりするわけです。

でも、そう言うモノでも、「モヤモヤ」っとした感じで色の変化をつけていくと、ある程度雰囲気が出せることが多いんですね。


そういうのがワルイと言うことではないんでけど、今自分が目指しているところとは、相性がワルイと思うので、『やめよう!』と思ったわけです。


そうやって、絵を描いていると、不定形なモノや流動的なモノでも、自分なりに掴めているものと言うのは、ある程度までは、『線で描けるもんなんだな』と言うことに気が付いたわけですね。


そんな感じで、『線で描けるモノを描いていこう!』
出来ない場合は、『線で描けるように成ってから描こう!』

そんな風に思っているわけです。


追記:それで、その線で描けるように成ったモノに、
   線ではない「深み」を足していけたらもっと嬉しいですね。





「自立する額」は「額」と呼べるのか?



私は、「絵」だけでなく「額」も作っていきたいと思っているんですけど、それが、なかなか大変で「構想止まり」な状態なわけなんですねぇ。


にも拘わらず「構想」の方だけは、変化していくもので、現在、「二重の額」という「構想」も持っていますし、それに加えて、以前から「自立する額」と言う「構想」も持っているわけです。


「二重の額」の方は、「額」を作りはじめた後から、試行錯誤しているうちに出てきたものなんですが、「自立する額」の方は、どちらかと言うと実際的な問題として初めからあったもので、要するに、「額」が大きくて分厚く成ってしまいそうだったので、重量の問題などから、『こんなもの作ったら、壁に掛けるのは無理なんじゃないのか?』という考えが出てきたというわけです。


ただ、そこで一つ問題があって、『「自立する額」を「額」と呼んでもいいのだろうか?』という疑問があるわけです。


つまり、いくら「額」と言っても、また、いくら「絵」を収める枠であったとしても、自立していたら、それは一個の独立した立体物なわけで、「立体」としての性質が強すぎて、「額」とは言えなく成ってしまうんじゃないだろうか?と言うことですね。


昔の教会の祭壇画には、建築と一体化した、それ自体が建築物の一部でもあり、「額」でもあり、「祭壇」でもあり、「壁面」でもあるというような、大がかりなものもあるようですが、そういった祭壇画における「祭壇」は確かに「額」と呼んでいいモノだと思います。

日本の「床の間」や「屏風絵」や「襖絵」なんかも、それに近い解釈ができると思っています。


しかし、私の考えている「額」はそう言うモノよりも規模の小さいもので、あくまで、建築物の一部ではなく、「絵」の付属物であるという方向ですから、むしろ、「絵」を独立させるための「額」でもあるわけで、「より大きなものの一部分」という考え方はしていません。


そうなると、やはり「自立」=「独立した立体物」と言うことに成るような気がしてくるので、そこのところに、結論が出せないままに成っているわけですね。


まぁ、今のところ「絵」を描くのにいっぱいいっぱいで、「額」については棚上げ状態なので、「保留」のままでも問題ないんですけど、現時点で、自分の中での考え方としては、「自立する額」は「絵の付属物」である範囲で、「額」と呼んでもいいんじゃないか?ということに成っております。


要するに、「絵」にそれなりの「力」があれば、「立体」としての存在感が弱くなるので、それが「額」である範囲を上回ってしまうこともないのではないかと思うわけですね。
当然、「絵」が非力だと、「立体」に吸収されてしまうでしょうから、オブジェのようになってしまうだろうと思います。

つまり、「自立する額」というのは、「立体としての表現」と「平面としての表現」の中間にある状態を作るものなのかも知れません。
そういう「微妙な位置」は、「アリ」だと思います。







「人生のパターン」を崩した分が、その人の「進歩」なのかも



『「人生」って同じ「パターン」の繰り返しだよなぁ』と、つくづく思ったりする今日この頃なわけなのです。


「人生」も三分の一を過ぎて来ると(150まで生きる計算です)、『なんで人生には、おんなじ間違いを繰り返したり、抜け出したいのに抜け出せなくなるというパターンがあるんだろう?』と考えたりもするわけです。


