FC2ブログ

「才能」とは「世間的な評価」のこと



このブログでも何度か書いているんですけど、私は、いま言われているところの「才能」とか「個性」という言葉が、非常に無意味なものに思えるわけなのです。


だから、『この二つの言葉はもうやめてしまってもいいんじゃないか?』と思っているくらいなんですね。


とにかく「才能」とか「個性」と言うときに、それが「ある人」と「ない人」に分けられてしまうんですねぇ。

これは現在「才能」や「個性」という言葉に与えられている設定を無視していて、その為に、この二つの言葉の中に自己矛盾が発生してしまっているわけです。


その設定と言うのはどういうことかと言うと、現在言われているところの「才能」とは、「全方向への才能」を意味しているという設定であり、「個性」などはもともと「全方向的な性質」を持った言葉なわけですが、その「全方向性」がさらに強調されているのが、現時点的な「個性」の設定であるといって差し支えないと思います。

だから「ある人」と「ない人」が居るハズがないわけです。


それを「ある人」と「ない人」に分けてしまいますから、当然、これらの言葉から「全方向的な性質」は失われて、「特定方向的な性質」を持つようになってしまうわけです。

しかも、実際には「特定方向的なモノ」に成ってしまっているのに、建前上は『全方向的なんですよ』と言う形をとってしまっていますから、矛盾が出てきてしまうわけですね。


『皆さんの才能が輝いていますよ』と言っている割には、「特定方向に沿っていないモノ」には見向きもしないという感じですね。


そして、その「特定方向」っていうのは、つまるところ、「世間的な評価」に過ぎないわけです。


昔は、「技術」とか「見識」とかと言った、ワカリヤスイ「特定方向」が「公認の方向」として設定されていましたから、『技術が高い人は才能がある』とか、『豊かな見識を独自に表現できる人は個性的』と言うように、ある程度「目指すべき方向」が決まっていたようなところがあったんでしょうが、その「ワカリヤスイ目標」を外されてしまったので、何を「才能」とか「個性」と言っていいのかわからなくなってしまったんでしょうねぇ。


ワカラナイので、「誰かがイイと言ったモノ」が「才能」であり「個性」であるということに成ってしまったんだと思います。

ところが、その「誰かがイイと言ったモノ」を「イイと言った人」も、、実は「誰かがイイと言ったモノ」を『イイ!』と言っただけだったりするわけですから、そこでの「才能」や「個性」という言葉には、もう、まったくと言っていいほど「実体」も「意味」も無く成ってしまっているわけです。


実際、現在「才能」と言う場合に、まったく「世間的に評価されていないモノ」を「才能」とは言いません。
というか、言っても「ジョーク」や「コント」になってしまいます。


これは実例を示せばわかりやすいと思います。


『うちの子はとっても絵がウマイんですよ』

「なるほど、お宅のお子さんには絵の才能があるんですね」

この場合「絵がウマイ」が「世間的な評価」です。
だから、この会話が「才能の話」として成り立っています。


ところが、

『うちの子は鼻くそホジルのがウマイんですよぉ』

「ほほう、それはすごい才能だ!!」

この場合、「鼻くそ」がネックになっています。
それで「ウマイ」が「世間的評価」につながりません。

だから、「才能の話」ではなく、「才能のコント」に成ってしまうわけです。

   注:「鼻くそ」を、他の「〇〇くそ」に置き換えても、大丈夫です。

   例:「目くそ」・「耳クソ」 など

   質問:『「〇〇ゲロ」も使えますか?』

   答え:『それは下品です。却下します!』

こういうのは極端な例ですが、『あの人は才能がある』と言われて、大方の人が納得できるような人というのは、「世間的に評価されている人」に間違いありません。

これを、「才能」があるから『世間的に評価されるんだ』と言えばもっともらしく聞こえますが、もしそうなら、「鼻くそ堀り」もウマければ一種の「才能」ですから、『世間的に評価されるハズ』です。

実は逆で、「世間が評価したモノ」を、盲目的に「才能」と言っているだけだったりするわけです。


『そんなこと言ったって「才能がある人」も「個性的な人」も居るだろ!?』という固定観念が邪魔してるんですね。


実際は「才能」も「個性」も、人によって「質」が違うだけで、持ってる「量」はあまり変わらないと思いますね。

それが事実だと思います。


それでも、まだ「才能」や「個性」を、「あるモノ・ないモノ」と考えたい方は考えればいいと思いますけど、

私は無理ですね。
どう考えてもオカシイんで。


こんなこと言うと『ナニを言うか、このインチキ野郎が!』と言われそうですけど、

『いや、そこは「この鼻くそ野郎が!」でお願いします!!』

そんな風に思っているわけです。



「20世紀のシッポ」



『芸術の世界は今も「20世紀のシッポ」を引きずってるなぁ』という風に感じることがよくあるわけです。

 ※一応念のためにお断りしておきますけど、これは『自分だけは「20世紀のシッポ」
  なんて、トックのトウに切り捨てて、引きずってなんて居ないよ』という話ではな
  く、自分も含めた「いまの人」が全体として「20世紀のシッポ」をひきずってい
  るなという話でございます。

  私は、「芸術の20世紀を喪失する」という考え方をしていますが、だからと言っ
  て「芸術の20世紀の影響」から逃れられていると思っているわけではありません。
  できるだけそうしたいと思っているだけです。
  そして、それで十分だと思っているわけです。
  この記事に書いてあるのもそんなことでございます。


人間は「継承すること」なくしては、何一つ成し遂げることが出来ないと思いますから、前の時代からナニカを受け継いだり、それを守ったりすること自体を悪いことだと思う気持ちはカケラもありませんし、「継承」は、むしろ必要不可欠のことであるとすら思います。
(ナニも受け継がずに、ナニにも影響されずにできることなんてほとんどないと思いますから)

にもかかわらずですね、やっぱり、『「20世紀のシッポ」を引きずってるなぁ』と思ってしまうわけですね。


つまり、それが「継承」と言えるものに成っていないという印象があるということです。


『じゃあ、どういう印象なんだ?』と聞かれるなら、『抜け出せなくなっている』という印象です。
(しかも『抜け出そう!』という意識自体が無い?)


