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「逆転」と「反転」



「芸術の20世紀」におけるもっとも重要なテーマは「既成」に対する「逆転」であったのだと思うわけです。


だから、一度「既成の概念」をすべて破壊する必要があったんだと思います。

しかし、「破壊」自体は真の目的ではなく、ひとつの考えから抜け出せなくなってしまった状況をひっくり返しして、新しい展開を生み出すことができさえすれば、それでよかったんじゃないかと思うわけです。

ところが、その「逆転」を「正統」に祭り上げてしまったことで、その「逆転」が固定化されてしまって、結果的には、「既成概念」を「新・既成概念」に改訂したことに留まってしまったわけです。


そして、その「少し新しい既成概念」がずっと貼り付けられっぱなしに成っている。
それこそが、「現代美術」の現状だと思います。


しかも、その「少し新しい既成概念」がもう百年くらい続いてしまっていますから、「少し新しい」でもなくなってしまっています。
そうなれば、もう単なる「既成概念」でしかないわけで、元に戻ってしまったと言うほかないわけです。


これは、人間という生き物が「逆転」ということに成れていなかったということだと思うわけです。


人類の過去の歴史において、「発想」や「概念」を根本から「逆転」したことが、一度も無かったんじゃないでしょうか?
だから、慣れていなかったんだと思います。


それで、やみくもに破壊するしかなかったんでしょうね。
これは、一度はやる必要があったことだと思います。

しかし、その後、一通り破壊した後に成って気が付いてみたら、いつの間にか、また「既成概念」が出来上がっていたということだと思います。


要するに、『反転し続けなければ意味がない』ということだと思うわけです。

ひとつの「既成」に対して、「正反対」に向かってもそれを固定化してしまえば、それは本当の意味で「逆転」とは言えないと思うわけです。


「あるモノ」に対して、その「逆」に向かえば、その「あるモノ」に対する「逆転」ではありますが、その「あるモノ」を外して考えれば、「逆転」とは言えなく成ってしまいます。

どんなことも、初めの段階では「あるモノ」に対する「逆転」であるわけでしょうが、その「逆転」を継続しなければ、それは「真の逆転」とは言えないと思うわけです。

つまり、いま「逆転」している自己に対しても、常に「反転」し続けることこそが、「真の逆転」と言えるんだと思うのです。


そして、そういう「真の逆転」こそが、「芸術の20世紀」において必要な「逆転」であったのではないのかなと思うわけです。


一見すると「芸術の20世紀」においては、「逆転」や「反転」が連続しているかのように見えるかもしれませんが、それらは、「あるモノ」に対する「逆転」であり「反転」であったのだと思います。

そして、その「あるモノ」とは、「20世紀以前」であると思うわけです。

つまり、「芸術の20世紀」における「逆転」や「反転」というのは、すべて、さまざまに形を変えた「20世紀以前に対する破壊」、つまり、「アカデミズムの破壊」であったのだと思うのです。

  ※もう一つの考えとして、「20世紀」においては「ある創作者個人の中での逆転」と
   「芸術の場全体としての逆転」が混同されているということもあると思いますが、そ 
   ちらは話が脱線しそうなので、ここでは触れないことにします。


そして、その後「アカデミズムの破壊」は時代に受け入れられ、常識化して、「新たなる既成概念」となって、また、固定され、行き詰まって行ってしまったわけです。

しかも、その「アカデミズムの破壊の継続」が一定の「パターン」となって固着してしまったために、その「破壊の継続」自体も、また、「既成概念化」してしまったということです。
つまり、すでに「既成概念」となってしまっている「20世紀」を、延々と繰り返すことが、「逆転」であるという錯覚が、完全に時代に肯定されてしまったわけですね。

もしも、それが錯覚でないならば、現在のような「行き詰まり感」はないはずです。
(『行き詰ってませんよ』と言う人は、それでいいのかも知れませんね)


現状が行き詰っているとすれば、それは、固定化した「20世紀」が貼り付けられたままに成っているからで、「20世紀」を「逆転」できずにいるからに違いないのです。


そして、その「逆転」と言う「固定」から抜け出して、本当の「反転し続ける時代」を築くことができれば、現在の「芸術の行き詰まり感」は解放されるという風に思うわけです。


そうなれば、「王道」や「正統」と言った感覚自体が無意味になるでしょうし、「上・下」や「巧・拙」といったことを基準にするという考え方も消滅してしまうでしょうから、ずいぶんと自由になることでしょう。


そうなった後の世の中に、一体どんな「芸術」が生まれるんでしょうねぇ?
わたくしは、心の底から、そう言うモノを見てみたいなぁと。

そんな風に思うわけなのです。




「芸術」と「技術」



「芸術」と「技術」は、とても近いもののように見える時もありますが、実は、かなり相反した性質を持っているものだと思うわけです。


まず、「芸術」には、人を解放する性質がありますが、「技術」には、人を拘束する性質があります。


少なくとも、現在のように、機械化が進んだ社会においては、「技術」と言うモノは「工業化」を意味するところが大きいわけです。
つまり、人を「ある限定された目的に沿って効率的に行動させるもの」ですね。
それが「現在の技術」なんだと思います。

