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「裏・コンセプチュアル・アート」

この前、このブログで「マルセル・デュシャン」について書いたので、

今回も、それに関係したことを書いてみようと思います。


前の記事では、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプチュアル・アート」とは、

つまるところ「芸術の断片化」であり、その「断片化」が「現在の芸術」を「カルト化」させて、

「カルト芸術」と言うような状態にしてしまっているんじゃないか?と言うようなことを書いたわけですが、

『それじゃあ、どういう「芸術」ならいいのか?』ということです。

  ※ここで言う「芸術の断片化」とは芸術の中のある一部分だけを極端に強調して見せることで
   強い印象を生み出すという手法のことです。
   必ずしも、この「断片化」がワルイと言っているわけではありません。しかし、全体から切り離
   された部分だけを強調することや、本質とは無関係の部分を強調して見せるというようなこと
   は、「芸術の本質」から離れたことであって、「極化」あるいは「カルト化」と言うべきことに成る
   ので、出来ることなら避けた方がイイんじゃないか?と思っています。
   現在は、この「芸術のカルト化」が、一時のピークを過ぎて沈静化している状態ですが、その
   影響が潜在化して根強く残ってしまっているといったところだと思います。

「コンセプチュアル・アート」が持っている「反芸術」的な部分を裏返せばイイと思うんですが、

その「裏・コンセプチュアル・アート」とは、いったいどういうものに成るのか?ということですね。

と言っても、もともと「反芸術」と言う時点で「芸術」が裏返されているわけですから、

『裏返す』と言うよりも『元に戻す』と言った方が正確なのかも知れません。


まっ、「コンセプチュアル・アート」に「裏・芸術」的な面があるとすれば、

「裏・コンセプチュアル・アート」」は「裏・裏・芸術」つまり、「芸術」ってことに成りますかね。

百年たって、やっと戻ってきたってことなんじゃないでしょうか?

『まぁ、ずいぶんとお久しぶりねぇ、お帰りなさい』っていう感じですか?


さて、どういう「芸術」が、その「裏・コンセプチュアル・アート」に当たるモノなのか?

おそらく、その方向性こそが「現在の芸術」の進むべき方向を示すものなんじゃないかと思うわけです。


私は、「芸術の20世紀」において、「芸術」が「カルト化」して、

徐々に目標を見失って行ったことで、「芸術の混迷」が創り出されてしまったのだと思いますから、

その「カルト化」を裏返して元に戻すことが出来れば「混迷」からも抜け出せると思うわけですね。

それには、「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返して

「裏・コンセプチュアル・アート」にすればいいんだと思うわけです。
(まぁ、あくまで一つの考え方としてということです)


そこで、「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返すというのはどういうことなのか?と言うと、

「コンセプチュアル・アート」の特徴である「芸術の断片化」を反転させればいいわけです。


つまり、一部分を切り離したり、本質からズレたことを強調したりしないで、

「中心に向かう方向」で『最もストレートに「芸術」に取り組む』ということですね。

言い換えれば『ヒネラナイ』ということに成ります。


まさに、この「ヒネリ」と言う方法論こそが、「コンセプチュアル・アート」の本質だと思うわけです。

「創作」においても「鑑賞」においても、常にストレートな姿勢でそれにあたるのではなく、

「ヒネリ」を入れた姿勢で「芸術」に対峙するというのが

「コンセプチュアル・アート」の基本姿勢じゃないでしょうか?


それがワルイと言っているのではありませんが、そういう方法論を中心に据えてしまうと、

中心の軸がブレて本質を失ってしまうということです。

そういう「ヒネリ」の姿勢と言うのは、あくまで「裏技」的なものであって、

それを「メイン・ストリーム」に乗せてしまうと、本筋を見失うだけでなく、

「ヒネリ」自体の魅力も一気に色褪せてしまうわけです。


もし、今でも、「感動を創り出すこと」を「芸術の意味」であると考える人が居るのであれば、
(人生の指針となるような「感動」ということです)

もう一度、考えてみてほしいわけです。


その「ヒネリの利いたオモシロイ作品」で「感動」できるのか?

その「最先端のアート」はあなたの心にいつまで残るモノなのか?

その「『いいじゃないか?人気があって、みんな喜んで見ているんだから』な奇抜な作品」は

あなたの人生にどういう影響をもたらすのですか?


あくまで個人的にですが、私の中では「死ぬ時に残っていないようなモノ」は

「感動」でも「芸術」でもないと思っています。

そう言うモノは「娯楽」として捉えた方がイイと思うわけです。


「芸術」に娯楽的な要素があってはいけないとは思いませんが、

少なくとも、それを「芸術の中心」に据えてしまうと、

『じゃあ、ナニで「感動」すればいいんですか?』ということに成ってしまうわけですね。


「人生の方向を決定づけるような感動」ですね。

「生涯にわたって持ち続ける感動」と言ってもいいでしょう。

そんなに重たいものを求めて「芸術」を見る人ばかりでもないのかも知れませんが、

「芸術の必要性」と言うモノがあるとすれば、そういうところにあるんじゃないかと思います。


だから、もうそろそろ「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返して、

「裏・コンセプチュアル・アート」にして行きましょうよと思うわけです。

つまりは、それこそ「本来あるべき芸術の姿」なんじゃないのかなと。


そういう風に思うわけです。




「インター・ネット」で世界の距離は縮まったのだろうか?

『インター・ネットが普及したことで、世界が狭くなったよねぇ』と言うのはよく言われることですよね。

確かに、「インター・・ネット」にアクセスしさえすれば

世界中のどこの国の情報でもすぐに知ることが出来ますし、

かなり専門的なことでも、知ってて当たり前の常識レベルのことでもだいたい知ることが出来るわけです。

つまり、「地理的な距離」も「知識的な距離」もそれだけ縮まったということです。


ところが、「地球の裏側のこと」は瞬時にしてわかるのに、

「隣に住んでる人のこと」と成るとさっぱりわからなかったりもするわけです。

そして「隣に住んでる人のこと」は「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。


要するに、「インター・ネット」では「人と人の距離」は縮まっていないわけですね。


さらに言えば「地球の裏側に住んでいる、どこの誰だか知らない隣の人のこと」でも、

「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。

つまり、「地理的な距離」が縮まったと思っているだけで、実を言うと、それすらも怪しいわけです。


一言で言えば、「インター・ネット」で縮められるのは、

「マスコミ的な価値が認められた情報」における「距離感」だけなんですねぇ。

だから、「ミニ・コミ的な情報」、すなわち「隣の人のこと」みたいなものに関しては、

まったく「距離感」が縮まっていないということです。


しかも、これだけ「インター・ネット」を基盤に置いた社会が出来上がって来てしまっていますから、

もう、そこから離れることは、おそらくできません。

そうなると、このままドンドン「人」がバラバラに離れてしまって、

「人間同士のコミュニケーション」と言うモノの存在が希薄になっていくような気がします。


だから、せめて『「インター・ネット」では「人間同士の距離」は縮められないよ』と言いたいわけです。


「インター・ネット」の中での「コミュニケーション」に依存してしまうと、

「その人の中の人間の部分」が薄れていくような、そんな気がするわけですね。


これは「人間にとっての進化」ではなく「機械化」ですね。

つまり、生物としての「進化」には当たらないと思うわけです。

そこで「進化」するのは「人間」ではなく「社会」です。


確かに「社会」は「進化」すると思いますが、

「人間」はその「社会の部品」として使われるようになっていくわけです。

そうなれば、「人間の存在」自体も危ういといえるわけですから、

もう少し「人間同士のコミュニケーション」を復活させていった方がいいんじゃないのかなと。


さらに言うと、これは国を挙げた政策としての展開がないとできないことのような気がします。

現在の「インター・ネット社会」を見ているとこのような流れを止めることが出来るモノは、

「インター・ネットの中」には存在し得ないと思いますね。

そう言うモノは、必ず排除されるでしょう。


「インター・ネット」も「社会」も、その点では生き物と同じで、

「意思」のようなものがありますから、必ず「自己保存」を最優先します。

だから、「人間」は「社会の部品」にされてしまいますし、

「インター・ネット」の中では「インター・ネット」に有益な情報だけが流通するようになります。

当然、「インター・ネット」を不活性化するような情報はカットされてしまうわけです。


それを防ぐには、

「人間」の側もそれに対抗するような情報操作的な手段を講じる必要があるのかも知れませんね。


こういうのを特定の利益のための「情報操作」や「検閲」などと混同しない方がイイと思いますね。

むしろ、フリーな状態だと、

一方的に「人間」が「社会」や「ネット」に検閲されていると思った方がイイと思います。


まっ、取り敢えず、「インター・ネット」を「万能」だと思うのはやめた方がイイんじゃないかなと。
(と言うか、どんなものでも「万能」だと思わない方がイイと思いますけど)

『「インター・ネット」なんて、ただの道具だろ!』と言う態度が必要なんじゃないのかなと。


どちらかと言えば、「役に立たないモノ」と言うくらいに思っていたほうがイイような気がしますね。

そろそろ、そういう方向が出てきてもいいんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけなのです。 


これを言うと、

『そんなこと言っても、それをネット上で言ってたら説得力ないよねぇ』と言われそうなんですが、

『そうじゃなくて、「道具」だからそれを使ってるんですよ!』ということです。

そういう風に「インター・ネット」は「人間のシモベ」であると、はっきりさせておいた方がイイんじゃないですか?と。

まぁ、そういう風に思ったわけですね。




「感動する側の人が創り出した感動」を「感動」と言えるのか?

現在、「芸術の場」において、

『感動っていうのは必ずしも創作者が創り出すものでもないのか?』と思うことがあるわけです。

つまり、「鑑賞者」側の人が、「やや無理して」感動しているんじゃないか?と思うことがあるわけですね。


言い換えるなら、「作品」の中に見つけられなかった「感動」を

「鑑賞者」が自ら創り出してしまっているケースがあるような気がするわけです。


『なにが悪いんだい?』と言われてしまえばそれまでなんですが、

「イイ、ワルイ」はともかくとして、それ以前に、

「感動する側の人が自分で創り出した感動」を「感動」と呼べるんだろうか?と言う問題があるわけです。


確かに、それも「一種の感動」と言えなくはないんでしょうが、

少なくとも、それは「その作品による感動」ではないわけです。


そして、そういう「感動する側の人が創り出した感動」が「ホンモノの感動」であることは、

かなり稀なケースなんだと思うわけです。

そう言うモノでも、「小さい感動」であることはあるんでしょうが、

その人の人生に影響を与えるような「大きな感動」であることは少ないんじゃないでしょうか?

と言うか、それを自分で作ってしまえる人が居るならサイコーですけどね。

『無理でしょ!』っていう気がします。

やっぱり意外性に欠けるんでしょうね、自分で作ってますから。

当然、『思った通り』と言うんですか?まぁ、そうなるんだと思います。


こういうのも「芸術の20世紀」が生み出した現象じゃないかと思うわけですが、

どうして「鑑賞者」が自ら「感動」を創り出」すように成ったんでしょうか?


それは「芸術の20世紀」において「芸術」と言う概念が破壊されて、

細切れにされたことからきていると思うわけです。


固着した既成概念を破壊することを目的にするところから始まった、この「芸術の破壊」は

結果的に「芸術の本質」もろとも「芸術という概念」そのものを破壊するに至って、

最終的には、「素人には理解できない芸術」と言う「有り得ないジャンル」を生み出してしまいました。


そして、「理解を拒まれた素人」が、それでもなんとかして「芸術」に近づきたければ、

「無理してでも感動する」や「理解できなくても感動する」

それでもダメなら「自分で感動を創り出してでも感動する」ということしかなかったわけで、

そうしなければ、いつも「芸術もわからない無粋なヤツ」と言うレッテルを張られ続けるわけですから、

苦肉の策であったのだと思います。
(そんなことを意識してやっていたわけではないでしょうが)


とにかく、この「素人には理解できない芸術」というジャンルがイケナイと思うわけです。


現在では、この「素人には理解できない」ということが、

ややもすると当たり前のように成ってしまっていますが、

これは本来は「有り得ないこと」だと思います。


「芸術の本来の目的」が「言葉や理屈」では説明できないようなことを

「理屈抜きに伝えること」であるとするならば、

たとえ「素人」がどんなに理解できないようなことでも「理解できるようにする」のが「芸術」であるはずです。

つまり、「理解を超えて理解できる」のが「芸術」なんだと思うわけですね。

だから、「理解できない芸術」と言うのは有り得ないわけです。
(「伝わらない」と言った方がイイのかも知れませんが)

そんな「芸術」だとしたら「言葉や理屈」で説明した方がまだマシですからね。

  ※これは「視覚的な芸術」に限ったことではなく、「文学」などの「言葉のジャンル」でも
   ほぼ同じだと思います。「文学」は確かに「言葉を使った芸術」ですが、「言葉を超え
   た言葉」が「文学」なんだと思います。つまり「言葉であって論理でない」ということで
   すね。そういう意味では「文学」も「理屈抜きに伝える手段」であると思います。


それなのに現在は、「芸術は難しいもの」で「素人にはわからないのが当たり前」で、

『だから、いろいろ勉強して知識を持っていないと理解できないんだ』と思われてしまってます。

でも、ハッキリ言って、そうまでして「芸術」である意味がありません。

 
「言葉」で説明するよりもストレートに伝わりやすいから「芸術」が必要なんじゃないんでしょうか?

そんなに難しいなら、もう「芸術」なんて要らないんじゃないですか?


そこで得られるのは「感動」でも「共感」でもなく「虚栄心の満足」です。

つまり、「無理して」でも、「自分で創り出して」でも「感動した者勝ち」で、

専門家の提供している情報に相槌を打っていさえすれば

「自分は芸術が理解できる上等な人間なんだ」と言う気分に浸れて、

その分の「虚栄心」だけが満たされるということです。


そんなことをするための「芸術」であれば、無い方がイイと思いますね。

それに、そういうものなら、社会の中に『いやっ!』と言うほどに有ります。

それは、もはや「芸術である必要」がないモノになってしまっているということですね。


そして、「現在の芸術」は、確かにそう言うモノに成りつつあると思うわけです。


この状態は、「鑑賞者」が「自分で自分の感動を創り出すこと」をやめないと、

打開できないんじゃないかと思います。

「鑑賞者」がそれを続けて居る限り、「専門家」は「その居心地のいい寝床」を絶対に壊したりしませんから。


やっぱり、「感動」とは「受け取るモノ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。



「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのだろうか?

現在「芸術作品」を見るときに、「鑑賞者」はいったい「ナニ」を鑑賞しているんでしょうか?


まぁ、一昔前であれば、『当然、「作品の中の美しさ」を鑑賞してるんでしょ』ということだったわけですよね。

でも、これが「現在の芸術」ということに成ると、どうもはっきりしないところが出てくるわけです。


たとえば、「インスタレーション」と言う表現形態がありますけど、

必ずしも関係があるとも思えないようなモノが、いろいろと並べられていたりするのを見て、

「鑑賞者」が鑑賞しているのは、その作品の中の「ナニ」なんでしょうか?


それは、一般的に言うところの「作品の中の美しさ」を鑑賞していると言うのとは違うと思うわけです。


その並べられているモノや、並べ方、展示方法などから、

「ナニカの物語」を感じ取ってそれを鑑賞しているんでしょうか?


または、もっと単純な「オモシロサ」を鑑賞しているんでしょうか?


それとも、その作品の奥に隠された「もっと深い意味」を見つけ出して鑑賞するのが、

「インスタレーション」の正しい鑑賞法なのでしょうか?


まぁ、早い話が『見る人の自由でしょ』ってことなんでしょうが、

それはそれでいいとしても、

「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とは、いったい「ナニ」なのだろうか?

ということは考えてもイイように思うわけです。


「インスタレーション」のことはともかくとして、

「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なんでしょうね?


それが「単純な美しさ」でなくなってしまっていることは、多くの人が認めることでしょう。

「オモシロサ」を選択する人はそれなりに居るでしょうが、

こちらも『「単純なオモシロサ」でイイんですか?』と聞かれたら多くの人が躊躇するんじゃないでしょうか?


でも、だからと言って『私は「複雑な美しさ」を鑑賞しているんです』と言い切れる人も、

そう沢山は居ないでしょうし、それは「複雑なオモシロサ」でも同じでしょう。
 

さて、そうなると、いよいよ

「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なのか?

と言う疑問に対する答えが見つからないわけです。


これは、おそらく現在、「思想的な意味での芸術」が与えられている方向性と、

「実際の芸術作品」が持っている方向性が大きく食い違っていることによって、

起きてきている現象だと思うわけです。


「思想的な意味での芸術」は「作者の自己表現」と言う方向性を与えられているわけですが、

「実際の芸術作品」は「作者の自己主張」と言う方向で制作されていることが多く、

また、それでないと評価されないというところがありますから、

その二つが微妙にズレているわけです。


そして、その状態が百年ほども続いていますから、ズレが大きくなってしまったわけですね。


「自己表現」と「自己主張」の主な違いは、

「自己表現」が「ありのままの自分」を現そうとするのに対して、

「自己主張」は「自分のいい所だけ」を現そうとするということですね。

しかも、出来れば、その「自分のいい所だけ」をできるだけ誇張して大きく見せようとするわけです。


そして、これが一番大きな食い違いに成っていると思いますが、

「自己表現」においては「作者」は「何らかの犠牲的な力を使う」ことに成りますが、

「自己主張」においては「ほとんどの力が作者自身のために使われる」ことに成るわけです。


結果的に、「自己表現」において、「鑑賞者」が鑑賞するモノとは、

「作者の苦悩」である場合が多く成るはずですが、

「自己主張」においては「作者の喜び」を「鑑賞者」が鑑賞することに成るわけです。


どちらを鑑賞したいと思うかは、人ソレゾレでしょうし、

「好みの問題」なんでしょうが、この「食い違い」を意識しないで「芸術」を鑑賞してしまうと、

『あれ?いったい「ナニ」を鑑賞したんだろう??』ということに成りかねないと思います。


「作者の苦悩する姿」に共感するという人は

「自己表現タイプの作品」を見た方がイイと思いますし、

「作者の喜び」に共鳴するという人は

「自己主張タイプの作品」を見ればいいんだと思うわけですね。


ただし、ここで言っておきたいのは、「心の動き」と言うのも物理法則のようなもので、

必ず「作用と反作用」があります。


「自己表現タイプの作品」を鑑賞した人は

「作者の苦悩」に共感することが出来れば、その「反作用」として「自分の苦悩」を解消することが出来るでしょう。


でも、「自己主張タイプの作品」を鑑賞した人が「作者の喜び」に共感した場合は、

「自分の苦悩」が解消されることは無いと思います。

そして、下手をすると、「作者の喜び」の「反作用」で「自分の喜び」が失われることに成る」わけです。


まぁ、100%当てはまるとは思いませんが、こういうことを理解するうえでも、
 
「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのか?ということは考えてみてもいいのかなと。


そんな風に思いました。





昔はどこにでもあった「達成感」が、今は無くなってしまった

かなり昔の時代までは「達成感」って生活の至る所にあったんじゃないのかな?と思うわけです。

ところが「現在」と成ると、「達成感」は随分少なく成ってしまったような気がするんですねぇ。


たとえば、「狩猟民族」であれば「獲物を取った時」ですね。

これは、もう「マックスに近い達成感」だったに違いないでしょうし、

「美味しい木の実を見つけた時」くらいでも「かなりなハイテンション」だったに違いありませんよね。


「農耕民族」だって、収穫は一年に一回と言うわけでもなく、

季節ごとにいろいろな作物が取れるわけですから、

そのたびに「マックスに近い達成感」は味わっていたんじゃないでしょうか?


もちろん、「現在」に比べれば「生活の中の苦労」も比較に成らないくらい多かったんでしょうが、

少なくとも「達成感」に限って言えば、

毎日たくさんの「達成感」で満たされていたと言えなくもないような気がしてくるわけです。


それに比べて「現在」はどうでしょうか?

ナントナク生活の中に「達成感」が見つけにくい感じがするわけですねぇ。


たとえば、「仕事」ですが、

ほとんどの「仕事」がルーティン・ワークでしょうし、

達成していても「達成感」は無いというのが実情ではないかと思います。

昔とほぼ同じ作業をやっている時ですら「達成感」だけは無いという状態なんですねぇ。


まぁ、「達成感」に満ちあふれた「心ときめくお仕事」をされている方もいらっしゃるのかも知れませんが、

滅多に居ないでしょうから、無視して話を進めます。


取り敢えず、この『達成していても「達成感」が無い』と言うのが、

現代社会の特徴ではないかと思うわけです。


これはおそらく、「情報のマスコミ化」からきているんだと思いますね。

せっかくナニカを達成しても「より多くのナニカ」を達成した人と比べてしまうと

肝心の「達成感」が無くなってしまうわけですが、

「最も達成している瞬間の人」だけが「マスコミ化した情報」に成って流されるわけですから、

その「マスコミ化した情報」に常にさらされている現代人は

絶対に「達成感」を持つことが出来ない仕組みになってしまっているということです。


もし、どうしても「達成感」を得たいなら、

常に「最高に達成した状態」をキープし続けなければならないわけですから、無理でしょう。


あとは、よく言われるところの

『そんな競争心は捨ててノンビリ気楽にやればいいじゃない?』と言う考え方ですね。

確かに、その通りだと思いますが、

現在、そういう考え方をすると、「競争心」と一緒に「達成感」も捨てなければならなくなるということです。


過剰な「競争心」を捨てることは、イイことかもしれませんが、

現在の「マスコミ化した情報」は「競争心」を根こそぎ捨てることを要求してきます。

それでないと、またすぐに「達成感」を感じられなくなってしまうわけです。

それだけ「マスコミ化した情報」の影響力が強いということですね。


そして、「競争心」を根こそぎ捨ててしまうと、

結果的には、ほとんどの「達成感」も失われてしまうわけです。

つまり、「達成感」自体が一種の「競争心」から発生しているという部分があるわけですね。
(「競争心」のすべてがワルイということは無いと思いますよ)


こういったことで、現代社会においては

「達成感」と言うモノが極めて感じ難く、また、極めて持続しにくいものに成ってしまっているわけです。


こういう状況から脱するためには、「マスコミ化した情報」から抜け出す必要があるでしょうが、

「マスコミ」を廃止するのは無理でしょうから、「情報」を制限する必要があるわけです。


なにかにつけて「報道の自由」と言われますが、

『本当に報道が自由な方がいいのか?』と言う問いが完全に抜けています。

そういうことを考えていくと「無制限の自由」がイイとも限らないということが見えてくるわけで、

盲目的に『自由がいいに決まっている』と言っているだけだとしたら、

「ホンモノの自由」なんて守れるわけがありません。


やはり、「人間を苦しめる情報」については、

無い方がイイに決まっているわけで、そんなものを守ることを「自由」とは言わないでしょう。


このことに限ったことでもないですが、

「マスコミ」がもう少し「実質的な価値のある情報」を提供してくれるようになればいいと思うわけです。


つまり、やや特殊な「達成されたモノ」や「達成した人」の「情報」ではなく、

ごく一般的に「誰もが達成感を得るための情報」ですね。


そうすれば、現代社会は物質的にも精神的にも、非常に豊かな世の中に成るような気がします。

その「豊かさ」と引き換えにするぐらい「重要な情報」って、

いまマスコミが提供している情報の中に、どれだけあるでしょうね?


少なくとも、いま自由が守られている情報と言うのは、

ほとんど「どうでもいいような情報」で、本当の意味で「報道の自由」が守られているべき情報については、

必ずしも自由な状態ではないわけです。

そんな中で「報道の自由」を盲信していると、

かえって、「情報操作」されやすく成ってしまうんじゃないのかなと。


まぁ、話は完全にそれてしまいましたが、

そういう風に思ったわけなのです。




「長い題」=詩のような題(その5)

「長い題」(その5)です。
どうやら、「題」の方が早いペースで出来るみたいですねぇ。
困ったもんです。

たぶん、あまりこだわりが無いんだと思います。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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うつくしいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら

ただ それを かってくればいい


みにくいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら

ただ それを すててしまえばいい


さて それなのに 

『よのなかの すべてのものは あまりにも うつくしく

よのなかの すべてのものが あまりにも みにくい』


きっと こういうふしぎなことは

ずっと わからないまま なんだろう

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いま このえのまえに たっている あなたへ


このえを みてくれて ありがとう

こんなえを みてくれて ありがとう

このえを みても ひどく がっかりしないでいてくれて ありがとう

このえを みても くずのようなえだと いわないでいてくれて ありがとう


もしも ちがっていたら とりけしますけど

でも 『とりあえず いまのところは ありがとう』

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えいえんという しゅんかんに とじこめられた くうかん

そんなせかいに いきている


そういうことは

だれの めにも あきらかで

だれの あたまにも あきらかで

だれの こころにも あきらかな

じじつと いっても いいことで 


えいえんという ときが いま このしゅんかんに すっぽりと 

ありとあらゆる すべてのものが ひとつのてんに すっきりと

おさまってしまうという あたりまえのこと


それこそが このよのなかの なりたちの

それこそが あらゆることの なりゆきの

それこそが すべてのいのちの ありかたの

『だいたいのことの もと になっている』

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なにかが できたことなんて いちどもない

なにもできなかったことなんて たくさんある

そんな ぼくが いまも なにかを しようとしている


だから そのぶんだけ ぼくは えらい


だから なにかを しようとしているひとは 

みんな すこし えらい


きみが もし なんにもできないひとならば

『きみも すこし えらい』


いま このえのまえに たっているきみは

きっと なにかを しようとして そこに たっているんだから

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『ねじれて ねじれて ひっくりかえる』

ひっくりかえって まっさかさま 


うえと したが まっさかさま

まえと うしろも まっさかさま

どこも かしこも まっさかさまで なにが なんだか わからない

わからないから かんがえる 

わからないけど かんがえる 

かんがえないと とまってしまう


とまってしまうと いきられない

つまりは そういうことなんですね

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『ひかりの ちから』 ひの ちから

ひかりの ちからは ひの ちから

ありあまるほど ふりそそぐ

みんなのうえに おなじだけ

ありあまるほど ふりそそぐ


そんな ひかりのちからが すべてをつくる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『かえりたい かえりたい』 

どこかに むかって かえりたい

でも ぼくは いったい どこから やってきたのだろうか

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『きげんに かえろう』 きげんに

きげんに くらし 

きげんに いきて

きげんに しんでいく

そうすれば きっと なにかが わかるだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『いろのかたちと かたちのいろ』


どんないろが うつくしい 

すべてのいろが うつくしい

どんなかたちが うつくしい

すべてのかたちが うつくしい


いろとかたちで 

すべてのものが うつくしく 

すべてのものが すばらしく

ひかりかがやいて いるようだ

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ひかりのなかに やみがあり

やみのなかを ひかりがはしる

まぶしい ひかりが またたいて

その むこうでは どすぐろい やみが うずをまいている


『はたして そんななかで

ぼくは なにを えらびとることが できるだろうか』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみの すがたを みせてほしい
      
いや ちがうよ それじゃない

きみが じまんにおもっている そのりっぱなすがたじゃなくて

きみのなかの かたすみで ちいさくなっている

そっちのすがたを みせてほしいんだ
 
       
きみは それをみせるのが いやだから 

くすんだいろで ぬりつぶしているけど

ぼくは そっちが みたいんだ 
 

その いろは はじのいろ

そんなものじゃあ かくせない

どうやったって かくせやしない

 
かくしておくには うつくしすぎる

かくしておくには すばらしすぎる


だから その きみの ほんとのすがたを みせてほしい

みんな うつくしいものが すきだから

       
『きみが だれでも それは かまわない』




「二種類の好きなモノ」と「二種類の嫌いなモノ」

主に芸術作品についての「好み」に関するお話です。


「好み」と言うと、「好きなモノ」と「嫌いなモノ」のことを指す場合が多いわけですが、

実は、その「好きなモノ」や「嫌いなモノ」には、二種類あるような気がしているわけです。


つまり、「普通に好き(または嫌い)なモノ」と「やや屈折して好き(または嫌い)なモノ」の二種類ですね。


「普通に好きなモノ」は、

「居心地がいいモノ」とか「心を和ませてくれるモノ」のような、

まぁ、言ってみれば「ほぼ無条件に気持ちいいモノ」ですね。


「やや屈折して好きなモノ」は、

「違和感があるけど気に成るモノ」とか「本当は好きなんだけどそれを認めたくないモノ」みたいな、

「必ずしも気持ちよくないモノ」です。


「普通に嫌いなモノ」は、

「見て居たくないモノ」とか「見ると嫌な気持ちになるモノ」のように、

「ほぼ無条件に嫌なモノ」です。


そして、「やや屈折して嫌いなモノ」は、

「好きな要素と嫌いな要素が両方あるモノ」とか

「本当は好きでもなんでもないんだけど、それを好きな自分が好きっていうモノ」のように、

「本当は嫌いなのに、それを嫌いと言うのにい躊躇するモノ」です。


さて、それで何が言いたいかと言うと、

すごく「好き(嫌い」なモノ」っていうのは、

実は「屈折して好き(嫌い)なモノ」の方なんじゃないか?ということです。

 
まぁ、「嫌いなモノ」について、『どっちがスゴク嫌いか?』を考えるのは、

あまり有意義な感じがしないので、取り敢えず、ここでは「好きなモノ」に話を絞ります。


少なくとも「好きなモノ」に関して言えば、

「普通に好きなモノ」よりも、「屈折して好きなモノ」の方が、

かなり「好き度」が高いような気がしますね。


これは、なにも「芸術作品」に限ったことではなくて、

「食べ物の好み」なんかでも、はじめのうちは抵抗があって食べられなかったモノが

いつの間にか好物に成っているというようなことはよくあると思います。

そして、そう言うモノに限って「大好物」に成るということも、またよくあるわけです。


それと同じように、「芸術作品の好み」においても、

やはり、「屈折して好きなモノ」が「すごく好き」に成ることが多いと思うわけですね。


しかも、「芸術作品の好み」に関する限りは、

ほとんどの場合、「本当に好きなモノ」は「屈折して好きなモノ」なんじゃないか?と思うわけです。


一見すると、「普通に好きなモノ」=「ほぼ無条件に気持ちいいモノ」なわけですから、

『そっちの方がイイに決まってるでしょ!』っていう感じなんですが、

「無条件に気持ちいい」ということが、ある意味では「ぬるま湯」を意味しているわけで、

それは、確かに「気持ちいい」かもしれませんが、「切実なほどの好き度」ではないわけです。


つまり、「心を締め付けるような感動」は、そこにはないんだと思うわけです。

それは「好き」ではあっても、「どうしよもなく好き」ではないということですね。


そして、「芸術」と言うのは、

その「どうしようもなく好き」を求めて鑑賞するモノなんじゃないか?と思うわけです。


だとすれば、やっぱり、「芸術作品の好み」においては、

ほとんどの場合、「本当に好きなモノ」とは「やや屈折して好きなモノ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけですが、

そういうこと以前に、「自分の好み」について、

『これを好きと言ったら、人がどう思うか?』とか、

『これを嫌いと言うとカッコ悪いんじゃないか?』と言うようなことで、

「好き・嫌い」を本当に素直な状態で言える人が、とても少ないということが、

とても悲しいことだなと。


本当の所、「自分が何を好きなのか?」ということがわかっている人ってどれくらいいるんだろうか?
(単純に見栄とか対面とかを抜きにしてというだけの意味でもですね)

そんな風に思ってしまうわけなのです。





「芸術」においては「好み」で鑑賞する時代は終わっていくと思います

「芸術」を鑑賞する時、

ほとんどの人が「好きなモノ」を見に行くでしょうし、

「嫌いなモノ」は見に行かないでしょう。

つまり、「好み」で鑑賞しているわけですね。


でも、「芸術」を「好み」で鑑賞する時代は終わっていくんじゃないかと思うんですねぇ。

  ※ここでは、一つ前の記事で書いた「普通に好きなモノ」と「普通に嫌いなモノ」のことを
   「好み」と言っています。


こんな風に言うと、『好きなものを見て何がワルイんだ?』と言われるでしょうが、

別に『ワルイ』ということじゃありません。

ただ、そう成って行くだろうということです。


『好きなモノを見る』=これは当然。

『嫌いなモノは見ない』=これも当然。

なんですが、問題は『当然なモノだけだと、ややツマラナクないですか?』ということなんです。


これは「芸術」のことだと話が通じにくくなりますが、

他のことだと、わりと当たり前のこととして通じることなんじゃないかと思います。


たとえば、「食べ物」のことで言うと、

少なくとも「食」を文化として考えた場合は、「好み」だけですべてを決めてしまうことは、

「ややツマラナイこと」なんじゃないのかなと思ってしまうわけです。


それじゃ、「カップ・ラーメン」が好きな人は、

「懐石料理」や「フランス料理」を理解することも出来ないでしょうし、

どこか知らない国の「ジャンク・フード」のことですら、

その国の食文化としてのその「ジャンク・フード」の意味をを理解することは出来ないでしょう。


『なにがワルイんだ!そんなに気取ったものを喰わなきゃいけないのか?』

いや、だから、ワルイということじゃありません。

でも、『ツマラナクないですか?』ということですよね。


少なくとも「食べること」を一つの文化として考えた場合、

「好きなモノ」だけ食べ続けるというのは、「ややツマラナイこと」じゃないかなと思うわけですね。


海外旅行に行っても、その国の料理を食べないという人が居ますけど、

そういうのって、旅行に使った費用の何分の一かを捨てているようなものだと思いませんか?
(ツアーであてがわれた観光客向けの「その国の料理」も「ツマラナイモノ」だとは思いますが)


これは「芸術」でも同じで、

やはり、「好み」だけで「芸術」を判断してしまうことと言うのは、

「ツマラナイこと」なんじゃないかと思いますし、

それは、芸術鑑賞に使った費用や時間を無駄にしてしまうことだと思うわけです。


と言うか、「芸術」の場合は、そこのところが「食べ物」なんかよりもずっと大きくて、

「芸術」を「好み」だけで判断してしまうことは、

「非常にツマラナイこと」なんじゃないか?

いや、それどころか

『それじゃあ「芸術」を鑑賞したということに成らないんじゃないのか?』とすら思うわけです。


もちろん、「嫌いなモノ」を無理して食べろとか、無理してでも見て勉強しろということじゃないですよ。

そうじゃなくて、「食べ物」を「料理」として考えるのか、それとも「餌」として考えるのかということです。

「芸術」で言えば、「単なる絵」として見るのか「自己表現としての芸術」として見るのかということですね。


「現在の芸術」が「自己表現」として成り立っているものだとすれば、

「芸術」を鑑賞するということは、すなわち、「作者そのもの」を見せつけられるということです。

その「作者そのもの」が「鑑賞者にとっての心地よいもの」であることは、むしろ稀だと思います。


基本的に「他者」と言うのは「他者」であればあるほど強い違和感を与えるわけで、

それが、「ただ単に好きなモノ」であることは、ほとんど無いといっていいんじゃないでしょうか?

つまり、「好み」だけで判断していれば、「自己表現としての芸術」に出会うことは出来ないということです。


しつこいようですが、ワルイということじゃありません。

どういう見方をしてもいいと思います。


ただ、それが「ツマラナイ見方」に成っているとしたら、

また、それを「ツマラナイ見方」だと思う人が居るとすれば、

それにも、それなりの意味があるだろうということです。


べつに、「カップ・ラーメン好きの人」を低く見るつもりもありませんし、

「懐石料理」や「フランス料理」がエライとも思いませんが、

「好み」だけで物事を判断することは意外と「了見の狭いこと」だということを言いたいわけです。


『「あなたの好きなモノ」を見ればいいんですよ』と言えば、自由な考え方に聞こえるかもしれませんが、

それは「偏見」と紙一重の「了見の狭さ」を含んでいるということですね。


そして、当然、そうした「好み」だけで選ばれた「居心地のいい芸術」と言うのは、

「現在の芸術」としての意味が薄いわけですから、

結果的に「そういう芸術の在り方」は終わって行くんだろうなと思うわけですね。
(「現代の芸術」としての意味が薄いモノの方が、現在、評価されているという矛盾がありますけど)


「芸術作品」を鑑賞する時に、

そこに「とてつもないチカラ」が注ぎ込まれた作品と、

ただ単にサラっと作られた作品を比べて、

『こっちの方が好き!』っていう見方をすることに、大した意味があるとは思えませんし、

そういう鑑賞の仕方も終わって行くんだろうなと。

だって、それじゃあ「芸術である意味」がありませんから。

テレビや雑誌を見ていればいいわけです。
(まぁ、それらも広い意味では芸術でしょうが)


要するに、これからは「その作品に注ぎ込まれた力」を鑑賞するように成っていくと思うんですね。

つまり、「その力」の「量と質」を鑑賞するようになると思うわけです。


それは、むしろ、当然の成り行きなんじゃないでしょうかと。

そんな風に思っているわけです。





「進化論」が発見された理由

「進化論」って、いったい何のために発見されたんだろうか?ということを時々考えるわけです。

「人間」が大昔には「類人猿みたいなもの」だったということがわかって、

なにかトクなことがあるんでしょうか?


『いや、キミ、そういうことじゃなくって、学術的な問題だろ!』ということなんでしょうが、

それとは別に、「進化論」には

「ダーウィン」も気づいていなかった「別の意味」があるんじゃないか?と思うわけです。


「ダーウィン」が気が付かなかったと言うよりも、

時代が進んだことで、その「別の意味」が現れて来たといった方がいいかも知れません。


つまり、人間が「進化という法則」が存在することを知ったことで、

いま生きている人間は、近い(いや、遠いか?)将来自分たちの子孫が、

チガウ生命体に変化しているということを予測できるように成ったということです。

要するに、「過去」の「類人猿」の話ではなくて、

「未来」の「人類の進化形」についてのことを人間自身が先回りして考えられるようになったということです。


そして、実は、その為にこそ「進化論」は発見されたんじゃないんだろうか?と私は思うわけなのです。

つまり、自分が「未来の人類の進化」に貢献しているという感覚を持って生きられるということですね。

これは、現在のわれわれにとっては、まだピンとこないことかも知れませんが、

いつかはこのことが実感できるように成っていくんじゃないかと思いますねぇ。


今、自分が行っている行為や持っている意識が、

「のちのちの人類」を決定する要素になっていくということは、

もはや動かしがたい事実と言ってもいいほどなわけで、

それが正しいかどうかということではなくて、人間がそれを意識しないではいられなくなっていくわけです。


そうなると、『人生が俄然充実してきます!』なんてことは無いかもしれませんが、

少なくとも、少しだけ「生きる目的」が見えてきます。


現代人と言うのは、「生きる目的」を見失いやすい条件の下に生きているんだと思うわけです。


そんなことを考えている暇がないくらいサバイバルな日々を送っていた昔の人たちは、

毎日の瞬間瞬間、つまり「その時やってること」こそが「生きる目的」であったんだと思います。


しかし、現在はそこまでサバイバルじゃないですから、

かえって、「生きる目的」が見えにくくなっているわけです。


だからと言って、数百万年後とか数千万年後の人類(もう人類じゃないか?)に対して、

今自分がやっていることが、【「天文学的な数字」分の一】の貢献をしているなんていうことが、

今の自分の人生にどれ程の充実感を与えてくれるのか?と言うのも甚だ疑わしいことではあります。

ただ、それでも、なにも無いよりはマシだと思うわけです。


それに、現在、一般的に「充実した人生」と考えられているような「人生」とは、

実は、「虚栄心を満たされているだけの人生」であったり、

「自分の行為に対する見返りに満足している人生」であったりすることが多いわけで、
(「行為自体」に満足しているんじゃなくて「見返り」に満足している場合が多いですね)

それらは本当の「充実感」とは言えないような気もします。


そう考えると「未来の人類に対する貢献」と言う、、メマイがするほど遥か彼方の話には、

かなり小さめではありますが、「ホンモノの充実感」があるのかもしれませんよと。


まぁ、そんなことを考えてみました。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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