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「神話」から「人間の話」へ



「神話」と言うと、「ギリシャ神話」とか、日本で言えば「古事記」や「日本書紀」に出て来るような大昔のお話という印象がありますよね。


そういう「神話の時代」って、いつ頃までなんだ?ということを考えると、それは「宗教」と呼ばれているものが現れてくる前の時代までなんじゃないかと思うわけです。


「神話」と「宗教」って、似ているところもありますけど、根本的にかなり違うモノだと思うんですよね。

要するに、同じところは「神様が出て来るお話」ってところだけで、そのほかのところは、ぜんぜん違うと言ってもいいぐらいだと思います。


まず、「神話」の中の「神様」って、とにかく「人間的」なんですね。
人間以上に「人間的」と言ってもいいぐらいですよね。

やたらと嫉妬心も強いし、意地悪なこともよくするし、どこか弱い所があったりもするわけです。
それでも「神様」なんですねぇ。


こういう「神話」の特徴は、世界各地にある「神話」に共通している部分が多いように思います。


「宗教」の中の「神様」は「絶対者」ですが、「神話」の中の「神様」は「不完全」なところをたくさん残していて、
その辺のところが、「ほぼ人間並み」という感じです。
というか、『どこが人間と違うの?』っていう感じですよね。

どちらかと言えば、「人間臭さのカタマリ」と言った方がイイような気がします。


そうだとしたら、「神話」じゃなくて「人話」じゃないか!とも思いますけど、
それでも、やっぱり「神様」は「神様」であるわけです。
「じんわ」とも読めますけどね。


それから「宗教」の中の「神様」は、人間を導いたり、人間の規範に成ったりするという設定に成っていますが、「神話」の中の「神様」は、必ずしもそういう設定には成っていません。

他にも「神話」と「宗教」の違いはあるでしょうが、要するに、根本的な性質が違うということだと思います。


つまり、「宗教的な世界感」と言うのは、「絶対性」をもとにした「世界感」です。
言い換えれば、「理想化された世界感」と言ってもいいでしょう。

それに対して、「神話的な世界感」と言うのは「極めて不完全な世界感」、すなわち「現実的な世界感」ということなんだと思うわけです。


さて、そこで、何が言いたいかと言うと、もう、「理想化された世界感」を追うのはやめてもイイように思うわけです。
言ってみれば『「理想」は、もはや「理想」ではなくなった』ということです。


そもそも、「理想」や「絶対」を設定できるのは、「一元的な世界感」を前提にしているからです。

現在が「多元的な方向性」を目指していることは間違いのないことでしょうから、「理想」や「絶対」を設定できるはずがないわけで、一方で「多様性」や「多角的な方向性」を標榜していながら、実際には「理想」や「絶対」を捨てきれずに追いかけ続けて居るということの矛盾が、明らかになってきているんだと思うわけですね。

つまり、そこに「ダブル・スタンダード」が形成されてしまったことで、人間の精神が抑圧を受けるようになってきたわけです。


だから、人間は、もう「宗教」を卒業してもいいんじゃないか?と思っているわけですけど、それじゃあ「神話の世界」に戻るのか?というとと、そうでもなくて、要するに、もう、そろそろ「人間の話」をしてみてもいいんじゃないか?と思っているわけです。


なにも、「神様の姿」を借りて「お話」をする必要は、もう無いんじゃないでしょうか?
そこに「神格性」や「神通力」のようなものを持ち出してこなくても、ただの人間のお話」でも十分だと思うわけです。


「芸術の20世紀」は、本来、人間がそういうことを始めるための「時代」だったと思うのですが、その「芸術の20世紀」において、「天才」という新たな「神話」が築き上げられてしまったために、、未だ、「人間のお話」は語られていません。

それで「人間」が、いまだに背伸びしていなくてはならないんだと思うわけです。
もう、「人間の話」を「神格化」する必要はなく成っていて、「だらしない部分」も「見っともない部分」も、いまはもう、そのまま語ってしまってもいいんじゃないのかなと。


「理想」が「理想」でなくなった時点で、「現実」を「理想」と考えることができるようになったんだと思うわけです。
(つまり、「理想」と「現実」が、完全な反対語ではなくなったということですね)

つまり、「実現できないこと」を「理想」と呼ぶのではなく、「すでに実現されていること」こそが「理想」でもあるという考え方をしていくことで、「人間」という「不完全な理想」が手に入れられるんだと思うわけです。


その「不完全性」を受け入れられたときに、「人間」が初めて「人間」に成れるんだと思います。

そして、それこそが「人間の時代」で、その「人間の時代」が来れば、人間はきっと今より解放されるでしょうし、ありとあらゆることを、楽しめるように成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。

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※ 「スピリチュアル」の方などが、「非二元」という言葉を使っているのを見たことが
  あるんですが、勉強したわけではないので、はっきりしたことはわかりませんが、
  突き詰めていけば、やはり「一元論」にたどり着いてしまうような気がします。 
  でも、「非二元論」を支持している人が、「多様な人間性」を否定的に考えているよ
  うにも思えませんから、そうなると、やはり、「非二元」は、現在においては、やや、
  無理が出てきてしまうような気がします。


