FC2ブログ

「コレクションの対象」にしてもらいたいモノ



芸術の「コレクション」は、「作品」を対象にして成り立っているわけですが、そのことによって、一部の芸術作品の値段があまりにも高騰してしまうために、芸術全体の中で限られている利益が、ほとんど有名作品に集中してしまって、無名の作家には、あまりにも利益が行きわたらないように成ってしまっているわけです。


そういう状態が続いて行くことは、底辺の崩壊につながるわけですから、出来ればそのような状態を打開した方がイイと思うわけですが、やはり、「コレクション」の対象が「作品」であり続ける限り、この状態からは抜け出せないような気がするわけですねぇ。


まぁ、当然のことなんですが、「作品を買うこと」で「コレクション」が成り立ちますから、「高価な作品」ほど「コレクションとしての価値」も高くなりますし、自分が所有している「作品」が高騰すれば「コレクタ―としての評価」も上がっていくわけですよね。

そうなれば、当然、市場全体がそういった方向性で動いていくことに成るわけですね。
つまり、市場に参入している人たち全体にとって、「作品の価格」が向上していくことが望ましいことに成るわけですから、当然、みんなが望んでいる方向、つまり「価格高騰」へと市場が動いていくことに成るわけです。

それで、どうしても『なんでこの価格??』ということが出てくるわけです。
(私としては「芸術作品」を売買すること自体にも疑問を持っているんですが)


こういう状態を打開するには、「コレクションの対象」が、「作品以外のもの」に成ればいいと思うわけです。
(難しいのはわかってますけどね)


もともと、「コレクション」の本当の価値は、所有している「作品の値段」などではなく、それどころか「作品の価値」ですらないはずです。

『じゃあ、ナニの価値だと言うんだい?』
それは、「そのコレクターの審美眼の価値」ではないかと思うわけです。


「作品の価値」は、あくまで「その作品とその作者」に帰属する「価値」であって、「コレクションとコレクター」に帰属する「価値」ではないということですね。

本来の「コレクションの価値」は「創作者側」ではなく、「コレクター側」にあるべきものだということです。

よく考えれば当たり前のことなんですが、現在の「芸術市場」においては、こういうことがまったく成り立っていませんよね。
(それだけ「創作者」と「鑑賞者」の間の力関係に落差があるということでもあります)
それでいて、意図的&操作的に作品の値を引き上げてしまうような市場の在り方は否定されません。

しかも、そういう市場の流れにうまく乗った「コレクター」が評価されていたりします。
(そういうのは、本当は「投資家」としての評価だと思うんですけどね)


本来は、そのコレクターがいかに素晴らしい芸術作品を見つけ出して来て、それをコレクションしているか?ということ、つまり「コレクターの審美眼」こそが、「コレクションの評価対象」に成るべきものだと思うわけです。


この二つは、一見、同じことのように見えるかもしれませんが、逆の部分があります。

たとえば、「作品」が「コレクションの対象」である場合は、もともと高額の「作品」を買っても、その「コレクションの価値」「が高くなりますが、「審美眼」が「コレクションの対象」に成った時には、既に高い評価を受けている高額の作品を買っても、その「コレクターの評価」は上がりません、。

まだ評価されていない作品をコレクションしていることで、はじめて、そこに「審美眼的コレクションの価値」が発生します。


もちろん、評価されていないだけでなく「評価されていないのに素晴らしい作品であること」が求められるわけですが、少なくとも、「既に評価の定まった作品」は、はじめから「コレクションの評価」の対象に成らなく成るわけです。
(それ以前に、「意図的&操作的~」は論外ですけどね)


そうなれば、「コレクター」としての信念や誇りがあるような人は、今よりはもう少し「無名な作品」を追いかけるようになるでしょうね。


今後、「作品」ではなく「その作品をそのコレクターがコレクトしていた状況」が鑑定書のような形で証明されるように成って、その「コレクション証明書」のようなものが、「芸術作品の代替物」として流通するように成って行けば、「芸術市場」もほんとうの意味で活性化するんじゃないかと思うわけです。

 ※たとえば、「コレクション証明書」を所有している者が、その「コレクション証明書」
  の評価レベルに応じた割合で、その後「その作品から発生した利益」の一部を著
  作権のような形で受け取る権利を与えられるというようなことです。
  つまり、「コレクション自体の評価」=「コレクターの審美眼の評価」が高くないと利
  益も得られないようなシステムということですね。

  これは、もしかすると、結果的には、最近増えている「クラウド・ファンド」というもの
  に近いのかも知れません。
  ただ、私は、そういうことに詳しくないのでよくわかりません。

こういうことが確立されて行けば、現在のような、芸術の市場が存在することによって芸術自体が蝕まれていくという自家中毒的な状況」から抜けられるんじゃないかと思うわけです。


『いやいや、そうウマクはいかんのだよ!キミィ』

「そうでしょうね」

でも、少しくらいは「芸術の市場」が変化するかもしれませんよ。


少なくとも、現在の「投資」や「投機」としか言いようのない「芸術市場」が、誰のために成っているのか?ということを考えれば(まぁ、「バブル経済」と同じですね)、「コレクター」の人たちにとっても、少しは「市場の変化」が必要なときなんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。




「芸術」における「ホンモノ」とは?



「芸術作品」を見たときに、「ホンモノ」だなと感じるモノと、『いいんだけど、そこまでじゃないな』と感じるモノがあるわけですが、その判断の規準ってどこなんでしょうね?


そういうことの規準は、あくまで「人それぞれ」と言うことなんでしょうが、そう言ってしまうと話が終わってしまうので、自分が規準としていることを考えてみるわけです。
(こういうの、意外と自分でもわかってないんですよねぇ。ブログを書くようになって気が付きました)


私の場合は「思想」や「思考」が「ホンモノ」の規準ですね。

つまり、「思想」や「思考」が希薄なモノは、私にとって「ホンモノ」ではないということですね。
もちろん「作品」がスバラシイにこしたことはありませんが、その前に「思想」や「思考」の面で分厚いしっかりしたものが感じられない場合は、その時点で「ホンモノ」からは除外です。

どんなに「スバラシイ作品」でもです。


と言うか、そう言うモノを「スバラシイ作品」だと思えないんですね。

私は「現在の芸術」においては、「意味を創り出すこと」が「芸術の本質」であると考えていますから、「スバラシイ作品」でも、「その作品の中で創り出された意味」が感じられない場合は、「ホンモノ」とは思わないですね。


絵が上手なら、「スバラシイ絵」を描くことは出来ますが、その絵の中に「意味」を創り出すためには「思想」や「思考」が必要だと思います。

それでなければ、単なる「上手な絵」にすぎません。
それを「ホンモノ」と呼ぶ気はしませんね。


その「作者」が自分なりの「意味」を創り出したときに、その「作品」が「ホンモノ」に成るんだと思っています。


「思想」や「思考」がしっかりしていれば、必ず「スバラシイ作品」が出来るとは思いませんが、「思想」や「思考」がしっかりしていれば、「それなりの作品」は出来るハズだとは思います。

まぁ、何十回に一回くらい「スバラシイ作品」もできるかもしれないですね。
でも、そういうことは問題じゃないと思います。


力強い「思想」や「思考」と言うのは、「技術」や「センス」で現すものなんかじゃないと思いますね。
それは自然と現れるものだと思いますよ。

ただ、それがとてもよく表現出来て、見た人にうまく伝わる時と、そうでもない時があるというだけですね。


「技術」を使わないということではなく、それは「道具」に過ぎないということです。


だから、「技術」や「センス」自体を「見せ場」にしている作品には、どうしても「強い思考」を感じることが出来なく成るわけです。


「鑑賞者」としては、どうしても「技術」や「センス」を見せつけられると、抵抗できないところがあると思うわけですが、そこのところをチョットこらえて、「その作品のウマサ」と対峙して、その後ろにある「思想」や「思考」を見通して鑑賞するという見方があってもいいような気がします。


ハッキリ言ってしまえば、「思想」や「思考」がないモノは、いつか消えてしまうと思いますね。

一年後に消えるのも、百年後に消えるのも、「芸術」として見た場合は、たいして変わらないことのような気がします。


だから、何年後まで残っていたら「ホンモノ」っていう話でもなくて、やっぱり、力強い「思想」や「思考」があるモノが「ホンモノ」なんじゃないのかなと。

世間的・美術史的に『残る』というよりも、そう言うモノは、見た人の中に、『「死ぬ時」まで残る』と。


そんな風に思っているわけですね。





「虚栄心」と言う「罠」



「虚栄心」と言うのが、どうも好きじゃないですね。
だから、逃れたいなと思うわけですが、好きじゃないくせになかなか逃れられないわけなのです。


まぁ、自分のことで言えば、絵を描いていますから、、そこのところで少しは自慢できることでもあればいいんですが、なにせ「実績ゼロ」なんで、何一つ自慢できることが無いんですねぇ。

すると、そういうところに「虚栄心」が入り込んでくるわけです。


それなりに真剣にやっていますから(本当はモノスゴク真剣にやってます)、「実績ゼロ」っていうのがどうもバツが悪いと言うんでしょうか、気軽にやってる人が『趣味でやってるんですよねぇ』と言う場合は、「実績」が無くてもそれほど気に成らないかも知れませんが(御本人にすれば、そんなことないですよね)、「ど真剣」にやってるので、きっと、人から見たら、『あんなに真剣にやってるのに実績が無いと言うことは、ソートー無能な奴に違いない』と言う感じに見えるんだろうなと思うわけです。
(まぁ、このブログもかなり真面目にやってるのに、まったく相手にしてもらえない所は同じですけど)


そこで、チョットだけでもマシに見えるような「いい言い訳」は無いだろうかと考えてしまうというわけです。
(そして、無いんですけどね)


自分の話はともかくとして、この「虚栄心」と言うのが「タチの悪い罠」だなと思うわけです。

つまり、「虚栄心」と言うのは、満たされれば満たされるほど不幸に成るという性質があると思うわけですねぇ。


ほとんどの人が、「虚栄心」を追いかけることで自分の本質を見失ってしまうことが、良くないというのはわかっていても、「虚栄心」が満たされた時に得られる快感が欲しいために、そこから抜けられなくなるわけです。

要するに「虚栄心」は満たされれば幸せになれるものだと思ってしまうわけですね。


でも、実は「虚栄心」が満たされて得られる快感はほんの一瞬のもので、その後は、それ以上の「虚栄心」を満たさなければ快感を得られなくなるという「罠」に成っていて、そういった「サイクル」が出来上がってしまうと、だんだん「虚栄心」が満たされているという実感は小さくなって、ひとつの「虚栄心」を満たした瞬間には、次の「より大きな虚栄心」を満たさなければならないという「サイクル」に、次から次へと追い立てられるようになっていくわけです。


どんなものでも、最終的に幸福に成らないのであれば意味が無いと思いますから、そういう「虚栄心」なんて、出来るだけ捨ててしましたいなと思うわけですが、そういう「虚栄心」でも、完全に捨ててしまうのは難しくて、人間、生きている限りは少なからず「自負心」や「プライド」みたいなものもありますし、それが全くないという状態も、決していい状態ではないと思いますから、
(それは一種の「死」だと思います)

そういうところで「虚栄心」も完全に断ち切るのが難しくなるんだと思います。


さて、そこでどうするか?ということに成ると、取り敢えず、「虚栄心」に、囚われそうなときには、『その「虚栄心」がどんなに理想的に満たされたとしても、絶対に幸せには成らないよ!』と自分に言い聞かせるというくらいしか手立てがないというのが現実です。

でも、それくらいでも十分なのかなとも思いますね。

『まぁ、いいんじゃないの?そんなもんで』
(すごく適当な言い方だけど)


何はともあれ、「虚栄心」とは無関係な所で、「ど真剣」に「ど真面目」に「ど一所懸命」にやっていれば、「虚栄心」に囚われている余裕がなくなるような気がしますから、そんな調子でやって行きたいなと。


そういう風に思いますね。




「絵の中」における「モノの役割」



私は「抽象画」でも「モノ」を描いていこうと思っているわけですが、それは、「絵の中」における「モノの役割」があると思っているからなんですねぇ。


「絵の中」における「モノの役割」を一言で言うとすれば、それは「チカラ」だと思いますね。
「物質的なチカラ」と言ってもいいでしょう。


「抽象画」は、もともと「精神性」を求めて生み出されたものだと思いますから、それで「物質的な性質」が、ずっと排除されてきたわけです。

それ自体は必ずしも間違いではないと思いますが、どうしても「チカラ」が無くなってしまうんですねぇ。

「チカラ」と言うもの自体が「物理的な概念」ですから、「物質性」を排除してしまうと、当然「チカラ」も無くなってしまうわけです。 

つまり、「物質であること」そのものが「チカラ」であると言ってもイイわけで、「モノ」はそこに在るだけで「チカラ」を持っているわけですし、「非物質的なモノ」はそういった「物理的なチカラ」=「実質的なチカラ」は持つことが出来ないわけです。


つまり、「モノ」を描けば、必ず何らかの「チカラ」が発生しますし、「モノ」を描かなければ、絶対に「実質的なチカラ」は現せません。
「モノ」を描かなくても、「精神的なチカラ」を現すことは出来るでしょうが、「肉体を持たない精神」で現せる「チカラ」は、「実質的」とは言えないわけですから、実体に欠けるわけですね。


さて、そこで、「チカラ」を犠牲にしても「精神的な純粋性」を取るのか?
それとも、「精神性」を犠牲にして「物質的なチカラ」を使っていくのか?
と言う二者択一を迫られることに成るわけですが、実を言えば、「精神」も「肉体」もどちらか一方では存在できないわけで、「肉体を持たない精神」と言うのは「「亡霊」のようなものだと思うわけです。
(「亡霊」が存在しているのか?っていう心霊現象の話じゃなくて)


それを「魂」とか「精霊」などと呼べば、「いいモノ」のように聞こえますが、「実質的な表現力」が希薄な点では「亡霊」とあまり変わりがありません。


やはり、「表現」と言うのは「チカラ」を必要とするものだと思いますし、そういう「力強い表現」のことを「芸術」と言うんじゃないかと思いますので、「絵の中」における「モノの役割」をもう一度見直していく必要があるのは間違いのないことなんではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「審美眼」とは?



先日このブログで書いた記事で、今後、「コレクターの審美眼」自体が、「コレクションの対象」に成っていくといいんじゃないかと書いたんですけど、その「審美眼」っていったいナニなんだ?という話です。


「審美眼」を文字通りに解釈すれば、それは「美しいものを見抜く眼力」ということなんでしょうが、その「美しいもの」の規準が曖昧になってしまった現在の時点では、その定義が成り立たたないわけです。


そこで、改めて「審美眼」とはナニなのか?と考えてみるわけです。


おそらく、現在において「審美眼」と言えるものは、「美しいもの」よりも「さらにもう一段根源的なものを見抜く眼力」のことなんだと思うわけです。


つまり、「そのモノの本質を見抜く眼力」が「審美眼」なんじゃないかと思うわけですね。


どんなものでも「そのものの本質に近いもの」は美しいと思いますし、「そのもの本質から離れたもの」は醜いと思います。
だから、そういう「本質」を見抜くことが出来れば、当然、「美しいもの」も見抜くことが出来るということになるわけです。

言い換えるならば、「外見的な美しさ」ではなく、「内面的(本質的)な美しさ」を見抜く眼力ですね。

昔の時代までは、「外見的に美しいモノ」でも、人の心を楽しませる事さえできれば、それを「芸術」と呼ぶ価値があったんだと思いますが、現代は、世の中が、そういう「外見的に(だけ)美しいモノ」で溢れている時代ですから、それを「芸術」と呼ぶ意味が薄くなってしまったんだと思います。
(というか、そういうモノがちっとも美しくないということですけど)

そういうことから、「創作者」は、常に「内面的」で「本質的」な「美しさ」を探しながら創作していく必要に迫られているわけですから、鑑賞する側の人は、その部分を見抜かない限り、「ホンモノの芸術」を見つけ出すことは出来ないと思うわけです。


今後、そういう「審美眼」を持った「鑑賞者」が増えていくことで、「芸術」は再生すると思いますし、活性化すると思いますねぇ。
(どちらかと言うと、「鑑賞者側」から再生するのが望ましいと思います)


そうなった後から見れば、今の「芸術の在り方」がいかに「本質」から外れているかが、よくわかるんじゃないのかなと。
でも、そうなると「芸術」が醜いということに成っちゃいますよね!
本質から外れているということですから。

そんな風に思ったりもします。




「ポップ・アート」っていったいナニなんだろうか?



「ポップ・アート」っていったいナニ?って思うことがあるんですねぇ。

なんとなく、『こんなのが「ポップ・アート」だな』っていうのはわかるんですが、自分の中で「ポップ・アート」を定義する機会があまり無いんですよね。


要するに、「ポップ・アート」っていう名前がすごくハマッテるんだと思います。

だから、『ポップ・アートってナニ?』と思っても、『そりゃ、ポップなアートでしょ!』と言うことで、あとは『あぁ、なるほどぉ』と、そこで、話が終わってまうわけです。

でも、ちょっと調べたりすれば、急に難しい説明が立て板に水のように成るので、やっぱり、『あぁ、なるほどぉ』と言うしかないわけですねぇ。


でも、それじゃあ、どっちみち、私のような素人にはわからずじまいということになってしまうので、ここで考えた見たわけです。

 ※私自身は「芸術の20世紀」を喪失するという考え方で「芸術活動」をして
  行こうと思っていますので、「芸術の20世紀」については、あまり重要視し
  ていないんですが、「見て見ないふりをする」というのもよくないだろうと思
  いますので、こういうことも考えていこうと思うようになりました。


「ポップ・アート」は現在の芸術に最も影響している「芸術の20世紀の遺物」だと思うわけです。
そういう意味では「コンセプチュアル・アート」と双璧だと思いますね。

と言うか、厳密に言うと「ポップ・アート」は、その「コンセプチュアル・アート」の変形なんじゃないかと思うわけです。


要するに、「ポップ・アート」にも「コンセプチュアル・アート」にも「作品」の「物質性」を排除してしまうような性質があるということです。


「コンセプチュアル・アート」においては、「作品」自体に重要性は無くて、その作品に対して、「作者によって与えられた意味」こそが、「芸術の本質」であるというように考えられたわけです。


一方、「ポップ・アート」においては、その「意味」すらも作者が一から創り出す必要がなくなって、既に「世の中に流通している意味」を記号的に使うことで、そこに、ちょっとした「ヒネリ」を加えさえすれば、それだけでも「アート」であるということに成ってしまいます。


つまり、スープの缶詰の広告デザインを反復するだけでも、そこに「ヒネリ」が加えられさえすれば、「アート」に成るわけです。


どちらも、「作品」自体の重要性が薄いわけですね。
そして、「作品」に付加された「コンセプト」や「ヒネリ」の部分が重要だということに成っているわけです。

 ※一見すると、「トイレの便器」(マルセル・デュシャ)よりも、「マリリン・モンローや
  キャンベル・スープ」(アンディ・ウォーホル)の方が、まだ、「作品的」であるかの
  ように見えるかもしれませんが、それは、あくまで、「インテリア」として見た場合に、
  「便器」よりも「モンローや缶詰」の方がオシャレだというだけのことであって、どち
  らも、世間にすでに流通している「既成のモノ」を「美術の世界」に「美術品」として
  提示して見せたと言う点では、まったく同じと言ってもいいくらいだと思います。
  つまり、コンセプチュアル・アートが「既成のモノ=レディ・メイド」を提示したのに対し
  て、ポップ・アートは「既成の概念=シンボル」を提示して見せたということです。


そして、これら二つのスタイルが現在の芸術に対して最も影響力を持っているスタイルだと言っていいと思います。


実際に『現在形の芸術だな』と思うようなものは、ほとんどが、この二つのスタイルのどちらかに、則っていると言ってもいいと思いますね。
(全てと言ってもいいくらいだと思います)


そして、この「作品軽視」ということが、「芸術の堕落」や「芸術の腐敗」を生み出していると思うわけです。
(だから「遺物」だと言っているわけですが)


「精神性」を追求したことは、間違いだと思いませんが、だからと言って、「物質性」を切り捨てる必要性も必然性もありませんし、実を言えば、「精神性」を高めるためには、より一層の「物質性」を要求されるのは当然のことです。


つまり、「ポップ・アート」や「コンセプチュアル・アート」と言うのは、実体のない「精神」を「純粋化」した「芸術」であるということです。

ある時期、こういうスタイルが必要だったことはわかります。
でも、問題はいまだに、そういうスタイルが作り出した流れに乗り続けて居ることです。

「ポップ・アート」や「コンセプチュアル・アート」を焼き直してよりモダンな体裁を創ることを、「コンテンポラリー・アート」と言っているようなところがあるのは間違いないことでしょう。


「物質性」と「精神性」のどちらを優先するか?ということで言えば、「精神性」を優先するべきだと思います。

しかし、それは「物質性」と「精神性」の両方を高めて行った最後のところでの選択において成り立つ話です。


どちらかを、初めの段階で切り捨てていいということは無いでしょうし、純粋であれば内容は問われないということでも無いでしょう。


それら全てのことを「フリーパス」にしてしまうのが、「ポップ・アート」と言うキーワードなわけですねぇ。


まぁ、かなり否定的な話になってしまいましたが、実を言うと「ポップ・アート」を否定しているわけではありません。
そういうジャンルがあってもいいと思います。


ただ、私はそれを「芸術の中心」から少し遠い位置にピン止めするということですね。
「芸術の中心」に近いことが「イイこと」と言うわけでもありませんし、遠いことが「悪いこと「」ということもないと思います。

ただ、『チガウものはチガウ』ということかなと。


そういう風に思っているだけですね。




「芸術」は「教養」ではない



「芸術」を一種の「教養」と捉えている人って、結構いらっしゃるんじゃないかなと思うわけです。

でも、私は『「芸術」は「教養」ではない!!』と言いたいわけなのです。


確かに、「美術史」や「芸術」のいろいろなジャンルについての知識は一種の「教養」だと思いますが、それらは「芸術自体」ではないわけです。

それは「スポーツ自体」が「教養」でなくても、「スポーツに関する知識」が一種の「教養」であるのと同じことだと思います。

「芸術」でも「スポーツ」でもほかのどんなことでも、それを「知っていること」は「教養」でしょうが、それを「実践すること」は「教養」とは少し違うことに成るんじゃないかと思いますね。


どうして、そんなにまで『教養」ではない!!』と言いたいかと言うと、このところ、「芸術」を「教養」と捉える傾向が強くなっていると思うからなんですねぇ。

そして、これが「実践軽視」につながっていくんじゃないかと思うからなんですね。
一つ前の記事に書いた「ポップ・アート」における「作品軽視」と同じような傾向だと思います。

どちらも、「精神性」を重視するのはイイことだと思うんですが、「物質性」を軽視することはイイことだと思えないわけです。
どちらも、重要ですから。


最後のところで、「精神」を取るということと、一方を軽視するということは全く違うことだと思いますね。


だから、「芸術」とは「知識」や「教養」ではなく、「実践される芸術」のことであると言いたいわけなのです。

それでないと「現在の芸術」は肉体を失った「亡霊」であり続けるしかないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「正常」と「異常」の逆転



「正常」や「異常」と言う時に、大きく分けて二つの見方があると思うわけです。
それは、「人間的な正常・異常」と「社会的な正常・異常」なんですが、この二種類の「正常・異常」が一致しなくなってきていると思うわけです。


つまり、「社会」に適応している人が、「人間」として見た場合には「異常」であるというケースが出てきているわけですね。
また、その逆に人間的にはまったく「正常」である人が、「社会」に適応できないというケースも増えてきていると思います。


要するに、「社会の要求」に「人間」が付いていけなくなってきているんだと思います。


「社会」が大規模化・高度化したことで、「人間」に対する「要求」が日増しに厳しくなっているわけですねぇ。
しかも、加速度的に大規模化・高度化してますから、たまったもんじゃありません。


それで、「正常な人間」が「社会的に不適応」で、「異常な人間」の方が「社会的に適応」と言う状態が出来上がってきているわけです。


そして、さらに言えば、「現代社会」においては「人間」よりも「社会」の方が、システム的に上位に位置しているという傾向があるわけですから、「社会」が「異常」に傾いた場合、「正常な人間」は排除されるようになって、「異常な人間」の方が常に尊重されるというまさに異常な事態になってしまうわけなのです。

 ※「社会」は「人間」によって構成されているものですから、本来は「社会」が「人間」に
  従属しているハズなんでしょうが、実際には、「社会」には「人間」から独立した「意思」
  があって、その「社会の意思」がシステム上「人間の意思」よりも上位にあるため、「社
  会」が「人間」を無視したり「人間」を苦しめたりすることがあるわけですね。

この「正常と異常の逆転現象」を食い止めないと、どうにもならないような気がしますが、現在の社会機構では、常に「個人」よりも「社会」が優越ですから、自浄作用は期待できません。


おそらく、「異常率」が高くなるにつれて、「異常」同士が食いつぶし合うように成って、自己崩壊するんだと思います。

取り敢えず、それまでは「高みの見物」で、いいんじゃないの?


そんな風には思いたくないんですけどね。



「鑑賞者」と「批評者」



私は「創作者」に「鑑賞者」と「批評者」を加えた三者を含めて「芸術者」と呼んでいるんですが、その中の「鑑賞者」と「批評者」についての話です。

 ※「芸術家」と言ってしまうと、どうしても「作家」だけがエラクなってしまうと思うので、
  「芸術者」と呼んでいます。


私は、この「芸術三者」を完全に対等な関係で考えたいということから、この「芸術者」と言う言葉を使っているんですが、「鑑賞者」と「批評者」の違いとしては、「鑑賞者」が「芸術を肯定的に見る人」で、「批評者」は「芸術を批判的に見る人」です。


と言うことなんですが、・・・・そうなっているでしょうか?

「現在の芸術周辺」において、「鑑賞者」は「芸術」を肯定的に見ているでしょうか?

つまり、「鑑賞者」は一所懸命になって無名の新しい「創作者」を探し出したり、自分が『これっ!』と思った「創作者」を称賛するような鑑賞の仕方をしているでしょうか?
(気持ちだけでも)


また、「批評者」と言える立場の人たちは、「芸術」を批判的に見ているでしょうか?

たとえば、既に評価を確立した有名作家の「芸術」を批判的に見ているでしょうか?
たとえば、今売れている人の作品を真剣に批判しているでしょうか?

 ※「芸術の鑑賞」においては、「有名な作家(作品)を肯定すること」よりも、「無名の
  作家(作品)を肯定すること」の方が肯定的なことであり、「芸術の批評」において
  は、「無名の作家(作品)を批判すること」よりも、「有名な作家(作品)を批判する
  こと」の方が批判的(批評的」なことだと思います。

  つまり、もっとも「肯定的な鑑賞者」とは、「無名な作家(作品)を肯定的に見る人」
  であり、もっとも「批評的な鑑賞者」とは、「有名な作家(作品)を批判的に見る人」
  だと思います。


現状では、これらのことが全く逆になっているような気がするんですねぇ。


つまり、現状では「批評者」が「芸術を肯定する側」に居て、「鑑賞者」が、むしろ「芸術を否定的に見る側」に居る」と思うわけです。


たとえば、「批評家」と言われる人たちは、現在、高い評価を受けている「有名作家」を批判しているでしょうか?

どちらかと言えば、「批評家」が「有名作家」や「過去の巨匠たち」について論じている時は、それらのいわゆる大御所を、いかにうまく説得力のある言いまわしで”持ち上げるか”ということが重視されていて、それは「批判」とは正反対の「おべっか」と言った方がイイと思うわけです。


つまり、「批評家」でありながら「批評」ではなく「肯定」しかしていないわけですね。


一方、「鑑賞者」と言えるような「一般のアート好きな人たち」は、必ずしも「芸術」に対して肯定的でもなくて、自分の好きな作家にだけは肯定的という人も結構いるでしょうし、「有名作家」にだけは肯定的と言う人もかなり多いと思います。

ところが、有名・無名や好き・嫌いに関わらず肯定するという、本質的に肯定的な「鑑賞者」がなかなかいないんですね。


もちろん、嫌いなモノを肯定的に見るのは難しいでしょうが、「それほどでもない?」と言う作品の中に、なんとかいいところを見つけようとする姿勢が、「鑑賞者の姿勢」としてはあってもイイように思うわけです。


私は、「個々の作家」ではなく「芸術全般」に対して「肯定的」と言うのが、「鑑賞者の本来の姿勢」だと思っていますから、知名度や好みに関わらず「肯定的な鑑賞者」と言うのが「最も鑑賞者らしい鑑賞者」なんじゃないのかなと思うわけです。

 ※あくまで、「肯定的」であって「全面肯定」と言う意味ではないです。つまり、
  「鑑賞者」と言うのは「すごく好きな作品」でなくても、自分が好きになれるポ
  イントを探して好意的な見方をする人だということです。
  別に「嫌いな作品」まで『好きに成れ!』ということではないです。

  無理して、『何でも好きです!』と言っている人はたくさん居ると思いますが、
  どちらかと言えば、ごく小さなポイントを見つけ出して「好き」になれる人が、
  「鑑賞者なんじゃないでしょうか?

この「鑑賞者」と「批評者」の立場の逆転現象によって、完全に「無名作家」が切り捨てられてしまっています。


まず、「有名作家」になってしまった人は、ほとんど批判される機会がありませんから、芸術の世界が飽和状態で、「無名」から「有名」への門がどんどん狭くなっていきます。

それでいて、「無名」を拾い上げる人が居ませんから、さらに「有名」と「無名」の溝が深まってしまいます。

結果的に「有名入り」を果たせるのは「市場に肯定された作家」ということに成って、その「市場」が「芸術」とかけ離れた論理で動いていますから、「芸術の中心とはかけ離れた作品や作家」を選ぶわけです。


そういうことで、「芸術」は徐々に堕落してきていると思いますね。
『そんなこと、ない!』と言う方もいるでしょうが、それなら、こっちは『そんなこと、ある!!』と言っちゃいますね。

普通に見て、オカシイこと、たくさんあると思いますよ!芸術。


そう思います。


「芸術」は「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すということ



最近の美術を見て感じることの一つに、「作品」や「作品の展示」が大規模化しているということがあるわけです。


個々の作家単位の作品でも、けっこう「大規模化」を感じることがありますが、「アート系のイベント」と成ると「町を挙げて」のようなイメージで、「都市規模」と言う印象です。


そういうのがワルイとは思いませんし、「エンターテイメント」としては当然の成り行きなんだと思います。

ただ、その路線で行き続けると、「芸術」としての方向性を見失ってしまうんじゃないかとも思うわけです。
確かに、「芸術」にも「エンターテイメント」としての性質はあるとは思いますが、やっぱり「エンターテイメント」は「芸術(美術)」の本質からは、やや外れていると思うわけですよね。


現時点で、「芸術好きな人」に、『どんなことをきっかけに「芸術好き」に成ったんですか?』と聞いたら、きっと、多くの人が「どこかでたまたま見た一枚の絵」みたいな「ごく小さな出会い」をあげるんじゃないでしょうか?

少なくとも、現時点では「〇〇トリエンナーレ」のような大規模な「アート系のイベント」や、特別な展示場所にいかないと見られないような「大規模な作品」を挙げる人は少ないでしょうね。
(そういうのは「芸術好き」に成った後で行く人が多いと思います)

でも、このまま「芸術」が「大規模化」して行けば、今後は「アート系のイベント」などを「芸術好きに成ったきっかけ」に挙げる人が増えていくんでしょう。


そう言う人が増えること自体ががワルイとは思いませんが、反対側の人たち、つまり、それまで「ごく小さな出会い」を挙げていた人たちは、どこへ行けばいいんでしょう?
このまま「芸術の大規模化」が進んでしまうと、「小さな出会い」に心を奪われたことで「芸術好き」になった人たちが、行く場所がなくなってしまうんじゃないかと思うことがあるわけなのです。


そちらの人たちの行き場も保存されて、それでいて「大規模アート好き」の人たちも、両方とも増えるというのは、やはり、実際上はあり得ないことだと思います。

どうしたって、片方が増えれば、もう片方は減りますよね。
しかも、片方が爆発的に増えていこうとしているわけですね。

今はまだ、「ごく小さな出会い」をきっかけに「芸術好き」に成った人たちが、「芸術好き」になった後で、そういう「アート系のイベント」に行くというルートで人が動いていますから、「きっかけ」として「大規模アート」を挙げる人は少ないでしょうが、これからは爆発的に増えていくでしょうね。
(動員数が多いですからね)


何が良くないのかと言うと、「芸術」が方向性を見失ってしまうような気がするわけです。

やはり、「芸術」と言うのは、『「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すものである』と言いたいわけです。


たとえば、「絵」でも「音楽」なんかでも、そういう「芸術系」が好きな人は、生涯そういうものを愛し続けたりもするわけですが、よくよく考えてみると、「好きに成ったきっかけ」は、ただ単に、「テレビで見た」とか、「ラジオで流れてた」とか、それどころか「そこら辺にかかっていたカレンダーの絵」だったりと言うようなこともザラにあるわけです。

しかも、さらに、よくよく考えてみれば、生涯を通じて、愛し続けた「絵」や「音楽」の中でも、『けっきょく、本当に好きだったのは「その最初の一枚」や「その最初の一曲」だったんじゃないだろうか?』と思ったりすることも、まぁ、ちょくちょくあったりするわけです。


つまり、「芸術」と言うのは、物質的には「最小限」で、その「最小限の物質(作品)」が人の心に与える影響が非常に大きくて、とても長く持続する、そういう媒体なんだと思うわけです。

そして、その「物質的な小ささ」と「心理的影響力の大きさ」とのギャップ、こそが、、「芸術」に独特のインパクトを与えているように思うわけです。


ところが、物質的に大きくなってしまうと、そのギャップが無くなってしまうわけで、そうなると、どうしても物質性のより強いメディアとの相対関係において、「芸術の必要性」が薄くなってくるわけですね。

まぁ、本質から外れていけば、それが求められなくなるのは当然だと思います。
(実際にそうなってきているのかも?今、芸術って意外なほど求められてないのでは?)


「エンターテイメント」の領域は、ほかのメディアでもうめられると思いますが、「芸術」の領域は「芸術」でしか埋められないと思います。


そんなことから、出来れば、もう少し「小規模化」して行ってもらいたいもんだなと。

普通の生活の中で「一枚の絵に直面する機会」が増えていったらいいんじゃないのかなと。
(これを、私は「幻想の日常化計画」と呼んでいます)


そんな風に思っております。



「普通の人間」は「人間の平均」じゃなくて「人間の頂点」



私は『人間は、まだ本当の意味で人間に成っていない』と思っているんですが、それは要するに、人間自身が設定した「人間」という規準が、『かなり高かったんじゃないのか?』ということが言いたいわけなのです。


実際に、政治家や芸能人やスポーツ関係者などの有名人たちが、「人間以下?」なことをすると、相当な勢いで批判されますし、ワイド・ショーのキャスターから一般人までほとんどの人たちがコゾッテ、『ありえないでしょ!人間として』などと言っていたりしますけど、その人たちのうちどれだけの人が、同じ環境を与えられても、その「人間としてありえないこと」をしないでいられるんでしょうねぇ?


正直言えば、私はあまり自信が無いですね。


たとえば、『権力を与えられたら』とか到底使い切れないほどの『おカネを与えられたら』とか濡れ手で粟のように『名声を与えられたら』とかと言うような、今の自分には、まったく程遠いような条件がもし与えられたら、自分は本当に「人間としてありえないようなこと」をやらないでいられるのか?と自問すれば、『たぶん、やってしまうだろう』と言うのが本当に正直なところですね。

でも、『自分は、絶対にそういうことはしない!!』と言う人がいちばんアブナイと言う気もしますし、『この人は、決してそういうことはしないだろう』と言う感じの人が、実際に「権力」などを与えられると『絵にかいたように乱用』ということも非常に多いわけで、『じゃあ、どんな人なら絶対にやらないんだ?』と成ると、そういう「権力」や「名声」などに近づかない(近づけない)人しかいないわけです。

つまり、「人間としてありえないこと」のはずなのに、それをやらないでいられる人間が、実際にはほとんど居ないということです。


多くの人がこのことを認めたくないので見ないようにしていますが(当然、自分にも適用されてしまいますから、そりゃ、いやですよね)、本当のことを言えば、すべての人が何かしらの「人間としてありえないこと」をやっていると思います。

たとえ、その時点でやっていなくても、環境さえそろえば、必ずやってしまうというのが本当の所だと思いますが、どうでしょうか?


私は、そういうことで、例外なんて居ないと思っています。
だから、『人間は、まだ本当の意味で人間に成っていない、つまり「人間未満」である』と思うわけですね。


つまり、現時点での「人間」とは「人間として当然のこと」は必ずしもできないし、「人間としてありえないこと」はチョクチョクやってしまうというような「人間」なわけで、『どう考えても、まだ、人間にとどいていない』と言うしかないわけです。


「一般人」から見て「有名人」の「アリエナイ振る舞い」が腹立たしいのは、自分たちが「有名人」ほどの「権力」や「名声」を得たことが無いからだと思いますよ。

だから、自分たちよりも「いい立場」に居る人たちが「悪いこと」をすると、『恵まれた立場にいるのに、悪いことをした』という感じに見えるんだと思います。

でも、実際は「権力」に近づけば近づくほど「アリエナイ行動」にも近づいているわけですから、むしろ、「有名人」が、そういうことをするのは当たり前と言えなくもないわけです。
(だから、それでいいということじゃないですけど)


少なくとも、「人間」がまだ「人間」に到達していないという前提で考えると、そういうことに成るわけですね。


逆に考えると、「人間」が「人間」に到達しているのであれば、「いい立場」を与えられた人が「アリエナイこと」をするなんてことは無いはずです。
少なくとも、『ほとんど無い』と言えるはずですよね。

でも、実際は『ほとんどある』みたいな状態ですから、そう考えるしかないと思うんですが、どうなんでしょう?


で、最終的に、何が言いたいかと言うと、「普通の人間」なんですね。

『人間が、まだ本当の意味で人間に到達していない』と言う前提で考えると、「普通の人間」と言うのは「標準的な人間」というよりも、むしろ「理想的な人間」のことなんじゃないかと思うわけです。

と言うか、もう少し飛躍した言い方をすれば、その「普通の人間」=「理想的な人間」こそが、「神」と言われてきたものの本質なんじゃないかと思います。


「自然崇拝」のような「原始宗教」が、現在言われているような「宗教」の形をとるようになったのは、偶像としての「神」を設定したことによるところが大きいと思うわけですが、その「神」と言うのは「絶対者」とか「創造主」ということに成ってはいますが、実は、元をたどれば、その「絶対」や「創造」と言うのは、当初の段階では、自然界すべてに対する「絶対」や「創造」ではなく、「人間」の中での「理想形」や「完成形」を意味していたんじゃないかと思います。


それが、徐々に神性を高めていって、最終的に現在言われているような「神」の像が創り上げられたと言う気がするわけです。


つまり、「人間」自身が設定した「理想の人間」が「神」や「仏」で、まだ「人間」に届いていない「実際のダメな人間」が「悪魔」や「鬼」なのかも知れませんね。

まぁ、それは、また別の話になってしまうので、置いとくとして、取り敢えず、「普通の人間」に成るのがかなり大変だということはあるんじゃないでしょうか?


つまり、「普通の人間」なんて言っても、実は、その辺が「人間の頂点」でもあるのかなと。

『だって、それ以上は無理でしょ!?』

だから、いつも「普通の人間」に成ろうとして生きていないと、「人間」どころか「魑魅魍魎(ちみもうりょう←こんな字読めるか!)」に成り果てるのかも?

『実際、そういう人たちいっぱい居るしね!』

だから、とどかなくても「人間」に成ろうとし続ける人に成りたいなと。

『ポクなんかそれくらいてチュウプンたから』
(翻訳すると『ボクなんかそれぐらいで十分だから』てす)


そんな風に思っているわけです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR