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「長い題」=詩のような題(その10)



「長い題」=詩のような題(その10)です。

いやぁ、マズイですねぇ。
ドンドン長く成ってます。
こんな「題」に見合う「絵」ってあるんだろうか?っていう疑問はあるんですが、いちおう、この「長い題」も作品の一部ということに成っております。

そんな感じで、「長い題」=詩のような題(その10)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。


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アスファルトで おおわれた 

ちきゅうという はいいろの ほしが あるという


かつては あおと みどりの ひかりに つつまれていた その ほしには 

けんりょくは うばいあい

せきにんは おしつけあい

それでいて じょうひんぶった ちしきや

みえと じふしんだけで つくりあげた かんせいを

みせあって あそぶという とぼけた しゅうせいがある 

にんげんという いきものが いたという


その にんげんという いきものは

みずからが たんなる りゅうつうしゅだんとして うみだした

かねという もうそうに 

とらわれ しはいされ ほんろうされ

さいごには はかいされてしまった


しかし あらたな しゅうせいを みにつけたものだけが いきのこり

あたらしい いきものとして うまれかわった


その あたらしい いきものは 

いまも はいいろの ちきゅうに すんでいるが

いまでも ちきゅうが あおいひかりに つつまれていると

しゅちょうしている


かれらは いまだに かねを すうはいし

それに ぜつだいな ちからが あると しんじているが

それを ぶんめいと よぶことによって

そこに むじゅんは なくなるものと かんがえている


かれらは ありとあらゆることの なまえを よびかえることによって

じぶんたちが うみだした むじゅんを
 
すべて わすれさることに せいこうした


かれらは かんせいされた せいかつを てにいれ

もはや なにひとつ こまることは なくなった


つまり かれらが みにつけた あらたな しゅうせいとは

すりかえに ほかならない


あらゆることにおいて ほんしつを ついきゅうせずに

ぶなんで ここちよいものに すりかえて 

つじつまだけを あわせる


しんじがたいことだが 

かれらは このしゅうせいを みにつけたことによって いきのこり
 
いまや かつてないほど はんえいしているという


さて ところで

この あたらしい いきものたち こそが

いま ここにいる われわれであるとする ぞくせつが ある


もちろん おおやけに みとめられた せつでは なく

まったく こんきょの ない うわさで あって

すくいようもないほど こっけいな めいしんでは あるのだが


『その めいしんの なかに ねむっている 

しんじつのとびらを いま ぼくのなかで ひらこう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しんぴんの ふくを きて

しんぴんの くつを はき

しんぴんの いえを でる


しんぴんの くるまに のって

しんぴんの みちを はしり

しんぴんの ビルの なかで

しんぴんの しごとを する


しんぴんの きゅうりょうを もらい

しんぴんの みせで

しんぴんの しょうひんを

しんぴんの ふうとうから だした

しんぴんの かねで かう


そんな まあたらしくて ピカピカの

しんぴんの まちの くらしには

ちり ひとつ おちていない

どろの ついた ところは どこにもない


だから じつに かいてきだ


そんな まばゆい しんぴんの せいかつの なかで 

だれかが といただした


きみは どろの においが なつかしくないのか

その ちのけのない ビニールのような しょくひんは うまいのか

きずだらけの はしらがある いえに また すみたいとは おもわないのか

あの きふるして しなしなになった ふくの はだざわりを

いったい きみは わすれてしまえると いうのか


そこで また べつの だれかが つづけた


ところで その しんぴんの みなりをした きみの なかみは どうなんだ

にんげんは いつまで しんぴんで いられるのか

そもそも しんぴんの にんげんなど いるのか

また いたとして それに いみが あるのか


この といかけによって

ひとの こころの なかの しんぴんの せかいが ほうかいした

ゆめの くらしは うしなわれ 

ふるびた げんじつが あらわれた


でも それなのに 

この しんぴんの まちは いまも ここにある

いちど うごきだしたものが やすやすと とまることは ない

だれかの といかけぐらいでは とまらない

つまりは だせいで つづいていく


『にんげんは もう げんじつを うけいれる じゅんびが できているというのに』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは きかいじかけで うごいている

はぐるまは せいかくに ときをきざみ

すべての ぶひんは かんぺきに せいぎょされている


こわれた ぶひんは はずされて

すぐに あたらしい ぶひんに とりかえられる

しんぴんの ぶひんは いくらでも ある

だから だれも こまりはしない

だったら それは それで いいんだろう


さて そこで こわれた ぶひんは どうしよう

つぎから つぎへと はずされて 

ずいぶん たくさん たまってる

まがった ぶひんが たまってる


だったら なにか つくってみよう

まがった ぶひんを つかってみよう


もしかして おかしなものが できるかも

もしかして へんなものが できるかも


いや きっと たのしいものが できるだろう

そう きっと やわらかいものが できるだろう

だって まがった ぶひんで つくるのだから

やわらかいものが できるはず


その やわらかい ぶひんに つつまれて

きかいじかけの よのなかが すこしづつ うごきだす 

『やわらかく うごきだす』


そうしたら いつのまにか 

せいかくさは わすれられ

かんぺきさなど かげもない


でも それなのに

やっぱり だれも こまりはしない

だったら これも これで いいんだろう


これも これで たのしいならば

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと きみは さみしいんだね

だから こんなに かがやいている せかいのなかで 

ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね


それとも もしかして 

ほんとは とっても うれしいのかい

だから こんな とじこめられた ばしょで

ひとり かがやきを ふりまき つづけているのかい


それとも・・・


いいえ

わたしが ここに いるのは さみしいとか うれしいとか

そういうことでは ありません


ただ わたしは

どうしようもなく なやましくて

たえられないほど もどかしくて 

それで わたしの からだじゅうを

ぜつぼうてきな よろこびが くるおしく めぐっていて

だから わたしは 

ただ こころを しずめるために 

『ここに ひとりで さいているのです』


でも わたしのことを きにかけてくれて うれしい


ここに かくれて さいている わたしに

きづいてくれる ひとが いるなんて


わたしは そのことが ほんとに とっても うれしい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ほんせいに めざめよ』