「現実を壊すデフォルメ」と「異現実を創り出すデフォルメ」



「デフォルメ」と言うと「現実の形」を崩していくことを指して言う場合が多いと思うわけですが、「デフォルメ」には、「現実の形」とは根本的にチガウ「異現実の形を創り出す」というような「デフォルメ」もあってもイイんじゃないかと思っているわけです。

 ※本来の「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、ここでは一応「デフォルメ」
  ということで話をします。
  「デフォルメ」は『形を崩す』あるいは『形を再構成する』というような意味だと思い
  ますから、『形を創り出す』の場合は「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、
  『現実の形から離れる』と言う意味で、それを「一種のデフォルメ」と考えてみまし
  た。  
  おそらく、言語としては正しくないと思います。
   
「壊す」と「創り出す」の違いですね。
そこを重視していきたいわけです。


「デフォルメ」にも、『一度壊した形を再構成する』と言う前提があると思いますから、「創り出す」の要素もあるわけですけど、どうしても「デフォルメ」という言葉は「破壊的なイメージ」が強くなってしまうと思うわけです。

でも、そこを無視して、いっそのこと「破壊的な要素」をなくしてしまって、「創造的な要素」だけの「デフォルメ」を考えてみようというわけです。


そうは言っても、単なる「創造的な要素」だけでは、「デフォルメ」にはなりませんから、「現実の形を抜け出す」ということを前提にしているわけです。

まぁ、要するに、自分がそういう方向で作品を制作しているということなんですけどね。


そうは言っても、コジツケと言うわけでもなくて、そういう方向で制作していると、『これって、「デフォルメ」みたいな作業に成ってるんじゃないか?』と思うことがあるんですね。


一般的に言われているところの「デフォルメ」とは、まったく逆の経路をたどることに成るんですが、「現実の形」を崩すのとは逆に、なるべく何もない所から「異現実の形」を創り出そうとしていると、「現実のナニカ」に似て来るということがあるわけです。

『いやいや、現実の形に引っ張られてはいけないだろう』ということで、戻そうとするわけですが、どうしても戻れなくなる時が出てきます。

そういう「押し引き」の作業が、結果的に「デフォルメ」にとても近いように感じることがあるわけです。
(そういう絵は、「デフォルメ」された絵と似て見えると思います)

つまり、「現実の形」から始めて、それを崩していく過程と、何もない所から始めて「現実のナニカ」に近づいて行く過程が、順序は逆でも、結果的には似たような感じに成るんじゃないかと思います。


『だったら、普通の「崩すデフォルメ」でいいじゃないか?』と言われそうなんですけど、私はその「過程の違い」は大事だと思っているわけです。


「現実の形を崩すデフォルメ」によって制作された作品を見た人が、、最終的に辿り付く所は、やはり「現実の形」なんだと思うわけです。

結果的に、それがどんなに現実離れした形になっていたとしても、そこのところは同じだと思うわけです。
というか、それでないと嘘に成ってしまうと思います。

もしも、「現実の形を崩した作品」を見た人が、もしも、絶対に「元の現実の形」に行き着かないんだとしたら、その人は「何も見ていない」というのが本当のことだと思います。

つまり、「本当のこと」は、何も伝わらないということですね。


それに対して、「異現実の形を創り出すデフォルメ」によって制作された作品を見た人は、そこで「今までに見たことが無いナニカ」に出会うことに成るんだと思っているわけです。

たとえ、それが「現実のナニカ」に多少似ていたとしても、そこは同じなんだと思うわけですね。


もちろん、だからと言って、現実の模倣になってしまってもイイと言うことではないので、「自分の眼」をより厳しくしていかなければならないとは思いますが、少なくとも、それが模倣ではない所から生み出されたものである限り、それを見た人は「新しいナニカ」に出会うことに成るんだと思うわけです。


そこの所が、「異現実を創り出すこと」の「意味」なんじゃないのかなと。

そういうことを思うわけなのです。



「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?



はたして、「思想」や「思考」を持たないモノを「芸術」と呼ぶことが出来るんでしょうか?


たとえば「作品」を見る限り、ナカナカ素晴らしいんだけど、その「作品」を作った人が、ただ、なんにも考えずに作ったんだとしたら、
それでも、それを「芸術」であると言うことができるのでしょうか?

というよりも、もう少し極端な話として、その作者が、ナカナカ品性下劣な考えの持ち主で(「芸術からかけ離れた考え」と言う意味で)、そういう人が作ったものでも、その作品さえ素晴らしければ、「芸術」と呼ぶことは出来るのか?ということです。

『なんにも考えずに、いい作品なんてできるわけないだろ!』っていうことじゃなくて、もしも、そう言う「作品」があったとしてという話ですね。


私は、そういうのは、「芸術」としては『アウト!』だと思うわけです。

もちろん、そういう「美術」や「作品」があってはいけないということではないです。
そういうモノが、有ることを否定するつもりはありません。

ただ、『私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めします』ということですね。


「思想」や「思考」をダイレクトに表現した作品を創らなければいけないとは思いませんし、作者が持っている「思想」と、その作者の「作品」が直接的に関係なくても、何の問題もないと思います。

