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『どうして「天才」は、今も出現し続けているように見えるのか?』



私は、このブログの中で再三『もう天才なんて居ないでしょ?』と言っているんですけど(『そうだ、そうだ!』と言う人は誰一人いませんけど)、じゃあ、どうして「天才」が、今も出現し続けているように見えるんでしょう?


それは、人が「天才」だと思いたい人を「天才」と呼ぶからです。
しかも、「人」だけじゃなくて「マスコミ」や「社会」も同じように、それぞれ「天才」と呼びたいものを「天才」と呼んでいます。

だから、「天才」は今も出現し続けているように見えるわけです。


要するに、現在の社会全体が「天才」という言葉に依存してしまっているわけですね。
(依存させられているといった方がイイのかもしれません)


「カルト宗教」に依存してしまっている人は、その「カルト教」の実体がどんなに「神格性」と程遠いものかがわかった後も、必ず「教祖」のどこかに「神格性」を見つけ出して、その「カルト教」や他の「宗教」の中に自分の居場所を作ろうとします。

つまり、自分が「神」だと思いたいものを「神」と呼ぶように成るわけですね。

そうしないと、自己のアイデンティティが失われて、自分の存在が希薄になってしまうという不安にさいなまれ、とても堪えられないというような精神状態が出来上がってしまっているわけです。


「カルト教」のことだと、特殊な環境の下でそういう心理状態が作られてしまうように見えますが、実は、こういったことは人間の心理の中で常に起こっていることであって、決して特殊なことではないと思います。

特殊な「洗脳教育」などを受けたことで、そういう心理状態が出来上がってしまうと言うよりは、もともと、その人の心理の中にある「依存性」に、「洗脳」が滑り込まされてしまうわけです。

そして、それが「洗脳」であっても「社会的な情報」であっても「親の教育」であっても、結果的に、それらが「依存」に成ってしまえば、はまり込んで抜け出せなくなってしまうわけです。


どんな人も、必ずと言っていいほど、何らかの「論理」や「思考」などに頼って生きています。

その「論理」や「思考」が穏健なモノであるか過激なモノであるか、また、その「依存性」を本人が認識しているか否かといったことで、その「依存」の様子がだいぶ違うモノに成るということだと思います。


そして、現在は「時代」や「社会」そのものが「天才」に依存してしまっているわけです。
つまり、全ての人の心理の中に「天才」という「キーワード」が刷り込まれているということですね。


私は、「天才」は「神」の代替物だと思っています。

かつて人間は、宗教を通じて「神」を「よりどころ」としてきたわけですが、その「神」への信仰が揺らがざるを得ないような時代に成ったことで、「よりどころ」を失った人間が、その代替物として「天才」を欲するように成り、最終的には、それに依存するように成って行ったということだと思います。

 ※つまり、「神の原理」と「自然科学の原理」が整合しない部分が出てきたということです。
  実際には、強い信仰心があれば「科学」との矛盾など、どうということでも無いんでしょう
  が、やはり、普段の生活においては「自然科学の原理」に基づいて生活しているわけで、
  そこに矛盾があると「疑い」が生じてしまうわけです。
  その「疑い」が「信仰の揺らぎ」を生み出してしまうわけですね。
  つまり、強固な信仰心が築きあげられる前の段階で、「ある程度の疑い」が社会の中に
  存在するということです。
  自分が生まれる前からある「疑い」は一人の人間にはどうすることも出来ないわけですね。
  既に存在している「疑い」を無視して、「信仰」に突き進めば「盲信」に成りますし、「疑い」
  を差し挟んでしまえば、「信仰の揺らぎ」は避けられません。
  そういう状態が「現在の信仰」が置かれている状態だと思います。

  このようなことから「宗教の時代」は終わろうとしているわけですが、それは人間が「神へ
  の依存」から抜け出そうとしているということだと思います。
  ところが、一方で、「天才への依存」からは、まだ抜け出そうともしていない状態だというこ
  とです。
  でも、その時期が来ているのも間違いないことでしょうね。
  「天才」が「神」の代替物であると考えれば当然ですね。


といっても、現在に至っては社会全体が「天才」に依存してしまっていますから、こういう話を、受け入れる人はほとんどいません。

『そんなこと言ったって、「天才」は確かに居るじゃないか!』
『ほら、あのスポーツ選手を見ろ!あれを「天才」と呼ばずして何と呼ぶというんだ!!』
『あの芸術家だって見て見ろ!あんな作品を、「天才」でなくて誰が創れるというんだ!?』

ということですよね。


でも、そういうことを言っているわけじゃないんです。

「そのスポーツ選手」がスバラシイと言うことを否定しようということでも、「その芸術家」がスゴイと言うことをコケにしようということでもありません。

そうではなくて、「スゴイこと」や「スバラシイこと」の意味が違ってきているということを言っているわけです。


大昔には、地震も日蝕も雷も干ばつも、みな「神の為せる業」だったわけです。
それが、「科学」に成ったということですね。

つまり、そこは、もう「神の領域」ではなくなったということです。

そういうことが積み重ねられてきて、現在「神の領域」がほとんどなくなってしまったために、「神の時代」が終わったことを人間が受け入れようとしてきているわけです。

 ※もちろん「科学」を超越したモノとしての「神」や「絶対者」を想定することは出来ますが、
  それは、空想の領域でしかなく、まして人間にそれが把握できるということはあり得ない 
  話なわけですから。