いま ばんぶつに よびかけよう

おのれの おくに うめこまれた 

ほんしつを ほりだし みきわめよ


みずからの しんじつの すがたを みつめて 

それを はんだんせずに うけいれよ


みにくいとは はんだんせずに

なぜなら うつくしいのだから

はずかしいとは はんだんせずに

つまりは ほこるべきものなのだから


いっさいの はんだんを しりぞけて それが うけいれられたとき  

ほんせいは ねむりから めざめる


このよに ひときわの かがやきを はなって

しんじつの すがたを あらわし

それは せかいに あらためて しゅつげんする


その あまりにも まばゆい すがたを みつめることは

だれにも できない

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『長すぎ!!』



人類の「守銭奴化」



「守銭奴」って言うと、すっごく醜いようなイメージがありますけど、実は今の時代においては、ほとんどの人が「その守銭奴」なんじゃないかと思うわけです。
つまり、言い換えれば、人類全体が「守銭奴化」しているということです。
恐ろしいですね。

でも、これ、そんなにオーバーなことじゃないと思いますよ。
現実に、今の時代に生きている限り、誰もが皆「自分の金」を守ることに必死ですし、そう言う考えが全くない人なんてほとんど居ません。
要するに、そういう人たちが生きていかれないような状況があるわけです。

つまり、「いまの時代」というのは「守銭奴」に成らないと生きていかれない時代だということですね。
恐ろしいですね。

言い方を変えると、「いまの時代」は「守銭奴」達がたくさん集まって、ニコニコしながら愛想を使い合って、その実、心の中では「自分の金を守ること」しか考えていないというような、そういう時代であるということです。
恐ろしいですね。

こう言うこと言うと、怒る人がけっこう居ますけど、でも、実際問題として、「守銭奴」的な行動を完全に排除して暮らしていられる人ってどれくらいいるんでしょう?
私はほとんどいないと思いますよ。

たとえば、自給自足の生活をしている宗教団体みたいな特殊な例を除いて、「現代社会」の中で生活している人では、ほとんど居ないんじゃないでしょうか?
(いや、そういう所ですら「やや守銭奴化」しつつある?)

要するに、現在の「社会」や「「経済」が「カネ本位制」に成っているわけで、その「カネ本位」な世の中で暮らしているわけですから、当然「カネ本位」な生き方をするしかないわけで、そうなれば、人類全体が「守銭奴化」するのも当たり前なわけです。

まぁ、「人類の守銭奴化」は当然の成り行きであって、驚く程のことではないということです。

ただ、恐ろしいというだけでね。
そういう風に思いますよ。

この状況を抜け出すには、「貧乏でも幸福な人のモデル」を」を創る必要があります。

でも、たとえば、私なんかも「かなり貧乏」で「そこそこ幸福」なんですが、残念ながら誰からも羨ましがられていません。
ということは、「もっと貧乏」で「もっと幸福」じゃないとダメなのか?

『いやぁチョット、もうこれ以上は無理ですわぁ』

そんな感じ。





「外見」によって表現することができる範囲



抽象画を描いていると、よく人から『これは何を表現しようとしているんですか?』と聞かれるわけですが、『それを言葉で説明出来ないから絵を描いてるんですけどねぇ』と答えるしかないので、とてももどかしく思うわけです。

そういう時には「抽象画」なんてやめて、誰もが難しく考えないでも見ることが出来る絵を描いた方が、少しはマシなんじゃないのか?と思うわけですが、『そういう絵では自分自身が納得できないんだから仕方がないよなぁ』と自分に言い聞かせるしかないというわけです。

で、『なんで納得できないのか?』というお話です。

それは、要するに「表現することが出来る範囲」の問題なんだと思うわけです。

「具象表現」というのは「現実のモノの外見」を使って表現することだと思いますが、その「外見」で現すことが出来る「範囲」に、やや不満があるということなわけです。
不満と言っても、実は「飽きてしまった」ということなのかも知れません。
つまり、「外見によって表現することが出来る範囲」に飽きてしまったわけです。

実際に、「外見」でもいろいろなモノが表現できますし、その表現力においても必ずしも「抽象表現」の方が上回っているということは無いように思います。
むしろ、「抽象表現」は非常に不安定で、伝わりにくい表現形式なんだと思います。
(これ、「抽象」をやっている人は認めた方がいいと思います)

それなのにどうして「抽象表現」を使うのか?と言えば、やっぱり『まだ出来ていないから』なんだと思いますよ。

 ※私は「抽象表現」は、まだ誰にも達成されていないと思ってい
  ます。更に、おそらく今後も達成されることは無いと思います。
  つまり、「抽象表現」とは、達成不能な表現形式であるというこ
  とです。
  この「不可能への永続的な挑戦」こそが「抽象」という作業であ
  り、さらにその意義でもあると思っております。

確かに「外見」を使った「具象表現」でも、伝えられることもあれば伝えられないこともあるでしょう。
それは「抽象表現」でも同じです。
ただ、その「伝えられるもの」と「伝えられないもの」の範囲に違いがあるわけで、それで、まぁ『どうせだったら目新しいものを』ということに成るわけですね。

あとは、「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」において「挑戦する姿勢」を示すことは「芸術の重要な役割」の一つだと思いますので、「新しいこと」や「困難なこと」にチャレンジする姿勢は必要なんじゃないかと思うわけです。

それから、もう一つ「自己表現」ということがあります。
(本当のことを言えば「目新しいこと」よりも、こちらが重要ではあるわけです)
これも「現在形の芸術」においては、中心的な課題に成るわけですが、その「自己表現」には「抽象表現」が向いているということがあるんだと思います。
もちろん、「具象表現」を使っても「自己表現」は可能だと思いますし、「ナニカを表現すること自体」が「自己表現」であるとも言えるわけですが、「抽象表現」に「自己」が丸出しに成るというのは確かによくあることなんじゃないかと思います。
要するに、「自己」を隠す「外見」が無いので、「自己」が「丸出し」に成るんでしょうね。
逆に言うと、「具象表現」においては「外見」という「隠れミノ」があるために、「自己」が見えにくくなるということなんじゃないかと思うわけです。

さて、話を「外見によって表現することができる範囲」に戻すと、何が「外見で現すことが出来るモノ」で、何が「外見では現すことが出来ないモノ」なのか?ということですね。

まず、よく言われることで『感情のような精神的なものを現すために抽象表現を使うんだ』というのがありますが、実は、「感情」は「人間の表情」などの「外見」でも現すことが出来ますから、必ずしも、「抽象表現」でなければならないというわけでもないと思うわけです。

 ※「感情」をダイレクトに表現することは、「抽象」でも「具象」でも
  できないと思います。
  「具象」で言えば、「表情」や「しぐさ」を通じて表現するしかない
  ので間接的な表現に成ります。でも、「抽象」で直接的に「感情」を
  表現できるか?というと必ずしもそうでもないわけで、けっきょく使
  っているのは「色」や「形」でしかないわけですが、「その色や形」
  は「感情の色や形」ではなく『なんとなくこんな感じ?』という曖昧
  な根拠に基づいて割り出された「色や形」なわけですから、直接的に
  「感情」を表現しているわけではありません。
  ただ単に、『「他のナニカの色や形」ではない』というだけです。

では、「抽象表現でなければならないもの」とは、ナニなのか?
私は、それを「普遍的なもの」だと思うわけです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質という
  ような意味です。「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」では
  なく、あらゆるものの中にある「世の中の本質」に近い意味で言ってお
  ります。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』
  ということですね。

「精神」と言っても、所詮は「物質に宿っている精神」なわけですから「物質」によってあらわせるはずです。
つまり、「人間の精神」であれば「人間の外見(肉体や表情)」によってあらわすことが出来るということに成るわけです。

その逆に、「外見」で現すことが出来ないのは、「複数のもの」に共有されている「性質」であるわけです。
それが、「普遍的なもの」です。
「精神」であるか「物質」であるかということよりも、「個」であるか「普遍」であるかということの影響の方が大きいわけですね。

例えば、人間を描こうとすれば、必ず「男性」を描くのか「女性」を描くのか選ばなければなりませんし、花を描こうとすれば、「何の花」を描くのかを選ばなければならなく成るわけです。
そこで、もしも、「男性」と「女性」の両方を同時に表そうとすれば、「男性の外見」も「女性の外見」も、どちらも使うことが出来なくなってしまうわけです。
花であっても、二種類の花を一つの絵で現わそうとすれば、「どちらの花の外見」も使わずに表現しなければならなくなるというわけです。

そこで、「中性的な人」を描けばいいかというと、そうでもなくて、それだと表現されるのは「男性」でも「女性」でもなく「中性的な人」です。

たった二種類のモノを同時に表そうとしただけでも、「外見」が使えなくなってしまうわけですから、より一層「普遍的なもの」を現したいと思うならば、「いかなる物質の外見」も使うことが出来なくなるということです。

という所で、長くなってしまいそうなので、次の記事に続けます。




「外見」によって表現することができる範囲(つづき)



前の記事の続きです。

「外見」によって表現することが出来ないのは「普遍的なもの」だろうというところからです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質という
  ような意味です。「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」では
  なく、あらゆるものの中にある「世の中の本質」に近い意味で言ってお
  ります。
  そういう性質が「普遍性」で、それを持っていれば「普遍的」です。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』
  ということですね。

一般的には、「精神」などの形が無いものを表現するのには「抽象表現」が向いているということに成っているかと思いますが、実は「無形のもの」はどんな表現形式を使ったとしても決してダイレクトには表現することが出来ないと思うわけです。
『形が無い』ということは、「像」が無いわけですから、ほとんど何も表現できないわけです。
というか、伝わりません。
というか、それ以前になにも描けない!

やはり、「無形のもの」であっても、何らかの「形」を使って表現するしかないわけで、その点では「具象」であっても「抽象」であっても、そんなに決定的な違いは無いと思います。
「抽象」では、多くの場合『形をボヤカシテいる』」ので「形」を使っていないように見えるだけだと思います。
それに、実を言えば「精神」や「感情」も「具象表現」の方が、むしろ人に伝わり易かったりします。

だから、「精神」のような「無形のモノ」を表現するには、必ずしも「抽象表現」である必要はないと思いますが、同じ「無形のモノ」でも「普遍的なモノ」を表現しようとした場合は「抽象表現」である必要があるわけです。

前の記事に書いたように、たった二つのモノでさえ、その二つのモノを同時に表そうとすれば、「外見」を使うことは出来なくなってしまいます。
「現実にあるモノの外見」というのは、必ず「一つのモノの外見」を指しているわけで、そこに「普遍性」を持ち込むことは不可能です。
(それでないと「そのもの」が「一個のもの」として存在できませんから)
だから、「普遍的なもの」を表現するには「現実の外見」を使うことが出来ないということです。
それで、「抽象表現」を使うことに成るわけですね。

要するに、「外見によって表現することができる範囲」は、「個別のもの」までということに成るわけです。
つまり、「普遍的なもの」を表現したい場合は「現実の外見」を諦めて「現実の外見ではないナニカ」を使わなければならなくなるということですね。

現在「抽象」と言われているものの多くは、その「現実の外見ではないナニカ」として「ボヤケタ形」を使っていることが多いわけですが、実際には「ボヤケテいること」には大した意味は無いと思います。
『現実のモノの外見ではない』ということが重要なわけで、「形」がハッキリしていても特に問題は無いと思うわけです。
確かに、「ボヤケタ形」は「現実のモノの外見」ではあり得ない所がありますが、「ボヤケテいること」で、「表現」としてもボヤケテしまうことが多いわけです。

 ※このことを「抽象」では「形による表現」ではなく、純粋に「色の表現」
  を目指しているというような言い方をすることがよくありますが、「形の
  ない色」というものは存在しません。
  ただ「形」をボヤカスことは出来るというだけです。
  その「形をボヤカスこと」で、確かに「現実の外見」からは離れられます
  が、表現自体もボヤケテしまいますから、表現力が弱くなってしまうわけ
  で、それが現在「抽象」と言われている表現形態の最大の欠点に成ってい
  るわけですね。

要するに、「現実ではないモノの形」であればいいということです。
この「現実ではないモノ」のことを、私は「異現実」と呼んでいますが、「非現実」と違うのは「現実ではないが生々しいモノ」というような意味で「ありそうでないモノ」を作りたいので、「非現実的なモノ」ではなくて、「現実でないのにリアルなモノ」を「異現実」と呼んでいるわけです。

いずれにしても、「普遍的なモノ」を表現するのは、実際には不可能なのかも知れませんが、そこに向かう姿勢を示すことだけは出来るわけで、それこそが「現在の芸術」に与えられている領域なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「ほぼ不可能なこと」に対して挑戦し続けること、そのことから「成果」を得ようとするのではなく「挑戦すること」自体を目的とすること、そういう行為こそが「現在の芸術」が示すことの出来る唯一の「純粋性」なんじゃないのかなと。

だから、「不可能」か「可能」かではなく、その創作者がほんの僅かでも「可能性」を感じたところに自分の表現の方向を持って行って、そこに向けて最大限の力を注ぎ込む、それこそが、今「芸術がやるべき仕事」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけなのです。

 ※「現在形の芸術」においては、この記事に書いたことのような
  「不可能性」を追求しているところがあると思うわけですが、そ
  れを、如何に『スマートに』つまり『労力ではなく才能やセンス
  を使って』表現するかということを追求してしまっています。
  そして、そのことによって、現在の「芸術の行き詰まり」が生じ
  ているということは間違いのないことではないでしょうか?

  それは、つまり、「不可能性」の中に「可能性」を見を見つけ出
  そうとするという「芸術が本質的に持っている方向性」を放棄す
  ることに成るわけですから、当然の結果だと思いますよ。
  
  要するに「才能」で出来ることは「可能なこと」までだというこ
  とですね。
  「不可能なこと」を早い段階で切り捨てて「可能なこと」を人一 
  倍に上手く達成するのが「才能」と言うモノだと思いますね。

  だから、「不可能性を追求すること」と「それを才能でやろうと
  すること」は、初めから矛盾しているわけです。
  「現代美術」は、その矛盾を「如何に上手く誤魔化すか』を競い
  合ってしまっているところがあるわけです。
  『まぁ、そんなことやってれば行き詰りますよね』ということで
  しょ?



いま『芸術がわかる』とはどういうことなのか?


 
いわゆる「芸術好き」の人が、「ごく一般的な人」に対して『あなた、まったく芸術がワカッテないよね!』と言っているのはよくあることだと思いますが、それじゃあ、いったい『いま、芸術がわかっている』とはどういうことなんでしょうか?

たとえば、「美術史的な知識」が豊富であることなんでしょうか?
それとも、『現在形の芸術に通じている』ということなんでしょうか?
または、『非常に鋭敏な感性を持っていて、常に芸術の良し悪しを見分けることが出来る』ということなんでしょうか?
これらは、どれも違うという気もしますし、どれも当たっているという気もします。

でも、個人的な意見で言わしてもらいますと、『いま、芸術がわかる』というのは、そう言うことではなくて、「いま芸術の置かれている位置」をワカッテイルということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「現在」という時代において「芸術」がどういう意味を持っているのか?
「時代」や「社会」そして「人間」にとって「現在形の芸術」がどういった位置を占めているのか?ということを理解している人こそが『いま、芸術がわかっている人』なんだと思うわけです。

こんな言い方をしてしまうと、『へぇ~、難しいんだねぇ』とか『それで自分はそれがわかっていると言いたいのね、ハイハイ』などと言われそうですが、そうとも限らなくて、むしろ「知識」や「教養」や「感性」などは必要ないわけですから、「誰でもできること」でもあるわけです。

それから、これは「芸術」以外のことでも、だいたい同じことが言えると思います。

たとえば、「いま、科学がわかっていること」というのは、「いま科学が置かれている位置」をわかっていることだと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」とは「いま宗教が置かれている位置」をわかっていることなんだと思うわけですね。

だから、「いま、科学がわかっていること」に「科学の勉強」が必要とは限らないと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」に「信仰」が必要であるとも思いません。

例えばの話、いまでも「科学万能」を信じている人は、『いま、科学がわかっている』とは言えないということですね。
もし、その人が「科学者」であったとしてもです。
(よく居るような気もしますけど)
また、今でも、日照りの時に「雨ごいの踊り」や「生贄の儀式」をやってる人は、『いま、宗教がわかっている』とは言えないということに成ります。
(めったに居ないでしょうけど)

それらと同じで、「いま、芸術がわかっていること」と言うのは、「芸術に関する知識」とも「芸術的な感性」とも関係なく、ただ単に「いま芸術が置かれている位置」をわかっていることなんじゃないかと思っているわけです。

で、その「いま芸術が置かれている位置」ってどこなんだ?ということです。

「現在形の芸術」においては「作者の自己表現であること」が最も中心にあると思うわけですが、その「作者の自己表現」が「時代」や「社会」や「人間」にとってどういう意味を持っているのか?ということです。

昔は「技術」と「芸術」は、ほぼ同じような位置にあるモノだったと思いますが、現在は「技術」は「芸術」の中心的な部分ではなくなっているわけです。
つまり、現在「芸術」において「技術」を中心に置いた考え方をしているということは、いまだに「雨ごいの踊り」を踊っているようなもので、「やや時代遅れ」と言わざるを得ないわけです。
しかし、その逆に「反技術」が「いま芸術の置かれている位置」に近いか?と言うとそうでもなくて、半世紀ほど前まではそうだったのかも知れませんが「反技術」や「反芸術」的な考え方も「いま芸術が置かれている位置」とは言えなく成っているわけです。
だから、いま、意識的に「技術」を捨てようとしたり「芸術っぽくないモノ」を見せようとしたりするのは、やっぱり「雨ごいの踊り」になってしまうわけです。

それじゃあ、どういうのが「いま芸術が置かれている位置」なのか?と言えば、私は「努力」を挙げますね。
つまり、「世の中で最も努力を明確に示すもの」というのが「現在の芸術の位置」だと思うわけです。

「芸術」と言うと、なにかにつけて「才能」や「個性」ということだけが言われてしまいますが、実は「才能」や「個性」で出来ることはかなり限られていて、「現在の芸術の位置」はその範囲を超えたところにあると思うわけです。
ということは、いまだに「才能」や「個性」に依存しているということも、また「雨ごいの踊り」に成ってしまうわけで、あと残っているのは「努力」以外にないということです。

