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「コンセプチュアル・アート」に飽きてしまった人はどうすればいいんでしょうか?

前の記事からのつながりで、「コンセプチュアル・アート」についての記事です。

私といたしましては、「コンセプチュアル・アート」を「芸術の中心」からやや離れた位置にピン止めしますということなわけですが、さて、私のように「コンセプチュアル・アートに飽きてしまった人」は、どうすればいいんでしょうか?
(よく考えたら、はじめからそんなに好きじゃなかったんですが、とにかく、そう言う「飽きちゃった人」もそれなりに居ると思うんですけど、なんで、誰も公にはそういうことを言わないんでしょう?不思議ですねぇ。なんでみんな「カクレ・飽きちゃった人」に成ってるんでしょうね?実は専門家の中にもけっこう居たりするんじゃないんですか?)

「テレビ離れ」と同じように「芸術離れ」すればいいんでしょうか?
それとも、「現代美術」は諦めて、「チョット昔の美術」を見続けていればいいんでしょうか?
または、『えーい、もうオモシロければいいわ!』と言って、飽きていようがいまいがかまわず「コンセプチュアルの世界」に埋没していけばいいんでしょうか?
どうしても、どれもいいとは思えませんねぇ。

やっぱり、なんとしても「現在形」でありたいわけですし、「芸術」でもありたいわけです。
でも、「コンセプト」には飽きてしまったわけです。
そうなれば、「創り出す」か「見つけ出す」しかないと思うわけなのです。

「創作者」に位置する人は自分で「創り出す」ことに成るわけですし、「鑑賞者」の側に位置する人は自分で「見つけ出す」ことに成るわけです。

そこで、「ナニ」を創り出して、「ナニ」を見つけ出せばいいんだろうか?ということです。

いま、最も足りないものとは「ナニ」なのか?
今、最も「芸術」であり「現代」であり「コンセプチュアル」じゃないものとは、いったい「ナニ」なのか?

それは「普通のモノ」だと思います。

「芸術の20世紀」以来ずっと追い求めてきたもの、それが「普通じゃないモノ」ですから、そして、その結果として「コンセプト」に飽きてしまっているわけですから、やっぱり「普通のモノ」が、「今一番足りないモノ」なんじゃないかと思いますよ。

でも、「普通のモノ」と言ってしまうと、どこにでもあるという風に聞こえるかもしれませんが、実を言うと、今一番”ナイ”のが「普通のモノ」なんですねぇ。
そして、「普通」であり「現代」であり「芸術」でもあるとなると、かなり難しく成るわけです。

でも、それが「今創り出したいモノ」なんだと思うわけですね。

ただ、残念ながら、どうすればできるのかがわかりません。
どこにあるのかもわかりません。
なにをすればいいのかもわかりません。

まぁ、その「何をすればいいのか?」を創り出さないとならなく成ってしまっているわけですから。

『ヤミクモ?』または、『テキトー?』
『いやいや、そんなんじゃないんだ!極めて堅実にアテズッポなだけだから』

ただ一つ、わかっていることと言えば、いま最も一般的で、いま最もたくさんあって、いま最も余っていて、いま最も飽きられているのが「普通”じゃない”モノ」だということですね。

というわけで、極めて堅実にコツコツと「アテズッポウ」をやって行けば、きっといつかは「普通のモノ」に出くわす時が来るに違いないと。

そんな風に思っているわけです。
まぁ、辛いですけどね。意外と。。





「未来の常識」は「現在のナニ」なのか?

現在の世の中では「絶対にやってはいけないこと」とされているようなことでも、過去には「常識」だったということはたくさんあるわけですが、それでは、「現在の常識」は、次の時代に成ったら「ナニ」に成っていくんでしょうか?
そして、「未来の常識」と成るようなことは、現在の世の中では、いったい「ナニ」ということに成っているモノなんでしょうか?

たとえば、「奴隷貿易」なんて現代人からすれば、『どう考えてもアリエナイでしょ!なんでそんなことが出来たの?』というレベルだと思いますけど、たかだか200年ぐらい前までは、ごく普通に行われていて、列強諸国の主要な産業のように成っていたわけです。

どうしてあんなことが出来たんでしょうねぇ。不思議です。
でも、まぁ、要するにそれが「常識」であったということなんでしょうね。

ということは、今「常識」とされていることも100年~200年後には「奴隷貿易」と同じくらいに「アリエナイこと」に成るかも知れないわけです。
でも、今はまだ、それが「常識」なわけですから、どの「常識」が100年後に「どういう非常識」に成るのかがわかりません。
そうなると、「未来の常識」がどんなものなのかなんて全く「想定不可能」としか言いようがないと思いますが、おそらく、それは「現在は常識ではないナニカ」なんだと思います。

これは、実はとても恐ろしいことで、要するに、今自分が「常識」だと思ってやっていることが、100年後には「奴隷貿易」レベルの「非人間的な行為」に成るのかも知れないということなわけです。
一方、今自分が「非常識」だと思って、軽蔑したりバカにしたりしていることは、100年後には「人間として素晴らしい行為」であるということに成って、未来の人たちから見たら、自分が今やっていることが、そういう「スバラシイこと」を軽蔑したりバカにしたりしていることだと見えるように成るのかも知れないということなわけです。

これは恐ろしいですよねぇ。そう思うのって私だけなんでしょうか?
「常識を振り回す人」なんて言うタイプの人は、そんなこと考えないんでしょうね。
そう言う人は強いと思います。
悪い意味で。

まぁ、取り敢えず、私は恐ろしいです。
しかも、それを防ぐ手立てはありません。
なにせ、それが今は「常識」なわけですから。

そこから完全に逃れようとすれば、すべての常識的な行為が出来なくなってしまいます。
たぶん捕まると思います。

それに、どの「常識」が「非常識」に変化するかもわからないのに、ヤミクモにやっても「単なる悪人」にすぎませんから、それも意味がありません。

そうなると、もう、残る道は「あやまること」だけです。
つまり、常に「未来の人」や「未来の社会」や「未来の自分」に、前もって丁重にお詫びしておくわけです。

『いろいろ考えながら最善を尽くしたつもりなんですが、もし万が一、今私がやったことが将来トンデモナイ悪事であるということが判明いたしました折には、どうぞお許しいただきたく存じますです。はい。』
という感じで、「未来」に対して、心よりのお詫びをしておくわけですね。

『オマエ、ふざけてるだろ!』
『いえっ!大真面目に言ってるでゴンス』

やや伝わりにくいかも知れませんが、ホントに真面目です。

「未来」という設定を抜きに考えたとしても、「本当に正しいこと」なんて、そう簡単に判断することは出来ません(というか、そんなものないとも言えなくはない)から、取り敢えず、自分のしていることに疑問を持つということは大事なことなんじゃないかなと思うわけです。

そういう「疑問」を持たずに、自分だけの規準で「いい」とか「悪い」とか言っているのって、「言葉」というよりもどちらかと言えば「鳴き声」だと思いますね。
そういう考え方の人は、果てしなく長い道のりを経て、とうとう「人間」が持つに至った「言語」とか「会話」という手段を否定しているわけで、つまりそう言う人の「コトバ」とは「人間の言葉」ではなく「鳴き声」なんだと思うわけです。

いずれにしても、自分の主張が間違っているかもしれないという想定をどこかに持っていることは必要なんじゃないかと思うわけですね。
というか、正確には、「正しい」か「間違っている」かが変わるんじゃなくて、自分自身の規準が変わって、現在自分が主張していることが、将来の自分自身に否定されることがあるということですね。
しかも、けっこうよくあるということです。
いや、すごくよくあるということです。

実際には、ほとんど全部だということですけどね。
ただ、人間の寿命がその前に尽きてしまうことも多いので、それに気づかずにいられることの方が多いというだけです。
でも、時代のスピードが速くなっていくにつれて、「常識」や「人の主張」も変化するのが早く成っていますから、気づかずにいることの方が、だんだん少なく成って来ているわけですね。

そういう時に「自己正当化」をする人が非常に多いんですね(そういう人、増えていると思います)。
つまり、既に自分自身の規準が変わってしまっているのに、過去の自分が犯した「間違い」を認めたくないために、その「間違い」の方を「正当化」してしまうわけです。
これをやってしまうと、もう、まともな話は一切成り立ちません。
だって、その人自身が『間違っている』と思っていることを『正しい』として話をするわけですから、話が成り立つわけありませんよね。
こういうことは、実は話の内容よりも重要なんだと思いますよ。

そこで、「先にあやまる」という方法が有効なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、将来自分の意見が変わって、今の自分の考えが「間違い」だったと思うように成っても、すでにあやまっちゃってますから、「自己正当化」する必要が無いんですねぇ。
画期的です!

ただ、「先にあやまる」と言うと、なんとなく卑屈なイメージがあるかもしれませんけど、そういうことではありません。
これは、あくまで自分の考え方が変わった時という仮定での話であって、その時点で、自分が正しいと思うことを「今、あやまる」必要があるということではありませんから。
というか、「今は、まだあやまれない」からこそ、「前もって未来にあやまる」わけですね。

とにかく、日に日に、この「自己正当化をする人」が増えていると思います。
でも、これをやってしまうと、人とまったく話が通じなくなりますし、「自己正当化」している本人も必ずオカシナことに成って行きます。
まぁ、「間違っていること」を「正しいこと」にしてしまうわけですから、いつも「間違っていること」をし続けなければならなくなるわけで、そりゃーオカシナことに成るに決まってますよね。

ご本人的には、その辺をうまくごまかして、その場だけ「自己正当化」しつつ、次からは「新基準」に従って行けばいいだろうと思っているわけですが、そうはいきません。

これは、一度「嘘」をつき始めると、その「嘘」を肯定するために、また違う「嘘」をつき続けていかなければならなくなるのと同じで、エンドレスです。
「嘘」ならば、「嘘も方便」という言い方があるくらいですから、「その場だけの嘘」というのもあり得るとは思いますけど、「自己正当化」の場合は、偽るのも偽られるのも「自分」ですから、絶対に逃れることは出来ません。
少なくとも、この「自己正当化」を習慣的に行うように成った人は確実にオカシナことに成っていくと思いますね。
そして、そのことに、ますます苛立って、一層「自己中心的な思考」に走るように成り、どんどん横暴に成っていくしかなくなってしまうわけなのです。

あからさまに「人に対して横暴」に成っていく人も居るでしょうし、「自分の中で悶々と横暴」に成る人も居るでしょうが、どちらにしても「自己正当化」を選択した人は、人と本当の意味で内容のある話は出来なくなっていきますし、自分の中で「自分が否定しているモノ」をいつも肯定し続けなければならなくなりますから、常に「不幸」です。
ハッキリ言って、そう言う人には、もう「人間としての幸福」はあり得ないと思います。

まっ、そんなことから、「先にあやまる」というやり方があってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったわけなのです。

それに、「未来の自分にあやまる」っていうのが、なんかいいじゃないですか?

そんな風に思いませんか?

『思いません!!!』


「創作者のマナー」・「鑑賞者のマナー」・「批評者のマナー」

「芸術」は「創作」においても「鑑賞」においても、完全に自由であるというのが現在の「芸術」についての「常識」に成っているわけですが、私といたしましては、そこのところに小さい疑問を持っているわけです。

『どんなものを創作するかは、創作者の自由なんです』とか、『どんな見方をしたって、全然かまわないんですよ、見る人が自由に見たらいいんです』とか、そういう言い方って、一見自由でイイように見えますが、『そうなんですか?それじゃあ、ひとつ失礼して』と言って、「〇〇億円の名画」に泥をぶちまけたりしたら、間違いなく牢屋行きでしょう。
まぁ、当たり前ですけどね。

とにかく、自由とは言っても、そこにやっぱり「マナー」みたいなものはあっていいんじゃないかと思うわけです。
そして、本当は「完全に自由」ではないのに、たてまえ上『完全に自由なんですよ』と言ってしまっていることに、やや問題があるような気がするわけですね。
やっぱり、その「自由」とは「完全な自由」ではなく、「限定付きの自由」なんじゃないかと思います。
こういう所を、ある程度までは正確に理解していた方がいいような気がするわけですね。

このことに限らず、現在の「芸術」は「自由」という言葉に縛り付けられていると思います。
「自由」であろうとするあまりに「不自由」に成っているというのが、現在の「芸術」の状況じゃないでしょうか?
(芸術だけとも限らないですけど)

それはさておき、「創作者」には「創作者のマナー」があるし、「鑑賞者」には「鑑賞者のマナー」があるし、「批評者」にも「批評者のマナー」があるんじゃないかなと思うわけなのです。

「マナー」とは言っても、形式的な作法とか、こういう風な見方をしなければいけないとか、そういうことではありません。
ただ、「見る側の人」は「創る側の人」に対して、「創る側の人」は「見る側の人」に対して、一定の「敬意」のようなモノがあった方がいいような気がするわけです。
まぁ、要するに「自由」と「無責任」はチガウと言う、これも当たり前のことなんですけどね。

でも、自由自由とあまりに言い過ぎるので、どうしても『もっともっと自由じゃないきゃいけないんじゃないのか?』とか『どこかハメを外したことをやらかさないとダメなんじゃないのか?』という傾向があるわけですねぇ。

そういったことからも、やっぱり「マナー」があった方がいいんじゃないかと思うわけです。

ということで、「創作者のマナー」・「鑑賞者のマナー」・「批評者のマナー」について考えてみるわけなんですが、実を言えば、私が「マナー」と思うことはたった一つのことしか無くて、『とにかくまじめにやりましょうよ』ということなんですね。

つまり、『真面目に創作して』・『真面目に鑑賞して』・『真面目に批評しましょう』ということに尽きると思うわけです。

「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者が本当の意味で真面目に、そして真剣に対峙すること、これこそが唯一にして最も大切な「芸術のマナー」なんじゃないでしょうか?
そして、これが意外と守られていないような気もするわけです。

ここで、また「自由」が出てきます。
要するに、「自由」が履き違えられていると思うわけです。
つまり、「芸術」においては、「真面目であること」が「自由でないこと」のように考えられているという傾向があるわけです。

「芸術」においては、どこかに「ハチャメチャさ」がないと目立たないということから、生真面目なモノが評価されにくくなっていて、そういう「生真面目路線」で行くには、「ハチャメチャ路線」で行くよりも何倍も大変になってしまっているような所があると思うわけです。
要するに「ハチャメチャ」=「自由」、「真面目」=「不自由」というのが公式になってしまっているところがあると思います。

これは、「見る側」にも言えることで、「ハチャメチャなモノ」を見つけてきて『アレなんかオモシロイですよね』というような鑑賞のしかたが今の主流になりつつあると思います。

もちろん、真面目に創作している人も、真面目に鑑賞している人もたくさんいるとは思いますが、そういう人たちが少しづつ肩身の狭い思いをするように成って来ていることは確かだと思います。

本当のことをを言えば、「芸術」に興味を持つような人は基本的に真面目な人なんだと思いますよ。
というか、真面目な人も不真面目な人も「自分の中のいちばん真面目な部分」で「芸術」に興味を持つんじゃないんですか?

だって、それじゃなきゃ『意味ないでしょ?芸術なんて』
「芸術」ってそういうものだと思いますよ。
なんで、せっかくの「自分の中の一番美しい部分」を、まるで「ツマラナイモノ」のように扱うんですかねぇ。
そう言う人って、「真面目さ」を憎んでいるように見える時があります。

『それ、チョトもったいないよ』

そんな風に思いますよ。




「長い題」=詩のような題(その7)

「長い題」=詩のような題(その7)です。
この「長い題」の記事も『どうせ誰も読まないんだろうなぁ』ということがだいたいわかってきたので、『やめちまおうか』と思うんですが、よく考えたらほかの記事も同じようなもんなんで、取り敢えず続けようと思います。

そういうわけで、「長い題」=詩のような題(その7)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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きょうは いいひか わるいひか


そんなことは わからない 

ひゃくねん たたなきゃ わからない

でも しんでからじゃあ やっぱり けっきょく わからない


つまりは 

ひゃくねんたてば いいひに なるかもしれないひ

それが きょういちにちの ほんとのいみ 


そのとき ぼくが いきてたら 

それは ぼくにとっての きょうのいみ 
 

そのとき ぼくが しんでたら

それは だれかにとっての きょうのいみ


つまり いまこのときの ぼくにとっての きょうのいみとは

『ひゃくねんまえの だれかが くれた きょうのいみ』


だったら それは きっと いいひで あるに ちがいない

ひゃくねんごの だれかに むかって 

わるいひを おくる ひとなんて いるわけないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここは どこ

ここは いったい どこなのか


だいとかいの まんなかの 

そのまた いちばん まんなかの

じめんの したを ほってゆき

さいごに でてきた ちいさな あな

その あなという ポケット

それが ここ


ひとで うずまく だいとしの 

みんなに ひとつ ここは ある

だれの なかにも かならず あって

なくなることは ほとんど ない


ここに くると じぶんのことが わかるから

ここを なくすと 

『もう にどと ほんとの じぶんに あえなくなってしまうから』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『せかいには ブルーの あめが ふることが ある』

その ブルーの あめには オレンジ色の つぶが まじることが ある


なぜならば それが うつくしいからに ほかならない

すべてのものが ただただ うつくしいから そこに そんざいしている


それが この せかいが なりたっている 

ただ ひとつの りゆうに ほかならない 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ちょうの はね 

めが くらむほど いろめき

なんごくの はな

むせかえるほど においたつ』


ひとの かげ

やわらかくて あたたかい ひとの こころは

その いろと においの みつりんの まんなかに

ひとり ぽつんと とりのこされる

まるで くらい かげのように


この みつのように あまい においと

めまいが するほど あざやかな いろの なかで

ひとり おきざりにされて からめとられてしまった

やわらかい ひとの こころは


はたして そのときが くれば 

ここから ぬけだすことが できる ものなのだろうか 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『もりの おく』

なつの ひざしも とどかない もりの おくは

つめたい くうきで みたされて 

しんと しずまりかえっている


そこには あおじろい ひかりしか とどかない


それなのに その ゆらめく ひかりが 

おどるように ながれこんでいるのは 

そこに いのちが やどっているから


いや いま この しゅんかんにも

いのちが たんじょうしているからに ちがいない


きっと もりとは 

そういう ばしょに つけられた なまえ なんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『それは じょうねつの ダンス』


こころの なかの なにかを みつめて

ほかの ものには みむきもしない

その いってんだけを みつめて

いっしゅんたりとも めをそらす ことはない 


そんなふうに いっしんふらんに

そんなふうに むがむちゅうで

おどりつづける じょうねつの ダンス


たいようのように さんさんと

つきのように たんたんと

くりかえされる こころの ダンス


それこそは いきると いうこと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひみつとは 

みえないものの ことだから

それなら みえるように してみよう

だれにも みえるように してみよう


それで きっと わかるだろう

だれにも きっと わかるだろう


うつくしいから ひめられて

ひめられるほど うつくしい


でも それを かくしてしまう ひとが いる

ヴェールを かける ひとが いる

にどと あけてみようとはしない


それで また

ひみつが もとの ひみつに かえされて

まえより もっと ひめられて

まえより もっと うつくしく

まえより もっと いちだんと

ひそやかな かがやきを ましてゆく


そう 『ひみつとは みえないものの ことなのだから』







「スピリチュアル」と「ポジティブ信仰」


「ポジティブ」という言葉が急にたくさん使われるようになったのは、10年~20年ぐらい前からのような気がしますが、その時点では、大した違和感を感じた記憶は無いんですけど、ここ数年の「ポジティブ」の使われ方にはどう考えても「行き過ぎ」としか言いようのない、異常さを感じてしまうわけなのです。
まるで、狂信的な新興宗教のような感じすらしますね。

そして、この「行き過ぎたポジティブ」の原因になっているのが「スピリチュアル・ブーム」なんじゃないかと思うわけです。
「スピリチュアル」も、だいたいこの20年ほどの間に急激に広まったものですから、だいたい時期も重なってますね。

「スピリチュアル・ブーム」」について言えば、「スピリチュアル周辺で起きていること」も含めると「スピリチュアル現象」と言ってもいいほどだと思いますけど、それほど影響が大きくなってきているということだと思いますね。

そういう「スピリチュアル」の影響の一つが「ポジティブ信仰」だと思うわけです。

こんなことを言うと、『「ポジティブ」=「前向き」で何が悪いんだ!』と言われるのかも知れませんけど、やっぱりどんなことでも「行き過ぎ」は良くないんじゃないかと思います。
まぁ、そういう所が「信仰」や「宗教」の欠点だと思うわけですね。

「絶対的なモノ」を基本に置いた考え方というのは、どうしても極端に走る傾向があるということですね。
「宗教」にもいい所はあると思いますけど、そういう「宗教のいい所」が発揮される機会は時代と共に少なく成っていると思います。個人的な考えで言わせてもらえば、今後さらに少なく成るでしょうね。

「スピリチュアル」が「信仰」や「宗教」と言えるのかどうか、また、やっている人たち自身がどう思ってやっているのかはわかりませんが、少なくとも「スピリチュアル」は「絶対的なモノ」を基盤においている場合が多いと思うわけです。
そういうものというのは、例え「教団」とか「教義」とか「聖典」とか言うモノを持たない場合でも、「宗教」や「信仰」と区別するのは難しいと思うわけです。
というか、やっている本人たちはともかく、第三者から見たら区別する意味がないと思いますね。

つまり、「スピリチュアル」は客観的に見た場合は「スピリチュアル教」なんだと思うわけです。
要するに、全てにおいて具体的なルールが決められていない「新しいタイプの宗教」、それが「スピリチュアル」ということなんじゃないでしょうか?
でも、「絶対的な原理」を設定しているとすれば、その「原理」こそが「完全にして唯一のルール」であるとも言えるわけですから、細かい規則が決められていないということは「宗教ではないこと」の理由にはならないわけです。

まぁ、「スピリチュアル」が「宗教」であるか否かはともかくとして、少なくともそれが「絶対的な原理」を持っているとすれば(たとえば『この世の中のすべてのことの根源に「愛」がある』と言う場合、「愛」が「絶対的な原理」として設定されているということですね)、やはり、「行き過ぎ」に成る危険は高く成るわけです。

その結果として、「ポジティブ」も「行き過ぎ」に成っていて、むしろ「スピリチュアル」以上ににあからさまに「宗教化」してしまっているわけです。
「ポジティブ」=「前向き」が「お題目」や、「お呪文」のように成っていて、『それさえ唱えれば幸福になれる』とか『それを否定するのは冒涜的な行為である』というように、まさに典型的な「インチキ宗教」のパターンになってしまっているわけですね。

 ※宗教全般を一概に否定しようとは思いませんが、「どうしようもない
  宗教」というジャンルがあるのは確かなことだと思います。
  「スピリチュアル」がその「どうしようもない宗教」だとは思いませんが、
  「ポジティブ信仰」は間違いなく「どうしようもない宗教」だと思います。

当然、やっている人たちは気づきませんし、認めません。
これも、「その手の宗教」と全く同じパターンですね。

そして、こう言うことを聞いた人は、まずいい顔をしません。
つまり、それだけ「ポジティブ信仰」に洗脳されている人が多いということです。


そして、これは前にも書いたことがあるんですが、こういう「スピリチュアル」から派生する「洗脳」が意外と危険なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「スピリチュアル由来の考え方」には「自己洗脳的な性質」があって、「洗脳」をかけているのもかけられているのも自分ですから「非常に解けにくい洗脳」になってしまうような気がするわけです。
要するに「自発的な考え」とほとんど区別がつかなくなってしまうわけですね。
そうなると、どこからが「洗脳された考え方」で、どこまでが「本来の自分の考え方」なのかが非常に分けにくくなってしまうということですね。

それから、「完全に油断していること」もあると思います。
「スピリチュアル」は、非常に安全なイメージがあって、「洗脳」や「カルト」とはかなり離れたところにあるモノというソフトなイメージを前提にして広まったものですから、多くの人が「完全に油断している」わけです。
それで、疑惑を持ったり反対側の視点を持ったりすることなく、いつの間にかハマって行ってしまいます。

『「教団」もないし「教祖」も居ないのにいったい誰から洗脳されるっていうの?』
「自分」です。

つまり、自分で自分に「暗示」や「絶対的なルール」を課してしまうわけですね。
そして、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。
しかし、その自分で考えたように見える「暗示」や「ルール」はほとんどの場合、「スピリチュアル」が示唆している「暗示」や「ルール」であって、実のところ「自分起源」のモノとは言えないわけです。

そう言うモノの中の一つが「ポジティブというルール」なんだと思います。

とにかく、この「ポジティブ信仰」から抜け出さないと、活力のあるモノは何も生み出されなくなってしまいます。
「ポジティブ」というのは「肯定」ですから、「否定」だけでなく「批判」とか「反省」とか「改善」などと言う「モノを生み出す作業」に不可欠のものをすべて排除してしまいます。

本来の「ポジティブ」は、そんなものでもないんでしょうが、現在の「宗教化したポジティブ」においては、、そういうことが起きてしまうわけです。
「絶対的なルール」になってしまっていますから、いかなる場合にもそれに従わなければならないような空気があって、従わない人間は排除されてしまうわけですね。

たとえば、このところパワハラ関連の問題が多く成っていますが、「パワハラ系」の人達はいっさい「反省」ということを知りません。
あれは、『そういう傲慢な人がパワハラを起こすんだ』と言ってしまえば、それまでですが、実は「ポジティブ信仰」と関係があると思うわけです。

「反省しない人」というのは「ポジティブな人」でもあって、その「ポジティブ」を自分のためにだけ使うことが出来る人が「反省しない人」であるわけです。
要するに、この「ポジティブ信仰に洗脳された社会」では、彼らが必ず出世するんですね。

どんなに「オカシイ人」でも出世します。
どんなに「嫌なヤツ」でも出世します。
かなりな所まで「無能」でも出世するんです。

なぜなら、彼らが「ポジティブ」だからです。
そして、彼等こそ「強力にポジティブ」な人なのです。
だから、必ず出世するわけです。
それが「ルール」ですから、逆らえません。

「パワハラ」のような「横暴」を「ポジティブ」ではなく「ネガティブ」だと思う人も居るかもしれませんが、彼らが「ネガティブ」なのは他人に対してだけで、あくまで自分に対しては「強力にポジティブ」なのです。
そして、彼らが出世した理由もその「強力なポジティブ」だということです。
それどころか、「オカシイくらいにポジティブ」な人と「マトモにポジティブ」な人が居た場合、「オカシイくらいにポジティブ」な方が有利になってしまうわけですね。
それが「カルト」と言うモノですから。

それから、『はじめはマトモだった人が権力を得て横暴に成ったんだ』というのも違いますね。
断言してもいいですが、彼らのような人は、はじめから横暴です。
権力が弱いうちは、そういう本性をすこし隠しているだけで本質的には初めから横暴です。
権力を与えられると、その本性がむき出しに成るというだけのことです。

どんなものでもそうですけど、一方の方向にだけ偏ったものがいい結果を導き出すことはほとんどありません。
「ポジティブ=肯定」があれば、かならず「ネガティブ=否定」も必要に成ります。
そういうもんでしょ?違うんでしょうか?

これは「反省しない人」の例ですが、それと同じように「批判」や「改善」というような「現状否定的な要素」を持ったものが、全部排除されるように成ってきています。
しかし、「現状肯定」だけでは活力のあるモノは絶対に生み出されません。
そこには「試行錯誤」という段階が入る余地はありませんから、「進歩」というものは無く成ってしまうわけです。

絶対に「進歩」しなければいけないとは思いませんが、「変化」しないモノに活力が生まれることはあり得ません。
「肯定」だけが独走した場合「変化」は生まれなく成ります。
そこに残るのは「漫然とした現状維持」だけだと思いますよ。

「ポジティブ」が悪いんじゃなくて「ネガティブが排除されてしまう状態」が異常なんですよね。

それから、「パワハラおじさん」や「パワハラおばさん」達のことは手厳しく批判している人でも、その人自身が「ポジティブ信仰」に洗脳されているとしたら、結果的には「ポジティブなパワハラ」を推進してしまっていることに成ります。
要するに、反対側の観点を持たないモノは必ず「横暴」に成るって言うことだと思いますよ。

以上のことから、社会が「ポジティブ信仰」から一刻も早く抜け出してほしいもんだなと。

そんな風に思っておりますです。



「仮想現実」と「現実の中の幻想」

「仮想現実(バーチャル・リアリティ)」という言葉は、いつの間にか当たり前になってしまいましたが(最近では当たり前すぎてあまり使われなくなったような気さえする)、この言葉が使われるように成った頃は、けっこう最先端なイメージがあって、CG合成された映像やそういう映像で創り出された世界という印象があったわけです。

でも、今になって考え直してみると、必ずしもそういう「デジタルな感じ」に限ったものでもないような気がしてきたわけです。
そして、そう考えると、実は「絵」って「元祖・バーチャル・リアリティ」なんじゃないのかなと思えてくるわけです。

  ※ここで言う「絵」とは手描きで描かれた「タブロー」という意味です。
   デジタル画やCGなどは外して考えます。
   それから、漫画やイラストなどのように必ずしも「一枚の絵」として
   独立しているとは言えない絵は、ここでは含まないものとします。

「絵」はもともと「平面」の中に「現実には存在しない世界」を創り出すものですから、「仮想現実」と言って問題ないと思います。

「バーチャル・リアリティ」という言葉は、「写真」や「実写映像」に対する言葉として出てきたんでしょうから、それで「CG」などのデジタル画像のイメージが強く成っているんだと思いますけど、実は、そういう「画像を合成する作業」を手でやっているのが「絵」であって、手法が違うだけなんだと思うわけです(動かないけど)。
しかも、「絵」はいつからあるのかわからないくらい昔からあるわけですから、「元祖」であることにも間違いはないと思うわけですね。

それはさておき、今はゲームなどに使われる「CGやアニメーションによる仮想現実」が、まさに全盛期と言えるほどの繁栄ぶりですが、そろそろ、その繁栄ぶりも終わりに近づいているんじゃないかという気がするわけです。

なぜかと言えば、『世界を一周しつつあるから』ということなんですねぇ。
つまり、日本から発信された(と言っていいのかな?)「アニメ&オタク文化」が、世界中に広がって、そろそろ世界を一周しつつあるんじゃないかと思うわけです。

まだ「オタク文化」が終わらないのは、そこに逃げ込んでいる人がたくさんいるからだと思うんですね。
まぁ、「現実逃避」ということです。

「アニメ&オタク文化」に「現実逃避的な側面」があるのは間違いないことだと思います。
だから、適度に「現実」過ぎない「仮想現実」の世界に逃げ込むんだと思いますよ。
これは、「アニメ&オタク」に限らず「芸術」や「創作」全般に言えることかもしれませんけどね。

いずれにしても、「現実逃避」自体が、そんなに悪いことだとは思いません。
どちらかと言えば、逃避したくなるような「現実」の方に問題があるような気もしますから。
それに、「リクリエーション」と言われるものにはほぼ全て「現実逃避」的な側面があると思いますから、それを否定してもあまり意味がないと言う気がします。
要するに、「現実逃避」と「気分転換」の厳密なチガイなんてないということですね。

ただ、そこで問題なのは「戻ってこれなくなること」です。
まぁ、これが「現実逃避」の問題点でもあるんでしょうね。
つまり、「仮想現実」の世界に行ったまま「本当の現実」の世界に戻ってこれなくなってしまう人が増えていると思うわけです。

逆に言えば、簡単に戻ったり行ったりできるなら、大きな問題はないような気もするわけですが、やはり、完全に「オタク化」してしまった人はなかなか戻って来にくくなると思いますね。
生活に支障が出て来るって言うんですか?まぁ、そんなことです。

要するに、「現実」の方がその人にとっての「異世界」になってしまって、「仮想現実」の方が「実世界」のような錯覚が生まれてしまうんだと思います。
そして、その状態を続けていくと「現実」が「うっとうしいモノ」にしか思えなくなってしまうんだと思うわけです。

まぁ、やっぱり「現実」ですから、嫌なこともありますし大変だったりもするわけで、そういう「メンドウ」が一切ない「バーチャルな世界」と比べると、「うっとうしい」には違いないわけです。

最近では、『日本の「アニメ&オタク文化」は世界にも誇れるような独自の文化である』という風潮があると思いますが、その点について誰かが責任を取ってくれることは無いわけですから、戻ってこれなくなってしまう前に考えておいても損はないと思いますね。
要するに、いわゆる「アニメ&オタク文化」に代表されるような「バーチャルなモノ」というのは、戻ってこれなく成ってしまう確率が高いんじゃないかということなんですね。

そこで、はじめの話に戻るんですが、つまり「絵」ですね。
もしも、「絵」が「元祖・仮想現実」であるならば、「バーチャル・リアリティ」の代わりに成るんじゃないかと思うわけなんですね。

もちろん、すでに「オタク化」してしまった人たちは、「絵」なんかじゃ納得しないんでしょうが、まだ完全に「オタク化」していない人、すなわち「戻って来られる人」や、次の世代の人であれば「絵」でも代替可能だと思います。

「絵(タブロー)」は「仮想現実」でもありますが、「モノ」でもありますから、完全な「非現実」ではありえない所があると思います。
だから、完全に戻ってこれなくなってしまうということは無いんじゃないかと思うわけです。
(それで「オタク」の人にはピンとこないんでしょうね?)

要するに、「絵」には「肉体」があるんですね。

いま言われているところの「バーチャル・リアリティ」には、「肉体的な要素」を限りなく削り取ってしまう傾向があるわけです。
だからこそ、「オタク」にとってハマりやすいんだと思います。
そして、その「肉体的な要素」こそが「現実感」でもあるわけです。

つまり、「絵」は「モノ」でもあることで、完全な「仮想」ではあり得ないのに対して、「情報」であって「モノ」ではない「バーチャル」はどんどん「現実味」をそぎ取っていくことが出来てしまうわけです。
その結果が「戻ってこれなくなること」なんだと思うわけですねぇ。

そういうことからも、「絵」というメディア(普通の絵ですね)を復活させていった方がいいんじゃないかと思っているわけですが、この場合の「絵」にはある程度の条件があります。

まず、「平面であること」ですね。
それから、「タブロー」であること、言い換えれば、「一枚の絵」として成り立っていることです。
もう一つは、やや不明瞭な言い方に成りますけど、「苦労して描かれた絵であること」です。

これらの条件と言うのをまとめると、「普通の絵であること」です。
まぁ、言ってみれば「昔からあるスタイルの絵」ということなんですね。

どうして「昔流の普通の絵」じゃないとダメかというと、「昔流の普通の絵」こそが、「仮想現実的な要素を持っていて、尚且つ肉体を持っている絵」だからです。
現在の芸術において、「普通の絵」として処理されるような絵というのは、必ずと言っていいほど「肉体を持った絵」なんですねぇ。
別の言い方をすれば、「肉体を持った絵」は「現代美術」とは扱われない確率が高くなるということです。
逆に言うと「肉体を失うこと」でいわゆる「現代美術」っぽく成るということがあるわけです。

つまり、「物質感」を消して、スマートにサラッと分かりやすく説明された絵は、平面であっても「現代美術」っぽくなる傾向があるということです。
これは、概ね「イラスト」や「マンガ」の性質と同じようなところがあるわけです。
だから、こういったモノでは「バーチャル」の代替にはなりません。
同じようなモノですからね。

そういう「バーチャル」に近いスタイルを、「芸術」において代表しているのが「ポップ・アート」と言えると思います。
「ポップ・アート」自体は半世紀も前のスタイルですが、現在形の美術はすべてこの「ポップ・アート」やその前から続いている「コンセプチュアル・アート」の焼き直しであると言ってもいいくらいだと思います。

そして、これら二つの「アート」の特徴こそが、「バーチャル」の特徴ともほぼ重なっているわけです。
まぁ、だからこそ「バーチャル」がいま全盛期を迎えているわけですけどね。

ということは、それらにも「戻ってこられなくなる性質」があるということです。
だから、やっぱり「バーチャル」の代わりにはなりません。
だから、「昔流の普通の絵」じゃないとダメだろうと言うことなんですねぇ。

「現代人のオタク化」と「バーチャル・リアリティの繁栄」と「芸術のポップ化」は、「肉体性=現実感の欠如」という点において共通性があると思います。
これらが同時進行的に起きてきたのは、偶然ではなく、過激化する「競争社会」が生み出し続けている「工業化」や「効率化」などのような「人間性」を無視した現状が「人間」を阻害しているために、「人間」がそこから「逃避」せざるを得ない状況に直面していて、しかも、その「現実逃避せざるを得ないような人」の比率が日増しに増えているということと深く関係していることだと思うわけです。

つまり、「社会による人間疎外」という「原因」があっての「結果」として現れてきているのが、「現代人のオタク化」であり「バーチャル・リアリティの繁栄」であり「芸術のポップ化」なのだと思うわけです。

しかし、「芸術」と言うモノを「社会現象」の「結果」としてあるモノではなく、「原因」となるようなものとして考えた場合は、これでは本末転倒だと思うわけです。
やはり、「芸術」が「原因」となるには、このような現状を崩して、「人間」が「阻害されるモノ」ではなく「尊重されるモノ」に成るような方向性を示す必要があるんだと思います。

そんなことから、「芸術」は人間的であり肉体的である必要性が出てきているんじゃないのかなと。

そして、さらにそういう「芸術」が創り出した「肉体性を兼ね備えた幻想」を「現実的な日常」の中に取り込んでいけるように成れば、少しいいんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけなのです。




美術館は「見世物小屋」なのか?

「見世物小屋」って行ったことないですねぇ。
「見世物小屋」っていうものは、昔から知っているんですけど、行ったことも見たこともないわけですよね。
はたして本当に「見世物小屋」に行ったことがある人っているんでしょうか? 
と言うか、一体いつごろまで存在していたのかが、不明!

あぁ、それはともかく、そういう実体験が全くないのに、なんとなくよく知っているような気に成っている「見世物小屋」のイメージと言うと、早い話が「ゲテモノ」や「マガイモノ」的なキワモノという感じに成っているわけです。
まぁ、もう一歩踏み込んでいうなら「インチキ」ってことですよね。
それに、人道的にも問題がある場合もありそうだし。

だから、本当に行ってみたいという気持ちに成らないのかも知れないですね。
それで、行ったことが無くてもぜんぜん気に成らないのかも知れません。
『物語りの中だけで十分』という感じでしょうか?

なぜそんなことを言うかというと、最近の「美術館」にも、少しですけどそういう「キワモノ」的な感じを受けることがあるからなんですねぇ。
まぁ、要するに「現代美術」の展示を見たときにそういうことを感じるわけです。

古い時代の「芸術」を見ている時には、ほとんど感じることが無いような「キワモノ感」ですね。
そういう「見世物小屋」と共通の「怖いモノ見たさ」みたいな感じですか?
そういうのを感じる時があるわけです。

『美術館だって一種の見世物小屋みたいなもんだろ!』と言われてしまえば、まぁ、それまでなんでしょうけどね。
『それ、私は違うと思います!』ということなわけです。

つまり、「見世物小屋」っていうのは「イカガワシイこと」自体が売りなわけで、はじめから「そう言うモノ」なわけでしょ?
だから、「インチキ」だったとしても『まぁ、話のタネくらいにはなるから』ということに成るわけです。
(人道的に「問題あり」な場合は、また別の話として)

でも、「美術館」は「イカガワシイこと」が売りなわけでも、はじめから「そう言うモノ」なわけでもないと思うわけです。
そして、「美術館」は「インチキ」を見せてはいけないような気がしているわけです。
言葉で言うと、当たり前にしか聞こえませんけど、「美術館」は「ホンモノ」を見せる場所であった方がいいような気がするわけですね。

そういうことから、「美術館」は「見世物小屋」とは「決定的にチガウ空間」であってほしいなと思っているわけです。
でも、少しなんですけど「見世物小屋感」が出てきているわけですねぇ。
しかも、それが徐々に増えてきているような気もするわけです。

つまり、「ホンモノ」と「ニセモノ」の境界線が見えにくく成っているわけです。
「現代美術」においては。

これは、「現代美術」が追い求め続けて来た「オリジナリティ」=「独創性」の影響だと思うわけです。
「オリジナリティ」を追い続けた結果、そのネタが尽きてしまっているわけです。
それで、どんどん極端に成って行って、一時期は『とにかく変わったことをやらないとダメなんだ』というような状況になってしまったために、「キワモノ感」が出てきてしまっているんだと思います。
 
もともと、「芸術の20世紀」において、この「オリジナリティ」という言葉が間違った解釈で捉えられたということがあると思うんですね。

つまり、「オリジナリティ」=「人と違うこと」これが間違いだと思うんですよね。
「オリジナリティ」=「自分であること」こっちが正解じゃないですか?

これ、一見同じように見えるかもしれませんけど、ぜんぜん違います。
「人と違うこと」は「人=自分以外の人」が基準に成っています。
だから、「本当の自分」とは全く無関係にでも「人と違うモノ」は創ることが出来るわけです。
たとえば、自分が作りたくないモノでも「人と違うモノ」である可能性は十分にあるわけです。

でも、「自分であること」は「自分=本当の自分」が基準ですから、「自分」を追求していかないと成らないわけですね。
だから当然、自分が創りたいモノを創らないと成らなくなるし、その「自分の作りたいモノ」を」をさらに突き詰めていく必要が出てくるわけです。

そういう所から、生み出されるモノこそが「ホンモノ」ということなんじゃないんですか?
そして、そういう「ホンモノ」を見る場所が「美術館」という場所なんじゃないのかなと思うわけです。

もちろん、「現代美術」すべてが「キワモノ」や「インチキ」とは言いませんが、少なくとも、いま言われているところの「現代美術」は、この「オリジナリティ=人と違うこと」というギミック(罠のようなモノ)から抜け出せていません。

ということは、「本人(自分)ではないオリジナリティ」が認められてしまうということです。
そこには、「ニセモノ性」が入って来てしまうということです。
しかも、「オリジナリティ」が出尽くしてしまった感もあるわけですから、より奇をてらったモノ、より普通じゃないモノという方向に行くのは当然の流れで、そうなれば、「よりニセモノであるモノ」という本末転倒な結論が出て来るのも、当然と言えば当然の結果であるわけです。

そうなれば、「度肝を抜くようなニセモノ」と「やや地味なホンモノ」を比べた場合、「度肝を抜くようなニセモノ」の方が圧倒的に高く評価されてしまうわけで、「ホンモノ」が「ホンモノ」であり続けるには「度肝を抜くようなホンモノ」を創り出さなければならなくなります。そんなモノめったに出来るわけがありません。
だから、「ニセモノ」の方が数において圧倒的に上回ってしまうわけです。

 ※ここで「ニセモノ」と言っているのは、「ニセモノ性」が
  それ相当に混じってしまっているモノということです。
  流行を追ったモノや、人のスタイルをマネているモノなど
  作者本人の中心から、やや離れたところに根拠があるモノ
  のことです。
  必ずしも、そういうモノがダメだということではありませ
  んが、「芸術度」としては、低くなるというようなことで
  すね。

まぁ、その結果こそが「美術館の見世物小屋化」であると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

現在、「美術館」に行く人は、二つのタイプに分かれています。
一方の人は、「お勉強」や「お上品」を好むような「保守的な人」ですね。
もう一方は、「知的なヒネクレ屋」とか「新しいモン好きで自負心が強い系」の「リベラルな人」です。
要するに前者が「古典美術の愛好者」で、後者が「現代美術の愛好者」ってことです。

 ※『私は両方とも同じくらい見ますよぉ』っていう人はほとんどの場合
  「本質的には古典派」だと思いますよ。
  でも、自分が「頭の固い保守派」だと思われたくないので、少し無理
  して「現代美術」を見ているわけです。
  たぶん本人も無理していることに気が付いてないですけどね。

問題なのは、どちらも必ずしも「ホンモノ」を求めていないような気がすることなんです。
たぶん、『そんなことは無い!』と言うんでしょうけどね。

「古典美術の愛好者」が「現代美術」を見ようとしないのは「現代のホンモノ」を諦めているからだと思いますし、「現代美術の愛好者」は「ホンモノ」は真面目すぎて面白く無いし、自分には重たすぎると思っています。
どちらも、どこかで「ホンモノ」を見限っているところがあると思うわけです。
 
そして何より、「見世物小屋」と同じように『まぁ、話のタネに一応行っとこうか』と言う人が非常に多いと思います。

大したことは言ってないわりに、話が長くなりましたが、まっ、取り敢えず、「美術館」は「見世物小屋化」しない方がいいんじゃないのかなと。

『「ろくろっ首」とか「カッパのミイラ」とか見たくないでしょ?』

『いえ、見たいです!』
『スゴク見たいです!!』

『そぉーですよねぇ、見たいですよねぇ~』
『でも、なんで美術館で?』

と、思っております。




「ナショナリズム」の本質



「ナショナリズム」についてです。

自国の利益を優先したり、自国の優越性を誇示したり、それらのことのために自国に献身することを「ナショナリズム」と言うわけですが、これがどうも私には理解できないないんですね。
スポーツなんかでも、なんで、自国の選手やチームしか応援しないんですかねぇ。
わかりません。

まぁ、身近な人物に肩入れしてしまう気持ちまではわかるんですけど、徹頭徹尾自分の国しか応援しないというのはどうも理解できません。
オカシイんでしょうか?わたし。

自分のことで言うと、どうしてもスバラシイ選手の方を応援したくなってしまうんですねぇ。
必ずしも「強い」とか「ウマイ」と言うんじゃなくて「そのスポーツの選手」として『実にスバラシイなぁ』と言う選手っていますよね。
そういう選手がいると、その人を応援したくなってしまうわけなんですねぇ。
たとえ日本人選手が相手だったとしてもです。
迷いませんね。

もちろん日本人を一切応援しないということじゃないでけど、日本人選手のことは情報が多いですから好きになる確率も高くなりますが、その反面、嫌いになることも多く成るわけです。
そうなると、どちらかと言うと外国選手に肩入れしたくなってしまうこともかなり多かったりします。
やっぱり、ヒネクレテいるんでしょうかねぇ?

とにかく、良いか悪いかは別として、私には「ナショナリズム」と言われるような考えが、やや欠如していると思います。

そこで、その「ナショナリズム」とはいったいナニなのか?と考えてみたわけです。
「ナショナリズムの本質」ですね。

で、結論から言ってしまうと、「ナショナリズム」っていうのは「最大単位の利益追求」なんだと思うわけです。
つまり、自分が所属している最大単位の集合体のための「利益追求」が「ナショナリズム」なんだと思うわけですね。

今は、「国」が世界中の人にとっての最大単位の集合体ですから「国家主義」=「ナショナリズム」なわけですね。
と言うか、「国」っていう言葉がそういう言葉なんだと思います。
つまり、地域的・民俗的・文化的な最大の区分を「国」と言うのかも知れません。
そのスケールがだんだん大きく成って、現在の「国家」に至っているんだと思います。

まず、ここに一つの「言葉の仕掛け」があって、「国」と言う単位を、「法・秩序」とか「政治的統治」とか「権力機構」と言う管理体制だと思いがちですし実際にそうでもあるんでしょうが、それはあくまで組織の枠組みとしての「国家」であって、「ナショナリズム」における「国」とは少し違う単位だと思うわけです。
(まぁ、たいてい「国家」と「国」はほぼ一致していると思いますけど)

戦国時代の日本では、現在の「県」くらいの単位が「国」だったわけだし、その逆に、先の時代に成って、地球外生命体が現れれば(めったに現れないと思いますけど)「地球」や「星」と言う単位が「国」に成るんだと思います。

いずれにしても、その「最大単位の集合体」のための「利益追求」が「ナショナリズム」の本質的な意味だと思います。
だから、「自国」と「他国」であれば、いかなる時であっても「自国」の方を優先しますし、「お国のため」であれば、「個人」は犠牲になってもやむを得ないということに成るわけですね。

『国を愛する』と言うと美しいことに聞こえるんですけど、実を言うと「利益追求」なんだとすれば、『それほどでもない?』と言う感じもしてくるわけです。
本来、人間は「人間」を愛するように出来ているような気がするんですが、「国」って、ホントに愛せるもんなんでしょうか?

集合体の単位を小さくしていって、「家族」だったら問題なく愛せると思います。
でも、「親族」ぐらいでも、もう怪しく成って来ます。
「地域」なんてもうほとんど何の意味もなくなりつつありますよね。
それなのに、一足飛びに「国」だと愛せるって、なんかオカシクないですか?

これは、「愛情」と「利益」の二つが重なってこういうことが起きるんだと思うわけです。

「家族」の間は基本的に「愛情関係」で成り立っているわけですが、「親族」に成るとそうとも限らなくなりますよね。
血縁と言うだけでろくに会ったこともない人も居るわけで、特に親しい叔母さんとかじゃない限り「愛情」の持ちようがないことも多いということです。
「地域」なんかだと、ほぼ「関係ない」ということなわけですから、「愛情」以前の問題でしょう。

でも、実はこのことは「国」でも同じことで、たとえば「スポーツの選手」なんて知らない人ばかりですから、「愛情」なんてあるわけがないです。
それなのに、どうして日本人だというだけで無条件に応援してしまうんでしょう?
「国」に「愛情」を感じている人が、こんなにもたくさん居るのはなぜなんでしょう?

ここで「利益」が出てきます。
「スポーツ」だと分かりやすいですが、要するに『相手がいる』ということなんですね。
「敵」と言い換えてもいいと思います。
その相手が「他国」なわけです。
だから、「自国」を応援することは自分にとっての「利益」であるわけです。
つまり、「他国」と「自国」の間の「利益の取り合い」ということですね。

日本人が勝って、『日本人が優秀だ!』ということに成れば、「自分」にもトクなことがあるんじゃないか?ということです。
反対に、「他国」が勝って「日本」が負ければ、『日本人が劣等民族だ』ということに成って、まわりまわってどこかで「自分」がソンをするんじゃないか?ということに成るわけです。

その点、「親族」とか「地域」と言う単位は「相手」を想定して使われることが少ないんですね。
だから、どうでもいい扱いに成っているわけです。

つまり、「家族」は「愛情や愛着」でつながっているし、もちろん「利益」でもつながっています。
「国」は「愛情」はなくとも「利益」でつながっています。
「親族」や「地域」にはどっちのつながりも薄いんですね。
だから、どうでもいいわけです。

 ※「地域」を「規模を少し小さくした国」と見るような考え方をした場合
  は、やはり「利益」が発生しますから、「ナショナリズム」に似た「同
  郷意識」が生まれるんでしょうね

ここのところを、少し間違えている人が多いと思うんですね。
『「国」を愛している』と思っている人ってけっこう居ると思うんですが、たぶん本質としては「見えない利益」を追求していると思います。

さっきも書いたように「国」ってその場その場で変わってしまうような単位なわけで、「地球外生命体」が現れた途端に『地球全体を愛するように成る』なんてことあるわけなくて、その方が『利益がある』ということなわけです。
じゃないと侵略されたりしますからね。
その場合は、「民族」も「宗教」も「法・秩序」や「政治的統治」なども全部無視して「地球」と言う単位の「国」が発生するわけですね。
たぶん、「相手」や「敵」が想定された瞬間に「地球国」が出来てしまうんだと思いますよ。
「管理機構」が出来て来るのは後からで、その前に意識としての「地球国」が多くの人の中に発生してしまうんだと思います。

まぁ、そんな感じで成り立ってしまう「国」ですから、「愛情」とは無関係なんじゃないかと思いますね。
つまり、「利益追求」を地域の風俗や文化や自然などに対する「愛着」と混同してしまっているんですね。

 ※たとえば、現時点で「地球愛」をうたっている人や団体は、ほとんどの場合
  「ナショナリズム」に否定的だと思います。むしろ『「国」を分け隔てるのは
  やめて、みんな一つの地球を愛しましょうよ』と言う方向だと思います。
  ところが、「地球外生命体」が現れたと仮定した場合には(まぁ、めったに現
  れないと思いますけど)、「ナショナリスト」の方が、こぞって「地球愛」を
  自分たちの合言葉にするでしょう。
  つまり、そこで「国」の単位がチェンジしたわけです。
  要するに、「自分が所属している集合体の最大の単位」が「国」から「地球」
  にチェンジしたわけで、それに合わせて合言葉も「国家愛」から「地球愛」に
  移行したということです。
  でも、「愛」の対象がそんなにコロコロ変わるはずはなくて、実際にチェンジ
  したのは「利益追求のための単位」なんだと思います。
  逆に、いま「地球愛」をうたっている人たちは、『宇宙人も愛しましょう』
  と言うんだと思いますよ(まぁ、意外と愛せないと思いますけどね)。

たとえば、故郷の「山」や「美しい海」に「愛着」を感じている人は居るでしょうが、それらは、「その山や海」に対する「愛」であって、「故郷」や「国」と言うものを愛しているのとは少し違うと思うわけです。

それに、その「山や海への愛」も「人間に対する愛」とは比べ物に成らないくらいに小さいと思いますよ。
故郷での人間関係や山や海などの自然に対する「愛着」をすべて「故郷(国)」と言う単位に代弁させてしまっているだけで、実は「故郷(国)」自体を愛しているわけではなく本当に愛しているのは、ほとんどの場合「人間」だけです。
「人間」はそういうふうにできていると思いますね。

 ※「故郷(国)への愛」が全く存在しないとは思いませんが、それよりも「利益追求」
  と言う面の方が圧倒的に大きいんじゃないでしょうか?

つまり「国」を愛することは人間にとってやや無理があることなんだと思うわけです。

自分の眼が及ぶ範囲なんて、せいぜい「向こう三軒両隣」くらいのもんでしょうから、「国」なんて大きすぎてとても知る由もないわけで、ましてや愛せるわけがありません。
そこにあるのは、「ごく小さな愛着」ぐらいのモノで、あとのほとんどが「利益追求」だと思うわけです。

まぁ、自分のことで言わしてもらいますと、要するに私は「利益」に対する興味が薄いんだと思います。
だから、「自国」が勝とうが負けようがほとんど気に成りません。

でも、情報があって選手のことを知るように成ると、「小さな愛情」が生まれる場合が出てきますから、その選手を応援したくなるわけです。
どこの国の人かは関係ありません。
と言っても、それもちょっとした気まぐれ程度で、「ナショナリスト」の人のような強力なモノではありません。
『いいんじゃない、この選手、こういう人が活躍すると嬉しいよね』
その程度です。

いずれにしても、「ナショナリズム」の本質と言うのは「愛国」ではないし、「体制の尊守」ですらなくて、「利益追求」なんだということが言いたいわけですね。
そうだとすれば、説明がつくことがたくさんありますし、そうでないとすると、説明がつかないことがたくさん出てきますから、まず間違いないんじゃないのかなと。

たとえば、経済的にだとしても軍事的にだとしても「他国」との間に争いが起きることを考えた場合、「国」を愛していることが前提だとすれば、「国土」や「国民」を含めた「国体」を犠牲にするような「戦争」などはあり得ませんが、それをやりたがるのはたいてい「ナショナリスト」側の人たちです。
なぜなら、彼らは「国の利益」を守ろうと(あるいは増やそうと)するからです。
「ナショナリズム」が「利益追求」だとすれば、当然ですが、「ナショナリズム」が「愛国」だとすれば「国」自体を犠牲にしてまで「国の利益」を守ろうとするのは、どう考えても矛盾しています。
やはり、彼らが「国」を賭けの対象にしてまで守ろうとするのは「国の利益」なんだと思います。

 ※ここにも「罠」があって、「民衆」は「国の利益」を守らないと「国民」
  もソンをすると思ってしまうわけですが、今は、ごく一部の時代遅れな国
  を除いてどんな体制に管理されても「民衆」にとっての「ソン・トク」は
  あまり変わりませんよね。違いますでしょうか?
  しかも、そういう時代遅れな国は戦争したとしても今はもう勝てません
  よね。

その人たちが愛しているのは「国」ではなく「国の利益」です。
(と言うか「ソン・トク」を優先しているということ自体が「愛」に基づいた行為ではないというべきでしょうね)
そして、そこから『自分にも利益がまわりまわってやって来る』と思っているのが「ナショナリスト」なんだと思います。

まっ、そううまくいかない時も多いと思いますけどね。
昔なら、そううまくいったんだと思いますけど、
もう無理ですよねぇ。
しかも、ずいぶん前から。

でしょ?

まぁ、「人のために働く人」っていうのは、美しいと思いますけど、「自分の利益に執着している人」っていうのは、美しくはないと思ってしまいますねぇ。
この場合、「国のために働く人」はどっちに入るんでしょうか?

少なくとも「利益タイプの人」がすごく多くて、「人のためタイプの人」は数の上ではすごく少ないのかなと。

「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、半分でも「人のために働く人」だったら、もうちっと楽しい世の中に成ってるような気がするし。
でも、「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、ほとんど「自分の利益に執着している人」だとしたら、すごく今の世の中が見えやすい気がする。

そんな風に思いますね。

 ※「スポーツ」が嫌いなわけじゃないです。
  「ニッポン」が嫌いなわけでもないです。
  ただ、「スポーツやニッポンに対する愛情」が、「国の利益」
  にすり替えられてしまうのを残念に思うわけです。
  しかも、その「国の利益」は、今はもう誰のためにも成らない
  意味のないものに成ってしまっていると思うわけですね。




「抽象」とは「表現できないモノを表現しようとすること」



「抽象」と言うモノを、「具象を崩していくもの」と考えている人や、「形を使わない表現形式」と考えている人が多いような気がするんですけど、そういう「形式としての抽象」と「もう少し根本的な意味での抽象」と言うのがあると思うわけです。

 ※以下において、ただ単に「抽象(具象)」とか「抽象(具象)表現」と
  言っている場合は、、主に「形式としての抽象(具象)」です。
  ただ、そこは厳密に区別するのが難しいので、それほどキッチリし
  た話でもありませんけど、アシカラズ。

まず、「形式としての抽象」についてなんですが、「具象を崩すこと」は「具象」の中での「アンチ・リアリズム」ではあっても、やはりあくまで「具象」なんだと思います。
また、「形を使わずに何かを表現すること」は不可能ですから、それを「抽象表現」ということには意味がありません。
まして、「具体性」を一切使ってはいけないんだとしたら、「表現」以前に何もできなくなっちゃいますよね。
(『なにも、そこまで極めなくても』と言う感じ?)

でも、そうなると「抽象」って言うモノが存在しなくなってしまうわけです。

そこで、「根本的な意味での抽象」とは、どういうものなのかと言うことになるわけです。
それは、実際に人間が五感で捉えることが出来る「現実」以上に、「本質」や「真実」に近づこうとする「意識」なんだと思います。
そういう「意識の方向性」ですね。
こちらが「抽象の根本的な意味」だと思うわけです。

これは、達成することが出来ないとしても「意識」としては存在しているということに成るわけです。

たとえば、外見的な形を使っても「その内側にある本質」を表現することが可能だと思う人は「具象的な表現」を使うわけですし、外見は「本質」を現すのにはむしろジャマだと思う人は、「抽象的」に成らざるを得ないわけですが、それはあくまで「形式」の問題であって、そういう「本質に近づこうとする意識」がありさえすれば、方向的には「抽象」であるといって差し支えないと思います。

つまり、「具象表現」を使った「抽象」もあるし、「抽象表現」を使った「抽象」もあるということですね。
(具体的に言えば、「花」を描いていても「現実の花とは違うナニカ」を現そうとして描かれた絵は、ここで言う「具象表現を使った抽象」ということに成ります)

逆に言うと、「現実以上の本質」を抽出しようという意識がないものは、表現形式が「具象」であっても「抽象」であっても根本的な意味では「抽象」ではないということです。
(こちらを具体的に言うと、「完全に写実のみに徹したモノ」は「具象表現」を使った「具象」ということになりますし、現実のモノの形を使わずに「非現実的なナニカ」を描いていたとしても、そこに「真実や本質を抽出して現そうという意識」が無い場合は、単なる「形式的な意味での抽象」であって、「根本的な意味での抽象」ではないということに成ってしまうわけですね)

ただ、そこで「本質」とか「真実」と言っているモノが到底現しきれるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「抽象」と言うのは「表現できないモノを表現しようとすること」に成るわけですから、限りなく「達成率が0」に近く成ってしまうということです。
そこのところで、「表現形式」として「具象」を使った場合は、「具象」の持っている「現実性」が、「最低限の表現」を保証してくれるわけですが、「抽象」の場合はその「保証」が無いわけです。

つまり、完全に拠り所のない状態で、さらに「現せないモノ」を現そうとするわけですから無理があるわけで、当然、うまく表現できていない作品に成る確率が高いわけです。
それで、『抽象はわからない』と言われることが多く成るんだと思います。
でも、そこのところをゴマカシテきたように思うわけです。

『「抽象」は「ワカル人」と「ワカラナイ人」が居るんだ』とか『「抽象」がワカラナイ人は固定観念に囚われているんだ』とか『「抽象」がワカラナイなら「具象」を見たって本当のところはわかってないんだ』と言うように、全部「見る側の人」のせいにしてきたように思うわけですね。

でも、「表現できないモノを表現しようとすること」が「抽象」なんだとすれば、見た人がワカラナイのも、創作した人が、ワカルようなモノを創れないのも、両方ともアタリマエなわけで、ゴマカス必要も意地になって否定しようとする必要も、初めから無かったんだと思います。

『表現できないモノを表現しようとしたんですが、出来ませんでした』と言えばよかったし、『いろいろ考えながら見たんですけど、どうしても理解できませんでした』と言えばよかったんだと思います。

ここでも、よく言われることで『理解しようとするからダメなのヨ、感性で捉えればいいわけヨ』と言う常套句がありますよね。
これもゴマカシだと思いますね。
理解してはいけないなんてことがあるはずがありませんし、感性で捉えたうえで理解できるに越したことはありませんからね。

それに、どちらかと言うと「理解」を求めているのは「創作者」の側だと思いますよ。
敢えて、謎をかけるような作品を提示しておいて、『考えるな』とか『理解しようとするんじゃなくて』とかと言う「罠」を仕掛けるのは「芸術」としては、あまりいいやり方ではないんじゃないでしょうか?
もし、作者が本当に考えてほしくないなら、「考えないでみられる作品」を作るべきだと思います。
少なくとも、「具象」に対して「ワカラナイ」と言う人はほとんどいないわけですから、それだったら「具象」をやるべきでしょ?

敢えて「抽象表現」を使うのは、どこかで『考えて理解してほしい』と思っているからでもあり、また、だからこそ「理解されないこと」にいらだって、すべてのことを見る側の人のせいにしようとするんだと思います。
(まぁ、「見る側の人」でも、すべてのことを「創作者」のせいにしている人も居ますけどね)

いずれにしても、「抽象芸術」に関しては、このような複雑に張り巡らされた「罠」がたくさんあって、とてもストレートに創作したり鑑賞したりできない状態に成ってしまっているわけです。

私の場合はその「罠」を一気にまとめて断ち切りたかったので、まぁ、「芸術の20世紀・喪失」と言う考え方をしているわけなんですけどね。

それはともかくとして、『そんなにややっこしいことに成っているなら「抽象」は使わなければいいじゃないか?』ということも考えるわけですが、それがそうもいかないんですねぇ。

少なくとも19世紀末の時点で「アカデミックな芸術表現」は一度行き詰っていることは確かなことだと思います。
その「アカデミズム」とは、要するに「具象表現」に代表されるような「リアリズム」であるわけです。

一言で言えば、「やりつくされた」ということだと思います。
まぁ、『一つの完成形を見た』と言う感じでしょうね。
要するに、もう「余地」が残っていないわけです。
だから、同じことを焼き直したり、繰り返したりするしかないということですね。

確かに、「具象」をさらに掘り続けることも出来るでしょうし、掘り下げて行けば、また、少しは違う局面を創り出すことも可能だとは思います。
だから、「具象」はもうダメなんだと言うつもりはありませんし、現実に「具象表現」でいい作品を創っている人は沢山いると思います。
と言うより、「抽象」より多いでしょう。
(やはり、「具象表現」には「現実」と言う最低限の保証があるので堅実なんですね)

それでも、やっぱり「抽象」をやるのは、『まだ誰も出来ていないから』なんだと思います。

「抽象芸術」の作品でも「歴史的名作」と言われるモノも既にたくさんありますし、それがある種の「完成形」であるとすら思われている作品もあると言ってもいいのかもしれません。

しかし、私にはそういう作品がとても「完成形」だとは思えないんですねぇ。
それどころか、「抽象表現」と言うモノ自体が、まだスタートすらしていないと思っているわけです。

実際、20世紀の中ごろまでだったら、「キュビズム」のような「アンチ・リアリズムの具象表現」(これが「具象表現を使った抽象」の代表例ですね)と「抽象表現」(これは「現実のモノの形を使わない表現形態」ということですね)とすら区別されていなかったと思いますし、その点では専門家であっても、たいした違いは無かったんじゃないでしょうか?
それが、徐々に「抽象」という言葉の意味が明確に成って来つつあるというぐらいの状態だと思います。
実際、今でも「抽象」という言葉の捉え方は「人ソレゾレ」と言うのが現実でしょうし、これもまた、専門家にも言えることだと思います。

『「抽象」とはナニなのか?』がわかってもいない状態でヤミクモにやってきたわけですから、その中から「完成形」が生まれるとは到底思えませんし、実際に生まれていないと思うわけですねぇ。
これは、むしろ当たり前だと思いますけど、どうなんでしょう?

長く成ってしまったので、次の記事で「それでも抽象を使う理由」についてもう少し具体的に書こうと思います。



「抽象」とは「表現できないモノを表現しようとすること」(つづき)



前の記事の続きです。

 ※以下において、ただ単に「抽象(具象)」とか「抽象(具象)表現」と
  言っている場合は、、主に「形式としての抽象(具象)」です。
  それとは別に、「本質を抽出しようとする意識としての抽象」と言うも
  のがあるという前提で話をしています。
  ただ、そこは厳密に区別するのが難しいしいので、それほどキッチリし
  た話ではありませんけど、アシカラズ。

現在、「抽象」という言葉を既にワカッテイルモノとして使っていますが、実は「抽象」という言葉はまだまだ十分に把握されていないようなところがあって、「抽象」の捉え方は人によってかなりバラつきがあると思うわけです。
実際に、専門家でも「抽象」と「抽象化」や「抽象的」を区別しないで使っていることは多いですし、「抽象」について語っている時に、「その抽象」とは、「表現形式としての抽象」なのか、それとも「作者の意識としての抽象」なのかを区別して語っている人はほとんど居ないと思います。

と言うか、それらのことを全部厳密にやっていると話が非常にややこしく成って、一向に進まなくなってしまうでしょうから、その辺を適当にやり過ごして行かないと話が出来なくなるということもあると思います。

 ※ただ単に「抽象」と言う場合は「抽象」を概念として捉えているとい
  うことです。つまり、本来は「抽象の全体像」を語っているハズなん
  ですけど、そうでない場合にも、単に「抽象」と言ってしまうことが
  多いので、話が混乱するんだと思います。

  これに対して、「抽象化」と言った場合は「具象の範囲内」であって
  も「抽象」が何らかの形で取り入れられていることを指しているわけ
  です。これは主に「具象」において使われる言葉だと思います。だっ
  て「抽象」を「抽象化」する必要なんてありませんから。
  つまり、「抽象化」と言う場合は、「具象」のことを言っていること
  が、ほとんどだということですね。この辺からも誤解が生まれやすい
  ですよね。

  また、「抽象的」と言った場合は、「方向性としての抽象」について
  言っているわけで、たとえば鑑賞者の視点においても「抽象的な見方」
  もあるということに成ります。つまり、「具象を抽象的に見ること」
  もできますし、逆に「抽象を具象的に見ること」も可能ではあるわけ
  です。また、創作者の立場から言えば、どういう表現形態をとった場
  合でも「抽象的な方向性を取り入れること」は出来ますし、「具象的
  な方向性を取り入れること」もできるということに成るわけです。

  まぁ、こんなの全部キッチリ分けていたら話ができませんよね。そう
  いうことで、これらのことが、全部テキトーに語られているわけです
  から、混乱や誤解が生まれるのも当然だと思います。

まぁ、要するに「抽象」という言葉が曖昧な状態のまま百年ほど過ぎてしまったわけで、その間にかなりさまざまな『抽象とは~』が出てきてしまいましたし、「抽象」についての間違った考え方が一般化してしまった例もたくさんあったわけですから、現時点で方向性が定まっていないのは当然だと思います。
問題は、これから先もこの状態を続けていくのか?ということです。

とにもかくにも、「抽象」と言う概念を明確なモノにして行かないと、「芸術全体」が行き詰まりから抜け出せないと思います。
これについては、「人ソレゾレ」とか「自分が解ってりゃいい」じゃダメだと思いますね。


さて、そういう「メンドクサイ抽象」をどうして敢えて選択するのか?という話です。

「芸術の20世紀」に起きたさまざまな出来事のなかで、常に中心的な位置にあったのは「抽象」と言う考え方だったような気がします。
ほぼ全てのことが「抽象」と結び付けられて考えられて来たと言ってもいいんじゃないでしょうか?
つまり、それだけ重要なアイテムであったわけですよね。
それなのに、「抽象」は何らかの形で『完成した』と言える状態に成っていないように思うわけです。

まぁ、敢えて「ムズカシイこと」にチャレンジしたということでしょうから、そう簡単にはいかないんだと思います。
それはそれで仕方ないことだと思いますし、必ずしも「完成形」を目標にする必要はないのかも知れません。
でも、そういう、まだ始まってもいないのかも知れない状態の「抽象」をある程度の「完成形」であるとしてしまっていることに問題があると言いたいわけです。

実際には、「抽象」はまだまだ未開拓の領域をたくさん残していると思いますよ。
要するに、「いま」が「堀り時」なんだと思うわけです。

ただし、これは、もしも「芸術の20世紀」に行われたありとあらゆる「実験」が、すべて「実験段階」で放棄されたと考えた場合ですけどね。

私は、そう思いますので、だから「いま」こそ「抽象」なんだと思うわけなのです。

ところが、現実には、このところ「抽象」が捨てられつつあるような気もするわけです。
たぶん『諦められた』ということなんだと思います。
早い話が、『いろいろやってみたけど「抽象」は意外と表現力に乏しいかな?』と言うことじゃないでしょうか?
(このことこそ、まさに「抽象」が「完成形」を提示できていなかったということなんじゃないかと思いますね)

しかし、それは「抽象表現」を非常に限定した捉え方で捉えてしまったことによると思うわけです。
そこでも、前述の「抽象」の概念が明確でないことが影響していると思うんですが、「抽象」に対する思い入れが強い人ほど、その曖昧さを解消しようとして「抽象」を難しく考えますし、「抽象」を狭くとらえる傾向があるわけです。
だから、どうしても「抽象」を理解している人ほど「抽象」を狭い範囲に限定してしまうわけです。

あまりにも狭い範囲に限定してしまいますから、「純粋性」は高いのかも知れませんが、「表現の幅」が極端に狭く成って、どんどん「表現力」を弱くしていってしまったんだと思います。

 ※例を挙げれば、「一つの色で大画面を塗りつぶしてある絵
  (まぁ、一本だけ線が引いてあったりはします)」みたい
  なのがありますよけど、そういうのが「むずかしく考えす
  ぎて表現の幅を狭くしてしまった作品」なんだと思います。
  そういうのは、極端な例ですが、実は「抽象表現」を厳密
  に捉えていくと、多かれ少なかれこういう「罠」に陥って
  しまうんだと思います。
  現在「抽象」だと言われたり思われたりしている作品の多
  くは、多かれ少なかれこの「罠」に囚われて居ると思いま
  すね。

それが『「抽象」はワカラナイ』ということにもつながっていますし、「抽象」が結果的に「デザイン化」して行った原因でもあると思います。
「デザイン」がワルイなんてことではありませんが、「デザイン」には「デザインの領域」がありますし、「タブロ―」には「タブローの領域」があるわけで、「タブローであるはずのモノ」が「デザインの領域」を犯してまで「デザイン化」する必然性はないと思いますね。
もともと、「デザイン」というのは、モノを単純化して分かりやすくするために徹したものであって、「タブロ―としての絵」が目指すところとは根本的に違う所を目的としているわけですから。

いずれにしても、「抽象」が曖昧に捉えられ続けたことと、極端に狭く限定して捉えられ続けたことが、「抽象表現」がチカラを失った原因だと思うわけです。
つまり、その逆に「抽象」を明確に且つ広くとらえられれば、「抽象表現の力」を取り戻すことが出来るんじゃないのかなと。
そんな風に思っているわけです。

なぜ、そこまでして「抽象」なのか?
と言われれば、『まだ、誰も出来ていないから』ということです。
そして、先ほども言ったように「空き領域」がたくさんあるんですねぇ。
見ようによってはですけどね。

それから、あとは「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」に与えられている役割の一つは「チャレンジすること」だと思いますから、少しでも「ムズカシイ方」を選択するべきなのかなと。
そんな風にも思うわけです。

「芸術」が「チャレンジする姿勢を示し続けること」こそが、「いま最も芸術であること」つまりは「芸術の中心にあること」なんじゃないのかなと。
そして、それには「不可能なモノ」であること、すなわち「表現できないモノを表現しようとすること」が最適なのではないですかと。
ハッキリ言ってしまえば、「達成」や「完成」を捨ててもこの「不可能性」を選択する必要が出てきているんじゃないのかなと。

そういう風に思っているわけなのです。

 ※この「不可能を選択するという行為」は一見すると不毛な行為にも
  思えるんですが、実を言うと「永遠に終わらない芸術」という「半
  永久的なスタイル」と成り得る可能性を持っていると思います。
  これは、「完成」していない「抽象」を「完成」であるとしてしま
  っている現在の状態とは正反対のことで、「完成」を目標とするん
  ではなく、「挑戦」を目標とするということです。

  なんたって「不可能」ですから、誰がやっても出来ませんし、どん
  なふうにやってもできません。 
  だから、「永遠に終わらない芸術」と成り得るわけです。
  永遠に「完成形」を提示することは出来ませんが、「完成」はすで
  に目標ではなくなっていますから、もうその時点では問題ではあり
  ません。
  このスタイルの中で、いろいろな人が「それぞれの自分」を提示す
  ることが出来れば、それが「抽象としての完成形」に成ることはな
  くても、「その人としての完成形」には成り得るわけで、その連続
  が「半永久的なスタイル」と成ることもあり得るということですね。
  

プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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