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「人間の認識」はかなり幅が狭い



人間の「認識の幅」って、『実に狭いよなぁ』と思うことがチョクチョクあるわけです。
(もちろん、自分も含めて『実に狭い!』と思います)


たとえば「抽象画」を見た人は10人中9人までが『これは、いったいナニ??』っていう反応をしますし(私も他人の抽象画を見てそういう反応をすることがあります)、「抽象画」であることをわかった上で、敢えて『ここは顔ですね?』とか『ここに動物が描かれてますよね?』とか言う感じで、力づくで「具象サイド」に位置づけてしまう人もけっこう多いと思うわけです。
(こちらは、私の場合、あまりないんですが、ただ、一度「ナニカ」に見えてしまうと、その後はその「ナニカ」にしか見えなくなってしまって、「抽象画」として見ることが出来なくなるということは時々あります)
(同じ抽象画でも、その人が既に見たことがあるタイプの抽象画だと『ナニ?』っていう反応が弱くなりますけどね)

そういう見方がワルイということではないんですが、せっかく「抽象画」を見るなら「抽象」の部分を見ないと、それが「抽象画」である意味が無くなってしまうわけですから、どうせだったら「抽象画」として見た方がオトクなんじゃないかと思うわけですね。

まぁ、いずれにしても、「人間の認識」なんて所詮その程度のものなのかも知れませんから、仕方ないことだとは思うんですけど、その辺を少しでも何とかできないもんなのかと思うわけなのです。


例えばの話、丸いものに目が付いているだけでも、それは人間または動物として認識されてしまいますし、それ以外のものとして認識することはほとんど不可能に近いというくらいにむずかしくなってしまいます。
植物なんかでも、いくらデタラメな線を適当に書いてあっても、そこに「これはたぶん花だなというモノ」を描いただけで、ほとんどの人がそれを「植物」としてしか認識できなく成ってしまうわけです。
まぁ、要するに、それぐらい「人間の認識の幅」は狭いということなんだと思いますね。

そうなると、その「狭い認識」からチョットでも外れたものは『きわめて認識されにくい』ということに成ってしまうわけです。

しかし、その「狭い認識」こそが「既成概念」で創り出されているわけですから、そこからは逃れたいわけで、それでないと「既成概念」の言うなりに成るしかないということがあるわけですから、やっぱり、そういう「狭い認識」を外れたもう少し自由なモノを生み出したいという気持ちが出てくるわけです。

「抽象表現」を使っている人の多くはそういう気持ちを持っていると思うわけですが、「人間の認識の幅」に合わせれば「既成概念」に従うことに成るし、「人間の認識の幅」から外れれば人に認識してもらえなく成ってしまいます。
かと言って、「認識できないモノ」を無理にわかってほしいというわけでもないので、どうしていいのかわからなくなってしまうわけですね。
困ったもんです。

要するに、行き詰ってしまうわけですね。
でも、そこの所を少しだけ大目に見てあげて、『目標だけをそこに置いておけばいいじゃないか?』と考えれば、すべてのことが楽になります。
創作する側の目標は「既成概念から逃れつつ人に認識できるようなモノを創作すること」です。
鑑賞する側の目標は「自分の認識から外れた表現を認識するために、認識の幅を少しでも広げること」です。

たぶん、どちらも困難なことでしょうが、「目標」としてそういうことが、そこに置かれていることに意味があると思うわけです。

「目標」があることで、そこに向かうことが出来るようになります。
「目標」が無ければ、どこへ向かっていいかもわかりませんが、「目標」があれば方向だけは決められるわけです。

「達成感のない作業」というのは決して楽なモノではありませんが、そこに「意味」はあります。
その「意味」が少しだけ「芸術」を楽にしてくれるわけです。

そんな中で、「創作者」と「鑑賞者」がそれぞれの「目標」をもって対峙することが出来れば、それはそれで、なかなか幸せなことなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。



「依存性の時代」



現在の時代は「依存性の時代」でもあると思うわけです。

おそらく、かなりの数の人がナニカに依存していると思うわけですねぇ。
というか、「依存」から完全に逃れられている人なんているんだろうか?と思ってしまいますね。

もちろん、「薬物依存」や「アルコール依存」のようなキケンな物質に対する病気としての「依存症」に陥ってしまっている人は、少数派だと思いますが、一見すると安全そうなものや行為に対して「依存」している人まで含めれば、ほとんどの人がナニカには依存していると言っても決して言い過ぎではないような気がしますね。

要するに「現在」という時代が「依存」を産みやすい状態なんだと思います。
「現在の社会」で、「依存」を完全に捨てようとすると「現在社会から得られる恩恵」の大部分を失ってしまうような構造に成っているということですね。
だから、なかなか捨てられません。

まぁ、一言で言って「依存」の対象に成っているモノが、ほとんど「文明」や「文化」に属しているわけで、それらのすべてを捨てるということは「現在の社会」から逸脱することに成るわけですし、「社会」が提供している「恩恵」をほとんど受けられないくなるということです。

基本的に、人間は「いいモノ」に依存してしまう性質があるんでしょうね。
逆に、「悪いモノ」には依存しにくいです。
(「薬物」などは、むしろ例外的なモノだと思いますよ)

「いいモノ」に依存するならばいいじゃないかということもあるわけですが、実は「いいモノ」だったモノでも「依存」によって「悪いモノ」に変わってしまうことが多いので、けっきょくヨクナイわけです。

これ、「依存しているモノ」が悪いと考えるか、それとも「依存自体」が悪いと考えるかでだいぶ違ってくるわけですけど、実際には、どんなに「いいモノ」でも、「依存性」が強くなった場合は必ず問題が出て来ると思いますし、今も言ったように「悪いモノ」には依存しにくいと思いますから、「依存しているモノ」が悪いことはむしろ稀で、「いいモノ」であるはずのモノが「依存」によって弊害を生み出すように成ることがとても多いということだと思うわけです。

 ※「薬物」や「アルコール」などの「体に悪そうなモノ」や「道徳的・法律
  的にも悪そうなモノ」も、元をたどれば「薬」だったり「百薬の長」だった
  りということなわけで、実を言えば「依存」によって「ワルイモノ」に成っ
  ていると言った方がいいのかも知れません。