「いま、芸術の置かれている位置」は「努力を示すモノ」という位置であり、「もっとも純粋に労力を費やすもの」という位置だと思います。

いま、こう言うことが出来るのは「芸術」しかないでしょう?
「才能」や「個性」はほかのことでもイヤというほど示されているわけですが、今、「無目的の努力」を示すことが出来るのは、おそらく「芸術」しかありませんね。

それから、これは「創作者」にだけ言えることではなく「鑑賞者」や「批評者」にも言えることで、「鑑賞者」は「単なる美しいモノ」ではなく、作品の中にある「努力や労力」を」鑑賞することを要求されるようになっていくでしょうし、「単なる好み」で鑑賞することにも意味が無くなっていくでしょう。
「批評者」も作品の「個性」や「センス」などではなく、「作品の中に示されている努力や労力」を抽出してそれを分析し批評を加えるようになっていくと思います。

そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者がそれぞれの立場において、「努力」して「労力」を費やすことが「芸術の目的」に成って行くんだと思っているわけです。

つまり、「個性」や「才能」もまた、「技術」と同じように「芸術の中心課題」ではなく「単なる手段」に成るということです。

こんなことを言っても、誰一人聞き入れてくれる人はいないでしょうが、それじゃあ、お聞きしたいのですが、『あなたは、今、無条件に気持ちよく「努力する機会」を持っていますか?』と。
『利益と無関係に気持ちよく「労力を費やす人」を最後に見たのはいつですか?』と。
『「芸術」以外で、そんなものに出会えると思いますか?』と。

そんな風にお聞きしたいわけなのです。
(まぁ、「芸術」でもあまり出会いませんけど。『いや、まだこれからなのさぁ~』)



「イジメ」や「ハラスメント」が発生する理由



世の中に、ここまで「イジメ」や「ハラスメント」が蔓延してしまうとはねぇ。
まったく、恐ろしい世の中です。

そういう「イジメ」や「ハラスメント」をやっている側の人は、どう思っているんでしょうねぇ?
やっぱり『恐ろしい世の中だなぁ、まったく!』と思っているんでしょうか?
それとも、『このぐらい普通でしょ?どうってことじゃないよ』っていう感じなんでしょうか?
いや、それ以前に自分がそういうことをやっていると思っていないんでしょうから、ドッチでもおんなじようなモンですけどね。

まぁ、いずれにしても、「イジメ」や「ハラスメント」なんて、あってもナンにもならないわけだし、やってる人たち自身にとってもあんまりトクに成ってないような気もするわけで、『だったら、なんでそんなモン発生するんだろうか?』と思うわけです。
(なんと言うか、石にけつまづいた人がその石を『コンチクショウ!と言って思いっきり蹴ってさらに痛い思いをするという系統のものに見えますね)

どう考えても、必要性があって発生しているようには思えないんですけどねぇ。
とは言え、こんなにたくさんあるということは、おそらくナニカ理由があって発生しているんだと思いますから、そこのところを考えてみるわけです。

それで、つらつらと考えてみたところ、「イジメ&ハラスメント」が発生する理由は、現代社会が根本的に「競争原理」や「効率主義」という方向性を持っているという所にあると思うわけです。

「競争原理」ですから、当然「勝者」と「敗者」がクッキリと分かれてしまいますし、「効率主義」ですから、当然「効率」を下げるような者は排除されるように成るわけです。
さらには、「効率」を高めるためには「組織」が必要に成るわけで、その「組織」に与えられる「権力」が時代とともに増大してきているわけです。
それで、一度「組織」の中で「地位」を得た者は、「絶対権力者」になってしまうんですねぇ。
「絶対権力者」ですから、何をやっても咎められませんし、いくらデタラメでも一度得た「地位」を追われることはありません。

こういった状況が「イジメ&ハラスメント」の温床になっていくというわけですね。

そんな「百害あって一利なし」の「イジメ&ハラスメント」なわけですが、なかなか無く成りません。
皆さん「イジメ」と聞けば怒りをあらわになさいますし、「ハラスメント」に対しては『人間としてサイテー!!』などとおっしゃいますよね。
つまり、大半の人が「イジメ&ハラスメント」なんて無く成ればいいと思ってはいるわけです。
でも、なかなか無く成りません。
「イジメ&ハラスメント」に対しては否定的な人でも、『じゃあ、「競争」はどうなんですか?』とか『「効率」が悪く成ってもいいですか?』と聞いた場合には、どうこたえる人が多いでしょうか?

たぶん、多くの人は「競争原理」にも「効率主義」にも疑問を持ってはいると思います。
(そこに疑問すら持たない人が「イジメ&ハラスメント主」に成るんでしょう)
でも、それらを完全否定できる人と成るとそう多くはないでしょうね。

なんと言っても、そう言う考え方に基づいて「人間社会」はここまで発達してきたわけですから、この豊かさにドップリとつかっている現代人がそれを完全に手放すわけはありません。
だから「競争原理」からも「効率主義」からもなかな抜け出すことが出来ないわけです。
それで、「イジメ&ハラスメント」からも抜け出せなくなっているわけですね。

でも、実を言うと、ここまで「イジメ&ハラスメント」が蔓延してきたのは、「競争原理」や「効率主義」が末期段階に入ったからなんだと思うわけです。
つまり、「不要」に成りつつあるわけです。

過去においては「少ない豊かさ」を「競争」によって奪い合っていたわけですし、「効率」によって「豊かさの量」を増やす必要があったわけですが、もはや現在においては「豊かさ」が過剰気味に成って来ているわけです。
だから、「競争原理」も「効率主義」も「不要」に成りつつあるということですね。

そういうわけですから、全部とは言いませんけど、チョットだけ「競争」や「効率」を手放せば、きっと「イジメ」も「ハラスメント」も少なくなっていくんじゃないのかなと。

まぁ、そういう風に思います。

それにしても「イジメ&ハラスメント」やってる人たちが、完全にコント。
戯画ですね。
『オモロすぎますわぁ』
『事実は小説より奇なり』と言いますが、『「イジメ&ハラスメント」はコントよりオモロイなり(字あまり)』

こういう言い方は、被害者のことを考えると不謹慎なような気もしますが、実はこういう「イジメ系」に関しては、10人のうち9人までが怒っても無く成りませんが、10人のうち9人までが笑い物にすると無くなっていきます。

たぶん、「笑い物にする」くらいがちょうどいいんだと思いますね。
やってることも、やってる人も「その程度」なんだと思いますよ。
「怒り」だと「マトモすぎる」んでしょうね。
(まぁ、あんまりひどいと「怒り」も感じますけどね)

そんな風に思いますよ。




「現代美術」は「2×2バインド」



「ダブル・バインド」とか「ダブル・スタンダード」という言葉がありますが、そういう「二重の規範」というものが現代社会の中で人間を苦しめている元凶の一つだと思うわけです。

 ※ここでは「ダブル・スタンダード」は、ひとつの社会(または一人の
  人)の中に二つの異なる規範が存在することで、「ダブル・バインド」
  は、その「二つの規範」が時と場合によって勝手気ままに使い分けら
  れることで矛盾が発生して、その矛盾が人間の精神に抑圧を加えるよ
  うに成ってしまうという困った状態を指しています。

現代社会において「ダブル・スタンダード」が発生してしまう要因はいろいろあると思いますし、そう言うものの中には現代という時代が避けて通れないようなものが多いと思いますから、「ダブル・スタンダード」を完全に無くすことは出来ないような気がします。
でも、「ダブル・バインド」に関しては何とか回避できると思いますし、このまま回避しないでいるとマイナスがどんどん大きくな成っていくだろうと思います。
要するに「抑圧」の部分が拡大してきているということですね。
そして、その「抑圧」の部分だけは減らすことが出来るように思うわけです。
(誰でも、自分が「抑圧」を避けることぐらいは出来ると思います)

そこに、どうして「芸術」の話が出て来るのかというと、「現代社会」がその「ダブル・バインド」を創り出して拡大し続けている原因には、「芸術」も関係があるように思うからなんですねぇ。

もともと、「ダブル・スタンダード」が生み出されたキッカケは、人間が「科学」を確立したことにあるんじゃないかと思います。

その昔、人間は「自然」に従った生活をしてきたわけですが、「科学」が生み出されて徐々に確立されていく過程で、人間が「自然」に対抗するということが完全に不可能なことでも無くなってきたわけです。
もちろん、まだまだ人間は「自然」をコントロールすることが出来るわけではありませんが、少なくとも「地球上の自然」に関する限りでは「把握」しつつあります。
つまり、「ワカラナイコト」がだいぶ少なく成ってきたわけですね。

でも、まだまだ「自然」を「支配」することなどは到底できないわけで、普段は「科学」に準じた生活をしていながらも、どこかで「宗教」や「スピリチュアル」を信じて居たり、「自然災害」の時などは「大自然に対する謙虚な気持ち」を持ち出してこなければならなかったりするわけですね。
それでいて、「スピリチュアル」や「宗教信仰」を持っていれば「科学」を捨てられるのかというと、ゼンゼンで、四六時中「スマホ」をいじっていないと不安だったりすると言う感じなわけです。

この「自然に準じた規範」と「科学に準じた規範」こそが「ダブル・スタンダード」のモトに成っているモノだと思います。

 ※実際には、【「自然」VS「科学」】よりも、もっと根源的なところにあ
  る「ダブル・スタンダード」の原因もあると思いますが、「現在の人間」
  に限って言うと、この【「自然」VS「科学」】という対立が一番影響が
  大きいと思うわけです。
  「科学」も「自然科学」というくらいですから、「自然」の範囲内では
  あるんでしょうが、なぜか、その「科学」と「自然」が対立することが
  多いわけですね。
  
 ※また、世界が狭く成ったことによって、世界のそれぞれの地域に分かれ
  て発展してきた「違う規範」が、同じ社会の中に混在するように成った
  ので、「地域」や「民族」などの間にも「ダブル・スタンダード」が発
  生しているわけで、そちらも影響が大きいものだと思います。
  でも、それは、おそらく時代とともに解消されていくでしょう。
  要するに、人間が「地球人」という民族に成ればいいんだと思います。
  それまでにはそれなりに時間がかかるでしょうけどね。

この「自然」と「科学」という「ダブル・スタンダード」に関しては、「芸術」よりも大きな枠組みでのことなので、「芸術」が直接それを止めたり推し進めたりするようなことは無いと思います。
また、この「自然」と「科学」の対立という構図は、今後も続いて行くでしょうし、人間が「科学」を手放すことが無い限り消えることはないと思います。
(もしも、人間が「科学」を手放す時が来るとすれば、その時には「芸術」や「哲学」がそこに関わることに成るのかも知れませんが、かなり遠い将来のことに成るでしょうね)

それじゃあ、ナニが「芸術」に関係しているのかと言えば、「ダブル・バインド」の方なんですね。
「ダブル・スタンダード」があれば、必ず「ダブル・バインド」が構成されるとは限らないわけで、例え「複数の規範」があっても、人間がそれに振り回されなければ「ダブル・バインド」は生み出されませんし、大きな悪影響は出てこないハズです。

でも、残念ながら、そこに「芸術」が関わってしまうわけです。
つまり、「ダブル・スタンダード」から生み出される「ダブル・バインド」のモトに成っているのが、かなりの確率で「芸術」であることが多いと思われるわけです。

『人間が振り回されなければ「ダブル・バインド」は生み出されない』と言いましたが、残念ながら、最も大きく振り回された分野こそが「芸術」であったわけです。
つまり、「芸術の20世紀」において、まさに、最も大きく振り回されたのも「芸術」であり、最も大きく振り回したのも「芸術」であったということなんですねぇ。

「芸術」って、やることが極端なんですねぇ。
だから、振り回される幅も大きくなってしまうわけなんです。

「芸術の20世紀」において、「芸術がやったこと」に関する限り、それが極端であったということを認めない人はほとんどいないと思います。
「芸術」が、「自然VS科学」の対立に最も大きく振り回されたわけですね。

なにせ、それまで常識であったようなことを、すべて破壊して、あらゆることに置いて、それと逆のことをやったと言ってもいいほどですから、これを「極端」と言わなければ「極端」という言葉の意味が成り立たなくなってしまいます。

まぁ、一言で言ってしまえば「やりすぎ」な面があったと思うわけです。
この「やりすぎ」によって、まさに典型的な「ダブル・バインド」が形成されてしまうことに成るわけです。

たとえば、「芸術の20世紀」の最大の特徴と言ってもいい「破壊」というテーマは、本来、行き詰って身動きが出来なくなったアカデミズムを一旦破壊して新たなフィールドを創り出すために必要だったわけで、あくまでその先に「新たな創造」があっての「芸術のテーマ」であったはずです。
ところが、その「破壊」までを「芸術」としてしまいましたから、「破壊」こそが「創造」であるという完全な矛盾が出来上がってしまったわけです。

そして、それが「権威」を持つように成ってしまうわけですから、当然「抑圧」が生み出されてしまいます。
ここまでのところでも、十分に典型的な「ダブル・バインド」と言っていいでしょう。

でも、さらにその上、そういう「明らかなやりすぎ」=「典型的なダブル・バインド」が現時点まで否定されずに来てしまいました。
それどころか、ますます肯定されるように成って来ています。
(例を挙げれば、大画面を一色で塗りつぶして一本だけ線を引いたみたいな絵が、異常なほどの高額で売買されていたりしますよね)

ところが、その「肯定」を本当の所では、誰も信じていません。
みんなが、多かれ少なかれ疑っています。
(『自分は信じている!』と主張している人は、洗脳状態または催眠状態にあります)

要するに、「芸術家の荒唐無稽な論理」や「専門家の超難解な説明」や「マスコミの延々と繰り返される情報」などによって、一般人はまったくそれらの意味を理解できていないままに「鵜呑み」にさせられてしまって、全く抵抗する機会を与えられないまま、さらに「教育」によっても刷り込まれてしまったわけですから、為すすべがなかったわけで、疑っている状態のまま「肯定」するしかなかったということだと思います。
ところが、「教育」はそれらの「芸術」が提供し続ける「極端」と同時に、それとは正反対の「常道」をも刷り込み続けましたから、典型的な「ダブル・バインド」が形成されてしまったわけですね。

現在、「芸術の世界」には、「芸術の20世紀」を疑っているのに、それを言ってはいけないような空気があって、それを疑う者は「芸術の世界」から遠ざかって行かざるを得ないような構造が出来上がってしまっているわけです。

つまり、ここにも、また「ダブル・バインド」が形成されてしまっているわけです。
そして、それが「人間の精神」を抑圧するように成っています。
ということは、「ダブル・バインド」の上に、また更に「ダブル・バインド」がかぶさってしまっているわけです。

第一段階の「ダブル・バインド」が【「破壊」=「創造」】ということで、その上に更に、【「極端」=「常道」】という第二段階目の「ダブル・バインド」が乗っかってしまっているわけです。

ということは、「現代芸術」が生み出している「ダブル・バインド」は、「二重」のさらに「二乗」、すなわち「2×2バインド」だということに成ります。

と、ここで話が長く成ったので、次の記事に続けます。




「現代美術」は「2×2バインド」(つづき)



前の記事の続きです。

「現代美術」は「ダブル・バインド」にハマってしまっているだけでなく、その上に更にもう一段「ダブル・バインド」が乗っかった状態、つまり「2×2バインド」に成っていると思うわけです。
(実際は、もっとたくさん乗っかってますけどね)

どこからを「現代美術」とするかは人によるんでしょうが、まぁ、大まかに言って百年ほど前の時代に、いま「現代美術」と言われているモノが出来て来た時に、「それまでの芸術」とは全く違う「新しい芸術」を創り出そうとしたということがあったわけですが、そこで「既成の芸術という概念」を破壊する必要があったのは確かなことだと思います。

そして、その「既成の芸術」を徹底的に破壊したのも間違いではなかったのかも知れませんが、でも、そこに落とし穴があったわけで、その落とし穴から抜け出そうとしなかったのは明らかに間違いであったと言わざるを得ないと思いますし、さらに、その間違いを改めずに百年以上も続けてしまったことは、もう「単なる間違い=過失の域」を逸脱していると思います。
しかも、それを今後もさらに延々と続けていくとなると、それは「虚構」や「悪徳」の領域に入って行くことに成るわけで、『出来ることなら早いとこ止めといたほうがよくないですか?』と思ってしまうわけなのです。

要するに、「破壊=創造」という「究極的な矛盾」が出来上がってしまっているわけですが、それを百年も続けてきたために「矛盾」であることがいつの間にか肯定されてしまって、むしろ、「矛盾していないこと」の方が『そんなのは芸術じゃないよ!』とか『そういうのは、もう古くさいんだよ!』と言われる羽目に成っているわけです。
つまり、「現在形の芸術」においては、どこかに「オカシナ所」が無いと『ナントナク新しくない感じぃ?』というような状態に成ってしまっていて、まさに「破壊=創造」という「ダブル・バインド」の上に、さらに、それが肯定されるという「再ダブル・バインド」が乗っかったことで「矛盾していること」の方が正しくて「矛盾が無いこと」の方が間違っているというような、どう考えても説明不能な状態が出来上がってしまっているわけです。

なんで、こんな状態の「現代美術」が「芸術」という枠組みを維持していられるのか?と言えば、”すべてのことが矛盾している”からです。
ありとあらゆることが矛盾していると、その中に投入された「たった一つのマトモなこと」だけが浮き立って、むしろ「オカシナこと」に見えてしまうわけですねぇ。
当然、「矛盾していること」は周りのモノと同じですから馴染んでしまって誰にも意識されずに、その矛盾も追及されることはほとんどないわけです。

そういう「オカシナ所=違和感」を「芸術」として肯定的に捉える人が居ること自体がワルイということは無いと思いますが、『それじゃないと「現在形の芸術」とみなされない』というのはやはり無理がありますし、第一、自由なのか不自由なのかもわからないわけで、そこにも、また「自由=不自由」という「ダブル・バインド」が出来上がっていくことに成るわけです。

一度嘘をつくと、それをフォローするために、さらに嘘をつかなくてはならなくなるのと同じで、「矛盾」も一つの「矛盾」を肯定してしまうと、その「矛盾」を肯定し続けるために他のことも「矛盾」させるように成ります。
そして、それを百年以上続けて来た結果、「すべてのことが矛盾しているという形」で安定しているというのが、「現在の現代美術」だと思います。

でも、過去の話はどうでもいいんです。
これからも、この状態を続けていくのか?ということです。

それらの「すべての矛盾」を正せば、多大な利益を失う人が出てしまうでしょう。
利益ならまだいいでしょうが、とてつもない損失を追うことに成る人も出るでしょうね。

『どうしますか?』
『やめときますか?』

私はやらなきゃいけないと思いますよ。
だから、一人でもやるわけですね。
一人だと、「とてつもない損失」の「天文学的数字分の一くらいの損失」で済むわけです。
『そりゃ、ヨカッタ、ヨカッタ、あ~こりゃこりゃ♪』

でも、私個人にしてみれば、完全に「宇宙規模の損失」なんですけどね。
『あら、やっぱり、ヨクナカッタ、ヨクナカッタ、こりゃこりゃ♪』

とにかく、これはなんとかしといた方がいいと思いますね。
大企業が倒産した時のような感じで、「国」がフォローするという前提条件を作ってでも、なんとかしないとイケナイことだと思いますよ。
「一つの国」だけじゃなくて国際的な連携も必要に成るでしょうが、まず初めに「どこかの国」がやらないと始まらないでしょうね。

ということで、「どこかの国」ではなくて、「どこかのオッサン」が一人でやっておりますです。ハイ。
誰からも相手にしてもらえませんが、自分では、『いいんじゃないの?自分、はぁ~、こりゃこりゃ♪』的な。

そんな風に思っているわけです。




「純粋であること」ではなく「純粋であるために使われた力」を示すことが「現在の芸術の意味」



「芸術」にとって「純粋性」は必要なモノだと思うんですねぇ。
(だって、他に「純粋」なモノなんてあんまりないでしょ?)

昔は、「純粋なモノ」を創り出して見せれば、それが「芸術」だったんだと思います。
でも、今はもうそう言うことでも無くなっているんじゃないでしょうか?

つまり、「物質的な意味でのモノ」には「純粋性」が無くなってしまったということでしょう。
というか、『人間が「物質には純粋性が無いということ」に気が付いてしまった』んでしょうね。
『今、人間は物質の純粋性を信じられなくなっている』と言ってもいいと思います。
(また、そこへ戻ることもあるのかも知れませんね)

それで「精神的な純粋性」を追求するように成ったんだと思います。
でも、それももう百年ほど前のことで、その後現在に至るまで「芸術」は、ほぼ停滞した状態を続けて居ると言ってもいいと思うわけです。

で、現在は「ナニ」によって「純粋性」を追求していけばいいのか?ということです。

私は「純粋であるために使われた力を示すこと」によって伝えられる「純粋性」を追求していこうと思ってやっているわけです。
つまり、「作品」自体と言うよりもそこに使われた「力」を提示することによって「純粋性」が伝えられれば、それが「現在形の純粋性」に成るんじゃないかと思っているわけですね。

そういうわけで、『どんどん無益に労力を使っていきますよ!』と思います。
「無益なこと」ほど「純粋なこと」は無いので。


そんな風に思っていますねぇ。




「本質を逸脱しようとする知性」と「本質へ回帰しようとする知性」



「本質」というのは、物事の本当の姿であり、もっとも純粋な在り様であると思いますから、きっと美しく澱みのないモノなんだと思います。(残念ながら、「本質」を直に見ることや理解することは出来ないでしょうが)
だから、人間もできることなら「本質」に向かって生きられればいいなと思うわけですが、その辺のところがどうも、簡単でもないということがあるわけです。

たとえば、「知性」には「本質」から離れようとする性質があるように思うわけです。
ということは、「知性」に頼っていると「本質」から離れていってしまうということです。
ところが、人間の場合は、その「知性」も「人間の本質」に近い所にあるわけで、「知性」を逸脱してしまっても、やはり「本質」を失ってしまうという二重の規範に悩むことに成るわけです。

「理性」と「本能」は必ずしも対立するものだとは思いませんが、少なくとも「理性」は「本能」を制御しようとする性質がありますし、「本能」は「理性」を無視しようとする場合があるのは確かだと思います。
そして、「知性」は「理性」に端を発しているんでしょうし、「本能」も「本質」から生まれているんだと思います。

つまり、「理性」」と「本質」が、「知性」と「本能」を介してつぶし合ってしまう場合が出てくるわけですね。
「本質」は「非の打ちどころがないほど単純なモノ」だと思いますが、あまりにも純粋であるために「人間の知性」ではそれを把握しきれません。
それで、いろいろな「理屈」をくっつけて、考えたり説明しようとしたりするわけですが、その過程で徐々に「本質」から離れていってしまうわけです。

ともすると、「本質から遠いこと」を「知性的なこと」であると思ってしまうという錯覚も出てきてしまうわけですね。

こんな風に言うと、それが人間にとって悲しいことや情けないことのように成ってしまいそうなんですが、実を言えばそう言うわけでもなくて、「人間の知性」には「本質に戻ろうとする性質」もあると思うわけです。

「人間」が「知性」の使い方を理解していないために、錯覚や間違いを犯すことや、それを認めようとしないことは、やや惨めなことだと思いますが、その間違いに気づいて「本質」に近い方向へ向けようとするのも、また「知性」による作業であるということは認めざるを得ないわけで、その「本質の方向」が人間には見当もつかないということがあるわけですが、そんなことよりも、未熟な人間がそこに向かおうとすること自体に意味があって、まさに、そこにこそ「現在の人間の本質」があると言ってもいいと思うわけです。

つまり、「本質を逸脱しようとする知性」と「本質へ回帰しようとする知性」の押し引きによって、人間がよくわからないながらも、とにかく「ナニカ」をしようとし続けること、それこそが「現時点での人間の本質に向かう行為」なのかなと。

『ナンニモわかんなくたっていいんじゃないか?』
『わかんないからナンニモしないのか?』
『やらなくてもいいのは、わかりきってることの方じゃないか?』

という風に思いますね。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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