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芸術における「非物量主義」と「非物質主義」



芸術の創作においては、出来るだけ「物質」に頼らずに「精神的な世界感」を現すことが理想だと思うわけですが、人間は「物質」を使って「精神」を伝えるしか方法が無いので、何かを表現するためにはどうしても最低限の「物質性」を必要とするわけです。

だから、あんまりにも極端に「非物質的」であろうとすると表現力を失って、最終的にはナニも創作することが出来なくなってしまうと思います。


要するに、「精神性を高めること」と「「非物質主義を取ること」は分けて考えた方がいいと思うわけです。

現在の芸術においては、「考えること」は最も重要なことだと思いますし、考えないで創作されたモノには「現時点的な意味」は無いとすら思います。
でも、そのことと「その思考」を表現することはまた違う作業だと思った方がいいと思うわけです。

「物質」には「精神」を邪魔する性質がありますが、「物質」でしかモノを表現できないわけですから、「物質」に頼らざるを得ません。
でも、その「物質性」を最低限にとどめたいわけです。
そこでは「物質の量的なパワー」は少ない方がいいと言うことですね。

つまり、「物量的」ではない方が望ましいということです。
要するに、常に「精神量」が「物量」を上回っていればいいんじゃないかと思います。

だから、「作品」に「物質的な量」を投入した場合は、それを上回る量の「精神」を投入する必要があるわけで、それはなかなか大変なことだと思うわけです。

だから、というわけじゃないですけど、私の場合は自分の作品に、あんまり高級な素材や、デッカイモノは使わないようにしています。
そんなに「デッカイ精神」持ち合わせてないんで。


そんな風に思ってます。




「似た形」よりも「似た性質」



「抽象画」を描く時や見る時に、『ナニに似ているか?』ということを考えてしまうことがありますよね。

このことについて、『抽象画がわかっていない人はそういう捉え方をしてしまうモノなんだよ』と言うことがよくありますが、本当は「抽象画がワカッテイル人」なんて居ないと思います(本当を言えば作者にもわかっていないと思いますよ)し、そういう見方をするのはむしろ自然なことだと思うわけです。

 ※「抽象」は「人間にはわからないモノ」を表現するための手段だと思います。
  もしも、それがハッキリわかっているのであれば、それは「具象」ということに
  成るんじゃないでしょうか?

『しかし!』です。
あえて、そこで言わしていただきますと、「抽象画」を見る時に、『ナニに似ているか?』という見方をするということは、『抽象の中に具象を見つけようとする』ということに成ってしまうわけで、それだと、「抽象である意味」がほとんどなくなってしまいます。
創作者が苦心して「抽象画」にした意味もなくなってしまいますし、鑑賞者がせっかく「抽象画」に触れた意味もなくなってしまいます。

「見たことがないモノ」を見たときに、『これはナニなのか?』と思うのは当然だと思います。
そして、『ナニカに似ていないだろうか?』と探してしまうのも自然なことでしょう。

そこまではいいとして、その次に、もしも「そのナニカ」を特定できなかった場合に、つまり『これはいったいナニ?』という疑問が自分の中に残った場合ですね(この疑問は残る場合が多いと思います)、そういう場合には、「似た形」ではなく「似た性質」を見つけてみてはいかがでしょうか?と思うわけなのです。

「モノ」には必ず「性質」があります。
それはどちらかと言うと「外見的な形」よりも「本質」に近いと思います。
それで、「抽象表現」においては「形」よりも「性質」(もっと言えば「普遍的な性質」ですね)を重視する傾向があるわけです。

ということは「性質を鑑賞すること」が「抽象画を鑑賞すること」であると言ってもいいわけですね。
つまり、「その絵の中に表現されている性質」が伝われば創作者としては満足できるわけだし、そういうものが受け取れれば鑑賞者にとっても「その絵に触れた意味」があると思うわけです。

 ※鑑賞者が「性質」を意識して鑑賞した場合でも、創作者の意図と違うモノが伝
  わってしまうことはあるわけですが、そういう時も残念ではありますが、そういう
  場合は諦めがつけやすいということですね。


『性質を鑑賞する』と言うと難しく聞こえてしまうでしょうが、元をたどれば単純で「硬い・柔らかい」とか「強い・弱い」とか「嬉しい・悲しい」とかと言った「性質」を鑑賞すればいいだけです。
というよりも、ほとんどの人が、絵を見る時には、そういう「性質」を鑑賞しているはずです。

それが「抽象画」を見るときに限って出来なくなってしまうということですね。

要するに「抽象画」には、「ルール」が無いんですね。
だから、「ルールに従って見る」ということが出来ません。
それで、どうしても戸惑いが出て来るというわけですね。

そんな中で『性質を鑑賞する』ということを意識することで「芸術の見方」にトッカカリが出来れば、見た人にとってトクなことはあってもソンなことはないんじゃないかと思うわけです。
まぁ、「ルール」が無いなら、せめて「ヒント」ぐらいあってもいいんじゃないかということですね。

と言ったことから、「似た形」よりも「似た性質」を探してみてはいかがでしょうか?ということを言ってみたわけです。


もちろん、「形」を鑑賞するという見方もあっていいと思いますし、むしろ「形」を鑑賞の対象から外すのは無理があるような気がします。
当然、「色」を鑑賞するという見方もあっていいでしょう。

でも、それと同じように「形ではないナニカ」を鑑賞するという見方もあってもいいと思いますし、また、「ナニでもないナニカ」を鑑賞するという、そんな見方もあっていいんじゃないのかなと。

絵の見方が、たくさんあっても、困ることなんてないんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。


「すべての偶然」は「必然」でもあり、「すべての必然」は「偶然」でもある



「偶然」と「必然」については、『すべてのことが偶然である』と考える人と、その反対に『すべてのことが必然である』と考える人に分かれる傾向があるような気がします。


でも、実際には「完全な必然」も「完全な偶然」も存在しないと思うわけです。
つまり、「偶然」の中にも「必然性」が含まれていて、「必然」の中にも「偶然性」が含まれているということです。

だとすれば、『すべてのことが偶然である』と考えるのも『すべてのことが必然である』と考えるのも、どちらもあまり変わらないことに成るわけで、片方は「必然性のある偶然」を「偶然」と言っているわけだし、もう片方は「偶然性のある必然」を「必然」と言っているだけなわけで、本当の所ではほとんど同じことを言っているんじゃないかと思うわけです。

よく、スピリチュアルの人は『この世に起きるあらゆる出来事が必然である』と言う考え方をしているようですし、スピリチュアルに限らず「宗教」のように「絶対者」や「創造主」や「万物の原理」のような「極度に根源的なモノ」の存在を前提にした考え方を持っている人は、だいたい「必然派」が多いと思いますね。
まぁ、その「絶対原理」をもとにして全てのことが成り立っていると言う考え方ですから、当然「偶然」なんてありえないのだと思います。

また、それとは反対に、「極度に論理的な思考」を中心にした立場をとる人は、「絶対」ということを排除した考え方の人が多いようで、それで、「必然」を拒否する傾向があるわけです。
こちらは、どんなに「必然的」に見えるモノであっても、それが「必然」に見えているのは「偶然」が積み重ねられたからであって、それ自体が「必然」だからではないということだと思います。
まぁ、「論理」ってそういうもんなのかもせれませんね。

全ての物事の根源に成っているような「絶対」を否定的に考えるなら、やはりそう言うことに成るんだと思います。

 ※ちなみに、私は「絶対」を否定はしませんが、「絶対」を支持したり
  賛美したりすることには否定的な考えです。
  なぜかと言うと、「いま」は「絶対」を追求するべき必要性は少なく
  成って来ているわりに、弊害は多くなってきているからですね。
  これは「宗教」などの「絶対性」に限らず「科学」などほかのことに
  対する「絶対性」に関してもほぼ同じことがいえると思います。
  このことに限らず、「思考(哲学的な思考?)」を突き詰めていく時
  には、「時代」に沿った考え方をするのが有効だと思っているわけで
  す。
  どんなに立派な人が言ったことでも100年も経つと『チョットチガ
  ウかな?』という所が出て来るものです。
  まして、自分が考えることでは『取り合えず、いまはこのヘンなんじゃ
  ない?』という程度が関の山だと思っているということですね。

ということで、この二つの考え方の違いは、「絶対」を肯定するか否定するかによって分かれていると思うわけですが、そこで最初の話に戻ると、実はこの二つの考え方が大差ないわけで、けっきょく「偶然性のある必然」や「必然性のある偶然」をどちらに分類するかの問題であって、それは単なる「呼び名」の問題で実体としては、どちらもほとんど同じことについて同じことを言っているんじゃないかと思います。

一見すると、「絶対」という決定的な要素に対する立ち位置の違いがあることから、その考え方の違いが出てきているように見えるわけですし、実際にもそうではあるんでしょうが、実はこの二つの考え方の違いはそれほど決定的なモノでもなくて、、実体としてはほぼ同じモノなんだと思います。

実際に「スピリチュアル」や「宗教」の人が、「偶然」という言葉を完全に頭から締め出せるわけでもないでしょうし、「論理派」の人も「絶対」を否定的に考えることは出来るかもしれませんが「必然」を完全に排除することは出来ないと思います。

だったら、両方ありってことでもいいんじゃないかと思うわけで、それで、『「すべての偶然」は「必然」でもあり、「すべての必然」は「偶然」でもある』と言ってみたわけです。

「明らかに偶然的な必然」とか「明らかに必然的な偶然」がどっちなのか?っていうことを考えるのはイイこといなのかも知れませんが、人間にとってはほとんど役に立ちません。
というか、そう言う考え方が有効な場合もあるでしょうが、そう言う考え方が人に無理を強いるような場合も出て来ると思います。

「明らかに偶然的なモノ」は「偶然」と言ってもいいような気がしますし、「明らかに必然的なモノ」は「必然」と言ってもあまり支障が出ることは無いと思います。

せっかく「偶然」と「必然」という二つの言葉があるなら両方使ったらいいんじゃないの?と思いますよ。
『今は』ということですけどね。

少なくとも、「偶然」も「必然」も両方必要としている人が居るなら両方あった方がいいのかなと。
(私は必要ですね。今は)

まぁ、そんな風に思ったわけですね。今は。



「芸術」=「美術」に成ってしまうのはナゼなんだろう?



「音楽」や「文学」や「演劇」や「その他いろいろ」や、「芸術」と言われるジャンルに属しているモノはたくさんあるというのに、なぜか、ただ単に「芸術」と言った場合は、自動的に「美術」のことに成ってしまうわけです。

これについて、私はよく『ナゼなんだろうか?』と思ってしまうわけなんですねぇ。

他の「芸術系ジャンル」に比べて「美術」が特にエライってことでも無いと思うんですが、なんでそうなってしまうのか?
『こんなこと考えても、なんのトクもないだろうな』という邪念は振り払って考えてみるわけです。

で、一通り考えてみたところ(10分ぐらいかけて)、『美術作品には身体表現が含まれない』ということに行き着いたわけです。

 ※ここで言うところの「身体表現」とは、基本的には「直接身体を使った表現形態」
  を指しますが、場合によっては間接的に「身体表現」を感じさせるようなものも含め
  ています。
  厳密な意味ではありませんが、その辺を追求すると意味が解らなくなる可能性があ
  るのでお許しください。  

たとえば「音楽」だと、「演奏」されることが前提に成ると思いますから、そこに「身体表現」=「パフォーマンス」が含まれるわけです。
「演劇」ならば説明不要だと思いますが、やはり表現に「身体表現」が含まれます。
「文学」は文字による表現ですから、本などの作品自体には「身体表現」が含まれませんが、「小説」のように「登場人物」を介した表現である場合には、結果的に「演劇」と同じような表現形式であるとも考えられるわけで、「登場人物」による「パフォーマンス」をまったく使わずに「ストーリー」を成り立たせることは不可能に近いと思いますので、やはり、そこに「読者の想像上の身体的な表現」があると考えた方がいいような気がします。

唯一、「文学」の中で「詩」というジャンルだけが、「身体表現」を排除することが可能な「表現形式」ではないかと思いますが、「詩」は「文学」の中で必ずしも最大の領域を占めているジャンルではないので、なかなか「詩」=「芸術」とまでは成らないのかなと。
(もしかすると、日本の平安貴族文化や、古代ギリシャなどでは「詩」=「芸術」だったのかも知れませんね)

さて、「芸術表現」の中で「美術」と「詩」だけが「身体表現」をほとんど含まない表現として成り立つ可能性を持っているということなんですが、そのことと、「芸術」=「美術」ということが、どう関係しているのかという話です。

これは「現在形の芸術」が「精神性を重視した芸術」であるということを考えると分かりやすいように思います。
つまり「精神性」に拮抗するものが「身体性」であり「物質性」であるわけで、「現在の芸術」が「精神性」を重視すれば、当然「身体性」や「物質性」は「芸術の中心」からは遠い位置に置かれることに成るわけです。

もちろん、「身体性」や「物質性」がワルイということでも「身体性」があってはイケナイということでもありませんから(というか、それも必要ではあるわけです)、「音楽」や「演劇」などの「身体表現を使った芸術」が『芸術じゃない』とか『芸術として一段低い』とかということはまったく無いわけですが、ただ単に、「現在の芸術の中心」に近いか遠いかということですね。
まぁ、要するに「いま最も芸術らしいモノ」はどれなのか?というようなことだと思います。

どちらかと言うと、「現在形の芸術」が「精神性」を重視しているというよりも、もともと、現在「芸術」と言われているモノ自体が「精神的なモノ」なんだと思うわけです。
つまり、「美術」や「音楽」や「文学」などの中に含まれる「精神的な部分」を「芸術」と言うんだと思います。
それらのジャンルは、「エンターテイメント」=「娯楽」としての機能も持っていますし、「技術」という側面もあります。
でも、「技術」は「身体的」な面だと思いますし、「エンターテイメント」は「精神的」ではありますが、「純粋性」においてはやや低く成るわけです。
そして、それらのジャンルの中に含まれている一番純粋に「精神的」な部分が「芸術」ということに成るんだと思います。

ただ、ほとんどのジャンルにおいて、その「芸術」を表現する時に、「身体表現」を使うことが多いので「精神性」の純度が少し低くなるということがあるわけです。
この点、「美術」は「作品」の中に「身体性」が含まれている比率が低いので、最も「芸術」らしく見えるということなんだと思います。

あと、この記事を書いていて、もう一つ気が付いたことがあって、それは、自分が日ごろから『「パフォーマンス・アート」はどうも芸術らしく見えないんだよなぁ』と思っていたのは、「パフォーマンス・アート」が「身体表現」だということが原因だったということなんですねぇ。

さらに言うと、その「身体表現」である「パフォーマンス・アート」が、非常に「精神性の高い表現」であるかのように言われることがあるために、そこに違和感やギャップを感じていたんだと思います。

もともと、「パフォーマンス・アート」が「演劇」に含まれていれば、とくに違和感を感じなかったような気がします。


何はともあれ、「芸術」=「美術」みたいになってしまうのは、「美術作品」が「身体表現」を含まないからということで。

でも、思った通り何の役にも立たなかった。


そんな感じ。


「芸術の反転」と「社会の反転」



私には「現在の芸術」が、「芸術の本質的な姿」を見失って「反転」してしまっているように見えるわけです。
そして、その「芸術の反転」が「社会の反転」を生み出しているようにも思うわけなんですねぇ。

まぁ、「芸術の20世紀」において「芸術」が「反芸術的な方向性」を持っていた時期があったことは、多くの人が認めるところでしょうし、その「反芸術的な方向性」が、形を変えてはいても、今も続いていると言う考え方の人も居るでしょうから、「芸術の反転」ということまでだったら、同意してくれる人もそれなりに居るんだと思います。 

しかし、その「芸術の反転」が「芸術の本質的な姿」を見失った結果のことだということに成ると、かなり賛同者が少なく成ってしまうでしょうね。
なんたって、現在に至るまでの「現代美術」というジャンル全体を疑ってかからなければならなくなりますからねぇ。
まして、その上、その「芸術の反転」が「社会の反転」という現象を生み出しているということに成ると、恐らくほとんど賛同者は居なくなってしまうでしょうね。


なぜかと言えば、そんなことエライ人が言っていないからです。
まぁ、実際問題として、「エライ人が言っていないこと」に同意する人ってほとんど居ません。
「エライ人が言っていること」を批判する人は、けっこうたくさん居ると思うんですけどねぇ。

でも、「エライ人が言っていないこと」については同意しないし、「エライ人が言っていること」については批判するとなると、いったい「誰の言っていること」について同意するんでしょうねぇ。

要するに、そういう人たちは「他のエライ人が言っていること」に同意するわけです。
つまり、けっきょくみんな「エライ人の言っていること」に同意するって言うことなんですねぇ。

まぁ、「体制側」って言うことですね。
(別に「体制側」を否定しているわけではありません)
そういう人は、なんたって「体制側」ですから、やっぱり人数的にすごくたくさん居らっしゃるわけです。
それで、「エライ人が言っていないこと」に同意する人が、千人に一人くらい(オーバーじゃなくて)居たとしても、まぁ「ゴミ」です。

「ゴミ」なんて言ったら失礼なんですけどね。
(あぁ、自分か)

(別に「ゴミ」を否定しているわけではありません)
(いや、「ゴミ」をスゴク肯定しているわけでもありません)

まぁ、それくらいに『影響力が小さい』ってことです。


でも、だからこそ、「芸術」に関わっている人がそういうことをやる必要ってあると思いますよ、やっぱり。

そうでも無いですか?
又は、
どうでもいいですか?
又は、
なんで自分が?
又は、
別にプロじゃないし。
又は、
プロはそんな青臭いことは言わないんだよ!
又は、
よくわかんないんでぇ・・・

どれでも、おんなじだと思いますよ。
「体制側」にくっついていく人は「自己表現」は出来なくなると思いますね。
(別に「体制側にくっついていく人」を否定しているわけでもありません)
たとえ、それでメシが食えたとしても、そこに「芸術である意味」も「表現する意味」もなくなってしまうわけですからね。

もちろん、そう言う人が居てもいいと思いますが、そう言う人ばっかりってっていうのはどんなもんなんだろうか?と思ってしまいますねぇ。



取り敢えず、そういうわけで、「芸術の反転」と「社会の反転」について考えてみるというわけです。


まず、今の「社会」が反転しているということを感じている人ってどのくらいいるんでしょうね。
私はチョクチョクこの「社会の反転」という現象を感じることがあるんですけど、そう言うことを感じている人もそれなりに居るんじゃないでしょうか?

つまり、「正常と異常」とか「普通と特別」とかいうような両極にあるモノが、反転して入れ替わってしまっているんじゃないか?と感じることがけっこうあるわけなんです。

たとえば、「正常と異常」ですけど、いま「社会のトップ」に立っているような人の中に『この人異常だよね』というような人がかなりの数で居たりしますよね。
昔ならば、「社会のトップに立っている人たち」が「ワルイこと」をすることはあっても、「異常者?」と感じることは稀だったと思います。
でも、今はけっこう普通に居たりします。
それもかなりの「異常度」で。

どちらかと言えば、『たまたま、やや異常な方がトップに立ってしまった』というよりも、『異常なくらいじゃないとトップには成れない』という感じです。
つまり、最も社会を代表する人であるはずの「社会のトップに立っている人」こそが「異常な人」で、「社会のトップに立っている人」の中で「正常な人」を探そうとすると、むしろ意外なほど少ないというのが実体だと思うわけです。
(いつの間にこんなことに成っちゃったんでしょうね?)

要するに、そこで「社会の反転」が起きていて、「正常と異常」が逆転してしまっているわけです。
まぁ、今のところ、まだ、「異常」を「異常」と感じられているだけマシですが、この状況が続いて行けば、おそらく「異常」を「異常」と感じること自体が出来なくなって、むしろ「正常」の方を「異常」と感じて「異常」の方を「正常」と感じるように成っていくと思います。
(いや、ぜんぜん大袈裟じゃなくて!)
(というか、もうすでにそうなりつつある人もけっこう居ると思いますよ)

これは、何も「正常と異常」だけのことではなくて、いろいろなことに同じような「反転現象」が起きていると思うわけです。
「普通と特別」とか「男性と女性」とか「老人と若者」とか「大人と子供」とか、そういうありとあらゆるモノが社会の中で反転していて、非常に無理のある状態を創り出していることがしばしばあると思います。

そして、その「社会の反転現象」が「芸術の反転」に起因していると思うわけです。

でも、ここがなかなかつながらないんですねぇ。
『なんで、そこで唐突に芸術が出て来るの?』って言うことですよね?
まぁ、そうだと思います。

『芸術にそこまでの影響力は無いでしょう?』
『むしろ芸術の方が社会の影響で反芸術的な方向性を持つように成ったんじゃないの?』
みたいなことだと思います。

確かに、そういう部分もあるんでしょうが、「芸術」の潜在的な影響力は計り知れないものがあると思いますし、先に反転したのは「社会」の方ですが、先に”極端に”反転したのは「芸術」だったのは間違いないでしょう。

そして、「社会全体」がその「極端な反転」にハマり込んでしまっているわけです。
それで、「芸術」も「社会」も、その「極端な反転」から抜け出せなくなっているのが今の状態ですね。

Tシャツの表と裏をひっくり返して着てしまったようなものです。
一回脱いで、もう一度ひっくり返して着なおすしかありません。
でも、裏っ返しのまま100年も着続けてきてしまいました。
それで、「社会」にも影響が出てきてしまっているわけです。


確かに、先に反転したのは「社会」だったと思います。
19世紀あたりから、科学の進歩や絶対的な宗教観の崩壊などに端を発して、産業や社会の急激な変化がさらに加わったことによって「社会」の中に「反転現象」が発生していたのは、ほぼ間違いないことだと思います。

ただ、「社会の変化」は急激だったと思いますが、その反転現象は、その時点ではそれほど極端なモノではなく、今と比べればかなり緩やかなモノだったんじゃないかと思うわけです。
そのまま行っていれば、おそらく人間はその「緩やかな反転」をそれなりに吸収して、調整しながらその時代なりの人間に合わせたやり方で使いこなしていけるように成っていたんじゃないかと思うわけです。

 ※「社会の反転」は、もともと、昔から、いつの時代にも常に起きていたことで、
  「20世紀」だけの特別な現象ではないと思います。
  ただ、数世代にわたって、徐々にネジレながら反転していって、最終的にほぼ
  反転するが、その時点でその世代を生きている人にとって、それはあくまで数
  世代前からの緩やかな変化にすぎず、その世代の中で起きた急激な反転とは
  言えないというのが、それまでの時代における「反転現象」だったんじゃないで
  しょうか?
  つまり、「20世紀」において、「社会」や「芸術」が一世代の中で完全にひっくり
  返ってしまったことが異常なんだと思います。
  しかも、「芸術」においては、その「反転」自体が目的となってしまっていたわけ
  で、結果的に、果てしなく「反転」を繰り返すというジレンマに陥ってしまったとい
  うことなんじゃないでしょうか?
  その結果、「現在の芸術」が「自己崩壊」の道をたどっているように思うのは私
  だけなんでしょうか?


ところが、その前に「芸術の反転」が起きてしまったために、それによって「社会の反転」も極端なモノに成り、人間が吸収する時間も調整するゆとりもなくなってしまったというわけです。


どうして「芸術の反転」が「社会の反転」の原因だと思うのかと言えば、そんなに極端なことをやったのは「芸術」だけだからです。
そして、そんなに極端なことをやっても通ってしまうのも「芸術」だけだからですね。
他の分野で「芸術」がやったのと同じように極端なことをやったとしたら、みんな笑いものにするだけで誰も見向きもしなかったでしょう。


実際は、「芸術」でも初めのうちは、笑いものにされていたようなところもあったわけですが、それがいつの間にか見事に市民権を得て、100年間かけてまかり通っていく様子をマザマザと見せつけられた「社会」が、その「芸術の反転」のあまりの「極端さ」とあまりの「手品のように鮮やかな反転ぶり」に引きずり込まれて「社会の反転現象」を引き起こすに至ったのだと思うわけです。

つまり、「芸術の反転」を「社会」が肯定してしまったために、一旦、それを肯定してしまった後は、「社会」はその「自分たちの肯定」を肯定し続けるために、自分たちも「反転」せざるを得なくなってしまったわけですね。


でも、もうそろそろ、その「反転」を戻す時期なんじゃないかと思います。
つまり、裏っ返しに来ていたTシャツをもう一度ひっくり返して着なおす時が来ていると思うわけですね。
おそらく、着なおしたら、如何に今まで無理して着ていたかがわかると思いますよ。

「過激な芸術」があってもいいと思いますが、それが「過激な芸術」であるということを見失っては意味が無いと思います。
まして、「過激=当たり前」であったら「過激」である意味もなくなってしまいます。

 ※現在「アヴァンギャルドなモノ」は、ある意味「最も一般的なモノ」でもあると思います。
  それを超えようとするから「奇をてらったモノ」しか出て来られなくなるんだと思います。
  でも、それに薄々感づいている人も、それを否定できずに「奇をてらったモノ」を見る
  たびに『これ、オモシロイね!』と言い続けています。
  なぜなら、そこに疑問を呈した人は「芸術の世界」から、外れていくことに成るわけです
  から。

そういうのを「自由」と言っているのは間違いだと思いますよ。
「自由」に成ればなるほど人間が拘束されたり抑圧されたりするのはオカシイでしょ?
「自由と不自由の反転」なんていらないですね。

そんなものを「芸術」が生み出してしまっては「芸術」である意味が無いでしょ?


そんな風に思うわけなのです。





「全員参加のテロリズム」:「被害者」は居ない



「テロリズム」は良くないということに成っていますが、もしも「被害者がいないテロリズム」があったら、それでもやっぱり「テロ」は悪いことなんでしょうか?
というか、そもそも「テロ」が悪いのは「道理」の問題なんでしょうか?それとも「実害」の問題なんでしょうか?


まぁ、「善悪」ってもの自体が「実害」から発生しているとも言えるし、「実害」なんかよりも遥かに根源的な「善悪の規準」があって(たとえば「宗教的な道徳」などですね)、それに基づいて「善悪」が決まっていると言う考え方の人も居るでしょうから、そこに話を持っていくと、いつまでたっても抜け出せなくなりそうなので、不本意ながらそこは飛ばします。


取り敢えず、「全員参加のテロリズム」と言うモノが想定できるのか?ということを考えてみたわけです。

つまり、社会的な「常識」とか「「権威」とか「道徳」とか「序列」とかと言った「既成概念」を、やや力ずくな感じで覆すときに、その「テロ」にみんなが参加した場合は、「被害者」は居なく成るわけです。

『なに言ってるんだ、全員が参加したら相手がいないだろ!』

いや、「相手」は「人間」ではなく「社会」なんです。
私は、「社会」には「人間の意思」とは別の「社会の意思」があると思っているんですねぇ。
だから、「人間」が「社会」に対抗して何かを行う時に、必ずしも「相手」が「人間」であるとは限らないと思うわけです。

「常識」や「権威」などのように、いつの間にか社会の中に出来上がってしまって「定理」のように流通してしまっている「既成概念」というものは、その「概念」が出来る過程の時期までは「人間の行為」であったはずですが、それが「定説化」して「絶対法則」のように成ってしまった後は、もう、そこに必ずしも「人間の意思」が関わっていなくても遂行されていくわけで、「人間」は「自分の意思」でそれを行っているというよりは「社会の意思」に従ってそれを『やらされている』と言うべきだと思いますね。

だから、そういう強固に出来上がてしまった「既成概念」から抜け出そうとする場合は、「人間同士」がつぶし合って「同士討ち」に成ってしまっては上手くいかないわけで、大多数の人がそこに「テロリスト」として参加して「社会の意思」を打倒するというのが一番手っ取り早いわけです。

まぁ、そんなことから「全員参加のテロリズム」:「被害者は居ない」ということを言ってみたわけです。

こう言う考え方で「テロ」という言葉を捉えていけば、もしかすると、今行われているような本当に暴力的で破壊的な「テロ」って言うモノは無くなっていくかもしれません。


ハッキリ言って、今行われている「テロ」が自滅的な行為であることは「テロリスト自身」が一番よくわかっていると思います。
それでも「テロ」を行うのは、それぞれに切迫した事情があるんでしょうが、今のやり方じゃドンドン賛同者が少なく成って行って、最終的には必ず自滅していくことにしかなりません。
しかも「被害者」が出ます。

今の「テロリズム」の致命的な欠陥は、人間同士が「同士討ち」をやってしまっているところです。
「人間VS社会」の形で「テロ」を起こさないと「テロ」が成果を上げることはありません。
しかも、ほとんど「被害者」が出ません。
「被害」を受けるのは「人間」ではなく「社会」ですから。
しかし、「社会」は「秩序」や「規則」に過ぎませんから、変化しても誰も「被害」を受けることは無いわけです。
ただ単に「無秩序」に成らなければいいわけですから、「人間にとって都合のいい秩序」を設定した方がトクですね。


そして実を言うと、「芸術の20世紀」が行ったことが、人類の歴史の中で最もこれに近いことだったんじゃないかと思うわけです。
つまり、「芸術の20世紀」は、一種の「非暴力的なテロ行為」であって、「既成概念の破壊」であったということですね。

でも、いろんなところがチョットづつズレちゃったんだと思います。
惜しかったですねぇ。
非暴力的ではあったと思いますが、賛同者が少ないうちに急激に進めたために、結果的に「同士討ち」になってしまいました。

そして、たまたまその「同士討ち」に勝った者が「芸術の世界」の中で主導的な立ち場を得ることに成り、そういう人たちの言ったことが「新たな既成概念」と成ってしまったわけです。


それで、今でもいろいろズレたままなので、「芸術」においても「社会」においても、いまだに「力ずくのテロリズム」が無くなりません。

だったら、この「全員参加のテロリズム」と言う考え方があれば、そこのところが少し良くなるんじゃないのかなと。


現在の「多数決型のデモクラシー(民主主義)」じゃもうダメだと思いますよ。
だって、そこで「多数決」に参加しているのは「人間の意思」ではなく「社会の意思」ですから。

「社会」は「体制」ですから「多数決」においては常勝です。
「個人」は問題外ですね。
だから、「個人=人間」が喜ぶようにするには「社会の意思」を打倒しなければならないわけで、それには「テロリズム」的な手法が必要に成るというわけです。
なにせ相手が「体制」ですから、それを圧倒しなければならないわけですから、でも「被害者」は出したくないわけですから。

そうなると、やっぱり「全員参加のテロリズム」なんじゃないの? 
「被害者」も出ないわけだし。
「ニュータイプの革命」ってことで。
いいんじゃないの?


そんな風に思ったわけですね。



「幻想に触れること」によるストレス



私は、現在「芸術であること」と「幻想であること」はほとんど同じようなことなんじゃないか?と思っているわけなんですが、その「芸術≒幻想」を創作することや鑑賞することは「ある種のストレス」を伴うことがあると思うわけです。
つまり、「芸術≒幻想」は、それに触れる人間にとっての「快楽」でもあり「癒し」でもあると同時に、「一種の負担」でもあるということですね。

そして、そのことによって、本当の「芸術」に近づかなくなってしまう人がすごく多いような気がしているわけです。
つまり、「心地よいモノ」というキーワードだけで検索していってしまうと「いい作品」に出会うことは出来ても「本当の作品」に出会う機会は極めて少なく成ってしまうということです。
「負担」であるわけですから、当然、「心地よい」というキーワードから探していけば、『これはチガウだろう』ということに成るわけですね。


これは「芸術」が中心的な課題として「自己表現」を追求するように成った時からのことだと思うわけです。
「作者にとっての自己表現」は「鑑賞者にとっての他者」に成りますから、当然違和感を伴うわけですが、その「自分の中には無かったモノとの出会い」こそが、「現在形の芸術の意味」なんだと思いますので、その「違和感」を避けることは出来ないんだと思うわけです。

そこで、「鑑賞者」にとって「心地よい他者」と「心地よくない他者」が居て、その「心地よい他者=共感できる創作者」こそが「鑑賞者」にとっての「すばらしい創作者」であって、そういう「すばらしい他者」との出会いこそが、「鑑賞者」の「すばらしい芸術」との出会いであると思うのは、現時点では間違いだと思います。

と言うか、昔の「究極的な美しさを求める芸術」という考え方が残ってしまっていると思いますね。
今は、そういう一元的な意味での「美しさ」を求めることは出来なくなってしまっているわけで、もしも、そういう「一辺倒な美しさ」を求めて鑑賞するのであれば、「古典芸術」を見続けるしかないんだと思います。


一見すると「心地よい人」に見える人でも、それは表面上の体裁だけで、その人の「本当の姿」というのは他人にとっては必ず「心地よくないモノ」を含んでいるわけで、その人がその人であればあるほど「違和感」を感じるものだと思います。

そして、その「他者との間の違和感」こそが、「現在の芸術」の持っている最も大きな意味だと思います。
だからこそ、それを美しいと感じるんだと思うわけですね。

逆に言えば、「違和感のない心地よい他者」であっては「芸術表現としての他者」である意味が薄くなってしまうわけです。

少なくとも、「現在の芸術」においては、ということですね。
現在、「芸術が置かれている位置」が、「そういう位置」なわけですから、それは個人ではどうすることもできないことだと思います。

つまり、今は、「心地よくない他者との出会い」と言う「違和感」と対峙することが、「鑑賞者」に求められているということですね。
これは、「現在の芸術」が求めていることなので、そう簡単には変えられないことだと思います。

 ※これは「音の共鳴作用」などと同じようなモノで、ちがう音の組み合わせから「共鳴」
  が生まれるように、自分とは異なる「他者」と直面することから「共感」や「感動」が生ま
  れるわけです。
  まったく同じような精神から受けられるものは「同情」や「同感」だけで、それ以上に相
  乗的な効果は期待できないんだと思うわけです。
  つまり、それは「音」で言えば音量が大きくなるだけですし、「精神作用」で言えば「みん
  なと同じであること」が安心なだけです。
  そういうものがあってもいいとは思いますが、「現在の芸術」はその場所にはないと思い
  いますね。

 ※また、既に評価が確立している有名な作品に対して「違和感」を感じる人が少ないのは、
  鑑賞者が「違和感」を感じる前にその作品や作者が情報として刷り込まれているからであ
  って、その時点でそれは「純然たる他者」ではなくなっているからだと思います。

「心地よい人」というのは、どこかで『相手に合わせている』ということだと思います。
「相手に合わせること」が悪いということではありませんが、少なくとも、「芸術」を「自己表現」であると考えるならば、「鑑賞者」との間の「共通言語」を探すのではなく、「創作者のオリジナル言語」を何とか伝えようとすることが必要なんじゃないかと思うわけですね。
(はっきり言うと、「オリジナル言語」はほとんど伝わらないと思いますけど、それでもそれを続けることに意味を見出せるのか?ということじゃないでしょうか)


だから、「現在形の芸術」を「本当の芸術」として鑑賞したいと思うのであれば、「心地よいモノ」とはむしろ反対の「どこか神経を逆なでされるようなモノ」とか「心がざわざわするようなモノ」とか、もっと言えば「ものすごくイライラするモノ」のような、見る人の心に「負担を加えて来るようなモノを、敢えてチョイスして行く必要が出てくるわけです。

そう言うモノこそが「芸術≒幻想」であるモノなんだと思うわけです。

「幻想の世界」は、なんと言っても「異世界」ですから、それ相当の抵抗感があるわけで、そこに入って行くのにもその中に居続けるのにもある程度の「負担」がかかるわけですし、また、そこから「日常世界」に戻るのにもある程度の「負担」を強いられることに成るわけです。

でも、これは何も「芸術≒幻想」に限ったことではなく、「リクリエーション」と言われるものは、だいたい何らかの「負担」を必要とすることが多いと思います。
そして、その「負担」を負ったことによって、「疲労」するのではなく「カタルシス」と言われるような「精神的解放感」が生み出されることを「リクリエーション」というんじゃないでしょうか?

『なんで、わざわざ「いやなモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言われそうですが、そう言うことではありません。
しかし、「カタルシス」という言葉は、もともと「悲劇」などを見た人が感じる「ある種の解放感」による「浄化作用」をそう呼んだようですから、やはり「喜劇」からは得られない効果がそこにあったんだと思います。
でも、そこで『なんで、わざわざ「悲しいモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言ってしまえば「カタルシス」は得られません。

それに「悲劇」の中にも悲しいだけではなく、「美しい悲しさの悲劇」もあれば「「単なるお涙頂戴的な悲劇」もあるわけで、そこから先は「鑑賞者」の独自の規準で吟味していけばいいことだと思うわけです。

現在の芸術鑑賞は非常にエキセントリックな方向の人(変わったものが好きな人)と、非常にオーセンティックな方向の人(王道的なモノが好きな人)に分かれてしまっていて、エキセントリックな人は、ただただ目新しいモノだけを見つけようとしますし、オーセンティックな人の方は、判で押したように既に決まっている評価に基づいて「芸術」を判断してしまいます。
それだと、どちらも「カタルシス」を得ることは出来ないような気がするわけです。
エキセントリックな人は、いつの間にかいつもいつも「喜劇」だけを見ていたりするわけですし、オーセンティックな人はいつの間にか「感動」や「浄化作用」とは無関係に「定番」だけを繰り返し見続けることに成っていたりします。

そこは一つ、ちょっとだけ「負担」を負って、その「異世界」に入って見て、そこから「鑑賞者」としての自分の「独自の観点」で鑑賞してみてはいかがでしょうか?と思うわけですねぇ。

そういう見方をしてみると、『もう「有名な作品」なんて見ている時間無いよ』と思う人も出て来るんじゃないかなと思うんですけど、どうなんでしょうか?

まぁ、そんなわけで、「芸術≒幻想」な作品を探すという「芸術の見方」も試してみてもいいんじゃないのかなと。
(探せばけっこうありますが、探さないと出会う機会が少ないですからね)


そんな風に思ったわけです。




『芸術の終わりを楽しもうじゃないか!100年でも200年でもかけて』という発想



このブログを始める前は、そんなことぜんぜん考えていなかったんですけど、今、私の中には『芸術って終わりかけてるんじゃないか?』と言う考えが、わりとはっきりした形であるわけなんですねぇ。
つまり、『もしかすると、大多数の人にとっては、もう芸術なんて必要ないんじゃないの?』と思うことがドンドン増えてきているわけです。

 ※これは、あくまで「仮想」の話です。
  決して『芸術が終わりに向かっている』という確信があるわけではなく、また、『そ
  こを目指していこう!』ということでもありません。
  ただ、現在の時代に生きている限りで、「芸術」が人間に貢献しているという実感
  を持てるような機会があまりにも少ないということです。
  
  実際には「芸術」は人間に対してとても大きな影響を与えていると思いますが、そ
  れが目に見えない影響であることが多いので、見過ごされてしまうんでしょうね。
  それで、「芸術の必要性を実感している人」が少なくなっているんだと思います。
  そして、その「少ない人たち」がほとんど「創作者」に成ろうとしてしまうので、「鑑
  賞者」の中には「芸術を必要としている人」がほとんど居なくなってしまうということ
  なんじゃないでしょうか?
  (「芸術の必要性」を感じている人は「創作者」に成ろうとすることが多いですし、
  「創作者」に成らなかった場合でも「創作者の視点」で鑑賞しますから純粋な鑑
  賞者には成らないことが多いと思います)


もともと「芸術」と言うモノ自体が、必ずしも必要があって発生してきたものではなく、むしろ「必要が満たされた後の必要性」みたいなジャンルであるわけで、そこへもってきて、「現代」が「感動」を求めない時代に成って来ているわけですから、さらにその「必要性」は間違いなく極薄な状態に成って来ているわけです。

 ※これについてはいろいろな考え方の人が居るでしょうが、少なくとも、「芸術」
  が無くても大半の人が生きてはいけます。
  それに、私は美術展などで「感動に打ち震えている人」を一度も見たことがあり
  ません。
  今の時代、そう言う人を見たとしても『わざとらしい』と思ってしまうような気もしま
  す。
  要するに、「いま」がそういう時代なんだと思います。
  でも、本来「芸術」って「感動に打ち震える」ようなそういうジャンルだったんだと思
  いますし、今でも、そうであるハズなんじゃないかなと思うわけですね。


そんな中でも「芸術」が今すぐに無くなってしまうことはないんでしょうが、はたして、それが「惰性」で続いているのか?それとも、ハッキリした「意味」を持って存続しているのか?が、やや怪しくなってきているわけです。
もしも「惰性」だけで続いているんだとしたら、実体としては『終わっている』ということに成ってしまうわけです。


私は『「芸術の20世紀」にはあまりにも矛盾が多すぎたんじゃないだろうか?』ということから「芸術の20世紀喪失」と言う考えに至ったわけですが、これは逆に考えると「芸術の20世紀」がおこなった「芸術の破壊」が現在の「芸術の終わり」を予見していたものであったとも考えられることで、そう考えれば、「芸術の20世紀」が生み出したすべての矛盾に、まったく反対方向からの整合性が出てくるわけです。

そうなると、一転して、すべてのことが「芸術の終わり」に向けて着々と進んでいるということで、なんの矛盾も無いと言えなくもないわけで、あとはそこに「美しい終わり」があれば『申し分ない!』ということになるわけです。

まぁ、そう言うことで、『もしも、「芸術」が終わりに向かっているとしたら』という前提でいろいろと考えてみると、どうせ「終わり」に向かっているならば、『それを楽しもうじゃないか?』と言う発想に至ったというわけです。
『しかも、100年でも200年でもかけて』
(すでに100年くらいは過ぎちゃってますけど)

まぁ、やっぱり、「芸術」ぐらいのメジャーなジャンルが無くなってしまうということに成るんであれば、せめて美しく終わるところを見たいじゃないですか?
「散り際の美しさ」って言うんですか?
まして「芸術」ですから、さぞ美しい「終わり」を見せてくれるんじゃないかと期待も高く成るわけですよね。
だったら、長い方がいいじゃないか、100年と言わず200年でも300年でも、行けるとこまで行っちゃってください!ということです。

と言っても200年とか300年も先のことだと、もう自分の生きている間のことでも無いわけですから、自分のやることにはあまり影響がないんですけどね。
でも、やっぱり「終わりに向かっていると思いながらやること」と「前に向かっていると思いながらやること」は意味が違ってくるわけですから、そこの所を意識して見るのもいいのかも知れないなと思ったというわけなのです。

で、いろいろ考えたんですが(20分くらいかけて)、けっきょく、今やってることと同じような答えしか出てきませんでした。
所詮、同じ人間なんで、『芸術の終わりを楽しもう!』と言ってみたところで、ほとんど同じようなことしか思いつきませんねぇ。
要するに、それでもやっぱり「いまの芸術の在り様」には受け入れがたいものがあるわけで、けっきょく「疑問」が消えるわけでもないということですね。


取り敢えず、『そう言うことも一応視野に入れていこうかな』と、そう言うことですけどね。
そんな風に思ったわけなのです。




「幸福」は「感覚」ではなく「論理」なんじゃないか?



「幸福」って「感覚的なモノ」だと思っていて、疑ったことが無かったんですけど、この前ふと思ったのは『幸福ってホントは論理的なモノなんじゃないの?』ということなんですね。

たとえば、二人の子供が居る時に、二人とも「同じ食べ物」をもらえば二人の「幸福」はほぼ同じに成りますが、もらえる「食べ物の量」に差があった場合は、少なかった方の子は「不幸」で、多くもらった子が「幸福」に成るわけです。
(まぁ、単純に言うとっていうことですけどね。以下同様に)

これは、「二人前の食べ物」を二人で分ける時の話ですが、「三人分の食べ物」がある場合はどうなるでしょう?

「三人分の食べ物」を一人の子には「二人前」もう一人の子には「一人前」与えた場合は、「一人前」もらった方の子もお腹をいっぱいにするには十分です。
「二人前」もらった方の子は「一人前」残すだけで、大したトクもありません。

それなのに、おそらくは、それでもやっぱり「多くもらった子」は「幸福」に成り「少なくもらった子」は「不幸」に成るわけです。
というよりも、「二人前」を分けたときの「幸福や不幸」よりも、「三人前」を分けたときの「幸福や不幸」の方が大きいこともあると思うわけです。

「二人前」の時の「幸福や不幸」は「動物としての幸福や不幸」ですが、「三人前」の時の「幸福や不幸」は「人間としての幸福や不幸」です。
でも、「幸福や不幸」自体が「人間的なモノ」だと思いますから、「人間としての幸福や不幸」の方を大きく感じるわけですね。
(と言っても人間も動物ですから、どっちもどっちなわけですけどね)

まぁ、こういうのが「幸福」を「感覚的なモノ」だと思う理由なんだと思います。
つまり、実質的な価値とか物質的なソントクと必ずしも関係なく「幸福や不幸」が「感じ方」で決まっているわけですね。

『お腹が減っていて不幸だ』というのも「感覚」ですし、『お腹」いっぱいで幸福だ』と言うのも「感覚」です。
それと同じように、『自分の方が多くもらえて幸福だ』というのも「感覚」で、『自分の方が少なくて不幸だ』と思うのも「感覚」です。
「動物的な感覚」と「人間的な感覚」ということに成るわけです。

と、ここまでは「幸福」=「感覚」ということに成るわけなんですが、でも、人間にはその先があります。
つまり、それが「論理」ということに成るわけですね。

例えば、「三人分」のうち「二人前」をもらった子が、もう一人の子に『これ余ってるんだけど、キミもう少し食べるかい?』と聞いた場合、聞かれた方の子はきっと「幸福」が増えるんじゃないかと思います。
「一人前でお腹いっぱいに成った幸福」だけだったのが、「思いやり」という「人間的な幸福」ももらったわけですから。

でも、実はもっと「幸福」が増えるのは『もう少し食べるかい?』と聞いた方の子なんです。
自分の食べる分がキープされている状況で、人に分け与えることが出来るというのは、とても「幸福」なことなんだと思います。
要するに、人間にとって『人の役に立ちたい』っていう気持ちが最も大きい「幸福のモト」なんじゃないかと思うわけです。


たとえば、人間が仕事に生きがいを見出すのも『人の役に立ちたい』ということの表れだと思いますし、スポーツでも勉学でもほとんどのことが『人の役に立ちたい』ということの現れなんじゃないかと思います。

つまり、「幸福」は「人間的な幸福」に成ればなるほど「奉仕的」に成って行くんだと思うわけですね。
「欲求」が満たされるだけだと、「動物的な幸福」は得られても「人間的な幸福」は得られません。
「人間的な幸福」は、どこかに「奉仕」や「献身」という「一種の犠牲」を求められるものなのかも知れませんね。

上の子供たちの例では「犠牲」が無い状況なわけですが、そこを追求していけば、最終的に自分はソンをしてでも「奉仕」や「献身」をして「幸福」を得ようということに成るわけです。

つまり、「得ること」によって「幸福」に成っていたはずなのに、「人間的な幸福」を追っていくと、「失うこと」でしか「それ以上の幸福」が得られなくなるというターニング・ポイントがあるんだと思います。

そして、そのポイントが「感覚」と「論理」が入れ替わるポイントでもあるということですね。

つまり、「感覚」によって「幸福」を感じ取るというよりも、「論理」によって「幸福」を理解する必要が出て来るんだと思います。
「感覚」で感じる部分だけだと失ったモノを『惜しい』と思ってしまいますから「幸福」に成り切れないわけですね。
だから、「論理」によって「失った物質」よりも「得られた幸福」の方が大きいんだと理解する必要があるわけです。

ということで、「人間の幸福」は、時に「論理」でもあるのかなと。

そんな風に思ったわけなのです。
役には立ちません。        
                           


「長い題」=詩のような題(その11)



「長い題」=詩のような題(その11)です。

『これって絵の題なんですか?』

「絵の題なんです!」

・・・・的な?感じで、「長い題」=詩のような題(その11)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
二か所あるものもあります。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『かがやきの せかい』

しきさいと こうたくが しはいする 
この さんらんする ひかりの せかいでは
あかるさは なんのいみも もたない

しろは しろに すぎず
くろは くろに あまんじるしかない

ここは まさに しきさいと こうたくが しはいする
かがやきの せかい なのだから

ほかのものが いみを もつことは いっさい ゆるされず
すべてが かがやきの ために
ぜんめんてきに ほうしさせられることに なるのだ

この はんきょうする ひかりが じゅうまんする せかいが
しきさいと こうたくのみによって 
きずきあげられ しはいされて いることには

なんの りゆうも ひつようないのである

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ぼくたちには じゆうが あたえられた
すくなくとも ぼくたちは それを じゆうだと おもうことが できる

だったら それを つかってみよう
こころの じゆうを つかってみよう

じゆうとは なにものにも しばられず
じゆうとは なにものにも たよらずに
じゆうとは ただ あてもなく ちゅうに ただよいつづけること

つまりは じゆうとは
なんの よりどころも なく
むじゅうりょくの くうかんに ほうりだされる ということだ

どんなに ひっしで もがいても
どんなに れいせいに かんがえても
できることは なんにもない

そんな なかでこそ ちからを つかって かんがえつづけよう 
たのしく

そんな なかでこそ いっしょうけんめい もがきつづけよう 
よろこんで

それが 『じゆうの つかいかた』

それが せかいを うごかす ことは ないけれど
でも それが ひとの こころを うごかしている
ただひとつの ちからなのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『やみに およぐ』

くらやみに およぐ いきものに かおは ない

めは ひつようない
どうせ なにも みえないのだから

はなも いらない
そこに においなど ないのだから

みみが やくに たつことも ない
その おとのない せかいでは

いや じつは そこに ひかりや おとが ないわけではない
そう じつをいえば 
そこは あかるく はなやかな せかい

そうそう じつをいうなら 
くらやみは かおのない いきものの うちに ある

みたくないから みようとしない
みようとしないと みえなく なって
みえなく なると めが なくなる

やがて かおの すべてを うしなって
かおだった ところの うちがわに
まっくらやみが できあがる


なんと かなしいことに
かおのない いきものが みたくなかったのは
その じぶんの なかの くらやみの せかい

そのために かおを うしなって
くらやみを およぎつづけている

ただ めを ひらいて みるだけで よかったのに


さて この あわれな じぶんの すがたを
ぼくたちは みつめることが できるだろうか

ずっと とじてきた このめを いま はじめて みひらいて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

やくそくする
ぼくは きみに やくそくする

どんなときにも きまじめであることを

ぼくは いついかなるときにも 
きまじめに いき
きまじめに かんがえ
きまじめに かたり
きまじめに こうどうすることを
きみに やくそくする

つまりは
きみを いちずに あいし
きみの すべてを うけいれ

きみに すべてを ささげることを
いま ぼくは きみに やくそくする 

きみが だれであっても それは いっこうに かまわない

いま ぼくが きみと よんでいるのは 
このせかい すべての ことだから

それじゃないと このやくそくを まもることは できないし
それならば このやくそくは かならず まもられることになる

だからこそ ぼくは このせかいに たいして 
『いつも いっしょうけんめいに いきる ということを やくそくして いるんです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・的な?







プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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