さて、そんな中で、「現在社会からの恩恵」だけは受け取って、「依存の弊害」は避けるような方法は無いだろうかと考えるわけです。
『そんなウマイ話があるわけないだろ!』
まぁ、そうですよね。

でも、この「現在」という時代の状況が、非常に「依存」を生み出しやすい状況で、その状況から逃れられる人はほとんどいないということを意識することで、少しだけマシに成るところはあるんじゃないかと思うわけです。


「ネット依存」や「スマホ依存」などの例を出すまでもなく、「文明」と言われているモノには全体的に「依存」の対象に成りやすい性質があると思いますし、「文明」がダメなら「文化」は安全かと思えばそうでもなくて、例えば「オタク」は「一種の文化」だと思いますが「一種の依存」でもあると思いますから、一概に「文化」が「依存圏外」でもないと思います。
(こういうのは「宗教」や「スピリチュアル」など例を挙げたらきりがないですよね)

つまり、「安全圏」にあるモノなんて無いわけで、ありとあらゆるものが「依存」の対象に成り得ますし、「いいモノ」であればあるほど「依存」してしまうということも言えるわけです。
(当然、「芸術」なんかも「依存」の「圏内」だと思います)

でも、そう言うことを意識したうえで、「文明」や「文化」と付き合っていくと、ある程度までは「依存」を遠ざけておくことが出来るような気がするわけです。

あとは、「依存」しそうなものに対して「障害物」を設定するという方法がけっこう有効だと思います。
つまり、「不便」にするわけです。

「依存」するモノって、たいてい「楽ちん」なんですね。
だから、ついつい抜け出せなくなって、気が付いたときには「依存」にハマっています。

 ※これなんかも「現在」が「依存を産みやすい社会」に成っている
  原因の一つだと思います。
  文明の中でも新しいものほど安直で便利なわけですから、当然そ
  うなるということですね。

そこの所を、敢えて「不便」にしてやれば、メンドクサイので「依存」しにくく成るわけですね。
と言っても、これはあくまで予防的な話で、すでに「依存症」になってしまっている人はそんなことじゃ抜け出せないと思いますけど。

なんか、完全にとりとめのない話になってしまいましたが、
そんな風に思いました。




「芸術を好みで判断すること」について



「芸術の判断基準」については、いろいろな意見の方がいるでしょうが、一番ポピュラ―なのは「好み」で判断するということだと思います。
たとえば、「好み」以外の基準を持っている人でも「好み」も重要な基準の一つには入っていると言う人がほとんどだと思うわけです。

まぁ、『好きなモノを見る』というのは当然のことですし、『嫌いなモノは見ない』というのも当然のことではあります。
でも、そこで敢えて言いたいわけです。
『芸術を「好み」で判断する時代は終わっていくだろう』と。


どうしてそんなことを言うかと言えば、「芸術」を「好み」で判断するということは、実は「一種の差別的なこと」であると思うからです。
(あくまで一番極端な言い方をすれば、ということです)

「芸術」が作者の自己表現であるとするならば、その「芸術」を「好み」で判断するということは「その人」のすべてを「好み」で判断してしまうということであるわけです。
つまり、「嫌いな作品」については「作者の人格」も含めて低く見ることに成りますし、「好きな作品」については「作者自身」をも高く評価することにつながるわけです。

たとえ、鑑賞者の側に「その人」自体を低く扱っているつもりが無くても、「その人の自己表現」を低いモノとして扱ってしまえば、「その扱い」を受けた側の人にとっては、結果的に自分自身が低い扱いを受けたのとほとんど同じことに成ってしまうわけですね。
そういう「具体的な基準」のない判断で人を断じてしまって『なにが悪いってんだよ!』と開き直ることを「差別」と言うんだと思います。
だから、それと同じように『芸術ぐらい好みで判断しちゃいけねぇーってのかよ!?』というのも「差別的なこと」だと思うわけですねぇ。
(あくまで一番極端な言い方をすれば、ということです)

ただ、これは誰でもやっていることですし、「嫌いな人」を敢えて高く評価する人なんていませんが、たとえば、職場の上司が部下に対してそれと同じことをすれば、問題が出て来るのも事実です。

まぁ、「エコヒイキ」って言うことに成るわけですね。
上司に嫌われた部下は、いくら真面目に働いても評価されませんし、気に入られた部下はサボっていてもたくさんボーナスがもらえるわけです。
そうなったときには、必ずその職場は腐って行ってしまうのも間違いないことじゃないかと思いますし、それでは、上司も気に入られた部下も腐り果てて行くわけですから、誰のトクにも成らないわけです。
(まぁ、ソントク以前の問題ですけどね)

でも、「芸術」においては、これと同じことが最もスタンダードなことに成っているということですね。
そういうのを「一種の差別的なこと」なんじゃないかな?と思ってしまうわけなのです。
(しつこいようですが、あくまで一番極端な言い方をすれば、ということです)

まぁ、それはともかく、個人的には何かしらの基準はあってもいいんじゃないかなと思っているわけです。


そもそも、どうして「芸術」は極端に「好み」に偏った判断をされるように成ったんでしょう?

おそらく、昔の時代には「技術」が最も有力な「芸術の判断基準」だったんだと思います。
でも、その「技術」が行きつく所まで行って、行き詰ってしまったことで、そこからは「技術」を基準にすることが出来なくなってしまったわけです。

ところが、その後、具体的な「芸術の判断基準」が提示されることは無く、それどころか「芸術」自体も規定されなかったために、何の指標もなく成ってしまったということです。
まぁ、それで仕方なく「好み」というすべての人に平等な基準が、一応スタンダードということに成っているわけです。
(実を言えば「好み」自体が情報で歪められているので平等ではないんですけどね)

「好み」が判断に影響するのは当たり前ですが、それと「好み」を判断の中心に置いてしまうということとは全く違うことだと思いますよ。
職場の上司の話で言えば、その上司が部下に対して客観的な査定を下したうえで、上司の「好み」で最後のちょっとした差が出るのは致し方ないことだと思います。
人間がやってることですから。

問題は、その上司が、その「自分の好みによる差」を小さくしようとしているのか、それともそんなことにはお構いなしに「好み」で判断してしまって『なんか文句でもあんのか?』と言っているのかということです。

