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「金のチカラ」は今が頂点で、今後失われていく(とうれしいな)



なにかにつけて言えることですけど、「カネ」がモノを言う世の中ですよねぇ。

実際、「カネ」さえあれば何でもできると思っている人なんかもけっこう居ると思いますし、表向きは『「カネ」では買えないものもある』と言っている人も、いざとなると『で、取り敢えずいくら出せばいいんだい?』と、ごく普通に「人の心」を「カネ」で買おうとしたりします。

まぁ、そんな人ばかりでもないでしょうが、とにかく「いま」は「金のチカラ」が人類の歴史上最も強く成っている時代なんじゃないでしょうか?

全てのことが「カネ」で決まっていると言ってもいいと思いますし、現在、「金のチカラ」に逆らうことが出来るモノは無いような気がしますね。
たとえ、一時的にガンバッテ対抗したとしても、時間が経つにつれて必ず「金のチカラ」の強い方に押し流されて行きます。
今の時代「金のチカラ」に対抗できるものと言えば、「チョット頭がイカレタおっさん」ぐらいしか思いつきませんからね。
(『あぁ、自分か?』『あぁいや、対抗出来ないか?』『あぁでも、イカレタおっさんではあるのか?』)

それはともかく、この「金のチカラ」なんですが、「いま」が頂点で、もうそろそろ下り始めるんじゃないか?と言う非常に希望に満ちた話です。

『いえっ!けっして自分が貧乏だから言っているわけじゃありません』

まぁ、そういう所も『無きにしも非ずぅ?』と言ったところなんですが、でも、それだけでもなくて、現在、この「金のチカラ」が巨大化していることで、とっても多くの人が窮屈な思いをしているような気がするわけです。
と言うか、実際には「金のチカラの巨大化」で、本当にトクしてる人なんていないような気がします。

一見すると、社会の上層に居て、「カネ」が集まる位置に立っている人が、このことでトクをしているようにも見えるわけですが、実のところ、そういう人たちが手に入れているのは「物質的な豊かさ」だけで「精神的な豊かさ」については何ひとつ保証されていないわけです。
しかし、「豊かさ」と言うモノ自体が「精神的なモノ」ですから、実は何も得られていないのとおんなじなわけですね。

 ※「豊かさ」などの生み出す「幸福」というのは、「人間の脳内で創り
  出される精神状態」のことだと思いますから、「物質」だけでは足り
  ないんだと思います。

現代の先進国に限って言えば、「カネ」を持っている人でも、持っていない人でも「豊かさ」については、ほとんど変わらないと思いますね。
まして、「幸福」と成れば、「カネ」とは全く関係ないと言ってもいいくらいだと思います。
つまり、「現代の先進国」は生活の平均的な水準が高いんですね。
だから、「生きるのに困らない程度のカネ」くらいは普通にしているだけで手に入るように出来ているわけです。

もともと、「カネ」で「幸福」が手に入ることはありませんが、あまりに「カネ」が無いと「不幸」に成ることがあるというだけのことなので、そういう極端な状況が少ない「現代の先進国」では、「カネ」はほとんど「幸福」には影響していないハズなわけです。

それなのに「金のチカラ」が大きくなりすぎているために、何でも「カネ」で決まってしまうわけで、それで、人間が自分たちの「幸福」とはほとんど関係ない「カネ」に振り回されてしまっているわけです。
「カネ」をたくさんもっている人は物質的には余裕がありますが、その分「カネ」に振り回されることも多く成るわけで、結果的にはプラス・マイナス・ゼロだったりするんだと思います。

いま、世界中の人が一番一生懸命にやっていることと言えば、「カネを稼ぐこと」だと思いますけど、その「カネ」が何ひとつ「幸福」をもたらさないモノだとしたら、こんなに無意味なことは無いと思いますよ。

どんなことでもそうですが、結果的に「幸福」につながっていないことに意味は無いと思います。

そして、「カネが幸福につながっていないということ」がだんだん目に見えてきているわけです。
ただ、今はまだ社会や人間が「金のチカラ」に依存していますから、そこから離れられませんが、近い将来、人間がそれを認める時が来て、「金のチカラ」を徐々に小さくしていくことが出来れば、人間はいろいろなモノから解放されて、少しいい状態に成るような気がします。

そうなれば、おそらく、その時には人間が「カネ」に代わる流通手段を見つけ出していることでしょうね。

見たいですねぇ。
そういう時代を。

と言っても数十年先ではなくて、数百年先のことでしょうから、見られそうもありませんけど。

そんな風に思いますね。


それにしても、『世界中の人がいま「一番いっしょうけんめいにやっていること」=「カネを稼ぐこと」』って、このフレーズ、なんとも悲しい響きやなぁ。。



「芸術」を「生涯の糧」にするには



美術に限らず、音楽にしても小説や詩などの文学にしても、それから映画なんかでもそうですけど、そういう「芸術系のもの」を自分の「生涯の糧」にしている人ってけっこう居るんだろうと思うんですね。

でも、その反面、「芸術系」が『「糧」に成ってないよなぁ』と思うこともけっこうよくあるわけです。
しかも、「音楽ファン」なのに「音楽が糧に成ってない人」や「文学好き」なのに「文学が糧に成ってない人」もそれなりに居たりする気がします。

でも、それとは逆に、「美術館」には年に一回くらいしか行かないような人でも、「ある特定の作品」だけを自分の「生涯の糧」にしている人なんかも居るような気がします。

こういうのって、いったいどこで分かれているんでしょうね。
そんなことどうでもいいことかな?って気もしますけど、一応ネンノタメに考えてみたりするわけです。

よく「音楽ファン」の人は「無人島に取り残されるときに絶対持って行きたいレコード・ベスト20」みたいなことを言ったりしますけど、ああいうのなんかは典型的な「生涯の糧」なんだと思うわけです。

『なんでベスト10じゃないんだよ!』

『いや、10に絞るのなんて絶対無理なんで』

こういう人は、だいたい音楽が「生涯の糧」になっているんだと思います。


それはともかく、「芸術」が「生涯の糧」に成るタイプの人と成らないタイプの人はどこで分かれるのかなと。
それは、「芸術」を通して「重要なナニカ」に気づいた人と、まだ気づいていない人の違いなんじゃないかと思うわけです。

もちろん、「芸術」を「生涯の糧」にしなければいけないということは無いと思いますので、そういう見方の人も居ていいとは思いますけど、ただ、「芸術」にしかできないことの一つが「生涯の糧」に成ることだとすれば、やっぱりそれを使って行かない手はないんじゃないのかなと思うわけですね。

ナニに気づいたかは人によってまったく違うでしょうし、それが「重要なナニカ」であるという判断も、その人が勝手に下すものですから、ハッキリ言えばテキトーだと思いますが、とにかく、本人がそれを「重要なナニカ」であると思っていることによって、「芸術」はその人にとっての「生涯の糧」に成るんだと思うわけです。
たとえ、それがカンチガイだったとしても変わらないと思います。

つまり、その「重要なナニカ」自体が役にたったりすることは無くて、それが「重要なナニカ」であるに違いないという思い込みがあるだけで「生涯の糧」と成るかどうかが決まっているということですね。

「芸術」はそういう「思い込み」を生み出しやすいんだと思います。

もともと、「芸術」自体が役にたつともオモシロイとも限らないし、むしろそういうモノとは違うところに、「重要なナニカ」があったりすることが多いということなんだと思います。

だからこそ「芸術」を「生涯の糧」にしている人がたくさんいるんだと思うわけですね。

ということは、「芸術」を「生涯の糧」にしたい人は、そういう「役に立つこと」とか「オモシロイこと』を離れて、それとは違う視点で「芸術」を見れば(創作すれば)、きっと「芸術」がその人の「生涯の糧」に成るんだと思います。

「芸術」をそういう捉え方で捉えていけば、自然と「芸術」の中にその人にとっての「重要なナニカ」が見えてくるような気がします。
そして、その後は、その「重要なナニカ」に突き動かされるままに「芸術」に接していけばいいわけで、きっとその人の中の「思い込み」は強くなっていくでしょうし、それは必ずその人の「生涯の糧」として、生き続けると思います。

「生涯の糧」でもあり「重要なナニカ」でもあるのに、「何の役にも立ったないモノ」、そう言うモノを探そうとしさえすれば、きっと誰でも、それを「芸術」の中に見つけることが出来るんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。




「現在の芸術」と「現在のタブー」の関係



「芸術の世界」では、「タブー」と言われているようなものを敢えて題材にしたり、社会を縛り付けている「暗黙の掟」を破ることに挑戦したりすることを高く評価する傾向があると思いますが、実は「タブー」は「破ること」では無くならないことが多いと思うんですね。
それどころか、むしろ「芸術」が「タブー」を「破ること」によって、かえって「タブー」の存在感が増してしまう場合もあるような気がするわけです。

「芸術」は人の心を惹きつける性質がありますから、「タブーを扱った芸術」が素晴らしければ素晴らしいほど、結果的に「そのタブー」が人の心を惹きつけることに成るわけで、場合によっては、「タブーの存在」が助長されているケースもあると思います。

それから、「現在形の芸術」について言うと、「タブーを破ること」が絶対視され過ぎていると思うわけです。

現在、「芸術」において、人がやらないようなパターンで「タブー」を破った人は、だいたい高く評価されることが多いわけですが、そうなると、本当に「タブーを破ること」が目的だったのか、それとも、『そういうことをやれば人目を引いて受けるかも?』という目的だったのか?という所で、やや胡散臭い感じが出て来るわけですね。

とは言え、まだまだ「芸術」によって「タブー」が開示されることで、「タブ―」の無意味な部分が明らかに成って、「タブー」が解消されていく場合もあると思いますので、そういう場合はいいんだと思いますけどね。

もともと、社会の中に「タブー」ができ上がってしまうのには、それ相当の理由があるわけですから、それを完全に無くすことは難しいのかも知れませんが、そういう「理由」や「意味」があった時点までは、それは「タブー」と言うよりは「悪」と言うのに近いモノなんだと思うわけです。
その後、もともとの「意味」や「理由」が無くなって、実害が無く成った「悪」を意味もなく「禁忌」として遠ざけるように成ってしまうのが「タブー」なんじゃないかと思います。

必要が無く成ったモノをそのままにしておくと、たいていの場合弊害が出てくるわけですが、「タブー」も放っておくと徐々に社会に抑圧を生み出して、人間を縛り付けるように成るということだと思います。

そんな「タブー」なんて無いほうがいいに決まってるわけですが、やはり「悪」が無く成らない限り「タブー」もなく成らないということだと思います。
もとは、同じようなモノでしょうからね。
(実害が残っている「タブー」もけっこうあるし)

でも、今の時代においては、「タブー」は「悪」よりは消しやすいものなんじゃないかとも思うわけです。

もともとは「悪」だったものが、時代や社会の変化によってかなりの所まで無害化したことで「タブー」に成るわけです。
つまり、どちらかと言えば良くなっているわけで、その時点までは、そんなにひどいことが起きているわけでもないんだと思うんですね。
でも、それを放置してしまうから「タブ―」が弊害を生み出すように成ってしまうわけで、その後、その弊害が大きくなっていくことも出てきてしまうわけですね。
ということは、「タブー」はいち早く解消してしまえば、ほとんど害はないということに成るわけです。

だから、既に弊害と成っているような「タブーを破ること」よりは、「タブーを作らないこと」の方に意味があるわけで、少なくとも、「芸術がタブーを破ること」に、現在言われているほどの意味は、今ではもうなくなっていると思います。

「芸術がタブーを破ること」に意味があったのはひと昔前までで、情報の流通がよくなっている現在では、そういう意味も薄くなってきているような気がするわけですね。
現在では、大量に流れている情報を上手く使って、早い段階で「タブーの芽」を摘み取っていくことの方が意味としては大きいんじゃないでしょうか?

でも、それはどちらかと言えば「芸術の役割」ではないような気がします。

というか、「芸術がタブーを破ること」の意味が薄くなっているのに、それをあまりにも「ありがたいモノ」として扱い続けていると、それ自体が「逆・タブー」的な性質を持つようになってしまう恐れすら出てくるわけで、そうなれば、『ミイラ取りがミイラ』のようなパターンに成りかねないんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



「権利」は使われると必ず「権力」に成る



いま、社会にとって一番大事なことは、「人権」を確立することだと思いますけど、実を言うとその「人権」は使われないのが理想的だと思うわけです。
どんな「権利」についても言えると思いますが、「権利」を使えば、そこに必ず「権力」が発生するわけで、それは徐々に横暴になっていくに違いないわけです。

 ※現在の民主主義社会では「人権」が確立されているという建前に
  なっていますが、実際には本当に「人権」が確立されている国は、
  人間の歴史上、まだ一つもないと思います。

「人権」などの「権利」と言うのは、基本的に立場の弱い者を守るためのモノだと勝手に思い込んでしまうんですが、どんなに弱い立場の者でも「権利」が与えられれば、一方的に弱いとも言い切れなくなってくるわけで、さらにそれを自由に使うように成れば、どちらかと言えば強い者の側になってしまうわけです。

もともと、「権利」と言うのは社会に「格差」があることを前提として必要性が発生してくるものなわけで、本当のことを言えば「格差」自体が無いのが一番いいわけです。
ただ、現時点でそういうことを言っても『無理でしょ?』ということで、仕方なく「人権」などの「権利」を確立して、「上からの権力」と「下からの権力」を拮抗させて、疑似的に「格差」が少ない状態を作って行こうということに成るわけです。
しかし、「下からの権力」であっても、一方的に使われてしまえば必ず暴走しますから、出来れば「上下方向の権力」が同じ力量で均衡を保っていて、尚且つ使用されないというのがイイわけですね。

まぁ、そうは言っても、現在は「権利」は必ず「上から下へ与えられるもの」と言う仕組みになっていますから、「上に立っている者」が自分と同じだけの量の「権利」を「下に居る者」に与えるわけありませんから、常に「力量」に差があるわけで、したがって、その「力量」を均等化することを「人権の確立」と言っているわけです。

 ※「戦争抑止力としての核」とか「犯罪抑止力としての刑罰」のような
  考え方ということですね。
  どれも使われないに越したことはないですよね。

でも、おそらく、もう少し社会が変化していけば「上に立っている者」が、「自分と同じ力量」を「下に居る者」に与えるようになると、私は思います。
要するに、一方的に「権力」を行使することに意味が無くなってきているわけですね。
そういう「傍若無人」をやっても意外と利益がなくなってきているわけです。

これは「地球」の中で、「人間」と言う「上に立っている者」が「傍若無人な振る舞い」をしても、あまり利益に結び付かなくなってきたことと同じ原理ですし、そのことと、必ずしも無関係ではないと思います。

 ※「人間」が地球上で「上に立っている」と言うのは、『人間が偉くなった』
  と言うような意味ではなく、単純に生物界の中で「人間」が立たされている
  位置のことです。
  
つまり、限りのあるものを有効に利用していこうとするときには、ある特定の方向から利用するよりも、いろいろな角度からの利用を考えていった方がはるかに多くの利益が見込めるということなんだと思います。
まぁ、「社会の中」でも「地球の中」でも、いま、「人間」がそういう位置に立たされているんだと思いますね。

この場合、その「特定の方向」が「一方的な権力」に相当するわけです。

「人間」は「智恵」を持ったことで「いま」に至っているわけで、「チカラ」をもって「いま」に至っているわけではないと思います。
そして、さらに「いま」に至って、「人間」は「チカラの原理」を脱ぎ捨てる時が来ているんだと思うわけです。
まぁ、脱皮みたいなもんなんでしょうね。たぶん。

そんなことからも、「人権」が確立された「その先」の時代に生きて居たいなと。

『ええ、自分だけでも行きますよ』

そんな風に思っているわけですね。



「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる



『芸術は美術館で見るもの』というのが、今は一般的な考え方なんじゃないかと思いますけど、今後は『芸術は生活空間で見るもの』、もう少し詳しく言うと『芸術は日常の中に非日常空間を創り出すもの』という考え方が重要になっていくんじゃないかと思っているわけです。

今は「見る人」が美術館などの「非日常空間」に移動して「芸術」を鑑賞しているわけですが、その移動の方向を反転させて「芸術」を「見る人の日常」に持ち込むことで「見る人の日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「芸術」が人間にとって一定の価値を提供することが出来るように成るだろうと思うわけです。

 ※「芸術」にとっては、「価値」よりも「意味」が重要だと思います。
  言い換えれば、「役に立つこと」ではなく「純粋さを追求すること」
  が「芸術」の本来の姿だと思うわけですが、それでも、「価値」だっ
  てあったほうがイイには違いないわけです。
  つまり、人間にとって実質的に役立つ「価値」ですね。
  「芸術」がそういうモノを追求するために「芸術としての純粋性」を
  失ってしまうことは本末転倒だと思いますが、「芸術」が「芸術」の
  範囲内で「人間」に貢献しようと考えることには、「価値」があると
  思いますし、それは、「芸術の意味」でもあると思います。

  まぁ、早い話が、「結果的に発生する価値」はあった方がいいという
  ことだと思います。

現在の日本では、一般庶民の住宅で、『芸術だな』と思うようなモノを置いている家って少ないと思うわけですねぇ。
まぁ、複製品とか「インテリア・デザインや工芸品としての芸術」ということではなくて、「一点物の個人作品」であって、しかも『これは純粋な意味での芸術を追求して作りました』というような、いわゆる「ホンモノ」っていうことですけどね。

 ※有名・無名・とは関係ありませんし、もちろん値段とも関係ありません。
  自分で創作したモノや、友人や知人が創作したモノなんかも含まれると
  いうことで考えたとしても、そういうものが飾られている家ってあんま
  り見ないですよねぇ。
  これ、ちょっと寂しい気がするんですが、どうなんでしょうね?

こういう話で、『ヨーロッパなどの住宅では「芸術」が生活の中に溶け込んでいる』ということを聞いたりもしますが、それとは少し違う話だと思います。
確かに、日本の住宅に比べると、そういう国の住宅に絵がかけられていたりすることは多いという話を聞きますが、おそらくそれは「インテリアの一環として飾られている絵」であって、今ここで言うような『芸術を日常空間に持ち込んで、そこに非日常空間を創り出す』という意味ではないと思うわけです。

だから、これは日本の住宅事情とはほとんど関係が無い話ですし、また、日本人の「インテリア感覚」や「生活空間の演出に関する意識」の話でもなくて、もう少し根本的な意味での「芸術鑑賞に対する姿勢」についての話です。
つまり、「現在、芸術が置かれている位置」と「現在、人間が立っている位置」の間で、『どういう「芸術鑑賞」を模索していこうか?』というような話であります。
まぁ、「芸術鑑賞のスタイルについての提案」みたいなものだと思っていただければいいんじゃないでしょうか。

さて、なんで「日常空間」に「芸術」を持ち込むことが「芸術の価値」に成るのかということなんですが、それは「現代社会」がある種のユガミを抱えていることや、そのことから「現代人」が常に「ストレス」を感じて生活せざるを得ない状況にあるということと深く関係しています。

 ※ここで言う「ストレス」とは、単なる「負荷」ではなく、『どっちに行って
  も逃れられない閉塞感』のようなものです。
  主にダブル・スタンダードやダブル・バインドによって産み出される
  「精神的な閉塞感」を指しています。
  要するに、「現代人」はいつも何かと何かの間で挟まれていたり、引
  き裂かれていたりして、片方に近づけば片方からは遠ざかってしまう
  という、ジレンマの中で生活しているということですね。

  このことこそが、「芸術」が20世紀に入った頃から大きく変貌したこと
  の、ひとつの原因でもあるんだと思います。

「現代人」が「ストレス」を感じて生きているということに異論がある人はそう沢山は居ないと思いますが、その「ストレス」を『昔からあったんじゃないの?』と思っている人はけっこう居るんじゃないかと思います。

もちろん、いつの時代にも、何らかの「ストレス」があったのは間違いないと思いますが、「現代のストレス」は「現代特有のモノ」だと思うわけです。
それは、「精神的なストレス」ということですね。
「ストレス」自体が精神的なものなんでしょうが、「現代のストレス」は「精神と精神の摩擦が生み出すストレス」だと思うわけです。

昔は、主に「肉体的な負担」を、人間が「重荷」と感じたときに「ストレス」が発生していたわけですが、現在は「肉体的な負担」が全くない場合にも「ストレス」が発生するようになっていて、しかも、その「精神的なストレス」が「肉体的な負担」よりもはるかに大きくなっているわけです。

ちょっと前の時代(50年前くらい?)までは、その「精神的なストレス」も「肉体的な負担」とだいたい同じくらいの大きさだったような気がしますが、この半世紀ほどの間に、社会が生み出す「精神的なストレス」は膨張し続けて、今に至って、それが「人間の限界点」」を超えてしまったという感じがあるわけです。
(100年以上前は、「精神的なストレス」は、けっこう単純だったと思いますね)

とは言え、そういう中でも生きていかねばなりませんから、「ストレス社会」の中で「人間」は常にフラストレーションを抱えて生きていくことに成るわけで、当然、その「はけ口」を求めているわけです。

まぁ、悲しいことではありますが、こう言うことから、その「はけ口」として「イジメ」や「虐待」や「~ハラスメント」などの現象が起きてくるわけで、オオモトのフラストレーションが緩和されない状況のまま「はけ口」だけを何とかしようとしても、ほとんどなんの効果もないと思うわけですねぇ。

なかなか、「現代のフラストレーション」そのものを緩和するのは難しいでしょうが、せめて、「イジメ」や「虐待」のような最悪の選択だけでも逃れられないだろうか?と考えるわけです。
そこで、その「はけ口」の代わりに成り得るのが、「幻想の日常化」だと思っているわけです。

もともと、「リクリエーション」とはこういう目的のものだと思うんですけど、「リクリエーション」の場合は「人間が非日常空間に行くこと」を意味するところが大きいと思います。
つまり、「日常空間を離れること」に意味があるんだと思います。

しかし、「現代人」は常に「フラストレーション」を抱えていますし、その元をたどって行けば「逃れようのないストレス」という「絶対的な闇」があるわけですから、「日常空間を離れること」ぐらいで「日常を忘れること」なんてとてもできませんし、「ときどき行くリゾート」などでは、一年中いつも付きまとっている「フラストレーション」を解消することは出来ないわけです。
それに、そういった「リクリエーション」にも「おカネ」や「手間」がかかってしまうので、また、そこでも「ストレス」を感じてしまうわけですねぇ。
まぁ、それだから「逃れようのないストレス」なわけですけどね。

そこで、「幻想の日常化」が必要に成ってくるわけですねぇ。

という所で、前置きが長すぎて、本題に入る前に力尽きてしまったので、次の記事に続けます。




「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる(つづき)



前の記事の続きです。

「幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、そこに「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代人」が抱えているフラストレーションを少しは解消することが出来るんじゃないだろうか?ということですね。
(注:少しです)

昔から「芸術」が持っていた役割の一つは「人の心を癒すこと」だったと思いますが、現在、この役割が「芸術」に担えるでしょうか?
つまり、「現代ストレス社会の中で疲れた心」を「芸術」で癒すことが出来ると思いますか?ということですね。
『出来ますよ、楽勝で』と言える人がどのくらいいるのかはわかりませんが、少なくとも、そう言える人というのは、よほど楽天的な人か庶民の中でも「やや上」の立場にある人じゃないかと思いますね。

そういう、「ストレス少なめの人」以外の一般庶民で、「それでも芸術で癒されたい一心で美術館に通う人たち」は、本当に癒されているでしょうか?

やっぱり普通の庶民の人たちは、「現代社会」の中で、かなりの「ストレス」を感じて生きているわけで、しかも、けっこう真面目に生きている人ほど、「社会」に適応しようとしますから、「社会のヒズミ」の影響をもろに受けてしまうわけで、当然、強いフラストレーションを抱えているわけです。

要するに、『こんな状況の下でも、「芸術」が人の心を癒すことが出来るのか?』ということです。

私は無理だと思いますね。
というか、そういう「逃げ場のないストレス」の中に居るような人に『まぁ、美術館にでも行ってみれば?きっと心が癒されるよ』というのは、むしろ残酷だと思ってしまいます。
つまり、「芸術」なんか見ている余裕が無いということですね。
現在の社会状況というのは、こういうことが決してオーバーではないと思うわけです。
じゃなきゃ、こんなにたくさん自殺者が出ていないと思いますよ。
しかも、こんな、食べるのに困らないような時代なのに。

確かに、そういう状況でも「芸術」に救われている人は居ると思いますが、そう言う人が少しづつ少なく成っているのも間違いないことのように思うわけですね。

なにが言いたいかというと、昔と今とでは「芸術」が担う役割のスタイルを変えなければならないんじゃないか?ということなんです。
まぁ、一言で言って、昔のスタイルじゃ役に立たないと思う人が多くなったということだと思います。

「アカデミズムの行き詰まり」と同時に、この「芸術の役割の変化」があったことで、「芸術の20世紀」において「芸術」が大きく変貌することに成ったんだと思います。

昔は、「きれいな花」や「美しい風景」、あるいは「神話的な題材の絵」を描いていれば、それを見た人の心が癒されていたわけですが、近代から現代にかけて、「ストレス」が増大するのと同調して、「芸術」も変貌していったのは、「強いストレス」を感じた人たちが、そういった昔のスタイルでは心を癒されなくなったからだと思うわけです。

「昔の癒し」とは、要するに「たのしみ」だったんだと思います。
言い換えれば「エンターテイメント」ですね。
昔は「エンターテイメント」が少なかったんでしょうから、「芸術」はその中心の一つだったんだと思います。

でも、現在は「エンターテイメント性」では「純粋な芸術」を上回るモノもたくさんあるわけで、敢えて「純粋な芸術」で「たのしみ」を追求する必要性は薄いんじゃないでしょうか? 
「純粋な芸術」は「たのしみ」を創り出すのには、そんなには向いていないんだと思います。

ところで、「純粋な芸術」は、ナニに向いているんだ?ということです。
たとえば、「幻想であること」ですね。
これは「純粋な芸術」に向いているんじゃないかと思うわけです。
もちろん、他の言葉で言い換えてもいいと思います。
たとえば、「異世界」でもいいわけですし、「夢」と言ってもいいと思いますよ。
なんでも自分の好きな言葉を当てはめて考えることは出来るわけですね。

つまり、「現実ではないナニカ」ということなんだと思います。
そして、「自分が最も惹きつけられるナニカ」ということですね。
そういう「心を魅了するものであること」が「芸術」に向いていることなんだと思うわけです。

そして、そういうものを「日常空間」に持ち込むことで、「日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代ストレス社会」における「癒し」と成り得るんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「エンターテイメント」が「即効性の癒し」であるのに対して、「幻想の日常化」は「根本的な癒し」に成る可能性があると思うわけです。
「純粋な芸術」には根源的で普遍的な性質がありますから、「エンターテイメント」では物足りない人に対しての「癒し」に成り得ると思うわけですね。

なぜ、「非日常空間」に行って見るのではダメなのか?と言えば、『めんどくさいから』です。
「やられちゃってる人」は「めんどくさいこと」はもうできないんですね。
それに、もしも、少し無理して行ったとしても気持ちにゆとりがありませんから、『あぁ、いいよね』ぐらいで終わってしまうわけです。
それじゃ、「癒し」に成らないでしょうね。
それから、次に行くまで持ちません。
「ストレス」は常に付きまとっていますから、次にそういう場所に行くまで持たないんですね。
だから、いつどこに居ても「幻想」があるのが一番いいわけです。

でも、それが完全に「日常」になってしまうと意味が無くなってしまいますから、「日常」の中に「非日常」を創り出すことが必要に成ってくるというわけです。
その為にも「幻想であること」が必要に成るわけですね。

『現実を忘れさせてくれる』だけじゃなくて、『現実を圧倒する』ような世界が「日常空間」の中に造り出せれば、きっと「現実の中で起きている矛盾や不条理」に対して、『むしろ、そっちこそ「無意味な世界」であって、自分にとって本当に意味があるのは、こっちの「幻想の世界」なんじゃないのか?』という風に思えるかもしれません。
(これは、かつて「宗教」が担っていた役割ともリンクしていると思います)

というか、実際に「芸術が創り出す幻想」は「現実」よりも「真実」に近い可能性があるわけで、そうだとすれば、これは「虚構への逃避」ではなく、むしろ「真実への回帰」であるわけですから、本当の意味での「癒し」と成り得るんではないのかなと。

つまり、「現代社会」の持っている「人間性軽視」や「効率重視」や「拝金主義」などの性質は、実際にはだれにとっても無意味なモノで、実を言えば、誰も幸せになれない「虚構の論理」であるということがかなりはっきりしてきているわけですから、そちらが「虚構の世界」であると言っても、もうそろそろいいような気がするわけですね。

そして、そういう「虚構の世界」の「裏」という意味での「幻想の世界」を心の中に持っていることが「その人にとっての真実」を取り戻すことに成るかも知れないということです。

また、それだからこそ、「芸術」は少し無理をしてでも「真実」を追求する必要があるんではないのかなと。
「真実」に到達できることは無いにしても、そこへ向かう姿勢だけでも示すことが、「現在の芸術の責任」であるのかなと。

そういう風に思っているわけなんです。



「ネガティブ試験」



「試験」というのは、「出来ること」を調べるためのものということに成っているわけですが、そこのところを逆に考えて、「出来ないこと」を調べるための「試験」という考え方があってもいいんじゃないかと思っているわけです。

 ※と言っても、「出来ること」は調べやすいんですけど、「出来ないこと」
  ってなかなか調べられないんですねぇ。
  要するに、「わざと出来ないフリをすること」が出来てしまうわけです。
  「出来ない人」が「出来るフリ」がをすることは出来ませんが、「出来る
  人」は「出来ないフリ」をすることが出来てしまうので、調べられないわ
  けですねぇ。

  だから、この話は考え方としてこう言うモノがあってもいいんじゃないか
  というような話に成ります。

学校の試験でも、就職試験なんかでも、とにかく「試験」と名の付くモノは、すべて『その人は何が出来るのか?』を試験することに成っているわけですが、実を言うと、ここには致命的な欠陥があって、その人が「出来る」からと言って、その人が「やる」とは限らないということが、完全に見落とされているわけです。

つまり、「出来る」ということは「でき得る」ということであって、「必ずやる」とは限らないわけです。
その人は「やろうとした時」には「出来る」でしょうが、やろうとしなければやりません。
そして、その人が「やろうとする人であるのか?」ということも、「いつやろうとする人なのか?」ということも、まったく「試験」されていないわけです。
だから、優秀な成績で「試験」をパスした人が、必ずしも優秀な人材とも言えない場合がけっこうあったりするわけですね。

反面、「出来ないこと」が「試験」できたとしたら、たとえば、「人を裏切ることが出来ない」とか「不誠実なことが出来ない」とか「嘘をつくことが出来ない」というような、いろいろな「出来ないこと」が「試験」で調べられたとしたらですね、そういう「試験」をパスした人は、常にその「試験結果」を繁栄した行動をとるはずです。
だって、その人には、そういうふうにしか「出来ない」わけですからね。

もちろん、「出来ないこと」を「試験」で確認するのは、かなり難しいと思いますが、「論文形式の試験」など、それなりに方法はあると思います。
いずれにしても、この「出来ない試験」=「ネガティブ試験」という考え方自体が大切なんじゃないかと思うわけですね。
少なくとも、「出来る試験」と「出来ない試験」の両方向からの試験を行うことで、改善することはあるんじゃないかと思います。

また、「出来ない」ということに「価値」を見出していくという方向性にも、「出来る」ばかりを追っている「現代の行き詰まり」を脱する手掛かりがあるんじゃないかと思うわけです。

そんなことからも、「ポジティブ試験」と「ネガティブ試験」をセットにした考え方があってもいいんじゃないかと思っているわけですねぇ。

現在の「ポジティブ試験」では、「人間性」のような「曖昧な能力」を調べることは出来ません。
しかし、そういうことは間違いなく重要なことであって、「まったく無試験」の現状には、やや問題があると思います。
おそらく、ただ単に『試験するのが難しいから』という理由で、これまでずっと「ネガティブ試験」は行われてこなかったわけですが、『難しいからやらない』という発想がよくないと思うわけですね。

しかも、「ポジティブ試験」の方だけは、必要以上に重視されていて、「出来る試験」をパスした人が「やる」とは限らないことは、もうみんなわかっているのに、それを続けてしまっています。
そして、社会全体が「試験」に依存してしまっていますから、「試験」で選ばれた人や「資格」を持っている人が無条件で優遇されていたり、無審査で信頼されてしまったりするわけです。
(特に、「信頼性」については何ひとつ審査されていないのに!)

こういう状況が、現在の社会には向いていないんじゃないかと思うわけです。
つまり、現在は「能力の時代」から「人間性の時代」への移行期なんだと思います。

そして、その為に必要に成ってくるのが「ネガティブ試験」という考え方だと思うわけですねぇ。

これは、必ずしも「誠実さ」とか「良心」とかというような、いわゆる「イイモノ」だけに限ったことではなくて、たとえば「二つのことを同時に出来ない人」とか「要領の悪い人」とか「空気を読めない人」のような、今の世の中ではどちらかと言えば「ダメな人」に入れられているような人たちについても言えることで、「二つのことを同時に出来ない人」が「一つのことを確実にやる人」である確率は高いでしょうし、「要領の悪い人」が「真面目な人」である確率もかなり高いでしょうし、「空気を読めない人」が「不正を暴露する」ことなども、ときにはあるかもしれません。
(少なくとも「空気を読める人」は絶対にそう言うことはしませんよね)

つまり、「出来ない」=「無能」ではないということです。
「ナニカが出来ない」ということは、「他のナニカが出来る」可能性を示唆している場合があるわけですね。

その点で、人間の場合は「知能が発達した動物」ということに成っていますから、少なくとも「知的な能力」については、どちらかというと「能力」が余っているわけです。
さらに、現在は「教育」も普及していますから、「必要低限の知識」はほとんどの人が持っています。
でも、ほとんどの重要な「試験」は「知的な試験」ですから、「出来る試験」にはそれほど大きな意味が無くなってきているわけです。
要するに、「必要な能力」ぐらいのものは、だいたいの人が既に持っているわけです。
だから、「試験」で「チョットだけいい成績をとる人」を選抜してもあまり意味が無いということですね。

しかも、前述のように、「ポジティブ試験」には致命的な欠陥がありますから、「出来ること」が全く役に立たない可能性もあるわけです。

その点「出来ない人」は、「出来ないこと」を、いつも必ず出来ないわけですねぇ。
そういう意味で、確実です。

まぁ、そんなことから「逆転の発想」ということで、「ネガティブ試験」という考え方もあっていいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



人間は、「絵の中」では「形」でしか「モノ」を認識できない



これは、先日このブログで「抽象表現」についての記事を書いている時に思いついたことなんですが、人間って、「絵の中」では「形」でしか「モノ」を認識していないような気がするわけです。

 ※ここで言う「形」は、主に「立体的な形」です。
  「平面的で図形的な形」というよりは、人間が「モノ」として認識し
  易い「立体的な形」ということに成ります。
  ただし、「平面的な形」でも「モノ」を認識できる場合もありますか
  ら、あくまで『主に』ということです。

 ※また、ここで言う「モノ」は人間がなんらかのまとまりのある「モノ」
  として認識できるような「モノ」ということです。
  「物質」とは限りませんが、かなり「物質に近い意味」だと思います。
  要するに、人間の認識の中で「意味のある像」として感じられる「モ
  ノ」ということに成ります。

もちろん、人間は「形」だけでなく「色」も「音」も「味」も「匂い」も「手触り」も、どれも全部「認識しているわけですが、それらの中で「絵」に直接関係があるのは「色」と「手触り」ぐらいまででしょうし、「手触り」に関しては、あくまで見た感じから「手触り」を想像するということに成るでしょうから、純粋な意味で「触覚的」であるとは言えないと思います。

そうなると、やはり「色」と「形」ということに成るわけですけど、「色」だけで「モノ」を認識できるのか?ということに成ると、かなり難しいんじゃないかと思うわけですねぇ。

このことは、おそらくほとんどの人が既にわかっていることなんだと思いますが、それでいて、このことをハッキリと意識している人は意外と少ないんじゃないのかなと思うわけです(まぁ、自分がそうだったということです)。
要するに、この辺の所が、けっこうキッチリ見切れていなかったりするんですよね。

もちろん、「色で表現できること」もありますが、それは「モノ」ではないわけです。
そのことがハッキリしていないと、いつの間にかなんとなく「色」でナニが表現出来て、ナニが表現できないのかが曖昧なまま制作することに成るわけで、当然見た人には「その曖昧な部分」は伝わらなくなってしまうわけです。

これは「色」に限ったことでは無いと思います。
たとえば、最近よく言われることですが『「現在の芸術」は「芸術の文脈」を読み解きながら創作したり鑑賞したりするものなのだ』という「非常に売り手(作り手)市場な論理」がありますが、『じゃあ、その「文脈」で何が表現できるのか?』ということに成ると、人によってテンデンバラバラで極めてテキトーな答えが返って来るでしょうね。
要するに、「文脈?」っていう「意味不明のキーワード」で煙に巻いて誤魔化しているに過ぎないんだと思いますよ。

 ※こういうのは、『ナントナク空気を読んで制作しています』というの
  と変わりませんね。
  そんなものを「芸術」と呼ぶ「意味」がありません。

  この「文脈」という言葉を、皆さんこぞって使いたがる理由がわかり
  ませんが、少なくとも「鑑賞者」は、この「売り手(作り手)の身勝
  手な論理」を拒否していいと思いますよ。
  この論理に基づいて「芸術市場」が動いている限り、「文脈に沿った
  モノ」を売ってさえいれば必ず売れるし、「文脈に沿ったモノ」を作
  ってさえいれば、必ずそれを売ってくれる人が現れるという構造に成
  っているわけで、これは完全に「売り手(作り手)側の論理」だと思
  いますからね。

他のことでも、こういう「誤魔化し」や「曖昧さ」はたくさんあるでしょうが、そういう所を少しづつでも明快にしていくことが「芸術をわかるモノ」にして行くことにつながるんじゃないでしょうか?

要するに、「色」も「文脈」も「他のナニカ」も、すべて「限られた表現力」しか持っていないということです。
それは「形」も同じですが、「形」は人間にとって常に明快であり、誤魔化しがきかない表現形式であるということだと思います。
その点で、「色」は「曖昧さ」が長所でもあり、短所でもあるんだと思います。
だから、誤解を生み出しやすいんだと思います。

たとえば、人間は「リンゴの形」を認識できますし、「リンゴの色」も認識できるわけですが、「形」だけで「リンゴ」を識別することは出来ても、「色」だけで「リンゴ」を識別するのはかなり難しくなってしまうわけです。

人間はどんな「色」をしていても「リンゴの形」をしたものは「リンゴ」として認識しますが、さまざまな形をしたものが、いくら「色」だけ「リンゴの色」をしていても、それを「リンゴ」だと認識できる人はほとんどいないということですね。

つまり、「リンゴの形」をしたものは、青ければ「青いリンゴ」と言われますし黒ければ「黒いリンゴ」と言われますが、「リンゴの色」で「パイナップルの形」をしたものは「リンゴのような色をしたパイナップル」と言われることはあっても、「パイナップル形のリンゴ」と言われることはないということです。(←ピコ太郎系?)

要するに、「モノ」の認識においては、「形」が圧倒的だということですね。
逆に、「絵の中」で「色」は「モノ」を表現していないということに成るわけです。

現在言われている「抽象表現」というものが非常にわかりづらくなってしまっている理由の一つは、「形を使わない表現」を「抽象表現」であるとしてしまっているからなんじゃないかと思いますが、「形」でしか「モノ」を現すことが出来ないんだとすれば、わかりづらくなるのも当然の結果ですよね。
「視覚」に関して言えば、人間は基本的に「モノ」を認識するように出来ていると思いますから、『「モノ」が無い』ということは、ハッキリとした認識がほとんど出来なく成ってしまうわけです。

 ※ちなみに、「形を使わない表現」は「抽象」というよりは「非形象」と言
  うのが正確ではないでしょうか?

 ※人間は「モノ」以外の「色」や「図形的な形」や「質感」なども認識する
  ことが出来ますが、それらは必ずと言っていいほど「モノ」に結び付けら
  れて認識されるわけです。
  つまり、「モノの色」や「モノの形」や「モノの質感」として認識される
  のが圧倒的にスタンダードなわけです。
  実際、自然界には「モノの〇〇」しか存在しないですからね。
  「モノ」でない「純粋な色」や「純粋な質感」を認識することが”不可能”
  だとは思いませんが、どちらかと言えば”不自然”だと思います。
  だから、純粋なハズなのに、結果的に表現力が弱くなってしまうんじゃな
  いでしょうか?

確かに「モノ」に対する認識以外にも、人間が知覚出来ることはいろいろあるでしょうから、必ずしも「モノ」である必要はないのかも知れませんが、少なくとも「モノを認識すること」は人間の知覚のかなりの部分を占めているわけですから、そこを外してしまえば、相当表現の幅が狭くなってしまうのは避けられないということです。
しかも、「絵」を描けば、必ず何らかの「形」が発生してしまいますから、そこを無理に外そうとすれば、ドンドン窮屈になって行って表現の幅を狭めていかざるを得なくなってしまうわけですね。

そして、さらに「形を使わない表現」が「非形象」というようなものだとすれば、それはいずれ「色象」というような形態に向かうしかないわけですが、それは「デザイン」であって、「芸術」の中心からは少し離れたところのジャンルに成るわけです。

「デザイン」と「絵」の違いは、「絵」が「絵の中」に「世界」を創り出すものであるのに対して、「デザイン」は「世界」を展開することを目標としていないということだと思います。
つまり、「作者の表現する世界」があるか無いかの違いだと思うわけです。
「デザイン」に作者の「強い主張」や「自己表現」が世界感として展開されることは無いと思いますが、「現在の芸術」にとっては、それが中心的な目的でしょうから、そこに大きな違いがあるわけです。
ということは、「芸術」が「デザイン化」すれば、当然「主張」や「表現」としての力強さを失うわけで、徐々に芸術の中心からは遠ざかっていくことに成るわけです。

このように、「現代美術」においては、結果的に「芸術の中心」から離れたところにあるようなものが、最も「先端的&芸術的」であるとされていますから、それで、「現代美術」を見た人が困惑することに成るわけです。

こういう状態を続けていくことには、何の意味もないと思いますので、出来るだけ早くこういう状態が解消されればいいなと思いますが、このコンガラカッテどうしようもなく行き詰っている状態を何とかするには、取り敢えず『出来ることをやっていく』ということしかないでしょうから、そういうことの一つがこの話というわけです。

ということで、『「モノ」は「形」でしか表現できないよ!』

という風に思っております。


「抽象画」の中で「モノ」をどう扱うのか?



前の記事に関連した話です。

前の記事で、『「絵の中」では「形」でしか「モノ」を表現することは出来ない』と言うようなことを書いたんですが、その「絵の中におけるモノ」とは、どういった「モノ」で、それは「絵の中」でどういった意味を持っているのか?というような話です。

私の場合、『抽象画なんだけど、「モノ」を描くよ!』ということでやっているんですが、そこで、『抽象画って「モノ」を描かないことなんじゃないの?』ということが出て来ると思うわけですね。

もしも、「抽象画」を厳密に捉えていけば、「モノを描くこと」とは矛盾が出て来るのかも知れませんが、でも、実は「抽象画」を厳密に捉えていくと、「モノ」だけでなく最終的には何も描くことが出来なくなってしまうと思うわけです。

つまり、「抽象」という概念は、純粋すぎて「人間の能力」を超えているようなところがあるわけですね。
だから、完璧に実行しようとするとフリーズしてしまうんだと思います。

なんと言っても「真実」や「本質」を現わそうとするのが「抽象」の本当の意味なわけですから、そんなこと完璧に実行なんてできるわけありません。
だから、それを「達成すること」ではなく「やろうとすること」の方に意味を見い出すしかないんだと思うわけですね。

まぁ、私の場合は、自分にとっての「やろうとすること」が、『抽象なんだけど「モノ」を描くよ!』ということだったわけです。

そこで、前の記事の話に成るわけですが、要するに「形」を使って「モノ」を描かないと、「絵」における表現のかなりの部分が失われるわけで、「色」だけでは「モノ」を現わせませんし、「モノ」を使わないと「具体性」が無くなりますから、「チカラ」が生まれません。
どうしても、『雲をつかむような』希薄な感じに成ってしまうわけですねぇ。

 ※「具体性」があったら「具象」であって「抽象」じゃなくなっちゃうん
  じゃないか?と思う人も居るでしょうが、私は「具象」と「抽象」を対
  立する概念とは考えていません。
  だから、「具体性」があっても、「本質」や「真実」に向かう姿勢を持
  っていれば、それを「抽象」と呼んでもいいと思っているわけです。

そういうのを、私は「肉体を失った芸術」と言っているんですが、「肉体を失った精神」というのは、「亡霊」に成ってさまようことしかできなくなってしまうんだと思うんですね。
つまり、そういう「具体性が排除されてしまった芸術」というのは、「芸術の亡霊」であって、「存在」として希薄であるために、実質的な意味を持つことが出来ないんだと思います。

そういう「フワフワした芸術」を「センスがいい」とか「才能がある」とか言っているようなところがあると思います。

それよりは、「精神の純粋性」を少しだけ犠牲にしたとしても、「肉体」を取り戻すことで「精神」が宿る場所が出来れば、そのほうが少しマシなんじゃないかと思うわけです。

それは、「現在形の芸術」的な視点から見たら、「ドンクサイもの」に見えるかもしれませんが、それでも、そこには「具体性」という「チカラ」が生まれます。
「現在形の芸術」は、そういう「チカラ」を失っていると思うんですが、どうでしょうか?

つまり、「絵の中」における「モノ」というのが、その「具体性」という「チカラ」を象徴している存在なんじゃないかと思うんですねぇ。
もちろん、これは「絵」に限ったことではないんですが、「立体」はすでに「モノ」ですし「パフォーマンス・アート」などの「行為」は「モノ」ではありませんから、やや解り辛くなってしまうと思います。
そうなると、やっぱり「絵の中のモノ」が、この「抽象における具体性」を最も端的に現していると思います。

さて、「絵の中」における「モノ」とは、「具体性」であり「チカラ」であるということなんですが、その「絵の中のモノ」とは「絵の中」でどういう意味を与えられるのかということに成るわけですね。

この場合は、「抽象画」に限っての話ということです。

具象画の場合は、多くの場合「モノ」が「主題」に近い意味になるわけです。
たとえ、「モノ」ではない「ナニカ」を表現しようとする場合であっても、「モノ」の範囲の中でそれを表現していくのが「具象表現」でしょうから、やはり「モノ」は「具象画」にとって「主題」であると言ってもいいんじゃないかと思います。

それに対して、「抽象画」の場合は、必ずしも「モノ」が「主題(テーマ)」という位置を占めているわけではありません。
というより、どちらかと言えば「抽象画」にとって「モノ」は「邪魔者扱い」という感じもあって、「モノ」という束縛を逃れるために「抽象表現」を使うという考え方の人が多いんじゃないかと思います。

そうは言っても、前の記事の話に戻ると、「モノ」を使わないと「表現の幅」が狭くなってしまう傾向があるわけですから、やはり「モノ」を使って行きたいわけです。
そこで、「既に存在しているモノ」ではなくて、「その絵のなかで創作されたモノ」を使うということに成るわけです。
その「創作過程」を「抽象」と言ってもいいんじゃないか?ということですね。

ところが、いざ「抽象画」で「モノ」を扱おうとすれば、いきなりショッパナから『ナニを描いていいのかわからない』という問題が出て来るわけです。
「現実のモノ」を描いてしまえば「具象画」に成ってしまうわけだし、その「現実」という枠を超えるために「抽象表現」を選択しているわけですから、それでは元の木阿弥になってしまいます。

ところが、『「現実」ではないけど「モノ」ではある「ナニカ」を描け!』と言われると、ほとんどの人がナニを描いていいのかわからなくなるんじゃないかと思います。

それで、仕方なく『キャンバスの上にイメージをぶつけるんだ!!』と言って、勢いだけで誤魔化そうとするわけです。
それが、現在言われているところの「抽象画」の一つの実体であるわけです。

 ※もちろん、そういう「抽象画」ばかりではないと思いますが、少なく
  とも、いま言われているところの「抽象画」には、このような漠然と
  した概念が成立してしまっているようなところがあるのは確かなこと
  ではないかと思います。
  
『「抽象画」なんだから、「具体性」は必要ないんだよ!いや、むしろ「具体制」があってはいけないんだよ!キミィ』
これが、違うんじゃないかと思うわけですねぇ。

まず、「抽象」と「具象」は対立する概念ではないと思いますし、「抽象性」と「具象性」が両立していてこそ「芸術表現」が成り立つわけで、「抽象表現」において作者が「具象性」や「具体性」を排除しようとしてきたのは、『具体的にナニを描いていいかわからなかった』ということを誤魔化す為だったような気がします。

それで、『取り敢えず、「具象じゃないこと」をやれば「抽象」に見えるだろう』という感じで、体裁だけを繕ってしまったところがあったんじゃないかと思うわけですね。

実際に、「具象画」だと、「現実にあるモノ」がモチーフとしていくらでもあるわけで、それらが『私を描いて!』と言って待っていてくれるわけですが、「抽象画」の場合は、そういう「作者を待っていてくれるモチーフ」が一切無いわけです。

だから、『ナニを描いていいのかわからない』のが、むしろ当たり前なんだと思います。
どちらかと言えば、『はじめから描くモノがわかっている人』の方がオカシイくらいだと思いますよ。
というか、そこのところの「模索段階」こそが「抽象という作業」なんだと言ってもいいくらいで、ある意味では『はじめからわかっていたら』それを「抽象」とは言えないという感じもあるわけですね。

つまり、「何もない所からナニカを生み出す作業」を「抽象」というようなところがあるわけで、「そこから先」にしか「抽象表現」という概念は成立しないんじゃないかと思うわけです。

だから、漠然とした心の状態を『キャンバスにたたきつけて』も、それは「抽象」ではないんじゃないかと思いますね。
それは「具象」ではないかも知れませんが、「抽象」とも言えない状態、つまりは「なんでもない」ということだと思いますよ。
(自由ではあると思いますが)

その「漠然とした心の状態」に「具体性」を与える作業を「抽象」というんじゃないかと思うわけです。
つまり、その「漠然とした心の状態」が作品の「主題(テーマ)」ということに成るわけですね。
そして、それが「現実のモノ」や「物質的なモノ」ではないということが「具象表現」との違いに成るということです。

現在までの「抽象」においては、主に、その「漠然としたナニカ」を、そのまま漠然と表現してきたわけです。
それで、『抽象画はわからない』と言われてきたわけですし、『私はわかってますよ』と言う人も、実際にはわかってないと思います。
というか、ハッキリ言えば『わかるわけないでしょ!』と言わざるを得ないわけで、『論理的に言って不可能』なことだと思いますよ。

とにかく、「抽象画」における「モノ」の意味とは、「何もない所から生み出されるナニカ」という意味であり、その「ナニカ」がナニであるかということよりも、「ナニでもないナニカ」であるということに意味があるということですね。

別の言い方をすれば、「抽象」における「モノ」とは「ナニでもないナニカ」でありさえすればそれでいいということです。
つまり、「ナニカであること」に限定されない「自由なモノ」であることが重要なのであって、その「自由なモノ」という領域を使うために「既に存在しているモノ」」を使わずに、敢えてその絵の中で「モノ」を」を創り出すことに成るわけです。

つまり、「モノ」は単なる「媒体」であって、本当の「主題」は「作者自身の精神」です。
ただ、それを伝えるために「具体性」が必要に成るので、その為の「媒体」として「モノ」を使うわけです。
そして、「その作品の中で創り出されたモノ」が、「作者の精神」を伝えるのに最も適しているという考え方が「抽象」と言う考え方なんだと思います。

要するに、「抽象画」の中における「モノ」とは、「作者の精神」を伝えるための「媒体」であり、テーマである「作者の精神」に「具体性」を与えるための道具であるということです。

言い方を変えれば、「作者の精神」が宿るべき「肉体」が「抽象画」の中での「モノ」の意味だということかなと。

やけに話が長いですが、そんな風に思っているわけです。



「長い題」=詩のような題(その8)



「長い題」=詩のような題(その8)です。
「題」だけですけど、なにか?

とはいえ、「長い題」=詩のような題(その8)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そぼく すぎず 

じゅんすい すぎず

それでいて いとも きまじめで 

ひとに きをつかわずに なにかを することなど できるわけもなく 

したがって ろくなことなど ほとんど できたためしがない


そんな にんげんに うまれついてしまった ぼくが

こんなにも ふつうの じんせいを 

こんなにも せいじつに いきているというのに

どうして こんなにも ややこしくて めんどうなことに なるのか

なにゆえ もっと たんじゅんに いきられないのか


そういったことが まったくもって りかいできないと 

いつも おもっているような

『ソウイウ ニンゲンデ ボクハ アリタイ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かなしいときに なみだが でない

うれしくも ないのに わらってしまう

わるいと おもってないのに あたまを さげ

たいしたこと ないよと おもいながらも

かんしんした ふりをする


だけど ほんとは

じぶんが えらいと おもってる

じゅうぶん りっぱな ひとだと おもってる


でも もっと ほんとの ところでは

そんなこと いうほどの じしんは なく

いつも ひとの かおいろを みて いきている


そう これは ぜんぶ わたしの ことですが

そうです ぜんぶ あなたの ことでもあるわけです

あなたが だれでも おんなじです

ちがうと いっても かわりません


わたしも あなたも そういう いきもので あるのです


だから とっても いやなんだけど

『ソウイウ ニンゲンデ ワタシハ アリタイ』


きっと わたしたちは

そんなふうに おもっているに ちがいありません

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うつくしいものも おもしろいものも もう いらない


うつくしいものは しぜんが ありあまるほど あたえてくれる

にんげんは おもしろいものばかり つくりつづけて 

よのなかを おもしろいものだらけに してしまった


だから もう そういうものを つくりだす いみは ない

いま にんげんが つくりだす いみが あるものといえば

それは じぶんじしんの すがただろう


にんげんの すべてを あらわすことは できないが

もし かりに 

『それが ひゃくぶんのいちでも できたなら』

にんげんの ほんとの すがたを 

いっしゅんたりとも みせることが できたなら


それは きっと

なみだが でるほど おもしろく

ふるえるほどに うつくしいものに なるのだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『つやとは』 

いろとりどりの かじつや 

なんごくの しょくぶつの はの

はだのようなもの


つやとは 

ながれるような かたちの ガラスや とうきが 

はんしゃする ひかりのようなもの


そして つやとは 

ひとの こころが もっている 

ひとどうしを ひきつけあう みりょくのようなもの


ときに あいらしく

ときに なやましく

そして ときには ゆうゆうしく

ひとの こころを ひきつけて やまない


そんな つやが

だれの こころのなかにも かならず あるはずなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たのしくて たのしくて

いきているのが たのしくて

かなしくて かなしくて

いきていくのが かなしくて


しぬのなんて こわくない

いま いきて いるから


いきるのなんて こわくない

きっと いつか しぬから


それなのに

どうしても たのしくて

どうしても かなしい

どうしようもなく たのしくて かなしいので

だったら それで いいんじゃないかとも おもうんですが


それにつけても

『あまりにも たのしくて あまりにも かなしい』


それぐらいで いきていくには ちょうどいいんだと おもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめの二つは『宮沢 賢治』さんの『雨にも負けず』から発想したものです。
というか、出来てくる途中でそういう方向に持っていったという感じですね。

『宮沢 賢治』さんは、たぶん、けっこう好きなんで。
『たぶん』というのは、たくさん本を読んだりしたわけではないので、ハッキリしません。
っていうか、『雨にも負けず』自体、これを書いた後ではじめて「全文」を読みました。
ずいぶん長いんですねぇ。
最初の所と、最後の所しか知らなかったのかなぁ?(これもたぶん)

『雨にも負けず』からの引用(少し違いますけど)であることがわかるように、その部分をカタカナにしています。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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