これは「芸術」の世界に限ったことではなく、科学の領域全般にも当てはまることがあると思いますし、医療や産業の分野でも同じようなことを感じることがあります。


たとえば「精神医学」の世界に「フロイト」と言う人が居らっしゃいますが、その「フロイト」から抜け出せていません。

19世紀~20世紀にかけて「フロイト」が研究した「精神分析学」がいかに優れたモノであったとしても、なにせ百年以上も前のものです。
これだけ世の中が変化しているのに、『今だに「フロイト」ですか?』という印象は否めないと言えるでしょう。
   
 ※専門家は『そんなことは無い!』と言うかもしれませんが、「フロイト」が完全に「精神
  分析学の祖」と言う位置に置かれたわけでもないようですから、やはり影響力がそれ
  なりに残っているということなんでしょう。
  要するに「フロイト」が「過去の人」に成ってないんですね。


また、医療においては、「抗生物質」と言われている薬なども、そこから抜け出せません。

抗生剤は使い方によっては効果があるでしょうが、現在の医療はそこに依存してしまっています。
結果的に「耐性菌」と言われるものを生み出してしまいましたし、人間の中にある治癒力を弱めてしまっていることも否定できないと思います。
    
 ※おそらく、この状況は、今後深刻化していくんじゃないでしょうか?もしかすると、この
  「免疫力の低下」という現象は、原子力なんかよりも、大きな「人類の脅威」に成って
  行くのかも知れないなと思います。
  まぁ、厳しい言い方をするなら、『今、アナタが使う抗生剤が、人類の子孫を滅亡させる
  のかも知れませんよ!』と言うことですね。

  実際は、、薬を使うことが問題なんじゃなくて、”使い過ぎ”が問題なわけですけどね。

また、産業にしても、「大規模工業化」という流れが出て来たのは18世紀~19世紀あたりでしょうから200年以上も前のことです。
それを20世紀になって完成形と言えるものにまで到達させたのは(本当のことを言えば「完成」というより「打ち止め」なんでしょうが)、『人間ってけっこうガンバッタんじゃないの?』と思います。

でも、やっぱりそこから抜け出せません。
技術面で言えば、20世紀に開発された「原子力」が「最後の一手」だったように思います。

確かに、今も「技術革新」は続いていますが、それらは「リスク」を伴うようになってきています。
というより、「リスク」の方が上回るようになってきているわけです。
そういう意味で「原子力」が「ギリギリの所」だったように見えるわけですね。
(あくまで「ギリギリ」であって「安全圏」とは言えないと思いますけど)

いま必要なのは「新しい技術」ではなくて、200年も前から続いている「大規模工業化」という「流れ」に替わる「新しい流れ」を見つけ出すことなんじゃないかと思うわけですね。


それから、「アインシュタイン」なんかも「抜け出せない」の一つですね。

あくまで、『「物理学」ってナニ?』みたいな人間から見たらと言う話ですけど、今の物理学者の人たちって、『自分がどこまでアインシュタインについてウマク説明できるか』みたいなことを競っているように見えるわけです。

やっぱり、『抜け出せていないなぁ』と思ってしまうわけですね。
(まぁ、これも『チガウ!』と言うんでしょうね)


まぁ、こういうのがけっこうたくさんあるんですね。

その中の一つが「芸術」っていうことです。
そして、「芸術」の場合、それがヤタラメッタラに多いんですねぇ。


たとえば公募団体の公募展の入選作なんかを見ても、「20世紀のシッポ」を引きずっている作品がほとんどだと言っていいと思いますね。

そういう作品じゃないと入選し辛いという公募団体も多いんじゃないでしょうか?
つまり、「すでに価値の確定している作品」を評価する傾向があるわけですね。

 ※「芸術」の世界は、一見すると、いつも「新しいモノ」を提示するように要求している
  ようにも見えますが、本当はかなり保守的でもあって、そこで言う「新しいモノ」と言
  うのは、あくまでも、「新しいモノと認められているモノ」であり、「過去において、より
  古いモノを破壊したモノ」であるわけです。
  つまり、「20世紀よりも、さらに古いモノ」を前提とした上での「新しいモノ」である場
  合が非常に多いということですね。

また、いわゆる「プロの作家」の方の作品でも、ほとんどの場合、どこかしらに「20世紀のシッポ」を引きずっています。


見てわかりやすいのは「キュビズム」と「シュルレアリズム」です。

今でも、「キュビズム」や「シュルレアリズム」を引きずっている作家は意外なほど多いと思います。


それから「ポップ・アート」ですね。

「ポップ・アートの焼き直し」、これが今の主流の一つだと言っていいかもしれません。

「ポップ・アート」には、その当時の「現代美術の先」的な側面があったと思いますから、今だにそれを引きずっていても「古臭い」という印象があんまりないんですね。
むしろ、ウマク焼き直しさえすれば、とても「新しいモノ」のように見えます。

でも、それは「ポップ・アート」がとてもスバラシイからと言うよりは、「ポップ・アート」と同時に「より古いスタイル」が、常に存在し続けているからです。

 ※これも、また「古いモノ」を前提としているということですね。
  その「古いモノ」を前提とした「ポップ・アート」を前提として、それをまた、さらに
  ”焼き直し”ているわけです。
  「新しさ」が生まれるわけがありませんね。

いくら「新しいモノ」に見えても、あくまで「半世紀以上前のモノ」ですから、「シッポを引きずっている」ということにかわりはありません。


「抽象芸術」にしても「表現主義」などは常に引きずられています。


これらのことに限らず、「芸術の20世紀」において無数に出現した、ありとあらゆる「スタイル」が「シッポ」として引きずられ続けています。


それらは、なぜ「継承」とは成らないのでしょう?
どうして、「シッポ」として引きずられてしまうのでしょう?


それは「芸術の20世紀」が「継承」を拒絶しているからです。
そして、その「継承の拒絶」が「芸術の20世紀」の根本的な性質でもあるわけです。


だから、「芸術の20世紀」を「継承」することが、「芸術の20世紀」を否定することにも成ってしまうわけですね。
だから、「リスペクト」できないわけです。

それで、「引きずる」しか無く成ってしまうんだと思います。


このような流れの中で、「20世紀」が「シッポ」として引きずられているように、私には見えるわけです。


じゃあ「20世紀以前の芸術」に関してはどうなのか?というと、「印象派以前の芸術」に関しても、「継承できない20世紀」で時代が分断されていることで、結果的に、それらは「古典」に位置づけられてしまいます。


要するに、あまりに古く感じられてしまうために、やはり、「継承」することができなくなってしまうわけです。

いま「印象派以前」を受け継ごうとすれば、「伝統の踏襲」にしか成らないということですね。
それもまた、「継承」とは違う作業になってしまうわけです。

つまり、「抜け出せない」という点で、同じようなものだということです。


要するに、産業において必要なのが「新しい技術」ではなく、「大規模工業化という流れ」とは違う「新しい流れ」であるのと同じように、「芸術」において必要なのも、そういった根本的な方向転換なんだと思うわけです。


たとえば、産業において「エコロジー」とか「リサイクル」と言うモノがありますけど、それらはあくまで「大規模工業化」の「裏面」として存在し得るものだと思います。

つまり、「大規模工業化の流れ」が前提になってしまっているわけです。
だから、根本的な方向転換にはなっていないということです。


言ってみれば、「ポップ・アートの焼き直し」が、一見すると目新しいものに見えるのと同じですね。
実体としてはまったく「同じ向き」を向き続けているわけです。


そういうことではなく、「20世紀」において、欠落していた部分を補填していく必要があるということです。


私は「20世紀」において、最も切り捨てられ続けたものは「人間」だと思います。


だから、「芸術」も「他のこと」も「人間性」を重視して、それを回復させることが出来れば、「20世紀のシッポ」を切り捨てて、新しい時代に移行することができると思うわけです。


「表現形態」で言えば、二極を融合することですね。

たとえば、「抽象と具象」とか、「動と静」・「有(存在)と無(非存在)」・「立体(空間)と平面」・「色と形」・「物質と精神」などですね。
そういった、これまで両極に分かれた位置にあるモノとして捉えられて来たために、融合しようという考え方がされていなかったモノを(というよりも、極化することばかり考えられてきたと言ってもいいでしょう)一体化する方向で考えていくことが「脱・20世紀」につながると思っています。


こういうことを言うと、『そんなこと、オマエ出来んのかよ?』という方がよく居らっしゃいますけど、そういう人には、『出来ないからヤラナイのかよ?』と言いたいですね。

まして、『ヤロウともしない』だとしたら、『そういう人にのかよ?、そんなこと言う資格あるんですか?』と思ってしまします。


「出来そうもないことを、無駄だと思っていてもヤロウとすること」
これこそが「芸術と言うモノ」だと思いますよ。


必ずしも「新しいこと」がイイとは思いませんし、「新しさ」を提示しなければダメだとも思いませんけど、ナニカに「依存」したり、ナニカに「固執」したりすると身動きができなくなってしまうんだと思いますね。


すでに固着してしまった「過去の流れ」に身を任せているということには「意味」が無いと思うわけです。
それは、もう「流れ」ですらないわけですから。


実際は、「新しい流れ」が動き出したときには、それも、もう終わりかけているわけですから、「現在」にのっとった考え方をしていると、結果的には「過去」に捕らわれてしまうわけです。


そういった意味で、、自然な形で「新しい流れ」が出来ていくといいなと思いますね。


その時、その場所で、どういうことが起きるのか、私は見てみたいですね。
だから、「20世紀のシッポ」は切り捨てていこうかなと。


そんな風に思ってやってるわけなのです。





「言葉」は「論理」に向いていない



「言葉」=「論理」と言ってもいいぐらいに、「論理」とは「言葉」によって構成されるものであるということに成っているわけですけど、本当に「言葉」って、「論理」に向いているんでしょうか?

私といたしましては『そうでもないんじゃないかなぁ?』と思っているわけです。


確かに、「論理」という言葉の意味からしても、「論理」とは「言葉」によって思考することだと言っていいと思います。
でも、だからと言って「言葉」が「論理」に向いているとは限らないと思うわけですね。


それを、もう少し詳しく言うと、『今の言葉は「論理」に対して最適化されていない』
という風に思っているわけなのです。


確かに、「論理」は「言葉」で構成するものだと思いますし、それ以外のものではないと思うわけです。
ですから、「言葉」よりも「論理」に向いているものが他にあるとは思いません。

しかし、「現在の言葉」というのは、必ずしも「論理向きの言葉」として作られたものではないと思うわけです。


もともと、「言葉」と言うモノが、どのように発展してきたかを考えればわかることですが、当然、それは初期の段階では「鳴き声」であったわけです。
ということは、初期の「言葉」は「感情表現」が中心であって、「論理」とは対極にある「感情」を現すために出来て来たものだということです。

そういう形で発達する過程で、「言葉」が「感情」とは少し違う意味を持つようになっていったというのが、人間の理論的な思考の始まりの段階だったんだろうなと想像するわけです。

要するに、「言葉」の意味が積み重ねられるようになったんですね。
というか、「言葉」が「積み重ねることができるもの」だということに、人間が気付いたという方がイイのかも知れません。


そういう過程を経ていく中で、「言葉」はかなり「論理向き」に成って来ていると思いますが、それでも、まだまだ「最適化」には至っていないように思うわけです。


一言で言えば、「とっても曖昧」なんですね。
「言葉」って。


これは「感情」や「感覚」などの情緒面を現すのには向いているでしょうが、「論理」には向いていないと思うんですよね。


ただ、それを徹頭徹尾「論理向き」にして行くと、「記号論理学」のようなものになってしまうんだと思います。
そういうのを「言葉」と言えるのか?となると、それも、やや違うかな?と思うわけです。
(というより、チンプンカンプンですけどね)


つまり、「言葉」は「論理向き」に最適化してしまうと、結果的に「言葉」からは離れて「記号化」するしかないような気がします。

「記号」も一種の言語だと思いますし、「言葉」も一種の「記号」だとは思いますが、「記号化された言葉」と言うのは「言葉」としての性質が薄く成るんだと思います。

まぁ、その分「論理向き」に成るんでしょうね。


その辺のところで、いま人間ができる「最適化」とは、現在与えられている「言葉」を使いながら、それが必ずしも「論理向きな言葉」ではないということを、常に意識しながら使っていくことなんじゃないかなと。


そうすることで、お互いの矛盾点ばかりを上げ連ねるというような「意味の薄いお話」が少しでも避けられるなら、それだけでも少しマシになるんじゃないのかなと。
(曖昧な言葉で、曖昧な言葉の、曖昧な矛盾を、曖昧に指摘する=無理)


まぁ、そんなことを考えてみましたよ。




続きを読む

「能力がホメられる世の中」と「努力がホメられる世の中」



「能力がホメられる世の中」と「努力がホメられる世の中」だったら、どっちがイイんでしょうね。

私は「努力がホメられる世の中」であってほしいなと思っているんですね。


いや、けっして、自分に能力が無いから言っているんじゃないですよ。

『ゼッタイに違いますよ!』

『誓ってもいいですよ!!』

『1万円賭けてもいいですよ!!!』

「・・・・アンタしつこく言う割に、金額が少ないよね」

 ※私にとっては千円からが大金なので、1万円は巨額の掛け金に成ります。


とにかく、そういう個人的なことじゃなくてですね。

「能力が評価されること」には、それほど「意味」を感じないんですけど、「努力が評価されること」には、大きな「意味」があると思うわけです。

つまり、「社会的な意義」と言うことですね。


まぁ、「社会的な意義」も無ければ無いでもいいかなと思いますけど、あるならば、あってもイイと思いますから、考えてみるわけです。


どうして、「能力がホメられる世の中」には「社会的な意義」が無くて、「努力がホメられる世の中」には「社会的な意義」があると思うのかと言うと、「努力がホメられる世の中」だと、みんなが努力するようになるからですね。

すごく当たり前で単純なことだと思います。

でも、その逆に、「能力がホメられる世の中」に成ったとしても、みんなの能力が高く成るわけではありませんよね。

これも当たり前のことだと思います。
だから、「能力がホメられる世の中」には「社会的な意義」を感じないわけです。


しかも、「努力がホメられる世の中」に成った場合は、みんなが努力するようになるだけでなく、結果的に、その中から「能力を発揮する人」も出てくるわけです。

これまた、当然の成り行きですよね。


そうなれば、もう「努力がホメられる世の中」に「社会的な意義」を感じずにはいられません。


そんな感じで、私は「努力がホメられる世の中」に成ればいいなと思うわけです。

そして、このようなことから、『これまでの人生の中で、いま一番努力しているんじゃないか?』と思うほど、努力しているんですが、それが、イマイチ人に伝わらないようで、なんとなく「ラク」してるように見られがちです。


まぁ、それでもいいと思ってやっているので、『わかってくれ』とは言わないが
(こんな歌あったよね?)

努力してるのと、まったく逆のように思われてしまうのはけっこう悲しいかなと。


そんな風に思っていたりします。



そもそも、どうして「素人にはまったくわからない芸術」と言うジャンルが存在しているんでしょう?



そもそもですよ、『どうして「素人にはまったくわからない芸術」と言うジャンルが存在しているんでしょう?』

 ※ここで言う「素人」とは、「芸術」に特別な興味を持たない人のことです。
  「プロ」と「アマチュア」ということではなく、「芸術を知識で捉えていない人」という
  ような意味です。
  「芸術を自分自身の感覚だけで判断する人」と言ってもいいと思います。
  一般的な意味での興味ぐらいはあるが、敢えてそれについて詳しく調べたり、深く
  考えたりまではしないというような、「芸術」に対してごく一般的な立場にいる人を
  指しています。


こういうところをゴマカシ続けて居ていいんでしょうか?