つまり、現在、「芸術」においては「査定」に当たる部分が全く抜けているわけですね。
昔は「技術」がありましたが、今、それを基準にすれば「芸術」はまた行き詰ってしまうでしょう。
しかし、今も行き詰っているわけで、同じと言えば同じです。
(「技術じゃないフリをした技術」や「技術のフリをした技術じゃない」を使っているだけだったりしますから)

というわけで、なにか「芸術の判断基準」に成るようなものはないのか?ということに成るわけです。

私は、「その作品に注ぎ込まれた力」を基準にしているわけなんですね。
もちろん、そんなモン作品を見ただけで分かるとは限りませんし、わからないことの方が圧倒的に多いのかも知れません。
(その気に成って見るとわかる時もありますけど)
「技術」のようにわかりやすいチカラだけではなく、「思考に費やされた労力」や、その作家が「生きることに使った精神的な力」なんかもその作品の上に乗せられているのかも知れないわけですから、なかなか見ただけではわからないと思います。
(まぁ、それをできるだけわかるように示すことが「創作者」の仕事なんだと思いますね)
でも、そんな基準ですら、無いよりはマシだと思いますし、それは何とかして「好み」だけではなくてもう少し普遍的な評価を与えようとする努力にはなるということです。

つまり、職場の上司が「公平性」を一顧だにせずに部下を判断してしまうことが問題なわけで、形だけでも判断基準がある場合は、問題があればその上司がそれに付いて問われることに成るわけです。
無ければ、「問い」自体が成り立ちませんよね。

それと同じで、現在「芸術」においては『これが好き(または嫌い)です』と言われた場合、否定してはいけないことに成っているわけで、そういう時には『人それぞれの好みがあっていいんですよぉ、ぜーんぜん問題ありません』と言わなければいけないことに成っているわけです。

そこに如何なる基準も持ち込んでは成らないし、如何なる「問い」も許されていません。
これは「芸術の20世紀」が創り上げた「迷信」の一つだと思うわけです。
それ以前に、自由なのか不自由なのかがわかりませんよね。

そういうわけで、「好み」だけで「芸術」を判断することは「一種の差別」であるのかなと。

と言っても、あくまで『好みだけで~』と言うことであって、「好み」を一切入れてはいけないということではないですけどね。


でも、たとえば、「子供のイジメ」の問題がありますけど、「イジメ」も「一種の差別」から発生しているモノだと思うわけですね。
要するに「人」を「好き・嫌い」で判断してもいいという短絡的な思考があるから、『だから嫌いな子をイジメてもいいんだ』という短絡的な結論が導き出されてしまうんだと思います。

それと同じで、「自己表現としての芸術」を「好き・嫌い」で判断してしまうと、「人の人格全体」を「好き・嫌い」で判断することにつながって行ってしまうんだと思うわけです。
私は、そういう世間の風潮を子供たちが敏感に感じ取ってしまうことから起きているのが、今の学校で起きているような「どうしよもなく救いようがないほど破滅的なイジメ(イジメてる側にとっても)」なんだと思うわけです。

そして、そういう「イジメ」や「差別」が「芸術」に端を発していると言う気がしてならないわけです。
だから、『好きだって言ってるんだからそれでいいだろ!』っていう問題でもないと思うんですよね。

「芸術から一番遠い所にあるモノ」が「芸術」から生み出され続けているのを黙って見ていて、『なにが才能だよ!なにがセンスだよ!!』っていう風に思ってしまうわけですよね。


『お前なんかが、こんな閑古鳥ブログの中でチマチマ言ったことなんて何の意味もないんだよぉ~、ざまーみやがれ!このスットコドッコイが!』

まぁ、そうなんですけどね、
「でも、アンタはそれも言ってないじゃないか?じゃ、スットコ未満ってことだ!あたしゃ、スットコで十分だよ!へっへぇ~!!」

「あぁ、ドッコイでもいいよ!!!」

ってことで。。
(あくまで一番極端な言い方をすれば、ということです・・・念のため)






「芸術を好みで判断すること」について(つづき)



前の記事の続きです。


前の記事では、芸術を、「好み」だけで判断することは、「一種の差別的なこと」なんじゃないか?ということを書いたわけですね。
(あくまで一番極端な言い方をすれば、ということです)

でも、それ以前に「その好み」って、いったいどの程度のもんなんだ?ということがあるわけです。


「好み」って言うと「その人の中で純粋に嗜好されたモノ」ということに成るわけですね。
つまり、「好み」という言葉を使っただけで、自動的にそれが「その人の純粋な好み」であるということに成ってしまうわけです。
でも、実の所、『それほど純粋な好みばかりでもないんじゃないか?』という疑問があるんですね。
いや、それどころか、現時点で「自分の中で純粋に嗜好された好み」を持っていたり、それを把握できている人なんてほとんどいないと思うわけです。

そうなると、「芸術を好みで判断すること」は、決して「自由なこと」ではないし、それほど「楽しいこと」でもないんじゃないかと思えてくるわけですねぇ。

現在の世の中では、「マスコミ」があまりにも大量の情報を流しますし、「教育」においてもありとあらゆる規範や常識や定説などが刷り込まれてしまいますから、いったいどれが自分の「本当の好み」であるのかが非常に解りにくい状況にあるということですね。

 ※しかも、人類の歴史が長くなるにつれて、当然刷り込まれる「規範」や「定説」は
  どんどん増えていきます。 
  これは、たぶん間違いないことですが、人間は将来「人類の歴史」を学びきれなく
  なる時が来ます。
  そして、そうなったときには、「選択的な学習」をせざるを得なくなるわけです。
  でも、そうなると、「選択された規範」だけが流通して「選択されなかった規範」は
  無かったものにされてしまいますし、また、「規範」や「定説」でありながら、人によ
  って「選択」した「規範」や「定説」の種類が違えば、まったく違う「規範」や「定説」
  を持つことに成ってしまうわけです。
  そうなったら、それを「規範」や「定説」と呼ぶことも出来なく成ってしまうかも知れま
  せんね。


ハッキリ言えば、現在「自分の本当の好み」を掴み切れている人なんて居ないと思いますよ。
現在においては、それは「悟り」に近いようなほど不可能なことだと思いますね。

もちろん、そういう外界からの情報に振り回された上での「自分の好み」を『それこそが自分の好みなのだ!』ということは出来ますが、それは「強がり」のようなもので、「純粋な好み」とはかなりかけ離れてしまっていますから、そんなことを無理して言い続けてもあまり意味がありませんね。

そうなると、例え「自分の好み」と言えども、疑ってかかる必要が出てくるわけです。
『自分の好みに正直に』と言えば、聞こえはいいですが、実を言うと、それは「好み=純粋」という、「昔は成り立っていたけど今はもう成り立たなくなってしまっている説」に依存しているだけなんだと思うわけです。

まぁ、ある程度まで冷静に「自分の好み」を分析できる人の場合は、大きな問題に直面することは少ないでしょうが、それでも、やはり、現在の「好み」は「純粋な好み」とは言えないものに成っていると思っていた方がいいような気がします。


いずれにしても、そんな「根拠のない好み」を「芸術の判断基準」にしてしまっているわけですから、「マトモな芸術」なんて出てくるはずがありません。

でも、みんなが「情報に振り回された好み」で判断しますから、『これ、スキです』と言わされてしまうわけです。
そして、「芸術」においては、それが「スタンダード」であり「逆らえない定説」になってしまっていますし、みんながそれに依存してしまっていますから、誰も止めませんし、疑問を呈する人すらいないわけです。
(そういう人は「芸術の世界」には居続けられなくなるわけですね)


そんなことで、みんな『何が本当に好きなのか』がわからなくなっているわけです。
それで、とんでもなく「過激な芸術」から、あくまで「古典的な芸術」まで、その時々で、『何が見たいのか』わからないままに見せられているわけですね。

そういう時に、『自分の感性に従って選んでいます』という言い回しが使われることは多いわけですが、その「自分の感性」自体が「情報の集積」に他ならないわけです。
そして、その「情報」が膨大過ぎて選択も判断もできないほどの「圧倒的な量」で迫ってくるわけです。

だから、やはり、「好み」に頼る時代は終わっていくと思います。
前の記事に書いたことと併せて、やっぱり「芸術を好みで判断する時代」は終わっていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。


『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居る』というのは「確率」という思い込みに過ぎない?



宇宙にはものすごくたくさんの天体があって、その中には必ず地球と同じような環境の星もあるはずで、そういう星の数だってものすごく多いはずだから「確率的」に言って、宇宙のどこかに「知的生命体」が居るのはほぼ間違いない!!
という話をよく聞くわけですね。

それで、前は『ふむふむ、なるほど、それじゃあ何時かきっと「宇宙人」に会えるんだろうね(30万年くらい待てば)』と思っていたわけです。
でも、最近に成って、なんとなく「宇宙人」にはいつまで(30万年以上)待っても会えないような気がしてきたので、『なぜなんだろう?「確率的」に言って間違いないハズなのにオカシイなぁ』と思って、考えてみたわけです(30分ぐらいかけて)。


それで、『これはきっと「確率的」が、あやしいんじゃないだろうか?』という結論に達したわけなのです。
つまり、こういう話の場合には、「確率」なんてものはほとんど役に立たなくて、ただの「思い込み」に過ぎないんじゃないだろうか?と思ったわけですね。


まず、「地球と同じ環境」とアバウトに言ってしまっていますけど、ただ単に『酸素が豊富にある』とか、『ナントナク生物が生きられそうな温度』とか、『光などのエネルギーが供給されている』とか、いま人間が考えて思いついたような条件が満たされれば「生命」が発生するとは限らないような気がするわけです。
実際は、もっと遥かに細かい所まで「地球と同じ環境」であって、はじめて「地球と同じ条件」と言えるわけで、ほんのわずかな、環境のチガイでも「地球と同じような形での生命の発生」はあり得ないんじゃないかと思います。

ところが、前述の『確率的に言って間違いない』の中の「確率」とは「地球と同じような環境の星が存在する確率」なわけで、その「地球と同じ環境」が厳密でないと「まったく成り立たなくなってしまう確率」なわけです。

そうなると、かなり厳密なところまで、というか、ほとんど寸分たがわぬところまで「地球と同じ環境」を持った天体が存在する必要が出てくるわけで、はじめの話とはかなり違ってくるわけです。
というか、どんなものでも「寸分たがわぬモノ」というのは、実の所は存在しないと思うわけです。
だから、「ほとんど寸分たがわぬモノ」の「存在する確率」は限りなく「0」に近いわけで、それを天体の数が多いという程度のことでひっくり返してしまうのは、やや無理があると思いますね。

それでも、その「確率」が完全な「0」とは言えないわけですが、それは非常に長い時間的な幅を持って考えた場合の話であって、少なくとも如何なる生命体の「存在サイクル」をも超えるような長い時間の幅を持って考えた場合に限って、その「確率論」が有効に成るというような気の遠くなる話なわけです。

ところが、そうなると、もしも宇宙に「地球と異なる起源を持った文明」が存在することがあるとしても、それは「地球の文明」が滅びた後のことであって、その二つの「文明」が出会うということはまずないだろうということに成るわけです。

それから、「時間的な幅」だけでなく「空間的な距離」についても同じようなことが言えて、「地球外知的生命体存在説」や「宇宙人がきっと会いに来る説」の多くが、無意識のうちに、「空飛ぶ円盤」などのような「次元を超越した移動手段」の存在を前提にしていると思うんですね。

それは、つまり、宇宙空間における気が遠くなるほどの「空間的な距離」を、無意識のうちに極端に縮めてしまっているわけで、その「次元を超越した移動手段」が無ければ、まったく成り立たない話に成るわけです。

でも、実際には、そういう「超次元的な移動」が可能かどうかは、今のところまったくわからないわけですし、もし可能であったとしても、それが開発されて実用されるまでに恐ろしく時間がかかるのは間違いないことなわけですから、その間にもまた「その文明が滅んでしまう確率」は高くなってしまうわけなのです。

こういった諸々のことを考え併せますと、『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居るはず』という「確率」は『ほぼ間違いない』どころか、実は『ほぼ無い』に近いような気もしてくるわけですよね。