また、その作者が自分の「思想」を言葉では表現できない(しない)としても、それも、大きな問題ではないと思います。
(だからこそ、「芸術」で表現しようとするわけですから)


でも、その作者に、何の「思想」も「思考」もなく作られたものは、現在においては「芸術」とは言えないと思うわけなのです。


要するに、「現在の芸術」には「作者の思想や思考を前提として表現するもの」という設定があると思うわけですね。

だから、その設定を無視したものを「芸術」と呼ぶことに、「意味」もないし、「必要」もないけど、「害」はあるということです。


『そんなのは、世間が勝手に決めた設定だから知ったことじゃない!』と言うのは、「自由」ではなく「無理」だと思うわけです。 
そして、さらに言えば、「自己正当化」でもありますね。

「犯罪者」が、法を犯した後で、『そんな法律は、オレが決めたわけじゃないから知ったこっちゃない!』というのと同じです。
その法律に、自分が守られていながら、それを言っても説得力はありませんし、それ以前に、ほとんどの場合、犯罪を犯した後から、その自分の行為を「自己正当化」するために、そういうことを言っているにすぎませんから。

「芸術」において、そういうことを言っている人というのは、自分自身が、「現在の芸術」に与えられている「自由」を使っているからこそ、そういうことを言うことが出来ているわけで、もし、その「自由」がなければ、そんなこと言っても、誰にも相手にされないでしょうし、「ちょっと、オカシナ人」というレッテルを張られるだけです。

つまり、自分が「その自由」に守られながら、「その自由」を生み出している「思考や思想」を無視しているわけですから、意味がありません。
その上、実を言えば、「思考や思想」を、あえて無視しているのではなく、自分が「力を持った思考」を構築せずに、貧弱な姿勢で制作しているということを「自己正当化」するために、そういった、「無理」を押し通そうとしているだけなんだと思うわけです。
(もしも、あえて無視しているのであれば、それも「一つの思想」でしょう)


「現在の芸術」を、すべて受け入れなければならないとは思いませんし、すべて拒否しなければならないとも思いませんが、「受け入れるため」には「受け入れる理由」が求められますし、「拒否するため」には「拒否する理由」が求められるわけで、「その理由」が、「単なる自分の都合」であってはならないという事だと思います。


もしも、どうしても「思想なき芸術」を実践したいならば、その作品が「思想を持たない作者」によって作られたものであるということが、見た人に十分にわかるような作品を作る必要があるわけです。
つまり、「内容が無い作品」を作る必要があるということです。
そして、それが「内容が無い作品」であるということが、見た人に十分伝わっていれば、いいんじゃないかと思います。

それでも、その作品を支持する人が居るのであれば、そこから先は見る側の問題ですね。
そこで、初めて「自由」な選択であると言えるようになるんだと思います。


いずれにしても、「芸術者」は(私は芸術に関わる人を鑑賞する側も含めてこう呼んでいます)、思考していてほしいなと思ってしまいますね。
(もちろん、自分のことも含めて)


なにも頭がよくないといけないとか、ましてや、いろんな本を読んでいないとダメなんだとかいうことじゃないです。

ハッキリ言えば、そんなことドウデモイイと思いますし、むしろジャマなくらいかもしれません。


そんなことじゃなくて、強く思考するっていうことですね。
たとえば、すごく単純な考えであっても力強く思考すると言うことです。

私といたしましては、そういう力強く思考された「思想」をもって、「芸術」と関わりたいと思いますねぇ。


本なんか読んでる暇ないです。
(実際、ほとんど読まないし)

こういうこと言うと、叱られるかもしれませんけど、現代人は、文字情報に振り回され過ぎていると言う気がします。

どんなに「知識」を増やしても、「思考」しないなら「意味」無いですね。
そういうのは「知識」はあっても「智恵」はないということだと思うわけです。


「本」や「勉強」なんて、「思考」することのキッカケに過ぎないと思います。

そのきっかけが、「仕事」であっても、「スポーツ」であっても、「生活体験」であっても、いや、それどころか「ナニもしないこと」であってもですね、結果的に「思考」に至れば、それでいいんじゃないかと思うわけです。


さらに言えば、その「思考」には「結論」は必要ない、「思考」自体が「目的」であり「手段」であり、「結論」でもあると、そう思います。


そして、そういうことの先端にあるのが「現在の芸術」だと思うんですね。

だから、『「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?』と聞かれたら、私の場合、答えは『ノー!』ですね。


それどころか、もしも、『「作品」と「思考」のどちらを取るか?』と聞かれたら、「思考」を取りますね。


私の場合、「作品」が作れなくても生きられますが、「思考」も「思想」もないなら、生きられないです。

生きる「意味」を感じません。
当然、「作品」なんて作る気もなくなるでしょうね。


だから、「思考」あっての「作品」だよなと。
そんな風に思っておりますです。


逆に、「作品」あっての「思考」だとは、
そんな風に思っておりませんです。


つまり、「芸術」も、また、「思考」のキッカケに過ぎないということですね。

「芸術」や「芸術作品」と言うのは「行為」や「モノ」であって、そういった、すべての「物質性」は「精神性」に従属していると。
それでなければ「意味」が無いと。


つまりは、そんな風に思っているわけです。



「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」



私は「抽象表現」の中に「モノを描くこと」を取り入れたいと思っていて、それを「異・リアリズム」と呼んでいるんですが、その「異・リアリズム」の内容を言葉で表すと「シュルレアリスム」に近い感じに成る場合があるわけです。


確かに、「シュルレアリスム」も、やや現実離れした「モノ」を描くという性質があるという点では同じところがありますし、「シュルレアリスム」から、その後「抽象表現」に移行した作家もいたみたいですから、「抽象」と「具象」の中間的な位置にあるという意味では近い所もあるのかも知れません。
(実際の「絵」としては、だいぶ違うと思いますけど)


そこで、自分の考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイを考えてみたいと思います。

ここでは、主に「シュルレアリスム」とのチガイについて考えますが、「他のスタイル」との違いについても、今後考えていきたいと思います。

 ※私の場合「芸術の20世紀」を喪失するという考え方をしていますので、なるべく、
  このブログの中では、「20世紀の芸術」について書かないようにしてきたわけです
  が、『喪失しました』と言っても、実際に消去できるものでもないので、まぁ、少しくら
  いならいいかなと思うように成って来たので、この記事を書こうと思いました。

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まず初めに、「絵」の中で実際に使われる「表現形態」についてです。


いちばん大きなチガイは、「異・リアリズム」(私が考えている表現)においては、「現実的なモノ」を描きません。
少なくとも、極力描かないようにしています。

どうしても、現実から逃れられない部分は出てきますけどね。


その点で、「現実と非現実の対比」という手法が使われることが多い「シュルレアリスム」とはかなりのチガイが出てきます。

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  ※こういうのを「画像」なしで書くのって、不親切かなとも思うんですけど、
   こういうことを「画像付き」で書いてしまうと、それを見た人がなんらかの
   影響を受けると思うんですよね。
   例えば、『マネしちゃう』とかですね。逆に『マネしないようにしちゃう』と
   いう場合もあるでしょうね。
   いずれにしても、ここに書いてあることに縛られることに成ってしまうん
   ですね。でも、「画像」が無ければ「マネ」できないですよね。
   というか、文章だけを読んで参考にしても「マネ」にはならないでしょ?
   「マネ」って、実は「された人」じゃなくて「しちゃった人」にとっての「悲しい
   こと」だと思うんですよね。
   「画像付き」だと、もし、読んだ人が『これ面白いんじゃない?』って思った
   としても、そこから先は「マネするかマネしないか」しかなくなってしまうん
   ですね。「マネしない場合」は読んでも「意味」が無いし、「マネした場合」
   「悲しいこと」ですよね。
   まぁ、私の絵なんて、誰も「マネ」なんかしないでしょうから、心配しなくても
   大丈夫なんでしょうが、やっぱりせっかく記事を書くんですから読んだ人が
   『いいんじゃない?これ』と、万が一にも思ってくれたときに、少しでも参考
   にしてくれたら『嬉しいな』と思うわけですね。
   それで、「画像なし」にもかかわらずこ、こういう記事を書いたりするわけな
   のです。

   と言っても、実を言えば「デジカメ」持ってないという、単なる貧乏人なので、
   エラソウなことを言うつもりはありませんけど。

   追記:その後、「プロフィール欄」の「イメージ画像」と「サムネイル画像」を追
       加しました。上に書いてあることとはやや矛盾するんですが、この記事
       は一か月ほど前に書いたもので、その後、オークションで激安だったの
       でデジカメを購入し、それらの画像を投稿しました。
       (と言っても、デジカメの性能について知識が無いので本当に安いのか
       どうかもよくわからないんですけどね)

       そちらの画像は私の絵ですが、全体像ではなく一部分を拡大して切り
       取ったものです。

  再追記:さらに、その後「一枚だけの展示室」というカテゴリに、自分の作品を、
       一枚だけ展示するようになりました。
       上記のこととは、矛盾すると思いますが、ここでの話とそちらの作品との
       対応関係が、はっきりしているわけでもありませんのでご容赦ください。

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どうでもいい説明(イイワケ)が長くなってしまいましたが、続けます。


「シュルレアリスム」の場合、イメージ的には「非現実的」ですが、「現実を使わない」という方向性は弱いと思います。
むしろ、積極的に「現実」を描いていることが多いです。

実際、「シュルレアリスム」の絵では「現実」と「非現実」の対比によって、不思議な世界感を生み出していることが多くて、「現実的なモノ」と「非現実的なモノ」を直接対比させていたり、「現実的な背景」に「非現実的なモノ」を描いたり、「現実的なモノ」を「非現実的な状況(状態)」の中に描いたり、と言った「現実」と「非現実」の「対比」に特徴があると言ってもいいと思うわけです。


