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「破壊まで」で「天才」なのか?



前の記事に関連したことです。

 ※以下、ここでの「創造」とは「天地創造」のようなものを指しますので、
  芸術的な創作などとは違って「神の業」とお考えください。


「芸術の20世紀」におけるもっとも中心的な課題は「既成概念の破壊」であったんだと思うわけです。
だからこそ、その「破壊」をやってのけた人間が、まさに「天才」と呼ばれたわけです。

しかし、『破壊まで』で「天才」と言ってしまっていいんでしょうか?
「天才」とは、そもそも「破壊」ではなく、「創造」を成し遂げた者に与えられる名前なのではないのでしょうか?


そこのところを、私なりに解釈してみようと思うわけです。


もともと「創造」は「神の仕事」と言うことに成っているわけですから、「人間」には出来るわけがないということに成っているハズです。
そこで「人間」であるにも関わらず、「創造に近いこと」をやってのけた者を「天才」と言うんだと思うわけですね。


しかし、「20世紀」という時代には、「神」に対する「疑い」が発生していたために、「人間」は、以前ほどは、「神」を迷いなく純粋な気持ちで信仰することができなくなっていたと想像されるわけです。

その結果、「創造主」という「席」が空席になってしまったわけです。

それで、やや強引ながら「破壊」を「逆・創造」と仮定して、『それも一種の創造に違いない!』と言うことにしてしまったようなところがあったんじゃないでしょうか?


「創造」は「人間」にはできませんが、「破壊まで」だったら「人間」にもできますからね。


そして、その「破壊」を「創造の一種」であるとすることで、「天才」と言う「神ではないが神に最も近い人間」によって、「創造主」の居なくなった「空席」を埋めてしまったということです。


要するに、そのことが「神」を見失った「人間」の不安を和らげてくれたんだと思うわけです。

「20世紀」以降「絶対的存在」を失った「人間」の心の動揺はさまざまな形で表れていたと思いますが(世界的な戦争や共産主義などの極化した思想などは、「絶対性」を求めた結果だったのではないでしょうか?)、その都度、「天才」が現れて、何らかの「既存の概念」を「破壊」して、方向性が見えなくなっていることに対する「不安」も一緒に「破壊」してくれたということです。


一方で、「アインシュタイン」が「物理法則」を根本から覆すようなことを言ったかと思うと、「ピカソ」や「デュシャン」が「芸術」における「美」や「感動」という概念を「破壊」してしまいます。
そうかと思えば、「マルクス」や「レーニン」が「社会や経済」の在り方自体を揺るがすような主張を展開します。

そういうことに『へぇ~』と感心したり、『そうだ、そうだ!そうなんだ!!』と興奮したりしている間だけは、不安を感じないでいられたということなんじゃないでしょうか?


まぁ、これらはすべて私の勝手な空想であると言われてしまえばそれまでなんですが、それだと、『じゃあ、なんで「破壊まで」で「天才」なんですか?』という最初の問いに戻されてしまいます。


この私の勝手な空想がどうであれ、けっきょく、『破壊まで』を「天才」としてしまったことが間違っていたことだけは、変らないような気がするんですが、どうなんでしょう?


「人間」ですから、間違えることは「仕方がない」と言うよりも「当然」と言うべきでしょう。

しかし、「間違い」に気が付いたときに、それを認めて修正してきたことで、「人間」は発展してきた動物ですから、そこが抜けてしまうと発展もなくなってしまうということだと思うわけです。

発展しなくてもいいんでしょうが、人間にできるのは、それくらいなんだと思います。


そんなわけで、

「人間」には「創造」なんて出来ません。

「破壊」は「創造」でも「創作」でもありません。

「創作」くらいまでなら「人間」にもできるかもしれません。

でも、簡単にできる「創作」なんてありません。

それは「天才」でも「凡人」でもおんなじです。

それが簡単に出来るのは「神」だけです。

でも、もう「絶対的な神」はどこにも居ません。

「人間」が「神」を信じられなくなってしまったから。

「神」と比べたら「天才」と「凡人」はほぼ同じです。

だから、もう、みんな同じ高さに立って「創作」したり「研究」したりしていい世の中なんだと思います。

もう、「破壊」は飽和しました。

もう、要りません。

「破壊」も「天才」も。

「創造」はできなくても、その向きを向いているだけでもいいんじゃないでしょうか?

今は。


私はそんな風に思うのです。


 ※ここで言う「創造」は、主に「天地創造」のような「根源的な創造」を意味します。
  ここで言う「神」は「昔のような神」、つまり「万人に信仰される神」です。
  
  余談ですが「宗教」や「神」が世界的に統一されるようなことは無いでしょう。
  なぜなら、そこに「絶対性」がないから。


「地球」=「宇宙」という「世界のリサイズ」



「情報」が瞬時に世界的な規模でやり取りされるようになったことで、地球という世界が、一昔前よりも格段に狭く感じられるように成り、交通手段の発達などもあって、「地球の裏側」なんて言う言葉が、昔ほど「地の果て」と言う感じに聞こえなくなってきたわけです。


それが「イイこと」なのか「ワルイこと」なのか、私にはよくわかりませんが、世界が狭くなったことで、私が『嫌だな!』と思っているのは、人間「一人の存在」が小さくなってしまったことなんですねぇ。


「村人50人の世界」に暮らしていた時は、人間「一人の存在」は全体の50分の1だったわけですが、「世界60億人の世界」に暮らしている現在は「一人の存在」も60億分の1です。

つまり、「一人の存在」が限りなく「無」に近いわけですね。
これがよくないと思うわけです。


そこで、なんとか「一人の存在」の「サイズ=大きさ」を取り戻したいわけですが、既に出回ってしまっている情報を消すことは出来ませんから、「世界」を小さくは出来ません。

つまり、「地球」が情報や知識として把握されてしまったわけですね。
それで、「地球」は小さく成り、その「小さくなった地球」に60~70億人も人がいますから、その膨大な数に対する「一人の存在」がとんでもなく小さくなってしまったわけです。


そこで、「世界」をリサイズ出来ないものだろうか?と考えてみたわけです。


もう、途方もなく広い「地球」と言う感覚を取り戻せないんだとすれば、「地球」を「さらに途方もなく広いモノ」、つまり「宇宙」に見立ててしまうしかないというわけです。
(世界を「100人の村」に例えるというのの「逆・パターン」ですね)

要するに、自分の中の「バーチャル空間」において、「地球」を「宇宙化」してしまうわけです。


「地球」を想像する時に「広大な宇宙空間」のようなものとして思い浮かべるわけです。
そして、「国」と「国」が何光年も離れているというイメージを作るわけですね。
そうなれば、もう、「地球の裏側」なんて、何万光年もの彼方ですから、とてもじゃないけど「近い」なんて思えませんし、正月休みに行けるような所じゃなく成るわけです。
(「バーチャル」です!頭はイカレテません)


すると、なんとなくですが、「ほかの国」のことなんて気に成らなくなってくるわけですよね。
(私だけ?)