そして、さらに決定的なこともあって、「地球外知的生命体」と言っていますが、その「知性」や「生命」とはどんなものを指しているのかと言えば、「地球上の知性」であり「地球上の生命」を指しているわけです。

やはりここでも、「ほぼ寸分たがわぬモノ」を求めてしまっているわけですねぇ。
でも、いくら「広い宇宙」とは言え、「寸分たがわぬもの」というのは存在しませんから、「地球の知性」や「地球の生命」と「ほぼ寸分たがわぬ知性や生命」は「地球外」には、そうヤスヤスとは存在しないわけです。

というか、「ほんの僅かに地球と違う知性」や「ほんの僅かに地球と違う生命」を「人間」が「知性」や「生命」として認識できないわけです。
だから、そういうモノと出会ったとしても、まったく気づくことなくやり過ごしてしまうんじゃないでしょうか?
(地球上のすべての生命は同一起源のモノですから「一つの生命」ということだと思います。だから認識できるんだと思います。)

つまり、もしも、「宇宙人」と出会ったとしても、人間は、その「宇宙人」を『これは「知性」とは言えないだろう』とか『これは「生命体」ではないだろう』と判断してしまうんじゃないかと思いますね。
要するに、出会っても気づかない可能性が非常に高いわけです。

でも、そう言うことになると、「ほぼ寸分たがわぬ知性や生命」は存在する確率が低いし、存在しても出会えません。
その一方で、「一寸でもチガウ知性や生命」は人間の方が認識できないわけです。
もう、その「出会いの確率」は「0」に限りなく近いと言わざるを得なくなるということですね。

以上のことから、『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居るはず』というのは「確率」という思い込みに過ぎないんじゃないの?

そんな風に思いました。

 ※ついでに言うと、その時点で「厳然と存在していないモノ」について、
  「確率」のような一見すると説得力のある根拠で「それが存在するの
  はほぼ間違いない』と言っていることは、ほとんどが何らかの思い込
  みであることが多いと思いますよ。
  (たとえば、「死後の世界」なんかも、やっぱりアヤシイですよね。
  っていうか、生きているうちに理解できるなら、それは「死後の世
  界」とは言えないものだと思いますよ。やはり不思議は不思議な
  ままの方がいいような気がしますね)
  やっぱり、そこまで確かに存在するはずのモノだったら、既に厳とし
  て存在していますよね。
  これは『そんなものあるわけないよ!』という固定観念とは違って、
  『盲信を回避する』ということだと思いますよ。

  だって、『あるわけないよ!』も『あるに違いない!』も、どっちも
  固定観念でもあり盲信でもあるわけですから。
  


「芸術年金制度」:「孤独(ヒキコモリ)社会」への提案



前にこのブログで【「芸術売買」と「芸術福祉」】という記事を書いたことがあるんですけど、その話はかなり極端な内容だったので、おそらく読んだ人は誰一人共感しなかったと思います。
(まぁ、読んだ人自体がほとんどいなかった可能性もありますけど)

 ※前に書いた【「芸術売買」と「芸術福祉」】という記事は、
  『「芸術」を売り買いするのは止めて、「芸術者」は「福
  祉」の対象にすればいいんだ』というようなムチャな話だ
  ったので誰にも相手にしてもらえませんでした。

  まっ、他の記事も全部相手にされてませんけど。


それで、今度はもう少し現実的なことを考えてみようと思ったわけです。
現実的で実用的な「芸術福祉」ですね。
(まっ、敢えて言うほど現実的でもありませんけど)


そして、いろいろ考えた結果「芸術年金制度」というモノがあってもいいんじゃないだろうか?ということに行き着いたわけです。

これのなにが実用的かと言うと、現在の社会が抱えている問題の中でもかなり重要度や優先度が高い問題だと思われる「孤独社会」や「ヒキコモリ社会」の問題に対する一つの打開策に、この「芸術年金制度」が成り得ると思うわけです。
(まっ、たいして実用的でもないですけど)

要するに、『「孤独」でも「ヒキコモリ」でも「芸術」なんかやってたりすると気がまぎれたりするかもね?』というやや安直な考えではあるわけですが、それでも、何の策もないよりは少しイイんじゃないかと思うわけです。

「孤独」や「ヒキコモリ」の問題は、現在の社会が抱えている問題の中でも、最も重要で、さらには最優先に対処するべき問題だと思うわけです。
(「認知症対策」と双璧だと思いますね)

 ※高齢者の「認知症対策」を「介護の問題」と考えている限り、
  いつまでたっても対処できないと思います。
  「認知症」は「脳」の疾患ということに成っていますが、実際
  は「認知症」は「社会」によって誘発されている「社会病」で
  もあると思います。
  「脳」に委縮などの現象が現れるのは、「社会」から疎外され
  た高齢者が脳機能を凍結せざるを得なくなって、「脳」が不活
  性化してしまうことが原因だと思うわけです。
  人間の体は、どの器官であっても不活性化した状態を続ければ
  必ずその器官が急激に衰える仕組みに成っているわけで、それ
  は「脳」でも同じだと思うわけですね。
  つまり、「社会による老人の疎外」が先で、「脳萎縮」は結果
  的に起きて来る現象だということです。
  だから、必要なのは「病人」に対する「介護」ではなくて「病
  人」を生み出さないような「社会」の方向性なんじゃないかと
  思うわけですね。

「孤独」も「ヒキコモリ」も「認知症」もすべてに共通なのは「社会」が生み出しているということです。
これらを「病気」や「パーソナリティ(性格)の問題」と考えている限り全く改善する気がしませんね。

真面目すぎるから友達がいなくて「孤独」に成るんだとか、暗い性格だから結果的に「ヒキコモリ」に成るんだとか、言っている限りは、これらの問題が少しでも改善するようなことは無いと思いますよ。

まぁ、突然変異が起きて人間が非常に「無感情なイキモノ」に変容するようなことでもあればいいのかも知れませんけどね。
(あぁ、良くないか?)


要するに、「社会」が「競争原理」や「効率主義」と言った、既に必要性が薄くなった「旧・原理&前時代・主義」を捨てて、「人間性」を基盤に置いた方向を向いて行くしかないんじゃないかと思うわけですね。

そうなると、やっぱり「芸術」なんじゃないかなと。
そう言うことですね。
(まっ、効果の方は「チョボチョボ」かと思いますが)

「現在の芸術」っていうのは「その人そのもの」だと思うんですねぇ。
その「最も自分であるモノ」を現すのが「現在の芸術」なんじゃないかと思いますから、そういう「芸術」が心の中にあれば、たとえ、一人でも「孤独」という感覚はうすくなるだろうし、「ヒキコモリ」の閉そく感も少しは和らぐんじゃないだろうかと思うわけですね。

そしてさらには、そういった「微かな解放感」が生みさせれば、その空気感が少しづつ「社会」に広がって言って、うまくすれば「孤独社会」や「ヒキコモリ現象」から抜け出すことも出来るんじゃないだろうか?と思っているわけです。


まぁ、現実に効果があるかどうかはともかく、その「芸術年金制度」とは、いったいどのようなモノかということですね。

まず初めに、「現在の芸術」が非常に難易度が高い状態に成ってしまっているということがあるわけです。
つまり、精神面でも技術面でも非常に厳しいものが要求される分野に成っているということですね。
本来は、この「芸術の在り方」には問題があって、「芸術」はもっと一般的で平易なモノであっていいと思いますが、実際問題としては、そうなっていないということですね。

そして、そんなものが『若いうちに出来るのか?』という疑問があるわけです。
ところが、そのこととは全く裏腹に、「創作者」はごく若いうちにある程度の実績を残していかないと専門的な立場で「芸術」に関わり続けるのが難しいという仕組みが出来上がっていて、いわゆる「遅咲き」のタイプはかなり地道な活動をじり貧な状態で続けるしかないということがあるわけです。

でも、ある意味で、美大生に『「スバラシイ絵」を描け!』というのは現状においては非常に酷なことなわけで、かなり無理がると思うわけです。

もちろん、美大生でも「上手い子」はたくさん居ますし「いい絵を描く子」もいると思います。
でも、「自分の絵を描ける子」と成ると、そう沢山は居ません。
やっぱり「人生経験」が少ないわけで、こればっかりはすべての人に平等に与えられるものですから、二十歳くらいの人には出来なくて当然ですし、それは「能力」ではどうすることも出来ないモノなんだと思います。
そして、その部分こそが「現在の芸術」の部分なわけです。
だから、出来ないに決まってます。

 ※ちなみに、ここで言うところの「人生経験」とは「波乱万丈」
  とか「千載一遇」とかのことではありません。
  どのような経験であっても、それは蓄積されていくと思います。
  そして、いかに普通のことでも、それが蓄積された分だけその
  人の中の「自分」が作られると思うわけです。
  だからこそ、すべての人に平等なわけで、当然若いうちは経験
  値が低くなるということに成るわけですね。
  逆に、年を取れば一律に経験値は上がって行きますが、それを
  蓄積して来たかどうかは、その人次第ですし、蓄積された経験
  を外に表せるかどうかは、さらに、また別の話だと思います。


でも、若いうちから実績を残さないと「芸術の世界」に居続けることは出来ませんから、「上手い子」や「いい絵を描く子」ばかりが大量生産されて、しかも、そのほとんどが「使い捨て」にされていってしまうわけです。

その中で生き残るのは、大方「要領のいい子」に違いありません。
つまり、「もっとも芸術の中心から遠い人」ですね。
おかしなことだと思います。

『そこで!』
「芸術年金制度」なんてモノがあったらいいんじゃないかなと。

つまり、若いうちには、とても「芸術」を達成するなんて無理だから、取り敢えず若いうちはほかの仕事などをしてある程度のお金を稼いで、その中から少しばかりの「芸術年金」をかけて行くわけです。
そして、その「年金」をある程度の年齢に成った時に、満を持して「芸術」のために使うことが出来るという実にスバラシイ制度がこの「芸術年金制度」であるわけです。

『お前、自分に都合のいい制度を妄想してるだけだろ!』

「ちっちっ違いますよ」

『じゃ、なんでどもるんだよ?』

「・・・・・・エヘッ?!」

さて、「芸術年金制度」と「一般的な年金制度」の決定的なチガイは、「年金」を「かける人」は多くて「もらう人」が少ないということです。
「芸術」ってけっこう大変だし、さらにそれを年をとってもやり続けるとなるともっと大変ですから、そんなにたくさん「年取ってから芸術をやる人」っていないんじゃないかと思います。
それでも、人生の中で自由に他のことを気にしないで「芸術」に没頭する時間を持つことが出来るということは、きっと幸せなことだと思いますし、その時間を持ったということがのちのちまでもその人の心の中で、何らかの支えに成るということはけっこう有ることだと思うわけです。
(これは、かなり多くの人に当てはまることなんじゃないですか?)

今は、それとは逆に「芸術」をやりたくて美大に入ったはいいけど、なかなか思うような作品が作れずに「タイム・アウト&ゲーム・オーバー」になってしまう人がすごく多いと思います。
その後も地道な活動を続けていくことは可能かもしれませんが、常に「時間」と「カネ」の制約を受けますから、、なかなか没頭できないわけで、けっきょく「家が裕福な人」や前述の「要領のイイ人」や「人の世話になっていても全く気にしないで没頭できる人」なんかが生き残るわけです。
それらは、「芸術の中心から離れている人」だと思います。
(私自身も妻の世話になってますから、その分は「芸術の中心」から離れてしまっていると思います)

だいたい、「孤独」や「ヒキコモリ」に成る人って、「芸術」に近い人じゃないかと思うわけです。
もちろん、「美術」に限ったことではなくて、「文学」でも「音楽」でも「演劇」でもなんでもいいと思いますよ。

そう考えると、面白いと思いますよぉ。
50ぐらいに成ってから、まったくの素人だった人が「演劇」を始めたらどうなるんだろうなって言うのって、ほんとにおもしろそうだと思ってしまいますねぇ。
もしかしたら、「ものすごくセリフ棒読みのおじさん」が『笠智衆二世』に成るかも知れないし、『田中絹代二世』だって現れるかもしれない。
(別に、セリフ棒読み限定ではないですけど)

そんな所からしか、「芸術」は変わっていかないんじゃないですか?
『変わる必要なんてないだろ!』っていう方は『どうぞ、どうぞ、そのままおやんなさいまし』

そんなわけで、「芸術年金制度」のお話でした。
詳しい制度の話は書けませんでしたが、「そういう方向」ですね。

そんな風に思ったわけなのです。



「芸術作品」は人が乗り越えていくための「布石」に成る



「芸術作品の存在意義」はいろいろあるでしょうが、その中の一つとして「布石」ということがあると思うわけです。
つまり、「人が乗り越えていくためのモノ」ですね。
昔の一里塚のような「目安」と言ってもいいのかも知れません。

有名な人の作品であれば、それは「教養」としても「知識」としても機能するのかも知れませんし、また、有名無名に関わらず「スバラシイ絵」であれば、それは人の心を喜ばせることが出来るんでしょう。

でも、有名無名とも無関係で、スバラシさとも無関係なところにも「芸術作品」の意義がある場合はあると思うわけです。

たとえば、自分の子供がはじめて描いた絵は両親にとって特別な意味があるでしょうし、それと同じように、自分に身近な人の創作した「芸術作品」には「その人にとっての特別な意味」が発生するんだと思うわけです。

これは、何も身近な人に限ったことではなくて、創作者本人にも言えることだと思います。
たとえば、自分の作品の中で『今までの中で一番気に入っているなぁ』という作品というのは、その創作者にとっては「乗り越えていくべきもの」であるんだと思います。
まぁ、スポーツで言えば「自己ベスト記録」ですね。

それから、ある創作者の遺作と言うのは近親者にとっては「思い出」でもあるわけですが、実は、それはその創作者からの『これを乗り越えて行ってくれ!』というメッセージでもあると思うわけです。
つまり、作者の「自己ベスト」を近親者が「更新」するわけですね。
そのことによって創作者が届かなかったところに、その作品の意味が届くことに成るわけで、それこそが亡き作者の望みなんじゃないのかなと思うわけです。

ということで、「芸術作品」が誰かの「布石」に成ることは、作者の喜びでもあるのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。



「ウンチク」はどうして悲しいのか?



「ウンチク」って言うと、あまりいいイメージがないですよね。
どちらかと言うと「知識のひけらかし」という感じで、スゴク・博識なのにスゴク・アホみたいな、そんなイメージなんじゃないかと思います。

でも、「ウンチク」が「豆知識」的な意味でけっこう面白いモノとして捉えられている時もあるわけで、その差は何なんだろうかと思うわけです。

そもそも、「ウンチク」って言うモノは、そんなに悲しいモノなのか?と考えると、必ずしも悲しいモノというわけでもないような気もしてきて、それなら、どうして「ウンチク」と聞いたとたんに『あぁ~、もう結構です!』みたいな話になってしまうのだろうか?と思うわけです。

「ウンチク」というのは、要するに「知識」でしょうから、本来はそんなに悪いものではないハズなんですが、なんで「知識」が「ウンチク」に化けた途端に「やや残念な感じ」になってしまうのか?ということですね。

というか、「知識」と「ウンチク」って、いったい何が違うんでしょうね。
その辺が、まず、よくわかんないわけですね。

で、よぉ~く考えてみたところ、だんだん違いが見えてきて、要するに「ウンチク」というのは「語るために覚えられた知識」なんだと思うに至ったわけなのです。
つまり、「知識」として、使用されることを前提としていない「知識」ということなんじゃないかと思うわけです。
もっと言えば、「ひけらかすための知識」ということに成るわけで、そうなると、『まぁ、それじゃ悲しいよねぇ』ということに成るのも当然だろうと思うわけです。
(「ウンチク」の本当の意味はそういう意味ではないんでしょうね、きっと)

しかも、今の時代には「ネット検索」が完全に普及していますから、そのような「ひけらかすためオンリーの知識」を、だれでも、いつでも、簡単に手に入れることが出来るように成ったわけで、もはや覚える必要すらなく成ったわけで、「あしたひけらかすウンチク」を今日調べて置けば、あさってには忘れてしまっても誰もそれを追求したりしませんから、「とっても便利でとっても悲しい世の中」に成ったもんです。

ということで、
「知識」は使うために覚えましょう!
もしくは、
使わない「知識」はひけらかさないようにしましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時には、ソートー・オモシロク話しましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時に、ソートー・オモシロク話す場合でも、頭がいいフリをするのは止めましょう!
だって、かなりアホでも1日くらいは覚えていられるんだから。

そんな風に思ったわけです。

追伸:私は一時間しか覚えていられません。

   




いま「芸術」が、「最もステキな権威に迎合しない方法」を示す時



「権威」に対して、媚びへつらったり、追従しようとしたり、そこから利益を得ようとしたりすることは、なかなかミットモナイことなんじゃないかと思うわけですが、最近の世の中では、そういう「権威に迎合すること」を、必ずしも「恥」だと感じていない人がけっこう居るような気がするわけです。

30~40年前であれば、「権威に迎合する人」は、たとえば、ドラマの中では、常に悪役にも成れないような「一番ミットモナイ役どころ」だったと思いますし、たとえば、職場の人間関係で言えば、「いやな上司のそのまたテシタ」というタイプの、これまた情けない人の典型という扱いだったと思うわけです。
だから、当然、誰でもそういう人間にはなりたくないと思っていたでしょうし、実際に、そういう人間に成るような人は、あくまで「ややクズな人」という扱いを受けていたと思いますし、また本人もそういう「ややクズ」な自分をある程度は自覚していて、世の中に対して、ちょっとセコセコした態度で生きていたような気がするわけです。

と・こ・ろ・が!
現在は、そんな「クズ」で「テシタ」で「セコセコ」な「権威に迎合する人」が、昔に比べて、やや堂々としてきているような気がするわけですねぇ。
つまり、なんと言うか、市民権を得てきているような気がするんですね。
(いったい、いつの間に?)

そう言うことで、どうしてそんなことに成っちゃったんだろうか?と考えてみたわけです。

私は、こういう所にも、「芸術の影響」があるような気がするわけですねぇ。

現在、「芸術の世界」は完全に「経済」に取り込まれてしまっていて、「芸術の市場」を抜きにプロフェッショナルな(専門的な)意味での「芸術」を考えることが出来なくなってしまっているわけです。

つまり、高い「芸術性」があったとしても、「市場」に受け入れられるような作品を創らないと、、プロフェッショナルとしての評価は得られないわけで、『キミ、なかなかいいモノ創ってるよね』で終わってしまうわけなのです。
(『その高い芸術性とは?』というのは、また別の話ということで)

そうなると、どうしたって、「創作者」は「市場」に対して媚びるように成るわけですね。
そして、そうなると、当然、「市場」が「権威」を持つように成るわけです。
そして、そうなってしまった後は、その「権威」が「絶対的」に成り、誰にも逆らえないモノに成って、そこからは、もう、その「権威」に対して、『迎合するか?迎合しないか?』という二者択一しかなくなって、当然の成り行きとして、「迎合した側」だけが生き残り、「迎合しなかった側」は切り捨てられていくことに成るわけです。
(まぁ、要するに、「経済」と「権威」がくっついてしまうと「絶対的な権威」に成ってしまうということだと思います)

と・こ・ろ・が!
「芸術」は、やっぱり、センスがいいわけです。
そして、「芸術」は「権威」に迎合したとしても、まだ、やっぱり、センスがいいわけです。
(そういうのはセンスとは言わないんだ!というのは、また別の話ということで)

ということは、「芸術」が「権威」に対して迎合してしまうと言うことは、「芸術」が「社会全体」に対して、最もスマートでセンスがいい「権威に対する迎合の仕方」を、提示して見せてしまうことに成るということです。

そう言うことによって、現在「権威に迎合する人」が、やや堂々としてきていて、『なにが悪いっての?』という開き直った感じを漂わせてきているような気がするのは私だけなんでしょうか?
(『あなただけです』「あぁ、ハイハイ」)

少なくとも、現在「芸術の世界」の最も第一線で活躍している人も含めて、「芸術の世界」にそれなりの位置を持っている人で、「市場」に媚びることをまったくしないで活動し続けてきた人は、まぁ、居ないんじゃないかと思うわけです。

というより、積極的に「市場の動向」を読んで活動を展開できた人こそが、現在「芸術の第一線」で活動している人であると言っても過言ではないと思いますね。

さらに言えば、その「読み」こそが「芸術の文脈」と言われて、今、最先端の「芸術の位置」を測るためのツールであると言われていたりもするわけです。

つまり、「権威に迎合すること自体」が「芸術の最先端」を規定することに成ってしまっていて、「芸術の世界」では「権威に迎合すること」が堂々と市民権を得てしまったと言ってもいいほどになっているわけです。

そう言うことが、「社会全体」に普及していった結果、「権威に迎合する人たち」が、なんとなく堂々としてきていて、あの「クズ」で「テシタ」で「セコセコ」な感じじゃなくなってきているんじゃないかと思うわけですねぇ。

その辺が、チョットあまりにも目に余るというか、どうしようもないというか、お下劣というか、とにかく、ただただ悲しいなと。
そんな風に思うわけですが、そういう方々に、『それはちょっとやめましょうよ、ネェ、あなた』と言ってみたところで、所詮、『嫌です!以上。』ってことでしょうから、やっぱり、そこは「芸術」に戻って、そこの所を「最もステキな権威に迎合しない方法」を提示していかないとダメなんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。 

自分だって、そんなことを偉そうに言えるほどのことなんてまったく無いですけど、でも、そういう方向で四苦八苦しながらやって行こうとするってことぐらいは、誰にでも出来るんじゃないですか?


そんな風に思いますよ。

 ※現在、「市場」の持つ「権威」に迎合しないで「創作」している人が
  いるとしたら、それは、「いま、世間に存在している芸術の世界」と
  は別の「自前の芸術の世界」を持っている人だけだと思いますよ。
  そういう「自分の中の芸術の世界」を持っている人はいるかも知れま
  せんが、そういう人は、その世界の中でしか活動できないわけですか
  ら、人目に触れる機会が非常に少なくなってしまっているというわけ
  ですね。



「NNナムロン」という筆がいい!



前に、筆のことを書いた記事で、「合成繊維の筆」なんて、所詮「天然毛の筆」の代用品に過ぎない!というようなことを書いたことがあるんですが、実は、最近に成って使い始めた、「ナムラ」の「NNナムロン」という合成繊維の筆が、やたらと使いやすくて、やたらと長持ちして、けっこう値段が高い、ということがわかったので前言を訂正いたします。
(別に、「ナムラの回し者」じゃないです)

最後の『値段が高い』はともかくとして(高級な豚毛筆よりは少し安いくらい)、使い心地として、ほとんど「上等な豚毛筆」と変わらないし、それ以上に、なんと言っても長持ちします。
質のイイ豚毛筆は、毛先がすり減ってきたときでも、それなりに穂先がまとまってばらけにくいわけですが、質の落ちる豚毛筆や一般的なナイロン製の筆はけっこう早い段階で穂先がばらけて来たり、外ハネしてしまったりするわけですねぇ。

とくに細い号数の筆の場合チョットばらけて来ただけで使いにくくなてしまったりもするわけですけど、この「NNナムロン」は「0号」の筆でもかなり長持ちして、しかもすり減ってきたときでもあまりばらけたりしません。
(いや、けっして「ナムラの回し者」じゃないです)

私の場合は、太い筆は天然毛の「豚毛筆」を使っていますが、「0号」と「8号」の二種類に限っては、最近「NNナムロン」しか使わなくなってしまったほどです。
しかも、これから先、細めの筆に関しては、この筆を中心にしていこうと思っています。

細い豚毛筆って、上質な筆でも、そんなには長持ちしないことが多いですから、この耐久性はやはり魅力だと思いますよ。
それから、筆を洗っている時に毛が傷んでしまうことも少ないと思うので、そういう意味でも長持ちですね。

あと、本物の豚毛筆よりも、ワンサイズ上の筆でエッジの利いた細い線が描けるという感じがあります。
(これは使い方にもよると思いますけど)

そんな感じで、「NNナムロン」は絶対におススメです!!
(絶対に「ナムラの回し者」じゃないです)




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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