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「20世紀美術」が受け入れられつつあるのは「世代」が交代したから、それは、「新しい世代」に「権威」として刷り込まれたということに過ぎない

このブログでは『「芸術の20世紀」は間違っていた!』と言っているんですが、
(だれひとり『そうだ、そうだ』と言う人は居ませんが)

現在、その「芸術の20世紀」が受け入れられつつあるという状況に成って来ているわけです。


この状況を

『ようやく理解されて受け入れられた』と受け取るのか、

それとも、『なんとなく時代に押し流された』と受け取るのか、

それ以外にも、いろいろな解釈があると思いますけど、

その中の一つの考えとして、「世代交代」と言うことがけっこう大きいんじゃないかと思うわけです。


つまり、「世代」が交代したことで、抵抗感がなくなったということですね。

1970年代生まれの世代あたりから「20世紀美術」に対する抵抗感が激減するような気がします。
(芸術関係の人じゃなくて、一般的な人についてです)

でも、それ、要するに、「20世紀美術」が「新たなる権威」に成ったということなんじゃないでしょうか?


まぁ、人間というのは「自分が生まれる前からあったモノ」には抵抗が無いんですねぇ。

もう少し言うと、「自分が生まれる前から世間に受け入れられていたモノ」ですね。

ということは、つまり、それが「権威」に成ったから、ということでしょう。
(少なくとも、民主主義の世の中では「世間一般に支持されたモノ」=「権威」でしょう)


それが理解されていようがいまいが、「権威」と成ったモノは必ず受け入れられますから、

「理解云々」以前の問題ということですね。
(「受け入れられたモノ」が権威であり、権威は「必ず受け入れられるモノ」でもあるということですね)


日本では、いま、ちょうど

「受け入れた派」と「拒否し続ける派」が拮抗しているところなんじゃないかと思いますね。
(1970年生まれが47歳ですから、ちょうど真ん中世代ということなのかも知れないですね)

アメリカやヨーロッパでは、すでに「受け入れた派」が主流になっていると思います。


でも、それが実際に理解されたわけではなくて、ただ単に「新たなる権威」に成っただけだとしたら、

そして、その「新しい権威」として「新しい世代」に、無条件に刷り込まれただけだとしたら、

『それって、まさに「20世紀美術」が破壊したパターンなんじゃないの?』

ということに成ってしまうわけなのです。


これはどう考えてもマズイんじゃないでしょうかねぇ。

と言うか、「ご本尊」そっちのけで崇拝するっていうのはどうなんでしょうね?

やっぱり、本筋から行けば

『理解されたうえで受け入れられるようになる』方がイイに決まっていますよね。


でも、こういうことを言うと、

『人が楽しんでいるものに、いちいちケチをつけるな!』とか

『どうして、もっと素直な見方が出来ないのか?』などと言う人が居ますが、

それは、どうでもいい小さなことを重箱の隅をつつくように言っている場合に言うべきことです。


本質を外れて、理解してもいないのに、刷り込まれた「権威」」を

受け入れたと思い込んでいるのは「単なるノータリン」と言うモノです。

それを擁護するのは「複なるノータリン」ですね、つまり、「ダブル・ノータリン」です。

そういうのを「アン・ポン・タン」」(死語?)と言うんだと思います。

  ※「権威のある側」を擁護するということは、すべて「へつらい」以外のナニ物でもないですね。
   そいうことに理屈や理由をつけて正当化するのは「ナカナカ見っともないこと」だと思いますよ。
   「権威側・アンチ権威側」ということが重要で、「イイ・ワルイ」は二の次でしょう?
   まぁ、「権威側」であっても「どうしようもなく素晴らしい場合」だけは認めるという感じでしょう。
   それ以外は「へつらい」ですね。
   少なくとも後から振り返ってみれば、そういうようにしか見えないですよね。

とにかく、「権威」と成ったモノは、「イイ・ワルイ」とは無関係に、

必ず受け入れられるということは間違いないことですから、

「世間に受け入れられたこと」が、ナニカを証明するということには成らないわけで、

それを根拠に「芸術の20世紀」を肯定しようとするのはやめた方がイイと思いますね。


それじゃあ、戦前の軍国主義教育を受けた人たちが、

万歳突撃(これ、恐ろしい言葉だと思う)してたのと何ひとつかわりませんからね。


それを擁護しますか?

無条件で、却下でしょ!!

でも、それぐらい現在の芸術の世界は「権威的」に成っていると思いますよ。


こんなこと言っても、誰一人『そうだ、そうだ』とは言わないでしょうが、

それこそ、まさに「権威」の特徴ですから。

そんな風に思いますよ。



「幻想の日常化計画」

「幻想」と言うと、どうしても「非日常」というイメージが強くなってしまうわけですが、

わたくしといたしましては、

「幻想」を、「日常化」できたら少しイイんじゃないかな?と思っているわけです。


要するに、「芸術」を生活空間の中に取り込むことが出来れば、

「幻想」を「日常化」することが出来るんじゃないか?ということなんですね。

  ※「絵」を壁に掛けるということは、「日常生活」の中に「幻想スポット」を
   出現させることなんだと思います。

たとえば、旅行に行ったり、テーマ・パークみたいなところへ出かけたり、

もう少しお手軽なことで言えば、映画館に映画を見に行ったりすることで、

「非日常」が「生活」=「日常」の中に取り込まれるということがあるわけですが、

そういうの、ちょっと手間ですよね。


まぁ、大した手間でもないので、それでいいということなんでしょうが、

手間だけの問題でもなくて、どちらかというと、

「人」が「日常」から「非日常」の側へ移動するんじゃなくて、

「幻想」=「非日常」を「日常」の側へ移動させられたら少しイイのかな?っていうことなんですね。


「人」が移動するタイプの「非日常」を「リゾート」というんだと思います。

それに対して、「非日常自体を移動させること」は「リクリエーション」に近いような気がしますが、

ここでは、どちらかというと「幻想」とか「空想」とか「夢」などのようなイメージで言っています。

そういう「非日常」を「日常」の側へ移動させようというわけです。


一見、「日常の側」に移動してしまったら、「非日常」ではなく成ってしまうようにも見えますが、

それは、「リゾート・タイプの非日常」=「人が移動するタイプの非日常」に関して言えることで、
(確かに「リゾート地」で働いている人にとって、そこは「非日常」ではないんでしょう)

「非日常自体を移動させるタイプの非日常」においては、

「その非日常」が「日常側」に有るか「非日常側」にあるかは問題ではなく、

「その人」が「その非日常」を感じ取ることが出来るかどうかが問題になってくるんだと思います。

つまり、「幻想」の中に浸ることが出来るか?ということですね。


ただ、人間はその場の雰囲気に左右されされますから、

「非日常空間」の中で「非日常的に演出された時」の方が「幻想」に浸りやすいということはあるでしょう。

でも、「日常空間」の中でも、きっかけに成るモノさえあれば、

割と簡単に「幻想」に浸ることが出来ると思いますよ。


そして、「芸術作品」がそういう「きっかけに成るモノ」として適していると思うわけですね。


たとえば、「本を読む」なんて言うのも、このタイプの「幻想の日常化」だと思うんですね。

「文学」も「芸術」ですからね。

「リゾート・タイプ」との違いは、

「最小限の物質的要素」で「最大限の精神的距離」を移動できるということです。
(本を開いたとたんに物語の中の時代や場所へ移動できるわけですから)

「リゾート・タイプ」はやっぱり「物質的な要素」を必要としますよね。

これを「贅沢」と呼んでいるところがあると思います。
(「精神的な贅沢」も含まれますけどね)


でも、「美術作品」も「本」に負けないくらいに「幻想の日常化」に適していると思うんですが、

「美術作品」は、まったくと言っていいほどそういう機能を果たしていませんよね。

一言で言えば、「美術作品」が高すぎるんだと思います。


高額すぎるので、「日常化」できないわけです。

高額であるために、そうヤスヤスと買えないから「日常」に成らないし、

高額であるために、無理して買うと「非日常」=「特別なモノ」になってしまうわけですね。


それで、仕方なく「美術館や美術イベントに行く」ということに成るわけですが、

それでは、結果的に「人」が移動してしまっていますから、「リゾート・タイプ」になってしまうわけです。


そうなると、「旅行」や「テーマ・パーク」と同列に並べられることになるわけですが、

そちらは必ずしも「芸術」に適していないと、私は思うわけです。


もちろん、そういうところに行って、そういう場所で見ても、

「その人」が幻想に浸ることが出来ればそれでいいんでしょうが、

せっかく、「幻想の日常化」に適しているのに、それを無にしてしまうのもオシイような気がします。


それに、「本」が図書館でしか読めないとしたら、と考えると、

それがいかに不自然な状態かがわかるんじゃないかと思いますよ。


要するに、「売り手の都合」や「市場の原理」によって、

「鑑賞者」の「幻想を日常化する権利」が踏みにじられているということなんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。



「AI」は「AI」を生み出すことが出来るか?「AI」は「突然変異」を起こすことが出来るか?また、「人間」はそれらを先回りすることが出来るか?

最近では、「AI」と呼ばれている「人工知能」が、

人間のトップクラスの「棋士」や「チェスの名人」などに勝てるように成って来たらしいですね。


それは「人間様」のプライドを打ち砕く事実なのかも知れませんが、

実を言えば、「将棋」でも「囲碁」でも「チェス」でも、

「AI」が勝利することは、ある意味では当たり前だと思うわけです。


そういう複雑で、智的なゲームにおいては曖昧な判断や一種の機転なども要求されるわけですから、

その手のゲームは「人間」が最も得意とする分野なわけで、

だからこそ、そこでやられるとショックなんでしょうが、

実を言えば、「AI」がそういうゲームで「人間」に勝つことは、

「計算」や「情報解析」などで「AI」が「人間」を上回る能力を発揮するのと同じことで、

単純に言って、『正確で速い』というだけのことだと思います。


現在の時点では、「AI」の能力はすべて人間が「AI」に与えた情報をもとにしているわけで、

要するに同じ情報をもとにして戦っているわけですから、

『正確で速い』方が勝つに決まっています。


一見すると、「AI」が「曖昧な情報」を処理出来るように成ったことや、

それどころか「AI」が「曖昧な思考」をするように成ったことで勝っているようにすら見えますが、

その「曖昧な情報」のもとである「曖昧な思考」は、すべて「人間の思考」なわけで、

実際に差がついているのは『正確で速い』の部分だと思いますよ。


前までは、あまりにも「曖昧」が苦手だったために「曖昧」が出て来るたびに思考停止していたので、

『正確で速い』が生かされなかったということでしょう。

それが、ある程度「曖昧」を処理できるようになったので、

『正確で速い』の部分の差が出てきたんだと思います。


確かに、「AI」は長足的に進歩しているとは思いますが、

必ずしも、「人間」はそこでショックを受けたり、

『人間を超えられて、「AI」に支配されてしまうんじゃないか?』

という危惧感を持つ必要はないんじゃないでしょうか?


『それじゃあ、どこまでいったら危惧感を持つべきなのか?』ということです。


まず、第一の関門は、

『「AI」が「AI」を生み出すことが出来るようになること』じゃないかと思うわけです。


現時点で、『人間」が一切手を貸さない』という前提で、

「AI」を生み出せる「AI」が存在するのかどうか知りませんが、

おそらく、完全に不可能とまでは言えないと思います。

きっと、「そういうAI」だって作ろうと思えば作れるんじゃないでしょうか?

  ※現時点で、一番難しいのは「手先の器用さ」みたいな超アナログな部分なんじゃないでしょうか?
   部品作りとか、組み立て作業とかを人間が一切関与しないで行えるロボットはまだないような気が
   します。つまり、「将棋」や「チェス」の「名人」は越えられても、「町工場職人」はまだ超えていないと
   いうことでしょうね。この部分って、「越えられそうで越えられない壁」だと思いますよ。何しろ、最新
   型の「人型ロボット」の歩き方が”あんな状態”ですからね。あれを見てると『こいつら、なんだかん
   だ言っても、マダマダだな!』って思えますよね。

そして、その次の関門が

『「AI」が自分で生み出した「AI」を進化させることが出来るように成ること』じゃないかと思います。

つまり、「子孫繁栄」ですね。


これには「遺伝」に当たるシステムが必要に成ると思いますから、

けっこう難しいようにも思いますが、「ありえない」ではないのかも知れませんね。

でも、現時点では「AI」が生みだされてからの歴史が浅いですから、

情報の集積があまりにも少なくて、

「遺伝」と言えるほどの「壮大なプログラム」を創り出すことは出来ないでしょうね。たぶん。

  ※この部分でも「人間の情報」を使ってしまうと、「AIの進化」ではなくて
   「人間の進化」の後追いになってしまいますから。

おそらく、人間や動物は「遺伝」というプログラムを維持するために

「数千万年」とかもっと長い年月の情報の集積を使っていると思いますからね。


そして、最後の関門が、

『「AI」が「突然変異」を起こすことが出来るように成ること』なんじゃないかと思うわけです。

ここまでくると、もう想像すらできなくなりますが、

取り敢えず、「当分無理」かな?っていう気だけはしますよね。


そんなわけで、今のところ「人間様の天下」は当分は安泰かなと。


とは言え、いつ「AIの突然変異」が起こるのかはわかりませんから、

それを「人間」が先回りしておくことも、少しくらいは考えておいた方がイイのかなと。

そんな風に思いました。


自分で言うのもなんですが、この世の中に、これほど役に立たない話があるなんて!ビックリした!!




「抽象・具象」と「自象・他象」

「芸術」の「表現形態」で、「具象」と「抽象」を両極に置いた考え方をすることが多いわけですが、

実際には、作者が「自分の中にあるナニカ」を表現しようとするのか、

それとも、「自分の外にあるナニカ」を表現しようとするのか?ということも、

「具象・抽象」と同じぐらいに重要なチガイなんじゃないかと思うわけです。


まぁ、「自象」と「他象」ということに成りますね。
(私が勝手に使っている言葉です。アシカラズ)

これが、「具象・抽象」と同じようでいて違うんですねぇ。


「芸術の20世紀」において、「抽象表現」という考え方が広まっていく過程で、

この「自象・他象」という考え方が「抽象・具象」と言う考え方と

ゴチャマゼにされたまま来てしまったことが、

「抽象表現」を曖昧で漠然としたものにしてしまっている原因の一つに成っているんじゃないでしょうか?


本来の「抽象表現」とは、

『モノの外見にとらわれず、ナニカの本質を抽出して現そうとすること』なんだと思います。

それに対して「具象表現」は、

『モノの形を使うことによって、ナニカを現そうとすること』と言うようなことだと思います。


でも、現在は、「抽象」とは「形を使わない表現」という考え方がほとんどだと思います。


この「形を使わない」と「外見にとらわれない」が似て非なるモノで、

「形」=「外見」ではありませんし、「使わない」=「とらわれない」でもありませんから、

場合によっては、だいぶ違った意味になってくるわけです。


たとえば、「まる」や「さんかく」は「形」ですが「ナニカの外見」ではありません。

だから、「まる」や「さんかく」を使っても「抽象画」に見えたりするわけです。


でも、「まる」や「さんかく」は見慣れていて、それほどオモシロイ形でもありませんから、

そればかり使っていると「ツマラナイ絵」になってしまうわけです。

それで、「形」は使わずになんとか「オモシロイ絵」に成らないかということで、
(つまり、早い段階で「形」はあきらめられたということでしょう)

『試行錯誤しながら現在に至る』というのが「抽象表現」の現状だと思います。


その試行錯誤の過程で一番肝心な「本質を抽出すること」が抜けてしまったんだと思います。

それで漠然としてしまったんじゃないでしょうか? 


そこで、「抽象・具象」という考え方に、「自象・他象」という考え方を加えると、

少し見えやすく成るんじゃないかと思うわけです。

  ※以下、『見えやすく成る』と言っても、それほど分かりやすい文章ではありませんので、
   その辺はアシカラズということで。 
   まぁ、この話はそれくらい面倒な話だということですね。だからこそ、「巨匠たち」も「結論」
   を出せずに死んでいってしまったんだと思います。
   そして、「巨匠たち」がこの問題を放置したまま亡くなってしまったことで、その「実験段階」
   が「結論」ということに成ってしまったんだと思います。


たとえば、「自分の中にある感情」のような形のないモノを描けば、

それは、「自象」で「抽象的」ということに成ります。


同じ「感情」でも「自分以外の人(=他者)の感情」を描けば、

「他象」で「抽象的」です。


そして、その「感情」を「表情」などの「外見」を使って現した場合は、

「他象」で「具象的」ということに成ります。
(要するに、これが「一般的な人物画」ということですね)


つまり、「花」や「風景」など、どんなモノであっても「自分以外のモノ」を

「そのモノの外見的な形」を使って表現すれば、

「他象」で「具象的」ということに成るわけです。


しかし、ここでどうしても分かりにくくなるのは、

「自象」と「他象」や「抽象」と「具象」が、一見対極にあるようでいて、

必ずしも、対立しているとは限らないという所です。

つまり、この四つの考え方が相互に絡み合っているのが「芸術表現」であるというわけです。


たとえば、「自画像」は「自象」でもあり「具象」でもあります。

ここまでは問題が無いと思います。

問題は、「自画像」が「他象」や「抽象」でないとは言い切れないということです。


たとえば、その作者が自分の顔を見ながら描いたのは確かだけれど、

その自分の顔を「人間全般の顔の一つ」として、

つまり「普遍的な人の顔」=「他者」として描いた場合、

それが「自象」なのか「他象」なのかが解りにくくなりますし、

その作者が「顔の形」を描くことを重要と考えたのか?

それとも「顔の形」を使ってはいるが、その本質的な性質を現そうとしたのか?

という疑問が出て来ると、「具象」か「抽象」かもよくわからなくなります。
(「形」を使ってはいるが「形にとらわれてはいないということですね)


つまり、「具象」でもあり「抽象」でもあるということもあるし、

「自象」でもあり「他象」でもあるということもあるということです。

そして、それらがすべて柔軟に絡み合って全体を構成しているのが「芸術表現」であるということです。


まぁ、ぜんぜんわかりやすく成ってませんが、

それでも、解りにくいということだけはわかりやすく成ったような気がするので、

いいんじゃないの?という感じです。


でも、取り敢えず、「芸術表現」には、「具象・抽象」だけでなく、いろいろな捉え方があって、

それらは必ずしも対立するものではなく、むしろ両立させることで力を発揮するということですね。


だから、どちらか一方の「表現形態」を一方的に排除するのではなく、

出来るだけ多くの「表現形態」を組み合わせていくことで、「表現力」が増していくんだと思うわけです。

そして、そういう練り合わされた「表現」を「芸術」と言うんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





「本当に正しいこと」ってあるんだろうか?

はたして「本当に正しいこと」と言えるようなことってあるんでしょうか?

これは、まじめにモノを考えて行くと、誰もが突き当たる疑問だと思うわけです。
(まぁ、『哲学的な思考において』というようなことです)

ショッパナのところでこの疑問に突き当たってしまう人も、けっこう多いんじゃないでしょうか?


でも、私の勝手な考え方においては、

『あるに決まってるでしょ!』という感じなんですねぇ。

  ※『正しいことなんてないんじゃないか?そうだよ、あるわけないんだよ、いや!待て、やっぱりあるだろ』
   本当は、いつもそんな感じなんですけど、まぁ、ここでは『あるに決まってるでしょ!』と言うことで


しかも、「正しいこと」に限った話ではなくて、どんなことに置いてもだいたい言えることなんですが、

『〇〇って本当にあるんですか?』という質問に対する答えは

すべて『あるに決まってるでしょ!』でもいいくらいだと思いますねぇ。


『〇〇って~』と言っている時点で、「〇〇」を前提として言っているわけですから、

質問している側も、受けている側も「〇〇の存在」を認識しているという前提で言っているわけです。

もしも、「〇〇」を認識していないのならば、

『〇〇って本当にあるんですか?』と言う前に『〇〇ってナニ?』という所から始まるはずです。


つまり、「正しいこと」であれば『正しいことってナニ?』という所から始まるはずです。

そうでないということは、両者の中に「正しいこと」という共通の概念が存在するということですね。

少なくとも、質問した側はそう思っているということです。


聞かれた側も『正しいことって本当にあるんですか?』と聞かれたときに、

『その正しいことっていったいナニのことを言っているの?』と聞き返すはずですね。

そう聞き返さないとしたら、

聞かれた側も『両者の間に「正しいこと」という共通の概念がある』と思っているんでしょう


だとすれば、その両者の間には「正しいこと」という共通の概念があるということです。


その概念を言葉で規定できない時に『正しいことなんて無いんだ』ということがありますけど、

それは、言葉で規定できないというだけで、『無い』と言うのとは違うような気がします。


たとえば、味覚のような感覚的なモノにおいて

『美味い』ということを言葉で具体的に規定するのは不可能だと思いますが、

それでも、確かに『美味い』はあります。

少なくとも『無い』とも言い切ることは出来ないはずです。


実際に『無い』のは「万人に完全に一致する美味い」であって、

「人類に共有されている美味い」は間違いなくあるわけです。


それと同じように人類に共有されている概念としての「正しいこと」があるからこそ

「正しいこと」についての話が成り立つわけです。


もともと言葉は人間が創り出したものですから、人間の中にある概念を超えることは出来ません。

「正しいこと」も言葉ですから、人間の中の「正しいこと」が「本当に正しいこと」に成るわけです。

つまり、人類が共有している「正しいこと」こそが、「正しいこと」の本質なわけです。


ただ、それをさらに詳しく規定することが出来ないというだけだと思います。


要するに「正しいこと」は人間の思考の中に「あるモノ」であって、

  ※どちらかと言えば先天的に人間の思考の中に組み込まれているモノだと思います。
   つまり、「理論的な意味での正しい」ではなく「感覚としての正しい」ですね。
   こういうのを、「自明のこと」と言うんじゃないでしょうか?

「人間が判断したり規定したりするモノ」ではないということですね。


それは間違いなく存在していて、

しかも、人類に共有されている概念であるということです。


まぁ、『正しいことはあるけど、それを誰かが決めることは出来ない』ということじゃないでしょうか?


要するに、それを力ずくで決めて人に押し付けようとする人があまりにも多いから、

『正しいことなんてないんだ!』と言いたくなるんだと思います。


でも、「正しいこと」は「人が決めるモノ」ではなくて、

初めから「人類全般の意識の中に先天的に刷り込まれているモノ」だと考えれば、

それを決めようとすること自体が、どうしようもなくオカシナことなわけで、

まして、そのオカシナことを人にまで押し付けようとするのは正気の沙汰ではないわけですから、

マトモな話の適用外ということで、『却下!』ということで十分だと思いますね。


論じることに意味があるとすれば、

「人類に共有されている概念としての正しいこと」についてなんじゃないのかなと。


それに付いて、より多くの人が、より多くの考える機会を持つことで、

気が遠くなるような世代を経て「人類にとっての正しいこと」が

次々更新」されていって、また刷り込まれていくことに成るんだと思います。


つまり、「人類にとっての正しいこと」とは、常に変化しながら構築されている過程にあるわけで、

それは、「この世の中全体にとっての正しいこと」についてもほぼ同じことがいえるのかも知れません。

しかし、「正しいこと」は「言葉」ですから、「言葉の範囲」を超えることは出来ません。

だから、そういう「普遍的な意味での正しいこと」に関しては、「言葉」では規定できないわけです。


まぁ、要するに、「正しいこと」と言っても人間が言っている程度のモノですから、

『なんとなく正しい感じがするぅ?』という程度のモノなんだと思います。


それ以上は、「人間」にとっても、「言葉」にとっても、「容量オーバー」かなと。


そんな風に思いますよ。


  ※「人類に共有されている正しいこと」とは別に「自分が正しいと思っていること」というのも
   あるでしょうが、それはあくまで「その人の持論」であって、他人に対して適応するべきもの 
   でも、ましてや強要するものでもないということだと思います。
   そういう前提で、それぞれの人が「持論」を持ち合って話をすることは『きっと楽しい!!』


 

「長い題」=詩のような題(その6)

「長い題」(その6)です。
今回のは、ぜんぶ「絵」に合わせて「題」をつけたものです。
ということは、前に出来ていた「絵」が決まっていない分の「題」の方はそのまま残ってしまうということですね。

「題」がたまっていって「絵」が追い付かないというのもどうなのよ?

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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おちてゆく

いま まっさかさまに おちてゆく

ここにいると かなしくなるから


ならくのそこは どんなとこ

きっと かがやくせかいが まっている


だから ぼくは 

なんだか とっても たのしくなって

なんだか とっても おかしくなって


『いま おどりながら そこに おちていくとこ』

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いま きみに なまえを あたえよう ロミルラン

そう きみのなまえは ミル・ロミルランだ

きみは これから ミル または ミルナルとよばれることになる


『ときとばあいによって ひとのなまえは へんかする』

だから ミルナルとよばれることもあるだろう


いずれにしろ きみには なまえが あたえられた

だから きみは もう まようひつようはない

あたえられたなまえに したがって まよわず いきていけばいい


いま きみにあたえられた ミル・ロミルランとミルナル・ロミルランというなまえは 

じゅうぶんに うつくしいなまえだ


だから そのあたえられたなまえに したがって いきていくだけで

きみは じゅうぶんに うつくしくなることができる


それでも きみが まよいたければ まよえばいい


そのとき きみは あたえられた まなえをこえて 

きわめて うつくしく かがやくことができる


ふたつのうち どちらの いきかたを えらぶかは

かんぜんに きみの じゆうだ

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『カーニバルは やってくる』

どこにだって やってくる


それは おまつりだから

それは よろこびだから


だから カーニバルは どんなところにだって やってくる


たとえば この オパールのようなじめんと

きいろいかべのような そらが 

あかとしろのわくのなかに とじこめらた こんな くうかんにだって やってくる


だれにも しられずに くらくかがやいている

こんな ばしょにも やってくる


だって それは おまつりだから

だって それは みんなの よろこびだから

だから カーニバルは どんなところにだって やってくるんだ

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しずかに ほのおが もえている 

この おとのないせかいで


かぜのおとすらしない その しずかさのなかで

つめたいほのおに てらされて 

ひやされるほどに あたたかく

こおりつくほどに やわらかく

その まるくて なめらかなはだは そだってゆく


『それが ほんとうに いつわりのない ひとのすがたと いうものです』

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さびしくて うつくしい


あおじろい ひかりに つつまれて

じっと やすんでいる


ひとりでいることを ひそかに たのしんでいるように

かなしみに みたされることを すこしだけ よろこんでいるように


こんな さびしさのなかに 

こんな しっとりした やさしさが あるなんて

こんなに うつくしい くうきのなかで 

じっと やすんでいられるなんて


『あぁ つめたくて やわらかい そんなやすらぎが ここにある』

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また ひとつ このせかいに 

『あたらしい いみが あらわれる』


ほのぐらい せかいの かたすみに

ほのあかるい いろを なげいれて

それは とうとつに しゅつげんする


なんのいみかも わからない

なんのかたちかも わからない

なんのかがやきなのかも まったく わからない


それらのものは これから このせかいのなかで あたえられていくことになるだろう


そんな あたらしいいみが またひとつ 

このよのなかに しゅつげんすることが

いま けっていされたようだ

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二番目のなんか、相当恥ずかしいんですが、読んでる人がすごく少ないから書けるという感じです。

『閑古鳥ブログ万歳!』




「幻想大図鑑」という構想

「幻想大図鑑」と言うのを作ってみたいと思っているんですよねぇ。

つまり、幻想の世界のことをいろいろ集めて、図鑑にしたら面白いだろうなということですね。

  ※こういうのは、他でいくつか見たことがあって、それぞれにオモシロイと思っていたので、
   自分もやってみようかと思ったという次第です。
   こういうパターンの「図鑑」というのは、たいてい、かなりインチキくさくて最高にオモシロイ
   ので、『それじゃあ、ひとつ自分も』と思ったわけですね。

これは、数か月前からやっている背景に金箔を使った絵を見ている時に思いついたもので、

今、このブログのプロフィール画像に使っている花みたいな絵の一連のシリーズ(?)を見ている時に

ふと、思いついた「題」が『金塊の中に自生する植物』という「題」だったんですが、

その植物に『ヘンテコな名前を付けてもいいんじゃないか?』ということから、

その「ヘンテコ名前」を考えているうちに、止まらなくなって、

いろいろな「ヘンテコ名前」がたくさん出来てしまったので、

『これをまとめて図鑑に出来るかも?』と思ったわけです。


まぁ、よくもこんなくだらないことを思いつくやつが居るもんだと思います。
(『あぁ、自分か?』)


そんなわけで、「幻想大図鑑」という構想です。

  ※非常にくだらないので要注意

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『黄金空間に出現した「アマエリミ」の花束』:この前までプロフィール画像にしていた絵です。

『金塊の大地に自生する「タマロ・ケララの花』:今このブログのプロフィール画像に使っている絵です。

『金流大気の中に伸びる「ヤオマキリ」の枝』:上の二つと似たようなモノです。

『虹色銀河に現れた「ゴールデン・ホール」の中で生息できる唯一の植物「パラサウルス・フラワー」』

『金泥流の渦に翻弄される「ポリル・エティオン浮草」』

『金岩洞窟に繁殖する「ネヴァラジュール苔」』

『黄金丘陵の斜面に群生する「シコロユメイ草」』

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バカです。

いや、完全にヴァカです。

しかも、まだたくさんある!

自分がこんなにヴァカだとは、いままで気づかなかった。


まぁ、前に書いた「カプセル画」と同じで「アソビの絵」だと思ってますから、

『ハハハ、こんなものを本気でやるわけないでしょう?』

『それでもヴァカには違いないですよ!アナタ』

『ヘーイ、ヴァカ最高!ヘヘーイ、ヴァカまんぜーーい!!』

『なにがアソビだ、十分本気じゃねぇか』

『ケヘッ!』





絵の中は「無次元」」

「絵の中の次元」は二次元ではないと思うんですねぇ。 


確かに「平面」ですから二次元ではあるんでしょうが、

「絵の中の世界」はそういう物質的な意味とは別の「次元」にあるわけですから、

一般的に考えられるところの「次元」ではない「異次元」なんだと思うわけですね。


でも、「異次元」と言うと、この世界の中での「異次元」を考えてしまうので、

いっそのこと「無次元」と考えてしまってもいいんじゃないかと思うわけです。
(「0次元」という言い方もあるらしいですが、それとも違う「無次元」ということです)


まぁ、「時間も空間も無いような世界」という感じでしょうか?

というか、「世界」自体が無いと言った方がイイのかも知れません。

そういう「無次元」にナニカを投げ入れることで、

「絵の中の世界」がはじめて現われるのかも知れませんね。


まぁ、『私は、そう考えて絵を描いています』と言うだけのことなんですが、

こんなことって意外と大事なことなのかも?と思う時があるわけです。

具体的にナニカの役に立つわけじゃないんですけどね。


何かにつけて、こういうようなことを言うと、

『そんなこと考えてないで、絵を描くことの方が大事だろう!』と言う方がよく居らっしゃいますけど、

それは、昔の時代の「職人的な芸術」については言えることなのかもしれませんが、

「現在形の考える芸術」には対応していない考え方だと思うわけです。


現在の、そして未来の「芸術」に関する限りでは、

むしろ、『絵を描く前に考えることが重要だろう!』と言うべきなんじゃないかと思います。


ただ、そこで「作品」や「制作」を軽視していいということではないというだけのことで、

「考えること」を軽視してもやはり良くは無いんだと思います。

要するに、『両方とも大事でしょ』ということなわけで、当たり前のことなんじゃないでしょうか?


「作品偏重で思考軽視」と「思考偏重で作品軽視」はあるのに、

「両方重視」だけが無いという感じがするんですねぇ。

でも、本当は「両方重視」がいいに決まってます。


「両極に寄っているモノ」はある意味で徹底しているように見えますが、

実際に徹底しているモノと言うのは「両極をあわせもっているモノ」であって、

どちらかを切り捨てるのは、徹底していなくてもできることですよね。


そんなわけで、取り敢えず、私の場合、

『絵の中は無次元、!これ大事ネ!!』ということにしておこうかなと。

そんな風に思っております。




「毒親」と「親毒?」

最近になって、「毒親」という言葉を聞く機会が非常に多いなぁと感じています。

インパクトがある言葉なので、初めのうちは『えっ!毒親?』という感じで、

いちいち反応していたような気がしますが、最近はけっこうよく聞くのであまり気にも留めなく成りました。

  ※「毒親」は子供の「毒」に成るような「ふるまい」や「教育」をしてしまう「親」のことです。
   結果的に子供が精神的な抑圧を受けて、何らかの問題を抱えてしまうことに成ること
   が多く、社会的な問題に成っています。
   いわゆる「虐待」もこの一種だと思いますが、ハッキリした「虐待」とは言えないケース
   でも、結果的に子供にとっての「毒に成ってしまう親」を含めて「毒親」と言うんだと思い
   ます。

そして、「毒親」という言葉にケチをつけるつもりはないですが、

実は、これ、「毒親」ではなくて、「親毒」なんじゃないの?と私は思っているわけです。


「毒親」と言うと、あくまで「ある種の親」に問題があって、

その「問題が無い親」には関係ない話ということに成るわけですけど、

『それにしては、あまりにも多いんじゃないか?』と思うんですね。


「問題が無い親」が、あまりにも少なくて、

最近では、「超・毒親」から「やや・毒親」まで含めると、

「ほとんどの親」が少なからず「毒親」なんじゃないか?とすら思うほどです。


そうなると、「毒親」と言うよりも「親毒」と言った方がイイんじゃないか?と思うわけですね。


つまり、「ある種の親」が「毒親」なんじゃなくて、

「親」という存在自体が「毒」を持っているということなんじゃないかと思うわけです。


これは、おそらく昔の時代には無かったことで、現代社会が生み出している現象なんだと思います。


本来、「動物の親」は「子供の毒」に成るようなことはしないようにプログラムされているわけですが、

現代社会が人間に対して「複雑すぎる要求」を突き付けて来るもんですから、

「人間の親」がその要求を処理しきれなくなってきているんだと思います。


「社会の要求」が「人間の処理能力」を超えた時点で「毒親」が急増したんでしょうね。

そして、「毒親」の方が多数派に成った時点からは「親毒」ということに成るわけです。


要するに、「親」が「社会の複雑すぎる要求」に答えようとしたり、それを達成しようとしたりしていくと、

結果的に「親毒」が発生してしまうということです。

ということは、それを避けるには「社会の要求」を無視する必要が出て来るわけですが、

それは「社会的なドロップ・アウト」を意味しますから、

そこでまた別の問題が発生してしまうという「二重のワナ」に成っているわけです。


こういう複雑に仕掛けられた「トラップ」を上手くかいくぐって「毒のない子育て」を達成できる「親」は

必然的に限られてしまうわけで、「大多数の親」は「親毒」を発生させて「毒親」に成るわけですね。


そうなってくると、「大多数の子供」が「精神的な抑圧を受けることに成りますから、

そのうちのかなりの数の人たちが、何らかの問題を抱えることに成ります。

そうすると、それがまた次の世代にも影響を及ぼすようになるでしょうから、

典型的な「負の連鎖」が生まれてしまうわけです。


というか、その「負の連鎖」の状態が現在の「親毒」なのだと思います。


これを食い止めるには、

「親毒」が発生してしまうメカニズムを一般的に広めて、

そのメカニズムを意識して「子育て」をして行かないと

「毒親」になってしまう可能性が高いということを普及させていく必要があると思いますが、

『それを誰がやるんだ?』ということに成るわけです。


つまり、そういうことを担当していたのが「親」だったわけで、

その「親」が「毒」に成っているわけですから、

新しい担当部署が必要なんじゃないのかなと。


そういう風に思いますよ。ポクは


  ※追記

『そんなにひどい親ばかりじゃないだろ』と思う人も居るでしょうが、

これは「毒親」=「ひどい親」ということではなく、

本来、親が選択しなかったはずの

「子供の不利益に成ること」を選択する親が増え続けているということです。


「社会」が最優先にするのは「社会の利益」ですから、

「社会の要求」に従っていくと、社会的順位が低い「子供」の「利益」が無視されるようになるわけですね。


昔の親はどんな子育てをするにも、基本的に「子供のため」という前提で子育てをしていたと思います。
(社会的逸脱者でなければ)

それが、現在では「子供のため」と言いながら、明らかに「自分の利益」や「世間体」などを優先して、

その結果「子供の不利益」が生じていても、それを顧みないような親がたくさんいて、

むしろ大多数と言ってもいいくらいです。


でも、これは必ずしも「親」が自己中心的な考えだけでやっていることではなくて、

どちらかと言うと「社会の要求」に答えようとした結果だと思うわけです。

つまり、『社会的には良いことをしている』ということに成っているわけです。


だから、そういう親たちは、

それが、これから社会の中で生きていく「子供のため」だと思ってやっているわけです。

だから、多少のことではやめません。
   

要するに、「社会の要求」に答えようとし続けていると、

何が「子供のため」で、何が「自分のため」で、何が「単なる世間体」なのかが

わからなくなってしまうような構造が出来上がってしまっているんだと思いますね。
   

それから、「親毒」を受けて育った子供について言うと、

強い「親毒」を受けて育った子供は、当然その悪影響を受ける可能性が高いわけですが、

ほんのわずかな「親毒」に反応してしまう子供もいるように思います。


「親毒」は、本来の親には無いはずのモノですから、

子供は、それに対してまったく無防備にできているわけで、

ごく微弱な「親毒」でも、それを受け続けた場合、意外なほど強い抑圧を感じてしまう子供もいて、

結果的には強い「親毒」を受けた子供と同じような影響を受けてしまうこともあるようですね。

むしろ、本当に問題なのはそういうケースなのかも知れません。



   

「ランダム審査員」

いま「芸術の世界」は、いろいろな意味で『行き詰っている』と思うわけです。
(ホントのことを言えば、『もう百年くらい行き詰りっぱなし』だと思いますけど)


一度、アカデミズムの中で身動きが出来なくなって行き詰った「芸術」が、

「芸術の20世紀」に入ると、いきなり急転直下の「破壊に次ぐ破壊」の繰り返しが起こり、

その繰り返しが、半世紀以上にわたって持続するという

「信じられないほどのエネルギー」を発揮することに成ったわけです。


そのこと自体がよかったのか悪かったのかを別にすれば、

その時期、少なくともある種の「動き」が生まれていたのは事実でしょうし、

「芸術の20世紀」の流れの向きによっては、「行き詰まり」を脱出することも出来たんだと思います。


しかし、「いま」また「芸術」は行き詰ってしまっているわけです。

  ※このことについては、『もう、どうでもいいよ』と言う「アキラメ派」から
   『えっ?行き詰ってなんかいませんよ』という「スットボケ派」まで、多
   彩な「〇〇派」があると思いますが、本当に「芸術の世界」が躍動感を
   持って動いているなら、そんな「行き詰まりの話」自体が出てこないと
   いうのは確かなことだと思います。

というか、実際には、最初から「行き詰まり」を抜け出せていなかったんじゃないでしょうか?
(私はそう思います)

『なぜ抜け出せなかったのか?』

要するに、「権威」を捨てられなかったんだと思うわけです。
 

「芸術の20世紀」は、「旧時代の権威」については完膚なきまでに破壊しましたが、

それをやっている自分たちが「権威」に祭り上げられるのは食い止められませんでした。


少なくとも「天才という偶像」を完全に捨てきることが出来た人は居なかったんだと思います。


なんだかんだ言っても、「巨匠」達は

その「偶像」を少なからず受け入れ、

その「偶像」から少なからず利益を得て、

その「偶像」を少なからず心地よい居場所にして、

その「偶像」でメシを喰っていたんだと思います。


だからこそ、彼らが「巨匠」と呼ばれているわけで、

自分に与えられた「偶像」を破壊した人が居たとすれば、

その人のことをだれひとり「巨匠」扱いしなくなっているはずですよね。


つまり、「人の権威」は破壊して、「自分の権威」は受け入れてしまったわけですね。

正に典型的な「権威」の在り方です。

だったら、抜け出せるわけありません。

だから、行き詰ったマンマなんだと思うわけです。



さて、そこで「ランダム審査員」です。


現在、「芸術」に関するあらゆる「審査」においては、

必ずと言っていいほど「権威ある人」が「審査員」に成っていますし、

「権威ある人」が「審査員」を務めていないと「その審査」にも「権威」が生まれませんから、

「権威がモノを言う世界」では、ほとんど意味を成しません。


ここのところが「現在の芸術」を権威的にして行き詰らせている

全てのことの「起点」に成っていると思うわけです。

ここさえ変えれば良くなるとは思いませんが、

先ず、ここが変わらなければ絶対に良くなることは無いと思いますね。


美大の入試にしても、公募の審査にしても、

とにかく、ありとあらゆる「芸術の審査や査定」には「権威」がつきもので、

「まったく権威のない人」に「審査」が任されることはありません。
(たとえば「美大生」でも「権威」ではあるわけです)


そこのところを、なんとかできないかということです。

つまり、「まったく権威のない人」に「審査員」や「査定者」になってもらうということが出来れば、

すこしイイのかな?ということです。


たとえば、「アルバイト募集」の広告を出して、

「仕事」の内容は「軽作業」や「簡単な仕事の手伝い」などとしておいて、

集まった人たちに「審査員」に成ってもらおうというわけです。


つまり、ランダム(無作為)に選ばれた人に「審査員」を任せようということです。


そこで問題に成るのは、

『ただ単に、素人にテキトーな審査をしてもらいたいわけではない』ということです。


「権威」から抜け出すのに絶対に必要に成るのは「素人の視点」だと思いますが、

その「素人」が必ずしも権威から離れた審査をしてくれるとは限らないわけです。

つまり、「なんとなくそれらしいもの」を選んでしまうことが予想されるわけですね。

まぁ、『空気を読んでしまう』ということでしょう。
(それが「権威」と言うモノですから)

  ※よく公募展などで「オーディエンス賞(見に来た人が投票できる」と言うのがありますが、
   やはり、「なんとなくそれらしいもの」が選ばれていることが多いと思います。まぁ、「オ
   ーディエンス賞」の場合は、あくまで「入選作」の中からしか選べないので問題外ですが。

それでは、「ランダム審査員」である意味が無くなってしまいます。


ここで、本当に知りたいのは「素人の視点」の中でも、「素人が感動するモノ」についての「視点」です。

つまり、「その他のモノについての視点」はカットしたいわけですね。


そこで、まず、集まった「ランダム審査員」にすべての作品を見てもらったうえで、

『この中にあなたが「感動した作品」はありましたか?』と質問します。

そして、『無かった』と答えた人にはアルバイト料を20%アップすると言う条件を提示します。

つまり、『感動した』と言った人はソンするわけですね。


ソンしてでもその「感動」を伝えたい人だけが残るわけです。

ソンした分のお金を払って、その作品を後押ししたいと思った人ということですね。


『空気を読んでなんとなくそれらしいモノを選ぶ』人たちは

「バイト料20%増」の方を選ぶでしょう。


アルバイトを百人集めても、数人しか残らないかも知れません。

0人ということだってあり得るでしょう。

でも、それぐらいのところから始めていかないと成らないほどに

現在の「芸術の世界」は権威的になってしまっていますから、

そういう一種の「賭け」が必要だと思うわけです。


行き詰って、固まってしまっているのなら、

『なにかやらないと動かないんじゃないですか?』と。


そんな風に思って言ってみました。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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