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「神話」から「人間の話」へ

「神話」と言うと、「ギリシャ神話」とか、

日本で言えば「古事記」や「日本書紀」に出て来るような

大昔のお話という印象がありますよね。


そういう「神話の時代」って、いつ頃までなんだ?ということを考えると、

それは「宗教」と呼ばれているものが現れてくる前の時代までなんじゃないかと思うわけです。


「神話」と「宗教」って、似ているところもありますけど、

根本的にかなり違うモノだと思うんですよね。

要するに、同じところは「神様が出て来るお話」ってところだけで、

そのほかのところは、ぜんぜん違うと言ってもいいぐらいだと思います。


まず、「神話」の中の「神様」って、とにかく「人間的」なんですね。

人間以上に「人間的」と言ってもいいぐらいですよね。

やたらと嫉妬心も強いし、意地悪なこともよくするし、どこか弱い所があったりもするわけです。

それでも「神様」なんですねぇ。


こういう「神話」の特徴は、世界各地にある「神話」に共通している部分が多いように思います。


「宗教」の中の「神様」は「絶対者」ですが、

「神話」の中の「神様」は「不完全」なところをたくさん残していて、

その辺のところが、「ほぼ人間並み」という感じです。

というか、『どこが人間と違うの?』っていう感じですよね。

どちらかと言えば、「人間臭さのカタマリ」と言った方がイイような気がします。


そうだとしたら、「神話」じゃなくて「人話」じゃないか!とも思いますけど、

それでも、やっぱり「神様」は「神様」であるわけです。


それから「宗教」の中の「神様」は、

人間を導いたり、人間の規範に成ったりするという設定に成っていますが、

「神話」の中の「神様」は、必ずしもそういう設定になていません。


他にも「神話」と「宗教』の違いはあるでしょうが、

要するに、根本的な性質が違うということだと思います。


つまり、「宗教的な世界感」と言うのは、「絶対性」をもとにした「世界感」です。

言い換えれば、「理想化された世界感」と言ってもいいでしょう。

それに対して、「神話的な世界感」と言うのは「極めて不完全な世界感」

すなわち「現実的な世界感」ということなんだと思うわけです。


さて、そこで、何が言いたいかと言うと、

もう、「理想化された世界感」を追うのはやめてもイイように思うわけです。

言ってみれば『「理想」は、もはや「理想」ではなくなった』ということです。


そもそも、「理想」や「絶対」を設定できるのは

「一元的な世界感」を前提にしているからです。

現在が「多元的な方向性」を目指していることは間違いのないことでしょうから、

「理想」や「絶対」を設定できるはずがないわけで、

一方で「多様性」や「多角的な方向性」を標榜していながら、

実際には「理想」や「絶対」を捨てきれずに追いかけ続けて居るということの矛盾が、

明らかになってきているんだと思うわけですね。


だから、人間は、もう「宗教」を卒業してもいいんじゃないか?と思っているわけですけど、

それじゃあ「神話の世界」に戻るのか?っていうと、そうでもなくて、

要するに、もう、そろそろ「人間の話」をしてみてもいいんじゃないか?と思っているわけです。


なにも、「神様の姿」を借りて「お話」をする必要は、もう無いんじゃないでしょうか?

そこに「神格性」や「神通力」のようなものを持ち出してこなくても、

「ただの人間のお話」でも十分だと思うわけです。


「芸術の20世紀」は、本来、人間がそういうことを始めるための「時代」だったと思うのですが、

その「芸術の20世紀」において、「天才」という新たな「神話」が築き上げられてしまったために

未だ、「人間のお話」は語られていません。

それで「人間」がいまだに背伸びしていなくてはならないんだと思うわけです。

もう、「人間の話」を「神格化」する必要はなく成っていて、

「だらしない部分」も「見っともない部分」も、

いまはもう、そのまま語ってしまってもいいんじゃないのかなと。


「理想」が「理想」でなくなった時点で、

「現実」を「理想」と考えることができるようになったんだと思うわけです。
(つまり、「理想」と「現実」が、完全な反対語ではなくなったということですね)

つまり、「実現できないこと」を「理想」と呼ぶのではなく、

「すでに実現されていること」こそが「理想」でもあるという考え方をしていくことで、

「人間」という「不完全な理想」が手に入れられるんだと思うわけです。


その「不完全性」を受け入れられたときに

「人間」が初めて「人間」に成れるんだと思います。

そして、それこそが「人間の時代」で、

その「人間の時代」が来れば、人間はきっと今より解放されるでしょうし、

ありとあらゆることを、楽しめるように成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




油絵の「下地」について

油絵を描くときには、

基本的に、ある程度の手数をかけて「下地」を作ってから描くということに成っているわけですが、

その「下地」についての話です。


まず、「油性の下地」と「水性の下地」があるわけですけど、

今でも、「油性下地」を支持する人はけっこう居らっしゃるんだと思います。
(その割に「油性専用のキャンバス」が少ないのって、ドウなの?!)


確かに、古い油絵は「油性下地」の上に描かれていることが多いんでしょうし、
  
   ※少なくとも現在使われているような「PVA」の下地はまだ無かったわけだし、
    その逆に石膏下地のようなものは現在油絵にはあまり使われなくなってい
    るので(使っている人は、どちらかと言うと表現上の技法として使っているん
    だと思います)、ここでは外して考えます。

その古い時代の絵が、現在までソコソコの状態で保たれているという事実があるわけですから、

その「油性下地」を支持するに足る根拠と言っていいんでしょうね。


でも、これにはいくつか見落とされている点があると思うわけです。


先ず、一つは「気候」の問題です。


一口に「古い時代の油絵」と言ってしまっていますが、

その「古い時代の油絵」と言っているのは、

実は、全て「ヨーロッパの古い時代の油絵」であるわけです。

まぁ、当初は「油絵の具」自体がヨーロッパにしかなかったわけですから、当然ですけど。


ということは、ヨーロッパで描かれヨーロッパで保管されてきた絵画がほとんどだということです。

つまり、その『ソコソコの状態で保たれている』とは「ヨーロッパ限定」ということですね。

日本のように高温多湿の地域で、

本当に『ソコソコの状態で保たれる』のかどうかが、ややアヤシイわけですよね。
(美術館などに保管されればいいんでしょうが、そういう「エライ絵」についての話でもないんで)


