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Archive2018年02月 1/2

「裏・コンセプチュアル・アート」

この前、このブログで「マルセル・デュシャン」について書いたので、今回も、それに関係したことを書いてみようと思います。前の記事では、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプチュアル・アート」とは、つまるところ「芸術の断片化」であり、その「断片化」が「現在の芸術」を「カルト化」させて、「カルト芸術」と言うような状態にしてしまっているんじゃないか?と言うようなことを書いたわけですが、...

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「インター・ネット」で世界の距離は縮まったのだろうか?

『インター・ネットが普及したことで、世界が狭くなったよねぇ』と言うのはよく言われることですよね。確かに、「インター・・ネット」にアクセスしさえすれば、世界中のどこの国の情報でもすぐに知ることが出来ますし、かなり専門的なことでも、知ってて当たり前の常識レベルのことでもだいたい知ることが出来るわけです。つまり、「地理的な距離」も「知識的な距離」もそれだけ縮まったということです。ところが、「地球の裏側の...

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「感動する側の人が創り出した感動」を「感動」と言えるのか?

現在、「芸術の場」において、『感動っていうのは必ずしも創作者が創り出すものでもないのか?』と思うことがあるわけです。つまり、「鑑賞者」側の人が、「やや無理して」感動しているんじゃないか?と思うことがあるわけですね。言い換えるなら、「作品」の中に見つけられなかった「感動」を、「鑑賞者」が自ら創り出してしまっているケースがあるような気がするわけです。『なにが悪いんだい?』と言われてしまえばそれまでなん...

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「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのだろうか?

現在「芸術作品」を見るときに、「鑑賞者」はいったい「ナニ」を鑑賞しているんでしょうか?まぁ、一昔前であれば、『当然、「作品の中の美しさ」を鑑賞してるんでしょ』ということだったわけですよね。でも、これが「現在の芸術」ということに成ると、どうもはっきりしないところが出てくるわけです。たとえば、「インスタレーション」と言う表現形態がありますけど、必ずしも関係があるとも思えないようなモノが、いろいろと並べ...

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昔はどこにでもあった「達成感」が、今は無くなってしまった

かなり昔の時代までは、「達成感」って、生活の至る所にあったんじゃないのかな?と思うわけです。ところが「現在」と成ると、「達成感」は随分少なく成ってしまったような気がするんですねぇ。たとえば、「狩猟民族」であれば「獲物を取った時」ですね。これは、もう「マックスに近い達成感」だったに違いないでしょうし、「美味しい木の実を見つけた時」くらいでも「かなりなハイテンション」だったに違いありませんよね。「農耕...

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