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『もしも、絵の値段に上限があったら』



現在は「絵の値段」と言うと「天井知らず」という感じがしますが(「売れていない人の絵」はタダでも迷惑がられたりしますけど)、その「絵の値段」に「上限」を設定したらどうなるんでしょうね?

しかも、かなり安い値段で。


つまり、ごく一般的な品物と同じように、「原材料費+手間賃」というようなことを基準にして割り出した値段を「絵の値段」にしてみたらどうなるのか?という、毎度バカバカしくて、とりとめもなくて、つまらなくて、どうでもいい話です。

読んでトクすることはありませんから、「バカ者」の方以外にはお勧めいたしませんので、アシカラズ。


さて、かなり多くの人が現在の「絵の値段」には疑問を持っているんじゃないかと思うんですが、そういう疑問が『いったいどこからきているのか?』ということを考える人は少ないような気がします。


たとえば「何百億」というような「有名作品」の値段については、そこに疑問を抱く人も多いと思うわけですが、でも、それが「モナリザ」なら、その疑問は消えて無くなってしまうかもしれませんし、「印象派」ぐらいまででも疑問が消えてしまう人も結構いると思います。

ところが、それがモダン・アートの作品と成るといきなり「疑問指数」が急上昇します。
なぜでしょうか?


まぁ、要するに『誰でも描けるように見えるから』なんじゃないでしょうか?
実際に描けるかどうかはさておき、『描けるように見える』ということが、この疑問の原因だと思うわけです。


つまり、『特別な「能力」も「労力」も「材料」も使われた形跡が見られない』ということなんじゃないでしょうか?

『そう言うモノが「人がやらないことをやった」とか「トンデモナイ発想」と言うだけで、どうして、そんな値段に成るの?』ということじゃないかと思います。


ややつまらない言い方になってしまいますが、「モナリザ」や「印象派」だと、ほとんどの人が『自分には描けない』と思うので(これも、実際に描けるかどうかではなく『そう思う』ということです)、「疑問指数」が低くなるんだと思うわけです。

「モナリザ」の場合は、さらに「文化遺産的な価値」も大幅にプラスされますから、ほとんどの疑問が消えてしまうわけですね。


いずれにしても、世の中のほとんどのモノの値段は「原材料費」や「人件費」などの「コスト」から割り出されていることが多いわけですが、「芸術」に近い分野のモノだけは、「例外」と言うことに成っていて、しかも、そこに「上限」すら設定されていないわけです。

たぶん、「芸術関連のモノ」と「一般のモノ」との間にあるこのギャップも、疑問の原因に成っているんじゃないかと思います。


そこで、『もし仮に「絵の値段」に「上限」を設定したらどうなるんだろうか?』と考えてみたわけです。


まず、「上限」をいくらに設定するか?ということがあるわけですが、そこのところは、「歴史的な価値」や「作者の知名度」などを完全に無視して、しかも、極めてテキトーに『100万円ぐらいでドナイデッカ?』ということで。


取り敢えず、「モナリザ」から「超無名作家の絵」まで含めて、「上限」は一律で「100万円」ということにしたらどうなるでしょうね?


まず、100万円を遥かに超える価値があると思われるような「有名な人の絵」は、ほとんど売り買いされなくなるでしょうね。
(利益が出るので、持ってた方がトクですから)


問題は「そこまでスバラシクない絵」です。
というか、「その絵から100万円以上の利益があてこめない絵」ということです。

『100万円の利益も出ないような絵はダメな絵だろ』と言う人も居るかもしれませんが、実際には、そういう絵の中にも掘り出し物はたくさんあると思いますし、楽々100万円の利益を生み出せる絵の中にも「ソーデモナイ絵」もあるでしょう。

そういう絵を買うとしたら、どういう考え方で買うようになるでしょうね?


100万円で買っても100万円以上で売れることはありません。
100万円以下になってしまう可能性はあります。
(決まっているのは「上限」だけですから)

そうなったとき、何を基準にして「絵」を売り買いするようになるんでしょう?


まぁ、ソンしても100万円以内ですから、とにかく、自分が好きな絵を買うのか?

それとも、取り敢えず、次も確実に100万円で売れそうな絵を買うのか?

はたまた、売ることも買うことも全く考えなく成るのか?


いずれにしても、「有名作家」の作品が売り買いされる機会が激減すれば、「市場」は「無名作家」を扱わざるを得なく成るわけで、少しは底辺に近い所まで「市場」の範囲が広がることに成ると思います。


今の状態では、「絵の値段」に惑わされて、「絵の本当の価値」はまったく見えなくなってしまうので、こういうことを考えてみると、少しだけ「絵の真価」に近づけるような気がします。


実際、底辺に近い所で地道な活動を続けている作家の方にあったりすると、私は心を打たれることがあります。

そういうのを「感動」と言うんだと思っています。
(『いや、「同情」じゃなくて!』)

それで、こんなことを考えてみました。

でも、役には立ちません。


寝ます。




「AI」は「人間」を教育することが出来るか?



この前、「AI」が「人間」に近づいてきていることについての記事を書いたんですが、それと同じ「AI」についての話です。


「AI」と呼ばれる「人工知能」は、確かに昔に比べれば、かなり「人間」に近づいてきていると思います。
でも、その「人間に近づいた部分」とは、要するに「人間をコピーした部分」であって、本当の意味で「進化」したのは「AI」ではなく「人間の自己複製技術」なんじゃないか?と思うわけです。


まぁ、「人間が創り出すモノ」とはすべてそんなもんだと思いますが、「AI」の場合は、見た感じが「人間そのもの」なので、どうしても「AI」が自分で進化したような錯覚が生まれてしまうんでしょうね。


それはさておき、今回は「AI」がここまで「人間」に近づいたんなら、「人間を教育すること」は出来ないだろうか?というお話です。

役には立ちません。
(いつもですけど)

しかも、「科学技術に関する知識=ゼロ」
さらに、「話題の緊急性=ゼロ」
そのうえ、「道徳的常識感=ゼロ」
はたまた、「オモシロサ=ややマイナス」

という内容には、自らあきれ果てるほどの記事に成ります。
どうぞよろしく。
(ナニが?)


さて、『「AI」が「人間」を教育できるのか?]』ということなんです。


現在、「児童虐待」や「学校のイジメ」の問題が非常に深刻化していて、このままいくと「社会」は崩壊してしまうんじゃないのかと思うほどですよね。

 ※現在の社会が抱えている問題の中でも、「虐待」や「イジメ」は非常に深刻な問題
  だと思いますね。
  「~ハラスメント」なども含めて、「強いモノが弱いモノを虐げる」という形の「暴力」は、
  「人間社会」を崩壊させる可能性もあるんじゃないでしょうか?
  (これ、一種の「共食い」だと思いますよ)
  その点では、「認知症」と双璧だと思います。

 ※一般的に「認知症」は「脳萎縮」によって起きる病気だと言われていますが、私は
  「脳萎縮」は結果的に現れて来る症状であって、実際の原因は「年寄りが尊敬され
  なく成ったこと」だと思っています。
  「社会」の中で尊敬されなくなった「年寄り」が自暴自棄になって「ある種の思考停
  止」に陥り、その結果「脳」の中に全く使われない部分が出てきて、その部分が委縮
  し始めることによって「認知症」が発症するんだと思っているわけです。
  (高齢者が運動せずに生活していれば、歩けなくなってしまうのと同じ原理ですね)
  そして、その「認知症」によって、また、さらに尊敬されなくなってしまうという悪循環が
  起きているんだと思うわけです。
  これは、昔、スラム街で育った子供が、努力してその劣悪な環境から抜け出そうとす
  るのではなく、むしろ、それとは反対に社会の中で落ちていくような生き方をしていた
  のと同じ原理だと思います。
   
  そう考えると「認知症」も「社会的年寄りイジメ」の結果であって、「エイジ・ハラスメン
  ト(老ハラ?)」というような「社会現象」としての性質が強いもので、必ずしも「脳の病
  気」ではないような気がしているわけです。

  そして、これらのすべてが、「強者」が「弱者」を虐げていることから発生しているんだ
  とすれば、つまり、人間同士が喰い合っているわけですから、要するに「共食い」のよ
  うな現象が起きているわけです。
  しかも、「弱者」の側が、自分を排除した「社会」に対する「毒」と成ることで、自らが喰
  われることをもって「社会」の「毒」となって、「社会」を崩壊させるような構造を創り出そ
  うとしているわけです。

かなり、話が脱線してしまいましたが、「教師」が「イジメ」に自ら参加しているケースもあるというような現状で(劣等生の間では昔から良く知られていることですが、ヒドイことをする教師は普通に存在します)、現在の「学校」や「親」に「教育」が出来るのか?という問題があるわけです。


もちろん「マトモな教師」も「マトモな親」もそれなりに居るんでしょうが、少なくとも、かなり逸脱した教師や親がいることも事実でしょう。
そのギャップがある分、「虐待」や「イジメ」を受けた人のダメージは大きくなってしまうような気がします。


その点、「AI」だったら、少なくとも「ギャップ」だけは無くなるのかも知れません。

なにせ「機械」ですから、「感情」はほとんどないわけだし(たぶん)、イライラしたりもしないんでしょう(たぶん)。
それに、異常な偏りのある「変な人」も居ないでしょうし(たぶん)、そうなると、『あれ?意外と「AI」って「教育」に向いてるんじゃないの?』と言う気さえします。

しかし、そうは言っても、その長所が裏返せば短所でもあるわけで、おそらく、「感情が無い(たぶん)」という所が問題になってくるんだと思うわけです。

つまり、「子供の情緒」が育たないんじゃないか?という疑問があるわけですね。


『動物実験でもやってみますか?』

「動物ならどうなってもいいのかよ?!」


まぁ、取りあえず、そこは抜きに考えるとしても、私は、これ、結果的にやることに成るような気がしますね。
おそらく、数十年後には「AI」が「人間」の教育の一端を担う時が来るような気がします。


現在、既に勝手に床を這いまわっている「お掃除くん」をよく目にします。
(あんまりキレイに成ってませんけどね)

そこから「ロボット・家政婦さん」まではすぐそこでしょうし、そうなれば「ロボット・ベビー・シッター」も『あっ!』という間です。
そこで、「ロボット・先生」を止められる要素ってありますか?


私は『ない』と思いますよ。
「人間」は常に「新しい方向」へ向かいますから。


たとえば、「ひどい虐待を受けた子供」や「イジメから逃れて登校拒否に成った児童」にとって、「ロボット・親」や「ロボット・教師」が「ややマシ」なのか?
それとも「さらにワルイ」なのか?それはわかりませんが、少なくとも、一度はやってみることに成るんじゃないんですか?

『だから、なんだって言うんだ?』と言われればそれまでですけどね。


まぁ、そんな風に思いました。




「創作者」→「鑑賞者」→「批評者」



私が考えるところの「芸術者」についての話です。

 ※「芸術者」と言うのは、「芸術家」という呼び名の代わりに私が使っている名称です。
  「芸術者」は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」という三者を指します。
  この「芸術三者」を完全に対等な関係と考えたいと思って、私はこの名称を使ってい
  ます。
  「鑑賞者」と「批評者」は同じ「見る側」なんですが、「鑑賞者」は「芸術」を肯定的に見
  る人で、「批評者」は批判的な視点をもって「芸術」を見る人というふうに考えています。

「芸術」においては、「創作者」→「鑑賞者」という順番は避けられない場合が多いわけですが(先に、「創作者」が作品を提示しないと鑑賞できないので)、本当ならば「鑑賞者」が起点に成るケースがあってもいいような気がします。

でも、「鑑賞者の求めるモノ」を「創作者」が探るようになるのは、純粋な衝動とは言えないので良くないと思いますから避けざるを得ないと思うわけです。


それで取り敢えず、「創作者」が起点に成るということが前提に成るわけですが、「創作者」→「鑑賞者」に続いて、「鑑賞者」→「批評者」という順番があった方がイイんじゃないかと思っているわけです。

そして、それをまた、「批評者」→「創作者」というふうに「創作者」に戻して循環させていけば、最初の起点が「創作者」であっても、三者が対等に近くなると思うわけです。


「称賛」と「批評」」との両方を受けたた後で、「創作者」にそれが戻っていくような流れが出来れば、三者が対等に成ると同時に、「創作衝動」の「純粋性」が保てるんじゃないかということですね。


現在の「芸術の場」においては、「玄人の批評家」が「素人の鑑賞者」よりも先に「作品」に触れることがほとんどです。


なにせ「玄人」ですから、当然情報に精通しているわけで、やはり、新しいものを見つけるのが「素人」よりも早いわけですね。

それで、どうしても「創作者」→「批評者」という順番が出来上がってしまうわけですが、「芸術作品」と言うのは基本的に、まず一番に肯定された方がいいんじゃないかと思うわけです。

なんと言っても、「芸術作品」には一律の評価基準を設定することが出来ないわけですから、いの一番に批判されてしまうと、その作品の良さが見えなくなってしまうわけです。
(「権威」をもって「絶賛」された場合は「その作品の欠点」が見えなく成りますけどね)

それに、どちらかと言うと「素人の眼」よりも「玄人の眼」の方が情報に左右されやすいわけですから、いちばん初めは、情報量が少ない「素人の眼」に触れた方がイイんじゃないでしょうか?


「玄人」には、その後いくらでも「批判の機会」はあるでしょうから、取り敢えず、「素人の鑑賞者」が一通り「その作品」や「その作者」に目を向けてから「玄人の批評家」が批評するという流れがあってもいいと思います。

そして、さらに「その批評」を「創作者」に返すという流れが出来れば、「創作者」が創作に対する「意欲」と「厳しさ」を失わずに活動を続けていくことが出来るんじゃないかと思うわけです。
(今は、一方的に「批評家」が批判したり激賞したりするので、「創作者」は常に振り回されていると思います)


現在の「芸術の場」が活力を失っている(そう考えない人も居るでしょうけど)のは、「素人の眼」が機能していないことによるところが大きいと思います。

なにかにつけて「権威ある玄人」が付けた「お墨付き」によってすべてが判断されてしまいますから、「権威を持たない素人」は従うしかないわけで、その方程式にのっとった鑑賞法ができない人は「芸術」を諦めるしかないということが、半ば公式のようになってしまっているわけです。

そこで、かなりの数の「素人の鑑賞者」が排除されてしまうために、「芸術の場」が活力を失っているように見えるわけですね。

 ※実際、『芸術なんてあまり興味ないよ』と言う人がたくさんいると思いますし、そ
  ういう人たちは、ほとんど、「現在進行形の芸術」には関わりを持とうとしません
  が、そういう人たちが、やや古い時代の評価に個人差が少ないような「名画」や
  「名作」の展示には行列を作っているというのも、まず間違いのない事実です。
  つまり、本当なら興味のあるハズの人たちが、この公式によって排除されてしまっ
  ているということです。
  しかも、その人たちは相当な数だというのもまず間違いないことなんじゃないでしょ
  うか?

これから、この「芸術三者」が出来るだけ対等になって行って、「創作者」と「鑑賞者」が対峙するという鑑賞スタイルが一般的になっていくことで、「芸術の場」は新たな展開を見つけ出していくように成るんじゃないかと思います。

当然「批評者」としては、その両者の「対峙する関係」を公平にに見据えて、その双方に対する批判を加えることに成るわけです。

そうやって、「創作」と「鑑賞」が循環するようになっていけば、「芸術」という文化はある意味での「完成形」に達するんじゃないかと思います。

それが「次の芸術」へ展開していくのか?

それとも「芸術の終わり」が待っているのか?

どちらなのかはわかりませんが、現時点での「芸術」が未完成の状態であることは間違いないと思います。


少なくとも、現在の『誰かが右と言えば、全員が右を向く』という状態は、どう考えても文化としての「完成形」ではないでしょうからね。


というようなことを考えてみました。



「具象画」はパソコン画面に強いのか?



最近は、「パソコンの画面」で絵を見る機会が急激に多くなっているわけですが、その「パソコンの画面」で見たときに比較的良く見える絵ってどういう絵なんだろう?ということを考えてみました。

 ※ここでは、絵具で描いた絵を想定して話をしていきます。


まず、人によっては、『「パソコンの画面」や「写真」なんかで「絵」を見たって、ナンニモわかりゃしないよ!』
という方が結構いらっしゃいますが、『ナンニモ』は言い過ぎだと思います。

確かに、かなり違って見えることも多いわけですが、ほとんど同じように見える絵もあると思いますし、ちがって見える絵でも『ゼンゼン違う』というケースはむしろ稀で、ほとんどの場合は、それなりのモノが伝わるんじゃないかと思うわけです。


じゃあ、なんで『ナンニモわかりゃしないよ!』なんて言う人が居るんでしょうね?


要するに、「伝わらない部分」があるっていうことなんだと思うわけです。
そして、その「伝わらない部分」って、いったいどこなんだ?と言えば、「色」だと思います。

つまり、「形」はだいたい伝わりやすいんですが、「色」は伝わりにくいんですねぇ。
「絵の具の色」と「光の色」は根本的に違いますから、ちがって見えて当然だと思います。

 ※映像は「光」で見えているわけですが、「絵の画面」は「絵具の色」で見えているわけ
  です。
  「絵具の色」も「光の反射」で見えているわけですから、一種の光でもあるんでしょうが、
  違うのは「物質」としての質量を持った「モノ」が発色しているということです。
  また、「光」も何らかの粒子であったりするんでしょうから(よく解りませんが)、「物質」
  でもあるのかも知れませんけど、「光の色」は「色の効果」の大きさに比べて、「物質」
  としての質量が限りなく「0」に近いというようなことじゃないでしょうか?
  その「色の効果」と「物質としての質量」が、「絵の具の画面」では一致しているのに
  対して、「パソコンなどの画像」ではギャップがあるということだと思っています。

  その「物質の色」と「光の色」の違いに加えて、「光の透過」による違いもかなり大きい
  でしょうね(むしろ、実際の「色の違い」としてはこちらの方が大きいでしょうか)。
  つまり、色が塗り重ねられた画面では、「光」が画面の表面だけでなく下の層まで透過
  してから反射されますから、それで複雑な色味が出て来るわけですが、そういう微妙な
  色味の部分は、なかなか「パソコンの画面」では忠実に再現できない場合が多いので、
  ここでも、やっぱり「色の違い」が出てきてしまうわけです。

 補足:もちろん、「パソコンの画面」も「物質」なわけですが、そこで「見えている色」は
    機械の中の光源から発せられた「光」であって、その「光」に「色」がついている
    から「色」として見えているわけです。そういう意味では、それはあくまで「光の
    色=波長」であって、「物質の色」ではないと思うわけです。
    そういう意味では、「写真」にもほとんど同じことが言えると思います。「写真」の
    場合は、「光」で感光させていますから、「物質が反射している光」を写し取って
    います。だから、やはり「絵の具の色」とは違って「光の色」に近い性質に成って
    いるんだと思っています。
    そういう意味では「スプレーで描いた絵」も、どちらかと言えば「光」を写し取って
    いるのに近いと思います。「スプレー画」は一種の点描画なわけですが、その点
    が人間の眼では確認できないくらいに小さいので、結果的には「光」を見ている
    時と同じ印象に成るんだと思いますね。
    けっきょく、「物質的な存在感」という意味では「ベタッと塗り込んだ画面」に勝るも
    のは無いということだと思いますよ。

    まぁ、長々と補足するようなことでも無かったけど。 

それに対して、「形」の部分は、ほとんど「光の色」と「絵の具の色」の違いに影響されませんから、ちがって見えることが少ないということだと思います。


あとは「大きさ」の問題ですけど、これは決定的なことではないと思いますが、やはり、実物よりもあまりに小さいと細かいところがよく見えなかったりしますから、大きい絵はやや不利だと思いますね。


でも、とにかく、「色」の違いが大きいわけです。
そして、そうなると俄然「抽象画」は不利になるということです。
「抽象画」は「ハッキリした形」を使わない場合が多いですからね。


そうすると、この「パソコン時代」には「具象画」なんじゃないのか?ということに成りますから、もしかすると、「具象画」が「芸術の先端」に返り咲くのか?と思います。


現在、「抽象表現」が必ずしも「芸術の最先端」とは言えなく成って来ている状況でしょうし、その上、「パソコン画面」でも不利となると「最前線」に留まれなくなるのは必至かも知れませんねぇ。


「抽象表現」と「具象表現」を融合して行くことが必要に成っていくんだとすれば(私はそう思っています)、それは「抽象表現」に「確実性」や「実体」を与えるためだと思います。

そういう確実で実質的なモノは、「肉眼」でみても「画像」でみても、遜色ない程度のモノを伝えることが出来ると思うわけです。


そうやって、「抽象表現」が確実なものになって行けば、きっと「パソコン時代」にも「抽象表現」は生き残っていけると思います。
そうなったときには、「具象」よりも自由度が高い「抽象」がまた見直されていくんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。


追記:実際には、「具象画」が「パソコンの画面」に強いのではなくて、現在に限って言うと
   「具象画」の方が「抽象画」よりも「形」に対する依存度が高いということだと思います。
   本当を言えば、「形」と「色」の両方で人の心を惹きつけられたら一番いいんだと思い
   ます。それで、『パソコンの画面にも強くて、実際に生で見たらモットイイ』と成るのが
   理想なんでしょう。

   と言いつつ、自分の絵をパソコンの画面で見ると、いつも『おいおい、ぜんぜん違うじ
   ゃないか!勘弁してくれよぉ』!ってな感じなり・・・・


   

「悪」とは「人間が人間であろうとしないこと」



私はいつも「本質を得たもの」は美しく、「本質を外したもの」は醜いと思っているんですが、「人間」の場合、その「本質を外したもの」とは、醜いだけではなく「悪いもの」でもあるんじゃないかと思うわけです。

つまり、「人間にとっての悪」とは「人間らしからぬことをすること」なんじゃないかということですね。


まぁ、ここまではいいとして、でも、私は「人間はまだ人間未満なんじゃないか?」とも思っているわけなんですねぇ。

 ※ここ言う「人間未満」とは、人間以下のダメな人も居るというような意味ではなく、
  「人間」と言うモノ自体が、まだ自分で設定した「人間というレベル」に追いつけて
  いないんじゃないか?というような意味です。
  つまり、まだ今のところ、すべての人が「人間未満」で、「人間と言えるほど立派な
  人間」には成っていないと私は思うわけですね。

そうなると、「人間らしいこと」が「人間の本質」とも言えなく成って来ます。

「人間に達している人間」にとって、「人間らしいこと」は「本質」でしょうが、「人間未満の人間」にとっては、「人間らしいこと未満」こそが「本質」に成るわけで、「人間らしいことをすること」は、むしろ「本質から少しズレたこと」になってしまうというわけです。


まぁ、要するに「背伸びしてる」ということに成ってしまうわけですね。

そういうのは、一種の「見栄」でしょうから、「やや醜いこと」にはいってしまうんだろうということです。


と言っても、そういうことを言っているとキリが無いので、どこかで折り合いをつけていこうと思うわけです。

そこで、「人間であろうとすること」が、現在の「人間未満の人間」にとって、最も「人間らしいこと」に当たるんじゃないか?と考えてみたわけです。


つまり、「人間であろうとすること」が「現在の人間にとっての自己ベスト」であり、「最も美しい在り方」でもあるということですね。

当然、「人間であろうとしないこと」の方は「現在の人間にとっての醜いこと」でもあり、「悪」でもあるということに成るわけです。


まぁ、そういうわけで『早く人間に成りたーい』
(『妖怪人間ベム』より)

『いつも頑張ってないと指二本(妖怪未満)に成っちゃうよ!』って思いました。


 ※『妖怪人間ベム』は昔のアニメです。
  妖怪なんですが、いつも人間に成ろうとしてけなげに頑張っている妖怪人間の物語
  です。(イメージ違う?)
  アニメの中の妖怪人間たちは、見た目、ほとんど人間なんですが、指が三本しかあ
  りません。
  でも、現実の世の中には「人間未満」なだけじゃなくて、「妖怪人間未満」の人もよく
  いますよね。
  要するに、そう言う人が、「人間であろうとしない人」なんじゃないかと思います。




「多重化」で「芸術表現」を広げられるだろうか?



私が考えているところの「芸術の多重化」についての話です。

 ※「芸術の多重化」と言うのは、出来るだけ既存の表現形態の中で、多くの要素を
  取り込んでいくことによって、「芸術の領域」を広げることを目指して、私が使って
  いる言葉です。
  私自身の場合で言うと、「絵と額」とか、「絵と題」の間で「多重化」を目指しています。
  その場合、「既存の表現形態」に当たるのが「絵」で、「多くの要素」に当たるのが
  「額」や「題」に成るわけですね。
  つまり、「絵」という表現の中に、別の要素として、「額」や「題」を取り込むということに
  成ります。
  「絵」自体の中でも「多重化」しつつ、さらに別の要素も取り込んでいけたら、少しは
  「芸術の領域」を広げられるだろう、というようなことで、そんなことをやっています。


私は「芸術表現」は「多重化」していくしかないだろうと思っているんですが、それは、「多重化」で「表現の領域」を広げることが出来ると思っているからなわけです。

とは言っても「多重化」=「無限」というわけではないですから、所詮限りがあるわけですが、でも、それは「無限」ではありませんが、明らかな「有限」でもないと思うわけです。


「多重化」しない場合は、どうしても限界がすぐに見えてしまうわけですが、「多重化」することによって、「限界までの距離」をかなり延ばすことが出来ると思うんですねぇ。

実際、「現在の芸術」は、その「限界」に達した後、その状態を半世紀以上も続けて居るために行き詰ってしまっているわけです。

これは、他の分野に当てはめて考えれば当然のことです。


たとえば「料理」で言えば、大航海時代には、新世界が発見されるたびに「未知の食材」が旧世界に持ち込まれたわけです。

その頃までは、「料理」が「多重化」する必要がはなく、いつも「新素材」を使って「新しい料理」が生み出されていったんだと思います。
つまり、ほとんど同じ料理方法でも、「素材のチガイ」だけで、「チガウ料理」に成っていたということですね。


ところが、地球の全体像が把握されるに至って、もう「新大陸」は無くなってしまいました。
当然、「未知の食材」もネタ切れに成るわけです。


そこで、「多重化」が必要に成るわけですね。

つまり、限られた食材の中で、「料理」自体が「より複雑な料理」へと「多重化」していく必要が出てきたわけです。


単純に言って、「いい食材」に塩を振って焼けば十分に美味しくなると思います。
でも、それでは、すぐに「限界」が見えてしまいます。

まぁ、一言で言えば飽きてしまうわけですね。


そこで「未知の食材」が出現してくれれば、また飽きずにおいしく食べられます。
でも、もう「未知の食材」がなくなった段階に成ると行き詰ってしまうわけです。

それでも、また、しばらくして「同じ食材」に塩を振って焼けば、美味しく食べることは出来ます。
でも、それはもう「創作された料理」とは言えないわけです。


そして、この『創作されたものではなくなってしまう』という部分については、「すごく美味しくてまったく飽きない食べモノ」があったとしても同じことなんですね。
要するに、その段階に成ると、「美味しいだけ」じゃ物足りなくなってしまうということですね。


こういうことと同じことが、いま「芸術」で起きていることだと思います。


単純に言って、「美しいモノ」を見つけてきて、それをそのまま描けば「美しい絵」になります。
これが「塩だけの料理」に当たります。

十分に美味しいし、十分に美しいし、何か不足があるわけではありません。
ただ、今はもう、それらが「創作された料理」でも「創作された芸術」でもなくなってしまったということです。

それらは、いま食べても十分に美味しいし、いま見ても十分に美しいんですけどね。


少なくとも「創作された芸術」を目指す場合に限っては、それでは足りなくなってしまうということです。
そこで「多重化」するしかないと思うわけですね。


たとえば、「すき焼き」という料理がありますが、「多重化」の見本だと思いますねぇ。

「焼き物」でもあり、「煮物」でもあり、「肉料理」でもあり、「野菜料理」でもあり「豆腐料理」でもある。
しかも、「卵料理」とも言えなくもないという。

あんな料理を、「牛肉文化」を持たなかった日本人がいきなり創り出せたのはスゴイことだと思います。


「牛肉食文化」が無かったために、かえって自由な発想が出来たのかも知れませんね。

「すき焼き」の場合は、「新たな食材の出現」と「多重化」が同時に起きたということでしょう。


そちらはともかくとして、話を「芸術」に戻すと、「芸術」も「多重化」するしかないような気がするわけです。


出来ることなら、行き詰る前に「多重化」してもらいたかったモノですが、今からでも、「多重化」は有効だと思います。
というか、そこにしか行く方向が無いと思うわけですね。


「芸術」が「多重化」していくことで、「限界」を少し遠い位置に置くことが出来れば、「芸術」においても、ある程度の周期をもって、反復が可能になると思っています。


先ほど、ただ美しいものを描いても、それはもう「創作された芸術」とは言えないと言いましたが、一定の期間が過ぎて「完全に忘れ去られた食材」を復活させれば、それは「新たな料理」と言えるでしょうし、それと同じ意味で、「多重化」した「芸術」においては、ある一定の期間を経て、少しづつズレながら螺旋を描くように周期的に同系統のスタイルが繰り返されることは「創作された芸術」の範囲に含まれると思っています。


厳密に言えば「純粋な創作」とは言えないのかも知れませんが、逆に言えば、「厳密な模倣」や「厳密な伝統の踏襲」とも言えませんし、本当のことを言ってしまえば、「完全に純粋なモノ」なんて人間には創り出せないと思います。

だから、その辺の範囲までを「創作された芸術」に含めても問題ないように思います。


でも、芸術の流れがそういった「繰り返し」に成っていないところに問題があると思うわけです。


「芸術の20世紀」以降は、常に「最も新しい芸術」が賞賛されてきましたし、それは「次の芸術」が現れた途端に、「過去の芸術」とされてきました。


そして、「ポップ・アート」の後、その「次の芸術」は現れていません。
というか、「次の芸術であること」自体が飽きられてきています。

それで行き詰ってしまっているわけです。


そこで、『「多重化」しかないでしょ!』と言いたいわけです。


これからも、延々と「ポップ・アート」を焼き直し続けますか?
それとも、「多重化した芸術」を目指しますか?


と、そんな風に思うわけなのです。


「芸術」がいち早く切り捨てた「努力」を、いま「芸術」がいち早く見直す必要がある



「芸術の20世紀」が切り捨ててしまったモノの中でも、最も重要で最も切り捨ててはならなかったモノが、「努力」なんじゃないかと思うわけです。


要するに「天才」とか「才能」という言葉と引き換えに「努力」を切り捨ててしまったんだと思うわけです。

そして、そのことが「芸術」は言うに及ばず、社会のあらゆることに悪影響を及ぼしてきているように思える今日この頃なわけですねぇ。

 ※これは別に社会を啓蒙しようという話じゃありません。
  ほかの記事もそうですけど、そういうのはエライ人がやることで、私はすごくエラクな
  いので、そんなことはやりません(やっても馬鹿にされるだけだし)
  ただ単に、『私にはそう見えるんですけどねぇ』というような話です。
  あまりにも理屈に合わないことや、オカシナことがあると、つい言ってしまうというだけ
  ですので、ご気分を害されませんよう。


『努力が切り捨てられてしまった』と言うと、『そんなことは無い!みんな努力しているじゃないか?!』と言う人も居るでしょう。
『天才っていうのは、人の見ていない所でモノスゴク努力しているんだぞ!!』なんてのも言われそうですね。

確かにそうだと思います。
でも、だったら、なんでそれを「天才」なんて言うんでしょう?

「努力家」でイイんじゃないですか?


要するに、「天才」や「才能」という言葉があまりにも大きくなってしまっているために、「努力」が相対的に小さくなってしまうということだと思います。
だから、「努力も大事」と言うことを知ってはいても、どこかでは「努力」を軽視していて、それどころか、どこかでは「努力」をバカにしていたりするわけです。

つまり、「努力」は常に「天才&才能」よりも下に位置づけられていて、「天才&才能」と比較されたときには、必ず『ポイッ!』と切り捨てられてしまうわけです。


しかも、「努力」は「天才&才能」とは対極にあるモノということに成っていますから、それらと比較した場合には、結果的に必ず「天才&才能」が選択されるだけでなく、「努力」は「天才&才能」に逆行するモノと言う扱いになってしまうために、むしろ、嫌われたり、バカにされたりするようになってしまうわけです。

 ※これは人に『あなたは努力家ですよね』と言ってみればよくわかります。
  現在、少なくとも日本においては、まず、ほとんどの人が嫌がります。
  まぁ、三回くらい言うと90%くらいの人に嫌がられます。
  つまり、『あなたは努力家ですよね』というのが『あんた才能無いよネ!』
  というのと同じような意味なってしまっているということだと思います。

でも、実際は、それと逆の方がよかったんじゃないか?と思うわけです。
つまり、「努力」の方が「天才&才能」よりも上に位置づけられているくらいでもイイように思うわけです。


これは前に他の記事でも書いたんですけど、「努力」が評価される世の中では、みんなが「努力」するようになりますが、「才能」が評価されても、みんなが「才能」を発揮するわけではありません。

実際に「才能」を発揮するようになるのは「努力」した人です。
でも、その「努力」が評価されません。

だから、そのギミック(ワナ)に、ハマって「努力」しなくなってしまう人が増えてしまうわけです。


しかも、実際には「努力によって発揮されている才能」を、「才能によって発揮されている才能」であるかのように見せないと評価されませんから(こういうことから『天才は”影で”努力している』と言われているんだと思います)、そこでもまた、「純粋に努力する人」が少なく成ってしまうわけです。

まぁ、一言で言って、「努力を嫌う社会」ですね。
いいわけがありません。


少なくとも、いま、「努力しないでお金を稼ぐこと」や「努力しないで成功すること」が「イイこと」みたいに成ってますよね。
『そういう「才能」がある人は「努力」なんかしなくてもうまくいくんだ』みたいな。

そして、そういうことを社会が推奨している傾向すらあるわけです。


そういう発想が「クズ」です。
(これ、チガウと言う人も居るんでしょうか?)


まぁ、そういったことから、「芸術」が真っ先に切り捨てたモノならば、「芸術」が真っ先にそれを取り戻そうじゃないかということです。


「芸術の20世紀」が切り捨ててしまった「努力」を、「21世紀の芸術」で取り戻そうじゃないかと思うわけですね。
(私は20世紀をもう一度やり直すという考え方でやっていますけど)


そんなことを考えていくと、どうも「天才&才能」という言葉が、やけに安っぽい感じがしてくるわけです。

軽いと言うんですか?
もっと言えば、『バカラシイ』とすら思えて来るように成るんですねぇ。


要するに「流行りモノ」という風にしか思えなくなってくるんです。
(流行りモノだからバカラシイというよりも、盲目的に乗せられているというのが・・・)


もう、私の中では、「天才&才能」は、ほとんど意味のないモノと言っていいですね。

だから、いまだに「天才&才能」をありがたいモノと言うように扱っている人を見ると、『いや、もう「努力」でしょう』と言いたくなってしまうわけなのです。


少なくとも、「努力しない天才」ほど情けないモノは無いので、どっちにしろ「努力」した方がよくないですか?


まぁ、そういう風に思ったわけなのです。

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追記:こう言うことを言うと『自分に才能が無いから言っているんだろ』と言う人が
   居ますが、私の場合、「才能」は「みんなに同じ量だけ違う形で与えられてい
   るモノ」だと思っています。だから、『自分に才能が無い』とか、『すごい才能
   がある人が居る』なんてことは、『アリエナイ!』ことだと思っています。

   でも、もし仮に、私が自分に「才能」が無いから言っているんだとしても、自分
   に才能が無いからと言う理由で「他人の才能」を崇め奉ってヘコヘコしている
   人の方がさらにミットモナイと思いますよ。
   「才能」とは無関係に、すべての人に対して同じように「評価」するのなら素晴
   らしいことだと思いますけど、「才能がある(と言われている)人」を特別扱いし
   て褒めそやすのは「へつらい」ですね。
   そういうのを最近では、「忖度」と言うように成ったみたいですけどねぇ。
   「いま言われている才能」って、実は「権威」が姿を変えたものですから。。。


いつも「悪」が勝つのは「勝つことに徹したモノ」だから:~と言うことは「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、「悪」が勝ち続けるということです



小説やドラマの中では、いつもきまって「善玉」が勝つことに成っているわけですけど、現実には、ナカナカそう成らないんですよねぇ。

 ※これは、必ずしも「善・悪」についての話ではありません。
  そういう、究極的な意味での「善・悪」と言うことは、置いといて、「なんとなく悪い人」 
  と「なんとなくいい人」の間の話です。


こういうことって、当たり前になってしまっていて諦めてしまうことが多いんですけど、私の場合は、性格がかなり粘り強く出来ていて、「鉄の忍耐力を持つ男」と言われていますので、まったく諦めるということを知りません。
(すいません「嘘」です)


『お前、それシツコイだけだろ!』

「はい!」
(これは「本当」です)


まぁ、その話は置いといて。


現実に「悪」が勝つことが多いのは「悪」が「勝つこと」に徹しているからだと思うわけです。

この前、ここで「人間にとっての悪」とは「人間に成ろうとしないこと」ではないか?と書いたんですが、「人間であろうとすること」に縛られていない分、「悪」の方が「善」よりも「勝つこと」に徹することが出来るんですねぇ。


「善」の方は「人間に成ろうとすること」という足かせがありますから、少なくとも、そこの所は「勝つこと」に徹することが出来ないわけです。


と、ここまでは、『まぁ、そうだよね、勧善懲悪なんてことは理想に過ぎないんだし・・・』ということで、なんとなくやり過ごしてしまうようなことなんですが、よくよく考えてみると、そういう『まぁ、仕方ないよね』的なことでも無いんじゃないか?と思うわけです。

だって、「悪」が「勝つことに徹したモノ」であって、「善」が「勝つことに徹することが出来ないモノ」だとするならば、常に「悪」の方が有利ということに成りますよね。


一応、「法律」で「悪」を取り締まってはいても、「法の範囲内」や「法の適用外のこと」で「善」と「悪」が対等に勝負した場合は、いつも「悪」が有利ということに成るわけです。


つまり、「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、いつも「悪」が「社会的に有利」であるということですね。


現在、「ブラック企業」や「明らかにアクドイ方々」が、けっこう「社会的に成功」していたりするのは、こういったことからきているんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか?


まぁ、こういうことを言っても、『強いモノが勝つ、それでいいんだ!』という方もいるでしょうが、『イイわけないだろ!!』と言いたいですね。

そういうのを「弱肉強食」と言うのはカンチガイも甚だしいとしか言いようがありませんね。


「動物(たとえば猛獣)」には「動物の本質」があります。

だから、その「本質」に沿って「肉食獣」が「草食獣」を捕食することを「弱肉強食」と言っているわけです。
そして、それは「本質」に沿っているからこそ「美しい」わけです。

つまり、「人間」が「人間の本質」に反した行動をとっていながら、それを「弱肉強食」と言って「自己正当化」しようとすることは、それとは逆に醜いことであって、間違っても「美しいこと」でも無ければ、「自然界の摂理」でもなんでもないと思いますよ。

 ※敢えて「自然界の摂理」の中で言えば、「ハイエナ」や「ハゲタカ」のイメージに
  成りますけど、彼らには彼らの本質があって、それに沿って行動しているわけで
  すから、「人間」がそれと同じようなことをすれば、「「ハゲタカ未満」です。
  しかも、「人間の本質」からも随分とズレもてるとすれば、人間界からも脱落してし
  まうわけですね。
  その上、それ以前に相手に「足かせ」があって対等じゃないわけですから「弱肉」
  でも「強食」でもないですよねぇ。
  敢えて言えば「ズル食」ですか?私はなりたくないです。


要するに、「人間」は、いま「人間に成ろうとしているところ」なんだと思うわけです。
でも、まだ、その途中だから、ちょっと油断するとすぐに「人間以前の動物」に戻っちゃうんですね。


そして、「勝敗の原理」と言うモノが、その「人間以前の時代」からずっと持ち続けてきた原理ですから、それを持ち出されてしまうと、アッという間に、そこに引き戻されてしまうわけです。

確かに、「勝敗の原理」は「動物としての人間」が自然界を生き抜いていくために必要な「絶対原則」だったんでしょうが、そこから抜けて「人間」に成ろうということなわけで、もしも、そうでないのならば、また何世紀も前の「殺し合い」や「勢力争い」に戻るということに成るわけです。


もし、「人間」が「人間」としてやっていこう!という前提で考えるならば、今後、「勝敗」という原理を捨てる必要が出て来るんじゃないでしょうか?

つまり、「勝敗」に関わらず「人間性」を「社会の規準」にして行かないと成らなくなると思うわけですね。


これは「福祉」とは根本的に違います。

「福祉」は「人間性」を規準にしているわけではありませんし、「弱者擁護」的な面がありますが、こちらは、「人間性」を規準にして、そちらを「強者」として扱っていくという考え方ですから、そこのところが違います。
(もしかしたら「福祉」はあまり必要性が無くなるかもしれません)


いずれにしても、「悪が有利」っていう世の中って、

『どうなのよ?』

『なんで、こんなことに成っちゃうの?』


そんな風に思いますけどねぇ。


まぁ、要するに、ある意味で「善」は「自然の摂理」を捻じ曲げているところがあるわけですね。

でも、「自然の摂理」は「人間」にとっては、もう「古いスタイル」になってしまっているわけで、「人間にとっての摂理」ではなくなりつつあるということだと思うわけです。


つまり、今後も、「きれいな服」を着て「美味しい食べ物」を食べて、暮らしていきたいのなら、そちらの「新しいスタイルの摂理」に従って行動しなければならなくなるということでしょうね。

だって、「きれいな服」も「美味しい食べ物」も、みんな「自然の摂理」を捻じ曲げて「人間」が勝手に作り上げたものですから。

それとは反対に、もしも、「自然」に帰りたいならば、明日から、泥水を飲む覚悟が必要になりますよね。


私は、そんな風に思いますよ。



人は「価値」ではなく「意味」に感動する



「有名な絵」と「無名な絵」だったら、どっちで感動する人が多いんでしょうねぇ。

いや、あくまで、「有名な絵」=「スバラシイ絵」かつ「無名な絵」=「スバラシクナイ絵」ということを抜きに考えた場合ですよ。
だいたい同じくらいにスバラシイ絵が、「たまたま有名だった時」と「たまたま無名だった時」という条件でですね。


実際は、たぶん「有名な絵」で感動する人が多いんじゃないかと思うわけですが、『それ、はたして本当に感動してるんですか?』とも思ってしまうわけなのです。


つまりです。

『なんだかんだ言っても、ただ単に「有名な絵」だから感動したと思い込んでるだけなんじゃないの?』
ということです。

もっと言えば、「有名な絵」を見るときに、『見る前から、きっと感動するに違いないと決めてかかってるんじゃないの?』
ということですねぇ。


そういうの、実際に多いと思いますよ。

というか、ほとんどの「感動」って、その手の「感動モドキ」なんじゃないでしょうか?
(すいません!、言い過ぎです!でも、たぶんホント)

まぁ、それも「一種の感動」なんだと思いますから、否定するつもりなんか全然ないですけど、でも、そういう「予定調和」を含まない「純粋な感動」と言うのもあるんじゃないかと思ったりもするわけです。


で、そういう「純粋な感動」について言うと、「無名な絵」の方が「純粋な感動」に出会える確率が高いんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。


たとえば、『ゴッホ』ですけど(まぁ、他の貧乏絵描きの人でもいいんですけど)、『ゴッホ』が生きている間には、絵がチョットしか売れなかったというのは有名な話ですけど(1枚~数枚までの説があるらしい)、その時『ゴッホ』の絵を買った人たちって、どうしたんでしょうね?

大事にしてたんでしょうか?それともホッタラカシでしょうか?
捨てちゃった人なんかもいたんでしょうか?


まぁ、それはともかくとして、もしも、その『ゴッホ』の絵を買った人たちの中に、その絵を非常に気に入って大事にしていた人が居たとします。

その後、『ゴッホ』は大ブレイクして、その絵は一躍「無名な絵」から「有名な絵」に成るわけです。

確かに、「有名な絵」に成った『ゴッホの絵』は、その後、美術展などでたくさんの人を感動させることに成るわけです。
でも、それは、もしかしたら全部「感動モドキ」かも知れませんよね。


それに対して、「有名な絵」に成る前の「どこの誰だかわからないヤツが描いた絵」だった『ゴッホの絵』を買って、後生大事に持っていた人が、『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言って眺めている時の「感動」って、おそらく「感動モドキ」ではないだろうと思うわけです。


さらに言えば、もし仮に、その後も『ゴッホ』が売れることなく、その絵が「無名な絵」のままだったとしたら、そして、その人が、それでも、その絵を手放さずに後生大事に持ち続けていたとしたら、そして、物置や蔵の中に大切にしまっていて、時々出して眺めては、やっぱり、『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言っていたとしたなら、その時の「感動」こそが、本当の「予定調和」を一切含まない「純粋な感動」なんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけです。


たとえば、その家にお客さんが来るたびに、その人が、自慢の「無名な絵」を見せていたとします。


客人が薄暗い物置部屋に入って行くと、主人がパチンッと照明をつけます。
(時代的にはランプか?)

そこに浮かび上がるのは、まったく無名で誰が描いたかわからないけど、間違いなく『ゴッホの絵』であるわけです。


客人の中には、『へっ!誰の絵かもわからないような絵じゃね』と思う人も居るでしょう。
でも、その絵の持ち主と同じように『なんだかわかんないけど、この絵イイよ!』と思う人も居るんじゃないですか?

いや、きっといるに違いないじゃないですか?
だって、そこにあるのは間違いなく『ゴッホの絵』なんですから。

そういうのを「感動」と言うんだと、私は思っているわけです。


つまり「想定外の美しさに出会った時の衝撃」ですね。


「有名な絵」はどうしても先に「想定」が入ってくるわけです。

なにせ「有名」ですから。

そこら辺に転がってないし。


要するに、『ゴッホの絵』が、たまたま「無名な絵」としてそこら辺に転がっていた時に、「そういうモノに出会った人が受ける衝撃」を「感動」と言うんじゃないかと思うわけです。


これを言い換えるならば、『人は「価値」ではなく「意味」に感動する』とも言うことが出来ると思います。


「有名な絵」には、ハズレなく「価値」があります。
でも、その分「意味」は薄くなってしまうわけです。
(「想定外の衝撃」が無い分ですね)


「無名な絵」にはあまり「価値」はありません。
少なくとも、「一般に通用する価値」はかなり低くなってしまいます。
でも、そこには「意味」があるかもしれません。

つまり、そこに「想定外の衝撃」があるかもしれないということです。

そして、本当の「純粋な感動」とは、そういう所にしかないモノだと思うわけです。
(まぁ、めったに無いってことですけどね)


だから、「有名な絵」ばかり見ていても、『それじゃ、本物の「純粋な感動」からは、どんどん遠ざかってるのかもよ?』と。


そんな風に言いたいわけなのです。





「いい絵」の延長上に「名画」があるわけではない



創作をしている人っていうのは、プロでも素人でも、みんなどこかでは「名画」や「名作」を」を残したいと思っているんじゃないでしょうか?


そう思っていない人なんていないと思いますし、すべての創作者がそう思う権利があると思います。
(いや、どっちかって言うと「義務」かも?)


だから、素人や初心者が「名作」を残したいと思っても「思い上がり」だとは思いませんし、逆に『有名なゲージツカだから高い目標を持っていてエライ』とはチットモ思いませんね。

そういうことは、「みんな同じ」だと思います。


さて、そこで、『どうすれば「名画」が描けるのか?』って言うことに成るわけです。


『そんなことがわかれば、苦労しないんだよ!お前はアホか?』

まぁまぁ。

『だいたい、お前なんかに言われたって、何の説得力もないだろ!!』

いやいや、まぁまぁまぁ。


『三ヶ月で名画が描けるようになる方法』みたいな話ではありません。
そういう「方法論」ではなくて、「方向性のお話」なわけです。


『「いい絵」を描き続けていれば、「名画」が描けるモノなのか?』ということなんです。
その辺のところが違うんじゃないか?と思うわけです。


つまり、「いい絵」と「名画」は根本的に方向性が違うんじゃないかと思うんですよね。


「いい絵」とは、要するに「心地よい絵」のことだと思います。

でも、「名画」は、決して「心地よい絵」ではないような気がするわけですねぇ。


「名画」っていうのは「ナニカが強すぎるくらいに強い絵」なんだと思います。
(強いだけじゃないと思いますけど)


そういう「トンガッタ絵」=「名画」を「いい絵」と呼んでいる人も居るとは思いますが、でも、「自分で描くこと」を考えた場合どうでしょうか?

他人の絵を見るときは『「いい絵」っていうのは「トンガッタ絵」なんだよ』と思っていても、いざ、自分で描くという時は、「いい絵」=「ブナン」に成っていることってないでしょうか?


つまり、最初の話に戻るんですけど、自分が「名画を目指す」なんて「思い上がり」なんじゃないか?と思ってしまうことがあるわけです。

『そんなこと、まったく思いもしない』と言う人が「芸術」に向いているということは、ぜんぜんないはずなんですけどね。
そういう人は「やや謙虚じゃない」と言うだけですから。


でも、そうなっている所もあるんじゃないでしょうか?
それで、「やや謙虚な人たち」はどうしても「ブナン」になってしまうわけですねぇ。

実際に描けるかどうかは別として、「名画」にチョットでも近づきたいと思うなら、どこかで「いい絵」を切り捨てていかないとならなくなるように思います。


つまり、『「いい絵」の延長上に「名画」はないんだ!』といつも意識していないと、「名画」に近づくことすらできないということですね。

はじめから向いている方向が違うわけですから、どんどん離れていってしまう可能性だってあるわけです。


かなり昔までは、「いい絵」と「名画」の方向はほぼ同じ方向だったんだと思います。

でも、現在は「いい絵であること」が「名画であること」とは、かなり違って来てしまっているわけです。
つまり、「芸術の意味」が)変わってしまったわけですね。
(「20世紀以前の芸術」と「20世紀以降の芸術」は違うジャンルだと思います)


絵を見て、『この絵「いい絵」ですよね』と言っている時、かなり多くの人の頭の中で、その絵が「名画ではない絵」に分類されてしまっていると思います。

「名画」を見た人は『この絵「いい絵」ですよね』とは言わないことが多いんじゃないでしょうか?


つまり、「鑑賞者」も「いい絵」と「名画」が別物だとどこかでは気づいているんだと思いますよ。


そういうわけで、

『「いい絵」は捨てて、どうせやるなら「名画」を目指そう!』

『人にバカにされたって、どうってことないじゃないか!!』

『その出来上がった線、ハミ出そうよ!そのヘンな形、残そうよ!!』

まぁ、自分に言ってるんですけどね。


そんな風に思っているわけです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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