でも、地震も雷も昔とナンニモ変わっていません。

それを人間が勝手に「神の業」と言っていたり「科学」と呼ぶように成ったりするだけです。

それと同じように、「スゴイこと」も「スバラシイこと」もナニモ変わりありませんが、それを人間が「天才」と言ったり「凡人」と言ったりするだけなのです。


ただ、「神の領域」が無くなってしまった後も、地震や雷を「神の業」と呼び続けていると、そこに「依存」が生まれて、人間はそこにはまり込んでしまい抜け出せなくなってしまうわけです。

それが「宗教のカルト化」の実体だと思います。


これと同じように、「天才」も、また「その領域」が無くなってしまっているのに、それを「天才」と呼び続ければ、必ず「依存」が生みだされて、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。

それが、現時点での「天才」の位置ですね。


でも、その「天才」達は、どうして「天才」と言われているのか?といえば、ただ単に、「世間の要求するもの」を提示して見せたからです。

「スポーツ選手」でも「芸術家」でも、「世間の要求」に応えれば「天才」と呼ばれますし、それに応えていなければ「凡人」です。
しかも、それを最も若いうちにやってのけた人こそが「天才」と言われるわけです。


つまり、最も端的に切り詰めていうなら、「大人社会の要求に一番うまく対応できた子供」これが、現代における「天才」の真の姿です。


これは、現在マスコミが提供してくる情報をもとに判断してしまうと、非常に見えにくくなってしまうことだと思います。


たとえば、「スポーツ」で言えば、オリンピックの種目にあるようなメジャーな「スポーツ」で、『スゴイ!』といわれるような記録を立てた人は「天才」と言われますが、誰も知らない「スポーツ」や、非常に軽く扱われている「スポーツ」(たとえば「指相撲」とか、「エクストリーム・アイロン」とかですね)などで、それと同じぐらい『スゴイ!』記録を立てた人が居たとしても、その人が「天才」という言葉で語られることはほとんどありません。
(まぁ、語られたとしても誰も見向きもしませんけど)

なぜなら、世間がそれを要求していないからです。


そして、それらはマスコミの情報に乗ることはありませんから(あったとしても、シリアスな扱いを受けない)、誰にも気づかれずに、消えていくわけです。
そして、「メジャー情報」だけが大量に流されて、ますます、それらが「天才」であると信じ込まれていくわけです。

しかし、実際には「メジャー組」と「マイナー組」の本当の「天才度」は同じなハズです。

『それなら、そっちも「天才」なんだろ!だったら、やっぱり「天才」は居るってことじゃないか?』

その通りです。


ところが、そうなると、「もっとマイナーなモノ」についてはどう成るんでしょう?
たとえば、「世界で一番、石に蹴躓いたときに転ばなかった回数が多い人」とかですね。

そういうのも「天才」と呼ぶのか?ということです。


それも「天才」ということは出来なくはないんでしょうが、そうなると、全ての人が何らかのカタチで「天才」ということに成ってしまいます。
ある意味、これが本当のことなのかも知れませんが、そうなると、それを「天才」と呼ぶ意味が無くなってしまうわけです。

 ※この「みんな天才」というのが、現時点での「天才」の真の姿ではあるんでしょうが、
  「みんな天才」が実際に受け入れられることはありません。
  なんだかんだ言っても、必ず「天才」と「凡人」とか「才能」と「努力」という二極に分け
  られて、「天才」を祭り上げないと、誰一人納得しないと言うように成っているわけで
  すね。
  これこそ、まさに「社会全体」が「天才」に依存しているということです。
  なにせ、「神の代替物」ですから、「みんな神」ではどうにも役に立ちません。

しかし、もう一方で、『そういうクダラナイモノは「天才」ではない!』と言ってしまえば、けっきょく「世間の要求に応えた者」という路線に戻ってしまうわけです。


つまり、「天才」=「天から授かった才能」という言葉と、「世間の要求に要領よく答えた」というイメージがかけ離れているわけですね。
「世間の要求」は「天性のモノ」ではないでしょうから当然だと思います。


これは「カルト教」の実体が「神格性」とかけ離れているのと同じことです。
そして、かけ離れていても「依存」している人にはわかりませんし、絶対に認めようとしません。


どっちにしても、「天才」と言うモノの実体が見えてこないわけです。
マスコミによって刷り込まれた「誰かにとって都合がイイ天才情報」以外にはですね。


このことは、社会の中で出来上がってしまっている「固定観念」や「マスコミ」が提供している情報などを、一度頭の中から一掃して、白紙の状態にしてから考えてみるとよくわかることだと思います。


たとえば、「スポーツ」でも「芸術」でも、また、どんなジャンルでも、「マスコミ」を通じて、「天才」だという情報が一般に流布された人というのは、もう、その「天才性」を否定されることがほとんどありません。

これ、実はとてもオカシナコトだと思うんですね。
だって、いくら「天才」でも、その人が嫌いな人だっているハズだし、その人のことを評価しない人だっているハズです。

だとすれば、少なくとも「芸術」などの「嗜好性が高い分野、」においては、『そんなモン「天才」でもなんでもない!』ということに成るはずです。

でも、『彼は天才だけど、私は嫌い!』ということは出来ても、『彼は「天才」なんかじゃないよ』ということは出来ません。
というか、言っても意味をなさないんですね。

とにかく、現代社会においては、一度世間に流布された「天才」という情報の前には、それに対する「否定」が全く意味を持たなくなってしまうわけです。

たとえば、何らかの形で「化けの皮が剥がれた」としてもです。

要するに、「天才」というイメージが「神格化」してしまうわけですね。


宗教的信仰を持っている人にとっては、「神の行い」は、それが、一見すると人間を害するようなことであっても、『きっと、神様には「崇高な理由」があってのことに違いない』ということに成ってしまいます。

それは「信仰」であれば当然なのかもしれませんが、「天才」を「信仰」しているという認識がある人は、ほとんど居ないわけですから、やはり、やや「オカシナこと」に成っていると言わざるを得ないですね。


もしも、『そんなことは無い!』と思うならば、思い出してみてください。

「マスコミ」を通じて「天才」という情報が流布された人が、その後、『あー、あの人は「天才」じゃなかったねぇー』と言われたことがあるのか?

おそらく、ほとんどないと思いますよ。

実際は、「天才」と言われた人が、その後「鳴かず飛ばず」のまま終わることはけっこう多いのに、その人が『「天才」じゃなかったんだ』とは言われずに、あくまで『「天才」だったのに、オシイかったよねぇ』ということに成ってしまうわけです。

つまり、一度「天才」と言われてしまうと、それに誰一人逆らえなくなって、従うしかなくなってしまうということです。

どうして、そんな「依存状態」が出来上がってしまったのかと言えば、「神」と同じように「天才」という概念には、もう「絶対性」がなくなってしまっているからだと思います。
(というよりも「絶対性」自体の意味が、無くなりつつあるということでしょう)

これは、考え方が、「多様化」したり「相対化」したりしたことを考えれば当然のことです。
しかし、そこで、「天才」や「神」という言葉に含まれている「絶対性」との間に矛盾が生じてきているわけです。

そして、人間が、まだ、その「絶対性」を捨てきれずに追い求めてしまうために、「神」や「天才」のような「絶対性という幻想」を見せてくれるものに「依存」するようになってしまうんだと思います。

実のところ、「天才」と言う概念の実体は、もう消滅していて、それが、あるように見えているのは社会がそれに依存しているからだと思うわけです。


実際、一元的な考え方をすることが「正しい」とされていた時代には、「天才」というモノが存在していられたわけですが、現在のようになんらかの形で多元的な考え方が求められるようになった時代においては、ひとつの方向に固定した考えと言うモノは意味を持たないように成っているわけです。

しかし、前述のようにある特定の方向(たとえば世間の要求のような)を設定しないと、「天才」という言葉は意味を持つことができないわけで、ある方向で考えた場合「天才」だけど、違う方向から考えた場合「凡人」だった、というのは「天才」とは言えないわけですから、多元的な考え方をした場合「天才」は存在しえないということに成るわけです。
(または、『全ての人が天才』のどちらかに成るわけですね)


まぁ、こういうことを書いても、誰一人『そうだ、そうだ!』ということは無いでしょうが、それはまさに、「天才」という言葉に社会全体が依存しているということなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。

 ※これは、けっして『自分だけは「依存」してませんよ』という話ではありません。
  私も「スバラシイ人」を見れば「天才」と呼びたくなることもありますし、それは
  現時点では「シカタナイコト」だと思います。

  ただ、私は「裸の王様」を見たときには、『王様、お召し物がきれいですね』と
  は言わずに、『王様、お肌がきれいですね』と言うようにしているということで
  す。

  


「動き続けること」



どんなモノも、いつも動き続けていると思うわけです。
いや、むしろ、『完全に止まることができるモノなんて無い』と言うべきなんじゃないだろうか?


そう考えると、もしかしたら「動き続けること」こそ、全てのモノに与えられている「永遠の目的」なんじゃないかと思うわけです。


もちろん、一見すると止まっているように見えるモノはあるわけですが(岩とか)、そう言うモノも、ミクロの視点で見た場合、分子や電子のような目に見えない部分では、絶えず動いていて、その「動き続けること」によって、存在していると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。
(分子や電子は見たことないですけど、なんか動いているっていう、そんな噂は聞いたことがあります)


つまり、「エネルギ―」ですね。

たとえば、「静止しているモノ」も「エネルギー」を持っているわけだし、その「エネルギ―」は何らかの「方向性」を持っているでしょうから、それを「動き」と言っても間違いともいえないと思うわけです。

それは『「移動」ではない』と言うだけだと思うわけですね。


そして、この「動き続けること」は物質だけではなくて、「精神」にも当てはめて考えられることじゃないかと思うわけです。


つまり、『「心」も動き続けている』と言うことです。

『「心」が動き続けている』と言うと、やや「当たり前」な感じもするんですが、ここで言う『動き続けている』というのは、『永遠に動き続けている』ということですから、当然、死んだ後も『動き続けている』ということに成ります。


最近になって、「魂の永遠」というのは、決して不思議なことを言っているんじゃなくて、こういう、当たり前のことを言っているような気がして来ているわけです。

つまり、「無生物のように、静止しているように見えているモノ」(岩とか)の中でも、分子や電子は動いていたりするのと同じように、人間の「心の中」でも、「生・死」とは無関係にミクロのナニカが『動き続けている』んじゃないか?と思うわけです。


というか、こういう話では、「心」と「体」を分けて考える必要すらも無くて、物質の中で電子などが「動き続けている」というだけでも、十分「魂の永遠」と言えることのような気もします。

つまり、「動き続けている」という「方向性を持ったエネルギー」の継続というのが、「魂の永遠」でもあり、「物質の永遠」でもあり、「全ての永遠」でもあるということです。

そして、その「全ての永遠」こそが、この世界の様相でもあるといことですね。


だから、そこに向けて、あらゆるモノが「動き続けること」を「永遠の目標」として設定されていて、その結果として、「止まること」を許されないように成っているんだと思うわけです。


もし、そうだとしたら、人間も、いつも必ず「動き続けている」わけで、「止まること」は絶対に出来ないということですから、どんなことに置いても「留まろうとすること」には、常に「意味」が無くて、「動き続けること」にしか「意味」は発生しないということかなと。


そんな風に思っているわけです。


ところで、こういうことを考えることは、どちらかと言えば、「留まろうとすること」に入るんでしょうか?
それとも「動き続けること」に入るんでしょうか?

少なくとも、本人は「動き続けること」ということでやっておりますデス。ハイ。



「最強の色」:「色の強さ」について



「いい色」とか「好きな色」というのとは別に、『この色、強いなぁ』と感じる色があります。

まぁ、自分だけなのかも知れませんけど、そういう色に惹きつけられて、その色ばかり使ったりすることが時々あります。


私の場合、なぜかはわかりませんけど、そういうのは「赤」が多くて、「ライト・レッド」とか「バーミリオン」なんかが、自分の中の「最強の色」ということに成っています。
(別に赤が特に好きっていうことでも無いんですけどね)


まぁ、「バーミリオン」はわかります。

でも、「ライト・レッド」ですね。

『なんで、この色がこんなに強いんだろうか?』と思ったりもします。


どっちかっていうと「地味な色」のような気もするんですが、とにかく、チョット混ぜても他の色を喰ってしまうし、濁るし、下地に塗ると影響力が強い色なんで、「使いにくい色」と言う気もするんですが、ときどき、意味もなく多用したくなるという、自分にとっては「厄介な色」でもあります。

 ※たとえば、『この辺にちょっと赤味が欲しい』ぐらいの時に、この色を使うと
  けっこう痛い目に合う確率が高いですね。


そこで、この「色の強さ」って、いったい何なんだろう?と思うわけです。

おそらく、「隠ぺい力」が強くて、「強い発色」をする色だと思うんですけど、それにしても、なんで「赤」なんだろうか?と思うわけです。


なにかで、自然界の中にある色素の中で、一番安定しているのが「赤」だというのを聞いた記憶があるんですが、そういうことと、なにか関係しているんでしょうか?

 ※不確かな記憶ですが、野菜などでも「青物類」は茹でたりすると、すぐに色が変
  わってしまいますが、「トマト」や「赤ピーマン」みたいな「赤い野菜」は加熱した後
  も変色しにくいというような話だったかと思います。
  この話が絵具や顔料に当てはまるのかどうかはわかりません。

それはさておき、そういう「強い色」を使ったからと言って「強い絵」に成るとは限らないというのが、とっても残念な所なんですが、まぁ、要するに「色」は、「単色」による効果よりも「対比」だと言うことなんでしょうね。


それでも、「弱い色」ばかり使っているよりはチョットはマシなんじゃないか?
ということで、『こういう絵はシツコイんだよ!』って言われても、やっぱり、「強い色」を使ってしまうわけなのです。


そんなわけで、『この絵の中の、この場所における「最強の色」は、どの色なんだろう?』といつも考えてしまうわけですが、そういうことで、チョットだけ「絵」が力強く成っているような気もします。

気のせいか?

そんな風にも思います。


「背景学」



いま「絵を描くこと」において、「背景」についての考え方がとても重要だと思っているわけです。
だから、この「背景」の部分を考える分野として、「背景学」というようなものがあってもいいんじゃないかと思うわけですね。
(もしかしたらあるのかも知れませんが、検索しても出てこなかった)


たとえば、「抽象画」においては「背景」という概念が否定的に捉えられる場合が多いと思いますが、そのことによって、「抽象画」が解りにくいものに成っているような気もします。


現在の「抽象画」は「モノを描いてはいけない」という考えに縛られていると思います。


「背景」は「モノを描くこと」によって発生する概念だと思いますから、『モノを描かない』ということに成れば、当然「背景」という概念も失われてしまいます。

逆に言えば、どんなに抽象的な絵でも、そこに「背景」を設定するだけで、「モノ」の存在が浮かび上がって来てしまいます。
つまり、「背景」との対比によって、どうしても「モノ」の存在が浮かび上がってしまうわけですね。
だから、、「モノを描いてはいけない」という縛りによって、「背景」も使えなくなってしまうわけです。


そして、そのことによって、「抽象画」は非常にわかりにくくなっていると思うわけです。

要するに、「背景」と「モノ」の対比が無いことによって、どうしても”漠然として”しまうわけですね。
つまり、『画面全体が純粋に絵である』ということだと思うんですが、これ、言葉の上ではとっても理想的なんですが、実際には、やはり”漠然とした”感じに成ると思います。

それを、『抽象画はワカル人とワカラナイ人が居るんだよ!』と言ってきたわけですが、でも、本当に『画面全体が純粋に絵である』というように成っていれば、みんなワカルはずです。

つまり、『画面全体が純粋に絵である』は、実現出来ていないということですね。
それで、「抽象画」が、「漠然とした絵」に成ってしまっているわけですね。


実際は、「抽象画」が、「ワカリニクイ」だけではなくて、「漠然とした絵」であることで一層わかりにくくなっているんだと思います。


こういう状況を打開するためにも「背景」を専門的に研究することが役にたつんじゃないかと思います。

また、具象的な「絵」においても、「背景」を問い直すことは役立つんじゃないかと思います。


現在、具象的な表現の絵においては、「描くモノ」にばかりに注目が集まる傾向があると思うわけです。
つまり、「描くモノ」で、「何かしらのオモシロサ」を提示することが求められているわけですね。

しかし、そのことによって、「気をてらったモノ」が主流を占めるようになってきているわけです。


「オモシロイこと」がワルイとは思いませんが、それは、「主流」に立たされると、オモシロク無くなってしまうような気もします。

そこで、「背景」によって「オモシロサ」や「アタラシサ」が出せれば、「気をてらったモノ」を描く必要が薄くなるんじゃないかと思うわけです。


つまり、「背景との関係性」で「オモシロサ」や「アタラシサ」が出せれば、「描くモノ」については『”マットウ”でもOK』と言うこと成るだろうということですね。

 ※実際に、「背景処理」によって、「絵」に独自性を出している作家は多いと思います。
  というか、「背景」に何等かの工夫がないと、ほとんどの場合、独自性を持ったスタ
  イルにはならないと言ってもいいような気もします。

  だから、「背景」を独立した分野として考えていくのは、けっこう有効なことだと思いま
  すね。

以上のようなことから、「背景学」というのを考えていきたいなと。

そんな風に思っているわけです。




「親の権利」と「子の権利」



「親」は「子」に対して、なにか「権利」を持っているんでしょうか?
また、「子」は「親」に対して、なにか「権利」を持っているんでしょうか?

 ※こういうことは、個人差もあるでしょうし、判断が分かれるところだと思います
  から、以下、私のまったくもって勝手な持論と言うことでございます。


私は、「子」に対して「親」が持っている「権利」があるとすれば、それは「子がワルイことをしたときに、それを否定する権利」だと思うわけです。

そして、「子」が「親」に対して持っている「権利」があるとすれば、それは「自分がイイことをしたときに、それを親に認めさせる権利」だと思うのです。

どちらにおいても、「イイ」とか「ワルイ」に厳密な規準は必要ないと思います。
つまり、「親」が「ワルイ」と思っているだけ、「子」が「イイ」と思っているだけで十分だということです。

逆に言うと、「親」は本当に「ワルイ」と思っていないことで「子」を否定する権利はないし、「子」は本当に「イイ」と思っていないことを「親」に認めさせる権利はないということです。
 
 ※どちらかと言うと、最後の『逆に言うと~』以下の部分が大事かもしれません。
  要するに、「本物の親の権利」や「本物の子の権利」以外のモノを「権利」と
  して使ってしまっているケースがとても多く、そのことで、問題が出てくることが
  とても多いと思うわけです。


この「二つの権利とは、要するに「親の叱る権利」と「子の褒めてもらう権利」ですね。
この二つの逆方向のベクトルの引っ張り合いが「親子関係」なんだと思うわけです。


『だからなんだって言うんだ?』という感じですが、現在、「親子関係」において、とても無理しているケースが日増しに増えているような気がするわけです。

そういう時に、この「二つの権利」を規準にして考えて行くといいんじゃないかなと思うわけなのです。


そこで、問題なのは、「子供が褒めてほしいこと」と「親が叱るべきだと思うこと」が同時に発生した時だと思います。


つまり、子どもが「イイこと」だと思っていることが、親にとっては「ワルイこと」で、子供は褒めてほしいのに、親は叱らなければ!と思ってしまうことがあるわけですね。


まぁ、だいたい、そういう時に、親子の間の「ぶつかり合い」が起きるわけですよね。


確かに、そういう「ぶつかり合い」は避けようがないようにも見えますが、実は、そういう「ぶつかり合い」のほとんどは、この「二つの権利」をよくよく考えてみるとけっこう避けられるんじゃないかと思うわけです。


ただ、これは、子供にはなかなか要求できないことなので(子供が幼い場合ですね)、親の側がそういう考え方をしていないと成らないわけですね。


親の側が、子供のしたことを、

『本当に子供は、それをイイことだと思っているのか?』

また、

『本当に自分(親自身)は、それをワルイことだと思っているのか?』

という規準でよく考えて判断していくだけでも、「ぶつかり合い」はかなり減らせるんじゃないかと思います。


「本物」以外の「曖昧なこと」については、「叱る必要」も「褒める必要」もないのかも知れませんが、子供が褒めてほしいなら少なめに褒めておけばいいんじゃないかと思います。

少なくとも「叱る必要」はないような気がしますね。


この「二つの権利」を守っていくことで、親子関係がかなり改善されるんじゃないかと思うわけですが、どうしてそう思うかと言うと、「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」が形成されにくくなるからです。


逆に言うと、この「二つの権利」をよく考えずに扱っていると、「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」が出来上がってしまう確率が高くなるということです。


要するに「子供の善悪の規準」というのは、元をたどれば、ほとんどの場合、「親の善悪の規準」をもとにして出来ているわけで、その二つはほとんど同じようなモノなわけですから、それらが一致していれば、「シングル・スタンダード」だし、それらが一致する時もあればしない時もあるということであれば「ダブル・スタンダード」ということに成るわけです。


そして、さらに言えば、こういう「親子関係のユガミ」は、、時間が経っても解消されないことが多いので、けっきょく、どちらかが死ぬまで続くと言ってもいいような気がします。
(死んでも続く場合も多かったりするのかも知れません)


しかも、こういった「親子関係のコジレ」に、人生のかなりの部分を使い果たしてしまう人も、けっこう居るんだと思うわけです。


そんなことなら、出来るだけ早い時点から、「ダブル・スタンダード」を排除して、つまらないことに人生を浪費してしまわないようにした方が少しマシになるんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。





「エライ人に出来るエラクナイこと」と「エラクナイ人に出来るエライこと」



「エライ人に出来るエラクナイこと」と「エラクナイ人に出来るエライこと」
まぁ、なに言ってるのかわかんないですよね?


こういうの、自分でもよくわからなくなる時がありますけど、要するに、「エライ人に出来るエラクナイこと」っていうのは、「政治家」とか「社長」とかそういう「社会的な権力者」が、「ゴタイソウナこと」をするんじゃなくて「トルニタラナイようなこと」をするといったことです。

それから、「エラクナイ人に出来るエライこと」というのは、「売れない創作者」とか「何の仕事してるんだかよくわかんない人」とか、そう言った「社会的無権力者」が、「イイカゲンなこと」や「ダラシナイこと」じゃなくて、「チョットだけ筋の通ったこと」とか「やや純粋なこと」をやるといったことです。


つまり、そういう「エライ人に出来るエラクナイこと」や「エラクナイ人に出来るエライこと」が、『少しいいんじゃないの?』と思っているわけですねぇ。私としては。


「エライ人」が「エライこと」をすれば、どんどんエラク成ってしまいます。

「エラクナイ人」が「エラクナイこと」をすれば、どんどんクサッテいきます。


それよりは、「エライ人」は「エラクナイこと」を、「エラクナイ人」は「エライこと」をすれば少しイイのかなと。

そんな風に思うわけです。


そして、「芸術」というのが「エラクナイ人ができるエライこと」の典型的なモノの一つなんじゃないのかなと。
ただし、「売れてしまった人」にはできませんけどね。

そういう方は、是非「エライ人に出来るエラクナイこと」の方をやってみてほしいですね。

でも、よく考えると、「政治家」など本物の「権力者」はめったなことでは「エラクナイこと」をしませんから、けっきょく、こちらも「芸術」に向いていることなのかも知れませんね。


ということで、「エライ人に出来るエラクナイこと」も「エラクナイ人に出来るエライこと」も、どちらも「芸術」に向いているのかも知れないなと。

只今、そんな風に思ったわけなのです。
(どっちも、あまり実践されませんけど。。)


「おウチ絵」と「おシロ絵」



一般的な「庶民の住宅」に飾るような絵と、宮殿や昔のお城のような、「すごく庶民じゃない場所(今で言えば、「大きな美術館」ということに成るんでしょう)」に飾るような絵を、同じように「絵」と言う単語で現してもイイもんなんでしょうかねぇ。

イイ・ワルイと言うよりは、その二つの「意味」が、かなり違うんじゃないのかなと思うわけです。


もちろん、空間的な広さや高さのチガイもありますが、「生活感のない場所」と「生活のための場所」というチガイもあるわけで、「その場所の持っている意味」が違えば、「同じ絵」でも「同じ意味」には成らないと思うわけです。


絵を描く人は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」のどちらを選ぶのか?
という選択を迫られている部分があると思うわけです。


これ、要するに、「一般人の方を向いて描くか?」
それとも「専門家の方を向いて描くか?」という二者択一だと思うわけです。


もちろん、「専門家」も住宅に住んでいますし、「一般人」だって美術館に行くときはあるでしょうから、そこにキッパリとした境界線が引けるわけではありませんが、少なくとも、自分がどちらを向いて描いているのか?という問いに、即座に答えられるようにしておくということくらいは必要なんじゃないかと思うわけです。


現在の創作者や鑑賞者は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」を、時と場合で使い分けないと成らないことがあるかと思いますが、そういう必要に迫られてとる行動とは別に、意識として、自分がどちらを向いて描く(見る)のか?ということをハッキリさせておくというのは必要なことなんじゃないのかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけです。


ちなみに、私は「おウチ絵」を「一般人」の方を向いて描いていきたいと思っていますが、そういう「おウチ絵」の範囲が、「インテリア的な絵」から「自己表現としての絵」に、少しずつ広がって行くことを前提として、そちらを選択しています。


「生活の場」にも、「現在の芸術」の本質である「自己表現」」が、入って行くように成っていったら、きっと、いろいろな意味で、少し良くなるんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風にも思っているわけですね。



「芸術の神話」と「芸術の人間性」



現在考えられているところの「芸術」という概念には、一種の「神話」としての性質があると思っているわけです。

 ※実際は「神話」というよりも「一種の宗教」と言った方がいいのかもしれません。
  「神話」における「神」はけっこう人間的ですが、「宗教」における「神」は絶対的で
  す。
  ここで言っているのは、現在の「芸術」には、そういう絶対性があるという話です。


つまり、「芸術」に「人間業(わざ)を超えたモノ」という性質があてがわれてしまっているわけですね。

『これ、違うんじゃないか?』と私は思っているわけです。


「芸術」が「神話」であるからこそ「天才」は「神」のように扱われますし、その「神」の作品には、天井知らずの値段が付けられても、それが当然のことのように成ってしまうわけです。


もしも、「芸術」が「神話」ではなく「人間業の範囲」に収まっていれば、これほどまでの「芸術バブル現象」というのはあり得ないでしょうし、客観的に見た人が『それはどう考えてもオカシイヨ!』と思うハズです。
(思っていても言わないという空気がある)


今では、もう「芸術作品の値段」について「〇〇億円」と言われても、ほとんど驚くことすらなくなってしまいましたし、そういう「神様扱い」の中で制作している「芸術家」が存在することにも、何の抵抗もなくなってしまいましたが、「芸術」が「神話」=「神の世界のお話」でないのならば、これには、本来違和感があってしかるべきなんだと思うわけです。


さて、そこで「芸術」とは、本当に「神話のようなモノ」なんでしょうか?
はたまた、「天才」とは、正しく「神のような存在」なんでしょうか?


私は[現在の芸術」こそ、最も「人間的なモノ」であって、最も「不完全なモノ」であると思うわけです。
つまり、「神の世界」とは正反対だということですね。
だからこそ『天才の時代は、もう百年も前に終わっている』と思っているわけです。


そして、だからこそ『現在の芸術に求められるのは「人間性」である』と思っているわけです。

さらに言えば、『その「人間性」には「完全性」は無用であり、むしろ必要なのは「不完全性」である』とも思います。


つまり、「人間」が「人間であること」や、その「人間」の中の「不完全性」を恥じることなく自己表現できるように成ることこそが、現在の「芸術の目的」であると思うわけですね。


それなのに、「芸術」を「神話」に仕立てて「天才」を「神」に祭り上げてしまっている現状と言うのは、正反対と言ってもいいほど、見当違いなんじゃないかと思うわけですねぇ。

だから、もう「芸術」の「神話」は捨てて、「芸術」の「人間性」で行こうかなと。


そんな風に思うわけなのです。




「求められているモノ」と「選ばれているモノ」



現在の芸術の場においては、「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が、かなり違って来ていると思うわけです。


ここで言う「求められているモノ」とは、鑑賞者が最も素直な状態で、『見たい!』と思うモノですね。
(「周囲の情報に左右されない状態で」と言ってもいいと思います)

ここで言う「選ばれているモノ」とは、鑑賞者が予備知識や既成概念のような情報を集めて、そこに少しだけ自分の好みを加えたうえで、『たぶん、これがスバラシイに違いない!』と思うモノです。


この二つが、随分と違ってきていると思うわけです。


要するに、情報がどんどん増え続けているわけですね。
それで、過剰な情報の分だけ素直な判断ができなくなってしまうんだと思います。


さらに言うと、この現象は、「一般の鑑賞者」だけでなく、むしろ「専門的な鑑賞者」の方が一層顕著であると思うわけです。


つまり、評論家や、芸術展の審査員を務めるような人の方が、たくさんの情報や知識を持っていますから、当然それに左右されることに成るわけです。
(そこに「専門家」としての価値もあるもわけですから)


今と成っては、もはや「専門家」の方々が、自分の最も素直な状態での判断に立ち返ることは不可能と言ってもいいほどにまで、情報が増えてしまっていますから、「専門家」の判断ほど予備情報に左右されているというのは、間違いないことなんじゃないでしょうか?

ところが、その「専門家」が、また更に「一般人」に対して情報を配信していくわけですから、そうなると、「一般人」の判断も、間接的に情報に左右されてしまうわけで、けっきょくは、誰の判断も「素直な状態における判断」とは言えなく成ってしまいます。


現時点で、唯一「素直な状態における判断」を下せるのは、「芸術に興味のない人」というオカシナことに成るわけですが、そういう人は、「芸術」を求めてもいませんし、選んだりもしませんから、その人たちの判断は、ほとんどなんの影響も及ぼさないわけです。
(判断以前に、見ないし)


こんな状況で、「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が、離れてしまっているわけですが、この状況を改善して、「素直な状態の判断」を取り戻そうとするのは簡単ではないように思います。

情報はごく幼い時期から刷り込まれていますから、無意識の状態で入り込んでしまっているわけで、情報に左右された判断と情報に影響されていない「素直な判断」を区別して選び取るのはかなり困難な作業でしょう。

出来ることと言えば「情報を減らすこと」ぐらいじゃないのかなと。


入ってくる情報を意識的にカットするとか、入ってきた後も、その情報を鵜呑みにしないように心がけるといったことで、影響が最小限にとどめられるというわけです。

既に入り込んでしまっている情報の影響は免れませんが、情報を増やさなければ、その影響も徐々に薄れてはいくでしょうから、少しづつ小さくなっていくでしょう。


せっかく「芸術」を見ても、自分が「ナニを求めて」いるのかがわかっていなければ意味がありませんから、この情報が氾濫する世の中では、意識して情報の影響を排除して、自分の素直な判断を少しづつ取り戻そうとする努力が必要だと思うわけす。


なにかを知ろうとすると、どうしても情報を増やしたくなりますけど、むしろ、情報を減らしていくことで見えて来るものがあれば、それこそが「本当の自分の素直な判断」なんだと思います。


そこで「自分の求めているモノ」に気づいた人だけが、それを選び取ることができるわけです。


そういう「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が一致した状態でしか「心の感動」というものは生まれないんじゃないのかなと。


つまりは、そんな風に思うわけです。



「ギリギリ人間」



このブログでは前から書いていることなんですけど、人間と言うものは、実はまだ「人間未満」なんじゃないかと思っているわけです。

つまり、人間自身が作り出した「人間のイメージ」に人間がついてこれていないと思うんですね。
だから、人間は『けっこう頑張ったなぁ』っていうところまでやって、ようやく「ギリギリ人間」という感じなんだと思うわけです。


これは、人間が今のような社会の形態を持つに至る過程で、動物としての人間とは少し違う、言い換えれば、チョットだけ本能に逆らった、生き方をするようになったことによって、起きて来た現象だと思うわけです。


人間以外の動物においては(たとえば「犬」など)、「犬」と「犬のイメージ」が食い違っているというようなことはほとんどありません。
というよりも、「犬」は「理想化した犬のイメージ」を持っていたりしませんし、その「理想像」を追い求めたりもしません。

「犬」にとっては「現実の犬(自分)」こそが「犬」そのものであって、それこそが、ほぼ「犬のすべて」でもあるわけです。


要するに『犬とはこうあるべきものである』という考えが無いわけですね。
それで、「犬」と、犬自身の中にある「犬のイメージ」が一致しているわけです。

もちろん、そういう中で「犬」は「犬」なりに懸命に生きているわけですが、「犬」にとって「懸命に生きる」ということは「犬のイメージ」に追いつくことではないし、「犬のイメージ」を引き上げることでも無いということですね。

それは、まさに「本能の命じるままに生きること」なんだと思います。
(実際には、少しのズレはあるんでしょうが)


一方、「人間」の場合は「実際の人間」と「人間のイメージ」が一致していません。
しかも、その差が年々広がってきています。

そして、そのことが「人間」にとっての弊害に成って来ているわけです。


「人間」の場合は「動物的な本能」とは違った判断を下すときがありますし、それもまた、「人間にとっての習性」に成って来ていて、「本能」と比べても釣り合うくらいに強固なものとなっているわけです。

要するに、現在の「人間」は、いつも「本能」と「理性」の間で身を引き裂かれているような状態に成っているということです。
しかも、そのことがほとんど意識されていないことで、一層そういう現象に拍車がかかってしまうわけなのです。


それで、けっきょく何が言いたいかと言うと、『「ギリギリ人間」でも十分だろう』ということが言いたいわけです。

つまり、そんなに「完全な人間」でなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
というか、「ギリギリ人間」くらいでもそれなりに大変だと思うわけです。

「完全な人間」なんて言い出したら、成れる人が地球上に何人いるかわかりません。


実は、そのくらい大変なことなんじゃないかと思うんですねぇ。
「人間であること」は。


それを、あまりにも簡単に『それくらいは人間として当然のことだ!』とか、『それができなきゃ人間じゃない!』などと言ってしまうモノですから、その自分の言葉に縛り付けられて、結果的には「本当に人間じゃないようなこと」をしてしまったりもするわけです。

要するに、「無理な理想」を追うことで、かえって悪くなってしまうわけです。


例えば、十回に一回くらいなら「人間以下」をやってしまうこともあるかもしれませんし、百回に一回くらいは「鬼畜」に成るかも知れませんし、それどころか、百回のうち九十回は「ダメ人間」と言うのが関の山なんだと思いますけど、そんなのが「現在の人間の実体」なんだと思います。


でも、それでいいんじゃないかと思うわけです。

むしろ、そういうことを受け入れていけば、少しだけ「人間」に近づけるような気がしますし、それ以上のことをしようとすれば、かえって「人間」から遠ざかると思います。

でも、それ以前に、それ以上のことをする必要もないと思うわけです。


だから、「ギリギリ人間」あたりを目標に生きていこうかなと。

そんな風に思っているわけなのです。

  ※これ、一見低レベルに見えるでしょうが、ゼンッゼン違います。

    『どこが?』
   まぁ、それはまたの機会に。
    


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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