特に「油性下地」のサイジング(目止め=油脂の浸透を止めるための層)に使われる

膠(にかわ)においての問題が指摘されてきているようです。
(カビ等が発生する可能性が高いらしい)

詳しいことはハッキリ知らないので書けないんですが、

膠については、修復家からも問題が指摘されているということを読んだことがあります。
(膠の層は気候による伸縮も大きいそうです)

また、これについては私自身が直接画材メーカーに電話して聞いたこともあるんですが、

やはり、近年、画材メーカーの中でも

膠に対する問題がかなりクローズアップされてきているという話でした。

  ※残念ながら、はっきりした答えは聞き出せませんでした。ややケムに巻かれた感じ?
   ただし、その会社はキャンバスを製造していないので無理もないですけどね。
   ちなみに、その時質問したのは、その会社で出していた「下地用塗料」についてのこと
   で、サイジングについては聞いていなかったんですが、回答者の側からたまたま膠に
   ついての話が出て、かなり「膠の層」の問題が問題視されてきているという話でした。

けっきょく、数百年たってみないとわからないことなんで、

この問題に確かな答えはないわけですけど、

少なくとも、『ソコソコの状態で保たれている』から大丈夫

というわけでもないということは言えると思います。


次に問題なのが、「技法」の問題です。

「古い時代の絵画」は、当然「古い技法」に沿って描かれていますが、

「ファット・オーバー・リーン」を守ることや、

うす描きの層を重ねていくような技法で、描き始めから仕上げまでを通すことは、

それらの「手法」をすべて守ろうとすれば、

現代的な絵画においてはかなりの足カセになってしまうでしょう。


そして、やはり、そういう現代的な手法で描かれた絵が

『ソコソコの状態で保たれる』かどうかも、まだ試されていないところがあるわけです。


あとは、やはり膠についてなんですが、

「サイジングの効果」にもやや疑問があるみたいで、

今売られている「油性専用のキャンバス」で

どのぐらいしっかりした膠層が作られているのかということには疑問を感じざるを得ません。


実際、ある絵描きさんのブログで

「油性キャンバス」のストライク・スルー(油脂の浸透)実験をされていたんですが、

けっこう高価な「油性キャンバス」でも裏側に油が浸透していました。

  ※ただし、この実験は市販されている状態のキャンバス(膠の上に油性下地)に、
   直にリンシード・オイルをタップリ塗るという感じだったので、かなり厳しい条件に
   成っていたと思います。実際は市販のキャンバスの上にいきなり乾性油を原液
   のまま塗ることはあまり考えられないので、それほど心配する必要もないのかも
   知れませんが。

以上のような理由から、

私は、数年前に自己作品の制作を始めたころは

「油性専用のキャンバス」を使っていたんですが、

はじめに買った10メートルのロール・キャンバスを使い切った時点で、

「水性・油性兼用のキャンバス」に切り替えました。


いわゆる「P・V・A塗りのキャンバス」ということですが、
(これにナントナク安直なイメージがあって抵抗があったわけですね。
 それに、「P・V・A(ポリ・ビニール・アルコール)」っていう名前が嫌いだし)

こちらも「サイジングの有効性」には疑問があるので、

それを強化する意味とマチエール作りの意味で

「ジェッソ」と「モデリング・ペースト」を併用して何度か塗り重ねています。
(「マチエール材」も混ぜる場合があります)

これも「サイジング」としては効果的ではないと思いますが、

何度か塗り重ねることで、ある程度の「サイジング効果」はあると思います。

  ※これについては、前にこのブログでも書いたことがある
   「GOLDEN・JUST・PAINT」というサイトで実験されて
   いて「アクリルの下地材」に「目止め」の効果があるとい
   う実験結果が出ていました(5回くらい塗り重ねた場合)

   ただし、これはターナー社の下地材で日本で売られてい
   ない製品についての実験だったのが残念!

   一般的なアクリル系の下地材にサイジング効果が期待
   できるのかどうかは、やはり絵具メーカーに聞いてみた
   んですけど、『絶対にない!とは言わないが、どちらかと
   言うと、ないでしょう?』という感じでした。
   おそらく、アクリルという素材が持っている「効果」ではな
   くて、「層の厚み」によって『ある程度のところで止まる』と
   いうことなのかもしれませんね。
   どのくらいの厚さで止まるのかは残念ながらわかりませ
   んが、そのうち実験してみようと思っています。


はじめはクサカベの「ジェッソ固練り」というのを使ったんですが、

値段がやや高めだったのと、

エッジが利きすぎる感じだったので、硬さの調節ができるスタイルに変化しました。
(私は下地の段階では「強い癖はないけど凹凸はそれなりにある」と言う状態を作りたい)


はじめのうちは、そういう「ジェッソの下地」の上に、油絵具で描き始めていたんですが、
(一か月ほど乾燥させてから)

どうも「下地」の「白」が弱いので、さらに油性の「白」で吸収性を弱めています。

ファンデーション・ホワイトよりも黄変しにくいので、私はシルバー・ホワイトを使っています。

これも私の個人的な判断なんですが、
(『信用しないように』←『はい、しません』←『それはどうも、恐縮です』)

アクリル系の下地の上に油絵具を乗せる場合、

必ずしもリンシード・オイル練りのホワイトである必要はないと思っています。

つまり、硬化後の固さにギャップがありすぎると、必ずしも丈夫にはならないということです。

アクリルの層は柔軟性がありますから、衝撃や伸縮を吸収する能力がありますが、

その際に、上にのっている(というか「アクリル層にしみ込んでいる)層が固すぎると

亀裂を生じやすく成ることが考えられます。

そういう硬さのギャップをある程度緩和していく意味で、

むしろ、ポピー・オイル練りのホワイトを使った方が

極端な亀裂を生じにくくなる可能性があると私は考えているわけなのです。

樹脂を混ぜるのも効果があるのかもしれません。アクリルも樹脂ですからね。
(『くれぐれも信用しないように』←『はい、絶対にしません』←『それは重ね重ね、恐縮です』)


また、「ジェッソ」の「白さ」についてですが、

よく、「ジェッソ」のパッケージなどに

「油性のファンデーション・ホワイトよりも発色がよくなります」

みたいなことが書いてありますけど、あれは必ずしも正しくないと思いますね。

確かに黄変しないので、その分「白さ」は確保されますから、

はじめに塗った色の発色だけなら良くなるでしょうが、

その反面、吸収性があるので

「下地」の「白」が上に塗った色を吸収してぼやける傾向があって、
(それが油絵具だと助長される傾向があるわけです)