それに対して「異・リアリズム」においては、出来るだけナニもない状態から始めて、『そこに、ナニカを創り出す』ということを目標にしています。

つまり、「形」も「色」も「空間も」世界」もない状態ですね。
そういう状態から、そこに「異現実」の「空間」や「世界」を展開できたらイイなと思っているわけです。

そして、「その世界」、「その空間」の中に、『今まで、どこにもなかった「モノ」を創り出して、描けたら嬉しいだろうな』と思っているわけです。

ですから、当然、「現実」は出てこないわけです。

ただし、これはあくまで「理想」ですから、そうウマクはいきません。
やっぱり「現実」に引きずられてしまいますし、一旦、「現実」にとらわれてしまうと、そこから逃れられなくなるということはあります。

でも、少なくとも、積極的に「現実」を使って表現するということはありませんし、むしろ、出来る限り「現実」から切り離して絵を描くようにしています。

この「現実の有無」ということが、見た目としては一番大きなチガイだと思いますね。


次に、「思考的な方向性」のチガイです。


「シュルレアリスム」では「人間の潜在意識」を重視していて、「潜在意識」が人間の「真実」や「本質」に近いという考え方だと思います。


ところが、私の場合は「世界全体の本質」について考えてしまったわけですね。

それで、「世界というモノ」を現したいと思ってしまったわけです。
まぁ、当然無理です。

大き過ぎますからね。

でも、現したいわけです。

自分より大きいモノなんて見ることすらできませんから、現わせるわけがありません。

でも、やっぱり現したいわけです。


それで、仕方なく、「現そうとすること」で我慢することにしたわけですね。
つまり、そういうのが私のやっている「異・リアリズム」です。


チョット長くなってしまったので、次に続けます。




「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」(つづき)



前の記事の続きです。


私が考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについて、「表現形態」としては「現実」を使うか使わないかというチガイ、「思考」的には、「人間の潜在意識の探求」と「世界の有り様の探究」というチガイがあるということを前の記事に書きました。


そして、もう一つ、これも「表現」についてのチガイなんですが、「リアリズム」と「異現実のリアリズム」のチガイについて書いておこうと思います。


一般的に言うところの「リアリズム」は「写実」ですね。

つまり、「現実」を写し取ることです。
でも、私の場合、「異現実」を創り出そうとしているわけですから、当然、写し取るべき対象が存在していないわけです。

だから、創り出さないとならないわけですね。


それで、その「創り出す作業」にすごく時間がかかってしまうわけですが、さらに、その創り出した「世界」や「空間」や「モノ」を現すのに、「現実」を現すのと同じ「リアリズム」でいいんだろうか?と考えたわけです。

それで、「リアリズム」自体も創り出すハメになったということです。


つまり、「写実」ではなくて、「写・異現実」ということです。
その「異現実」の部分だけでなく「写」の部分も創り出そうということですね。

と言っても、前述のように、「写し取るべき対象」がまだないわけですから、「出来たモノ」を「写し取る」というよりは、「創り出しながら現わしていく」ということに成ります。

そういう作業を「異・リアリズム」と呼んでいるわけです。

 ※これを「抽象」と呼ぶか「具象」と呼ぶかは、見た人の自由だと思いますが、
  私自身はどっちでもいいと思っています。
  ただ、『抽象寄りかな?』と言う程度の意味で、『抽象なんだけど、モノを描
  こうと思っているんだよ』と言っているわけです。


その「異・リアリズム」の特徴を言うと、前にも記事に書いたことがある【絵画空間における「空」と「壁」】とか、【絵画空間における「接地」と「浮遊」】とかといった、「現実の世界」では、どちらかに決まっていることを曖昧にすることで「現実感」から離れた「異現実感」を生み出そうとしていることです。


「空と壁」というのは「抜けていく空間」と「行き止まりの空間」です。

「接地と浮遊」は文字通り「着地している」か「宙に浮いている」かということです。

これらのことは、「現実の世界」では物理法則などの自然の法則が支配していますから、必ずどちらかにカッチリ分かれているわけです。


だから、そこを曖昧にすることで、『これは現実じゃないぞ』という「異現実感」が生みだせるわけです。
これは「平面(絵の中の世界)」でしかできないことだと思っています。

 ※「写真」や「映像」で、これをやると「トリック」=「だまし」になってしまうと思います。
  「絵」でも、やっていることは「トリック」なんでしょうが、「絵」自体が一種の「トリッ
  ク」なので、「絵の中の世界」という約束事の中で、それをやっても、「だまし」には
  ならないということだと解釈しています。


また、「質・量」というのもそれらと同じような性質があると思います。

「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を曖昧にすることで、やはり「異現実感」が生まれると思っています。


「リアリズム」では、「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を上手く現せると、「リアル」に成るわけですが、それとは逆に、「質感」や「量感」を曖昧にすることで「異・リアル」に成るわけですね。

つまり、「リアリズム」では、布を描くときは「布らしいソフトな質感」を描き出せば「リアル」になります。
金属を描くときは「金属らしいハードな質感」を描き出せばいいわけです。

「量」で言えば、「小さいモノ」が小さく、「大きいモノ」が大きく見えれば「リアル」になるということです。


でも、目指すのは「異・リアル」ですから、そこを曖昧にするわけです。
(と言っても、まだ名前が無いモノを現すわけですから、それ自体が曖昧とも言えるんですけどね)

