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「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづきのつづき)



二つ前の記事からのつづきに成ります。


芸術の「断片化」から発生した「極化」が「芸術のカルト化」につながってしまったんじゃないか?
そして、その「カルト芸術」の教祖が「マルセル・デュシャン」と言う人なんじゃないのか?
ということを前の記事に書いたわけですが、そうなると、「現在の芸術」とは、まさに、その「カルト芸術」の行き着いた姿なんじゃないのか?という疑問が出てくるわけです。

 ※ここで「カルト芸術」と言っているのは、必ずしも「カルト本来の意味」や「宗教的な
  意味」ということではなく、「極端な方向性を持った芸術」というような意味です。
  「カルト化」=「極化」と置き換えてもいいと思います。
  要するに、本来はそれほど重要ではないと思われるような部分をクローズアップし
  て、「極端に先鋭化した芸術」を「カルト芸術」と呼んでいるわけです。
  そして、そういう「カルト芸術」が「現在の芸術」の主流になっていて、そこに大きく
  関わっているのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプ
  チュアル・アート」であり、その中でも特に影響が大きいのが「芸術の断片化」とい
  う手法であろうということなわけです。


まぁ、この辺からは、私が勝手に思っていることなので、そういう話としてご了解ください。


「現在の芸術」を「カルト化した芸術」であると考えている人がどのくらい居るのかはわかりませんが、少なくとも、「極化」が「現在の芸術一つの要素」に成っているということは、誰もが認めざるを得ない所だと思うわけです。

そこで、「調和」などのような中間的な要素が、かなり切り捨てられているというのは確かなことだと思います。

そして、それを、あっさりと切り捨てられる人も居ますし、切り捨てられない人も居ます。

あっさりと「切り捨てられる人」は迷わず「カルト化」してしまいます。
そういう人は、ある意味でラクなのかもしれませんが、「迷い」を失ってしまうことで、「芸術の中心」からは離れてしまうわけです。
「迷いのないもの」は「芸術」ではないという前提で言えば、ということですけどね。

一方、「切り捨てられない人」は、「極化」と「調和」という両立不可能な「ダブル・スタンダード」に悩み続けることに成るわけです。
こちらは、「芸術の中心」にとどまろうとすることによって、身動きが出来ない状態に陥ってしまうわけです。

また、「極化」には見向きもせずに「やや古いスタイル」という「居場所」を選択する人も居ます。
しかし、その人たちもまた、、それを選択するうえでの「迷い」を吹っ切ってしまった時から、「芸術の中心」から少しづつ離れていってしまうわけです。

こんな風に言うと、『調和がそんなに大事なのか?』とか『美しくなくちゃいけないのか?』
みたいなことを言う人が居るかもしれませんが、そんなことを言っているんじゃありません。


そうじゃなくて、『一方的に切り捨てられていい部分なんてないでしょ?』ということです。
『そういうのを「流行」と言うんじゃないんですか?』と言うことです。

「迷わずにカルト化を選択する人」も「迷わずに安定したスタイルを選択する人」も、」けっきょくは同じように「芸術の中心」から離れてしまいます。
それらは、つまるところ「流行を追う人」です。
彼らには「流行」しか生み出せません。
「迷い」や「苦悩」を失った者に生み出せるのは、「流行」くらいだと思います。
「面白さ」や「楽しさ」だけでは、人を感動させることは出来ないと思うわけですね。

また、『その流行がもう百年くらい続いていますけど、一体いつまで続けるんですか?』ということです。
「流行」にも「それなりの価値」はあるでしょうが、「百年前の流行を続けること」には「それなりの価値」もないと思います。

そしてもっと言えば、『その百年前の流行に洗脳されていて、それに逆らえなくなっているんじゃないですか?』ということですね。
まぁ、一言で言えば、『そろそろ、目を覚ますときじゃないですか?』と言うようなことです。


「現代美術」と言われるものが現れてきてから、百年ほどったっているわけです。

『それ、まだ現代なんですか?』

「現代美術」が現れてきた当時、それは「美術史的な時代区分」などではなかったはずです。
そういったことを抜け出すための言葉が「アヴァンギャルド」であり「モダン・アート」であり、日本語で言えば、「前衛」であり「現代美術」であったはずです。


それなのに、どこか根本的に変わってない、どこか根本的に自由じゃない、そういう印象があるわけです。
しかも、それが百年以上も続いている。

こんな風に言うと、今度は『いや、キミ、芸術は常に変わり続けているよ!キミが受け入れられないだけだよ!』と言う人が出てきます。

でも、やっぱり、そんなことを言っているんじゃないわけです。

むしろ、逆で、「変わり続けなければいけない」と言う呪縛にとらわれているんじゃないか?
「いま、変わらなければいけない所」は「変わらなければいけないということ自体」なんじゃないか?
表面的な変化だけが目まぐるしく入れ替わっていることで、「本質的な変化」が置き去りにされ、いつの間にか百年間膠着した乗田が続いてしまっているんだと思うわけです。

つまり、「変わること」が「固定観念」になってしまっていて、「本来の変わること」とは正反対の意味を持つように成っていると言っているわけです。


しかも、それが「洗脳」のような状態に成っていて、刷り込まれてしまっているために、見えなくなってしまっているわけです。


こういう状態の中では、変われば変わるほど「呪縛」されていくし、「芸術」であろうとすればするほど「芸術の中心」からは遠ざかっていくように成るんだと思うわけです。

つまり、「負のスパイラル」に成っていると思うわけですね。


こういった状態を脱するためには、「芸術の20世紀」という時代をもう一度見直してみるしかないように思うわけです。
そして、その「キーワード」として最適なのが「マルセル・デュシャン」であり「トイレの便器」なわけですね。


ある美術展で、その「トイレの便器」をタメツスガメツいろいろな角度から見ている人を見かけました。
(しかも、レプリカ?)
いや、一人だけなんかじゃありません。
来る人来る人の半数ほどの人たちが、単なる既製品の「トイレの便器」の前で考え込むような様子で、じっとみつめていました。

そういう人たちは「ナニカ」を見つけられたでしょうか?


かなりの人がナニも見つけられずに帰ったのでしょう。
そして、やはり、かなりの人が「ナニカ」を見つけて帰っていったわけです。

でも、おそらく、そこに展示されていたのが「芸術の断片」であると思った人は少なかったでしょう。


それは「料理」で言えば、野菜や肉や調味料です。
それが「料理の断片」です。

まだ、食べられません。


「服」で言えば、布地や糸です。

着れません。


「住宅」で言えば木材や釘です。

住めるわけがありません。


それらと同じように、「トイレの便器」=「芸術の断片」は

鑑賞できないのです。


それを、
『玉ねぎって生で食べても食べられるっていうことに気が付かされました、発想の転換ですね』
『いやぁ、目からうろこですよ、料理って奥が深いですよねぇ、いろいろと考える機会に成りました』
と言わされていたところがあるわけです。


でも、そこで『パチンッ!』と催眠術師が指を鳴らすと、

『ただの玉ねぎじゃねぇか、何が料理だってんだ!ふざけるな!!』ということになります。
でも、「ただの玉ねぎ」は「料理の断片」ではあるわけです。

確かに、一応食べることは出来ます。
まだ「料理」ではないというだけのことです。


それを、無理して食べるんじゃなくて、『料理してくれ』と料理人に要求すればよかったんです。


「芸術」においても、同じで、「創作者」に対して『「トイレの便器」じゃ鑑賞するに物足りないから、もっと「創作」してから見せてくれ!』と「鑑賞者」が要求してよかったんじゃないでしょうか?


「コンセプト」は「芸術」でもないし「芸術の本質」でもなくて、「芸術の断片」にすぎないモノです。
だから「鑑賞」することも出来ないし、「思考」することにもさほど大きな意味はないわけです。


しかし、「時代」は「要求すること」の方ではなく「無理して生で食べること」の方を選択しました。
そして、『それこそがこそ芸術の本質である!』とされてしまい、今に至っています。


「芸術の20世紀」と言う時代は、この「トイレの便器」の繰り返しだったといってもいいくらいです。

「トイレの便器」の次は「トイレのスッポン」になり、その次は、そのまた次は、となって、ついには「トイレの汚物」まで行って、ようやく行き止まりに成り、そこからはほとんど身動きが出来ない状態に成っています。

つまり、次から次へと「新しいコンセプト」が提示され、その都度、それが「新しい芸術」であるとされてきたわけです。
そして、その「ネタ」が尽きてからは身動きが出来なくなってしまったということです。


そんな状態を繰り返してきたので、現在ではあからさまな「コンセプトだけ」というのは通らなくなってきていますが(もう「新しいコンセプト」もネタ切れだし)、その分「創作の領域」は狭くなる一方で、現在「新しい芸術」と言われるものはどんなものなのか?と言えば、つまるところ「新しいテクノロジ―」を駆使したものであったり、「新しい素材」を使ったモノであるわけです。

そして、そういう「新しいナニカ」を見つけ出して「芸術」とクッツケタ人が賞賛されることに成るわけですが、それは、言い換えれば、「新しい便器」に過ぎないということです。

つまり、「新型の便器」が開発されるのをじっと待っていて、『これっ!』というような「カッコイイ便器」が出てきたときに、それに乗っかった人が上手くいくということですね。

そして、見せられる側は、いつも「イロイロなトイレの便器」を見ていなければならないわけです。


いや、「新しいコンセプト」も「新しいテクノロジー」も「新しい素材」も、どれも、それ自体がワルイと言っているのではありません。


「コンセプチュアル・アート」が固定観念を破壊し、その部分で人の心や感性を解放したことは事実だと思います。

しかし、「解放」しただけでは、「芸術」とは成り得ません。

人の心の中にある「美しさと醜さ」を、ただ一方的に「解放」するのではなく、作者がその「美しさと醜さ」の中から何を選択し、何を「自分の表現」とするか、それらのどこを強調し、また、浄化しようと試みるのか、その「試行錯誤の過程」こそが、「創作」と言う作業であり、その行為を物質化することを「芸術」と言うんだと思います。

ですから、「美しさ」だけでも「芸術」と言うには足りないし、「醜さ」だけでも、それを「芸術」と言うには満たないと思います。
なぜなら、それらは、「芸術の断片」にすぎないからです。

しかし、それ以上に、その「断片化」自体を「芸術」と呼ぶことには、まったくもって意味がないと言わざるを得ません。


だからこそ、いま、その「新しいナニカ」とは、すべて「新しい便器」であって、「芸術の断片」に過ぎないモノ、否、「断片化された芸術のカケラ」と言うべきものであり、「芸術未満のモノ」であるということを見直す必要があるんじゃないのかなと。


つまりは、そんな風に思ったわけなのです。




「空」と「素」



宗教やスピリチュアルなどにおいては、「空」という心の状態が、「人間の精神の究極の状態」であるといわれることが多いようですが、これは、なかなか現実には達成できないみたいですね。


まぁ、人間はいろいろな意味で「不完全」なわけですから、「万能」や「無限」にも成れないし、それと対極にある「無」や「空」にも成れないんでしょう。


でも、「空」は無理でも、「素」だったらいけるかも?というお話です。

 ※これは「宗教」や「スピリチュアル」の分野での専門的な話ということではありません。
  そういったモノを勉強したことはありませんので、見当違いのことを言ってる部分も出
  て来るでしょうが、まぁ、『一般人が考えることと言うのはこんなことなんだ』というよう
  な感じでお考えください。

宗教などで言うところの「空」という概念は、「自我」を消し去って解脱した状態のことなんじゃないかと思っているわけです。
「悟り」との違いはよくわかりませんが、どちらも、「無心」みたいなことなんだと解釈しています。

おそらく、常に「空」を保てるように成ることを「悟り」と言うんでしょうね。


ここで、「自我」を捨てることによって「空」が得られると言われることが多いように思うわけですが、「自我」って捨てられないんじゃないか?という疑問があるわけです。

もしかしたら、それが出来る人も居るのかも知れませんが、少なくとも、自分のような一般人には無理だなと思うわけですね。


こんな言い方をすると、怒る人も居るのかも知れませんけど、ハッキリ言って、一般人ができないことを「理想」とする「思想」は無意味だと思います。

誰にでもできることの範囲の中に「理想」を置いてこそ、そこに「意味」が発生するんだと思うわけです。

「悟り」を開くような特別な人は、人から「教え」られなくても、それをやりますから、必要ないですよね。
だとしたら、やっぱり一般人が出来る範囲で話をしないと意味がないということに成るわけです。


ということで、『一般人にもできる範囲での「空」ということを考えると、それは「素」なんじゃないのかなと。


たとえば、すごくお腹がすいたときに「一心不乱で食べている人」は、だいたい「素」の状態だと思います。
「大好きなことに没頭している時の人」も大抵は「素」に成っていると思うわけです。

必ずしもイイことばかりでもなくて、「大失恋に打ちひしがれている人」なんかも「素」に成るんでしょうし、「大切な人の死に直面した人」なんかも「素」に成らざるを得ないんだと思うわけです。


そう考えると、「素」はある意味で「空」と正反対のところがあるわけです。
つまり、とっても「感情的」なんですね。

言い換えると「自我丸出し」ともいえる状態が「素」なんだと思います。


「空」は、どちらかと言うと「無感情」な状態だと思いますし、常に「平常心」というイメージがあって、「喜怒哀楽」とは対極的な感じがするわけですが、「素」は『必ずしも、そうでもない』と言う気がします。

ただ、これは、あくまで一般人が最も「素」に成りやすい時のことであって、実際には、何でもない時の「素」は「平常心」に近い状態なんだと思います。

でも、何でもない時は余裕がありますから、一般人の場合「邪心」が入りやすいわけですね。
それで「平常心」を失うわけです。

そういう時には「素」の状態も崩れてしまうんだと思います。
こういうところは「空」と似ていなくもないですね。


まぁ、一般人にとってのできる範囲と言うのは、こんな程度の「素」ぐらいまでなんじゃないのかなと思うわけですね。
そして、それで十分なんじゃないのかなとも思うわけです。


一般人と言いましたが、実際はこれを「人間」と言ってもいいような気がします。

「悟り」を開くような人と言うのは、数的にスゴク少ないわけで、ほとんど居ないといってもいいような数しかいないわけですから(私は居ないと思います)、「悟り」ができない人を「人間」と言っても、とくにさしつかえはないと思います。


「空」と「素」を置き換えると、いきなり「空」が楽になります。
(と言っても、実際は「素」なんですけど)

「修行」も「悟り」も必要ありません。

ところが、なぜか、その「素」がカナカできません。


どうしても、「欲望」とかいうような「邪心」がありますから、「素」に成れない時が出てくるわけです。
なにせ一般人ですから、当然そうなるわけです。


そういうわけで、けっきょく先ほど言ったような「大好きなことに没頭する」とか「空腹を満たす」とか「死ぬほどツライ」とか「死ぬほどカナシイ」とかと言うような「無心」に成れる時に限って「素」の状態で居られるだけでもいいのかなと。

ちょっとイイだけですけどね。


そんな風に思うわけです。




「芸術三者(創作者・鑑賞者・批評者)」が一体に成れたらいいんじゃないかなぁと思います



私は、このブログを始めてしばらくしたころから、「芸術」に関わる人たちのことを「芸術家」とか「批評家」とかと呼ぶのはやめて、「芸術者」と呼ぶことにしているわけなのです。


「芸術者」と言うのは「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指しています。
要するに、この「芸術三者」が対等で平等であった方がイイと思うわけですね。

 ※「鑑賞者」と「批評者」の違いは、「鑑賞者」が「芸術作品を肯定的に見る人」
  「批評者」が「芸術作品を批判的に見る人」です。


現在は、とくに「鑑賞者」の位置が低すぎると思うんですね。

「有名な作家」の作品はありがたく鑑賞しなければいけないという暗黙のルールに成っていますから、「鑑賞者」が迂闊に意見を言うと『理解できないからあんなことを言っているんだ』ということにされてしまうわけです。

そして、結果的には「その鑑賞者の見識不足」という空気になってしまうわけですね。


でも、本当なら、「理解できるような作品」を作るべきなんだと思うわけです。

「理解し易い作品」を目指す必要はないと思いますが、「鑑賞者」に「理解されなかったということ」には「それなりの意味」があるわけで、それを無視したり、バカにしたりしていいということは無いはずです。


要するに、今は、そういう「有名作家の作品」を理解できる者こそが、「よい鑑賞者」であるということに成ってしまっているわけですねぇ。


『そんなことは無い!』と言う人も居るでしょうが、誰も知らないような作家を「一番好きな作家」として挙げる人なんて見たことありません。
(ただ単に「無名」と言うんじゃなくて「誰も知らない」と言うレベルです)
もし、そう言う人が居るとしたら、あまり「芸術鑑賞」に興味が無いような人じゃないでしょうか?


要するに、それだけ「有名作家の作品を理解できるということ」が「鑑賞者としての価値」に成っているということだと思います。


まぁ、それは置いといて、この「芸術三者」が「対等」で「平等」なだけじゃなくて、「一体」に成れたら、もっといいんじゃないかなぁと思うわけですねぇ。


つまり、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者が自由に意見を言い合えて、しかも、誰の意見も同じように尊重されているだけじゃなく、「芸術三者」がそれぞれの立ち位置から「ある作品」に対峙して、「その芸術的見解」を共有することで一体になって、その「一体化した意識」も、その作品の一部分であると捉えることが出来るように成ったら、きっと、イイんじゃないかなぁと思うわけですねぇ。


そうなれば、当然「有名」も「無名」も関係なく(「鑑賞者」はたいてい「無名」ですから、「有名」と「無名」も対等ということに成るわけです)、専門的な知識があっても無くても関係ありません。

純粋に「その作品」を見て感じるところを率直に言うしかなくなってしまうわけですね。
(そんなとき「専門知識」なんて役に立ちませんよね)


これは「創作者」の方も同じで、その「率直な意見」を率直に受け取るしかないわけです。

「批評者」も、また、上からものを言うことは許されなく成るわけですから、「純粋に理性的な批評」をするしかなくなってしまうというわけです。


まぁ、『理想論だ!』と言われれば、その通りなんですけど、「芸術の世界」くらい、こんなことくらい、こんな「チッチャイ理想」くらい、あってもいいのかなと。

そういう風に思います。




「長い題」=詩のような題(その4)



「長い題」(その4)です。

読むと、きっとソンしますよ。
読むと、時間の無駄ですよ。
読むと、イライラしますよ。
読むと、『なんなんだよ!これは!!』って思うだけですよ。

『じゃ、読んでみようかなぁ』
そういうアナタって、ステキ!!!

ということで、「長い題」(その4)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『たびに でます』 この ながれに のって

そうです

ぼくじしんが この うごきつづける ものになって 
たびに でるわけです

そうすれば ぼくは もう どこにだって いくことが できます
ここが どこでも かまいません


ここが どんなに あきあきするほど ありきたりで つまらない ばしょでも

なんの かたすみなのかも わからないほど ちっぽけな ところだと 
ぼくが おもいこんでいる そんな かたすみの ばしょでも

そんなことは どうでも いいことことです


ぼくが この うごきつづけるものに なって たびに でることが できたなら
ぼくは どこにだって いくことが できるんです


だって もう ぼくの こころは このえのなかに あって 

えいえんに うごきつづけるものに なって いるんですから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おどろくほどに 
まったく びっくりするくらいに ふつうのこと

そういうことこそ すばらしく
そういうことこそ うつくしい
そういうことこそ ありえない

ありえないのに どこにでも
ありえないけど だれにでも

みんなに ひとつの ふつうのこと 
みんなに ひとつの すばらしい


そういうものが
ほんとは 『みんなが ほしがっているもの』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いきもののように うごきだす
それまで とまっていた ものたちが 


めを こらして よくみれば 
ものの なかみが みえてくる

どんなものでも なかでは みんな うごいてる


そとがわの からを とおして なかみを みれば
なかでは みんな うごいてる

とまってるものは なにもない


ほんとは みんな うごいてる 
『それだけが ぼくに わかること』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ふゆには すべてが とまってみえる

くうきも ひとも こおりついて うごけなくなってしまうから


でも なつが くれば うごきだす
すべての ものが うごきだす

うごいていないと やけついてしまうから


そうは いっても はるやあきが いいかといえば そうでもない

そんなふうにして 『きせつが めぐって』いる
きせつが めぐると ときが すぎていく
ときが すぎると それが いきたことに なる


なにはともあれ いきたことが すばらしいことに なる

それだけは ぜったいに たしかなこと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

にじにだって いろいろある

くろい にじもあるし くすんだいろの にじもある


そんな ときには それを にじとよぶ りゆうは もう どこにもない
『そう おもった しゅんかんに せかいは ぎゃくてんする』


とまっていたものが うごきだし
くすんでいたいろが かがやきはじめる


そう よのなか すべてが にじのように かがやいて うごきだす

そう よのなか すべてが まっくろに くすんでいるとしても





「芸術における匿名性」について



「芸術作品」を評価する時に、作者の名前は必要なんでしょうか?
本当の意味で「芸術作品」を判断するのに、「作品」だけでは何か足りないことがあるんでしょうか?


たとえば、『ミロのビーナス』などのギリシャ彫刻は作者がハッキリしていないことが多いでしょうし、ほとんどの人が『ミロのビーナス』は知っていても、「その作者」は知らないでしょう。

でも、それで何か問題があるでしょうか?


たとえば、それ相当の信ぴょう性がある文献が新たに発見されて、『ミロのビーナス』の作者がハッキリしたとして、何かが変わるでしょうか?


ほとんど何も変わりませんよね。たぶん。
要するに、「芸術作品」の評価に「作者の名前」は必要ないということなんだと思います。


もちろん、昔と今では「芸術の意味」が変わってきているわけですから、「自己表現」としての「現在の芸術」においては、当然「作者」がクローズ・アップされるように成るわけですが、それは「芸術作品の評価」に必要なことではないだろう?ということですね。


でも、それが、なぜかそうなっていないわけですね。

これは、「芸術作品」を売り買いすることから出てくる現象なんだと思うわけです。
(『ミロのビーナス』は売り買いされることはありませんから、関係ないんでしょうね)

売る側にも買う側にも「評価額」と言うモノが必要に成るということですよね。
それじゃないと、安心して売ったり買ったりできないということなんでしょう。


でも、本当は、「誰の作品」だろうが、『イイ!』と思った作品ならば、その『イイ!』に対して「評価」が決まって来るはずなんだと思うわけですね。


もしも、すべての「芸術作品」の作者が不明であったならば、つまり、「芸術作品」と言うモノは「匿名」で創作されるものであるということが決められていたならですね、その時の「評価」こそが、その作品の「本当の評価」なんだと思うわけです。

まぁ、「芸術」を「「商売」や「オシゴト」と考えている人(画商などだけではなく)にとっては、かなり都合の悪いことに成るわけですが、それが本当のことなんだと思います。
(「芸術作品の値段」がかなり安くなってしまうでしょうね。少なくとも極端に高額な売買は無くなるでしょう)


いずれにしても、この「芸術における匿名性」と言うのは、これから必要に成っていくことなんじゃないかと思っているわけです。

「匿名」であることで、イロイロな意味で平等になりますし(「創作者同士」も平等になるし、「鑑賞者同士」や「鑑賞者」と「批評者」も平等になります)、「匿名」であることで、みんなが「作品」をよく見るようになります。
(今は、「作品」よりも「先入観」を見ている)


『誰の作品かなんて、どうでもいいよ』と言える人が、
「純粋な評価者」だと思いますし、「純粋な創作者」でもあると思います。


これ、口で言うだけの人はすごくたくさん居るんですけど、本当にそう思っている人は少ないですね。

ところが、本当にそう思っている人で、それを口に出して言う人はもっと少ないわけですから、
けっきょく、そう言う人はほとんど居ないということに成るわけです。


それ以外は、「商売人」と「そのお客さん」ですね。


本人が純粋な気持ちで評価しているつもりでも、「作者のネームバリュー」と言う価値を否定したうえで評価を下さない限り、結果的には「芸術の商売」に加担させられてしまうわけです。
(それが絶対に悪いということではありませんけど)


つまり「芸術の価値」=「ネーム・バリュー」になっていて、しかも、その「ネーム・バリュー」で「評価額」を」を割り出すというシステムに成っていて、その「評価額」こそが「芸術の価値」であると言う基準に否が応にも従わされてしまうわけですから、「本当の評価」も「本当の芸術」も出てこないですよね。


こういう状況を抜け出すための唯一の手段が「芸術の匿名化」だろう?と思うわけです。
それによって、失うモノも大きいでしょうが、得るモノも大きいんじゃないのかなと。


失うモノは「誰かの利益」です。

得るモノは「芸術の利益」ですね。


そんな風に思いますよ。




まだ「死」は「悪い出来事」なのか?



「死ぬこと」って「悪い出来事」なんでしょうか?
まぁ、確かに良くはないんでしょうね。

でも、「死」を「モノスゴク悪い出来事」と考える必要は、今はもう無いような気もするわけです。


たとえば、「百歳まで生きた人が死ぬこと」も「悪い出来事」なのか?ということに成ると、チョット、意見が分かれて来るところなんじゃないかと思うわけです。

そういうのを「大往生」なんて言っているくらいですから、どちらかと言えば「良い出来事」に入っていると言う気もしなくはないわけですね。


要するに、本当の意味で「悪い出来事」なのは、あくまで「不慮の死」であって、少なくとも、「天寿をまっとうした死」は、そんなに「悪い出来事」ではないんじゃないかと思うわけです。


そして、現在の日本の平均寿命は男女ともに80歳を超えているわけですから、「天寿をまっとうした」に当たる人が、かなりたくさんいるということなんだと思うわけです。


私の考え方がオカシイのかも知れませんけど、『それ、そんなに悲しいことなんですか?』っていう感じがしてしまうわけです。
まぁ、カナシイまではわかるとしても、「悪い出来事」というほどではないんじゃないの?と思ってしまうわけなのです。


「死」を「悪い出来事」として恐れおののいてきたのは、大昔の時代の人間が、現代とは比べ物に成らないくらいに「厳しいサバイバル生活」を強いられていたことからきていて、現在の「安穏な生活(物質的に満たされていると言う意味で)」の中では、必ずしも当てはまらないところが出てきていると思うわけです。


要するに、昔だったら『「死」はそんなに悪いことでもないよねぇ』なんて言ってたら、次の日には死んでたんだと思うわけです。
「自然の中の生活」では、いつも油断大敵だったわけですね。

だから、「死」を「悪い出来事」と考えることで、「死」をなんとか免れるという習性が身に着いたんだと思います。


でも、今は油断しても大丈夫になったということです。
(もちろん、「運悪く死ぬ人」は居るわけですが、「必ずやられる&即やられる」ではなくなったということですね)

それなのに、そういう「大昔からの習慣」が人間の体に刻み込まれてしまっているために、今でも「死」を「悪い出来事」と考えてしまうわけですが、そのことが現代社会の中では、逆に人間の心を蝕んでいるところがあるように思うわけです。


私は「長生き」を人生の目標の一つと考えているんですけど、だからと言って「死」を必要以上に「悪い出来事」だとも思いたくないですね。

「死」を恐れながら戦々恐々として長生きしたいわけじゃあありませんからね。


「自分が一番生きたい生き方」で生きて、それで「死んだとき」が「その人の天寿」なんだと思います。
その期間が出来れば長い方がイイでしょ?ってことですね。
(当たり前ですけど)


つまり、「死」を必要以上に恐れていると「自分の生きたい生き方」が出来なく成るわけですね。
それで、心を蝕まれていくわけです。


これは一種の「文明病」じゃないかと思いますね。

「文明」が発達してくると「死と隣り合わせの生活」から抜け出すことが出来て、「死を恐れる必要性」が薄くなるわけですが、それでも、人間は「習性」としての「死の恐怖」をなかなか捨てられませんから、そこにギャップが生じてくるわけです。

その不自然なギャップが「病」を創り出してしまうわけですね。


だったら、チョット無理してでもそのギャップを埋めてやれば、「文明病」から離れることが出来るんだと思います。


要するに、「死」を恐れるあまりに「老化」を恐れるように成り、やがて「歳をとること」を恐れるように成り、最終的には「生きること」をも恐れるように成るという、とんでもない逆転現象が起きてしまうわけです。
(当然、生きれば生きるほど「歳」をとって「死」に近づくわけですからね)


もともと「死」を恐れるようになるのは、「生命」を守るためなのに、その「生命」をないがしろにするように成ってしまうわけですねぇ。


あんまり無理して「死」を受け入れる必要はないと思いますけど、チョット無理して『「死」はそんなに恐れるほど「悪い出来事」でもないかも?』と思えたら、少し楽になれるんじゃないのかなと。


まっ、短くつめて言うと

『生きたい!』と『死にたくない!』の違いですね
(『じゃあ、この一行でよかったんじゃない?』←『はい、次から気を付けます』)


そんな風に思ったわけなのです。


「圧倒的な絵」って、まだあるんでしょうか?



「絵」の話において、『必ずしもイイ絵が評価されるとも限らないんだよねぇ』という話になった時には、『いやいや、「圧倒的な絵」の場合には必ず評価されるんだよ!キミィ』と言う言葉が返って来ることに成っているわけです。


でも、本当に、今でもまだ「圧倒的な絵」ってあるんでしょうか?


そもそも、昔は方向性が一つだったたわけで、その方向性に基づいてすべての判断が下されていたわけですから、「圧倒的な絵」は存在できたわけですが、現在はその方向性自体が多様化していて、すべての人の判断基準が、ぜんぜん違うといってもいいほどに成っているわけです。


そんな中で、「圧倒的な絵」は存在できるでしょうか?

「ある人にとっての圧倒的な絵」が、違う人にとっては「カス」のように見えるかもしれない状態で、はたして「圧倒的な絵」は存在できるものなんでしょうか?


まぁ、無理ですよね。


現在は「圧倒的な絵」が評価されるかどうかと言う以前に、「圧倒的な絵」は存在することすら出来ないんだと思うわけです。


それなのに、昔の時代の印象が残ってしまっていて、『きっと「圧倒的」であれば評価されるに違いないんだ!!』と思ってしまうわけです。


このことによって、『自分が評価されないのは「圧倒的」じゃないからなんだろう』と言うように自分を卑下してしまう人や、『あの人が評価されたのはきっと「圧倒的」だったからだろう』と言うように、権威に媚びへつらってしまう人や、『あの人は評価されていないんだから「圧倒的」じゃなくて、大したことないんだろう』と言うように、人を見下して安心するというような人たち、

つまりは、「芸術の中心から離れてしまう人たち」が大量生産されてしまっているわけです。


この状態を続けていれば、「芸術」とは「最も腐り果てた分野」であるということに成りかねないと思うわけです。

「本来の芸術」が「もっとも純粋な分野」であるとするならば、その「中心」からドンドン遠ざかって行けば、最終的に行き着く先は、最も純粋性のない「腐り果てた分野」ということに成ってしまうに違いないわけですね。


そういうことに成れば、「芸術」に興味のない人にまで悪影響を及ぼすようになるでしょうし、最後には、世の中全体が「純粋さ」を完全に失って、腐り果てて行くことに成るでしょう。

これ、「言い過ぎ」でしょうか?


現在の世の中を見て『それは言い過ぎだよ!』と言えるでしょうか?
『いつの世もそんななんだよ』といつまで言い続けられるでしょう?
(まぁ、そういう人は「ナチスの時代」にも、そう言ってるんでしょうね。ええ、自分がユダヤ人でなければ)


「20世紀」を起点にした「現在」という時代が、人類の歴史の中でも「やや特殊な時代」であることは、かなりはっきりしてきていると思います。
(『じゃなきゃ有り得ないでしょ』と言う出来事が世界的に頻繁に起きていませんか?)

その「20世紀」から「現在」に至る過程において、「芸術の20世紀」の持っている意味は、さらに特殊です。


全てのことを「破壊」し「逆転」したのが「芸術の20世紀」です。
そして、それなのに「偶像」や「権威」と言った「本当に破壊すべきだったモノ」だけは、破壊されませんでした。


その「偶像」や「権威」」を象徴するものが「天才」だったと思いますが、その「天才」と同じように、人々の中の「絶対性に対する願望」が生み出してしまっているのが、この「圧倒的な絵という幻覚」なわけですねぇ。 


だから、『「圧倒的な絵」なんて、もうどこにもないんだよ』と言う必要があると思うわけです。


『あの大先生の絵と、あの隣のオッサンがやたらと一所懸命になって描いた絵とは同じくらいのモノだね』
と無理なく言えるように成れば、少しだけ、いいんじゃないのかなと。
(はい、私のことです。もちろん「大先生」じゃなくて「隣のオッサン」ですけど)


そんな風に思うわけなのです。




『本物はあとに成ってから評価される』と言うのは今も成り立っているのか?



前の記事と似たような話です。


『本物っていうのはだねぇ、何十年も経ってから評価されるモノなんだよ、キミィ』
これ、今でも言えることなんでしょうか?


「今でも」と言うか、これが通要したのは、意外と短い時期だけなんじゃないかと思うわけです。


まず、200年以上前の時代だと、何十年も経った後で評価された人なんてあんまり居なかったような気がします。

昔は「芸術」も職人仕事の一つと考えられていたところがあったわけで、「いい仕事」をする人は最初から評価されていたでしょうし、「いい仕事」をしない人は、いつまでたっても評価されなかったわけです。
(今、だって、「職人さん」が何十年もたってから評価されることなんか無いですよね)

つまり、今みたいに「十年後を見越した作品」なんて求められていなかったということでしょうね。

 ※一人一人の作家の評価が上がったり下がったりするということはどの時代にもあ
  ったでしょうが、「全く見向きもされない作家」がいきなり「ブレイクする」と言うような
  意味での「あとに成ってから評価される」は無かったんじゃないでしょうか? 

それに、昔は十年や二十年たっても「評価の規準」が変わることなんて無かったわけですから、「十年後」くらいではほとんどのことが変わらなかったんだと思います。

だから、「十年後」を見越してもあまり意味がなかったということかもしれませんね。
でも、百年たったら忘れられちゃいますからね。

そういうことで『本物はあとに成ってから評価される』は通用していなかったと思いますね。


これが通じたのって、実はけっこう短い期間で、19世紀中ごろあたりから20世紀の後半を過ぎたころまで、つまり、「印象派」の前あたりから「ポップ・アート」の後ぐらいまでじゃないかと思います。

その時代、「芸術」に「あたらしさ」が求められていたんでしょうね。
それで、「十年先の作品」を作った人が「十年後」に成ってから評価されるように成って、その後、それが伝説化して今に残っているわけです。


でも、これ、「いま」でも通用するんでしょうか?

私は、これ、「いま」ではもう通じなくなっているような気がするんですねぇ。


20世紀の中ごろまではこのことが通じていたんだと思います。
しかし、今はもう「あたらしさ」が出尽くしてしまったわけです。

いま「あたらしい」と言われるモノとはどんなモノなのかと言えば、

「あたらしいスタイル」や

「あたらしい素材」や

「あたらしいメディア」や

「あたらしいテクノロジー」を使ったモノであって、

それらはどれも「本質的にあたらしいモノ」ではないわけです。


それに、「素材」にしても「メディア」にしても「テクノロジー」にしても、「芸術以外の場」で開発されるモノであって、「創作者」自身が生みだしているわけではありませんから、「十年後の素材」や「十年後のメディア」や「十年後のテクノロジー」を使うことは出来ないわけです。

つまり、「十年先」を見越すことは出来ないということですね。


従って、現在唯一「あたらしさ」と言えるのは「スタイル」だけだと思いますが、その「スタイル」とて、「芸術の本質」とはチョットずれたところにあるモノなわけで、本当の意味での「あたらしさ」とは言い切れない所もあるわけです。


でも、実を言うと、これは『本物はあとに成ってから評価される』ということが通用していた期間の中でも同じで、本当のことを言えば、「あたらしさ」は「芸術」にとってそれほど重要な要素でもないんだと思うわけです。

ただ単に、その時期、人々が「あたらしさ」を「芸術の本質」であると勘違いしていたというだけで、その幻想によって『本物はあとに成ってから評価される』ということが成り立っていたんだと思うわけです。
(本当に本質的なモノであれば、「いま」でも「十年後」でも同じように評価されるはずです)

その後、あまりにも「無理矢理なあたらしさ」がたくさん創り出されたことで、『もういいだろ』ということに成ったんでしょうね。
だから、現在は、もうみんな「あたらしさ」に見飽きてしまっているんだと思います。


ところが、「あたらしくなくてはいけない」と言う呪文に縛られてしまっていますから、そこから抜けられなくなっているわけです。


『本来は「あたらしさ」よりも「芸術の本質」に近い所にあるモノとはナニなのか?』ということを考え直す時が来ているような気がするんですが、「あたらしさ」と「流行」がいつの間にか入れ替わってしまっていることを見ようとする人がほとんどいませんから(そこに向き合ってしまうと「芸術の場」に居づらくなるというシステムになっていますから)、けっきょく「流行を追うこと」に終始する羽目に成るわけです。

つまり、『十年先を行っている』ということも『十年先の流行を追っている』にすぎないわけですね。


まぁ、取り敢えず、『本物はあとに成ってから評価される』と言う伝説はもう「迷信」に成っているということですね。

ただ一つ言えることは『今、評価されているモノは本物の芸術ではない』ということだけですね。
目的が違ってしまっているわけですから、当然といえば当然です。


いま評価されているモノは「流行」ですね。

まぁ、そう言って間違いないんじゃないですか?

そこを目指しているわけですから。


そんな風に思いますね。





「世界先進国化」による「世界総精神疾患化」



だいぶ前に、このブログで「一億総精神疾患時代」と言う記事を書いたことがあるんですが、もう少し広げて「世界総精神疾患の時代」に成っているといってもいいと思う今日この頃なわけです。

「約70億総精神疾患」ということに成ります。スゴイですねぇ。

 ※前の記事は、日本の社会全体が「精神疾患」に陥っているように感じるという
  記事です。

現在、「世界一大きな国」には「世界一人間的なウツワが小さい大統領」と言われる方が居らっしゃいますし、その方以外にも、「アリエナイ国家元首」は世界各国に点在していらっしゃいますよね。

 ※こういう「アリエナイ国家元首」が存在していることは、「多数決」と言うシステム
  が崩壊していることを実証していると思いますが、その反面、社会全体が「精神
  疾患」に陥っているために、「オカシナモノ」だけは確実に選ばれるという現在の
  「多数決」の有り様を示しているとも言えると思います。

 ※「人間的なウツワが小さい」と言っていますが、「もともと持っているウツワが小
  さいと」と言うよりは、「社会の病理」を反映して、精神疾患に陥った人の「自己」
  があまりにも肥大化してしまっている場合に、彼らの精神の中における「人間性」
  の部分の比率が極端に小さくなってしまっているというようなことです。
  もともと、生まれ持った人間的なウツワに関しては、みんな同じくらいの大きさだ
  と思います。
   

当然のことながら、彼らは批判されることがとても多いわけですが、ほとんどの場合、「彼らが特殊な人物であること」を前提として批判されているんじゃないでしょうか?

でも、私は彼らが特殊だとは思わないですね。
どちらかと言うと、むしろ、『まさに彼らこそ、現在の世界70億を代表する社会の中心的な人物なんじゃないのかな?』と思ってしまいます。

なぜなら、『世界中が総精神疾患に成っているから』ということです。


特殊なのは「人間的に小さい人」ではなく、「現在という時代」なんだと思うわけです。


実際、「人間的に小さい人々」の批判においては、「精神疾患」や「人格障害」と言う切り口で語られることが多いようですし、確かに、、そういう人は極端な例だとは思いますが、でも、「特殊」なのか?と聞かれたら、『そうでもないか?』と思います。


そういう人が「世界一大きな国の大統領」に成ったことは「普通じゃナイこと」ですが、実を言うと、自分の身近にも至る所に「人間的に小さい人々」はたくさんいて、彼らはどちらかと言えば社会の中で高い地位についていたりします。
(実際、自分の上司や地域の有力者の中に居ませんか?「人間的に小さい人」)


ですから、その「人間的に小さい人々の代表者」が「世界一大きな国の大統領」に成るということは、むしろ、必然的なことであって、特殊なことではないということです。

 ※現在の「多数決」は「強烈にオカシナモノだけが確実に選ばれるシステム」に成って
  います。
  これは、まさに「芸術の影響」だと。、私は思います。


これは、世界中が「先進国化」したことと関係があると思いますね。

もともと、「文明」が行き付く所まで行くと(社会が「物質文明」に覆いつくされて、「文化」が置いて行かれた状態ですね)、その社会には「精神疾患的な性質が出来て来るんだと思うわけです。

つまり、一人一人の「人間の精神疾患「」ではなく、「社会全体の精神疾患」ということですね。

かつては一部の豊かな国を「先進国」と言っていたのに、現在は、むしろ「先進国」の方が多いと言ってもいいような状態に成って来ていて、一部の国を除いては、「文明度」の差は少なく成って来ているんじゃないでしょうか?
つまり、「先進国」と「先進国じゃない国」の比率が逆転したわけですね。

つまり、世界中が先進国化しつつあるということです。


しかも、「物質文明における先進国化」に輪をかけて、情報流通の高速化が進んでいますから、まだ先進国化していない国までも、精神面では先進国化の影響を受けるように成っているんだと思います。


そういう世界的な状況の中で、「文明が行き着く所まで行き着いた国」が急激に増えて、世界中の人が、その「行き着いた文明」の影響を受けるように成って来ているんだと思うわけです。

一方、「文化」はそれに付いて行かれなくなって取り残されてしまっています。
それでいて、「物質文明の悪影響」だけは受け続けているわけです。

そして、とうとう「世界70億総精神疾患の時代」に成ったというわけですねぇ。スゴイです。


実際、「世界一人間的ウツワが小さい人」が世界一大きな国の大統領に成ることは、めったにありませんが、一般的な「人間的なウツワが小さい人」でしたら、そこらへんにたくさん居らっしゃいますし、むしろ、多数派と言ってもいいくらいです。

とくに、社会的地位が高い人に限定した場合は完全にそちらが主流と言ってもいいでしょうね。

 ※「人間的に小さい大統領」と、一般的な「人間的に小さい人」の違いが大きいと思って
  いる人が多いのかも知れませんが、両方とも本質的な異常さには、それほどの違いはあ
  りませんし、むしろ、一般的な「人間的に小さい人」の方が、身近な害が大きいとも言え
  るのかもしれません。


これを「総精神疾患」と言わずして何というのか?と思うわけです。


現在「精神疾患」を免れることが出来ているのは、社会の主流からかなり逸脱した人だけで、一見まともに見える人こそ「精神疾患ど真ん中」に居ることがとても多いですね。


つまり、「社会的逸脱者」だけがマトモで、「社会適応者」の方が「精神疾患」に成っているという、まさに逆転現象が起きているわけです。

ところが、その、「逸脱者」も「社会的逸脱状態」を続けて居ると精神が歪んで来るわけですから、けっきょく、すべての人が「精神疾患」ということに成ってしまうわけですね。


違いがあるとすれば、自分が「精神疾患」であることを認めている側の人と、それを絶対に認めない人と言う違いですね。

「絶対認めない人」こそが「真の精神疾患患者」なんだと思います。
そして、それは「社会的に適応している側の人」である場合が多いわけですね。


この「世界的精神疾患」の状態を打開できるのは「芸術」だけだと思うわけです。


もともと、「芸術の20世紀」の示した方向性が、この状態を作ってしまったという傾向があると思いますから(私はそう思っております)、そこのところを改めさえすれば、自然にこの状態を抜けられるんじゃないかと思います。
(私はそう思っております)
 

先ほど、文明が行き付く所まで行き着くと「社会全体」が「精神疾患的な傾向」を持つようになると書きましたが、そのこと自体が「芸術の20世紀」の持っている方向性によるところが大きいんだと思うわけです。


もともと、極端な性質のあった「芸術の20世紀」の方向性がさらに先鋭化していくと、それが「精神疾患的な性質」と成って「社会」を毒するモノになってしまうんじゃなかと思います。
(私はそう思っております)


本来は、「文明」があまりにも先行してしまって、「文化」が付いて行かれなくなると「精神疾患傾向」が出て来るんだと思うわけですが(19世紀末の「退廃文化的傾向」などはこれに当たると思います)、、「芸術の20世紀」は「脱芸術」・「非芸術」・「芸術の破壊」と言う性質を多分に持っていますから、その「芸術の20世紀」を前提にして成り立っているすべての「文化」が、「逆文化」と言う方向性を持っているわけです。

だから、「文化的であること」が「文化を置き去りにすること」に成ってしまうわけですね。


つまり、「文明」が発展するとともに「文化」が推進されて行けば行くほど、『本当の文化が置き去りにされていく』と言う逆行現象が起きてしまうわけです。

まぁ、言ってみれば「負の掛け算」ですね。


だから、「芸術」が「芸術の20世紀」を前提にしている限り、この傾向は消えないと思いますし、逆に、「芸術」が「芸術の20世紀」を離れて、本来の姿を取り戻すことが出来れば、この傾向から、難なく脱出することが出来ると思うわけです。


まっ、なにはともあれ、もう少し「人間性」を見直していった方が、誰のためにもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思います。








このまま「普通の絵」と「アート」はかけ離れていってしまうのか?



現在、「最先端のアート」と言うと、どんなイメージでしょうか?

それは「普通の絵」と一致した方向性を持っているんでしょうか?


まぁ、いろいろ意見は分かれるところでしょうが、少なくとも「最先端アート」=「普通の絵」ではないように思うわけです。

 ※これは、必ずしも「絵」に限定した話ではないんですが、「平面作品」と言う意味
  での「絵」の話だと「最先端アート」との対比がわかりやすいだろうと思って、「絵」
  と「最先端アート」を比較しています。

  つまり、もっとも昔からある「芸術のメディア」としての「絵」と、「最新の芸術」を比
  較しているわけです。
  「芸術」の中」で「メディアの新しさという部分」が占める割合が増えると、「芸術の
  部分」が占める割合が減ってしまうんじゃないだろうか?と言う話です。


このまま「アートと言われるモノ」が、「普通の絵と言われるようなモノ」と、ドンドンかけ離れていってしまってもいいもんなんでしょうか?


『なにがワルイって言うんだい?いいじゃないかオモシロイ方が』と言われれば、そうなのかも知れませんが、それでは、今まで「芸術」が埋めていた領域はナニが埋めてくれるんでしょうか?と言うより、そもそも「芸術」に代わるモノってあるんでしょうか?

私は「芸術に代わるモノ」はないと思っているので、『それじゃ、マズイでしょ!』と思ってしまうわけなのです。

ちなみに、「オモシロイモノに代わるモノ」はあると思います。


と言うようなことから、私といたしましては「最先端のアート」と「普通の絵」をもう少し近づけていった方がいいんじゃないの?と思っております次第でございますです。ハイ。


さて、「普通の絵」と「最先端のアート」が、本当にそんなにかけ離れているのか?


現在、考えられる中で「最も先端的な平面作品」を想定したとして、その作品は、何らかの最新のテクノロジーを駆使したような、いわゆる「アート」作品と比べた場合、「最先端のアート」だなと感じるのはどちらでしょうか?
(その作品の内容ではなく、単純にどちらが先端的であるか?ということですね)


まぁ、ほとんどの人が「アート」な作品の方を選ぶんじゃないでしょうか?
つまり、「平面であること」自体が既に「最先端」から外れてしまっているということですね。


逆に言うと、「平面」で表現したい場合は、ナニカ他のメディアとくっつけたり、『単純に平面ではないナニカを提示して見せる必要がある』ということです。
しかも、「新しいナニカ」を見つけて来なければならないということですね。

少なくとも、「最先端の芸術」と言う位置で創作したければそういうことに成るわけです。


それでなければ、「最先端の位置」からは後退して、「やや古いスタイル」と言う位置取りで創作しなければならなくなってしまうわけです。


作家ご本人が『自分はそれでいいんだ』と思ってやることですから、それはそれでいいとも言えなくはないでしょうが、「芸術全般」として考えた場合に、それじゃマズイんじゃないのか?ということです。


このまま「普通の絵」と「最先端のアート」が離れていくと、おそらく、過去に「芸術が埋めていた領域」が、、つまり「人の心を感動させるモノ」と言う領域ですが、その領域が消えて無くなってしまうんじゃないか?と言う疑問があるわけです。


いわゆる「最先端のアート」は、「エンターテイメント」や「ファッション」と同じ領域にあるような、そういう「オモシロサ」や「興味」を創り出すことは出来るでしょうが、「人の心を感動させること」は出来ないような気がします。


『いや、出来る!』と言われてしまえばそれまでですけど、少なくとも、「普通の絵」と「最先端のアート」では、目指しているモノがかなり違うと思いますし、「鑑賞者」側が求めているモノもかなり違うんじゃないでしょうか?

それなのに「そう言うアート」でも「感動させること」が『出来る!』ということであれば、「昔の芸術」はナニを目指していたんでしょうか?


「昔の芸術」が「人の心を感動させること」を目指していたのであれば、やはり、「現在のアート」は「それとは違うナニカ」を目指しているんじゃないかと思うわけです。

だとすれば、「現在のアート」は「それとは違うナニカ」は『出来る!』でしょうが、「人の心を感動させること」については、難しいんじゃないでしょうか?

それとも、目指してもいないのに『出来る!』ってことなんでしょうか?


私には「昔の創作者」が苦悩しながらやっていたことを「現在の創作者」が『へらっ』としてできるとは到底思えませんから、『出来ない!・・・・・でしょ?』と思うわけなのです。

  ※「現在の創作者」がまじめに作品作りをしていないという意味ではありません。
   昔も今も「真面目な人」も居れば「不真面目な人」もいるでしょう。ただ、本来、
   目標としていないことが目標としてもいないのに出来てしまうとしたら、という
   そういう意味で「へらっとして出来る」と言っているわけですね。


そうなると、やっぱり「その領域」が無くなる可能性が出てくるわけです。

しかもです、「感動すること」自体も昔ほど求められていないんじゃないかと言う気がするんですねぇ。


たとえば、現在の人間を見ていると感情的に希薄な印象があって、あまり、「喜怒哀楽」を表に出さない人が増えているように感じることがあります。

必ずしも感情的なことがイイことだとは思いませんが、少なくとも、「感情」が希薄であれば、当然「感動」を求める気持ちも小さくなると思うわけです。


そう考えると、現代人と言うのは昔の人に比べると、やや「感動の需要」が少ないんじゃないでしょうか?


そうなると、益々「普通の絵」=「人の心を感動させる芸術」の需要も少なく成って、『アートでイイじゃん!?』ということに成っていくわけです。

そして、実際にもそんな風に成って来ているわけです。


そういうことで、結果的に「普通の絵」が「最先端のアート」とかけ離れてしまっているんだと思います。


もしかしたら、「いま」に限って言えば、その方がイイのかも知れません。
つまり、「需要」のない所に「供給」する必要はないということですね。
少数の「感動したい人」だけが我慢すればいいのかも知れません。


ただし、これは「いま」に限った話で、『将来は?』となると、必ず「人の心を感動させる芸術」は必要に成ると思います。


でも、あんまりかけ離れてしまうと、慌てて引き返そうとしたときには、どうしていいかわからなくなっているような気もしますから、やっぱり「普通の絵」と「最先端のアート」がこれ以上離れていかないように、繋ぎ止めておいた方がイイのかなと。


そんな風に思うわけなのです。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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