『わからない奴にはどうせわからないんだ!』
『わかってくれる人にだけわかってもらえば、それでいいじゃないか?』
『みんなにわかるモノなんてどこにもない!』

そういうことを言っているんじゃありません。


『すべての人が好きというようなモノは存在しない』
当たり前です。

『あるモノを「ワカル人」と「ワカラナイ人」が居る』
当たり前です。

『創作者としては、わかってもらえる人が一人でも居てくれれば、それだけでも嬉しい』
全部当たり前だと思いますし、それで何の問題もないと思います。


ここで言っているのは、そんなことじゃありません。


ほとんどの素人にはまったくわからないようなモノが、なぜか専門家の間では高く評価されている、「そういう芸術」についてです。

そして、さらに言えば、「そういう芸術」が一つのジャンルになってしまっているという事実について言っているわけです。


「そういう芸術」を、今後も「芸術」と呼び続けていくのか?ということです。
言い換えれば『芸術は一般人を切り捨ててしまうのか?』ということです。

一般人を置き去りにして、「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」のための芸術と言うモノになってしまうのか?


それとも、それとは反対に、「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」達をケットバシテ、一般人のところに戻って行こうとするのか?

『いったい、どっちなんだ!?』ということです。


こういうことについて、いろいろと理屈をくっつけて、けむに巻いてしまうところがあると思いますけど、そういうのは全部、「そういう芸術」の側にいる人たちの「自己正当化」だと思いますね。

実際には、専門的な知識を持たない者の理解を拒んでいるような「芸術」が存在することは事実ですし、そういった「芸術」が専門家に高く評価されていることがあるのも事実です。

先端的なアートの世界においては、むしろ主流と言った方がいいんじゃないでしょうか?
「そういう芸術」が存在していること自体に問題があるというよりは、『それが主流になっている』ということに問題があると思うわけです。


要するに、「そういう芸術」をやっている人たちというのは、「一般人」を切り捨てて「専門家」や「知識人」の方を選択しているんだと思います。

そして、それが「芸術の主流」に成っているということです。


つまり、現在「芸術の世界」では、一般人に全く理解されなくても『どうってことは無い』ということです。
だからこそ、「素人にはまったくわからない芸術」というジャンルが成立しているんだと思います。


はたして、それでいいんでしょうか?


『イイわけないだろ!』と言いたいわけですね。

まぁ、『私はそう思います』ということです。


「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」のための芸術を目指したい方は、『どうぞ、どうぞ』と思いますけど、やっぱり、言ってしまいますねぇ。


『アナタはそちらに行かれるんですね?』

『ワタシはこちらに参ります』

『それでは、さようなら』

と。


少し考えてみた方がイイと思います。そういうの。

「そういう芸術」ですね。


『チョットだけでも考えてみた方がよくないですか?その辺のところ』

そんな風に思いますよ。





『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということについて



『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることがありますよね。
あれは、半分は当たっていると思いますけど、半分は外れていると思いますね。


本当のことを言えば、自分を愛していない人なんて、ほとんどいないと思うんですよね。

本当の問題は、「愛し方」なんだと思います。


どこかで「愛し方」が屈折してしまう人が居るということだと思います。
そうすると、人から見れば「自分のことを愛せない人」のように見えてしまうんですね。

でも、実際には、それも「自己愛」の一種なんだと思うわけです。
むしろ、「自己愛」が強いからこそ、そういう状態に陥ってしまうんだと思います。

ただ、その「自己愛」が屈折しているわけです。


要するに、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人は、その『「屈折」が無い(少ない)「愛し方」ができれば幸せになれる』というようなことを言っているんじゃないかと思います。


なぜ屈折してしまうのか?と言えば、「ほとんど」というより「すべて」と言った方がイイくらいに多くの場合、「抑圧」があるからということですね。

さらに言えば、圧倒的に多いのが「幼い時期の抑圧」だと思います。
まぁ、いちばん多いのは「親から子への抑圧」ということでしょう。


そういう、「親から子への抑圧」というものは、「親の愛情のユガミ」から発生すると言っていいんじゃないでしょうか。


「人間」の場合、「親の愛情」が、他の動物のようにストレートじゃないんでしょうねぇ。

「動物の親」が持っている「愛情」は、つまり、「本能的な愛情」ですね。
「無条件の愛情」と言ってもいいでしょう。

これが、「最もストレートな愛情」なんだと思うわけです。


でも、「人間の親」の場合、「条件付きの愛情」になってしまうことが多いんですね。
(〇〇ができた子は愛してあげるけど、出来ない子は愛してあげないということですね)

「人間の親」は、自分の子が社会の中で生きていけるように教育するという「課題」を課せられていますから、その部分ではどうしても「条件付き」に成らざるを得ないんだと思います。

そういうことを「しつけ」と言うんだと思います。

「しつけ」をまったくしないのも一種の「愛情のユガミ」と言えるでしょうし、「しつけ」をすれば、「条件付きの愛情」が「抑圧」を生み出してしまうわけです。

どっちに転んでも「愛情のユガミ」が避けられないように成っているわけですね。


もちろん、そこのところを上手く子供に伝えられる親もいるわけですけど、『お父さんもお母さんも、おまえのことを無条件に愛しているんだよ』でも、『それと「しつけ」は別のことで、それだっておまえのためを思ってやっているんだよ』なんてことを乳幼児に対して上手く伝えられる親って、限られていると思います。
(みんな、こんなことを言うわけですけど、なかなか上手くは伝わりませんよね)

べつに「親」に成るのにムズカシイ試験があるわけでもないわけですから、仕方ないことだと思います。


そんなことで「条件付きの愛情」が、「抑圧」を生み出してしまうケースがけっこうあるんだと思うわけです。


ここで問題なのは、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人が、それを割と簡単にできることのように言っていることが非常に多いことです。

『考え方を、少し「前向き」に変えるだけでいいんですよ』とか、『自分の好きなことだけをやって、嫌なことはやらなければいいだけです』というように、「気の持ちよう」ひとつで人生が180度変わるという言い方に成っていることが多いような気がします。


確かに、そういう人もソレナリに居るとは思いますけど、そういう人は、「幼い時期の抑圧」を受けていなかったということだと思うわけです。

「幼い時期の抑圧」を受けた人が「気の持ちよう」だけで180度変わることは稀だと思いますね。


こんな風に言うと、「幼い時期の抑圧」を受けた人と言うのが、特別なケースのように聞こえてしまうかもしれませんが、実際は、「現代社会」で育つ人の大半が、この「幼い時期の抑圧」を受けていて、むしろ、「無条件の愛情」を受けて育つ人がとても少ないんだと思うわけです。

確かに、そういう人は、屈折しないで「自分を愛せる」ように成るんでしょう。


ただ、ここで『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることは多いですけど、それとは逆に、『「自分に対する愛情」が屈折してしまった人は幸せになれないのか?』ということが語られることはあまりないんですねぇ。


だから、「自分を愛せない人」つまり「自分への愛情が屈折してしまった人」が、そこから抜け出せなくなってしまうんじゃないかと思います。


実は「自分への愛情」が屈折していても幸せになれないわけではないと思います。
ただ単に、「自分への愛情が屈折していない人」の方が『より簡単に幸せになれる』というだけのことだと思うわけです。


「自分への愛情が屈折してしまった人」は、少し手間をかけて幸せに成ればいいだけのことです。
というか、もしかしたら、その方が結果的には、より大きな幸せを手に入れられるのかも知れません。


要するに、簡単で「やや小ぶりな幸せ」を手に入れるか、それとも、手間をかけて「少し大きめの幸せ」を手に入れるか、ということじゃないでしょうか?
(まぁ、手間をかけた分チョットだけ大きめになるという程度だと思いますけど)


ただし、「自分への愛情が屈折してしまった人」の場合は、その「手間」の部分に「自分を愛せるように成れば」に替わるような「~さえすれば」という答えが無いんですね。

つまり、一人一人全部チガウ答えに成るんだと思います。
(屈折の仕方も一人一人違いますからね)

だから、自分で探し出さないとならないわけですね。
それが「手間」なわけです。


いずれにしても、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということは、『自分への愛情が屈折していない人は、割と簡単に幸せになれるよ』と言うことで、『自分を愛せないと幸せになれない』のではなく、『自分への愛情が屈折してしまった人は幸せになるのに手間がかかる』と言うことだと思います。


実際は、「自分への愛情」が屈折したままでも幸せに成れると思いますし、現に、そういう人が幸せになっている例は意外と多いと思います。

ただ、そういう人は「自分が幸せだということ」をストレートに表現しないことが多いので、あまり幸せそうに見えないんだと思います。

本人が「自分が幸せだということ」に気づいていないことも多いと思います。
そういう人も、もう少し「自分が幸せだということ」に気づいてもいいような気がしますね。


そんなことを考えてみました。




「カプセル画」という構想(その2):いろいろな「カプセル画」



先日も書いた「カプセル画」についての話の続きです。


前の記事を書いた後で、その記事を読み返している時に、「カプセル画」についての新たな構想が浮かんで来たので、それを書いておこうと思います。


まぁ、これなんかも実現性はまったく無視しての話になりますので、その辺はアシカラズ、ということで。


1 「穴あきカプセル画」構想

前回の記事で「カプセル画」の内部照明について書いているんですが(と言っても、『どうすればいいかわからない』と書いただけなんですけど)、その記事を読み返していて、『「内部照明」が難しいなら、いっそのこと外光を取り込めないか?』と考えたわけです。

それで、「カプセル」に穴を開けてもいいんじゃないか?と思ったというわけです。

ただ、「絵」にも穴開いちゃいますけどね。
まぁ、その辺は所詮「実現性無視」なんで。


2 「(半)透明カプセル画」構想:別名「金魚鉢構想」

これも「1」と同じで外光を取り込むための手段として、透明な「カプセル」に「絵」を描くということです。

でも、これは「絵」としては成り立たないような気がしますので(弱々しい「絵」になりそう)、『却下!』っていう感じですね。
(ただ単に「金魚鉢構想」っていうのが書きたかった!それだけ!!)