そして、「ごく近くの範囲」に目が向くようになるというわけです。
その結果、「一人の存在」が少しだけ大きくなった気に成れたらイイんじゃないかな?と言うことですね。


人間が「宇宙」を把握するには、まだまだ相当の時間がかかりそうですから(というか、たぶん無理?)、人間にとって「宇宙」が狭くなることは当分ないでしょう。


「宇宙」はとにかくとんでもない大きさですから、半ば強引に、それを「地球」に「リサイズ」した場合、たとえば「国」ぐらいでも、まだまだ「銀河系」くらいかもしれません。

とても把握できないでしょうね。

把握できそうになるのは、ようやく「、宇宙の中の地球」、つまり、「地球の中」で言うところの「町」とか、それ以下の「〇丁目」くらいからじゃないでしょうか?
やっと、「村人50人」とまでいかなくても「数百人レベル」に戻れた気がしてきます。


そうやって、ほんの少しづつでも、「一人の存在」が大きくなっていけば、人間がここまで「アイデンティティの喪失感」にさいなまれることもなくなるんじゃないのかなと。


現在の社会に生きていると、とにかく、「自己」が小さく感じられてしまうんですね。
「アイデンティティーの喪失感」が半端なく大きいわけです。
その割に、「アイデンティティーの実感」は限りなく小さくなってしまうわけです。

その辺のところを、「自負心」とか「オレは出来るヤツ演出」などで、躍起になって「アイデンティティーの保持」に尽力するというのも一つの手ではあると思いますが、それは、あまりいいやり方でもないと思います。
(たぶん、そういう「アイデンティティー」では、死ぬまでは持たないと思いますから)


まぁ、そんな風に思った時に私がやっている「実験的アソビ」です。

たぶん、役に立ちません。

『でも、オモシロイから』

たぶん、面白くもありません。

でも、一回くらいやってみてください。

『グッド・ラック!』

意味はない!

『やっぱり、イカレテるのね?』

「いえ、ダイジョーブ!!」



「克明に描くこと」と「ナマナマしく描くこと」



「克明に描くこと」と「ナマナマしく描くこと」は似ているようで、少しチガウことだと思うわけです。


「克明に描くこと」と言うのは「客観的に描くこと」であって、より「正しく描くこと」なんだと思います。


それに対して、「ナマナマしく描くこと」の方は「主観的に描くこと」であって、「正しさをハミダシテ描くこと」なんじゃないかと思うわけです。


そして、「克明に描くこと」のためには、モノを見ながら描くのが適しているわけですが、「ナマナマしく描くこと」のためには、モノを見ないで描く方が適しているわけです。


モノを見て描くと、どうしても「そのモノ」に縛られて、ハミダセナクなってしまうことがあるわけですね。
だから、はじめから見ないで描いた方がハミダシやすいということです。


現在の「美術教育」は、初歩の段階では、やたらとデッサン重視な気がしますが(自分がそういう教育を受けていないので本当のところは知りません)、それでいて、本業と言うことに成ると、『デッサンが上手くてもプロに成れるわけじゃないよ!』と言われるという完全なダブル・スタンダードが出来上がってしまっていると思います。


克明に描いていくと、ある程度ナマナマしく成って来ますし、ナマナマしく描くには、クッキリと描き切る必要があるでしょうから、それも一種の「克明さ」ではあるということに成ります。


要するに、この二つが区別しにくいんですね。

「客観的」と「主観的」と言うチガイはありますが、「主観的」な「ナマナマしさ」も、完全に「客観性」を失ってあまりに逸脱すると、「克明さ」だけでなく「ナマナマしさ」も失われてしまうわけで、そこで区別しにくくなっているわけです。


つまり、「デッサン重視」に成るのは「克明に描くこと」を重視しているということで、それが、いきなり『デッサンが上手くても~』となってしまうのは、「主観的であること」や「ナマナマしく描くこと」を重視しているということなんだと思いますが、それらがいつの間にかすり替えられてしまうことで、ダブル・スタンダードになってしまっているわけです。


そして、デッサンまでは執拗に教えるのに、「ハミダスこと」については、『そんなこと教えられることじゃないわ!このスットコドッコイがっ!!』と言われてしまうわけです。


でも、実際は、デッサンも教えられると思いますし、「ハミダスこと」だってある程度までは教えることができるんだと思うわけです。
教えられないのは「ハミダスこと」ではなくて、「主観そのもの」ですね。

「その人らしさ」は教える必要もないし教えられませんからね。


「ハミダスこと」を教えていくことで、「芸術の中心」に近づける人が増えたらそれでいいと思うんですが、そういうことでもないんでしょうか?


まぁ、取り敢えず、「克明に描くこと」は「客観的に描くこと」であって、「ナマナマしく描くこと」は「主観的に描くこと」である。

教えられないのは、「主観」つまり「その人らしさ」だけであって、他のことはだいたい教えられるんじゃないのかなと。


そうやって、最低線の所をクリアできていれば、あとは、その人が「その人らしさ」を出していけばいいわけですから、みなが同じスタートラインに立てるような気がします。

要するに、芸術の場合、今は、スタートラインまでの距離が、極端に離れている人と、初めから、スタートライン上に立っている人が居る状態だと思います。
美大に合格したりして、『やっと、スタートラインに立てたのかな?』と思っていると、いきなり、それまでやってきたことを完全否定されるわけです。
しかも、それが何度も繰り返されているうちに、初めから順調にスタートしてしまった人との距離がどんどん離れてしまって、絶望してしまう人があまりにも多いような気がします。

「芸術」って、「絶望」を生み出すためにあるの?
そんな気すらしてきますね。


せめて、スタートラインくらい同じ条件で立たせてあげられれば、「芸術と言うモノ」が、今ほど「無理しなくていいモノ」に成るんじゃないのかなと。

そんな風に思いますね。






「スバラシクナイ絵」とは?



私といたしましては、「絵」と言うモノは、『ほとんどすべてがスバラシイ!!』と言う風に思っているわけですが、そんな中でも、「スバラシクナイ絵」があるとしたら、それはどういう絵なのか?というネガティブな話です。


私はどちらかと言うと素直じゃない人間なので、『有名な人の絵だからって、いいとは思いませんねぇ、ぜんぜん』という方なんですけど、まぁ、そうは言っても、「有名な絵」と言うのは、だいたい「スバラシイ絵」だと思います。


『なんだ、実はけっこう素直なんじゃないか?キミィ』

「はい、そうなんです」


さて、ところが「無名な人の絵」がダメなのか?と言えば、そんなことはなくて、「無名な絵」だって、どれもみな「スバラシイ絵」なんだと思うわけです。

いや、八方美人で言ってるわけじゃなくて、『絵を描こう』と言うこと自体が「スバラシイこと」だと思っているので、「絵の出来栄え」は二の次だと思っているんですねぇ。私は。


ということで、ほとんどの絵が、どれもこれも皆「スバラシイ絵」と言うことなんですが、それじゃあ「スバラシクナイ絵」とは、いったいどういう絵なんだ?ということに成るわけです。


あくまで個人的にですけど、「エラソウな絵」だけが、私にとっての「スバラシクナイ絵」なんですねぇ。


さて、そういう観点で見ていくと、けっこうあったりします。

「エラソウな絵」がですね。


どれもこれも「スバラシイ絵」だなんて言ってしまいましたが、「エラソウな絵」って、そこそこたくさんあるんですよねぇ。


つまり、そういう絵に関しては、どれもこれも「スバラシクナイ絵」とも言えるということですね。


『なんだ、やっぱり素直じゃないじゃないか?キミィ』

「はい、そうなんです」


とにかく、専門的になってくると「エラソウ」になってくるわけで、専門的に成ればなるほど「エラソウ」じゃなく成るっていうのが理想だと思うんですけど、なかなか、そういうものには出会う機会がないですね。


まっ、しょうがないのかな?人間未満だし。。

そんな風に思っています。





「社会」は「人間を阻害するモノ」だということ



「社会」はもともと「人間」が作ったわけですが、その「社会」が、チョクチョク「人間」を阻害することがあるわけです。

どうしてなんでしょうね?という話です。


そもそも、「社会」ってどうやって出来てきたのか?と考えると、「サル社会」なんかを見れば一目瞭然ですけど、「群れ」を統率したり、効率化するために「社会」が必要に成ったんでしょうね。たぶん。

どこまでが「群れ」で、どこからが「社会」なのかはわかりませんけど、とにかく「群れ」と「社会」は微妙に違うモノのような気がします。


要するに、「役割」があるのが「社会」で、無いのが「群れ」なんだと思うわけです。

とは言え、「役割」という概念が全く存在しない「群れ」もないでしょうから、そこに一線を引いて分けるのは難しいように思いますが、少なくとも、「役割」がはっきりしているほど「社会性」もはっきりしてくるし、「役割」が細かく設定されている「社会」は、より「高度な社会」と言うことに成るんじゃないかと思います。


つまり、「社会」の中では、「個人」はあくまで「統率される側」であり、「役割を演じさせられる側」なんですね。


「動物」の段階までは「個」という感覚が薄かったために、「動物」にとっては、それらの「~させられる」が、それほどの苦痛でもなかったんでしょう。

ところが「人間」は「個」という感覚を強く意識する動物に成ったために、その「~させられる」が、多くの場合苦痛なんですねぇ。


それで「社会」が「人間を阻害するモノ」になってしまっているわけです。


そう考えると、いくら頑張ってもなかなか「イイ政治」が実現しないことや、まして、「理想の社会」が遥か彼方にしか思えないことなんかも当然のことで、「社会」の持っている根本的な性質に「人間を阻害するモノ」と言う性質が含まれているとすれば、むしろ、「イイ政治」や「イイ国」を期待する方が、土台から間違っているわけです。


「社会」が「人間」を束縛して、使役を強いるモノだとすれば、まったくもって当たり前のことですね。
つまり、絶対に「イイ世の中」なんて実現しないということです。
(他国との比較で『イイんじゃない?ウチらなんか』って言う、そういうことではなくですね)


ただ、このことを意識していることで、少しはイイのかも知れません。


「人間」が「動物的な人間」として「社会」から割り当てられた「役割」に従い続けない限り、「社会」という仕組みは有効に働かないし、「社会」が有効に成れば成るほど、また、「人間」を阻害するという影響も強く成るわけです。


「人間」が「人間」であろうとすればするほど「社会」と対立するということ、これを踏まえた上で、「社会」を作っていかないと、「社会のための社会」や「政治のための政治」や「制度のための制度」しか出来てこないでしょうね。

「人間のための社会」を目指しても、絶対に実現しませんから、そういう「理想像」は捨てて、最低限のこととして、「一方的に社会に奉仕させられる人間」を作らないような「制度」を作っていかないと、けっきょく、「人間」が「社会」にこき使われるだけで、チットモ「人間」には「ワケマエ」が入ってこない世の中にしか成らないと思います。

そこで「ワケマエ」をさらっていくのは「動物的な人間」です。
要するに、「社会にあてがわれた役割」を演じ続けても苦痛を感じない人間ですね。

そういう人は「動物的」ですから「人間的」な行動をとるのが苦手なわけです。
それで、そういう人たちによって「人間性」が踏みにじられて、結果的には、より多くの「人間的な人間」が阻害されてしまうわけなのです。
(多くもないのか?)


また、それ以前に、「動物的な人間」たちも「社会」にこき使われているだけなので、「ワケマエ」を得ていると言っても、本当の意味で「人間の幸福」を手にしているとは言えないわけで(得ているのは「動物の幸福」だけですね)、そう考えると、けっきょく誰もトクしてないじゃないか?と言うことに成っているわけです。


でも、そんな考え方をする人は、今のシステムの中で、絶対に「政治家」や「指導者」に成ることはありませんから(そういう職業に就くのはたいてい「動物的な人間」です。まぁ、「猿山の大将」ですね)、そういう「社会づくり」は一向に実現するメドが立たないというわけです。


でも、まぁ、取り敢えず「社会」が「人間を阻害するモノ」だということは間違いないんじゃないのかなと。

そして、『「人間に貢献する社会」を作ろうとすることほど無駄なことは無い!』ということも、まぁ、間違いないのかなと。
(歴史の中で証明されていますよね)

そんな風に思っているわけです。




「芸術」は「社会」に対して影響を与えているのか?



私は、「芸術」と言う分野は最も社会に対する影響が大きい分野だと思っているんですが、そう思わない人も居るようですね。
(おそらく、そういう人の方が圧倒的に多いんでしょうね)

 ※ここで言う「芸術」は必ずしも「美術」ということではなく「芸術的な分野全般」を指し
  ています。
  例えば「エンターテイメント」や「スポーツ」などの娯楽要素が強い分野でも芸術的な
  側面を持っているもの全般を含めた意味で言っています。
  (そういう分野の中の芸術性の「部分」ということですね)
  さらに広げて「文化」と言い換えてもいいと思います。
  そういった「文化・芸術系の情報」が「社会」、特に「現代社会」に与えている影響が
  トンデモナク大きいんじゃないか?という話です。


「芸術の影響」を大きいと見るか、小さいと見るかは、「影響を与えたモノ」を「一番初めの原因」と考えるか、「結果の一つ前の出来事」と考えるかによって違ってくるんだと思います。


私は「影響」と言うのは「一番初めにモト」となったものによる所が大きいと思うわけです。
つまり、波紋の中心に投げ込まれた石ですね。

『その「石」の影響で結果として波紋が出来た』と言うことなんだと思うわけです。
つまり、「波紋」は「原因」や「影響」ではなく、「結果」の方に含まれていると思うんですね。


しかし、どうも、「石」よりも「波紋」が影響を与えたと考える人の方が多いようです。

つまり、「原因」である「石」よりも、「結果」である「波紋」の影響を重く見る人が多いということですね。
とくに、「石」が投げ込まれたところを見手数料居ない場合は、そう思う人が多く成るわけです。


まぁ、確かに、「波紋」が出来ることで池全体が大きく波打っていくわけですから、『「波紋」の影響で池が波打ったのだ』と言っても間違いではないのだと思います。

ただ単に、私は「石」の方に影響力を感じるということです。
たとえ、「石」が投げ込まれるところを見ていなくてもですね。


そして、「芸術」が「社会」に与えている影響は、ほとんどが「潜在的な影響」なんですね。
だから、見えにくいわけです。

そして、見えにくいから、多くの場合「影響力がない」と思われているわけです。
  
 ※「芸術の社会に対する影響」と言われるときに、「メキシコの壁画運動」のように
  直接的に「芸術作品」によって社会に対して働きかけることだけだと考える人が
  多いのかも知れませんが、そういうのはむしろ「結果的に起きてきたこと」であっ
  て、「初めの原因」は「別の所で起きていた別のこと」だと、私は思うわけですね。


具体的に言うなら、有力な政治家が社会の方向性を変えてしまうような政策を実行した時、ほとんどの場合、「社会」に「影響」を与えたのは「その政治家」であると言われるわけです。

しかし、私は「その政治家」ではなく「その政治家がそういう政治思想を持つに至った原因」こそが、「影響」を与えたものだと思うわけです。

 ※なぜそう思うかと言えば、世の中に「その政治家がそういう政治思想を持つに
  至った原因」があれば、「その政治家」がやらなくても「他の政治家」が同じことを
  するに違いないからです。
  その反対に、世の中に「その政治家がそういう政治思想を持つに至った原因」が
  無かった場合は、「その政治家」であろうと「他の政治家」であろうと、誰も、それと
  同じことはしないだろうということですね。

つまり、「その政治家」は「結果」であって「原因」ではないと思うわけですね。
「その政治家」は「池の水面に出来た波紋」ではあっても「池に投げ込まれた石」ではないということです。


でも、「その政治家」はよく見えますが、「その政治家がそういう政治思想を持つに至った原因」と言うのは、多くの場合「潜在的」ですから、見えにくく成るわけです。


そして、そういう「社会」に対する「潜在的な影響」という意味で、「芸術の社会に対する影響」はトンデモナク大きいと思っているわけです。

というか、私の場合は、「社会(特に現代社会)」で起きていることのほとんどすべてのことが、「芸術」の影響を最も強く受けていると思っているわけなんですねぇ。


要するに、「イメージ的な刷り込み」と言うことです。


「芸術」を中心とする「文化全般」に言えることですが、一言で言って、『イメージがイイ!!』ということなんです。
(本当は逆で『芸術のイメージがイイ』ではなくて、『イメージのいいモノが芸術に成る』ハズなんですけどね)

そして、本質的な意味とはあまり関係なく、「そのイイ・イメージ」が人の心に刷り込まれてしまうことに成るわけです。


こんな風に言うと、誇張しているように聞こえてしまうんでしょうが、決して誇張ではないと思います。


たとえば、経済的なことで言うと、「今売れているもの」ってどんなものでしょうか?

当然、「需要の高いモノ」と言うことですが、その「需要」と言うモノ自体が、「イイ・イメージ」によって産み出されている確率が非常に高いでしょうし(たとえば、「有名人のおススメ」とか、「地球にやさしい商品」っていうようなことですね)、それとは別に、「コマーシャルで刷り込まれた商品」と言うことがあるわけです。
(こちらは、「需要」がそれほど高くない所にも「偽の需要」を創り出すことが出来てしまうわけです)

それらは、すべて「イイ・イメージによって作り出された需要」と言ってもいいでしょう。


そういったことの全般に「文化・芸術系の情報」が大きくかかわっているのは間違いのないことですし、それらの情報の「モト」に成っているのが、けっこう「先端的な芸術」であるということも多いわけです。


また、政治で言えば、「政治家」や「政党」の支持率は、本当に「政策」で決まっているでしょうか?

一昔前ならともかく「現代社会」においては、「政策」と「イメージ」のどちらで支持率が決まっているのかは微妙な所でしょうし、政治家や政党自体が『どれほど「政策」を重視しているのか?』と言うような状態ですから(明らかに、相いれない主張の政党同士が手を組んでいたり)、どちらかと言えば、「政治家や政党のイメージをよくするような政策」が選ばれていると言った方が当たっているんじゃないかと思うわけです。

 ※これは「タレント議員(ニュース・キャスターなども含めて)」や「二世議員」が多いことで、
  証明されているでしょう。それどころか、最近では「タレント議員」と言うよりも「議員タレン
  ト」というべき人も増えてきていると思います。
  これは「イイ・イメージ」を演出できた人が議員に選ばれるというだけではなく、「イイ・イメ
  ージ」を作り出すこと自体が「イイ・議員」の条件に成りつつあるということだと思います。
  それだけ「政治のイメージ化」が進んでいることの現れではないでしょうか?


つまり、どちらにしても、モトの所で影響を与えているのは「イメージ」であって、「政策」でも無いし、ましてや「政治家」や「政党」なんかでは有り得ないと思うんですが、どうなんでしょうね?


そして、そんなこんなのすべての「イメージ」が作られるときに、必ずかかわっているのが「芸術・文化系の情報」だろうと言うわけです。


まぁ、そんなこと言ったって、誰一人『そうだ、そうだ!』とは言わないでしょうが、『じゃあ、明日あなたが買ったモノを見てごらんなさいよ』と言いたいですね。


明日の買い物の話から、いきなり話がデカくなりますが、「ミサイルを持っている国」じゃなくて、「芸術・哲学・教育を立て直した国」が世界をリードしていくように成ると思いますね。
(主導権を握るというよりは、思想的に先導するようになるということだと思います)

なぜかと言えば、そういう国が圧倒的に強く成るからです。


ミサイルでは「ジャブ」しか打てませんから、絶対にノック・アウトすることは出来ないですね。

現時点での「KOパンチ」に成り得るのは「経済力」ですが、その「経済」が世界的に連動するように成ってしまったわけですから、すなわち、一国の利益を追求することが難しくなってきているわけで、そちらも決め手とはならなくなってきています。

結果的に、もはや、今ある手札の中に「切り札」は無くなっているということです。

 ※これは現在の日本を含めたアジア情勢を見れば明らかですね。
  『なぜ、茶番劇を繰り返しているのか?』←『切り札がないから』

つまり、「世界=地球」全体が政治的にも経済的にも連動するように成った現在の世の中では、「競争」が「足の引っ張り合い」に成ってしまいますから、これまでの「競争」という概念が成り立たなくなってきているということなんだと思うわけです。


あらゆる意味で「世界」が連動するようになってきているわけで、「情報」は瞬く間に共有されてしまいますし、「文化」や「人」も地域をまたいで流通しています。

そんな中で、相手の足を引っ張れば、自分自身も一緒に引きずりおろされることに成ってしまいます。
要するに、「勝つこと」が「負けること」でもあるという状況になっているわけですね。


そう成ると、「新たな切り札」となるものは「人間の力」しかないわけです。
「人間的な力」だけが、世界全体が一体として強くなっていけるモノだと思いますね。

 ※これはシビアに言うと、「人間にとっての世界」に限定した場合に成り立つ話で、
  ある意味では「人間の自己中心的な考え方」だとも言えるわけです。
  つまり、「人間」が「人間」のためだけに一丸となって「地球」を利用しつくす、とい
  うようなことなんですが、実は、その為には「環境」や「自然」を守っていかなけれ
  ばならないわけで、「人間のため」に徹することで、むしろ、そういうことがクリアに
  見渡せるようになるのかも知れませんから、少なくとも、「人間同士」が足を引っ張
  り合っている状態が自然界にとってもマイナスを生み出すように成っていることを
  考えれば、取り敢えず「人間」だけでも良く成れば、『後のことは後から考えればい
  いんじゃないか?』と思うしかないというようなことですね。


そして、その「人間の力」を強化するには、「芸術・哲学・教育」の三つを立て直す以外にないということです。


『立て直す』と言いましたが、それは、『良い状態を取り戻す』と言うことではありません。

「芸術・哲学・教育」の三つは、それぞれ古くからあるモノではありますが、それらの「昔からの概念」では「現在の世の中」に合わなくなってきています。


つまり、根本的に新たに構想された「芸術・哲学・教育」の概念が必要に成るということです。
と言っても、これまでと全く違うことをするという意味ではなく、「方向性」が違うということです。


たとえば「芸術」で言えば、過去においては「美」を追求してきたわけですが、現在は「自己表現」を追求するように成っていますし、今後は、さらに「優・劣」や「巧・拙」を問題としないような形態に成っていくでしょう。

本来「自己表現」とは、そういうものであったハズなのに、今はそれとは逆のことをやっていると思いますね。
つまり、「芸術の世界」が、一番「優・劣」や「巧・拙」の差をつけてしまっているわけですね。

いま、「芸術」がやっているのは「自己表現」ではなくて、「自己主張」です。


「哲学」で言えば、ずいぶん昔からずっと「真理」を追究してきたわけですが、これからは、「絶対的な真理」ではなく、「真理」もまた変遷し続けていくものであるということ、つまり、「普遍性」とは「変わらないこと」ではなく「変わり続けること」であるということを踏まえた上で(『万物は流転する』ではなくて『「万物は流転するという考え方」もまた流転する』と言うことですね)、「現時点での人間にとっての真実」や「人間にとっての有効な道」と言うようなものを模索していくように成ると思います。

つまり、「真実を突き止めること」ではなく「真実を探し続けること」こそが目的に成っていくのかもしれませんし、逆に、もっと実用的な「哲学」が中心になっていくのかもしれません。
まぁ、おそらくは、その両方向に伸びていくんでしょうね。

「哲学」のような分野では、「恒久的な目標を設定すること」自体の意味が希薄になっていくと思います。

また、「芸術」との境界線が極めて曖昧になって、その二つが一体化していくのかも知れませんね。
(そういうの、見たいですね!)


そして、「教育」では、常に「学問」を教えるのが「教育」であると考えられてきたわけですが、これからは、「人間を教えること」が「教育」の中心的な概念に成っていくと思うわけです。

もう少し具体的に言うと、「人間に成るための方法を教えること」ですね。
その為に、必要な「学問」もあるでしょうが、それを学ぶ「方向性」が違うということです。


まぁ、ちょっと、話が大きくなりすぎてしまいましたが(適当に割り引いて読んでください)、何はともあれ、「芸術」の「社会」に対する影響は大きいのかなと。

そういう風に思っているわけです。





「芸術」は「社会」に対して影響を与えているのか?(つづき)



前の記事の続きです。

「芸術」は、「社会」に対して、、ありとあらゆる面で影響を与えていると、私は思っているわけなんですが、これは主に「現代社会」に対する影響について言っていることなわけです。


もちろん、いつの時代においても「芸術」は「社会」に影響を及ぼしてはいると思いますが、19世紀以前においては、その影響力は現在とは比べ物に成らないくらいに小さかったんだと思います。


つまり、20世紀に入ってから、とくに20世紀後半からの「芸術」の影響が非常に大きいと思うわけです。


これは、まず第一に、「情報化社会」が発達したことによって起きてきたことだと思うんですね。
一言で言えば、「人間」が「情報」にコントロールされるようになったということです。

要するに、「情報」さえコントロールすれば、「人間」もコントロール出来てしまう世の中に成ったわけです。


それで、「情報」に対して「イイ・イメージ」を刷り込むことが出来る「芸術・文化系」の影響力が、急激に増大したということでしょう。
だからこそ、「コマーシャル」だけでも「ヒット商品」が創り出せるわけです。


現在、情報として流通している「コマーシャル」の中に、「商品情報メインのコマーシャル」ってどのくらいあるんでしょうね?
また、「商品力」はソコソコでも「商品イメージ」さえ良ければ商品が売れると言えば言い過ぎでしょうか?

全ての商品がそうだとは言いませんけど、そういう商品がたくさんあることは間違いないことでしょう。


その逆に「ワルイ・イメージ」が植え付けられてしまった商品が売れることがあるでしょうか?まぁ、『ほぼ・無理』っていうことだと思います。


「情報化社会」がここまでに成っていなかったころまでは、「商品力」がモノを言っていたんだと思いますし、「品質の悪い商品」が売れることもなかったと思うわけですが、「現代社会」においては、ごく普通にそういうことが起きています。


さらに言えば、これは「商品」に限ったことではなく、「政治」などのような「社会」に直接影響がある分野についても言えることですから、そういったことに対しても「芸術・文化系の情報」が絶大な影響力を持っているということです。


こういう話に、『そうだ!そうだ!!』と言う人は、少ないでしょうが、「芸術」に関わって行こうと思う人間は、これから先にいくにつれて、このことを強く意識していく必要に迫られるようになるんだと思うわけです。

まぁ、やや意地の悪い言い方に成るのかも知れませんが、そこを意識しないで「芸術活動」をするということは、戦争中に「軍国主義・賛美の絵」を描かされるのと同じようなことに成るんじゃないのかなと。

しかも、「強制的にやらされた」んじゃなくて、「盲目的にやった」と言うことであれば、それを「芸術の中心」から遠く離れてしまっていることだと言わざるを得ないということですね。


そんな風に思いますです。ワタクシハ。




「盆栽のような絵」



最近になって感じるように成ったことなんですけど、『もしかすると、自分は「盆栽みたいな絵」を目指しているのかも知れないなぁ』と思ったりするわけです。


「盆栽」と言うと、やや「年寄りくさい」と言うようなイメージがあって、若者には敬遠されがちなようですが、自分が「年寄り・寄り」に成って来たから言うわけじゃないですが、というより、私の場合「年をとること」を尊敬していこうと思っているので(じゃないと、死ぬ時には、すべての人が必ず自分を尊敬できなく成るわけですから)、「年寄りくさい」ということ自体が必ずしも悪いことと言うわけでもないんですけど、まぁ、それはともかくとして、「盆栽」って、すごく小さいのに、ナニカこう『ギュッ!』っと凝縮した感じがして、『つまってるなぁ、じつに!』と思うことがあるんですね。


実際、「盆栽」って、チッチャクても『樹齢百年?』みたいなものもあるんだとすれば(よく知りませんけど)、本当の意味で、確かに時間が凝縮されていると言えるわけだし、本来ならば「大木」に成っているはずの樹木を小さくしているということは、物質としても「何十メートル」が「何十センチ」くらいに凝縮されているということですから、その「凝縮度」は相当なもんだろうと思うわけなのです。

それで、考えてみると、自分の「絵に対するスタンス」と言うのもこれに似ていて、出来る限り「長期間制作」や「小さい絵」や「芸術の多重化」と言うことを目指していますから、時間や空間や表現を凝縮していきたいなと思っているわけです。


このことに気づいたきっかけは、自分の描いた絵の中で、『まぁ、まぁ、気に入ってるかな?』と言う「絵」に、自分なりに「ニックネーム」のようなものをつけて呼んでいることがあったりするんですけど(「題」とは別にです)、そういう「ニックネーム」の中で、ある「絵」の「ニックネーム」が『盆栽くん』だったんですねぇ。


その「絵」は、たまたま、本当に「盆栽」みたいだったので、『盆栽くん』と呼んでいたわけですが、私の場合、偶然出来てきてしまった形を発展させていくことが多いので、これも全く偶発的に出て来た形だったんですが、あとで見ていると、だんだん「盆栽」に見えてきて、その後は、もう「盆栽」にしか見えなくなってしまったというわけです。

それで、その「絵」のことを『盆栽くん』と呼ぶように成っていたわけですけど、でも、よくよく考えてみると、偶然、「盆栽」に似ていたんじゃなくて、実は自分が「盆栽のようなナニカ」を求めていたんじゃないか?

そういう、心のどこかで求めていたナニカが、形になって表れて来たんじゃないのか?と。
そう思うように成ったというわけですね。

そして、そう考えると、「多重化」や「長時間制作」(これを「スロー・アート」と呼んでいます)など、いろいろと「パズルのピース」がピタリとハマる所があったので、『そういうことなのかな?』と思っているわけなのです。


というわけで、『やや渋すぎ?』な感もあるんですけど、今のところ「盆栽のような絵」を目指しております。


追伸

ところで、他の「絵」で『ホヤくん』っていうのがあるんですけど、「ホヤみたいな絵」は目指していませんので、そういったことで、お願いいたします!

 



「不思議」は「ナイこと」に意味がある?



「不思議なこと」全般に言えることですけど、そういう「不思議なこと」が『あるのか?ないのか?』という切り口で語られることが非常に多いわけです。

しかし、「不思議」の存在を問うこと、つまり、『アルのか?ナイのか?』ということよりも、「不思議なことの存在が確認できないこと」、つまり、それが『ナイ!』ということの方にこそ、意味があるような気がするわけです。

 ※これは、必ずしも物質的な意味でだけの話でもなくて、「不思議なことの概念」につ
  いてもいえることだと思います。
  ただし、そちらの話はまた少し違う話になるので、ここでは単純に、物質と言うことは
  出来ないまでも、あくまで「実体のある存在」と言う意味での「アル・ナイ」についての
  ことです。


たとえば「神様」ですね。

『「神様」が居るのか?』という問いに「意味」があるんでしょうか?


そこで『ええ、あそこに居るのが「神様」ですよ』と言う具合に「本物の神様」が現れたとして、そこに「神格性」が、まだあるでしょうか?


まぁ、無いでしょうね。


たとえば、「その神様」が「奇跡」を起こせたとしてもですよ。
それでも、「神格性」という意味では、かなり薄まってしまうような気がしますね。

「アル」と言うこと自体が「なんらかの限定」を意味しますから、どうしても「絶対的な神格性」には成らないんだと思うわけです。


つまり、「その神様」が「そこに居る」と言うことに成った途端に、それは「神様」ではなく、「新種の生物」と言うことに成ってしまうわけなのです。

その「新種の生物」が『たまたま、「奇跡らしきもの」を起こせる』という話になってしまうわけで、それは「一種の不思議」ではあっても、「絶対的な神格性」には及ばないように思うわけですね。

『いや、「奇跡」を起こせば、そこから神格性が生まれるだろう!』ということはありますが、結局、その「奇跡らしきもの」も「アル」と言うことが証明される過程で、「不思議」から「科学の一つ」になってしまうわけです。


そう考えると、そういった「不思議」全般に関して言えることだと思いますけど、『「ナイこと」にこそ意味がある』とも言えるんじゃないかと思うわけです。
(「アルことが証明されていない状態」と言うことですね)


つまり、「神様」に限らず、たとえば「魂の永遠性」とか「輪廻転生」とかと言ったすべての「不思議」について、『アルのか?ナイのか?』ということを考えるよりも、それが「ナイこと」について考えることの方が興味深いことなんじゃないかと思うわけです。


要するに、『アルのか?ナイのか?』と言うことが証明できないようなことを「不思議」と呼んでいるわけで、これは「神秘」と言う場合も「霊的」と言う場合も「神格性」と言う場合も全部同じで、それらのことに置いては、「存在が特定できないこと」にこそ意味があるわけです。


だから、宗教を信じている人が『神様は居るんだ!』と力説することには意味がありませんし、無神論者の人が『神なんて居るわけないんだ!』と言って、いろいろな話を引き合いに出して論説するということにも全く意味はないわけです。


だって、「イル」と言うことに成ってしまうと「神格性」が無くなってしまうわけですから、それは、信仰している人にとって一番”マズイ”ことなわけだし、「イナイ」と言うことに成ると、ますます「神格化」していくことに成るわけですから、無神論者としては、自分の考えと逆行してしまうわけです。


実際、何千年も前から、そういった議論は繰り返されているわけですが、『なるほど、そういうことね!そういうことで神様は居るわけなのね、よくわかりました!!』と言うことになったことは、おそらく一度もないわけで、今後さらに何千年続けても、そこのところは、まぁ、変わらないわけです。


それじゃあ、「宗教」とか「神」と言うモノには何の意味もないのか?

ということになってしまいますが、そういうわけじゃなくて、それらを「存在」とか「実証」とかいう切り口で考えることには意味がないということですね。


少なくとも、人間がここまで急速に発展してきたということは、「宗教」を持っていたことと無縁ではないような気がします。


おそらく、人間が過去の時代において「宗教」を持っていなかったら、「文明らしきもの」を手に入れたとたんに、それを廃墟のように成るまで使い倒して、スカスカに成った頃に成ってから、また新たな「文明らしきもの」を創り出す、というようなことを、今でも繰り返しているんじゃないかと思います。


つまり、永続的な発展は出来なかっただろうと思うわけですね。

それが出来たのは「宗教」によって、「道徳心」や「勤勉さ」や「正直」と言うことが、一般人にも広まっていたからじゃないかと思うわけです。


現在のように学校があるわけでもなく、ごく一部の人間以外にとって「文字」すらも意識していない生活の中で、「道徳心」や「勤勉さ」を身につけろと言う方が無理と言うものです。


いや、もし仮に「教育」と言うものがあったとしても、それでもまだ足りないような気さえします。
つまり、「信仰心」と言う「強さ」があったからこそ、人間がここまで急速に進歩できたんだと思うわけです。


そして、さらに言うならば、その「強さ」とはどこから来るのか?と言えば、「盲目的であること」から来るんだと思うわけです。

つまり、最も極端な言い方をすれば、「宗教の本質」は「盲信」であって、「盲目的な信仰心」ほど人間を強くするものはないということです。

そういう「盲信的な強さ」があったからこそ、人間が現在のように文明を発展させることが出来たんだと思うわけですね。


だから、そういう「時代」は「宗教の時代」であり「神の時代」であったのだと思うわけです。

 ※もちろん、これは、広い意味で「スピリチュアル」なども含めた「信仰」をお持ちの方
  から言わせれば、『そういうことじゃないんだよ!』ということなんでしょうが、少なくと
  も「信じる」=「理屈を超えた」という部分はあるでしょうし、「理屈を超えた」と言うこ
  とは、ある意味で「盲目的である」と言うことにつながるわけですから、そこの所は「信
  仰」とは別の解釈ということで、ご理解いただければ幸いでございます。


しかし、現在に至って、「進歩」と言うこと自体の意味が薄くなってきているわけです。

だんだん、「文明を進歩させること」よりも「文化を繁栄させていくこと」の意味が大きくなってきたわけですね。
それも一種の進歩ではあるんでしょうが、「物質的な進歩」が人間の目標の中心から外れてきているということなんだと思うわけです。


つまり、ようやく「文明から得たゆとり」を使う時代に成って来ているんだと思います。


はたして「現在の人間」も、また、その「ゆとり」を廃墟のように成るまで使い倒してしまうのか、それとも、「ゆるやかではあっても永続的な発展」を維持していくだけの知恵を身に着けているのかはわかりませんが、少なくとも、前よりは「マシ」に成っているような気もしますし、一応、試してみるぐらいの価値は出てきているんじゃなのかなと。

まぁ、そんな風にも思うわけです。


こんなことから、「宗教の時代」」や「神の時代」はすでに終わっていると、そして、「人間の時代」に成って行くんだろうなと思うわけなのです。


「不思議」であっても「神」であっても、また、いかなる「絶対的なモノ」であっても、それらは、もはや「信仰されるもの」ではなくなっていて、人間の智恵によって「思考されるもの」に成ったんだと思うわけです。

もう、「信仰の強さ」よりも、「考えることの豊かさ」の方が必要性が高くなってきていると思うわけですね。


「信仰の強さ」は人間を疲れ知らずの馬車馬のように働かせますが、反面、「争い」も起こさせますし、「盲信」が人生を浪費させてしまうこともあります。

人間が「神」について「智」を持って考えられるように成れば、人間は「神」から卒業して、「人間の時代」がやって来るんだと思います。


そんなことから、『「不思議」は「ナイこと」にこそ意味がある!』と。

そんな風に思ったりもするわけです。




「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?



このブログは「芸術の20世紀喪失宣言」という題なんですが、その「芸術の20世紀」において最も象徴的な人物と言うのが「マルセル・デュシャン」なわけです。
(まぁ、他にもいろいろと「巨匠」・「天才」等々居らっしゃいますけどね)


このブログでは「芸術の20世紀喪失」ということをテーマにしていますから、あまり「20世紀の芸術」について書いてこなかったんですけど、自分の中で、「芸術の20世紀」の存在がかなり「喪失されたモノ」に成りつつあるようで、もう、その辺について考えても「20世紀の渦」に巻き込まれないような気がしてきているので、徐々に「芸術の20世紀」についても書いていこうと思っています。

 ※「芸術の20世紀」について語ってしまったら、「芸術の20世紀喪失」に成らなく
  なってしまいそうなんですが、この「芸術の20世紀喪失」というのは、もともと「仮
  のモノ」であって、「宣言文」の本文にも書いてあるように、最終的には、一旦、喪
  失した「芸術の20世紀」をもとの位置に戻すことを前提としているくらいですから、
  『本当に忘れてしまいましょう』とか『そこにはできるだけ触れないようにして、見な
  いようにして行きましょう』と言うことではなく、むしろそれとは逆に「芸術の20世
  紀」について考えるときに、常に『「芸術の20世紀」を喪失している』という前提で
  考えていくことで「芸術の20世紀」という時代の「特殊性」や「現在に与えている影
  響」を理解し易くしていこうという方向のものなわけです。
  つまり、あくまで「意識の中での喪失」であって、本当に消してしまおうということで
  はないわけです。

  というか、これも本文でも触れていることなんですが、そんなことできるわけないの
  でやりません。
  ただ「芸術の20世紀」を前提にし続けていると、「そのコンガラカッタ糸」の中に迷い
  込んでしまって、理解」とか「判断」ということが出来なくなってしまうので、そこをいっ
  たん離れて考えようということなんですね。
  つまり、この記事も「芸術の20世紀喪失」を前提にして書いているということです。
  だから、お読みになる方は「芸術のの20世紀」が『存在している』ということを前提に
  するのではなく、それを『喪失している』という前提で読んでいただけたら、少しはわか
  りやすく成るんじゃないかと思います。


これは「21世紀世代」の人が聞いたら、『何言ってんの?「20世紀」ってトックニ過去でしょ?』なんて言われそうですよね。


確かに、「21世紀世代」からすれば「20世紀」なんて『そんなの知らないよ』なんでしょうが、でも、実を言えば、私にとっても『そんなの知らないよ』であるのは同じなわけです。


私が「芸術」に関心を持つようになったのは’90年前後ですから、私がここで「芸術の20世紀」と呼んでいる時代の主な出来事は終わった後だったわけですね。
(しかも、何十年も前には、ほとんど終わっていたわけです)

つまり、私にとっても「トックニ過去」であるハズなんですね。


ところが、それが「トックニ過去」に成って居ないわけです。

私のような「20世紀世代」にとっても、また、「21世紀世代」にとっても、「芸術の20世紀」は、いまだに「トックニ過去」に成っていないんですねぇ。


つまり、「トックニ過去」のハズのモノが『ゼンゼン「過去」に成ってない!』ということなんです。

要するに、影響力が強すぎるんですね。
しかも『悪貨は良貨を駆逐する』の法則に従って、徐々に「悪い影響」の方だけが増幅されてきているように見えるわけです。

 ※一応お断りしておくと、批判的な話には成ると思いますが、べつに「芸術の20世
  紀批判」をすることが目的ではありません。
  「芸術の20世紀」が現在に与えている影響について考えていくことで「現在の芸
  術」に展開が生まれるだろうということです。
  逆に、そこを抜かしていくと行き詰まっていくことになると思うわけですね。
  「芸術の20世紀」はそういう意味において「やや特殊な時代」であるというそんな
  話になります。


そして、そういったことに、とっても深くかかわっているのが、「マルセル・デュシャン」と言う人だろうというお話でございます。


と言っても「デュシャン」は象徴的な人物と言うことで、あくまで彼一人のことでも無いわけで、「ダダ」と言っても、「前衛」と言っても、「アヴァンギャルド」と言っても、大差はないと思います。


しかし、それらもまた、象徴的なグループであって、本当は「芸術の20世紀全体」を一つの流れとして捉えないと、その真の意味は読み取ることが出来ないとも言えるわけですが、そうなると、かなり話が大きくなってしまうので、取り敢えず、ここでは「デュシャン」を中心に考えてみます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、『「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしったってうんだい?』と言うことなんですが、よく言われる「トイレの便器」の件ですね。
これが、まさに「芸術の20世紀」を象徴しているんですねぇ。


いわゆる「コンセプチュアル・アート」ですね。


「20世紀初頭」の当時、芸術の世界は「アカデミズム」から脱しなければいけないだろうということで、方向性を模索していたんでしょうね。


「19世紀末」に「印象派」が「脱アカデミズム」の一撃を加えた、その後の「次の一手」がなかなか見つからなかったんだと思います。

その状態が5年・10年と続くうちに、「脱アカデミック」や「既成概念の破壊」ということだけが、膨らんでパンパンになっていた時に「マルセル・デュシャン」と言う人が「トイレの便器」を美術展に出品しようとしたということです。


要するに、「パンパンに膨らんだ風船」に穴をあけたわけです。
それで、一気に『プッシュー』っとなたわけですね。

つまり、その時、「芸術の世界」が望んでいたものが、「破壊してくれる人」だったわけです。
そして、それをやった人が「デュシャン」だったということです。

その時点で、『「芸術の目的」は「感動を生み出すこと」じゃないのか?』とか、『今、これを「芸術である」としてしまったら百年後にどうなるだろうか?』ということを考えた人が居なかったんだと思います。

いえ、ホントは居たんでしょうが、時代の流れに押し流されてしまったわけですね。


まぁ、そんなゆとりがなかったんでしょうね。
それよりも、とにかく「破壊すること」や「脱出すること」が必要だったんだということでしょう。

それはそれで、一つの「正解」だったのかも知れませんが、それは、あくまで「その時点での正解」であって、「その後も正解であり続けるべきもの」ではなかったんだと思うわけです。

でも、それが『その後も正解であり続けてしまった』ということですね。
そして、その影響が百年以上たった現在までも続いているというわけです。


しかも、その影響の中の悪い部分だけが増幅されてきているわけです。


私はこの「コンセプト」と言うモノに象徴されているのは「芸術の断片」だと思うわけです。

つまり、「デュシャン」は「もっとも芸術らしくないモノ」を「芸術の場」に持ち出すことによって、「芸術」の中の「物質的な要素」(「作品」や「作品の中の美しさ」など)を取り除いて、「純粋に精神的な芸術」と言うモノを抽出して見せたんだと思うわけです。


ただ、それは「芸術」と言うよりも「芸術の断片」であったわけです。


これはなにも「トイレの便器」に限ったことでも無くて、「芸術の20世紀全般」にみられる傾向であるとも言えるわけです。

つまり、「芸術」を「全体像」で見せるよりも「断片」として見せる方が、ある一面だけが強調されて、「一種の強い印象」を生み出すことが出来るように成るということです。

『それに気が付いてしまった』と言った方がいいかも知れませんね。


実は、これは「印象派」の方向性とも共通していて、「印象派」は主に「光」と言う一面を強調することで絵を「断片化」し、「一種の強い印象」を生み出すことに成功したのだと思います。

ただ、「印象派」の時点では、その「断片」が絵から完全に切り離されていなかったために、つまり、あくまで「絵画」と言う枠の中での「断片化」であったために、「絵画と言う伝統」を破壊するには至らなかったということですね。
(これは「キュビズム」や「シュルレアリズム」なども同じですね)


そして、その「伝統の破壊」をやってしまったのが「マルセル・デュシャン」だったというわけです。


こう言うと、『やっぱり「デュシャン」のやったことは画期的だったんだ!』ということに成ってしまいますが、そうでもなくて、けっきょく彼がやったことは「印象派の続き」だったということです。

これは、他の「巨匠」や「天才」の方々にもほぼ同じようなことが言えると思います。
つまり、「芸術の20世紀」全体が、「印象派の続き」という一面を持っているわけです。

そして、「印象派」と「芸術の20世紀」に共通のキーワードが、この「芸術の断片化」ということだと思うわけです。
(それはこの時点までは、そんなに悪いことでも無かったんだと思います)


そこで、「印象派」の人たちには出来なかったこと、つまり「脱・芸術」をやってのけたのが「デュシャン」などの「ダダイスト」だったということでしょう。

 ※この点において、「デュシャン」は、ほぼ同時代の「ピカソ」や「ダリ」などと比べても、
  「芸術の20世紀」を象徴している人であるとは言えるんじゃないでしょうか?


「印象派」の人たちは、みんな「絵」や「芸術」が大好きだったんだと思います。
だから、「脱・絵画」や「脱・芸術」できなかったんでしょうね。

たぶん、「デュシャン」の場合、「芸術に対する愛」が屈折していたんだと思います。
だから、平気で「脱・芸術」することも出来たし、その後、絵を描かないでいても平気でいられたんだと思います。


「ピカソ」や「ダリ」は「脱・芸術」は絶対出来ませんよね。
そして、「芸術にとどまったこと」で彼らの方が作家としての評価」が高くなっているということだと思います。

でも、そうは言っても、「デュシャン」が」がほんとに「芸術」から離れられたのか?と言えば、そうでもないようで、やっぱり屈折してたんでしょうね。


ここまでのところを大まかに言うと、

1:「芸術の20世紀」という時代には、「芸術の断片化」と言う意味で「印象派の続き」という面が多分にある

2:「印象派」との違いは「脱・芸術」という面である

この二点を象徴している人物を一人上げろと言われれば、まず間違いなく「マルセル・デュシャン」を置いてほかにないであろうということですね。


と、ここまでは、一般的に言われているところと、だいたい一致していると思います。
(そうでもない?)


長くなってしまったので、この辺でいったん切って、次の記事には、その「脱・芸術」や「断片化」が問題だったんじゃないか?ということを書きます。




「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづき)



前の記事の続きです。


「芸術の20世紀」における「脱・芸術」や「芸術の断片化」という方向性が、現在までも強く影響していて、その「悪影響」の部分がだんだん大きくなってきているんじゃないか?ということです。


これは、必ずしも「デュシャンがやったこと」と言うわけでもなくて、「芸術の20世紀」全体の傾向であると言った方がいいと思いますが、まぁ、それを象徴している人物としてうってつけなのが「マルセル・デュシャン」ということですね。

これは、おそらく、「デュシャン」がやらなくても誰かが同じようなことをやっていたことなんだと思います。
そうなんですねぇ、こんなに、突飛なことなのに、なぜか、『「マルセル・デュシャン」がやらなくても誰かがやったに違いない』と思えてしまうんですねぇ。

ここにこそ「芸術の20世紀」を象徴する「落とし穴」があると思うわけです。


「デュシャン」がやったことを『彼がやらなければ、他の人がやったに違いない』と思うか思わないかは、人それぞれの自由だと思います。
むしろ、重要なのは『そう思えてしまう』ということです。


つまり「デュシャン」がやったことと言うのは「誰でもできてしまうようなこと」だったということですよね。


『いやいや、そういうことがなかなかできないんだよ!キミィ』

そうかもしれませんね。
いや、確かにそうだと思います。


でも、思いつきさえすれば「誰でもできてしまうこと」ではあったというのは事実なわけですね。

少なくとも、「努力」も「技術」も「能力」も、「アイデア(コンセプト)」以外は何も必要なくできてしまう、そういうことではあったわけです。

 ※そして、さらに言えば、『「マルセル・デュシャン」がやらなくても誰かが同じようなこ
  とをやったに違いない』ということは、『たぶんそうだろう』と言うよりは、むしろ『事
  実である』といった方がイイほど確かなことでもあるわけです。


まぁ、これは当然と言えば当然のことで、「脱・アカデミズム」を目指していたわけですから、「アカデミズム」が主に提供していた「技術」や「能力」などを否定するようになるのは、成り行き上当然だったんだと思います。


ただ、その代わりが「アイデア(コンセプト)」でよかったのか?ということが全く問われずに、フリー・パスで通ってしまったことに問題があるわけです。


「保守派」対「革新派」の間では、それについての「問答」があったんでしょうが、問題なのは「革新派」同士の中での「問答」がなかったと思われることです。


「保守派」対「革新派」という対立の構図だと(「やや保守派」や「やや革新派」も含めてですね)、「技術」や「能力」に戻るのか?
それとも、それらを捨てて「アイデア(コンセプト)」で行くのか?という二者択一になってしまいます。


その結果、「現代美術」は「アイデア(コンセプト)重視」を選択し、今日に至っているわけですが、本当は、「技術」や「能力」を捨てていこうとするうえで、『その代わりにナニを選択すべきなのか?』と言う「問答」が必要だったんだと思うわけです。


「マルセル・デュシャン」と言う人物が「アイデア(コンセプト)」と言う代替物を提示してきているけど、『本当に、これでいいのか?』それとも、『他に、「ベターなナニカ」があるのか?』さらには、『今後も常に、「ベストなナニカ」を模索し続けていかなけてばならないんじゃないのか?』というような「問答」の部分が全部抜け落ちてしまって、「アイデア(コンセプト)重視」が「問答無用」で選択されてしまったわけなのです。

そして、それが百年以上もたった現在に至ってもまだ続いているというわけです。


これを言うと、必ずと言っていいほど『いや、キミもう「コンセプチュアル・アート」なんて影響力ないよ!何を今さら言ってるんだい?!』というようなことを言う人が現れますが、それこそが完全に「洗脳」されている証拠だと思うわけです。


要するに、一昔前ほどはっきりした「コンセプチュアル」ではなくなったというだけで、現在も、「コンセプチュアル」な方向性は根強く残っていると思います。

というよりも、そういう方向性をまったく示さないモノが現代美術として評価されることは、ほとんどないと思います。
むしろ、潜在化したために、より深く浸透しているともいえるでしょう。
だからこそ、影響を受けているのに『影響なんてもうないよ!』と言う人がたくさんいるんだと思います。


まぁ、それはともかくとして、「アイデア(コンセプト)」の何が問題なのか?ということです。

ここで、「断片化」が出てくるわけですね。


「印象派」は「絵画」を「光」という切り口で切って、その切り口をパックリと開いて見せることで、「より強い印象」を生み出すことに成功しました。

これは大方の人が認めるところでしょう。


これを、「断片化」と呼ぶことに賛同する人がどれほどいるのかわかりませんが、こういった、「一面を強調して見せるというやり方」が、あるモノを全体像として見せるのではなく、一つの部分だけを取り出して見せるという手法であることは確かなことですから、それを「断片化」と呼ぶことが出来ると、私は思っているわけです。


そして、この「断片化」と言う方向が「芸術の20世紀」全般に影響を及ぼし続けたんだと思うわけです。


「トイレの便器」と「印象派の絵」ということだと、一見、繋がりがあるように見えないわけですが、この「断片化」と言うキーワードで手繰っていくと、そのつながりが見えてきます。


つまり、どちらも「芸術の全体像を見せる」のではなく、「芸術のある一面を強調して見せる」という部分が共通しているわけです。
そして、これこそが「芸術の20世紀」の特徴でもあり、「アヴァンギャルド」の特徴でもあり、「マルセル・デュシャン」の特徴でもあるわけです。

要するに、「現代美術」と言われるもの全般の特徴であるということだと思います。

 ※「印象派の絵」が『絵として調和していない』と言っているわけではありません。
  しかし、それは「印象派」が「調和」を完全に捨てられなかったからであって、調 
  和を犠牲にしてでもある一面を強調することを選択したことは確かなことですし、
  そのことによって、「より強い印象」を生み出すことに成功したのも確かなことな
  のでしょう。
  だからこそ「印象派」は登場してきたときに「アカデミー側」から強く批判されたん
  だと思います。


そして、この「断片化」が、「芸術の20世紀」で起きた出来事の中でも、最もその影響が顕著なものであると思うわけです。


そして、さらに言うと、この「断片化」こそが、現在に至って悪影響を及ぼすことに成って来ている元凶でもあると思ってしまうわけなのです。


ここで一つ断っておくと、「強調すること」がワルイと言っているわけではありません。

「一つの面を強調すること」は作者がどのような方向で物事を捉えているのかを明示することに成りますし、作者の「ソノヒト性」を表現する手段にも成るものだと思います。

しかし、「全体と完全に切り離された断片」だけで見せるということは、「強調」ではなく「極化」であると思うわけです。
「カルト化」と言ってもいいでしょう。


この「極化」=「カルト化」の発端に成ったのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」だったというわけです。


ここで、また長くなってしまったので、次の記事に続けます。

まぁ、読んだ人はトンダ災難ということで。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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