ただ、そこで、ただ単に曖昧にしたんでは、表現としての力が弱くなってしまうので、その「曖昧さ」を「リアル」に描き出そうとするわけです。

それが、「異・リアリズム」に成ります。


こういう、二極を成していると考えられているような「遠・近」とか「大・小」などだけでなく、「陽と陰」・「物質と精神」・「定型と不定形」なども含めたさまざまな意味で、二つのモノを一つに出来たらいいなと思っているわけです。
(なかなかうまくはいきませんけど)


「臨場感」や「ナマナマしさ」はあるのに、「現実感」はない。
そういう「異・現実感」を創り出したいわけですね。


敢えて言えば、この『生々しいのに現実感はない』というところが、「シュルレアリスム」との共通項かも知れませんね。


以上が、「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについての大マカな説明です。


そのうちに、今度は「抽象表現主義」や「アンフォルメル」とのチガイを書こうと思います。

『いえ、もうケッコウです!』

どうも、ご意見ありがとうございます。

ではまた。




「差」はない、「違い」はある



いろいろなものごとにおいて全般的に言えることですけど、「差」はないけど、「違い」はあると思っているわけです。


つまり、全てのモノゴトは、どんなことであっても「上・下」の「差」はなくて、「横並び」の「違い」はあるということです。


そして、もう一つ、『「差」は自分の中にだけあって、「違い」は自分の外にもある』ということもあると思います。


これは、自分がやったことの中には、『これはいいなぁ』と『これはダメだなぁ』ということがあるけど、自分以外のことで、そういう「上・下の差」をつけてもあまり意味がないということです。

それは、ただの「好み」ですからね。
やっぱり、「好み」は「上・下」というよりも「横並び」のチガイなんじゃないかと思います。

お互いの「好み」を

『こっちが上だ!』

「いや、こっちはもっと上だ!!」

と言い合ってしまったら、ほとんどの話ができなく成ってしまいますからね。


それを「横並びの違い」ということにすれば、「上・下の差」がなくなりますから、お互い理解し易くなって話が出来そうな気がしてくるわけです。


そして、尚且つ、「違い」については、ただ単に『ある』というだけでなく、『ほぼ必ずあるモノだ』ということにしてしまえば、そういう「相互理解」の幅が広くなるだろうと思うわけです。


人と交流する場合に、どうしても「共通点」を見つけ出そうとしてしまうわけですけど、実際には、そういう「共通点」がある人と話が合うとも限りませんし、「共通点」が無い人とは話が合わないというわけでもありません。


多くの人が、「共通点」を通して人と交流しようとしていますし、実際にそうしていることも多いでしょうが、そういうのは、世間一般に刷り込まれている情報を受け入れている「度合」が一致している人同士が、その「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」と誤解して、ごく表面的な付き合いをしているだけだと思いますね。

そして、それを「友達」だとか「親友」だとか、場合によっては「夫婦」のような「深い関係」に置き換えてしまっているんだと思います。


実際、「友達」だからと言って、その人が考えていることをどの辺まで理解しているのか?ということに成ると、『よく考えたら、その人の内面は全然わかっていなかったのかも?』っていうことはよくあると思うわけですね。

それは「夫婦」だって同じだと思います。


「夫婦」でも「友達」でも「共通点」の部分は良く知っているでしょうし、それなりに理解しあっているかもしれませんが、ここで言っている「違い」についてとなると、『サッパリわかりません』と言うことが多く成ってしまうわけです。
(というか、わかろうという気がない)


そして、実際には、その「共通点」というのは「誰かから刷り込まれた情報」だったりするわけで、本当なら、人の考えが合致することなどあり得ないことだと思います。


その「違い」を「横並びの違い」と考えれば受け入れられますが、「上・下の差」と考えれば、「見下すか・ヘツラウか」という二者択一しかないわけで(あくまで、厳密に言えばということですけど)、、そうなると、もう「友達」という関係とも言い切れなく成ってしまうわけですし、「夫婦」の中は「ビミョーな冷戦状態」に突入していくわけです。

だから、そういう「一触即発」を避けるために「刷り込まれた共通概念」を「自分たちの共感」であるということにして、なんとなく「友達」や「夫婦」を演じ続けていくわけです。

でも、「違い」は必ずあるモノであって、そこに「上・下の差」はないんだということにしてしまえば、その辺のところが、とてもフレンドリーになるんじゃないのかなと。


やっぱり、人間というのは一人で生きるのが難しく出来ているように思いますから、「人と人の違い」を「上・下の差」としてではなく「横並びの違い」として受け入れていった方が、少しイイんじゃないのかなと。


そして、「自分の中の違い」については、ちょっとガンバッテ厳しく「上・下の差」を見ていけば、もう少しイイのかなと。

ワタクシは、そういう風に思いますです。



「画面の縦横比」について



私の場合、「画面の縦横比」に既製品の比率と少し違う比率を使いたいので、「木枠(パネル)」を自分で作っているんですが、その「画面の縦横比」についてです。

 ※「木枠」を作り始めたころは、ベニヤを貼ったパネル状にしていなかったんですが、
  ベニヤを貼っていない「木枠」の場合は、一番外側の辺に当たる部分よりも、その
  他の枠の高さが、少し低くなるように、木を斜めに切る必要があるので、その作業
  において、大掛かりな工作機械を使わずに、正確に切るのは大変なので、最近で
  は、表面にベニヤ板を張ったパネルにしています。

  ベニヤ代で、コストが少し上がりましたが、手間と時間は減らすことが出来ました。
  電動丸鋸と、その丸鋸のための正確なガイドがあれば、多くの人が「木枠」を自作す
  ることが出来ると思います。
  ガイドを自作する必要がありますが、「木枠」をとても安く上げることが出来ます。
  たぶん、一枚のパネルにかかる費用は、100号くらいの大きなパネルでも1500円前後
  だと思います。
  簡単な額ならば、それよりもずっと安くできます。
  貧乏な人はやってみてください。
  お金持ちの人はやらないほうがいいと思います。

私の場合、今の時点で使っているのは「16:17」と「7:11」の二種類です。
大きさには関係なくこの二種類の比率で統一しています。

先ず、疑問に思う方が多いと思いますので、「16:17」の比率についてですが、なんで正方形の「S・サイズ」じゃなく、わざわざ手間をかけて木枠(パネル)を作ってまで「16:17」にするのか?

『そんなの、同じようなもんだろ!?』と思う方が多いと思います。


これは、私が絵の中に「枠」を描き込むことを決めているからで、この「16:17」の比率の場合、基本的にわずかに縦長の向きで(「16」が上辺と下辺で「17」が左辺と右辺ということです)、絵の中に「枠」を「上・下」または「左・右」の二辺に描くということが決まっているので、その「枠」を描き入れた場合に「正方形」だと、どうしても、自分が気に入った感じに成らないので、仕方なく自分で木枠を作っているというわけです。

要するに、錯視効果で「正方形」に見えなくなるということなんですね。
その何ともチュートハンパな「正方形」がゆるせなかったわけです。
(了見が狭い人間なので)


「正方形」は安定した形だと思っているんですが、「枠」を入れるとどうも安定しません。

「上・下」に「枠」を描き入れた場合、非常に中途半端な横長に見えてしまうし、「左・右」に描き入れた場合は何となく構図がとりにくくなってしまうんですね。

構図の中に漠然とした部分が出来てしまうような気がするわけです。


つまり、「16:17」の比率に関しては、「枠」を上下に入れたときに、結果的に正方形に近い形に見える比率であり、「枠」を左右に入れたときは、「F・サイズ」に近い感覚で構図が取れる比率だということです。


「7:11」の方は基本的に長辺にしか「枠」を描き入れません。
それを縦長、または横長にして使います。

「7:11」の比率でもそれなりに細長いかたちになりますが(MとPの中間くらい)、そこに、さらに「枠」を描き入れますから、かなり極端な縦長または横長の構図に成るわけですが、それでも何とか構図が取れるギリギリの比率が「7:11」ということです。


つまり「7:11」の比率に関しては、出来るだけ細長い構図を使いたかったということですね。


要するに、縦横の長さが同じように見えるものと、縦横の長さの違いが最も大きいものの二種類ということです。


まぁ、私の場合は、たまたま「枠」を描き入れるということから、「画面の縦・横比」にこだわりが発生してしまったわけですけど、こういうことから、「自分らしさ」って言うモノは生まれてくるものなんじゃないのかなと。

そんな気もするんですけど、どんなもんなんでしょうか?


そういう「自分らしさ」を形作っていくことが、自分の「スタイル」につながっていくように思います。


「スタイル」は必ずしも「芸術表現の核」を成すものではないと思いますが、「自分らしさ」を突き詰めていけば、そういう「核」に行き当たることもあるんじゃないかと思っています。


だから、けっこう大変なんですけど、木枠の自作は続けていこうかなと。
   
まぁ、そんな風に思っていますよ。
(それにしても木枠作るの疲れる)



「複雑明快」 (その2)



だいぶ前に書いた記事で、「複雑明快」ということを目指していると書いたことがあるんですが、その「複雑明快」についての話です。


「単純明快」というのはあるのに、「複雑明快」や「複雑難解」や「単純難解」などはないですよね。
でも、その中で「複雑難解」と「単純難解」は無くてもイイかな?とも思うわけですが、「複雑明快」だけはあってもイイだろうと思っているわけです。

というか、私の場合は『あってもイイかな?』というだけじゃなくて、むしろ、そういう「複雑明快」を積極的に目指していきたいと思っているわけです。


確かに、「単純明快」はわかりやすくていいんですが、「単純明快」に現せることっていうのが、どうしても限られてしまうわけです。

当たり前ですが、「単純なこと」しかあらわせませんからね。


どうしたって「複雑なこと」をあらわそうとすれば、やはり、「単純明快」というわけにもいかなくなるということですね。


もちろん、「複雑なこと」を「単純明快」に表現出来たら一番いいんでしょうが、実際は、なかなかそうもいかない事の方が多いわけですよね。


それで、どうしても「複雑」に成らざるを得なくなるわけですけど、そこで、なんとかその「複雑」をチョットでも「明快」に表現できないだろうか?

というのが、私が目指している「複雑明快」ということなわけです。


そこで、実際の表現において、どういうことを「複雑明快と言っているのか?ということです。
私の場合は、「絵」を描いていますので、「絵画表現」における「複雑明快」についてということになります。


まず、「複雑」の部分ですが、「絵」に限らず、「芸術」がわかりにくくなる時というのは、ほとんどの場合「抽象表現」が関係していると思うわけです。

こういうことを「抽象がワカル人」と「抽象がワカラナイ人」が居るということにしてしまいがちですが、実際は、「誰にもワカラナイ」というのが本当だと思います。


具体的な表現力のないモノを『ワカレ!』というのは、「無理」と言うモノです。
そして、そういう「具体性のないモノ」を「抽象」と言っているわけです。

 ※少なくとも、現在、芸術の場において「抽象」と言われているモノは、
  「具象性を排除したモノ」ということに成っているわけで、表現としての
  具体性を持つことを、封じられてしまっているわけですから、仮に、作
  者にはワカッテいても、見た人には、まぁ、伝わりません。

  それでも「抽象がワカル人」が居るのは、一見、具象性が排除されて
  いるように見えている作品の中にも、目立たないように、かすかに具象
  性が隠されていることがあるからで、それを見逃さないように目を凝ら
  して見るような、そういう人も居るということに過ぎないわけです。
  その場合は、その人がワカッタのは「抽象」ではなく「かすかな具象」の
  部分ですね。「かすかな具象」を見つけ出す眼力には価値があると思い
  ます思いますけど、「抽象」がワカッタというのとは違うと思います。

  あとは、その人が、「抽象であること」それ自体を「芸術表現」であると
  考えている場合ですね。そういう場合は、作品の内容ではなく、「それが
  抽象であること」自体で、その人は『ワカッタ!』と思うわけですから、
  「抽象であること」を示しさえすればいいわけです。
  その場合は、その人は「抽象」を作品とは無関係に受け入れているわけ
  ですから、作品の中の「抽象表現」をワカルか否かということとは無関係
  に、はじめから「抽象」を受け入れているということですね。
  そんなことをする意味はないと思います。

「抽象表現」自体は、決して「複雑なモノ」とは限らないハズなんですが、それが、「誰にもワカラナイモノ」に成ってしまっているので、見る人は、「複雑な思考」を要求されてしまうわけです。

こういうのが、ここで言うところの「複雑」に成ってしまっているわけですね。


と、まぁ、こんな風に言っているんですが、私の場合は、「抽象画」をやっているわけです。
それで「複雑明快」が必要に成ってきたわけなんですねぇ。


「芸術表現」を推し進めるために「抽象表現」が必要だったのは間違いないことだと思います。

「具象」に固執していたんでは、「現実」の範囲から出られませんし、現在は、「現実」を「芸術」で表現する必要性が薄くなっているわけですから、「現実ではないナニカ」を表現するしかないわけです。

それで、物事の本質を表現しようという「抽象表現」が必要に成ったということだと思います。


まぁ、そこに、やや面倒な「複雑」がついて来てしまったということですね。


さて、そこで、今度は「明快」の方ですが、「複雑なモノ」をどうやったら「明快」に現すことができるだろうか?と考えたわけです。
そして、先ほど述べたところの「具体性」を見直してみようと思ったわけなのです。


「抽象」がわかりにくくなるのは、「抽象」だから仕方ないことなのではなく、「具体性」が排除されてしまうからではないか?と思うわけです。

つまり、「抽象表現」の中に「具体性」を取り込むことができれば、「ワカル抽象」に成るんじゃないか?と思ったわけですね。


「抽象」と「具象」を二極対立的な構図で捉えてしまうから、「具象」を排除しなければ「抽象」ではない!ということに成ってしまいますし、「具体的な表現」を使うと「抽象」ではない!ということに成ってしまいますが、実際には「抽象」と「具象」は両立してきましたし、むしろ、どちらも単独では成り立たないと言ってもいい程なわけで、無理矢理に、一方を排除しようとしてきたことの方がよほど不自然であったわけです。

だったら、「具体性のある抽象」があってもいいだろうと思うわけです。

つまり、「抽象的なモノ」を「具体的」に現わせたら、それが「複雑明快」に成るだろうと思っているということですね。


現時点で国語の辞書を引けば、「抽象」については、『物事の特殊な性質を除き、共通した性質を抜き出して概念を作り上げること』というようなことが書いてありますが、「抽象画」に成ると、『具体的な対象を描かず線・面・色などの総合関係の美を追求する絵画』となっています。

これ、微妙にズレていると思うんですよね。

本当は、『具体的な対象を描いても』イイと思うんですよね。
それが、『共通した性質を抜き出して』いれば「抽象」と言っていいハズですから。
つまり、普遍的で本質的なモノを現そうとしたのであれば、「具体性」があっても、それを「抽象」といって差し支えないと思うわけです。


そう言うのを「モノ」として現せば、少しは「明快」に成るんじゃないのかなと。

まぁ、そういうことを「複雑明快」と呼んでいるわけですが、そういうことを書いているこの文章自体が、まったくもって「明快」ではない!ということですから、「努力目標」ということです。

よろしく。                                                                                                     


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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