3 「球体ステンドグラス」構想

これも、元は外光を取り込むことから出てきているんですけど、「絵」に外光を当てるという発想ではなく、「外光」自体を「絵」にしてしまおうという発想です。

実は、これが今の時点で一番気に入っている構想です。
(と言っても、あくまで「実現性無視」ですけど)

なんと言っても、上も下も右も左も前も後ろも、全方向をステンドグラスに囲まれたらどんなだろうな?というのが気に入っています。

さらに、外側からあてる照明に変化をつけるといいんじゃないか?と思っていて、強い光を当てる部分と暗い部分を作ったり、照明を動かしたりすることで、いろんな可能性が生まれるような気がしています。

『おぉ~、これなかなかいいんじゃないかぁ?』

でも、「実現性無視」なんで、前回に引き続き、興味がある方はやってみてください。
実現出来た方には拍手を送らせていただきます。
(スイマセン、それだけです)

オワリ。

『ウマイ人なんて、いくらでもいる!』・・・・・だけじゃなくて



『あの人、すごく絵がウマイですよねぇ』

「いや、キミねぇ、絵がウマイ人なんて、イクラでも居るんだよ!」

『それじゃあ、どんな人が、ナカナカ居ない人なんですか?』

「キミねぇ、〈コレコレ&シカジカな人〉っていうのが、ナカナカ居ないんだねぇ」


こういうの、「芸術」の分野ではよくある会話ですよね。


でも、その「コレコレ&シカジカな人」にどんな条件を当てはめたとしても、その「コレコレ&シカジカな人」も、実際には、それなりにイクラでも居たりするわけです。

本当に「ナカナカ居ない」のは「その人」だけなんだと、私は思っているわけです。


「その人」は世の中に一人しかいませんからね。


実際、「ウマイ人」だろうが、「スゴイ人」だろうが、「チョーゼツな人」だろうが、けっこうたくさん居たりするわけです。


でも、「その人」は一人しかいないんですねぇ。
しかも、どういう「その人」であっても、常に、この世の中に一人だけです。


こういうことが、大事だと思うんですよねぇ。私は。


要するに「自分であること」ですね。
そういう「自分である人」が「一人しかいない人」であり、「ナカナカ居ない人」なんだと思うわけです。


『「ウマイ・ヘタ」じゃないんだ!』
わかります。

『売れてる・売れてないでもないんだ!』
その通りだと思います。

『エライ人がイイと言っていた、なんてのはどうでもいいことないんだ!!』
断固として、その通りだと思います。

でも、そこで、『「コレコレ&シカジカな人」こそが、本当にスバラシイのだ!』と言ってしまったら、全部「おジャン」になってしまうような気がするわけです。


現在の時点で、「本当にスバラシイ」とはどういうことなのか?

そこに「〇〇な人」を持って来てしまったら、けっきょく「ウマイ人」というのとあまり違わないことに成ってしまうんだと思うわけです。


「その人」が「どんなことができる人であるのかということ」よりも、「その人」が「その人であること」の方が、現在の時点では、「意味」があることなんじゃないかと思うわけですね。

だからこそ、『「ウマイ・ヘタ」じゃないんだ!』と言っているわけで、『ウマイ人なんて、いくらでも居るんだよ』と言っているわけです。

そこで、ただ単に「ウマイ」を他の言葉に置き換えることには、そんなに大きな「意味」を感じないんですね。


そういうのって、「ウマイ」から「チガウ・ウマイ」にかわっただけで、けっきょく、そんなに大差はないような気がしてしまうわけです。


そういう「上・下の違い」じゃなくて、一人一人の人の「横並びの違い」の方にこそ、現時点での「意味」があるんじゃないのかなと。


そういう「その人がその人であること」を尊重した意味で言っている場合でも、「〇〇な人」や「〇〇ができる人」という言葉を使ってしまうと、結果的に、それが「上・下の違い」に変換されてしまうわけです。


だから、現時点で「本当にスバラシイこと」というのは、「私が、私であること」であり、「あなたが、あなたであること」であり、「誰かが、その誰かであること」なんだと思うのです。


つまり、「すべての人」が、それぞれに「その人であること」が、現在の「本当にスバラシイこと」なんだと思うわけです。


だから、もう、「〇〇な人」に成ろうとするんじゃなくて、「自分」であろうとすることに力を使って行きたいなと。

そういう風に思っているわけです。




「カプセル画」という構想(その3):「額中球体画」と「チューブ額中立体画」構想



これも「カプセル画」から変化して出てきた構想についての話です。
と言っても、これは見る人が中に入れない「絵」なので、私の中での解釈としては「カプセル画」とは違うモノなんですが、「逆さ・カプセル画」といったところだと思います。


ただし、こちらは立体としての性質がかなり強くなってしまいそうなので、「絵」と言えるのかどうかはよくわかりません。
(『絵なんだ!』とは言いきれないけど、『絵じゃない!』とも言い切れないというところ)


「カプセル画」では、鑑賞者が絵の中に入って、絵に包み込まれた状態で絵を見るということに成るんですが、この「額中球体画」の場合は、絵が額の中に入っています。


絵が額の中に入っているというと「スゴク・アタリマエ」なんですけど、そうじゃなくて、絵が額に包み込まれているわけです。


つまり、透かし彫りのような隙間がある額の中に球体が浮かんでいて、

 ※本当に浮かんでいるのが理想ですけど、無理なんで、なるべく浮かんでいるよ
  うに見せるということに成りますね。
  ちなみに、額を含めた全体も空中に浮かんでいるのが理想ですね。
  『だから、無理だって!』

その球体の表面に絵が描かれているという感じに成ります。

鑑賞者は、外側から額の隙間を通して中の球体画を見るということです。


「チューブ状・額中立体画」の方は、そのまた変形で、同じように絵が額に包まれていますが、その額がチューブ状にいろんな方向にのびていたり、絡まり合っていたりして、その中をいろいろな形に変化する立体が伸びていて、やっぱり、その表面に絵が描かれているという感じです。

こちらも鑑賞者は額の隙間から絵を見ることに成りますが、チガイとしては、「額中球体画」では、鑑賞者が絵の周囲をぐるりと回って360度の方向から見ることに成るわけですが(縦方向でもあらゆる角度から見られます)、「チューブ状・額中立体画」の方は、どちらかと言うと、額や絵自体が重なり合ったり、絡み合ったりして、鑑賞者の視点を誘導します。

もちろん、鑑賞者が移動して見ることもできます。


どちらについても、平面ではないわけですし、「絵」とも言えないような気がしますけど、ただ、「額」に入っています。
ということは、『絶対に「絵」じゃない!』とまでは言いきれない所もあると思うわけです。

まぁ、それで、一応「~画」と言っています。


この二つは、(その2)までの「カプセル画・構想」と違って、「実現性無視」と言うほどではないです。
『やれば、出来る・・・・のかな?』と言う気がしています。

実際、『ちょっと、やってみようかなぁ』と思わないでもないんですけど、『そんなことやってたら、絵を描いてる時間なくなるよ!』ということですから、保留です。


だから、もし、『やってみようかなぁ』という方がいらっしゃれば、『お先にどうぞ』
私は、それよりイイのができそうなら、後から追いかけます。


いずれにしても、私にとって、「絵」は平面であることを前提としていますので、これらは、あくまで実験的な作品と言うことに成ります。


これは「カプセル画構想」全般について言えることですが、この手のモノは出来なくても特に悔いは残らないと思います。


まぁ、「アソビ」の部分と言うことですね。
「リクリエーション」だと思っています。
考えるだけでもけっこう楽しいですよ。

実際に創ったら、そうも言ってられなくなるでしょうけどね。

それでは。






アリとキリギリスの逆転



童話に『アリとキリギリス』と言うのがありますけど、その話の中では、どう見ても「アリ」は『ご立派!』という感じで、「キリギリス」は『このナマケモノが!』と言う感じに成っているわけですね。

まぁ、童話のことはとりあえず置いといて、ときどき「アリ」には感心させられるんですねぇ。


「アリ」って、とにかく「社会」に徹しているんですね。
完全に「個体」の意識が消滅していて、「社会の部品」に成りきれるのって、ある意味『スゴイことだよな』と思うわけです。


ときどき、人間もそんな風にできたらいいのかも?と思ったりもします。


でも、「人間」はもう「アリ」には成れないんでしょうし、「アリ」のように「社会に徹すること」もできないでしょうから、「キリギリス」で行くしかないんでしょうね。

と言っても、童話の中じゃない現実の「昆虫としてのキリギリス」には、必ずしも「ナマケモノ」というイメージはないですけどね。

 ※けっこう真面目に「スイッチョン」って鳴いてる気がしますけど、ダメなんでしょうか? 
   注:実際に「スイッチョン」と鳴くのは「ウマオイ」という虫らしいです。

  それから、『アリとキリギリス』の童話は、もともと「アリとセミ』のお話だったそうです。
  ということは、7年間もの「地中生活」に耐えた「セミ」が「ナマケモノ扱い」ってことで
  すか?
  そんなのって、ちょっとヒド過ぎると思います。


いずれにしても、「アリ」のような「一糸乱れぬ社会」を目指すことに、ある種の「完璧さ」を感じることはあっても、それ程の魅力は感じられませんし、その「完璧さ」は「人間」にとっては「キュウクツ」でもあるでしょうから、やっぱり「キリギリス・路線」なんでしょうかね。

要するに、「人間にとっての勤勉さ」が、「アリの勤勉さ」とは、かなりズレてきているんだと思います。


「社会」のために「個人」を滅して部品化することは、もう「人間の勤勉さ」ではなくなってきていて、「キリギリス」のようにバイオリンを弾いたり歌を歌ったりして過ごすことが、「人間にとってのナマケモノ」でもなくなってきているということなんだと思うわけです。

つまり、「アリとキリギリス」が逆転してきているということですね。


と言っても、「勤勉さ」と「ナマケモノさ」が逆転してきているわけではなくて、「勤勉」と「ナマケモノ」の内容が入れ替わってきているんだと思います。


いま、「人間」にとって「大事なこと」は、「アリ」のように「ひたすら食糧を貯えること」ではなく、「有り余る食糧」を「分配すること」なんじゃないかと思うわけです。


そして「キリギリス」のように、あらゆることを楽しめたらもっとイイでしょうね。

そういうことが『そんなにうまくいくわけないのか?あるのか?』っていう話じゃなくて、『そっちの方向を向いて行くのか?まだ、同じ方向を向いて行くのか?』っていうことですね。


つまり、これからも「本当は余っている食料を奪い合って、少しでも多く確保する」という方向で暮らしていくのか、それとも、「有り余る食糧を均等に分配して、余った時間をどう使うかに頭を使っていく」という方向を向いて暮らしていくのか?ということですね。


もしも、いま、「人間」が「そっちの方向」を向いて暮らしていったら、もしかすると、他の動物たちから見て、『こいつら、スゴイんじゃね?』という風に見えるかもしれませんよね。


「人間」から見たら、「アリの社会」の「完璧さ」は『スゴイことだよな』と思いますけど、「アリ」から見たら、『人間って、自然淘汰の法則を無視して助け合ってるよっ!シンジラレン!!』と見えるかもしれません。


もしかしたら、そういうことが「人間」が「人間」を誇れるところと言えなくもないのかなと。

そんな風に思うわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR