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「パソコンの画面で絵を見る時」にも離れて見た方がいい(かな?)



最近はパソコンの画面で「絵」を見ることが多くなってきているわけですが、やっぱり「絵」は実物を見るに越したことは無いわけですねぇ。
とくに「タブロー」と言われるような「絵としての存在感」を重視した「絵」の場合は、その「存在感」がなかなか画面からは伝わりにくいということがあるわけです。

と言っても、見た人は描いた本人ほどは気にしていないというのが本当の所のような気もしますけどね。
まぁ、そういうことを踏まえた上で、「パソコンの画面で絵を見る時」のことを考えてみました。


最近になって気づいたことなんですけど、パソコンの画面で見る時であっても、やっぱり離れて見た方がいいと思います。
というか、一度は離れて見た方がいいんじゃないかと思います。

「絵」を見る時に、離れて見るというのはよくあることだと思いますが、「大きな絵」については、誰でもごく自然に離れて見ようと思いますし、実際に近付き過ぎると全体像が見えにくいということはあるわけですが、やはり「タブロ―」に関しては、画面の持っている存在感のようなモノから伝わる部分も大きいので、「近くで見ること」も必要だと思うわけです。

でも、本当はこのことと「絵」の大きさは関係ないような気もするわけです。
確かに「小さい絵」の場合は、近づいたからと言って全体像が見にくいというこは無いでしょうが、「離れて見た時」と「接近して見た時」の違いで一番大きいのは「絵肌の凹凸や艶」などが持っている「物質感」の影響を受けるかどうかという違いだと思うわけです。

つまり、接近して見た時は「タブロー」の「モノ」としての「物質性」が強く影響しますし、離れて見た時には「物質的な影響」を離れて純粋に「絵」として見ることが出来るわけです。
それで、その絵の「存在感」を見るには接近して見ることに成り、その絵を「純粋な平面」として見るには離れて見ることに成るんだと思います。
(美術館に行くと、お気に入りの絵の前で「前進&後退」を繰り返している人、よく居ますよね。私もよくやりますけど)

そこで、話を「パソコンの画面で絵を見る時」に戻すと、この「絵の大きさ」と「絵の物質性」の両方とも、「パソコンの画面」には関係ないハズなんですけどねぇ。

まず、「絵の大きさ」については、パソコンの画面では、ほとんどの場合は実物の絵よりも小さいわけですから、離れる必要はないハズです。
そして、「絵の物質性」についても、「パソコンの画面」には「絵肌」自体が無いわけですから、影響しようがないハズです。
(というか、「画像」は「物質」ではないので「物質性」そのものが、はじめから無いと言ってもいいくらいですね)

そうなると、「パソコンで絵を見る時」に離れて見る必要なんてないハズなんです。
でも、それなのに、なぜか離れて見ると、むしろ「実物に近い印象」に成ることがあるということに、最近気づいた私なわけです。

今のところ、どうしてそうなるのかは、よくわかりません。
そう成らない場合もあるようです。
むしろ、普通の距離で見た方が「実物に近い印象」に成ることもあるようです。

ただ、これは、主に「自分の絵」についてのことです。
「実物」と「画像」を比較するには、手元に「実物」が無いとできませんからね。
それから、「極めて腕の悪いカメラマン」が「極めてテキトーに撮った低解像度の画像」で比較しています。
他の条件では、まだ比較したことがありませんので、その辺はアシカラズ。
(これからやってみようとは思ってます)

あと、ちょっとやってみたところでは、「ネット上にある有名な絵の画像」に関しては、なぜか離れて見るとダメなことが多いようです。
こちらは、普通の距離で見たときの方がはるかに見やすいですね。

これも、なぜなのかはわかりません。

そういうわけですから、取り敢えず、「パソコンの画面で絵を見る時」は一度離れて見てみてもソンはないのかなと。

今のところ、その程度ということにしておこうと思います。

 ※私がやってみた範囲では、「画集」などの「印刷物」を見る時は、
  「離れて見ること」で印象が変わることは無いような気がします。
  これも、本物との比較は抜きにですけどね。



「ミニマム・アート」のススメ(「ミニマル」じゃないよ)



「ミニマル・アート」と言うのがありますが、私の場合は、どちらかと言うと「表現の幅」を広げたいと思っていますから、「表現」を「ミニマル」にしたくはないわけなんですねぇ。

でも、「表現の幅」は広げたいんですが、その「表現」においては、出来るだけ「精神性」を大事にしていきたいという気持ちがあるわけです。
言い換えると、「表現」の中の「物質性」を最小限にとどめたいということです。

つまり、単なる「最小限」じゃなくて、「物質的な意味に限っての最小限」を目指したいと思っていて、そういう「物質的に最小限の表現」を目指すことを、自分の中で「ミニマム・アート」と言っているわけです。

 ※もう一つ、私のおススメで「スロー・アート」というのがあるんですけど、
  それとワンセットのモノだと考えております。
  そちらは、『やたらとゆっくり時間をかけて制作する』という、とっても非
  現代的なスタイルです。

たとえば、「作品の大きさ」については前にも書いたことがあるんですが、『必要な範囲で出来るだけ小さくする』という方向で考えていますし、「素材」や「メディア」についても、過度にそれに頼らないよにしているつもりです。
まぁ、要するに、『珍しい素材を使うことで新しさを出す』というようなことではなく、いつでも『そこら辺にあるモノでも表現することはできるでしょ』と言えるようにしておきたいということですね。

とにかく、「物質性に頼らない創作&表現」を目指したいと思っているわけなんです。

かつて「ミニマル・アート」が「最小限の表現」を目指してしまったために、「表現の幅」を狭くしていって、最終的には「表現」自体を見失ってしまったことは、現在振り返ってみれば、明らかなことではないかと思います。

そんな「ミニマル・アート」の作品が、いまだに「20世紀芸術の傑作」とされているのは、その「デザイン性の高さ」によるところが大きいと思います。
しかし、「デザイン」というのは「芸術」の中では最も工業的であり、かつ、最も「個人性の薄いジャンル」ではないかと思うわけです。
それを「芸術の中心」に置いてしまうと「芸術」の中の「個人表現」の部分がないがしろにされていくことに成ります。

そういったことから、私は「ミニマル・アート」を「芸術の20世紀の遺物」の一つだと思っているわけですが、「ミニマル・アート」が目指した方向はチョットずれていただけであって、根本的には正しい所もあったんじゃないかと思います。
つまり、その「正しい部分」に当たるのが「物質的な意味での最小限」ということなんじゃないかと思うわけなのです。

要するに、「物質的には最小限」であり、「精神的には最大限」であることが理想なわけです。
そして、「精神」を表現するためには「最低限の物質性」を必要とするということなんだと思います。
だから、「大きさ」は小さい方がいいし、作品を「モノ」として見たときに、出来るだけ「工業的」ではなく「手作業的」である方がいいように思うわけです。

ところが、「現在の芸術の世界」を見ると、どうも、それとは正反対の印象があって、どちらかと言うと「物質的」には「大型化」する傾向があるのに、「精神的」には「スマートなモノ」が歓迎される傾向があって、それを『センスがいい』と言っているような気がするわけです。
少なくとも「現在形の芸術」において「小さい作品」が一段低い扱いを受けているのは確かなことですし、いろいろな意味で、「スマートな作品」じゃないと「現在形の芸術」と見られない傾向があるのも間違いないことなんじゃないでしょうか?