まぁ、同じ人間がやってることですから、同じようなことを繰り返すっていうことなんでしょうね。
人間、そうそう変わらないわけですから、当たり前だと思います。


でも、そういう「パターン」を崩して、「違うパターン」に持っていけたら、そういうのを「進歩」って言ってもいいんじゃないかな?と思うわけです。

実は、「わるいパターン」から「いいパターン」に変えることが大事なんじゃなくて、「パターン」を変えるということ自体が重要なんじゃないかという気がするわけですね。


極端に言うと「いい」から「わるい」に変わった場合ですら、「同じパターン」にはまり込んで抜け出せない状態よりは、少し「マシ」な場合もあるんじゃないかと思います。


所詮、人間のやることなんてたかが知れていますから、「いい」と「わるい」の差なんて大したことないわけで、それよりも、「パターン」を崩したことの方が、大きいように思えるわけです。


「いい」か「わるい」かで言えば、「モノスゴクわるい」でなければ、その程度でいいような気がします。


だから、『こういうの実は嫌なんだけど、最近パターン化していてるよなぁ』と思った時には、ちょっと無理をしても「パターン」を崩すようにしています。

それでも、また「同じパターン」に戻ってしまうような場合はあきらめますけどね。
(ま、実際はほとんどそうなりますよね、残念ながら)


「居心地がいいパターン」の場合は変える必要ないと思います。
きっと、これも変えた方が「進歩」ではあるんでしょうが、そこまで「進歩」しなくてもいいのかなと思いますから、変えません。

『じゃあ、いつ変えるんだよ!』って思う人もいらっしゃるでしょうが、そのぐらい『人生はパターンでできているなぁ』と言う風に思うわけですよね。


でも、そうやって「居心地のいいパターン」が増えていって、あまりにも、居心地よ過ぎるようなら、そうなったときに考えます。

『たぶん、成りません!』

『それでは、皆さん、おやすみなさい』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もし、これを誰一人読んでいなかった場合、こういう言葉って宇宙空間のどの辺に漂っていくことになるんだろう?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

答え:「その辺」


「芸術」には「世の中をニュートラルな状態に保つ機能」があると思うのです



「芸術」は「極めるもの」という意味から、極端な方向性を持ったものとして扱われることが多いと思いますけど、実は、「芸術」の社会的な機能として最も大事なのは、「世の中をニュートラルな状態に保つこと」なんじゃないかと思っているわけです。

 ※ここで言う「ニュートラルな状態」とは、必ずしも「中立的である」と言うことでは
  なく、「無理な力がかかっていない状態」というような意味です。
  つまり、「社会」が生み出す「抑圧が少ない状態」ということであって、「二つの
  主張」や「二つの方向性」の「中間」という意味ではありません。
  (そういうものは、それ自体「一種の抑圧」だと思うので)
  むしろ、一人一人の人間が、そうした外部の情報の圧力に左右されることなく、
  最も自由に意見を持ったり、その意見を表明したりできる環境を、ここでは「ニュ
  ートラルな状態」と言っております。

つまり「普遍性」ですね。
「芸術」が示す「普遍性」が「世の中をニュートラルな状態に保つ働き」をすると思うわけです。


「普遍的なモノ」と言うのは、一見「極端」に見えていても、本質的な意味では、必ず「中庸的なモノ」でもあると思います。

つまり、本質的に「極端なモノ」は「普遍性」を持つことができないということですね。
いろいろな性質を兼ね備えていることで、はじめて「普遍的」と言えるわけですから、
まぁ、当然だと思います。


本来、「芸術」における「極める」と言うのは、そういう「普遍性」を極めることであって、必ずしも「極端なこと」をするという意味ではないと思うわけです。

ところが現在の「芸術」に限っては、その辺のところがかなりアンバランスになっていて、むしろ、「普遍性」はそっちのけで「極端なこと」が「芸術の本質」であるかのようになってしまっていると思いますね。