「有用でないモノ」は切り捨てられ、「有用なモノ」だけが尊重される、つまりは、そういうのが「技術」の方向性であるということです。
これなんか、まさに「芸術」と反対ですよね。


そういう方向性を持った「技術」ではありますが、機械文明が今ほど発達していなかった時代には、害に成るほど、人を拘束するものではなかったんだと思います。

つまり、「職人の手わざ」というようなものが「技術」の中心であった時代においては(職人に限ったことでも無いでしょうが)、「技術」が「有用性」を追求するものであると同時に、職人個人の「こだわり」や「あそび心」を発揮する場でもあったということですね。

言い方を変えれば、そういう「こだわり」や「あそび心」が、「有用性」として尊重されていたということですね。

つまり、「非効率的な技術」が「技術」として認められていたということです。
だから、人間が置いて行かれることなく、十分ついて行かれたわけです。


しかし、現在のように機械化が進んだ社会においては、「技術」は「工業化」を意味すると同時に「機械化」を意味するようになってきているわけです。


現在では、社会に生きる人のすべてが、機械文明に支配されていると言っても過言ではないと思いますが、その結果、「技術」は「機械文明」の「テシタ」になってしまっているわけです。

つまり、現在的な意味での「技術」とは「人間が機械に合わせる技術」であり、「人間が機械にイイように使われる技術」であるわけです。


「技術」が「人間のモノ」であった時代までは、「技術」は「人の手」に依っていましたし、人を拘束するほどのことはなかったんだと思いますが、現在の「技術」は完全に人を機械文明の「下僕」にしてしまっていますし、完全に「人を拘束するもの」に成ってしまっているわけです。


さて、そこで「芸術」です。


「技術」が「人を拘束するモノ」であるのは、もともと「技術」が持っている性質によるところもあるので、ある程度仕方ないとしても、「芸術」は「人を解放するモノ」に成っているんでしょうか?


もともと、「芸術」が「人を解放するモノ」であるということは、「芸術」が「創作者」にとっても「鑑賞者」にとっても、自己の「表現」や「感性」をナニモノにも縛られずに自由に現すことができるということを前提にしているわけです。

だから、そういう「純粋な衝動」から発生した「芸術」ではなく、なんらかの「有用性」を目的にしたような「芸術」に関しては、必ずしも、「芸術」が「人を解放するモノ」であるとは言えないわけなのです。

ましてや前述のように、「技術」が完全に「人を拘束するモノ」となってしまっている現状において、その「技術」を「芸術の見せ場」にしてしまっている「芸術」があるとすれば(これは「そういう芸術」を評価している「鑑賞者」の側にも言えることですが)、「そういう芸術」もまた、「人を拘束するモノ」になってしまっていると言わざるを得ないわけです。

機械文明の「テシタ、」と化した「技術」をそのまま「芸術の見せ場」にしてしまうということは、「その芸術」もまた、「機械の下僕」であるということに成りますし、それは、「芸術」が「人を拘束するモノ」になってしまうということでもあるわけです。

やはり、そこは「芸術」が「技術」を「下僕」として使うことが必要なんだと思うわけです。


言い方は悪いかもしれませんが、「芸術における技術」はもっともっと、”虐げられて”いいくらいだと思います。

つまり、「技術」は尊重されたり評価されたりする対象ではなく、『仕方なく使うモノ』というような認識で捉えられていく方が少しイイんじゃないでしょうか?


さらに言うならば、「技術」は「利用されるもの」であって、「あえて捨てるほどの価値はないモノ」ということです。

そんな風になって行けば、『「芸術」はやっぱり「人を解放するモノ」だよね!』ということに成るのかなと。


そういう風に思います。



「社会」と「個人」



「人間社会」のことを、よく「高度に発達した社会」などと言ったりしますけど、実は、「社会」という仕組み自体は、必ずしも「高度なモノ」でもないんじゃないかな?と思うわけです。


確かに、「人間の社会」は複雑だし高度化した形態の「社会」であるとは思いますが、それを言ったら、「アリ」や「ハチ」の「社会」だって十分に高度で複雑なんじゃないでしょうか?

でも、だからと言って、「アリ」や「ハチ」が「人間」と同じような進化の形を取ったというわけではないと思います。


「人間」にとっての「高度化」とは、つまるところ「より人間であること」なんだと思いますから、「アリ」や「ハチ」と似たような形態の「社会」を持っているだけでは、「人間にとっての高度化」とも言えないような気がします。

「人間」が最も「人間」である部分、つまり「人間にとって最も高度化した部分」とは、「社会」ではなく「個人」なんじゃないかと思うわけです。

 ※「人間」以外に、「個」という感覚を持っている動物は居ないんじゃないかと思います。
  つまり、「個人」とは「人間」の「最も人間らしい特徴」なんじゃないかと思うわけです。
  反面、「社会」は高度で複雑な割に、多くの動物が「社会性」を持って生きています。
  「アリ」や「ハチ」に限らず、多くの動物が「群れ」や「家族」という「社会」を持っていて、
  その中のルールに従って生きているわけです。
  つまり、「社会」は「人間だけの特徴」ではないということですね。

そして、その「個人」と「社会」が、けっこう対立することが多いわけです。
つまり、「個人性」と「社会性」は、多くのケースにおいてブツカルわけですね。

もちろん、「個人」の中にも「社会性」はありますし、「社会」も常に「個人性」を否定するとは限らないわけですが、少なくとも、「アリ」や「ハチ」の社会を見ればわかるように、「個」が埋没した「社会」は、「最も機能的な社会」であるとも言えるわけですね。


そこで、「個人」と「社会」のどちらを優先するのか?ということです。


「個人」を優先すれば、「社会的機能」が低下するでしょうし、「社会」を優先すれば、「人間の人間らしさ」が阻害されていくに違いありません。

そうなれば、「社会的機能」を犠牲にしても、「個人」を優先した方がイイと思うんですが、なかなかそう成りません。


これは、「現在の人間社会」が、「人間以前の状態」から続いている形態から抜け出せていないからだと思うわけです。

「人間」も「人間の前の段階」においては、他の動物と同じように、「個」という感覚を持っていなかったでしょうから、当然、その時点での「人間社会」には「個人を尊重するような仕組み」は無かったわけで、それが、いまも続いているということなんだと思います。


なにかを組織立って行おうとすれば、必ず、「個人」はその組織の「部品」として扱われるようになります。
「組織」=「社会」とはそう言うモノだと思います。

 ※これは「社会」と言うほど大きな組織についてだけ言えることではなく、
  「家庭」や「友人関係」などのような、むしろ「個人的な関係」に見える人
  間関係においても、ほぼ同じようなことがいえると思います。


トップに立っている者だけは「個人」として機能しているように見えますが、実は、その人も、「トップ」という位置にある「部品」であることに変わりはないわけで、実際には、「本当の意味で自由な個人」とはかけ離れた存在なんだと思うわけです。

このような状態を抜け出すには、「社会」が意図をもって「社会の機能」を低下させる必要があるわけです。

でも、これが、なかなかできないんですね。
「社会」が「社会自身の機能」を低下させる方向で作用するように仕向けるのは、道理に適っていませんから、当然ムズカシイわけです。


でも、そこを何とかしていく必要があるんだと思います。


とにかく、「人間」は、もう、自分たちが「効率を上げる必要がなくなったこと」を知るべきだと思いますね。

そうすれば、自分たちの大切な「個人性」を犠牲にしてまで、「効率」を上げることなんて、バカバカしくてやってられなくなるんじゃないかなと。
(もう、「効率」には、そんなに「伸びしろ」もないし)


なんとか、「人間の前段階」から「人間の段階」に進まないと、「人間の次」には行けないわけですから、そちらの方にシフトしてもいい時期なんだと思うわけです。


そういう方向を向いてみたら、「いま、効率を追うこと」が、如何に「非効率的」であるかが、見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。




「自作の筆」の価値:(画像追加しました)

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この記事は、2年ほど前に書いた記事なんですが、

その時は画像が無かったので、追加しました。
「続きを読む」をクリックすると画像があります。
(上の画像も今回挿入したものです)


私の場合、「絵」に使う道具類で、いろいろと「自作」しているものがあるわけですね。

 ※このブログでも「自作大型アトリエ・イーゼルの作り方と
  「自作キャンバス木枠の作り方]と言う二つの記事を書き
  かけたんですけど、これらを画像なしで説明するのは、
  あまりに不親切キワマリナイと思って、「ボツ」にしました。


基本的には、「売ってないモノは自分で作るしかない」ということですけど、ただ単に、「あまりに高いから」と言う場合もあります。
それから、かなり昔に仕事で使うために作ったものもけっこうたくさんあるので、必ずしも、自分の作品のために作ったものばかりでもありません。

とにかく、そういう「貧乏性型の器用貧乏」と言う「二重貧乏系」によって、いろいろと作っているわけですが、中でも、「自作の筆の価値」を、最近になって見直しております。

おもに、二十年近く前に作ったものなんですけど、その当時考えていた使い道とは全く違う使い方で、今、自分の作品の制作に使ったりしていますけど、思いもよらないようなテクスチャー表現が出来てきたり、『この筆じゃないと、こうならない』っていうような、ビミョーな感じが出てきたりと、意外と重宝しているんですね。

ほとんどは、安物の刷毛や、使わなくなった筆をばらして作ったりしたものなんですけど、普通の筆としては、全然使い物にならないようなモノの方が、意外性があって面白いですね。


これは、売っている筆だけを使っていると、なかなか気が付かないことだと思うんですけど、筆の種類って、すごくたくさんあるんですが、実は、それらの筆はほとんど「古典的な技法」に沿った形で作られていて、もう少しチガウ(新しい)手法のための筆と言うのは、あんまり、豊富には開発されていないみたいなんですね。
と言うか、ほとんどないかも知れません。

絵具や、メディウムなどの素材については、どんどん新しいものが出てきますし、道具なんかでも、使いやすいものができてきている分野もあると思いますけど、なぜか「筆」に関しては、「天然毛」の代用としての「合成繊維製の筆」と言うようなものにとどまっていて、それらは、あくまで代用品の域を出ていないと言えるでしょう。

私の場合、外国の技法書に出ていた筆や刷毛が、日本では入手しにくいものが多かったので(特殊な装飾に使うもので、これも本来の使い道としては古いものです)、似たようなものを作ってみたわけですが、実際には、「毛質」が違っていたりして、本来の使い道としては、「イマイチ」のものが多く、活用できたものは少なくて、ほとんどのものは、あまり出番がありませんでした。

それが、自分の作品に使ってみると意外な効果が現れてくることがあって、『これいいじゃないか?』ということになったわけですね。

その時点では、『まぁ、たまたまでしょうね』と思っていたわけですが、いざ、それと同じような感じを出そうと思うと、その筆でしかその感じが出せないということに気付いたわけです。


また、筆を作ってみると、気が付くことなんですけど、意外なことに、ごく普通の「豚毛」や安物の「油性塗料用の刷毛の毛」でも、大型の刷毛で毛足が長いやつをバラして、細めの筆に仕立て直すだけで、まったく違う筆触に成るんですねぇ。

それから、素人が作るっていうのもポイントだと思いますね。

プロが作ったものは皆同じになりますが、素人が作ると同じようにできないんですね。
どっちかっていうと、『こういう筆がイイ』と言われているものと逆の性質のものにこそ、「自作する価値」があると思います。


たとえば、まったく含みのない「毛質」や、コシが無くて非常に使いにくそうな刷毛の毛などですね。
(こういうのは「油性ペンキ」などに使う刷毛に多いようです)

それから、ありふれた、「豚毛」でも、一般的には、内側に向かって毛がカールするように作られているわけですが、それを、わざと「外ハネ」にしたり(と言っても、きれいな「外ハネ」にはならないんですけどね)、乱雑にまとめたりすると全く違った筆触に成ります。


もちろん、「使いやすいタイプの筆」も必要なんですけどね。
だから、そちらの方はあまり「貧乏性」にならないで、ある程度イイモノを買うことをおススメしますよ。

実際作ってみて言うんですけど、「マトモな筆」を自分で作るのはとても大変です。
でも、「マトモじゃない筆」については、やればなんとかできるし、なんと言っても”絶対売ってない”ので(売れないしね)、自分で作ってみてもいいんじゃないかと思いますよ。

柄の形なんかも、意外に自分の手になじんだものができたりしてね。

『これは、本当におススメですね!』

「おススメって、いったい誰に?」

『・・・・・・さぁー?・・・強いて言えば・・・バカモノ?』

ということで、是非「バカモノ」の方は試してみてください。

と言うことでございます。




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「長い題」=詩のような題(その3)



「長い題」(その3)です。

『こんなの読む人居るんだろうか?』っていう疑問はあるんですが、『いや、そんなことは無い!・・・たぶん・・・』と言うことで。

『 』の中は、その絵を呼ぶ「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とまっている 

ただ いきおいだけを もって とまっている

そうなんだ ひかりと ねつが まじりあって こおりついたとき
この せかいに かんきが なげこまれたんだ

『なにもかもが とまっているというのに』

よのなかの すべてのものが よろこびに みちて おどっているようだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『まるいもの』に みえるじゃないか

あるときは これが とてつもなくおおきい 

そんなとき 

きみは うちゅうのことも 『まるいもの』と よぶのか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひとは みな ひかりの なかに いきている

やみの なかでは いきられない

やみの なかには なにもない

ひかりに うまれて ひかりに くらす


ひとは みな 『そうやって 生きている』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すすめ すすめ まえへ すすめ

『まえだけを みつめて』 ちからを こめて まえへ すすめ


その まえは うしろ その うしろが まえ

そうだ その うしろのまえに むかって まよわず まっすぐ すすむんだ 


あぁ ぼくは どっちに むかって すすめば いいんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かわっていくよ すべての ものが
ねじれているよ すべての ことが


ものでも ひとでも おんなじなんだ
 
かわりつづけて ねじれつづけて
それじゃないと いられない

ねじれて ねじれて はんたいがわに つながって 
それで よのなか できている

おかしなことも ふつうのことも
みんな それで できているんだ

ありとあらゆる ときに
ありとあらゆる ばしょで 
ありとあらゆる ものが
ありとあらゆる ほうこうから
ありとあらゆる ほうこうへ

みんな ねじれていく 

だから どんなに おかしなことも どんなに ふつうのことも
ぜんぶ いっしょに やっていられる


ぼくは 『それしか かんがえようがない とおもうんだ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たいようでもあり ほしでもあり つきでもあるという しょくぶつ

そういうものが えがきたかったと いうことなんです

そういうものは そこいらへんの みちばたに たくさん はえていますから 
それで そういうものを えがこうと おもったと いうわけです 

もしも あなたが そんなふうに おもわないと いうのなら
もういちどだけ みちばたの くさを みてごらんなさい 

そうすれば すべての くさやきに 
たいようや ほしや つきが やどっているのが みえますよ

そうすれば もう こまかいことは ほとんど きにならなくなっている 
そういうのが 『もっとも ふつうのこと』ですね


だって みちばたの くさやきに 

たいようも ほしも つきも みんなやどっているっていう このよのなかで

こまかいことなんて きにしたって しょうがないじゃないですか 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こういうのを読んだ人って、どう思うんでしょうね?
わかりませんねぇ。




「権力」と「カネ」の逆転



昔ならば、「権力」のあるところに「カネ」が寄って来たんだと思うわけですが、今はそこのところが逆転してきていて、「カネ」のあるところに「権力」が出来上がってしまうということが多くなってきていると思うわけです。


要するに、封建的な世の中だったころには「身分の格差」がハッキリしていたので、身分が高い人の所に無条件で初めから「権力」があったわけですね。
(まぁ、その身分のモトに成っていたのは「武力」でしょうが)

そして、その「権力」のある所に「カネ」が集まっていくように成っていたわけです。


ところが、今は世界全体が一応「平等」の流れに成って来ていますから、建前上は「身分の差」が無いということに成っているわけです。

そうすると、「カネ」もどこに行っていいのかが、わからなく成ってくるわけで、結果的には、もともと「カネ」を持っている人とか、チョット上手く「カネ」を稼いだ人の所に「雪だるま式」に「行き場を失ったカネ」が集まるように成るわけです。
(いやらしい言い方に成ってしまいますが、これこそ、「資本主義の原理」だと思います)


そして、そうなってくると、今度はその「雪だるま式」に膨れ上がった「カネ」の所に、「権力」が出来上がってくるというような仕組みになっているわけですね。
(さらに、いやらしくなりますが、これこそが、「現在の民主主義」の本当の姿なのかもしれません)


昔の圧倒的な「身分の差」があった時代の「王様」や「貴族」の「権力レベル」は、「民間人」との対比ということで言えば、ちょっとやそっとの「お金持ち」くらいではどうにも逆らえないくらいの「権力レベル」だったわけで、結果的に、「カネ」もそこに寄り集まっていくしかなかったんでしょう。

でも、それと同じように、「今のカネ」も絶対的な存在になってしまっているので、やはり、「権力」も含めたすべてがそこに寄り集まっていくしかなくなってしまっているわけです。


つまり、ただ単に順番が違うだけで、どっちにしてもほとんど同じことに成っているわけで、『カネが先か権力が先か?』という『ニワトリが先か卵が先か?』みたいな話になっているわけですね。


これだと、何のために「平等」や「自由」を手に入れたのかわかりませんよね。
せっかくいろいろな犠牲を払って「自由」や「平等」を手に入れたわけだし、それを生かしていかないと『モッタイナイかな?』と思うわけです。


つまり、前の時代の人たちが、けっこうな命がけで作り出してくれた「自由」や「平等」を、実際に有効なモノにするのは、いまの時代の人間の責任なんじゃなしかと思うわけですね。


ハッキリ言えば、現在ある「自由」や「平等」なんて「形だけ」もいいとこだし、時には、『身分の差がはっきりしてた方が、かえって分かりやすくていいんじゃないか?』と思うことすらありますけど、それでも、その「形だけの自由と平等」を創り出すために体を張った人が居たわけで、その先人たちに対して、そんな失礼なことを言えるのか?と言えば、私は言えません。

そういうことを言うのと同じように、そういう「形だけの自由と平等」を、そのまま「形だけ」にしておくことは、やっぱり、その先人たちに対して失礼なことなんじゃないのかなと。

それが出来るか、出来ないか、なんていうことじゃなくて、「自由」や「平等」を有効にしなければモッタイナイと思いますし、それ以上に、「カネ」が「カネ」に寄っていくのを肯定したって誰の得にもならないと思いますし(意外と「お金持ち側」の人の得にもなっていない?「幸せ」に成れるとは限らないですからね)、「カネ」が「権力」を生み出すのを「意味のないこと」だと言いたいわけですね。


スマートに「カネ」を稼いだり、その「カネ」によって作り出された「権力」をサラッとサリゲナク使いこなしたりすることを、「美しいこと」のように言う傾向がありますが、実は、そういうのは決して「美しいこと」ではないと思うわけです。
(というか、どちらかと言えば「醜いこと」じゃないかと思いますね)


私は「IT長者」や「財界のヒーロー」なんかよりも、「挑戦者」や「革命児」の方が好きですね。

前者はなんだかんだ言っても、つまるところ「自己保身的な人」だと思いますが、後者は「ソントク」に関わらず「自分のやりたいこと」に向かって行った人だと思うわけです。

そういう人が、いまの時代に現れないのは悲しいことだと思います。


きっと、今もそういう人は居るんでしょうが、おそらくは、いまの世の中では、そのままでは生きられないんでしょうね。


そんな風に思います。




「抽象」とは「モノ」に迫ること



「抽象」というのは、本来、「本質に迫ること」なんだと思うわけですが、現在はその辺のところが、ややズレていて、「具象でないこと」や「形を曖昧にすること」こそが「抽象」や「抽象化」であるという傾向があると思うわけです。


確かに「本質」は「外見的な形」とは違いますし、「具体的に現しにくいモノ」ではあると思いますが、必ずしも、「形」や「具体性」と対立するものでもないと思うわけです。

要するに、「絵」の中で創り出された「形」や「具体性」、つまり、「本質を追求した形」や「本質を追求した具体性」であればいいわけですね。


つまり、「抽象表現」において、ジャマに成るものに限って、「形」や「具体性」を排除すればいいわけで、それらをすべて排除してしまったら、何も表現できなく成ってしまうわけです。


というか、実際には「モノの輪郭」や「モノの中心」を明示することこそが、「本質に迫る」ということにもつながるわけですから、むしろ、「モノの輪郭」や「モノの中心」をボヤカスことは、「非抽象的」なことであるとも言えるわけなのです。

 ※実際は、「形や具体性のないモノ」が「抽象」なのではなく、「形のボヤケタモノ」が
  『抽象っぽい』だけなんだと思います。
  ただ単に、『具象っぽくない』から『抽象っぽい』ということなんじゃないでしょうか?
  そういう「抽象っぽさ」に、今まで頼り過ぎていたような気がするわけですね。

ただ、その「輪郭」や「中心」が「外見的な輪郭」や「物質的な中心」とは違うので、結果的には「非具象的」である側面もあるというだけのことです。


そうだとすれば、「形」や「具体性」を排除した「抽象」と言うのは、「非具象的」であり、かつ「非抽象的」でもあるものを「抽象」と呼んでしまっているということに成ります。


「非具象」でもあり「非抽象」でもあるということは、つまり、『何でもない』ということですから、当然、何も表せません。
ということは、見た人には何も伝わらないということです。

それで、現在の「抽象表現」は、「肉体」を失った「亡霊」と化していて、その結果、「芸術」全体が「虚構化」していると言ってもいい状態に成っているわけです。 

 ※現在は、「芸術の20世紀」という「神話」が出来上がってしまっているために、 
  鑑賞者は、それを「信奉する人」と、「信奉しない人」にクッキリと分かれてしまっ
  ていて、どちらにとっても「抽象」を正常に判断できないような圧力が加わった
  状態にあると思います。
  「宗教」や「信仰」に近い状態になってしまっているために、「信じる人」にとって
  は『信じなければいけない』になっていて、「信じない人」にとっては『信じてはい
  けない』に成ってしまているわけですね。 
  それが現在の芸術の姿だと思います。


まぁ、そう思わない人も居るんでしょうが、そう考えると、いろいろと辻褄が合うと、私は思うわけですね。


そこで、なんとか「モノ」に迫っていきたいと、私は思っているわけですけど、自分のことはともかくとして、一般的に考えた場合でも、「モノ」とか「形」を使わずに「ナニカ」を表現するということは、かなり難しいことだと思うわけです。

というか、理屈から行けば「無理」だと思います。

とは言え、「モノ」や「形」を使ったとしてもムズカシイことには変わりはないわけで、それだけ、「本質」や「真実」に迫るということは、ムズカシイことなんだと思います。


『どっちみち無理なら、「モノ」に迫る必要なんかないじゃないか?』と言われるのかも知れませんけど、それでも、やはりそこに少しでも近づこうという方向性が大事なんじゃないのかなと。


つまり、もう百年以上も前から続けている「形を壊すこと」や「具体性を排除すること」をこれからも続けていくということは、現在においては、「怠慢」や「惰性」という意味しか持たなくなってしまっているわけで、「ナニに迫るのか?」ということ以前に、「迫るという姿勢」自体を失ってしまっているように見えるわけです。


そういうことからも、「抽象」とは「モノに迫ること」であると。
そして、「モノに迫ること」とは「輪郭」と「中心」を「明示すること」であると。

そんな風に言いたいわけなのです。




「絵」はどこまで広がれるのか?



「絵の世界」はどこまで広がれるのか?という話です。


最近の「絵」の展示で、額装しない代わり(?)に、布などで取り巻いたり、それを天井や床まで広げたりするような展示の仕方が増えているように思うわけです。
(「絵」を中心とした「インスタレーション」という方向?)


こういう展示方法にはけっこう興味があって、惹かれてもいるんですが、この手の展示を見て思うことは(ネットで見つけたりしただけで、実際に見に行ったのは少ないですが)、『きっと、これは「絵の世界」を広げようとしているんだろうな』ということです。

確かに、天井や床にまで伸びてゆくモノと「絵の世界」が一体になって、どこまでも広がっていくような「オモシロサ」が、そこにはあると思うわけです。


そして、これは、私の考えている「芸術の多重化」にも、つながるものだと思って、興味を持っているわけです。


ただ一つ、これには気に成ることがあって、『いったい、どこまで広がって行けるのだろう?』という疑問がわいてくるわけです。

壁面を覆いつくしたら、今度は天井や床にまで広がっていくことは必然でしょうし、当然、それは鑑賞者の足元まで広がってくるんでしょう、そして、いつかは展示室を出ていくことに成るんだと思います。

さて、そう成ると、展示室を出た後は、どこまで広がって行けるんでしょうか?
(実際上の規制の問題を抜きにした話としてですけどね)


過去に、かなり広大な空間を利用した「ランド・アート」的なものもあったでしょうが、そちらは、「絵の世界を広げる」というような性質のものではないので、また、別物だと思いますけど、結果的には、そういう「スケール」にまで広がって行かざるを得なくなると言う気もしなくはないわけです。


ところが、そうなると、肝心な「絵の世界」の占める割合が異常に小さくなってしまうわけで、もはや、「絵の世界を広げる」ということでも無くなってしまうような気がしてくるわけです。

 ※「額」にも、これと似た性質があると思いますが、私にとって「額」は
  「絵の世界を広げるモノ」というよりは「絵の世界を閉じ込めるモノ」
  という性質の方が強いので、これもまた別物ですね。


そう考えると、『「絵の世界」は展示室の中までしか広げられない』のかなと。
(もう少し詳しく言うと、「上・下・左・右どの方向においても鑑賞者の位置まで」ということです)
そんな風に思うわけですが、私の場合、「絵の世界」は出来る限り「絵の中」で広げていきたいなと。

つまり、「奥行」ですね。

「絵の世界」の中の「奥行」を否定的に捉える傾向があることと、この広がってゆく展示方法と言う方向性には、関係があると思うわけです。

逆に言うと、「絵の世界」の中に「奥行」を創り出すことに対して、今よりも、もう少し積極的な方向で考えていけば、「絵の世界」は、その中に向かって無限に広がって行けるように成るんだと思うわけです。

 ※「奥行」を「無限遠」と考えるか「限られた距離」と考えるかは、人ソレゾレだと思い
  ますが、この話は、必ずしも「無限遠」=「無限の広がり」と言うことではなく、「距離
  感」が有限でも、「世界感」を限りなく広げていくことは出来るんじゃないか?というよ
  うな話です。


そういうわけで、『「絵の世界」は外に向かって広げる場合は鑑賞者の位置まで広がることができるし、内に向かって広げる場合はどこまでも広げることができる可能性がある』

出来たら、いろいろな方向で考えてみてもいいのかなと。

そういう風に思っているわけです。



  

「種類わけ」と「身分わけ」



「範疇分け」という作業を嫌う人も結構いると思いますが、私は「種類」を分けることはとても重要なことだと思っているわけです。
なぜなら、「種類」を分けないことから「差別」が生まれることがとても多いからです。


「人種」にしても「民族」にしても「宗教」にしても、他のどんなことにしても、「種類」を分けないで「違うモノ」を「同じモノ」として考えようとすると、必ずどこかに無理が出てきて、相手を「差別」するように成るわけです。


もちろん、理想を言えば、「種類」なんか全然気にしないで、全てのモノゴトを均等に考えて、それでも「差別」しないで居られたら一番いいのだと思います。


でも、実際には、「種類」を分けずに「差別」を無くすことは難しいと思いますね。


たとえば、「民族」によって「風習」も違えば「価値観」や「道徳観」も違うわけですから、それを、同じモノサシで計ったのでは、「異民族」の「異文化」が、どうしたって「違和感」に成ってしまうわけですから、当然、多くの人が受け入れられなくなってしまうわけです。

モノサシ自体が違うわけですから理解できるはずがありません。


それを無理にわかろうとするから、「差別」が生まれるんだと思います。


『これは「チガウ種類の民族のチガウ種類の文化」なんだ』と思うことで、人間はようやく、『「区別」はするけど「差別」はしない』という位置に立てるんだと思うわけです。
つまり、その辺が、「現在の人間」の立って居る位置なんじゃないかと思います。

『「区別」も「差別」もしないよ』というのは、まだ「現在の人間」には無理だと思います。
(少なくとも、私は出来ないです。世の中で「差別」が一番嫌いなのに!)


それに、この「区別」には、言われているような弊害はないと思います。

実を言うと、いま嫌われているのは、同じ「範疇分け」と言っても、「種類わけ」ではなく「身分わけ」のように、モノゴトを「上・下」で分けるタイプの「範疇分け」であって、これこそが、まさに「差別」でもあるわけです。


逆に言うと、「区別」とは「種類分け」のことであって、そちらにはほとんど害はないということです。

害が発生しないのは「上・下の差」が無いからですね。
横並びの「種類」は多くても何の害もありません。


むしろ、「種類」が増えることは、一種の「豊かさ」であるとも言えるわけで、プラス要素もあるくらいですから、嫌う必要はないように思うわけですね。


そういったことから、「範疇分け」は「種類分け」と「身分わけ」があって、「種類分け」をすることで「身分わけ」をしないようにできたらいいのかなと。

そうすれば「差別アレルギー体質」の人には、少し生きやすい世の中になるのかなと。
(そんな人、あんまり居ないの?)

そんな風に思っているわけです。



「美術史」とは「芸術の崩壊の歴史」なのかも知れない?



これを言うと、また「古典回帰論者」と思われてしまうのかも知れないんですけど(実際は、そんなこと一言も言ってないんですけどねぇ)、近代以降の「美術史」って、結果的には「ゆるやかな芸術の崩壊の過程」であるという側面があると思うわけです。


その時代の「様式」とか「スタイル」等ということを無視して言うなら、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」の段階で、「美術」が一つの完成形に到達していたと言うことは出来ると思うわけです。

その後、「やや横ばい」の状態が続いたあと、「印象派」~「芸術の20世紀」という流れに至るわけですが、その「やや横ばい」以降の「美術史」って本当に「発展」や「進歩」の「歴史」なのか?という疑問があるわけです。


つまり、「美術」や「芸術」が「より一層・美術」であり「より一層・芸術」であったのか?ということです。
言い方を変えれば、「美術」や「芸術」は「人間の心の感動」を増やすことができたのか?ということですね。


例えばの話、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」とほとんど変わらないようなスタイルが、今も続けられていた場合と比べて、「現代美術」と呼ばれているモノは、本当に、「感動」を増やすことができているのか?

もしも、それが出来ていないのだとしたら、というより、もしも「感動」が減少してしまっているんだとしたら、近代以降の「美術史」と言うのは、「芸術の崩壊」や「芸術の縮小」の歴史であるという側面があるということに成るわけです。


『おそらく』というより、『ほぼ間違いなく』、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」が、現代にいたるまで「現役の芸術」として存続していたとしても、それらは、相当数の人を「感動」させ続けるでしょうし、「美術史」という知識、すなわち「先入観」が一切なければ、『何百年同じことやってるんだよ!もういいだろ!!』と言う人は出てこないはずですから、その「感動」のギャップは、「ギリシャ時代」の人と比べても、今考えるほどは大きくないような気がします。


逆に、「現在形の美術」が提供している「感動」は、どれほどの普遍性を持っているんでしょうか?

少なくとも、「現在形の美術」が提供している「感動」には、「ギリシャ」や「ルネサンス」に比べると、かなりの偏りがあるような気がするわけです。


要するに、「芸術」に「感動できる人」と「感動できない人」が居るということですね。
その個人差が「ギリシャ時代」よりも極端になっているのは間違いないと思います。

また、時代的な普遍性に関しても、やはり、現代において数百年前の美術を見るのに比べて、現在の美術を数百年後に成ってから見ることの方が、「落差」は大きくなるだろうと思うわけです。

要するに、「現在の美術」は、「いつの時代でも」、そして、「誰にでも」、受け入れられるものではないということだと思います。

 ※これは、よく言われるように「日本だけ」の現象ではなく、ヨーロッパでもアメリカ
  でも「現代美術」を、本当に、理解して受け入れている人はほとんどれ居ないと
  思います。「現代美術」には、そういう「理解」を拒む性質があるわけですから、み
  んなが理解できるとしたら、むしろ、その方がオカシイんじゃないでしょうか?


いずれにしても、「人の心の感動」が増えているという実感がわいてこないわけですね。

そうなると、やはり近代以降の「美術史」と言うのは「芸術の崩壊の歴史」なんでしょうか?


私は、「美術史」の中の「近代~芸術の20世紀」と言うのは、「将来への布石」なのだと思うわけです。
つまり、「単なる美術」から「自己表現としての芸術」に移行するための「布石」ですね。

でも、その「布石」であり「過程」であり「一時的な崩壊」であるモノが、「完成形」として扱われてしまっていることに問題があるんだと思うわけです。

 ※「スランプ」と言ってもいいのかも知れませんね。スポーツ選手に「スランプ」は
  必要なモノだと思いますから。

今後、「芸術」が「普遍性」を目指さなければ、「崩壊の歴史」のまま終わるかもしれませんが、そこを目指していけば、「崩壊」は一時的なもので、それも必要であったということがわかってくるんじゃないかと思います。


「芸術」が「みんなに愛されるもの」を目指す必要はないと思いますし、実際に「みんなに理解されること」は難しいでしょうが、「みんなに理解できるもの」を目指さずに、「一部の人に理解されること」を目指したり、「理解を拒絶したり」することは、「芸術」の目的ではないような気がしますね。

 ※「愛されるかどうか」は「好み」の問題ですが、「理解されるかどうか」は「普遍性」
  の問題だと思います。
  理解したうえで、好きなものと嫌いなものを判断できるというのが理想的な状態だ
  と思いますね。
  本来は、「芸術」に「理解」は必要ないのかもしれませんが、現在は情報過多の時
  代であり、生まれた瞬間から情報が刷り込まれ続けるわけですから、その情報に
  振り回されていない人は居ません。
  そんな中で、まったく「理解」できていないものを「好み」だけで判断するということ
  は、「盲信」を生み出すことにしかならないと思うわけです。


近代以降の「美術史」が「芸術の崩壊の歴史」となるか「芸術の変容の歴史」となるかは、今後の展開にかかっているのかなと。

私はそんな風に思うわけです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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