でも、本来、「個人性」というのは、他人から見たら「異質感」や「違和感」を伴うものであるわけで、「鑑賞者」から見れば、「個人性」の高い作品ほど「トゲ」のようなものを感じるハズなわけです。
そういうゴツゴツした感触のある作品は、当然「スマート」じゃありませんから、「現在形の芸術」とは扱われていない場合が多いということです。

個人的に、そこのところを、逆転したいので「ミニマム・アート」ということを考えているわけです。
(まぁ、自分の中だけでも逆転したいと思うわけですね)

作品が「大規模化」したり「工業化」すると、一般人が「芸術」に近づけなくなってしまいます。
そうなると、「創作者」と「鑑賞者」はキッパリと分け隔てられて、常に「創作者」が優位に立つように成り、「芸術」は「専門家だけの世界」になってしまうでしょう。
でも、それで一番身動きが出来なくなるのは、実は「専門家」の方です。

「ミニマム」であることで、誰でも「芸術」の近くに立つことが出来ますし、「手作業」に立ち返ることで、誰もが「制作の過程」を理解したうえで「鑑賞」することが出来るようになります。
そこで、はじめて「創作者」と「鑑賞者」が対等に対峙することに成り、結果的に「芸術の世界」が開かれた世界と成れば、一番助けられるのは「専門家」達だと思いますよ。

「芸術」においては、「鑑賞者」は「創作の過程」をある程度知る権利があると思います。
それでないと、本当の意味で「芸術」を理解することは出来ないと思いますから。
どうやって作ったのかが、素人には絶対にわからないようなものを創ってはいけないんじゃないかと思いますね。
それだと、素人は『ありがたがって見る』しかなくなってしまいますから。

そんなことからも、「ミニマム・アート」をおススメしたいなと。
(「スロー・アート」もよろしく!)

そういう風に思っているわけです。


「心の病」と「心のケガ」



「心の病」というのはよく聞きますけど、「心のケガ」はあまり聞いたことないんですね。

たとえば、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という言葉がありますが、「外傷」というくらいですから、やっぱり「ケガ」の一種なんじゃないかと思うわけです。

それで、何が言いたいかと言うと、、現在「心の病」と言われているものの中のかなりの部分が、どちらかと言うと「心のケガ」に近いんじゃないかと思うわけです。
つまり、一昔前までとは社会的状況がかなり違うわけで、「内因性の精神疾患」よりも「外因性の精神疾患」の方が、現代の社会においては圧倒的に多くなっているような気がするわけです。

 ※自分の周りにも「心の病」に成った人はけっこう居ますが、その
  人たちの話を聞く限りでは、その人たちのほとんどが「心のケガ」
  なんじゃないかと思いますね。

たかだか200~300年くらい前まで、人間はかなり自然と一体の生活をしていたでしょうし、常に自然と対峙して生きていたと言ってもいいと思います。
そういう時代には、今よりも「心の病」が少なかったんだろうと思いますが、その少なかった分と言うのは、ほとんど「心のケガ」に当たるモノじゃないかと思うわけです。

昔も今も、先天的な気質などのような純粋に内因性の「心の病」はあると思いますが、そういうものに関しては、時代や社会状況によってそんなに増えたり減ったりしないよな気がするわけです。
また、自然災害などによる「PTSD」のような、純粋に外因性の「心のケガ」の方もそう極端な変動は無いように思うわけです。

もし、現代に至って急激に増えた「心の病」があるとすれば、おそらく、それは人間同士の心の摩擦が生み出しているストレスによって生み出される「精神疾患」ではないかと思うわけです。
これは、心と心の摩擦によって起きてくるものなので、「外傷」という印象が薄いんですが、やはり、その人自身の中にある原因ではなく、外からの圧力によるところが大きいわけですから、「外傷=ケガ」なんだと思います。

たとえば、「虐待」や「イジメ」それに「~ハラスメント」のようなものは現在の社会では、ありとあらゆる年齢層、ありとあらゆる階層、ありとあらゆる状況で起きていると言っても過言ではないと思います。
というよりも、それらのすべてといっさい無縁な生活をしている人と言うのがいったいどれほどいるのか?と考えると、「心の病」が急激に増えたのも当然だと思いますね。

そして、それらのすべてが、それを「受けた側の人」にとっては「心のケガ」なんだと思うわけです。

こういった状況を考えると、今後、精神科医療の分野に、「精神内科」と「精神外科」が必要に成るんじゃないかと思うほどですが、
(現在、「心療内科」というのはあるようですが、「心療内科」の患者はほとんど「心のケガ」を負った人のような気がしますけど、『だったら「外科」なんじゃないの?』という感じ)
こういうケースでは、「受けた側の人」だけが被害者ということに成りがちなんですが、実は加害者側の人もほとんどの場合は、何らかのストレスを受けていて、そこから逃れようとする一心で、「加害者」になってしまっているわけです。
(そちらを擁護するという意味ではありません)

要するに、ここ数十年くらいの間に、急激に「精神疾患」が増えたのは、そういう「二次的な精神疾患」が増えているからなんじゃないかと思うわけです。

つまり、十人の「心の外傷」を受けた人が居た場合、そのうちの何名かは、そこで「心の病」を発症しますが、残りの人たちは何とか持ちこたえるわけです。
ところが、そのうちの何名かは、しばらくしてからもその時の「心の外傷」を「古傷」として持っていて、その後そこから出た膿を誰かほかの人に向かって吐き出すように成るわけです。
しかも、そういう「二次的な段階」に成った時には、しばらく我慢していた分だけストレスが大きく膨らんでいることも多いので、非常にヒドイ吐き出し方になってしまうことも多く成るわけです。

そして、さらにそういう「二次的な精神疾患」が、親から子へ、人から人へと受け継がれて循環するようなサイクルが出来上がってしまったんだと思います。
そういったことが、この数十年で起きたために「精神疾患」が急激に増えたんだと思うわけですねぇ。

まぁ、こういうことが「虐待」や「イジメ」・「~ハラスメント」などの実体ではないかと思いますが、これらのものに現在の精神科医療がほとんど無力といっていいほど対応できていないのは、これらを「心のケガ」として捉えるということが徹底していないからなんじゃないかと思うわけです。
しかも、それらはほとんどの場合「二次的な外傷」であって、本当の原因である「一次的な外傷」はどこで起きたのかが特定できないケースが非常に多いということもその原因だと思います。

そして、その「一次的な外傷」を持った人たちは、その「古傷」を持ったまま、そこから出る膿を人に吐き出し続けることで実際上の「発症(自分自身が「心の病」に成ること)」をしませんから、延々とそれを吐き出し続けることに成るわけです。
つまり、人に向かって膿を吐き出し続けることで、自分自身は「発症」を免れることに成るわけです。
だから、その人たちは「精神科」の門をたたくことはありません。
こうなると精神科医療が、これらの問題に対して全く無力であるのも当然ですね。

これは、現代社会が抱えている根本的な問題だと思いますから、それを医療とか芸術とか、まして政治とかと言った一つの分野だけで改善するのは不可能だと思いますけど、、社会全体がそちらの方向を向いて行くように成れば少しづつ改善していくんだと思います。

その方向の一つが「心のケガ」という捉え方なんじゃないかと思うわけですねぇ。

現在の精神科治療では、おそらく「心の病」と「心のケガ」に対する対処方法をハッキリとは分けていないと思います。

つまり、「心のケガ」に対しても「心の病」とほとんど同じ治療方法がとられているように思うわけです。
主に薬物療法とカウンセリングだと思いますが、どっちにしても、「外傷」であれば内因性の病に対する療法は効果が薄いのは当然です。
交通事故でケガをした人に「骨を丈夫にする薬」を処方したり、「とっさの時に避けられるように動体視力を鍛えるトレーニング」を受けさせたりすることに、万が一効果があったとしても、それが完全に的外れであることに違いは無いわけですから。

「PTSD」という言葉が一般化したことで、かえって、それが非常に特殊な状況でのみ起きる特別な「精神疾患」であるというイメージが出来上がってしまっていますが、「虐待」や「イジメ」などが、「大規模災害」などとほとんど変わらないような症状を引き起こすことだってあると思いますし、サラリーマンにとっては「冷酷なリストラ」に会うことは、自己のアイデンティティを失う危険性があることなんだと思います。

つまり、「体のケガ」が日常生活の中にいくらでもあるのと同じで、現代社会においては「心のケガ」も日常的な場面のありとあらゆるシーンに『危険がイッパイ』なわけです。
そして、「体のケガ」でも「心のケガ」でも、ごくありふれたところで起きる「ケガ」が「軽いケガ」であるとは限りません.

現在のストレス社会にどう対処すればいいのかは、皆目見当がつかないくらいですが、少なくとも、一つ一つのことを把握していけば、少しは物事が見えやすく成るように思うわけです。

ということで、現在の「心の病」は、ほとんどが、「本人の外」に原因があって、「本人」を治療することの意味は薄いのかなと。
本当に治療する必要があるのは「原因」の方なんだから。

要するに、「心のケガ」に対して医療が出来ることはほとんど無くて、せいぜい『あなたは病気ではなくてケガをしたんです』と言ってあげることぐらいなんじゃないかと思いますね。

本来なら、「心のケガ」は放っておいても治ってしまうことが多いと思いますが、現在の社会では治る前にまたケガをしてしまうことがあまりにも多いので、慢性的になってしまうわけです。
常に「やる側」と「やられる側」に分かれてしまっていて、やられる人はいつもやられますから、治る間がないということですね。
そして、いつの間にか「自分の内」にも病原を抱えることに成ってしまうわけです。

でも、こういうことを理解しているだけでも、少しは心の支えに成るかも知れません。

まぁ、救いようがないですよね。
でも、これが実体ですから、仕方ないですね。

残念ながら、そういう風に思いますよ。。。



「時代の潮流に乗ったもの」はすべて「亜流」である



「芸術」においては、特に言えることだと思いますが、「時代の流れ」に乗ったものは認められる確率が高いですし、多くの人に受け入れられるわけです。

ところが、実を言うと、この「時代の潮流に乗ったもの」というのは、すべて「亜流」だと思うわけです。

一般的には、「時代の潮流を生み出したもの」こそが「本流」であって、「その後を追ったもの」は「亜流」であると言われることが多いですが、実は「時代の潮流」は誰かが生みだしたりするものではなく、「時代と共に出来上がってしまうもの」なんじゃないかと思うわけです。
だとすれば「時代の潮流」に乗るということは「時代」の後を追うことなわけですから、その「潮流」の中心に居たとしても、「その時代の亜流」であることには変わりがないということに成るわけです。

つまり、「誰かの亜流」ではなくて「時代の亜流」なわけですね。

ということは、「亜流でないもの」とは「時代の潮流から外れたもの」ということに成るわけです。

かなり昔の時代までは、「時代の潮流に乗ったもの」が「本流」だったんだと思いますが、それはその時点でまだ「芸術」が「自己表現」を追求していなかったからだと思うわけです。
「現在の芸術」は「自己表現」であることを第一義的に追及しているわけですから、「ナニカの亜流」であったら意味がありません。

たとえば、「ルネサンス」の時代においては、ミケランジェロもダ・ヴィンチもラファエロも、「ルネサンス」という時代の中心に居た人たちはみな本流だといって問題ないわけです。
作風がどんなに似かよっていても差し支えはありません。
というよりも、「ルネサンス」の中心に近い位置にいるということ自体が、「ルネサンス風」の作風を代表するような作風であることを意味するわけですから、作風が似ているのはむしろ当たり前です。

ところが、「芸術」が「自己表現」であることを第一義とするように成った後の時代においては、「その時代を代表するような作風」を取った人は全部「亜流」ということに成るわけです。
たとえば、「キュビズム」の作家は全部「キュビズム」というスタイルの「亜流」なんだと思うわけですね。
つまり、ピカソだろうがブラックだろうが関係なく「キュビズムの亜流」なわけです。
敢えて言えば、セザンヌまで遡っていくと「亜流」ではなくなります。
でも、それは「セザンヌ」が独自の絵画表現として「キュービックな表現形式」を模索していた時には、まだ、それが「時代の潮流」に成っていなかったからであって(というか、まだ「キュビズム」と言うモノが無かった)、彼が「キュビズム」の先鞭をつけたからというわけではないんだと思うわけです。

もちろん、これは「キュビズム」に限らず、すべての「~イズム」について言えることだと思います。
要するに、今はもう「時代の要求」に答える形で現れてきたスタイルに「本流」はあり得ないということです。
「自分の要求」に答えて現われて来た「唯一無二」のスタイルだけが、その人だけの「本流」ということに成るわけですね。
だから、こちらには「亜流」があり得ません。

たとえ、「誰かの亜流」ではないとしても「時代の亜流」であれば、けっきょく「ナニカの亜流」ではあるわけで、「自分の本流」からは離れていることに成るわけです。
つまり、「時代の潮流」から外れていかないと「自分の本流」に乗っかることは出来ないということですね。

だったら、どんどん外れていきたいですねぇ。
「ナニカの亜流」であるのなら、せっかく今の時代に「芸術」やってる意味が無いですから。

そんな風に思っておりますよ。



「虚飾」を剥ぎ取ること



「芸術」においては、少しでも「真実」に近づきたいと思ってやっているわけですが、実際に「真実」に近づくことなど出来るわけもありませんから、少なくとも「真実の方向」だけでも向いて行こうかなと思っているわけです。

だから、「芸術」においては少しでも「虚飾」を剥ぎ取って行こうと思うわけなんです。
たぶん、それで「抽象表現」を使おうと思うんでしょうね。

「現実」というのは、「一種の真実」でもあると思いますが、「真実を覆い隠すもの」でもあるので、「現実」を表現手段にしてしまうと、どうしても「真実」が見えにくいという印象があるんだと思います。
その「真実を覆い隠すもの」こそが「虚飾」なんだと思うわけですね。

それで、「現実」をできるだけ使わない表現形態を目指しているわけです。

「現実」を、割と普通に「現実」として表現すると、どうしても「普通じゃない部分」は見えなくなります。
でも、その「普通じゃない部分」も一つの「真実」ですから、そこが表わされなくなってしまうわけです。

逆に、「すごく特殊な現実」を表現すれば、「普通じゃない部分」は表現されますが、「普通な部分」は見えなくなってしまいますから、それもまた、片手落ちと言う感じがするわけですねぇ。

そこへ行くと「抽象」の場合は「現実」ではないですから、「普通」とか「普通じゃない」とかと言う基準が無いわけで、はじめから、「普通でもあり、かつ、普通じゃないでもある」という状態なわけで、「隠されて見えなく成る部分」がないわけです。
つまり、「虚飾であることの規準」自体が無いので「虚飾」でありようがないという感じでしょうか。

まぁ、そういう所で、「抽象表現」を使っているというわけです。

まぁ、いわゆる「たわごと」なので、何言ってんのかわからないとは思いますけど、

そんな風に思っているわけです。



「幸福主義社会」



なんで「幸福主義社会」って、今まで無かったんでしょうねぇ?
不思議です。
当たり前すぎるんでしょうか?

でも、意外と「社会」って「幸福」を追求していないんですよね。
「幸福」である前に「利益」だとか「勝敗」だとかを優先してしまうために、いつしか「幸福」が置き去りになってしまうということなんでしょうね。
要するに、「利益」や「勝敗」を掴んだ者が「幸福」も手にするに違いない!という思い込みから、そういうことに成っているわけですが、実は「利益」や「勝敗」を掴んだ者が「幸福」を手に入れられるとは限らないわけです。

少なくとも、現代社会においては、「利益」は過剰気味ですし、ほとんどの場合「勝者」と「敗者」は明確ではありません。

たとえば、北朝鮮のような明らかに「負け組」の国でも、体裁だけはアメリカと対等に渡り合っていたりしますよね。
一昔前なら、一か月で占領されて植民地化されていたと思います。
でも、現在においては「負け組」=「完全な敗者」ではありませんし、「勝ち組」=「完全な勝者」ではなく、多くの場合は『ナントナク対等』に成ります。

けっきょく、アメリカは北朝鮮を支援する立場に立たされますし、北朝鮮はアメリカの支援を受けながら、そのアメリカを非難していられるわけです。
現代はそういう時代なんだと思います。
だから、「勝敗」は「幸福」と直結ではないということですね。

「利益」にしても生産力の高い国では「生産過剰」で、どんどん「利益」が無駄に消費されたり捨てられたりしています。
ところが、その「利益の無駄遣いをしている国」が、「利益が不足している国」の「利益」を吸い上げてしまっていますから、当然いつまでたっても貧乏な国は貧乏なままです。

そして、やはり「利益」が「幸福」に直結していないわけです。
まぁ、無駄に成るだけですから、「幸福」につながらないですよねぇ。


さて、そこで、こんな時代だからこそ、「幸福主義社会」を追求してみてはいかがでしょうか?と思うわけなのです。

『〇〇を追求すれば幸福になるに違いない』その「〇〇」を「〇〇主義社会」と言ってきたわけですが、そうじゃなくて、もうそろそろダイレクトに「幸福」を追求してみてもいいんじゃないのかなと。

『いかなる行政を行えば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる教育を行えば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる法制度を設定すれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる経済機構を運営すれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる医療が実現されれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる芸術が表現されれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなるエンターテイメントがあれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる衣・食・住があれば人間が幸福になれるのか?』

とにかく、ありとあらゆることすべてを「幸福」を基準にして考える社会です。
まっ、ハッキリ言えば「人間の幸福」に限っての話ですけどね。
要するに「人間のエゴ」ですけどね。

いま現在、人間が地球上で与えられている立場をフル活用すれば、けっこう「幸福」になれると思うんですが、どうでしょう?

つまり、他のことには見向きもせずに、ただただ「幸福」だけを追求していけば、いい線行くと思いますよ。
「変な意地」とか「見栄」・「自負心」・「ツマラナイ善意」のような人間の思い込みに過ぎないようなモノをすべて捨てて、「人間の幸福」だけに集中することが出来れば、きっと、「すべての人の幸福」は手に入ると思います。
たぶん、余ると思います。

その「余り」を確認してから、それを「良心」とか「善意」のような「ナントナク無害そうなもの」に少しづつ使っていったらいいんじゃないのかなと。

ハッキリ言えば、これ、「人間にとってだけのエゴイズム」ですけどね。
どうせみんなエゴイストであることからは逃れられませんから、だったら人間だけでも幸福に成った方がトクだと思いますよ。
別に、「エゴイスト」=「極悪」ってわけでもないんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。





「長い題」=詩のような題(その9)



「長い題」=詩のような題(その9)です。

「絵」が進まない時に限って「題」は出来るみたいですね。
困ってます。

まっ、「題」だって、なんにも出来ないよりはいいさぁ~。
「長い題」=詩のような題(その9)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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たいこの むかしから 

あるがままという たいだを 

ただ まんぜんと つづけてきた だいしぜんの うずに まきこまれながらも

なんの こんきょもなく こんなにも きょだいかしてしまった だいとかいは

こうぎょうかの もたらす とてつもなく ふきんこうな きんこうを

いまも へいぜんと たもちつづけている

その じんこうという こざかしい くうかんの なかで

みずからの ちんけな ちせいと

ごうまんな りょうしんの かけらに うめつくされて 

おぼれしんで いきながらも 

にこにこと ほほえみを うかべて 

ねぼけた ていさいを つくろうことや 

せいろんという じょうひんな ぼうりょくを ちらつかせて

ちんちくりんな じふしんを みたすことだけは かかさない


そんな あいらしい にんげんたちが とじこめられてしまっている 

『この ぜつぼうてきに へいさてきな くうかんを

いま ぼくの なかで かいほうする』

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いつでも どんなときでも

にんげんらしい にんげんで ありたいと おもうわけですが

いつでも どんなときでも

ひとは みな フル・タイムの にんげんで 

いられる はずだと おもうわけですが


なかなか そうも いかないようで

ひとは すぐ にんげんいかを やってしまう

にんげんみまんに おちてしまう


つまりは 

ひとは みな 『パート・タイムの にんげん』で あるわけです


それなら それで しかたがないとも おもうわけですが

それなら それで がんばろうとも おもうわけで

それなら それで いまだけでも 

なんとか にんげんらしく していようと

いっしょうけんめいに おもうわけなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ぼくは ひとつぶ』


ぼくは すなはまの すなのなかの ひとつぶ

ぼくは うちゅうの ほしのなかの ひとつぶ

ぼくは ただよっている ほこりのなかの ひとつぶ

ぼくは しゅうかくされて あつめられた こめつぶのなかの ひとつぶ


つまらないと いえば つまらない

おもしろいと いえば おもしろい

どうでもいいと いうことも できるし 

たいしたものだと いうことだって できる


ひとつぶであることを ひげして なやむことも ある

ひとつぶであることを じまんして ひけらかすことも ある

ひとつぶのかちを ばかにして わらうひとも いれば

ひとつぶのかちを とてつもなく すごいことのように いうひとも いる


じぶんの ひとつぶを ひとの ひとつぶよりも 

おおきいと おもうことも できるし

ちいさいと おもうことも できる


でも ほんとうは みんな おなじ ひとつぶ


ぼくには そんな ひとつぶの かちが ある

そのかちを ひていできる ひとは いない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちゅうを まう

『あざやかに ちゅうを まう』


ときを とめ

くうかんを とじた このせかいの なかで

それは あざやかに ちゅうを まうのです


むかう さきもなく

なんの もくてきも ないというのに

けっして おちることは なく


まるで つきの みちかけのように せいかくに

そして ただ あざやかに


そうです

それは ただ ひたすら あざやかに 

ちゅうを まいつづけ

みごとに このせかいを おきざりにして しまうのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『できることは ひとつだけ』

できないことは たくさん


できることなんて ひとつだけ

できないことなんか やまほど


でも そのひとつだって わからない

できないときも あるから


でも そのひとつ

もし ひとつだけ できたなら

それは あなたの いみなのです


いえいえ ちがいます

たくさん できては だめなんです

ひとつ じゃないと だめなんです


ひとつだけには いみがある

ひとつじゃないと いみがない


そのひとつ 

いま あなたは それが できている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、この中で、出来ている「絵」があるのは一つだけで、なんとなくこんな絵を描こうと思っているのが一つです。
他のは、該当する「絵」がまだありません。
『いかんいかん!』
『でも、まぁいいかぁ』


小学校でも「アクリル絵の具」を使うようにできないものなんでしょうか?



日本の小学校では、ほとんど「透明水彩絵の具」しか使わないと思うんですけど、あれは誰が決めたことなんですかねぇ。
(私は中学でも透明水彩のみでした)

「絵の具」の中では「油絵具」も「アクリル絵の具」も、十分にメジャーな絵具だと思うんですけど、どうして「透明水彩絵の具」しか使わないんでしょうか?

まぁ、「油絵具」とか「岩絵の具」とかはわかりますよ。
溶剤とか膠とかいろいろ面倒ですからね。
それに、小学生なんかだと、筆を洗うだけでも大騒ぎに成りそうだしね。

でも、「アクリル絵の具」だけはその辺の問題がそんなに無いような気もするんですけど、どうなんでしょうか?

敢えて言えば、服や手に絵具が付いた場合に落ちにくいということぐらいですけど、「透明水彩」だってまったく汚れないということは無いわけですから、それほど決定的なことでも無いような気がするんですけどねぇ。

『そんなこと、どうだっていいだろ!』と今思ったアナタ。
いやいや、どうだっていいことじゃないんですよねぇ。

まぁ、そんなに大それたことではないのかも知れませんが、なんでこんなことを言うのかというと、自分が「透明水彩」がダメだったんですね。
とにかく「ぼかす」っていう感覚が無くて、それでいて誰も教えてくれませんから、出来るわけありません。
だから、大人に成るまで『自分はすごく絵がヘタなんだ』と思っていました。

でも、たぶん「不透明な絵具」を使っていたら、そこのところが、だいぶ違っていたような気がするわけです。
こういう子って、実はけっこう居たりするんじゃないかなぁと思うわけですね。

「透明な絵具が得意な人」と「不透明な絵の具が得意な人」というのは、けっこう「体質的なモノ」なんじゃないかと思うんですね。
それなのに、学校では「透明絵具」しか使わないわけですから、「不透明絵具体質」の子供は、みんな子供の頃の私と同じように『自分はすごく絵がヘタなんだ』と思っているのかも知れません。
だとしたら、ちょっとかわいそうな気もしますよね。
(いや、自分のことだけじゃなくて)
つまり、そういう子にとっては「どうだっていいこと」でもないわけですねぇ。

それに、いざ本格的に「絵」をやろうとした場合には「透明水彩絵の具」はどちらかと言うと軽く扱われたりもしますから、そこでまた二重に、「ちょっとかわいそうな子」が出てきてしまう可能性もあるわけです。
つまり、『自分ってけっこう絵がウマイんじゃない』と思っていた子が、いざ「油絵具」で描こうとすると、どうもうまくいかないということが出てきてしまうわけです。

幼いころから「アクリル絵の具」を使う機会が少しでもあれば、その辺のところが緩和されるような気がするんですけどねぇ。
ダメなんでしょうか?
というか、どれか一つに絞るとしたら「アクリル絵の具」だと思うんですけど、どうなんでしょうか?
「アクリル」で「透明水彩」的な描き方は出来ますが、「透明水彩」で「不透明絵具」的な描き方は出来ませんから、一本化するなら、「アクリル」じゃないかと思うんですけど、どうなんでしょう?

それに、今は中学に上がると「アクリル絵の具」を使うみたいですから、どうせ両方買わなきゃならないなら、初めに両方買ってどっちが自分にあっているかを知る権利はあるんじゃないかと思いますね。

まぁ、いろいろ問題はあるんでしょうが(画用紙とか)、『アクリルを使おう!』と言う気があれば大した問題でもないんじゃないかと思います。

『こういうことって、どうして変わらないんだろうか?』

そんな風に思います。

 ※今回この記事を書くにあたって、ネット検索したところ、『どうやら
  中学ではアクリルを使うように成ったらしい』ということをはじめて知
  りました。
  知らないうちに変わってたんですねぇ。
  どうせなら小学校までいっちゃってください!
  『ところで、なんでいっちゃわなかったの?』



「子供の絵」は「抽象画」なのか?



『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』というの、よく聞きますよね。
「芸術」の専門家が言っている場合なんかも多いと思います。
(ここで言う「子供の絵」は、「ごく一般的な子供の絵」のことです。だって、そういう意味なんでしょ?)

でも、本当に「子供の絵」は素晴らしいんでしょうか?
だったら、なんで、その人たちは「そのスバラシイ絵」を」を超・高額で買って、コレクションしないんでしょうか?
どうして、「ごく普通の子供の絵」が展覧会の上位入賞作を独占していないんでしょうか?
それどころか、「ごく普通の子供」が文化勲章をもらっているはずですよね。
しかも、みんな。

『なにアホなことを言ってんだ!このボケナスが!!』

そうですよね。
でも、どうして「アホなこと」に成ってしまうんでしょうねぇ?

『「子供の絵」が一番素晴らしいんだ!』と言うなら、「子供の絵」に一番高い価値を認めるべきでしょうし、最も評価されていいハズです。
でも、明らかにそうは成っていません。
多くの専門家を含む人たちが、こぞって『「子供の絵」は素晴らしい!』と言っているのに、誰一人「ごく普通の子供の絵」には出費したり、ご立派な賞を与えようとはしません。
せいぜい口で褒めるくらいです。
それ、信じられますか?
(いや、お金の問題ではなくて!)

要するに、『「子供の絵」が一番素晴らしいんだ!』というのは嘘だということですね。
少なくとも「一番」ではないはずです。

嘘つきでもなんでもない人たちが言っていることなのに、なんで嘘ができあがってしまうのか?

もう一つこれと似た話で、『もっとも純粋な「抽象画」っていうのは「子供の絵」なんだよねぇ』というのがあります。

この二つの似かよった話の中には、同じような「ギミック」があると思うわけです。
つまり、この二つの話には「落とし穴」や「罠」のような仕掛けが出来てしまっていて、矛盾しているのに、その矛盾が見えにくくなっているんだと思うわけです。
それで、嘘をつくつもりがないのに、嘘をつかされる羽目に成るんだと思います。


「抽象画」の話で考えた方が分かりやすいような気がするので、まずそちらから考えてみようと思います。

子供が、グチャグチャっとした絵を描いたのを、大人たちが見て『これって、完全に「抽象画」だよね』というパターンがありますが、あれは、本当に「抽象画」と言えるんでしょうか?

「抽象っぽい」のは事実です。
でも、「抽象画」なんでしょうか?ということですね。

ここに前述の「ギミック(罠)」があると思うわけです。
つまり、「抽象っぽい」と「抽象である」の違いですね。
これをすり替えてしまうことから「ギミック」が生じているわけですね。

確かに「子供の絵」は「大人の絵」と比べた場合、体裁を気にしないで自由に描いていることが多いですから、その分、色彩も構図も大胆だし、だいいち、モノの形にとらわれていないことも多いので、それで「抽象っぽい」印象があるのは事実だと思います。
それを「抽象画」だと言っても、完全な間違いだとは思いません。

しかし、実を言うと、それはありとあらゆるものに言えることです。
たとえば、天体望遠鏡で見た宇宙にしても、顕微鏡で見た細胞の断面でも、雪の結晶でも、なんだって「抽象っぽい」わけです。
それどころか、どんなに「具象的な絵」であっても、その一部分を虫メガネで拡大してみれば、きっと「抽象っぽい」と思います。

つまり「抽象っぽい」ということは「抽象である」ということとは、まったく別のことなわけです。
どんなものでも「抽象的な視点」で見れば「抽象っぽい」と言えるでしょうし、それを「抽象画」だと言っても完全な間違いではないと思います。
ただ、それを敢えて「抽象画である」と言うことにどれほどの意味があるのか?ということです。

たとえば、鉄板がさびていても「抽象っぽい」ですし、木の木目だって「抽象っぽい」ですが、それらは「抽象画」ではありません。
なぜなら、「抽象と言う作業」が行われていないからです。
それと同じように「子供の絵」においても、「抽象と言う作業」は行われていないわけですから、やはり、それを「抽象である」と言うことの意味は希薄であると言わざるを得ないわけですね。

ただ単に、鉄板や木目だと、人間の「作者」が居ないのでわかりやすく成るだけです。
そこのところが、例え子供であっても「作者」が居るとわかり難く成るわけですね。
つまり、『「子供」が「抽象と言う作業」を行うわけがない』という考え方が、偏見的なことなんじゃないかと見えてしまうわけです。

でも、もともと「子供の絵」が「抽象っぽい」のは、考えずに描くからであり、物事にとらわれずに描くからであるわけです。
ところが、その「考えない」や「とらわれない」が「抽象と言う作業」に相反しているわけです。

この辺も誤解されていることがあると思いますが、「抽象という作業」は「考えること」で成り立つ作業ですし、「とらわれていること」から抜け出そうとする作業ですから、はじめからとらわれていない子供には「抽象という作業」が発生することは無いわけです。

たまたま、「抽象という作業」が行われていないのに「抽象っぽい」ものが出来て来ることがあるのは、おそらく「現在の抽象画」が、たまたま「子供の絵」と同じような位置にあるからだと思います。
そして「抽象画」は半世紀以上前からその位置に留まってしまって行き詰ってしまいましたから、そういう絵が「抽象画のイメージ」に成ってしまっているということだと思います。

つまり、本来もう少し先に行っているはずだった「抽象画」が行き詰ってしまっているために「子供の絵」と区別できないモノに成っているわけです。
(もちろん、もっと先まで行った人も居たでしょうが、「抽象画全体」としては止まっているということだと思います)

子供は考えずにその位置に居ますが、「真面目に抽象画を描いている人たち」は、考えてその位置に立っています。
(考えない人も居ると思いますけど)
片方は「抽象という作業の結果」であり、もう一方は「考えないことの結果」です。

だから、同じように見えても、片方は「抽象画」であって、もう一方は「抽象っぽい」だけです。


すべての大人がちょっと前までは子供であったわけです。
きっと、その時はみんな「子供の絵」を描いていたはずです。
それが「抽象っぽい絵」です。

そして、大人に成ってからは「大人の絵」を描くようになります。
多くの場合、はじめは「具象画」です。

その後、その人が真面目に「抽象画」を目指すように成れば、きっと、それが「抽象画」です。

でも、それはまだ「子供の絵」に戻っただけです。
つまり、せっかく描けるように成った「大人の絵」を、敢えて切り捨てて乗り越えて行こうとした結果「子供の絵」に戻ってしまうわけです。
だから、似たようなものに成ります。
それがいまの「抽象画」の位置です。
戻るだけですから、割と簡単にできるわけですね。

そして、ここで止まってしまっています。
個人的に新しい局面を創り出してきた人は居るでしょうが、「抽象」としての全体のイメージはまだまだ変わっていません。

でも、その次に「本来あるべき現在形の抽象画」があるハズなわけです。
まだ、「大人の絵」を切り捨てただけで、本当の意味での「抽象画」にはなっていないわけですから。
それで「子供の絵」と似たようなものに成っているわけです。
しかし、そこで止まってしまっているわけです。

「子供の絵」→「大人の絵」→「抽象画」→「本来の抽象画」という順番になっているわけですね(最後の段階がまだ達成されていないということですが)。

だから、「子供の絵」と「抽象画」は違う段階のものですし、「本来の抽象画」はさらに次の段階なんだと思います。


ここで初めの話に戻ると、『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』と言われるときにも、これと同じような順番があって、その順番がすり替えられてしまうということです。

「子供の絵」→「大人の絵」→「いい絵」→「素晴らしい絵」ということに成るわけですが、それぞれの段階から次の段階に移るには、常に、前の段階を乗り越えていく必要があるわけです。
というよりも、乗り越えること自体に意味があります。
だから、一番初めの段階の「子供の絵」を一足飛びに「素晴らしい絵」としてしまっているのには、当然無理があるわけですね。

「子供の絵」を乗り越えて「大人の絵」を描くことに意味があります。
はじめから「大人の絵」を描ける子供の場合は「大人の絵」を描くことに意味はありません。
それは、ただ単に「ウマイ」と言うだけで、「芸術」としての意味とは言えませんから。
つまり、それは「技術」であるということです。
そして、その「大人の絵」を乗り越えて、次の段階の「いい絵」を描くことからが、その子にとっての意味に成るわけです。
当然、「いい絵」の次に行くには、「いい絵」を乗り越えていかねばなりません。
たとえ「いい絵」であっても、それを切り捨てて乗り越えていくことに意味が生まれます。
そして、その次の段階に行って「素晴らしい絵」を描く意味があるわけです。

だから、もしも『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』が事実だとしたら、そこにはすべての意味が無くなってしまうということです。
もし仮に、子供の時に既に「素晴らしい絵」が描ける子供がいても(実際には居ないと思いますけど)、そこには何の意味もないということです。

「現在の芸術」がある位置は、そういう位置だと思います。
「現在の芸術」においては、「すでに出来ること」をやっても意味が無いということですね。
その「出来ること」を敢えて切り捨てて「出来ないこと」に挑戦する姿勢に「芸術としての意味」が生まれます。

「子供の絵」は確かに自由ですし、大胆ではありますが、そういう「芸術としての意味」は無いと思います。
なんと言っても、そういう段階を踏むだけの年月を経ていないわけですから。
それに、子供に対して『今あなたが持っているモノをすべて切り捨てて、未知の領域に挑戦しなさい!』と要求するのはハッキリ言って非情だと思います。
やっぱり、子供の時期には好き勝手に自由に描いている方がいいように思いますね。
その時期に「現在の芸術としての意味」を追求する必要はないと思います。

だから、「子供の絵」を「抽象画」と言わない方がいいと思いますし、「子供の絵」を「素晴らしい絵」と言わない方がいいと思うわけです。
『「その子の絵」ではなく、「その子」を褒めてやってください!』と言いたいですね。


まぁ、そんな風に思ったわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

追記:この記事とは違う話なんですが、ついでに書いておくと、『なんで、子供の絵が高額
   で取引されたり、権威ある賞を与えられたりしないのか?』ということです。
   それは、つまるところ、「芸術の権威」が失墜するのを恐れる人が居るからです。
   そして、そういう人たちが「芸術の値段を決めている人」でもあり、「芸術に賞を与
   えている人」でもあるわけですね。
   だから、「普通の子供の絵」とほぼ同じ位置にある「抽象画」は高額で取引されます
   が、「普通の子供の絵」は高額で取引されません。
   「子供の絵」であっても、「特別な子供の絵」は高額で取引されるかもしれません。
   なぜなら、そこに「権威」が付加されるからです。
   だから、「芸術の権威が失墜するのを恐れている人たち」も安心して取引できるよう
   に成るわけですね。
   『あぁ、ヨカッタ、ヨカッタ』



「信念を貫くこと」と「信念を曲げること」



「信念を貫くこと」はとても立派なことだと思いますし、実際にも褒められたり称賛されたりすることが多いと思いますが、「信念を曲げること」だと、どちらかというと「情けない感じ」だったり、低く見られたりすることことが多いですよね。

でも、この二つの内どっちが難しいと思いますか?

私は圧倒的に「信念を曲げること」の方が難しいと思うんですねぇ。

意外と気が付かないんですけど、実はほとんどの人が「信念を貫いて」生きています。
だから、「信念を貫くこと」はそんなに難しいわけでもないと思うんですよね。
ただ、「その信念」が必ずしも「立派な信念」だとは限らないわけで、本当の意味で難しいのは「立派な信念を持つこと」であり、また、「それを貫くこと」でもあるわけですけど、それよりさらに難しいのが「信念を曲げること」なんじゃないかと思うわけなんです。

まぁ、要するに「信念を貫くこと」が立派なことだと言われるのは、「その信念」が「立派な信念」だった時に限っての話で、「立派じゃない信念」をいくら貫いて生きていても、誰も褒めてくれません。
(そもそも立派なモノを「信念」というのかも知れませんが、まぁ、そこは置いといて)
それどころか、そういう時には、「信念を貫いている」という事実すらも認めてもらえなくなってしまうわけです。
(当たり前と言えば当たり前ですけど)

だから、そういう事例は「信念を貫らぬくこと」には入らないということにされているわけなのです。
そういうのは、だいたい「頑固者」と言われていますね。

でもですよ。
たとえ、「立派な信念を貫いている人」でも、「頑固者」であることに、実は変わりないんじゃないかと思うわけです。
頑固じゃない人は、やっぱりいい意味でも悪い意味でも柔軟なわけですから、その辺の所もやっぱり柔軟なわけですが、意思が強固な人というのは「信念」に関しても強固ですが、「頑固さ」も強固なわけですね。

ということは、「頑固」と「信念」は、ほとんど同じようなモノで「いい頑固」を「信念」と言っているようなところもあるわけで、融通が利かないという点ではほとんど同じだと思います。

だから、ある人から「信念を貫く立派な人」だと思われている人が、他の人(たとえば家族など)からは、ただ単なる「頑固者」として扱われているということがよくあるわけですね。

ここで、はじめの話に戻ると、ほとんどの人が、どこかしら「頑固者」であって、その中の「自分のためにだけ頑固な人」が「頑固者」と呼ばれ、「人のためにも頑固な人」が「信念を貫く人」と言われているということです。
まぁ、やっぱり「自分のためだけ」の人は沢山いますが、「人のためにも」の人は少ないわけですけど、全部合わせるとけっこう居るわけです。
だから、ほとんどの人が「信念を貫いて」生きているということに成るわけですねぇ。