そして、そういう「芸術の極端さ」が、世の中に波及していった結果として、現在、社会の中に「極端なこと」が多々起きてきているという風に思うわけです。


「芸術」の本来の目的が、「社会に対する影響」だとは思いませんが、結果的に「芸術」が「普遍性」を追求していくことで、その「芸術が示す普遍性」によって「社会の中庸性」が維持されていくという働きがあるんだと思うわけです。

そして、更に言えば、そういう「ニュートラルな状態」の中で、人間の自由な意思が一番ストレートに反映されるような空気が生みだされるというのが「芸術」にとって、「一つのイイ・カタチ」なんだと思うわけですね。


そういうわけで、「芸術」が生真面目に「普遍性」を追求すれば、少し世の中が暮らしやすくなるんじゃないかなと。

そんな風に思っているわけです。




「初めてやった人」は本当にエライのか?



「芸術」においてもよく言われることですけど、『初めてやった人はエライ!』というのは本当なんでしょうか?


たとえば、「ライト兄弟」は飛行機を初めて作ったと言われていますが、ハッキリ言って、あんなモノまったく役に立ちませんよね。
地上スレスレのところを”カスカス”な感じで、『やっとこさ数百メートル飛びました』なんてものは、実用的とは言えないと思います。

そういう、実用的な「価値」と言うことから言えば、その後「使える飛行機」を作った人たちの方が、遥かに貢献度が高いような気もします。

実際、もしも、今だに「ライト兄弟の飛行機」しか無かったら、誰も乗りたがらないでしょうし、それ以前に危険です。


だとすれば、けっきょく、

『人間って、頑張れば宙に浮くこともできるんだよ!』

「へぇ~ ・・・・・・だから?」

と言うだけのことに成ってしまうような気がします。


それでも、やっぱり「ライト兄弟」はエライのか?

『もちろん、エライ!』ですよね。


でも、それは「初めてやったから」なんでしょうか?
それとも、「飛行機」に、その後の「価値」が生みだされたからなんでしょうか?

そういう「価値」の高いものが生みだされるきっかけを作ったという意味でエライのか、それとも、「初めてやったこと」自体がエライのか。

どっちなんでしょうね?
『両方でしょ』っていうのが、一番ブナンな答えなんでしょうね。

でも、「芸術の場」では、たいてい『初めてやったことに価値があるんだ!』と言われますよね。


まぁ、それはわかりますけど、そうだとすると、「どうしようもないクズみたいなこと」でも『初めてやればエライんだ!』と言うことに成ってしまうわけです。

そうなると、その時点で、最初の問いに戻ってしまうわけなのです。


『初めてやった人はエライ!』と言うのは本当なんでしょうか?
というところに戻ってしますんですねぇ。


これは、おそらく「意味」と「価値」のチガイだと思うんですね。


「ライト兄弟」が生み出したのは「意味」です。
まだ、「価値」と呼べるものはありません。

そして、飛行機が実用化されたことで「価値」が生まれたわけです。
その「価値」によって「ライト兄弟」が生み出した「意味」が注目されるようになります。

それで『ライト兄弟はエライ!』と言われることに成るわけですよね。


でも、「ライト兄弟」が生み出したのは「意味」だけで、「価値」とは言えないわけです。
(「意味」も一つの「価値」ではありますが、「価値」としては低いということですね)

「意味」と言うことに限って言うと、「クズみたいなもの」でも「初めてやったこと」には「意味」があると思います。
世の中になかったものを創り出したという「意味」においては、「クズ」と「飛行機」ですら、大差がないということです。
(使えないままならば、「飛行機」も「ワン・カインド・オブ・クズ」だったのかも知れないし)


そして、どんなものであれ、そこに「価値」が生まれれば、はじめに「その意味」を創り出した人が『エライ!』と言われます。


でも、本当のことを言うと、「意味」が持っている「価値」は「その後生み出された価値」ではないと思うわけです。


もちろん、「初めてやったこと」にも「意味」はあるでしょうが、それが「純粋な気持ちから生み出された」と言うことが、一番大きな「意味の価値」だと思うわけです。


つまり、『空飛べる道具作ったら、きっと儲かるでぇ』と言うんじゃなくて、ただただ『空を飛んでみたい』という「純粋な気持ち」で飛行機を作ったから、そこで「意味性」が高く成るんだと思います。

『~きっと儲かるでぇ』は「価値」の方は高くても「意味」は薄くなるでしょうね。
はじめの段階で、求めているのが「価値」ですからね。


これは、「芸術」においても同じことが言えて、やっぱり「純粋な気持ち」から、やってこその「意味」であり、『初めてやった人はエライ!』なんだと思います。


そういうわけで、

『初めてやった人はチョット・エライ!』

でも、

『純粋な気持ちで、初めてやった人はモウチョット・エライ!!』

それ以上に言えることは、

『アンタあんまりエラク成っちゃダメョ』ということかなと。


そんな風に思います。



「存在」とは「出現」と言う「スモール・バン」である(?)



「宇宙の始まり」について「ビック・バン」という言葉で言われることがありますが、「個々のモノの存在」と言うのも、そういう「ビック・バン」のようなもので、「存在に至る出現」と言うのは「物質」であれ「非物質」であれ、また「ナニ」であれ、「宇宙」の「ビック・バン」に対して「スモール・バン」と言えるようなことなんじゃないかなと思うわけです。


まぁ、そうはいっても「ビック・バン」ってナニ?って聞かれても答えられませんから、そういう人間が言っていることなんで、読まないに越したことはありません!

もし、読んだとしても、決して真に受けてはいけません!!

 ※この前、買ったものの箱に『包装用のビニール袋をかぶると窒息する恐れが
  あります!絶対にかぶらないでください!!』という注意書きがありました。
     『了解っ!かぶりません!!』
  というのと、だいたい同じ意味です。

さて、「存在」です。

「存在」って「在ること」なわけですけど、『いつから在るんですか?』って聞かれたら意外と困るんですね。

万物が流転していく中で、はじめから「ナニカ」があって「流転」しているのか?
それとも、どこかで「ナニカ」が生まれて来て、そこから「流転」が始まるのか?

『そんなこと知るか!』って感じですよね。


まぁ、その辺に成ると人間が考えてもわからないことなんだと思います。

頭がイイ人でもわからないと思います。
頭がワルイ人でもわからないと思います。

同じだと思います。

こういうことって、人によって差がないと思うんですね。
要するに、誰にもわからないっていうことですね。

とっても、平等な気がします。
だから、こういうことを考えるの好きですね。


まぁ、それはともかくとして、『どうせ、わかりゃしない』という前提で言うんですけど、「存在」は「出現」によって「存在」に至るんだと思うんですね。


それを、ここでは「スモール・バン」と呼んでみたわけです。


つまり、「ビック・バン」によってすべての「存在」が生みだされたと考えるのも、個々のモノの「出現」によって「宇宙全体」が構成されるに至ったと考えるのも、ほとんど同じようなものだと思うわけです。


また、はじめに「唯一の出現」として「ビック・バン」があったと考えるのも、実は「無数の出現」が繰り返されていて、「出現」と「消失」の繰り返しによって、ある種の流れを持った「エネルギ―」と言うモノが出来てきて、それが「存在の流転」であるという考え方をするのも、同じようなことに成るんじゃないかと言う気がします。


まぁ、『どうせ、わからない」ことなんで、なんとでも言えるということですけどね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『えーと、それだけです!』

『いや、だから読まない方がイイですよって・・・』

   注:「スモール・バン」は自動車の種類じゃありません。




「少子化」と「遅子化」



最近、四十歳くらいで、お子さんを設ける人が急激に増えたなぁと思うわけです。

と言っても、統計上のことはまったく知りませんから、いい加減な話だと思っていただいたほうがよろしいかと存じますが、とにかく、自分の身の回りにも多いですし、人づてに聞く話でも頻繁に耳にするようになったと思います。


つまり、「少子化」と同じぐらいに「遅子化」も進んでいると思うわけです。
(「遅子化」は今勝手に作った言葉です)

というよりも、現在のような極端な「少子化」というのは、この「遅子化」によって起きてきているんだと思いますね。
そして、さらに言えば、「遅子化」は「遅婚化」からきているんでしょうし(「遅婚化」も今勝手に作った言葉です)、「遅婚化」は「高学歴化」からきているんだと思うわけです。
(「高学歴化」は作ってません)

まぁ、それらのことを「=」で結ぶことは出来ないとしても、人生の中で「一つの期間」が長く成れば、必然的に「次の期間」に移行する時期が遅く成るのは間違いないことだと思うわけです。

そして、40代から子供を何人も出産するのはかなり厳しいでしょうから、当然、最終的には「少子化」に行き着くということに成るわけです。


『いったい、どこまで辿って行けばいいんだ?』と言う感じですが、この「遅〇〇化」が逆転して「早〇〇化」に逆転するのは、「子供をはじめて教育機関などに預ける時期」まで辿って行ったときじゃないでしょうか?


託児所なども含めて、「子供をはじめて人に預ける時期」は、確実に「早期化」していると思います。


実際、子供が生まれて一年もしないうちに、子供を託児所などに預けて、職場復帰する人も少なくないでしょうし、「おじいちゃん&おばあちゃん」に預けるというパターンを含めればもっと多いでしょう。


要するに、人生の中で「子供が何らかの外部団体に預けられている期間」が(「おじいちゃん&おばあちゃん」=「何らかの外部団体」?というのは置いといて)、「前」にも「後ろ」にも、両方向に伸び続けているわけです。


『それって、子供が一番自由でやり放題な期間でしょ?いいんじゃないの、子供なんだし、ノビノビと育てれば』
そのハズなんですけどねぇ。

『どーも、そーでもない?』

本当に自由でノビノビしていたら、今のような「イジメ」や「不登校」~「ヒキコモリ」なんて起きてないですよね。


単純に言って、あまりにも長すぎるんだと思いますね。
「何らかの外部団体に預けられている期間」」が、ですね。

もちろん、それだけが原因だとは思いませんけど、「イジメ」や「不登校」の問題と、この「長すぎる就学期間」は、少なからず関係があると思います。
(不必要なものを存続させていると、たいてい何か問題が出て来るんですね)

少なくとも、こんなに長くなければいけないという理由が見当たらないんですね。

実生活の中では、ほとんど使われないうちに「忘れられてしまうこと」を学習する期間としては、やや長すぎると思います。


今は「少子化」のことばかりが論じられますが、実際には、元をたどって行かないと、一向に「少子化対策」として有効に成らないと思うわけですね。


「子育てがしやすい環境づくり」とか、「安心して子供を作れる社会」とか、いつも似たようなスローガンを掲げては、『なんで、ダメなんだろ??』と嘆いているだけって、どうなんですかねぇ?


もっと単純なことだと思うんですが、「子供を産める期間」が、ものすごく短く成っているのに、そのピンポイントの間に『たくさん子供産め!』って言われてもねぇ。

『無理に決まってるだろ!!』

というような、単純なことなんじゃないかと思います。


このことに限らず、現在の行政システムと言うのは、「一番有効な手段」だけを「完全に外す」ように出来ていると思います。


ありとあらゆることに置いて、「一番有効な手段」は外され、「残った役に立たない手段」を、すごく時間をかけて、すごく回りくどいやり方で、すごく淡々と実行する、というスタイルが完全にスタンダード化していて、当たり前すぎて、もう誰も文句すら言わなくなってしまっていますね。

私は、こういうことも、ことごとく、『すべて、芸術からきているんですよ!』と言いたいんですけど、まっ、それは置いといても、凝り固まってしまった「形だけの常識」を捨てれば、出来ることは沢山あるんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※この記事を読むと、いかにも「子だくさん」を推奨しているように見えてしまうかもしれませんが、そういうことではなく、問題はモトをたどって行かないと見えてこないということが言いたかったわけで、この場合、「少子化」のモトに成っている「長すぎる就学期間」に「少子化」以上に大きな問題があるんじゃないだろうか?ということを言っているつもりです。

どうも話がブレまして、スイマセン!いつもだけど。


「意味」が希薄な部分に「意味」を補充するという作業



私が考えるところの「芸術の多重化」についての話です。


芸術作品に関することの中で、作品自体ではないけれど作品に影響があることっていうのが、けっこうあると思うわけです。


たとえば、私自身がやっていることで言えば、「額」もその一つですし、最近になって考えるようになった「長い題」もそうですね。
(こういうの、まだ、ほかにもあるんじゃないかなぁ?)


そう言う「作品周辺のモノ」って、これまで、かなりナイガシロにされてきたような気がするわけです。


『なんかオシャレじゃないんだよねぇ「額」って』みたいな感じですか?

「題」なんかでも、モノスゴク当たり前の「題」があるかと思うと、正反対に、どう考えても、見た人が作品と結びつけることが不可能な「題」もよくありますよね。


そういう「題」を見ると、たぶん、この作者は、『「題」なんて重要じゃないんだよ!』って言いたいんだろうなと思ってしまいます。


要するに、軽視されているっていうことなんでしょうね。
そういう「作品周辺のモノ」達がですね。


言い換えれば、「意味が希薄」なんですね。

作品との関わりとしては、かなり影響のある近い位置にあるのに、作品を重視することばかりが考えられてきたために、そういう「作品周辺のモノ」の「意味」が希薄になってしまったんだと思います。


そして、そういう「意味」が希薄な部分に「意味」を「補充」していけたら、一つの展開と成り得るんじゃないか?と思っているわけです。


実際は、作品を重視していくと、必然的に「作品周辺のモノ」にも意識が向くというのが自然なんじゃないかと思うわけです。
そういうことが、一つの「芸術の多重化」に成ると思っています。


「現在形の絵」においては、「額なし」が主流になってきていると思いますが、実際には、「額」がないということも、その絵の「見え方」に影響しているわけで、「絵の周辺」と言うスペースが存在する限り、必ずそこに影響が出てくるわけです。


「額装しないこと」も「額装の一種」であるという考え方もあるみたいですし、私もそう思います。
どっちみち影響があるんだったら、もうチョット見直してやってもいいんじゃないか?と思うわけですね。

つまり、そういう「影響がある部分」が、「意味が希薄」な状態のまま、放置されているのはモッタイナイと思うわけです。
(というか、気に成らない方がオカシイんじゃないの?)


いつの時代も、芸術においては、いろいろな人が、いろいろな創意工夫をしていると思いますが、それらは多くの場合「新しさ」を追求しているわけです。


私は、現在の芸術において、「新しさ」とは「スタイルの新しさ」だと思うのです。
「スタイル」は「形式」と言ってもいいと思います。
つまり、作品や表現自体と言うよりは、それらの「形式」が新しいことで「新しさ」を感じることが多いわけですね。

ということは、「新しさ」を追うということは、「作品の内容」とは必ずしも関係のない所での、「形式の新しさ」を追い求めるということなわけです。

そして、「新しさ」が求められ続けた結果として、「内容」が希薄になりつつあるという印象があるわけです。


現在、芸術において「ストレートな表現」を目にする機会が少なく成っていると思います。

みんな純粋な気持ちで始めるんだと思うんですが、その過程で、「新しさ」と「ストレートな表現」の二者択一を迫られますから、どちらかを選んで、どちらかを切り捨てなくてはならなく成るわけですね。


「新しさ」を選択した人は、比較的成功する確率が高くなります。
「ストレートな表現」を選択した人は、評価されにくくなります。
ドッチツカズの人は、絶対に評価されません。

だから、今は、「新しくてストレートじゃないモノ」が多いんだと思います。


芸術表現に、未開拓の領域がたくさんあった時には、作品自体の「ストレートな表現」で、同時に「新しさ」を追求することもできたのかも知れませんが、現在は、「新しさのサイクル」を上回るスピードで開拓が進められてしまうので、未開拓の領域が無く成ってしまったんだと思います。


そういうギュウギュウ詰めの状態の中に、「新しさ」を無理矢理ねじ込む過程で「ストレートな表現」が切り捨てられていってしまうわけです。


そこで、「スタイル」=「形式」の「新しさ」、の部分を、「作品周辺のモノ」でまかなえたら、いいんじゃないかと思うわけです。


それは「作品自体」ではないので、「作品自体」が「ストレートな表現」のために確保できるということですね。


そういったことから、「今まで意味が希薄だった部分」に「意味」を補充していけたら、チョットだけ、良くなるんじゃないのかなと。


そういうことを考えていたりもするわけです。




「動物にとっての価値」と「人間にとっての価値」



「価値」なんてことを考えるのは人間だけなのかも知れませんけど、それでも、やっぱり動物には「動物の価値観」があって、人間には「人間の価値観」があるように思うわけです。


もちろん、「うさぎの価値観」は、うさぎにしかわからないでしょうし、「カメの価値観」は、カメにしかわからないんでしょうが、想像することぐらいは出来ますから、想像してみるわけです。


「動物にとっての価値」では、「生存すること」や「繁殖すること」が重要になるんだと思います。

これは「人間にとっての価値」でも同じことだと思います。


違うのは、「動物にとっての価値」においては、「生存」や「繁殖」が常に「最重要」であって、ほぼ全てにおいて、優先するのに対して、「人間にとっての価値」においては、わりと頻繁に「生存」や「繁殖」が二の次になることがあるというところでしょう。

とは言え、やっぱり人間にとっても「生存」や「繁殖」は重要ですから、そこに「価値」を置いていることが多いわけですが、その他のことに「価値」を見いだせないということが、どうも人間的じゃないように見えてしまうわけですねぇ。


「生きることにどん欲なこと」は、「活力」と言い換えることもできるでしょうし、「恋愛やSEXにどん欲なこと」も、ほぼそれと同じことだと思います。

それ自体は、悪いことではないと思いますが、その他のことに「価値」を見いだせないとなると、急激に、『動物的だよね』と言う印象が強く成ってしまいますね。


そういう時の「その他のこと」を「文化」と呼ぶんだと思うわけです。


「動物の価値」よりも「人間の価値」の方が「価値」が高いとは思いませんし、「文化的なこと」も「人間的なこと」も、ひとつも「エライこと」だとは思いませんが、あらゆることに置いて「本質に近いモノ」は美しいと思いますし、「本質を外したモノ」は美しくないと思います。

だから、やっぱり「人間」は「人間の価値」を持っていたほうが、チョットだけマシになれるような気がします。


チョット・マシなだけでエラクないのは、エラク成ったら、やっぱり美しくなく成ってしまうからですね。


もしかすると「美しいこと」っていうのが、典型的な「人間の価値」なのかも知れませんね。


美しさのかけらもない状態で(まぁ、要するに「醜い状態」ですけど)、平然としていられるように成ったら、その人は、もう「人間」とは言えない「別の生き物」になってしまうような気がします。


まぁ、これも「人間」だからエライわけでも、「別の生き物」だから悪いわけでもないと思いますから、「別の生き物」として「生きて&死んで」行きたい方は、『どうぞ、どうぞ』と思いますけど、私は「人間」として「生きて&死んで」行きたいので、「人間の価値」をちょっと一所懸命に拾っていきたなと。

そんなことを思ったりもするわけです。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR