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「戻ること」は人間に与えられた特権



このブログは「芸術の20世紀喪失」ということをメインテーマにしているんですが、それは時代を「戻ること」であり、また、「やり直すこと」でもあるわけです。


まぁ、それはともかくとしてです。

「戻ること」と言うと、「後戻り」とか「後退」というマイナスのイメージが強くなってしまうと思いますけど、実を言うと、この「戻ること」と言うのは、地球上の生き物の中で「人間だけに与えられた特権」であり、また「人間の切り札」でもあると思うわけです。


今のところ「歴史」という情報を持っているのは、地球上では「人間」だけですから、「戻る場所」や「戻る状況」を設定できるのは「人間」だけなんじゃないかと思います。

ただ、「人間」も「過去の情報」は持っていますが「未来の情報」については推測する事しかできませんから、「進む場所」や「進む状況」は正確に設定することが出来ないわけです。
それが出来れば一番いいのかも知れませんけどね。


「人間」も「人間以外の生き物」も、皆「DNA」という情報伝達手段によって情報を受け継ぐことで「進化と言う仕事」を継続的に行っているわけですが、その「進化」に「戻ること」が含まれていないみたいなんですよねぇ。
(まぁ、「”進”化」ですから。ちなみに「退化」は「進化」の一種だと思います)


だから、「人間」も「人間以外の生き物」も新しい方向が提示されると、必ずそっちに向かって行くわけです。
でも、その「新しい方向」と言うのは、ただ単に、たいした根拠もなく出てきたものに過ぎないわけです。

なにせ、「進む場所」も「進む状況」も設定できませんから、もともと根拠となるほどの材料が無いわけですね。

まぁ、要するに「予測」と言うよりも「テキトー」ということだと思います。


それなのに、です。

今のところ、「個人」が「戻ること」を選択することはあっても、「人間全体」が「戻ること」を選択することはほとんどないと思います。


これこそが、「進化」を基本とする行動パターンから発生していることなんだと思うわけです。


「DNA」に刻まれている情報は「過去の情報」だけなのに、それをもとに「テキトー」に予測された「進む場所」や「進む状況」に向かって行くように、すべての「生き物」の行動がパターン化されてしまっているんだと思います。


でも、もともと「進化」は、「生き物」の「体」や「性質」を環境に順応させるために発達したシステムですから、「知的な行動」にまで、それをそのまま適用する必然性はないわけで、「人間」は、その辺の所をナントナク解明して、その辺の所まではチョットだけ理解しているわけですから、臨機応変に使っていくことも出来ると思うわけです。


そして、「人間」が「歴史」という情報を使って、「戻ること」を今よりも積極的に選択するように成れば、きっと、少しイイんじゃないかと思うわけです。
(『誰にとって?』ということじゃなくて、『全体として少しイイんじゃないか?』と)


まぁ、要するに『歴史に学ぶ』ということなんですけど、これ、口では言われますけど、実行されていることがほとんど無いんですよね。

『歴史は繰り返す』はすごくよくあるんですが、「人間」が歴史に学んで何かを行うことなんて、ほとんどないと言っていいでしょうでしょうね。

まず、学びませんね。

だって、「戻ること」を選択しませんから。

それに、進めば「テキトー」だし。


要するに、「歴史に学ぶ」っていうのは「戻ること」に他ならないと思うわけですねぇ。

戻らないで、上手いこと進みながら歴史に学ぼうとしても、けっきょく「テキトー」に成っちゃうんだと思いますよ。
だって、先のことはわからないわけですから。

出来るのは「戻ること」だけなんじゃないでしょうか?いったん戻ってやり直すことで初めて「歴史に学ぶ」ことが出来るんだと思います。


でも、なかなか戻らないんですねぇ。


個人的になら、「戻ること」を選択する人はいますし、そういう習慣を身に着けている人も居るのかも知れません。
(私は一人も知りませんけどね。それぐらい少ないということだと思います)


でも、いくら個人的に「戻ること」を選択する人が居ても、「人間全体」でそれを選択しなければ、「人間の特権」としては機能しませんから、当然「人間の切り札」にもならないわけです。


どうして「戻ること」が「人間の切り札」に成るのかと言えば、それが人間にしかできないことで、しかも、それによって「進化の加速」を止めることが出来るからです。
(まぁ、私が勝手にそう思ってるだけですけど)


「進化」って、「加速」していると思うんですよね。

そして、その「進化の加速」が、地球の中でその生命体に与えられた割り当てを上回ってしまって、自分の進化についていけなくなったときに、その生命体は「種」として滅びるんだと思うわけです。
(「種」としては「絶滅」でも、「生命全体」としては、それも「進化」なんでしょうが)


「進化」が加速すればするほど、その生命体は地球上で繁栄するわけですが、そのことによって、最後には「絶滅」することに成るわけです。


ところが、「進化」は「進むこと」しかできませんから、「戻ること」は出来ません。

それで、「絶滅」してしまうわけです。


だから、「進化」に身を任せておくと、必ず「絶滅」するわけです。


いま、生命全体としては、「絶滅を切り抜ける種」を待っているんだと思います。

その為の「切り札」が「戻ること」だと思うわけなんですねぇ。


もちろん、そこを切り抜けたところで、また違うトラップにかかってしまうに違いないわけですから、同じようなもんなんでしょうが、それでも、「すべての生き物」は「今出来ること」をやるようにできているので、そうするしかないということだと思います。


と言っても、やらされているということでも無くて、「人間の意思」でやっていることでもあるわけですから、そういうことを『自然法則にコントロールされている』と考える必要なんて全くないと思いますね。

「人間の意思」だって、「自然法則」の一つですから同等なわけで、そういうことに序列をつけても、あまり意味ないんじゃないでしょうか?


という所で、話が大きく成ってしまったので次の記事につなげます。




「戻ること」は人間に与えられた特権(つづき)



前の記事の続きです。


さて、「戻ること」は「人間だけに与えられた特権」であり、「人間の切り札」でもあるんじゃないのか?

そして、「戻ること」によって「進化の加速」を止めることが出来れば、「人間」は「過剰な進化による絶滅」を免れることが出来るのかも知れないという話です。


『そんなに大袈裟な話なのか?!』

いや、成り行きで、話が大きくなっってしまって・・・・・


まぁ、ただ単に『歴史に学びましょう』と言うだけのことですから、特別なことでもなんでもないんですけど、その『歴史に学びましょう』が実践されることが、あまりにも少ないわけですねぇ。


おそらく、「戻ること」よりも「進むこと」の方が人間の習性として根強いんでしょうね。
だから、「歴史に学ぶこと」が大切なことだと重々わかっていても、なかなか戻れないんだと思います。

多くの場合は、前に進みながら歴史から学ぼうとするわけですが、「進む」と言うことは、「予測がつかない未来」へ向かって「進む」ということなわけですから、当然、「テキトー」に成るわけです。
(本当の意味で「歴史に学ぶ」ためには『戻ってやり直す』以外にないんだと思います)


それでも、「種の進化の過程」が初歩的な段階では、地球上に「その種」にとっての空き領域がたくさんあるので、その広大な空き領域に向かって、当てずっぽうで進んで行った場合でも、「そこそこの進歩」を遂げることが多いわけです。

ところが、「進化の段階」が進んで、地球上で「その種」が占める部分が拡大してくると、当然「その種」に与えられる「空き領域」が少なく成ってくるわけで、そう成れば、もう「当てずっぽう」は通じなく成ります。


それまでは、とてつもなく大きな領域に向かって進んでいたわけですから、どこに行き着いたとしても、そこそこに得るものがあったわけですが、急激に小さく成り続ける領域に向かって行かなければならなく成るわけですから、「当てずっぽう」で進んでいっても、日に日に「ハズレ」が増えていくわけです。 

それだけなら無駄なだけですから、まだいいんでしょうが、「進化」が、その「ハズレ」を補おうとして、さらに過激に「進化」するように成るわけです。

それで、「進化」が加速して、先へ先へと「当てずっぽう」を繰り返しているうちに、いつかきっと、「絶滅」と言う「ハズレくじ」を引いてしまうということなんじゃないかと思いますね。


つまりは、そういう「進化の加速」が、いま「人間」には起きていると思うわけです。


その「進化の加速」を緩めないと、きっと人間は絶滅することに成るでしょう。
だいぶ先のことには成るでしょうが、今考えられているよりは早くなるのかも知れませんよ。

だって、すごい勢いで加速しているわけですから。


残された選択肢は「地球の外へ出て、進み続けること」と「地球を使い果たすまで、進み続けること」、最後の一つが「戻ること」ですね。


たぶん、「人間」は地球外では生きられないと思いますよ。
それでも、きっと行くんでしょうね。一度は。


どっちにしても「戻る」という発想がないと、ニッチモサッチモいかなくなるんじゃないかと思いますね。


そういったことから、「戻ること」は「人間の特権」であり、「人間の切り札」でもあると、そういうことが言いたかったわけです。


言葉だけで『歴史に学ぶ』と言い続けていても、実際に戻ってやり直さないと、何の意味もないんじゃないの?

だって、「進歩するため」じゃなくて、「進歩を緩めるため」なんだから。


そんな風に思ったわけなのです。


 ※こういう世の中全体の状況の予兆を示しているのが「現在の芸術」だと思います。
  実際、「20世紀」において「芸術の過激さ」は加速する一方でしたし、その結果、「現
  在の芸術」は息もできないような閉塞感を抱えています。
  その事実を見ないようにすることも出来るのでしょうが、それこそが、まさに「芸術の
  絶滅」に直結している「ハズレくじ」ではないでしょうか?
  「芸術」であれ「人間」であれ、ナニカが「絶滅」するには「滅び」の形が必要だと思う
  わけです。
  その「滅び」を美しい形にするのは、そこに関わっている者が出来る数少ないことの一
  つだと思いますね。
  




「芸術」は「特別な人に与えられた権利」じゃない



「芸術」を「特別な人がやるモノ」だと考えている人が、けっこうたくさん居るみたいなんですけど、でも、それ、相当矛盾していると思うんですねぇ。


要するに、「特別な才能」とか「特別な感性」とか「特別な技巧」とか、そういう「卓越したモノ」を、もともと生まれながらにして持っている人がいて、そう言う人が「芸術をやる人」だということなんでしょうね。


でも、そういう「特別な人」が創作したモノを、誰が見るんでしょうか?

もしも、「普通の人」が見るとしたら、たぶん意味がわからないハズですね。
少なくとも、解りにくいと思いますよ。

だって、卓越しちゃってますから。
「普通の人」には理解できないハズですよね。


でも、見るのも「特別な人」なんだとしたら、「芸術」と言うのは「特別な人」によって創作され、「特別な人」によって鑑賞されるモノということに成りますから、完全に閉鎖された世界ということに成ります。

『それでいいんだ!何がワルイ!?』と言う人が居るのであれば、それ以上何も言うことは思いつきませんが、私は個人的に『それは違う』と思います。


やっぱり、「芸術」っていうのは、本来「普通の人」が創作して、「普通の人」が鑑賞するモノなんじゃないでしょうか?
それじゃないと「芸術」が自由で開放された世界ということには成らないと思います。


ただ、そういう「普通の人」の中に「いろいろな人」が居るということであって、決して「特別な人」限定ということではないと思うわけです。


つまり、創作する人も鑑賞する人もみんな「普通の人」で、その「普通の人」には、ありとあらゆる人が含まれているということだと思います。

誰でも創作者に成ることも鑑賞者に成ることも自由に出来て、もちろん、それらに成らないのも自由であるということです。

さらに言えば、そこで専門的に「芸術」をやって行こうと思うならば、その時必要に成るのは「特別なナニカ」などではなく、「努力」であるということですね。


実に、まったく当たり前のことなんですけどねぇ。
この話が、なかなか通らないんですね。


多くの人が「芸術」においては「努力」なんて役に立たないと思ってます。


いざ、「芸術」の話となると『絵心がある』とか『独特の感性』とか言う、意味の解らない言葉が必ず出てきて、『やっぱり、特別な人だから』ということにされてしまうわけです。

 ※いったい「絵心が無い人」や「独特じゃない感性」って、どういうものを想定して
  言ってるんでしょうね?謎です。


つまり、「才能がある人」が「努力」するから役にたつんだと思われているわけです。

でも、実際は逆で、「努力した人」が「才能」を発揮するというのが本当です。


そして、何よりイヤなのは「芸術」を専門的にやってる側の人たちが、そういう話にしておいた方が自分たちにとって都合がいいからという理由で、それを本気で否定しないことなんです。


とにかく「芸術」を専門的にやっている人たちが、自分が「特別な人」であることや、「芸術」が「特別な人に与えられた権利」であるということを本気で否定しないんですね。


もちろん、全員ではないですが、本当に本気で否定する人と成ると、ほとんどいないんじゃないかと思いますよ。
少なくとも「プロ」だと少ないですね。

自分の「価値」=「値段」が下がると思ってるんでしょうね。
(要するに、すべての価値が「才能」にあると思われているんですね)


そういうの、たいていの場合、どっちかって言うと醜いです。


「芸術の本質」と逆行してますからね。

そう言う人は「芸術」の風上にも置けないと思いますね。
(風下には置けるのか?)


とにかく、『芸術は特別な人に与えられた権利ではない!』と言いたいですね。

『普通の人がどこまでやれるか?』それが「芸術における現在」ではないんですかと。


そんな風に言いたいわけなのです。



「美人画」は今でもアリなのか?



昔から今に至るまで、「美しい人」を描くというスタイルは、ずっと続いてきたわけですが、そういう「美人画」に代表されるようなスタイルと言うのは、今でもアリなんでしょうか?

まぁ、「芸術として」ということなんですけど、このことにチョクチョク疑問を感じてしまうわけです。

これは、必ずしも「美しい人」に限ったことでも無くて、「美しいもの」全般に言えることなんですが、まず、「美しいもの」をそのまま描くことに、今でも「芸術」としての意味があるのか?という疑問があるわけです。

 ※「美しいもの」を描くこと自体がダメだと言うわけではなくて、「ナニカ」をプラスし
  てはじめて「創作」と言うのではないか?ということです。
  もちろん、そのまま描いても「創作」ではあると思いますが、「創作」の「作」の部
  分に比べて「創」の部分がやや少なく成るんじゃないのかなと思うわけですね。

「美人画」の場合は、「一般に認められた美人像」というものがあるわけで、それに沿った人を「美人」と呼んでいるという現実があるわけですから、「絵の中の美人」と「一般に流通している美人」がかけ離れてしまえば、それは「美人画」とは言われなくなるわけです。

ところが、「絵の中の美人」と「一般に流通している美人」が一致している場合は、「その絵」は、「社会的に流通している美しさ」をそのままなぞった絵ということに成ります。

ということは、「美人画」における「美しさ」とは、「芸術」が追求するところの「本質的な美しさ」ではなく、本来「芸術」が忌避するところの「偶像化された美しさ」であり、そういうものが持っている「表面的な美しさ」を表現として使ってしまえば、結果的には「芸術の中心」からは遠ざかってしまうんじゃないか?という疑問もあるわけです。

つまり、「社会」が「個人」に対して押し付けている「既成の美しさ」などの全ての「既成概念」は、出来るだけ「芸術表現」から離れたところに置いておいた方がイイんじゃないか?ということですね。

もちろん、「既成のもの」を一切使わないというのには無理があるでしょう。
「人間」は「神」ではありませんから、「すべて」を創造することなんてできるわけがありません。
それどころか、一つのモノですら、本当にイチから創作することが出来るのかと言うと、けっこう怪しい所もあるわけです。

でも、だからと言って、開き直って『美しいものは美しいでイイだろ!それでナニがワルイ!?』というのはチガウと思いますね。
そういうのは「自己正当化」だと思います。
(私はこの「自己正当化」が「人間の所業」として「最も醜いこと」の一つだと思います)

『出来るか出来ないか』ということではなくて、「できないこと」であってもそれを『やろうとする姿勢を示すこと』こそが、「現在の芸術」に出来る数少ないことの一つだと思うわけです。

先ほど、「美人画」に限ったことでも無いと言いましたが、これと同じことが「美人画」とは全く別のジャンルにも当てはまると思います。

それは「ポップ・アート」なんですね。

「ポップ・アート」は、今も延々と焼き直され続けていると思いますし、「ポップ・アートの焼き直し」こそが現在の主流と言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

そして「ポップ・アート」も、社会に既に流通している「既成概念」を使った表現形態なわけです。

「ポップ・アート」においては「記号」という言い方をすることがありますが、あれは言い換えれば「既成概念」に他ならないわけです。

社会の中で既に記号化された意味を持っているモノを「芸術表現」の中に取り込んで、二次創作的な意味を与えることによって再記号化するというのが「ポップ・アート」の基本構造だと思いますが、その「既成概念としての記号」と「再記号化された記号」のどちらに重点があるのか?ということです。
「再記号化~」の方に重点が置かれている場合は、そこに「芸術としての意味」があると言えるでしょうが、「既成概念~」に重点があれば「芸術としての意味」は希薄になってしまうでしょう。

それ以前に「ポップ・アート」が現れてから半世紀以上経ってしまっています。
そこに、はたして今でも「再記号化」という「意味」があるんでしょうか?
(というか、「再記号化」自体も、とっくに「既成概念化」してますけどね)

「科学」や「工業技術」に、今よりもはるかに大きな「希望」を抱いていられた半世紀前ならともかく、もはや、そこに「疑問」が付きまとうように成った現在において、その「科学」や「工業」を基盤にした「産業」や「経済」の中から、延々と垂れ流され続けている「記号」に「再記号化」するような根拠を見出すことが出来るんでしょうか?

まさにそれは、いまだに「美人」という「偶像」に「美のひな型」を求めている「美人画」と同じ状態になっているんじゃないかと思うわけです。

「偶像化された美人像」に依存して、そこから抜け出せなくなってしまう「美人画」と、底が見えてしまった「科学」や「工業技術」にいまだに依存して抜け出せなくなっている「社会」を、そのまま反映してしまっている「ポップ・アート」は、ほぼ同じ位置にあるということも出来るわけです。

そういうわけで、『美しいものを描きました』という「美人画」ではなく、『美しいものとは如何なるものなのか?』と問うような絵を、そして、『記号を再記号化してみました』という「ポップ・アート」ではなく、『なんとか記号と成るようなものを創り出そうとして見た結果がこの絵です』というような絵を、いつも目指していたいもんだなと。

そんな風に思うわけなのです。

要するに、自分の場合について言えば、「美しいもの」や「記号化されたモノ」を使うよりも、むしろそう言うモノを使わずに、自分で「ナニカ」を創り出してみたいという願望が強いということだと思います。
そして、そういうモノを「芸術の中心」に近い位置に置いた考え方をしているわけですね。





「神」はすでに自分の中にいた。「天才」とはみんなのことだった。居ないのは「普通の人」だった。



私は「天才の時代」は百年も前に終わっていて、「神の時代」はもっと前に終わっていると思っているんですが、『それじゃあ、今は何の時代なんだ?』と言われるならば、「普通の人の時代」なんじゃないかと思うわけです。


確かに、今でも「神」を信仰している人は沢山いますし、まして、「天才」については、出現し続けていると考える人が大多数なわけですが(というより『天才なんてもういないんだ』と言ってる人なんて居ません。不思議ですけど)、しかし、その「神」や「天才」の意味は「昔の神」や「昔の天才」の持っていた意味と同じ意味なんでしょうか?

「宗教」で言えば、この世界の「真理」をだれにでもわかるように説明している「宗教」は存在しないわけですが(「宗教」以外でも存在しませんけど)、もし、「宗教」に絶対性があるのであれば、本来そういうことが出来ている必要があるわけです。
ところが、ほんの僅かではありますが、そういう説明を「人間」が先にやってしまった部分が出てきているわけです。
もちろん、それは「真理」と言えるものでもないし、もしかしたら「ただのカンチガイ」かも知れない程度のモノなわけですが、それでも「神がやっていなかったこと」ではあるわけで、その「神がやっていなかったこと」を「人間がやってしまった」」と言うのは事実なわけです(少なくとも、「人間」には事実に見える)。

そうなると、当然「神への疑い」が発生するわけで、その昔「神への疑い」が無かったころまでの「信仰」と、現在の「神への疑い」を振り払っての「信仰」とは違う意味が出てくるわけです。

「天才」にも同じようなことが言えて、「昔の天才」は「ある特定のことが非常にうまくできる」という条件に当てはまっていれば「天才」であったわけですが、今は「ウマイ」=「天才」という単純なことでも無いわけです。

これは、例を挙げればわかりやすいと思います。

昔、「神への疑い」が無かったころまでは、「雷」や「日照り」などの気象現象や「地震」や「日蝕」などの天変地異はすべて「神のなせる業」とされていましたし、そこに「疑い」の余地はなかったわけです(だから「生贄」みたいな儀式があったんでしょう)。
でも、今は「神への信仰」を持っている人でも、そういう自然現象をすべて「神の業」とは考えなくなってきているわけです。
『いや、広い意味では「神の業」なんだよ』という考えの人は居るでしょうが、そこで「昔の神」と「今の神」の意味に少しでもチガイが出てきていることには間違いがないわけです(じゃないと「生贄制度」に戻らないと成らなくなってしまいます)。

「天才」で言えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の鏡文字(左右を反転したような文字)というのがありますよね。
あれは、何度聞いても『天才だなぁ』と思ってしまうわけですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
たぶん、私のようなウタグリ深い人間は『きっと、何か変わったことをやって有名に成ろうとしたに違いない』と思ってしまうでしょうし、きっと、『ダ・ヴィンチ』本人だって、今の時代に生きていたらそういう考え方をすると思います。

それに、『ダ・ヴィンチ』は軍事兵器なんかも考案していたりしますが、そういうことなんかも「昔」であれば、『さすが天才はこんなことまで出来たのか』と感心するだけなんですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
おそらく、『「芸術」をやる者が戦争に加担するとは何事か!』と批判されるに違いありません。
もしかしたら、そのことだけで彼の芸術家としてのすべてが否定されてしまう可能性すらあるんじゃないでしょうか?

 ※もしも、「ピカソ」の「ゲルニカ」が、「戦争批判的な絵」ではなく「戦争賛美的な絵」
  だったとしたら、やはり、その後の「ピカソ」の評価は変わってしまうでしょうね。

つまり、『ダ・ヴィンチ』や『ピカソ』でさえ「天才」でなくなってしまう可能性があるほど、「昔の天才」と「今の天才」は違う意味に成っているということです。
このことを別の言い方で言うなら、「神」も「天才」も絶対的なモノではなくなったということです。
でも、「神」も「天才」も絶対的なモノであることを前提とした言葉ですから、その概念が成り立たなくなってしまったということです。
だから、「時代」としても終わってしまっていると思うわけですね。

こんなことから、私は「神の時代」も「天才の時代」も終わっていると言っているわけです。

そして、何より、「終わってしまっているモノ」を「続けてしまっていること」がよくないと思うんですね。
要するに、「依存」しているように見えるわけです。

つまり、「神」や「天才」と言った言葉の中にある「絶対性」に「依存」してしまっているんだと思うわけです。
「個人」と言うよりも「人間全体」が「依存」しているんだと思います。

「依存」しているのは「絶対性」に対してですから、「神」を「ワンネス」と呼んでも「偉大なるもの」(「スピリチュアル」の人がそう言っているのを見たことがある)と呼んでもおんなじです。
「天才」についても、他の言葉で言い換えたっておんなじです。
「依存」からは抜け出せません。

『じゃあ、どうすれば抜け出せるのか?』ということなんですねぇ。

簡単です。
「絶対性」を諦めればいいだけですから。
『まぁ、「普通の人」でイイじゃないか』ということですね。

ただし、ここで、もう一つ問題があって、「普通の人」が、まだ居ません。
このブログでも何度も書いていますけど、「人間」は、まだ「人間」に成れていないと思うわけです。
ということは「普通の人」がまだ居ないということです。

「大多数の人」を「普通の人」と考えることは出来ますが、それだと「普通の人」がかなり低レベルになってしまうわけです。
「権力」を与えると必ず暴走するし、何かにつけて「自分」のことしか考えてないし、スキあらば人のことを蹴落とそうとする、それが現在の「大多数の人」ですから、もうチョット頑張ってもらわないと(『お前だろ!』「へぇ」)「普通の人」と言うのが「やや無意味」な感じがするわけですねぇ。
だって、それじゃあ「最低の人」とあんまり変わりませんからね。

なんで「人間」なのに「人間」に成れないんでしょうね?
要するに、成ろうとしないからだと思うんですよね。
もう「人間」に成ったと思って生きてますから、誰も「人間」に成ろうとしないんですねぇ。
だから、成れるわけありません。

逆に言うと、成ろうとすれば成れるんだと思います。
というより、「人間に成ろうとすること」こそが「人間の条件」なんだと思いますから、それだけでも十分だと思いますよ。
(現在設定されている「理想的な人間」には、将来も成れないでしょうね)

最終的に、言いたいのは、『もう、「神」は自分の中に居ると考えていいんじゃないか?』ということであり、『けっきょく、みんなが「天才」だったって言うことなんじゃないの?』ということであり、『今も昔も、チョット頑張れば誰でも「普通の人」くらいには成れるよ』ということなわけです。

まぁ、それだと「神」とか「天才」っていう言葉には、ほとんど意味が無くなってしまいますよね。
でも、チョット頑張って成った「普通の人」には、まだ「意味」が残されているんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけです。



「年寄りが尊敬されない社会」



現在の社会って「年寄りを尊敬しない社会」ですよね。
でも、これ、「すべての人にとっての命取り」だと思うんですねぇ。

だって、「すべての人」が年を取るわけですから、最終的にすべての人が自分を尊敬できなく成っていくということですよね。
残された道は「年を取る前に早く死ぬこと」ですか?そんな社会ってどうなんでしょうねぇ。
やっぱり、そういうのって「命取り」なんじゃないでしょうか?

皆さん、自分だけは「尊敬される年寄り」に成るから大丈夫だと思っているんですかねぇ。

 ※尊敬されていないのは「年寄り」や「歳をとること」ですから、自分だけが
  「尊敬される年寄り」に成ってもあまり意味が無いんですけどねぇ。
  たとえばの話、「黒人が差別されている国」で、「自分だけが尊敬される黒
  人であること」にどれほどの意味があるでしょうか?
  その国で「尊敬される黒人」とは、「差別に服従して、うまく白人に取り入った
  黒人」ですから、あんまり良く成ってないですよね(いや悪くなってるよ!)。

それとも、自分が年を取ること自体、ゼンゼン考えていないんでしょうか?

いずれにしても、その時点で自分がまだまだ若いと思っている人が「年寄りを尊敬しない」と思っているんでしょうが、それ、一体あと何年持つんでしょう?
けっこう『あっ!』という間だと思いますよ。

その後は、自分が自分のことを「尊敬できない」ということに成るわけです。
当然、人からも「尊敬」されません。
つまり、誰からも「尊敬」されなくなって、死んでいくことに成ってしまうわけです。

若い時には「年寄りを尊敬しない」と思っていた人が、いざ、自分が年を取って来てから『やっぱり尊敬する』と言いだしても、かえって、人からの「尊敬」を遠ざけてしまいますから、そういう自分を自分自身でも「尊敬し続ける」のは難しいんじゃないでしょうか?

まぁ、どうやっても、この「年寄りを尊敬しない社会」と言う「トラップ」からは抜け出せないと思います。

余程強い気持ちで、この「年寄りを尊敬しない社会」が「社会的なトラップ」であって、誰にとっても「不幸なこと」でしかないんだということを意識し続けていないと、逃れられないと思うわけです。
いや、むしろ、そういう強い意識を持っている人でも、「社会的な意識」が変わらない限りは、その「トラップ」からは抜け出せないと言った方がいいのかも知れません。

とにかくそれぐらい「命取り」なんじゃないかと思いますねぇ。

これは、『一人一人の年寄りを尊敬しましょう』と言うのとは違います。

「尊敬」されるべきは「年寄り」であり「歳をとること」です。
すべての「年寄り」の中に「尊敬できるような人」も「尊敬できないような人」もいるのはあたりまえです。

それを、無理して「すべての年寄り」を尊敬しようとすることには何の意味もないでしょう。
でも、それは「年寄り」だろうが「若者」だろうが「ナニモノ」だろうがどれも一緒です。
全部ヒックルメテ「尊敬できる人」も居れば「尊敬できない人」も居る、当たり前です。
どういう「ククリ」をしても同じだと思います。

そういうことではなくて、「歳をとること」が「尊敬するようなこと」なのか?それとも「尊敬に値しないようなこと」なのか?それとも「単なる劣化」に過ぎないのか?ということなんです。

どうも、今の社会の中では「歳をとること」が「劣化」とみなされているわけです。
とくに日本の医療(日本だけでもない?)は「不健康な期間を長く伸ばす」という方向で「世界的長寿」を実現してしまっていますから、どうしても「歳をとること」自体が「劣化」することと同じことのように見えてしまうわけですが、実を言うと、それは「医療の問題」であって、「歳をとることの問題」とは言えないわけです。

ところが「社会」は「社会にとっての利益」を追求するように出来ていますから、「社会的進歩」や「社会的効率」を最優先するわけです。
そこで「人間の進歩」や「人間の幸福」が捨てられてしまうわけです。
だから、「年寄り」が「人間に貢献する者」であったとしても、「社会に貢献しない者」と判断されてしまえば、「社会」からは切り捨てられてしまうわけです。

「人間」は「社会的な生き物」として進化してきましたから、「人間の利益」が犠牲になっていても、その「社会の判断」に大多数の人が従わされてしまうわけなのです。

その結果として、「年寄りを尊敬しない社会」と言う「トラップ」が生み出されてしまっているわけですね。

そして、さらに、その「尊敬されなくなった年寄りたち」が「自分たちを阻害する社会」に対して「報復」するようになってきています。
そういうことの現れが「老人の認知症」であり、「老人の傍若無人化」であると思います。

 ※私は「認知症」は「脳萎縮」によって起きる病気と言うよりも、こういう「社会現象」
  によって起きている「一種の精神疾患」であり「社会病」だと思います。
  だから、「社会的状況の変化」に呼応するかのように「認知症」の症例が急激に増
  えているんだと思いますよ。
  「脳萎縮」は、むしろ、そうした「精神状態」が形成されたことによって、「尊敬されな
  い自分」という存在を認められずに、その部分の思考を完全に停止させた人の「脳」
  が委縮するように成るんだと思うわけです。
  これは、老人がある時から、歩いたり自分で食事をとったりしなくなったときに、急激
  に自活できなく成ることと似た現象だと思います。
  『尊敬されないことが原因なんだから、尊敬されるようにすればいいだろ』と思うか
  もしれませんが、それは、昔の「スラム街」のような劣悪な環境で育った人に対して
  『社会で認められるように努力して立派な人物に成ればいいんだ』というのと同じで、
  ハッキリ言って、無理です。
  そういう立派な人と言うのは「100人に1人」くらいしか居ませんから(いや「1000人
  に1人」かも)、実質的には居ないのと同じですね。

また、ここで「老人の傍若無人化」と言っているのは、極端に自己中心的で、独善的な老人のことですが、そういった老人が増えている(そう思うのは私だけでしょうか?)のも、「認知症」と同じような精神構造によるものだと思いますね。
つまり、この両者に共通するのは「自分を阻害する社会に対する報復」です。

この「老人の社会に対する報復」は「人間社会」全体を揺るがすほどの問題になっていくと思いますよ。

ということで、長くなりそうなので、そのことは次の記事に続けて書きます。




「老人の傍若無人化」は「社会」が生み出している現象



前の記事の続きです。


前の記事に書いたのは、『「年寄り」は尊敬しましょう』ということなんですが、そんなノンキなことでも無いんじゃないか?というお話です。


「年寄りを尊敬しない社会」を作ってしまうと、すべての人が自分のことを尊敬できなく成って死んでいかなくてはならなくなります。そういう社会は誰にとってもソンだと思うんですよね。
でも、そこまでだったら、なんとなく「気の持ちよう」で何とか成りそうな感じもあるわけです。

『人にどう思われようが気にしないで、自分を尊敬すればいい』とかね。
そんな考え方をすることで乗り切れそうな気もしなくはないわけですよね。
(実際は、そううまくはいかないと思いますけど)

自分のことだけだったら、もしかしたら、それで乗り切って行けるのかも知れませんが、「社会全体」が「年寄り」を尊敬しなくなってしまうと、「自分だけ」ということでは済まなくなるんじゃないでしょうか?

つまり、これは「社会的な現象」であって、「個人の問題」ではないと思うわけです。

現在の世の中は、「個人」よりも「社会」を優先した形態をとっています。
そして、「社会」」は「個人」に対して「社会に適応すること」を要求する性質がありますから、全てにおいて「人間にとって」ではなく「社会にとって」を優先します。

その結果「社会にとって」の「効率」や「進歩」が全面的に優先されるようになって、「人間にとって」の「幸福」や「安定」が無視されるような世の中が出来ていってしまうわけです。

その過程で、「社会」によって「年寄り」が「尊敬されないもの」にされてしまうわけですね。
そしてさらに、その「尊敬されなくなった年寄り」が「自分を切り捨てた社会」に対して報復的な行動をとるようになってきているわけです。

最近になって、「年寄り」が「傍若無人」に成っていると感じることってないですか?

日々の生活の中で、「どー見ても理屈が通らないようなこと」を言って”キレ”ている「高齢者」を見ることが、このところやけに多くなった気がするわけです。

詳しい事情まではわからないことが多いので、その「傍若無人」の程度はわかりませんが、少なくとも「昔の年寄り」のイメージには「温厚さ」とか「年の功」と言った、『多少のことは気にしないで丸く収める』というような「ユルさ」があったのに比べて、「キレやすく」成っているのは確かだと思うわけです。

そして、その「キレやすさ」が、どちらかと言うと「日ごろからたまっている不満」からきているんじゃないかと言う気がするわけです。つまり、その「日ごろの不満」こそが、「年寄りが尊敬されないこと」に因るんじゃないかと思うわけですね。

たとえば、「高齢者ドライバーの事故」が報じられることが日に日に増えているようですが、あれなんかも、そういう「日ごろの不満」があるために、『常に苛立っている年寄りが多いから』という部分もあるんじゃないのかなと思います。
また、「高齢化社会」に成って、「高齢者」の免許を返上させようと言う傾向がありますが、その流れ自体が「年寄りが尊敬されないこと」とイメージ的にリンクしてしまいますから、「意地になって返上しない年寄り」が多くなってしまうんじゃないかと言う気もします。

要するに、「社会」の中で「高齢者」という「層」が「スラム化」しているような気がするわけです。


かつては、どんな文明国にも「スラム」と言われる場所が必ずあって、そこでは劣悪な環境も貧困も退廃も差別も、それらすべてが、日常であったわけです。
そして、そういう環境の中で生まれ育った人たちが、そこから抜け出せずに、またそういう「劣悪なモノ」に成っていくということも、逃れようのない日常であったわけです。

もともと、「スラム」が発生するのは、そこに「差別」や「格差」があるからです。
つまり、「人間としての最低限の権利」が与えられないと、「人間」は必ずや「無気力」に成り、「粗暴」に成り、「堕落」するものなんだと思います。
もちろん、すべての人が「堕落」するわけではありませんが、全体としては必ずそうなると思います。

現在の「年寄り」にも、その「人間としての最低限」が与えられていないと思うわけです。
だから、みんなが「傍若無人」に成るわけじゃありませんが、全体としては必ず「傍若無人化」していくわけです。

「人権」や「教育機会」などが、すべての人に与えられるべきものであるのと同じように、「年寄り」にも「尊敬」が与えられるべきだと思いますね。
それじゃないと、みんながソンしますから。
全ての人が年を取りますから、誰もトクしませんよね。

現在、「スラム」と言われるような場所は、昔に比べれば、かなり少なく成って来ていると思います。
最低限の「人権」や「教育」が行きわたったからに違いありません。

そういう場所にあった「差別」や「格差」の代わりに出てきたのが「イジメ」や「ハラスメント」のようなものだと思います。
「年寄りが尊敬されないこと」も、そういうものの中の一つなんだと思います(「老ハラ」?)。

だから、もう「老化」を「劣化」として扱うのはやめて、「年をとること」と言うのは「ナカナカ素晴らしいこと」なんだという常識感を持つようになっていく必要があると思いますよ。

そういう中で、「美しい老化」と言う「人生の過程」が創り出せればいいんじゃないのかなと。
そこでは、当然「年寄り」の側もそれなりの力を使って「美しい年寄り」に成る必要があるわけです。

それ以前に、医療が『不健康な期間を延ばす』という不毛の努力をやめて、「健康的な高齢化」という方向へ向かってほしいもんだなと。

まぁ、そんな風に思いますね。



「旧・現代美術」・「現・現代美術」・「次・現代美術」



「現代美術」と言われているジャンルが現れてきてから、もう100年くらいたっているわけですが、この「現代美術」という言葉をいつまで使い続けていくのか?という問題があるわけですねぇ。

つまり、現在の「せわしないタイム感」と『100年間ずっと現代』ということの間に、かなりのギャップを感じてしまうわけです。
要するに、美術史的な意味において、過去を振り返って時代を区分する時の「〇〇時代」と言うのと、「現在進行形の芸術」という意味での「現代」と言うのは意味が違うと思うんですよね。

 ※もともと「時代区分」として「現代美術」を規定すること自体に無理が
  あるんじゃないかと思いますね。
  「時代区分」というのは、ある程度先の時代になってその時代を象徴
  するスタイルに関する評価が定まってから行なわれるものだと思いま
  す。
  それなのに、「現在形の美術」を「現代美術」と言ってしまったから、1
  00年も前のスタイルをいまだに、「現代」と呼ぶハメになっているんじ
  ゃないでしょうか?
  まぁ、100年経って、なんとなくこの辺が「20世紀美術的スタイル」
  なんじゃないの?ということが確定的になってきたということなんでしょ
  うね。
  でも、今はもう21世紀になってから、18年も経ってしまっているわけ
  ですから、それはもう「現代美術」ではなくて「100年前の美術」に違
  いないわけで、「20世紀美術」と言うべきなんだと思います。

本来、「現代美術」と言うべきものは「現在存在している全ての美術」であるはずです。
現代に存在している美術なのに『それは現代美術ではありません』と言う権限なんて誰にもないでしょう?違いますか?

でも、ある程度の時間が経過して「その時代を象徴するスタイル」が規定される時が来たときに、はじめて「その時代のスタイルに沿った美術」と「そのの時代のスタイルに沿っていない美術」を区別することが出来るように成るわけです。

それで、ようやく「その時代のスタイルに沿っていない美術」を「〇〇時代美術」ではないと言えるように成るんだと思います。
でも、「その時代を象徴するスタイル」は、ある程度先の時代に行ってからでないと規定されませんから、その時点ではすでに「現代」ではなくなってしまっているわけです。

つまり、「現代美術」をリアル・タイムで規定することは出来ないということです。
リアル・タイムで「現代美術」と言えるものは「流行」にすぎません。

しかし、「流行」の大半は「時代」を象徴するものには成りませんから、「時代区分」としての「現代」と呼ぶには物足りないわけです。
ところが、「現代美術」と名乗ってしまいましたから、それらの「流行」をすべて「現代美術」として考えなければならなく成ってしまったというわけです。

その結果、目まぐるしくクルクルと入れ替わる「流行」は、一向に「時代のスタイル」として定着せず、それでいてすべての「流行」は、実のところ100年前の「コンセプチュアル・アート」や数十年前の「抽象表現」や「ポップ・アート」を焼き直し続けているにすぎないわけで、その線を外したものはほとんど「現代美術」として認識されないような仕組みが出来上がってしまっているわけです。

このギミック(言葉の仕掛け)に気づかないままこの100年を過ごしてしまったために、「現代美術」は「もう現代ではなくなってしまった現代」から抜け出せなくなってしまっています。

それで、その「もう現代ではなくなってしまった現代」を延々と繰り返しているわけですが、それはすでに「旧・現代美術」としか言いようのないモノに成っていて、「現・現代美術」と呼べるものではなくなっているわけです。
当然、「次・現代美術」は望むべくもないということです。

『ナニを言っているんだ!新しい美術は次々現れているじゃないか?そんなことも知らないのか、オマエは!!』

確かにそうでしょう。
でも、それが100年前から続いている流れをなぞってしまっているわけです。

それに逆行する流れではなく、それとは違う角度からの流れでもなく、いや、それどころか、それと全く同じ方向のまったく同じ流れに乗っかったもの以外は受け入れられないように成ってしまっているわけです。

しかも、その「100年前からの流れ」の正当性がまったく確かめられていません。
ここで言う「正当性」とは、「芸術」という限定された意味での「正しさ」ではなく、より一般的な意味での「正しさ」ということです。
つまり、一般人が受け入れていないモノを、100年以上にわたって「現代美術」と呼び続け、その「一般人ソッチノケの現代美術」を強引に一般人に鵜呑みにさせてしまったという意味で、そこには全く「正当性」が無いということです。

この「旧・現代美術」から抜け出さないと、絶対に「新・現代美術」は創造されないと思うわけです。
ということは、ずっと同じ「旧・現代美術」を焼き直し続けていかなければならないということです。
ということは、ずっと「現・現代美術」に成らないということです。
ということは、本当の「現在」からドンドン離れていってしまうということです。
ということは、もう永遠に「次・現代美術」は見られないということです。

そうなれば、たぶん「芸術」は終わるでしょう。
もしも、それが「芸術に与えられた必然」であるとしても、その「終わり」にはそれなりの「美しい形」が必要なんじゃないかと思うわけです。

つまり、最後に一度でも「本当の現代美術」が創造されてから、「芸術の終わり」があるべきではないのかなと。
一般人も含めた「みんな」が素直に受け入れられるような「現代美術」があってもいいんじゃないかなと。

そんな風に思っているわけです。



 
 

「原因としての表現」と「結果としての表現」



どんなことでも、物事には「原因」があって「結果」があるわけですけど、表現にも「原因としての表現」と「結果としての表現」があると思うわけです。


誰かが表現したことが、めぐりめぐって別の誰かに影響を与えるというのが「原因としての表現」ですね。
それに対して、別のことに原因があってその結果として何かを表現するように成るというのが「結果としての表現」というわけです。

「芸術表現」の場合は、主に「原因としての表現」でしょうね。
「社会的な運動」や「政治的な主張」などは、どちらかと言えば「結果としての表現」ということに成ると思います。

「社会的な運動」や「政治的な主張」などを、物事の「原因」と考える人も居るでしょうが、私はどちらかと言うと本当の「原因」が別の所にあって、その「原因」と成っていることを『変えよう』としたりして出て来るのが、そういった「運動」や「主張」なんじゃないかと思うわけです。
たとえば、「原因」としての「差別」があって、「結果」としての「差別撤廃運動」が起きるというようなことですね。


それはさておき、「芸術表現」の方なんですけど、どうして「芸術」が「原因としての表現」なのか?と言うと、「芸術表現」は「具体的な目的」を持たなくても成り立つからなんですね。

「社会的な運動」や「政治的な主張」には必ず「具体的な目的」がありますよね。
たとえば、『差別をなくしていこう!』とか『不正を排除してクリーンな社会にして行こう!』というような「具体的な目的」が無いと、そういう「運動」や「主張」って成り立たないんだと思うわけです。

でも、「芸術」に関して言うと、そういう「具体的な目的」は必ずしも必要ではなく、むしろ妨げに成ることの方が多いと思います。

なぜならば、「純粋性」が失われてしまうからです。

つまり、「具体的な目的」があるということは、「芸術」が「自分の目的を達成するための手段」になってしまうということですからね。たとえば「政治的プロパガンダ」のようなものに「芸術」が利用された場合は、どうしても「純粋性」が薄まってしまうということです。
そして、それは「その目的」が如何に純粋なモノであったとしても同じで、それは「目的意識」としては純粋であっても「芸術」としては純粋とは言えなく成ってしまうわけです。

「反戦」や「平和」を表現している場合、一見するとそれが純粋なモノに見えるわけですが、実はそれが純粋であるのは「主張」としてであって、「芸術」としてではないわけです。
つまり、如何に純粋な主張であっても、それをその主張以外の手段で人の心の中に刷り込んでしまえば、それは一種の洗脳になってしまうので、その「純粋性」は低くなってしまうということですね。

 ※「人道的な主張」などを一種の「芸術表現」として発表し続けている作家
  の方が結構いらっしゃいますし、そう言う人の中には世界的に評価が高い
  人なんかも居らしたりしますけど、そういう人たちの「表現」は、あくま
  で「主張」として評価されるべきものであって、「芸術」として捉えたり
  評価したりするのは間違いかなと思います。
  そういう「表現形態」が絶対にダメだとは思いませんが、そういう「表現
  形態」が「アリ」なのは「弱者側の立場」に立っている時だけだと思いま
  すし、それも「芸術」とは言えないと思います。
  というか、そういう「表現形態」は「主張」として成立しているわけです
  から、ある程度世の中に普及させることが出来た後(これはやむを得ない
  場合があると思います)は「芸術」を名乗る必要もないんじゃないかと思
  いますよ。

やっぱり、「芸術」と言うのは、「具体的な目的」を持たない「純粋な衝動」から発生するのが理想だと思うわけです。
とはいえ、人間のやることなので完璧にとはいきませんから、「努力目標」ということですけどね。

「芸術」が「純粋な衝動」から発生するものだとすれば、それは、何もない所から発想されて「表現」として外に向かって現されるということでしょう。
ということは、「芸術」は、それ自体が第一義的な存在であるということですから、他のことの「原因」に成ることはあっても、他のことを「原因」とした「結果」であるということは無いわけですね。
まぁ、これはあくまで理想論ですけどね。

そして、そういうことから「芸術」は世の中に対して、常に「原因」であり続ける存在なんだと思っているわけです。
つまり、「芸術」がいつも世の中に対して影響を与え続けているということですね。

これを言うと、『芸術なんて大した影響力はないよ』と言う人が居ますが、それは違いますね。
その人は「潜在的な影響」がいかに大きいかに気が付いていないだけです。

つまり、「表面的な影響」の方に目を奪われて、「潜在的な影響」が見えなくなっているんでしょう。
でも、実は、その「表面的な影響」は、すべて「芸術」のような「潜在的な影響」の「結果」であって、「表面t黄な影響」自体がいちばん最初の「原因」であるということはほとんど無いわけです。

それだからこそ、『芸術は美しい』と言えるんじゃないかと思いますし、それだからこそ、「芸術」は世の中に対して責任があると思うわけです。

つまり、「芸術の在り様」によって「世の中の在り様」も変わって来てしまうということです。

でも、これは必ずしも「芸術」に限ったことではなく、世の中に対して全く影響がないことなどありませんから、世の中に対して責任がないものなんて無いわけですけどね。
それは、「結果的なモノ」であっても同じで、その「結果」が二次的に「原因」と成って影響を与えるわけですね。
ただ、チョット「芸術の影響」が強いということだと思います。
その「チョット強い」の部分が「芸術が第一義的な存在である」ということに因るんだと思うわけです。

とにかく、「芸術」は「無目的」で「一義的」で「純粋」な「ゼロからの発想」によって創作されるのが理想なんだと思いますから。

「芸術」がそういうことをやらないと、世の中に「純粋なモノ」が一つもなく成ってしまいますから。

と、まぁ、そんなことを言ってみたわけです。





「社会的メッセージ」は「アート」と言えるのか?



前の記事と似たような話です。


まぁ、「芸術」が「目的」を持ってしまうと「純粋な芸術」ではなくなってしまうんじゃないのか?というような話ですね。

かなり昔の話になりますが、「メキシコ・オリンピック」が開かれたときに、当時のアフリカ系アメリカ人の人権確立運動である「公民権運動」の影響もあり、アメリカでの黒人差別に抗議したアメリカの黒人選手が表彰台の上で「抗議のパフォーマンス」を行ったという事件がありました。
表彰台の上で国歌が流れる間中、抗議のポーズを続けた選手たちがいたのを覚えている人も多い(多くはないか?)と思います。

あれって、「スポーツ」なんでしょうか?
いや、競技の話ではなくてですね、あの「抗議ポーズ自体」ですね。
つまり、表彰台の上で、黒い手袋をつけた拳を高く掲げて頭を垂れた状態で、国歌が演奏される間中ずっと微動だにせずに無言の抗議ポーズを取り続けるというパフォーマンス(ブラックパワー・ソリュートと言うらしい)自体が「スポーツ」なのか?ということです。

『あれ自体がスポーツなわけないだろ!』
まぁ、そうですよね。
あれ自体が「スポーツ」なわけじゃなくて、「スポーツ」で勝者に成ったから表彰されて、その晴れの舞台で「抗議のパフォーマンス」をやったから人目を引いたわけですよね。

つまり、あれ自体は「抗議」という「主張」であって「スポーツ」ではないわけです。
当然、そのこととその選手の「スポーツ選手」としての評価は無関係だし、逆に、その人の「主張」は、その人の「スポーツ選手としての評価」とは本来は無関係なわけです。
ただ、特殊な状況下で、三位以内に入賞した選手だけに「主張する機会」が与えられたということなわけです。

でも、これが「芸術」の話だとどうでしょうか?

「パフォーマンス・アート」という分野は、今では多くの人が「芸術のジャンル」の一つとして認めているものと言っていいと思いますけど、その「パフォーマンス・アート」と、メキシコ五輪での「ブラックパワー・ソリュート」のような「政治的パフォーマンス」とは果たして違いがあるんでしょうか?

「パフォーマンス・アート」には、いろいろなパターンがありますから、必ずしも政治的メッセージを含んでいるとは限りませんが、アーティストとしての評価が高い人の中に、そういう政治性の強いメッセージを「パフォーマンス」」で伝えている人が居ることは事実だと思います。
その「メッセージ」や「パフォーマンス」には共感できる場合もあるんですが、ただ、それが「芸術」であるのか?ということに関しては、私は『それは違うだろう』と思っているわけです。

つまり、「ブラックパワー・ソリュート」が「スポーツ」ではないのと同じように、そういう「目的を持ったパフォーマンス」は「芸術」ではないと思うわけです。

 ※しかし、また、そういった意義もなく『ただ面白いから』という理由で行われる
  「パフォーマンス」を「芸術」と言えるのかと言うと、また別の理由で『それも違
  うだろ』と思うことが多いわけですけどね。
  つまり、それだけ「パフォーマンス・アートの現時点での存在意義」というのは
  政治的意義や社会的意義によるところが大きいということなんじゃないかと思
  いますよ。

「芸術者(私は創作者・鑑賞者・批評者の三者を含めてこう呼んでいます)」が、「主張」や「メッセージ」を持っていることや、それらを人に伝えることは悪いことだとは思いませんし、むしろ、必要なことだと思います。
それに、私自身それらの「主張」に共感するケースも多いわけですが、でも、それと「それが芸術であるということ」は別だと思うわけです。

どう考えても「ブラックパワー・ソリュート」は「スポーツ」ではありませんし、「芸術」でもありません。
それなのに、どうして「パフォーマンス・アート」は「芸術」とされているんでしょうか?

もともと、「芸術」も「表現」されるものですし、「主張」や「メッセージ」も一種の「表現」ですから、区別しにくかったということはあるんでしょうが、それを言ったら「スポーツ」だって身体的な「表現」ではあるわけだし、そんなに違いはないと思うんですけどねぇ。

おそらく「芸術」の場合は、20世紀初頭から続いている「コンセプチュアル・アート」の影響があることで、「パフォーマンス」も「芸術」の一種ということが通りやすいんだと思うわけです。

20世紀初頭に現れて来た「脱・アカデミズム」・「脱・古典」そして「脱・芸術」・「反芸術」というような流れがあるために、「芸術」と「芸術じゃないもの」の境界線と言えるものが、今ではもう無くなっていて、むしろ「芸術じゃないもの」の方が「より芸術的」であるという風潮があったりもするわけです。

そういう風潮の影響が最も色濃いのが「コンセプチュアル・アート」というスタイルだと言っていいと思います。

こういった流れの中で、現在では「パフォーマンス・アート」は「芸術のジャンルの一つ」として市民権を得るように成ったと言っていいと思います。

現在の「芸術」においては、外郭を規定することはもはや不可能だと思うほどですが、それは、如何なるものも「芸術」ではないと言うことが出来ないということです。
つまり、「芸術」を定義したり規定したりすることは出来ないということですね。

しかし、「芸術」と言うモノが存在する限り、外側の枠は規定できなくても「中心」はどこかに必ずあるわけで、厳密に「中心の位置」を測ることができないとしても「中心」は必ずどこかにあるわけです(例え、それが常に移動しているとしてもですね)。
だから、「芸術の中心」はどこかには必ずあるハズであるという仮定に沿って「芸術の中心」を仮想して、そこからの距離で「芸術」と言うモノを測ることは出来るハズなわけです。
つまり、だいたいこの辺が「芸術の中心」だろうと言う認識があれば(本当は、そういう共通の認識はあるんだと思いますよ。「なんでも芸術なんだ」と言う時に、ほとんどの人が多かれ少なかれ無理しているんじゃないですか?)、その「中心の位置」が不正確なモノだとしても、少なくとも「芸術」が存在することが出来るようになります。

要するに、私の場合は、「コンセプチュアル・アート」も「パフォーマンス・アート」も「芸術の中心」から、やや離れた位置にピン止めすることに成るわけですね。

そして、それを「芸術の中心」に近い位置にピン止めする人が居てもいいと思います。
ただし、その為には、それが「ブラックパワー・ソリュート」を「スポーツ」であると主張することと同じことであるということを了解している必要があると思うわけです。
そして、そうした「メッセージ」や「パフォーマンス」を「スポーツの評価に影響するモノ」として扱うこととも同じことに成るということを考える必要もあると思うわけです。
それが分かった上で、まだそれを「芸術の中心に近いモノ」として考える人が居ても、それは自由だと思います。

純粋に行われた「スポーツ」で、勝者に成った選手が、何らかの犠牲を払って「抗議パフォーマンス」を行うという行為には心を打たれるわけですが、それとは順番が逆に成って、「パフォーマンス」によって「スポーツ」における勝敗が左右されるようになった場合は、すべてが「茶番劇化」してしまうような気がします。

やはり、「芸術」も「スポーツ」も純粋だから美しいのかなと。
そういったことから、「芸術」は「無目的」な方がいいんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけなのです。

 ※メキシコ五輪で「ブラックパワー・ソリュート」のパフォーマンスを行った二人の黒人
  選手は、その後アメリカの陸上界でかなり差別的な扱いを受けたようです。
  (しかも、それに同調した白人選手まで自国で冷遇されたらしい)
  公には『神聖なスポーツの場に政治を持ち込んだカドで』ということに成っているよう
  ですが、「人種差別」的な意味があったのは間違いないでしょう。

 ※ここでは「パフォーマンス・アート」について、否定的に述べていますが、「アート」
  であれ「スポーツ」であれ、それらを使うことで世間的な注目を集めて、その機会を
  利用して「メッセージ」を伝えるということ自体を否定するつもりはありません。
  政治的あるいは人種的弾圧などのような、どうすることも出来ないような圧力があ
  る場合に、そういう「飛び道具」的な手段を使うことを批判しているわけではありま
  せん。
  ただ、ある程度「メッセージ」が伝わって目的が達成されてから、『あれは芸術では
  なく、純粋な気持ちで伝えたかったメッセージでした』と言う「説明」をしてほしいな
  と思うわけですね。
   
  こういう政治的あるいは社会的「主張」は、価値においては「芸術」を上回る場合も
  あると思いますから、そのために「芸術」が手段として利用されることはやむを得な
  い所もあると思いますが、そこで、そういうことを説明していかないと、「芸術の位置」
  がどんどんずれていって、そこからまた社会に問題が発生することに成ってしまいま
  す。
  現代は特にこの点における問題が非常に大きい時代だと思いますので、「パフォー
  マンス・アート」などのような「メッセージ性の強い表現」は、こういった「説明」をする
  ようにして行った方がいいと思うわけなんですね。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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