でも、もう一方の「信念を曲げること」に成ると、なかなかできませんね。
というか、一生のうちで何度もできる人なんて居ないような気がします。
(私は、とてもできません)

「人のためにも」の人よりも少ないと思いますね。

人には必ずその人の中の「正義」とか「道徳」など「イイこと」の規準があります。
その「規準」がその人の「信念」でもあるわけです。
その規準に従って生きているので、デタラメに成らずに生きていかれるんだと思います。
逆に言うと、その規準を失うということは、その人が「生き方」を失うということです。
多くの場合、全てのことがどうしていいかわからなく成ったり、絶望的な気持ちに成ったりすると思います。

そして、その「規準」を自ら曲げるという行為が「信念を曲げること」なんだと思うわけです。
だから、なかなかできないと思うわけなんです。

一生のうちで一度でも「人のために信念を曲げた人」は無条件に尊敬しますね。
そういうのこそが「立派」と言えることなんじゃないかと思ってしまいますねぇ。

「人のために信念を貫く人」でも十分立派なんですけど、そちらはみんな褒めますから。
でも、例え「人のため」であったとしても「信念を曲げた場合」は誰も褒めてくれませんから。
だったら、そっちを褒めておこうかなと。
(まぁ、「自分のために信念を曲げた場合」は褒めることでもないと思いますので、どうぞご自分で褒めて下さい)

そんな風に思ったわけなのです。




『命を削って描いてはいけない!』:「幸福な芸術者のモデル」



よく、貧乏な絵描きさんが早死にしたりすると、『あぁ、彼は命を削って描いていたからねぇ』と言われますよね。

そう言う人の話には、いつも心を動かされてしまいますし、そう言う人はたいていとても素晴らしい絵を描いていますから、絵の方にも惹かれることが多いわけで、当然『そうそう、彼は絵を描くために生きていたような人だよね』と言いたくなってしまうわけなんですが、でも、反面『もうそろそろ、そう言うのは止めないといけないんじゃないか?』とも思うわけなのです。

要するに、『命を削って描く』ということを「スバラシイこと」にしてしまうと、「不幸な芸術者のモデル」が出来上がってしまうような気がするわけです。

 ※「芸術者」:=「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」を一括して呼び現す
  言葉として私が使っている言葉です。
  この三者を対等な関係として考えるために使っています。

でも、過去はともかく、これからは「幸福な芸術者のモデル」を作って行った方が、「芸術」が少し良くなるような気がするわけです。

確かに『命を削って描ける人』は貴重な存在だと思いますし、専門家に限って言うならばそういう部分も必要に成ってくる場合もあるのかもしれませんが、それを「芸術者のモデル」にしてしまうと、かなり、「芸術への入口」が狭くなってしまうのも事実です。

命を縮めることに成るかも知れないわけですから、とうてい「素人」が迂闊に近づけるモノではありません。
でも、みんな最初は「素人」なわけですから、そういう「あまりにも困難な所」に「モデル」を設定してしまうと、普通の人は近づかなくなってしまうでしょうし、『要するに「芸術をやること」っていうのは「不幸に成る」って言うことなんでしょ?』というイメージを創り出してしまうことにも成りかねません。
そうなってしまうと、「芸術」が「いいモノ」なのか「わるいモノ」なのかすらわからなくなってきてしまうわけですから、出来れば「幸福な芸術者のモデル」を作って行った方がいいんじゃないのかなと思うわけです。

現在の「芸術の世界」においては、「不幸な芸術家のモデル」と「エライ芸術家のモデル」はありますが、「普通の芸術家のモデル」や「幸福な芸術家のモデル」が存在していません。
「普通の人」は「芸術の世界」では「エラク成れない」と考えられていますし、「エラク成った者」だけが「幸福に成る」と思われています。
そして、実際にもほぼそう成っています。

私には、この状態が異常なモノに見えるわけですね。
「普通の芸術者」も当たり前に居るものと思いますし、「芸術者」の中に「エライ」と「エラクナイ」は存在しないと思います。
それに、「芸術」は、そもそも「人を幸福にするもの」だと思いますから、全ての「芸術者」が「幸福な芸術者」」であるべきなんじゃないかと思うほどです。

つまり、「命を削って描く人」は、もしも短命であったり貧乏であったりしたとしても、『こころゆくまで自分の芸術に没頭した』という意味では、「最も幸福な芸術者」でもあるんだと思うわけです。
でも、そのことが見逃されていて「短命」とか「極貧」とか「存命中には評価されなかったこと」とかばかりが強調されてしまうので、どうしても「不幸な芸術家のモデル」のように成ってしまうわけですね。

そういったことから、出来れば、「普通で幸福な芸術者のモデル」が作られていくことを望んでいるわけです。
私は、ほとんどの人間が「芸術者」であると思っているくらいで、「芸術者」でない人の方が特殊な人なんだと思うので、「普通の人」が「芸術者」であることは、ごく当然のことだと思いますし、人が「芸術者」としての立場を持つことで確実に「幸福」に近づけるものと思っていますので、「幸福な芸術者」もたくさんいると思うわけです。

だから、これからは「貧乏」とか「売れない」とか「評価されない」とかいうようなことは、どちらかと言えば「ツマラナイこと」であって、そんなことよりも、『「自分の芸術」や「自分の表現」に没頭できる瞬間を持つことが出来たこと』の方が、その何倍も「幸福なこと」であって、つまり、「芸術者」としての誇りを持って「芸術」に取り組んでいるということ自体が「幸福な芸術者」の十分な条件であるということが常識に成って、そういう人たち全てが、「幸福な芸術者のモデル」となって行けばいいんじゃないかと思っているわけです。

そうすれば、現在のように美大を出たのに、その後パッタリと創作活動をしなくなってしまう人や、作品を売るために「自分のスタイル」を曲げて、いかにも当世風な作品を創る羽目になっている人や、『自分の中の芸術は、もう完結した』という「あきらめの小箱」に自らの創作欲をしまい込んでしまう人などが大量生産されることは無くなるような気がします。

要するに、「やる気」さえあれば、「死ぬ思い」までしなくても、「芸術者」としてソコソコ「幸福」に成れるということが大事だと思うわけです。
そういう誰にでも達成可能な目標値があれば、「やめてしまう人」や「挫折する人」が少なく成って、当然「芸術」全体の層が厚く成るわけですから、「芸術」自体も活性化するんじゃないのかなと。

そんな風に思います。

だから、いま敢えて、『命を削って描いてはいけない!』と言いたいわけなのです。
そして、「幸福な芸術者のモデル」を創り出せたら少しだけいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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