塗り重ねていくと、だんだん「明るさ」が弱く成っていく傾向があると思います。
(というか、私の場合はたいていそう成る)


「水性の下地」に不安を持っている人も居らっしゃると思いますけど、

実を言うと「アクリル」ってかなり丈夫です。

というか、割と丈夫で、さらに柔軟性があるんですね。

その柔軟性がクッション効果に成って、

絵に対する衝撃や気候変化を吸収する働きがあると思うわけです。


「アクリル下地」に対して懐疑的な傾向と言うのは、

「アクリル材料」と「油性材料」の併用に関する研究や経験がほとんど無かった時代に、

使用法を誤ったことによって画面にトラブルを起こしたような事例が、

「噂に尾ひれ」の状態を生み出した部分が大きいと思います。


「アクリルの下地」を正しい使い方で使った場合、

例えばの話、金属で引っ掻いたりすれば、

「アクリル」の層の所から剥がれるということはあり得るでしょうが、

そういう極端なことを考えないで、普通の範囲で、ややゾンザイに保存された場合

「アクリル」の柔軟性は役に立つと思います。


あと、これは数百年というサイクルでは試されていないことですけど、

おそらく、経年劣化に対しても耐久性があるんじゃないでしょうか?
(そういう意味では、化学合成された材料は「いやになるくらい丈夫」なことが多いので)


まぁ、いずれにしても、

油絵の場合は「下地が命」みたいなところもあるので、

「自分の下地作り」が決まってくると「自分の絵」も決まってくるんじゃないのかなと。
(・・・逆か??)

そんな風に思っているわけです。


まぁ、私の場合、最終的には、かなり「下地」をツブシテしまうことに成るので、

正統派の描き方よりは「下地の影響」は小さいですが、

それでもやっぱり『下地は大事』と言うことは間違いありませんから、

それだからこそ、大事にして行きたなと。


そんな風にも思っているわけです。



「現実を壊すデフォルメ」と「異現実を創り出すデフォルメ」

「デフォルメ」と言うと「現実の形」を崩していくことを指して言う場合が多いと思うわけですが、

「デフォルメ」には、「現実の形」とは根本的にチガウ「異現実の形を創り出す」

というような「デフォルメ」もあってもイイんじゃないかと思っているわけです。

  ※本来の「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、ここ
   では一応「デフォルメ」ということで。

   「デフォルメ」は『形を崩す』あるいは『形を再構成する』と
   いうような意味だと思いますから、『形を創り出す』の場合
   は「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、『現実の形
   から離れる』と言う意味で、それを「一種のデフォルメ」と考
   えてみました。  
   おそらく、言語としては正しくないと思います。
   
「壊す」と「創り出す」の違いですね。

そこを重視していきたいわけです。


「デフォルメ」にも、『一度壊した形を再構成する』と言う前提があると思いますから、

「創り出す」の要素もあるわけですけど、

どうしても「デフォルメ」という言葉は「破壊的なイメージ」が強くなってしまうと思うわけです。

だったら、いっそのこと「破壊的な要素」をなくしてしまって、

「創造的な要素」だけの「デフォルメ」を考えてみようというわけです。


そうは言っても、単なる「創造的な要素」だけでは、「デフォルメ」にはなりませんから

「現実の形を抜け出す」ということを前提にしているわけです。

まぁ、要するに、自分がそういう方向で作品を制作しているということなんですけどね。


そうは言っても、コジツケと言うわけでもなくて、

そういう方向で制作していると、

『これって、「デフォルメ」みたいな作業に成ってるんじゃないか?』と思うことがあるんですね。


一般的に言われているところの「デフォルメ」とは

まったく逆の経路をたどることに成るんですが、

「現実の形」を崩すのとは逆に、

(なるべく)何もない所から「異現実の形」を創り出そうとしていると、

「現実のナニカ」に似て来るということがあるわけです。


『いやいや、現実の形に引っ張られてはいけないだろう』ということで、

戻そうとするわけですが、どうしても戻れなくなる時が出てきます。

そういう「押し引き」の作業が、

結果的に「デフォルメ」にとても近いように感じることがあるわけです。


つまり、「現実の形」から始めて、それを崩していくのと、

何もない所から初めて、「現実のナニカ」に近づいて行くのが

結果的には似たような感じに成るんじゃないかと思うわけです。


『だったら、普通の「崩すデフォルメ」でいいじゃないか?』と言われそうなんですけど、

私はその「過程の違い」は大事だと思っているわけです。


「現実の形を崩すデフォルメ」によって制作された作品を見た人が最終的に辿り付く所は

やはり「現実の形」なんだと思うわけです。

結果的に、それがどんなに現実離れした形になっていたとしても、

そこのところは同じだと思うわけです。

というか、それでないと嘘だと思います。

逆に言えば、「現実の形を崩した作品」を見た人が、

もしも、絶対に「元の現実の形」に行き着かないんだとしたら、

その人は「何も見ていない」というのが本当のことだと思います。

つまり、何も伝わらないということですね。


それに対して、「異現実の形を創り出すデフォルメ」によって制作された作品を見た人は、

そこで「今までに見たことが無いナニカ」に出会うことに成るんだと思っているわけです。

たとえ、それが「現実のナニカ」に多少似ていたとしても、

そこは同じなんだと思うわけですね。


もちろん、だからと言って、現実の模倣になってしまってもイイと言うことではないので、

「自分の眼」をより厳しくしていかなければならないとは思いますが、

少なくとも、それが模倣ではない所から生み出されたものである限り、

それを見た人は「新しいナニカ」に出会うことに成るんだと思うわけです。


そこの所が、「異現実を創り出すこと」の「意味」なんじゃないのかなと。

そういうことを思うわけなのです。



世の中は「「恐怖」と「喜び」で動かされている

いつの時代も「世の中」を動かしているのは「喜び」と「恐怖」なんじゃないかと思うわけです。

いわゆる「アメとムチ」ですね。


当然、「喜び」には近づきたいわけですし、「恐怖」からは離れたいわけです。

それで、「喜び方向」と「逆・恐怖方向」への動きが生まれることに成るわけですね。


実際、世の中を支配しているのは、ほとんどその二つの流れなんじゃないかと思うくらい、

「喜び」と「恐怖」が世の中を動かしていることは多いと思います。


さて、そこで、どうせ「喜び」と「恐怖」に支配されていて、

そこから、そうヤスヤスとは逃れられないと言うことであるならば、

どういう「喜び」と「恐怖」に支配されたいか?という話です。


『いえ、支配されたくないです!』

まぁ、そうですよねぇ。

でも、そこのところを、『支配から逃れられない』ということに限っての話と言うことで。


私といたしましては、「シリアスな喜び」と「コミカルな恐怖」によって支配されたいもんだなと。

そういう風に思っている次第でございます。


つまり、「コミカル」なハズの「喜び」は「シリアス」な方がよくて、

「シリアス」なハズの「恐怖」は「コミカル」な方が少しマシなんじゃないかと思うわけですね。


一口に「喜び」と言っても、人生観を決定づけるような「深い心の喜び」もあるでしょうし、

お笑い番組を見て「ややウケた」くらいの「浅い所での喜び」もあるわけで、
(『お前テレビ持ってないだろ!』ええ、そうなんですけどね)

その幅はかなり広いと言えるでしょう。


また、「恐怖」にしても、命の危険を感じるような「強い恐怖感」もあるでしょうし、

落語の「饅頭こわい」的な、人から見たら「笑える恐怖」も、
(あれは、本当は怖くないっていう話ですけどね)

本人にとっては、「やっぱり恐怖」ということに成るんでしょう。

これも、かなりの幅があると思うわけですね。


で、どうせだったら、「お気楽な喜び」や「浅い喜び」のような「コミカルな喜び」よりも、

「感動」や「感激」と言えるような深くて「シリアスな喜び」の方がいいし、

人の人格を破壊してしまうような「底知れない恐ろしさ」や、

人間性を無視した「冷たい恐怖」よりは、

『オマエの大嫌いな音楽を毎日聞かせ続けてやるぞ!』

『そっそれだけは、ご勘弁くださいまし!』みたいな、

「まぁ、逃がしようがある恐怖」や、
(ずっと聞いてたらその音楽が好きに成るかも知れないし)

『あそこにパンチ・パーマのお兄さんが居るでしょ?あの人、チワワ飼ってるんだよ』

『怖ぇ~』

みたいな「コミカルな恐怖」だったら、

支配されるのも、そんなに悪くもないのかなと。


少なくとも、「シリアスな恐怖」に支配されるのは絶対イヤだし、

「コミカルな喜び」ですら「支配される」となると、チョット・イヤかなと。
(これは「テレビ」から解放されると、よくわかりますよ)


ですから、まぁ、自分のことで言えば、

「シリアスな喜び」の方向で絵を描いていこうかなと。
(この強引な結論には、自分でもちょっと感動した!)

まぁ、そんな風に思いますです。ハイ。




「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?

はたして、「思想」や「思考」を持たないモノを「芸術」と呼ぶことが出来るんでしょうか?


たとえば「作品」を見る限り、ナカナカ素晴らしいんだけど、

その「作品」を作った人が、ただ、なんにも考えずに作ったんだとしたら、

それでも、それを「芸術」であるということができるのでしょうか?


というよりも、もう少し極端な話として、

その作者が、ナカナカ品性下劣な考えの持ち主で、
(「芸術からかけ離れた考え」と言う意味で)

そういう人が作ったものでも「芸術」と呼ぶことは出来るのか?ということです。


『なんにも考えずに、いい作品なんてできるわけないだろ!』

っていうことじゃなくて、もしも、そう言う「作品」があったとしてという話ですね。


私は、そういうのは、「芸術」としては『アウト!!』だと思うわけです。


もちろん、そういう「美術」や「作品」があってはいけないということではないです。

ただ、『私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めします』ということですね。


「思想」や「思考」をダイレクトに表現した作品を創らなければいけないとは思いませんし、

作者が持っている「思想」と、その作者の「作品」が直接的に関係なくても、

何の問題もないと思います。

また、その作者が自分の「思想」を言葉では表現できない(しない)としても、

それも、そんなに問題ではないと思います。
(だからこそ、「芸術」で表現しようとするわけですから)


でも、その作者に、何の「思想」も「思考」もなく作られたものは

現在は「芸術」とは言えないと思うわけなのです。


要するに、「現在の芸術」には「作者の思想や思考を前提として表現するもの」

という設定があると思うわけですね。

だから、その設定を無視したものを「芸術」と呼ぶことに、

「意味」もないし、「必要」もないけど、「害」はあるということです。


『そんなのは、世間が勝手に決めた設定だから知ったことじゃない!』と言うのは、

「自由」ではなく「無知」だと思うわけですね。 


「現在の芸術」=「自己の思想や思考を前提として表現するもの」と言うのは、

一種の「固定観念」ではあると思います。

しかし、それが既に一般に広まっていて、浸透している以上、

その「設定」に従わずに、「芸術活動」をするということは、

それを信じ込んでいる人たちを騙すことに成るわけです。

どんな理由であっても、「人を騙すこと」は「芸術の目的」ではないということです。


もしも、どうしても「思想なき芸術」を実践したいならば、

その作品が「思想」を持たない作者によって作られたものであるということが

見た人に十分にわかるような作品を作る必要があるわけです。

つまり、「内容が無い作品」を作る必要があるということです。

そして、それが「内容が無い作品」であるということが、

見た人に十分伝わっていれば、いいんじゃないかと思います。

それでも、その作品を支持する人が居るのであれば、

そこから先は見る側の問題ですね。


いずれにしても、「芸術者」は、
(私は芸術に関わる人を鑑賞する側も含めてこう呼んでいます)

思考していてほしいなと思ってしまいますね。
(もちろん、自分のことも含めて)


なにも頭がよくないといけないとか、

ましてや、いろんな本を読んでいないとダメなんだとかいうことじゃないです。

ハッキリ言えば、そんなことドウデモイイと思いますし、

むしろジャマなくらいかもしれません。


そんなことじゃなくて、強く思考するっていうことですね。

たとえば、すごく単純な考えであっても力強く思考すると言うことです。

私といたしましては、そういう力強く思考された「思想」をもって、

「芸術」と関わりたいと思いますですねぇ。


本なんか読んでる暇ないです。
(実際、ほとんど読まないし)

こういうこと言うと、叱られるかもしれませんけど、

現代人は、文字情報に振り回され過ぎていると言う気がします。

どんなに「知識」を増やしても、

「思考」しないなら「意味」無いですね。

そういうのは「知識」はあっても「智恵」はないということだと思うわけです。


「本」や「勉強」なんて、「思考」することのキッカケに過ぎないと思います。

そのきっかけが、「仕事」であっても、「スポーツ」であっても、「生活体験」であっても、

いや、それどころか「ナニもしないこと」であってもですね、

結果的に「思考」に至れば、それでいいんじゃないかと思うわけです。


さらに言えば、その「思考」には「結論」は必要ない、

「思考」自体が「目的」であり「手段」であり、「結論」でもあると、そう思います。


そして、そういうことの先端にあるのが「現在の芸術」だと思うんですね。

だから、『「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?』と聞かれたら、

私の場合、答えは『ノー!』ですね。


それどころか、もしも、『「作品」と「思考」のどちらを取るか?』と聞かれたら、

「思考」を取りますね。


私の場合、「作品」が作れなくても生きられますが、

「思考」も「思想」もないなら、生きられないです。

生きる「意味」を感じません。

当然、「作品」なんて作る気もなくなるでしょうね。


だから、「思考」あっての「作品」だよなと。

そんな風に思っておりますです。


逆に、「作品」あっての「思考」だとは、

そんな風に思っておりませんです。


つまり、「芸術」も、また、「思考」のキッカケに過ぎないということですね。

「芸術」や「芸術作品」と言うのは「行為」や「モノ」であって、

そういった、すべての「物質性」は「精神性」に従属していると。

それでなければ「意味」が無いと。


つまりは、そんな風に思っているわけです。



「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」

私は「抽象表現」の中に「モノを描くこと」を取り入れたいと思っているんですが、

それを言葉で表すと「シュルレアリスム」に近い感じに成る場合があるわけです。


確かに、「シュルレアリスム」も、

やや現実離れした「モノ」を描くという性質があるという点では同じところがありますし、

「シュルレアリスム」から、その後「抽象表現」に移行した作家もいたみたいですから、

精神面では近い所もあるのかも知れません。
(実際の「絵」としては、だいぶ違うと思いますけど)


そこで、自分の考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイを

考えてみたいと思います。

ここでは、主に「シュルレアリスム」とのチガイについて考えますが、

「他のスタイル」との違いについても、今後考えていきたいと思います。


  ※私の場合「芸術の20世紀」を喪失するという考え方をしていますので、
   なるべく、このブログの中では、「20世紀の芸術」について書かないよう
   にしているんですけど、『喪失しました』と言っても、実際には消去できる
   ものでもないので、まぁ、少しくらいならいいかなと思うように成って来た
   ので、この記事を書こうと思いました。

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まず初めに、「絵」の中で実際に使われる「表現形態」についてです。


いちばん大きなチガイは、

「異・リアリズム」(私が考えている表現)においては、「現実的なモノ」を描きません。

少なくとも、極力描かないようにしています。

どうしても、現実から逃れられない部分は出てきますけどね。


その点で、「現実と非現実の対比」という手法が使われることが多い

「シュルレアリスム」とはかなりのチガイが出てきます。

  ※こういうのを「画像」なしで書くのって、不親切かなとも思うんですけど、
   こういうことを「画像付き」で書いてしまうと、それを見た人がなんらかの
   影響を受けると思うんですよね。
   例えば、『マネしちゃう』とかですね。逆に『マネしないようにしちゃう』と
   いう場合もあるでしょうね。
   いずれにしても、ここに書いてあることに縛られることに成ってしまうん
   ですね。でも、「画像」が無ければ「マネ」できないですよね。
   というか、文章だけを読んで参考にしても「マネ」にはならないでしょ?
   「マネ」って、実は「された人」じゃなくて「しちゃった人」にとっての「悲しい
   こと」だと思うんですよね。
   「画像付き」だと、もし、読んだ人が『これ面白いんじゃない?』って思った
   としても、そこから先は「マネするかマネしないか」しかなくなってしまうん
   ですね。「マネしない場合」は読んでも「意味」が無いし、「マネした場合」
   「悲しいこと」ですよね。
   まぁ、私の絵なんて、誰も「マネ」なんかしないでしょうから、心配しなくても
   大丈夫なんでしょうが、やっぱりせっかく記事を書くんですから読んだ人が
   『いいんじゃない?これ』と、万が一にも思ってくれたときに、少しでも参考
   にしてくれたら『嬉しいな』と思うわけですね。
   それで、「画像なし」にもかかわらずこ、こういう記事を書いたりするわけな
   のです。

   と言っても、実を言えば「デジカメ」持ってないという、単なる貧乏人なので、
   エラソウなことを言うつもりはありませんけど。

   追記:その後、「プロフィール欄」の「イメージ画像」と「サムネイル画像」を追
       加しました。上に書いてあることとはやや矛盾するんですが、この記事
       は一か月ほど前に書いたもので、その後、オークションで激安だったの
       でデジカメを購入し、それらの画像を投稿しました。
       (と言っても、デジカメの性能について知識が無いので本当に安いのか
       どうかもよくわからないんですけどね)

       そちらの画像は私の絵ですが、全体像ではなく一部分を拡大して切り
       取ったものです。
  
どうでもいい説明(イイワケ)が長くなってしまいましたが、続けます。


「シュルレアリスム」の場合、イメージ的には「非現実的」ですが、

「現実を使わない」という方向性は弱いと思います。

むしろ、積極的に「現実」を描いていることが多いです。


実際、「シュルレアリスム」の絵では「現実」と「非現実」の対比によって、

不思議な世界感を生み出していることが多くて、

「現実的なモノ」と「非現実的なモノ」を直接対比させていたり、

「現実的な背景」に「非現実的なモノ」を描いたり、

「現実的なモノ」を「非現実的な状況(状態)」で描いたり、

と言った「現実」と「非現実」の「対比」に特徴があると言ってもいいと思うわけです。


それに対して「異・リアリズム」においては

出来るだけ、ナニもない状態から始めて、

そこに、ナニカを創り出すということを目標にしています。


つまり、「形」も「色」も「空間も」世界」もない状態ですね。

そういう状態から、そこに「異現実」の「空間」や「世界」を

展開できたらイイなと思っているわけです。

そして、「その世界」、「その空間」の中に、

『今まで、どこにもなかった「モノ」を創り出して、描けたら嬉しいだろうな』と思っているわけです。


ですから、当然、「現実」は出てこないわけです。

ただし、これはあくまで「理想」ですから、そうウマクはいきません。

やっぱり「現実」に引きずられてしまいますし、

一旦、「現実」にとらわれてしまうと、そこから逃れられなくなるということはあります。

でも、少なくとも、積極的に「現実」を使って表現するということはありませんし、

むしろ、出来る限り「現実」から切り離して絵を描くようにしています。

この「現実の有無」ということが、見た目としては一番大きなチガイだと思いますね。


次に、「思考的な方向性」のチガイです。


「シュルレアリスム」では「人間の潜在意識」を重視していて、

「潜在意識」が人間の「真実」や「本質」に近いという考え方だと思います。


ところが、私の場合は「世界全体の本質」について考えてしまったわけですね。

それで、「世界というモノ」を現したいと思ってしまったわけです。

まぁ、当然無理です。

大き過ぎますからね。

でも、現したいわけです。

自分より大きいモノなんて見ることすらできませんから、現わせるわけがありません。

でも、やっぱり現したいわけです。


それで、仕方なく、「現そうとすること」で我慢することにしたわけですね。

つまり、そういうのが私のやっている「異・リアリズム」です。


チョット長くなってしまったので、次に続けます。




「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」(つづき)

前の記事の続きです。


私が考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについて、

「表現形態」としては「現実」を使うか使わないかというチガイ、

「思考」的には、「人間の潜在意識の探求」と

「世界の有り様の探究」というチガイがあるということを前の記事に書きました。


そして、もう一つ、これも「表現」についてのチガイなんですが、

「リアリズム」と「異現実のリアリズム」のチガイについて書いておこうと思います。


一般的に言うところの「リアリズム」は「写実」ですね。

つまり、「現実」を写し取ることです。

でも、私の場合、「異現実」を創り出そうとしているわけですから、

当然、写し取るべき対象が存在していないわけです。

だから、創り出さないとならないわけですね。


それで、その「創り出す作業」にすごく時間がかかってしまうわけですが、

さらに、その創り出した「世界」や「空間」や「モノ」を現すのに、

「現実」を現すのと同じ「リアリズム」でいいんだろうか?と考えたわけです。

それで、「リアリズム」自体も創り出すハメになったということです。


つまり、「写実」ではなくて、「写・異現実」ということです。

その「異現実」の部分だけでなく「写」の部分も創り出そうということですね。

と言っても、前述のように、「写し取るべき対象」がまだないわけですから、

「出来たモノ」を「写し取る」というよりは、「創り出しながら現わしていく」ということに成ります。

そういう作業を「異・リアリズム」と呼んでいるわけです。

  ※これを「抽象」と呼ぶか「具象」と呼ぶかは、見た人の自由だと思いますが、
   私自身はどっちでもいいと思っています。ただ、『抽象寄りかな?』と言う程
   度の意味で、『抽象なんだけど、モノを描こうと思っているんだよ』と言ってい
   るわけです。


その「異・リアリズム」の特徴を言うと、

前にも記事に書いたことがある

【絵画空間における「空」と「壁」】とか、

【絵画空間における「接地」と「浮遊」】とかといった、

「現実の世界」では、どちらかに決まっていることを

曖昧にすることで「現実感」から離れた「異現実感」を生み出していることです。


「空と壁」というのは「抜けていく空間」と「行き止まりの空間」です。

「接地と浮遊」は文字通り「着地している」か「宙に浮いている」かということです。

これらのことは、「現実の世界」では物理法則などの科学が支配していますから、

必ずどちらかにカッチリ分かれているわけです。


だから、そこを曖昧にすることで

『これは現実じゃないぞ』という「異現実感」が生みだせるわけです。

これは「平面(絵の中の世界)」でしかできないことだと思っています。

  ※おそらく、「写真」や「映像」では難しいんじゃないでしょうか?
   (もちろん、「立体」でも同じでしょうね)
   「写真」や「映像」で、それをやると「トリック」=「だまし」になっ
   てしまうと思います。
   「絵」でも、やっていることは「トリック」なんでしょうが、「絵」自
   体が一種の「トリック」なので、「絵の中の世界」という約束事
   の中でそれをやっても、「だまし」にはならないということだと
   解釈しています。

また、「質・量」というのもそれらと同じような性質があると思います。

「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を曖昧にすることで、

やはり「異現実感」が生まれると思っています。


「リアリズム」では、「モノ」を描くときに、

その「モノ」の「質感」や「量感」を上手く現せると、

「リアル」に成るわけですが、

それとは逆に、「質感」や「量感」を曖昧にすることで「異・リアル」に成るわけですね。


つまり、布を描くときは「布らしいソフトな質感」を描き出せば「リアル」になります。

金属を描くときは「金属らしいハードな質感」を描き出せばいいわけです。


「量」で言えば、「小さいモノ」が小さく、

「大きいモノ」が大きく見えれば「リアル」になるということです。


でも、目指すのは「異・リアル」ですから、

そこを曖昧にするわけです。
(と言っても、まだ名前が無いモノを現すわけですから、それ自体が曖昧とも言えるんですけどね)

ただ、そこで、ただ単に曖昧にしたんでは、表現としての力が弱くなってしまうので、

その「曖昧さ」を「リアル」に描き出そうとするわけです。

それが、「異・リアリズム」に成ります。


こういう、二極を成していると考えられているような

「遠・近」とか「大・小」などだけでなく、

「陽と陰」・「物質と精神」・「定型と不定形」なども含めたさまざまな意味で、

二つのモノを一つに出来たらいいなと思っているわけです。
(なかなかうまくはいきませんけど)


「臨場感」や「ナマナマしさ」はあるのに、「現実感」はない。

そういう「異・現実感」を創り出したいわけですね。


敢えて言えば、この『生々しいのに現実感はない』というところが、

「シュルレアリスム」との共通項かも知れませんね。


以上が、「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについての

大マカな説明です。


そのうちに、今度は「抽象表現主義」とのチガイを書こうと思います。

『いえ、もうケッコウです!』

どうも、ご意見ありがとうございます。

ではまた。




「差」はない、「違い」はある

いろいろなものごとにおいて全般的に言えることですけど、

「差」はないけど、「違い」はあると思っているわけです。


つまり、全てのモノゴトはどんなことであっても「上・下の差」はなくて、

「横並びの違い」はあるということです。


そして、もう一つ、

「差」は自分の中にだけあって、「違い」は自分の外にもある。

ということもあると思います。


これは、自分がやったことの中には、

『これはいいなぁ』と『これはダメだなぁ』ということがあるけど、

自分以外のことで、そういう「上・下の差」をつけてもあまり意味がないということです。

それはただの「好み」ですからね。

やっぱり、「好み」は「上・下」というよりも「横並び」のチガイなんじゃないかと思います。

お互いの「好み」を

『こっちが上だ!』

『いや、こっちはもっと上だ!!』

と言い合ってしまったら、ほとんどの話ができなく成ってしまいますからね。


それを「横並びの違い」ということにすれば、

「上・下の差」がなくなりますから、お互い理解し易くなって話が出来そうな気がしてくるわけです。


そして、尚且つ、

「違い」については、ただ単に『ある』というだけでなく、

『ほぼ必ずあるモノだ』ということにしてしまえば、

そういう「相互理解」の幅が広くなるだろうと思うわけです。


人と交流する場合に、どうしても「共通点」を見つけ出そうとしてしまうわけですけど、

実際には、そういう「共通点」がある人と話が合うとも限りませんし、

「共通点」が無い人とは話が合わないというわけでもありません。


多くの人が、「共通点」を通して人と交流しようとしていますし、

実際にそうしていることも多いでしょうが、

そういうのは、世間一般に刷り込まれている情報を受け入れている「度合」が一致している人同士が、

その「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」と誤解して、

ごく表面的な付き合いをしているだけだと思いますね。

そして、それを「友達」だとか「親友」だとか、

場合によっては「夫婦」のような「深い関係」に置き換えてしまっているんだと思います。


実際、「友達」だからと言って、

その人が考えていることをどの辺まで理解しているのか?ということに成ると

『そーでもないかな?』っていうことはよくあると思うわけですね。

それは「夫婦」だって同じだと思います。


「夫婦」でも「友達」でも「共通点」の部分は良く知っているでしょうし、

それなりに理解しあっているかもしれませんが、

ここで言っている「違い」についてとなると、

『サッパリわかりません』と言うことが多く成ってしまうわけです。


そして、実際にはその「共通点」というのは「誰かから刷り込まれた情報」だったりするわけで、

本当なら、人の考えが合致することなどあり得ないことだと思います。


その「違い」を「横並びの違い」と考えれば受け入れられますが、

「上・下の差」と考えれば、「見下すか・ヘツラウか」という二者択一しかないわけで、
(あくまで、厳密に言えばということですけど)

そうなると、もう「友達」という関係とも言い切れなく成ってしまうわけですし、

「夫婦」の中は「ビミョーな冷戦状態」に突入していくわけです。

だから、そういう「一触即発」を避けるために

「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」であるということにして、

なんとなく「友達」や「夫婦」を演じ続けていくわけです。


でも、「違い」は必ずあるモノであって、そこに「上・下の差」はないんだということにしてしまえば、

その辺のところが、とてもフレンドリーになるんじゃないのかなと。


やっぱり、人間というのは一人で生きるのが難しく出来ているように思いますから、

「人と人の違い」を「上・下の差」としてではなく「横並びの違い」として受け入れていった方が、

少しイイんじゃないのかなと。


そして、「自分の中の違い」については

ちょっとガンバッテ厳しく「上・下の差」を見ていけば、

もう少しイイのかなって、

ワタクシメは、そういう風に思いますです。



「画面の縦横比」について

私の場合、「画面の縦横比」に既製品の比率と少し違う比率を使いたいので、

「木枠」を自分で作っているんですが、その「画面の縦横比」についてです。


私の場合、今の時点で使っているのは「16:17」と「7:11」の二種類です。

大きさには関係なくこの二種類の比率で統一しています。


先ず、疑問に思う方が多いと思いますので、

「16:17」の比率についてですが、

なんで正方形の「S・サイズ」じゃなく、

わざわざ手間をかけて木枠を作ってまで「16:17」にするのか?

『そんなの、同じようなもんだろ!?』ということですよね。


これは、私が絵の中に「枠」を描き込むことを決めているからで、

この「16:17」の比率の場合、基本的にわずかに縦長の向きで、
(「16」が上辺と下辺で「17」が左辺と右辺ということです)

「絵の中の枠」を「上・下」または「左・右」の二辺に描くということが決まっていて、

その「枠」を入れた場合に「正方形」だと、

どうしても、自分が気に入った感じに成らないので、仕方なく自分で木枠を作っているというわけです。


要するに、錯視効果で「正方形」に見えなくなるということなんですね。

その何ともチュートハンパな「正方形」がゆるせなかったわけです。
(了見が狭い人間なので)


「正方形」は安定した形だと思っているんですが、

「枠」を入れるとどうも安定しません。

「上・下」に「枠」を描き入れた場合、非常に中途半端な横長に見えてしまうし、

「左・右」に描き入れた場合は何となく構図がとりにくくなってしまうんですね。

構図の中に漠然とした部分が出来てしまうような気がするわけです。


つまり、「16:17」の比率に関しては、

「枠」を上下に入れたときに、結果的に正方形に近い形に見える比率であり、

「枠」を左右に入れたときは、「F・サイズ」に近い感覚で構図が取れる比率だということです。


「7:11」の方は基本的に長辺(11の辺です)にしか「枠」を描き入れません。

それを縦長、または横長にして使います。

「7:11」の比率でもそれなりに細長いかたちになりますが、
(MとPの中間くらい)

そこに、さらに「枠」を描き入れますから、

かなり極端な縦長または横長の構図に成るわけですが、

それでも何とか構図が取れるギリギリの比率が「7:11」ということです。


つまり「7:11」の比率に関しては、

出来るだけ細長い構図を使いたかったということですね。


要するに、縦横の長さが同じように見えるものと、

縦横の長さの違いが大きいものの二種類ということです。


まぁ、私の場合は、たまたま「枠」を描き入れるということから、

「画面の縦・横比」にこだわりが発生してしまったわけですけど、

こういうことから、「自分らしさ」って言うモノは生まれてくるものなんじゃないのかなと。

そんな気もするんですけど、どんなもんなんでしょうか?


そういう「自分らしさ」を形作っていくことが

自分の「スタイル」につながっていくように思います。


「スタイル」は必ずしも「芸術表現の核」を成すものではないと思いますが、

「自分らしさ」を突き詰めていけば、

そういう「核」に行き当たることもあるんじゃないかと思っています。


だから、けっこう大変なんですけど、木枠の自作は続けていこうかなと。
   
まぁ、そんな風に思っていますよ。
(それにしても木枠作るの疲れる)



「複雑明快」 (その2)

だいぶ前に書いた記事で、「複雑明快」ということを目指していると書いたことがあるんですが、

その「複雑明快」についての話です。


「単純明快」というのはあるのに、「複雑明快」や「複雑難解」や「単純難解」などはないですよね。

でも、その中で「複雑難解」と「単純難解」は無くてもイイかな?とも思うわけですが、

「複雑明快」だけはあってもイイだろうと思っているわけです。

というか、私の場合は『あってもイイかな?』というだけじゃなくて、

むしろ、そういう「複雑明快」を積極的に目指していきたいと思っているわけです。


確かに、「単純明快」はわかりやすくていいんですが、

「単純明快」に現せることっていうのが、どうしても限られてしまうわけです。

当たり前ですが、「単純なこと」しか現せませんからね。


どうしたって「複雑なこと」を現そうとすれば、

やはり、「単純明快」というわけにもいかなくなるということですね。


もちろん、「複雑なこと」を「単純明快」に表現出来たら一番いいんでしょうが、

実際は、なかなかそうもいかない事の方が多いわけですよね。


それで、どうしても「複雑」に成らざるを得なくなるわけですけど、

そこで、なんとかその「複雑」をチョットでも「明快」に表現できないだろうか?

というのが、私が目指している「複雑明快」ということなわけです。


そこで、実際の表現において、どういうことを「複雑明快と言っているのか?ということです。

私の場合は、「絵」を描いていますので、

「絵画表現」における「複雑明快」についてということになります。


まず、「複雑」の部分ですが、

「絵」に限らず、「芸術」がわかりにくくなる時というのは、

ほとんどの場合「抽象表現」が関係していると思うわけです。

こういうことを「抽象がワカル人」と「抽象がワカラナイ人」が居るということにしてしまいがちですが、

実際は、「誰にもワカラナイ」というのが本当だと思います。

具体的な表現力のないモノを『ワカレ!』というのは、「無理」と言うモノです。

そして、そういう「具体性のないモノ」を「抽象」と言っているわけです。

  ※少なくとも、現在、芸術の場において「抽象」と言われているモノは、
   「具象性を排除したモノ」ということに成っているわけで、表現としての
   具体性を持つことを、封じられてしまっているわけですから、当然、作
   者にはワカッテいても、見た人には、まぁ、伝わりません。

   それでも「抽象がワカル人」が居るのは、一見、具象性が排除されて
   いるように見えている作品の中にも、目立たないように、かすかに具象
   性が隠されていることがあるからで、それを見逃さないように目を凝ら
   して見るような、そういう人も居るということに過ぎないわけです。
    その場合は、その人がワカッタのは「抽象」ではなく「かすかな具象」の
   部分ですね。それはそれで大したもんだとは思いますけど、「抽象」がワ
   カッタというのとは違うと思います。

    あとは、その人が、「抽象であること」それ自体を「芸術表現」であると
   考えている場合ですね。そういう場合は、作品の内容ではなく、「それが
   抽象であること」自体で、その人は『ワカッタ!』と思うわけですから、
   「抽象であること」を示しさえすればいいわけです。
    その場合は、その人は「抽象」を作品とは無関係に受け入れているわけ
   ですから、作品の中の「抽象表現」をワカルか否かということとは無関係
   に、はじめから「抽象」を受け入れているということですね。
   そんなことをする意味はないと思います。

「抽象表現」自体は、決して「複雑なモノ」とは限らないハズなんですが、

それが、「誰にもワカラナイモノ」に成ってしまっているので、

見る人は、「複雑な思考」を要求されてしまうわけです。

こういうのが、ここで言うところの「複雑」に成ってしまっているわけですね。


と、まぁ、こんな風に言っているんですが、私の場合は、「抽象画」をやっているわけです。

それで「複雑明快」が必要に成ってきたわけなんですねぇ。


「芸術表現」を推し進めるために「抽象表現」が必要だったのは間違いないことだと思います。

「具象」に固執していたんでは、「現実」の範囲から出られませんし、

現在は、「現実」を「芸術」で表現する必要性が薄くなっているわけですから、

「現実でないナニカ」を表現するしかないわけです。

それで、物事の本質を表現しようという「抽象表現」が必要に成ったということだと思います。


まぁ、そこに、やや面倒な「複雑」がついて来てしまったということですね。


さて、そこで、今度は「明快」の方ですが、

「複雑なモノ」をどうやったら「明快」に現すことができるだろうか?と考えたわけです。

そして、先ほど述べたところの「具体性」を見直してみようと思ったわけなのです。


「抽象」がわかりにくくなるのは、「抽象」だから仕方ないことなのではなく、

「具体性」が排除されてしまうからではないか?と思うわけです。

つまり、「抽象表現」の中に「具体性」を取り込むことができれば、

「ワカル抽象」に成るんじゃないか?と思ったわけですね。


「抽象」と「具象」を二極対立的な構図で捉えてしまうから、

「具象」を排除しなければ「抽象」ではない!ということに成ってしまいますし、

「具体的な表現」を使うと「抽象」ではない!ということに成ってしまいますが、

実際には「抽象」と「具象」は両立してきましたし、

むしろ、どちらも単独では成り立たないと言ってもいい程なわけで、

無理矢理に、一方を排除しようとしてきたことの方がよほど不自然であったわけです。


だったら、「具体性のある抽象」があってもいいだろうと思うわけです。

「抽象的なモノ」を「具体的」に現わせたら、

それが「複雑明快」に成るだろうと思っているということですね。


現時点で国語の辞書を引けば、

「抽象」については、

『物事の特殊な性質を除き、共通した性質を抜き出して概念を作り上げること』

というようなことが書いてありますが、

「抽象画」に成ると、

『具体的な対象を描かず線・面・色などの総合関係の美を追求する絵画』

となっています。

これ、微妙にズレていると思うんですよね。


本当は、『具体的な対象を描いても』イイと思うんですよね。

それが、『共通した性質を抜き出して』いれば「抽象」と言っていいハズですから。

つまり、普遍的で本質的なモノを現そうとしたのであれば、

それを「抽象」といって差し支えないと思うわけです。


そう言うのを「モノ」として現せば、少しは「明快」に成るんじゃないのかなと。

まぁ、そういうことを「複雑明快」と呼んでいるわけですが、

そういうことを書いているこの文章自体が、まったくもって「明快」でない!ということで、

『あくまでェ、オイドンの、努力目標でェゴワス』






プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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