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「自己肯定」と「自己正当化」のチガイ



私は、現在の人間の行為の中で、最もタチの悪い行為が「自己正当化」なんじゃないかと思っているわけです。

『悪いことをしてしまう』
または、『怠惰な状態に陥ってしまう』
または、『嫉妬心や競争心にかられてしまう』
または、『利己的に成って横暴な振る舞いをしてしまう』

ここまでなら、まぁ仕方ないと思えます。
まぁ、どれも似たようなものだし、人間にはこれらのことを完全に排除することは不可能だと思いますから。
(自分もやるし)

でも、これらの自分の行いを「正当化」する段階に成ると、ちょとマズイような気がするわけですねぇ。
しかし、ほとんどの人が、これをやってしまうわけです。
まぁ、だいたいの場合は、ただ単に意地になってしまうだけなんでしょうね。
(自分もやるし)

人間が、悪いことや間違ったことをした場合、たいてい自分でも、それがよくないのはわかっているわけですが(というか、「自分が悪いと思っていることをすること」こそが悪いことなんだと思いますので)、でも、なかなか、それを認められないわけですねぇ。
とくに他人から指摘されたりすると。
(自分もそうだし)

と、ここまでが、ギリギリなような気がするわけです。
(いったいナニの?)

でも、その悪いことをしたということを認められない自分をさらに正当化して、それがあたかも「イイこと」であるかのように装ってしまうと、そこからは、もう、その人の人生の中に、なに一つ「本当のイイこと」は無くなってしまうと思うわけです。

こういうのを「生き地獄」と言うような気がします。

つまり、「自分が悪いと思っていることをしてしまうこと」こそが「悪いこと」なんだとすれば、その「悪いこと」を「イイこと」であるとしてしまうということは、「イイこと」をするには「自分自身が悪いと思っていること」をやらなければならなく成るわけです。

ということは、常に、自分が「悪いことだと思っていること」をやりつづけなければならなくなるということです。
そして、常に、その「自分が悪いことだと思っていること」を「イイこと」であると言い張り続けて、「自分がイイことだと思っていること」を「悪いこと」だと言い続けなければならなくなってしまうわけなのです。

そして、とうとう、最後には、その「イイこと」をしている人たちを非難するように成り、攻撃するように成っていくというわけですね。
つまり、非常に激しく攻撃している相手が、「自分が、イイことだと思っていることをしている人」であるという、非常に矛盾していて、無理がある状態に陥ってしまって、しかも、自分で自分の首を絞めるようなことに成ってしまうわけですねぇ。
(こういうのが、すべての「~ハラスメント」が起きる心理なんじゃないかと思います)

まさに、「生き地獄」です。
なんとなく、止めといた方がいいように思いますね。こういうの。
(なんとなくじゃないか?) 

ところが、こんなにも無理がある「自己正当化」が無くなりません。
そこに「自己肯定」と言うキーワードが関係していると思うわけです。

「自己肯定」は、言い換えれば「ポジティブ」ですし、「前向き」でもありますから、、「ポジティブ全盛」の今の世の中においては、ほぼ全面的に支持されているわけで、その「ポジティブ」や「前向き」を否定しようもんなら、まぁ「袋叩き」ですね。

そんな状態ですから、今の世の中では「自己肯定的」なものは、ほとんど否定されることがありません。
ところが、その「自己肯定」と「自己正当化」が、あまり区別されていなかったりするわけですねぇ。
ということは、そういう「自己肯定」と「自己正当化」が区別されていない状況では、「自己正当化」も、また、ほとんど否定されることがないということです。

そして現在、あまりにも「ポジティブ」や「前向き」が全面的に支持されていて、その反対に「ネガティブ」や「批判」などのような現状否定の要素を含んだものは、極端に排除されてしまっているために、「肯定」と「否定」のバランスが明らかに崩れていて、その結果、「自己正当化」までもが、ほとんど否定されなくなってしまっているように思うわけです。

でも、残念ながら、「自己肯定」と「自己正当化」を客観的に区別することができないわけです。

「自己肯定」は、自分自身や自分の行動を肯定的に考えることだと思いますが、それはあくまで「肯定的」ということであって、何もかも肯定するということでもないような気がします。
まして、「自分の悪い行い」まで肯定することを指して「自己肯定」と言っているわけではないと思いますので、そこのところが「自己正当化」とのチガイなわけです。

ところが、その「悪い」と「悪くない」の間に、なかなか線が引きにくいわけです。
それで、けっきょく、「自分が悪いと思っていることをやってしまうこと」が「悪い行い」なんじゃないか?ということにするくらいしか規準がないわけですが、それはあくまで本人が悪いと思っていることを規準にするということですから、他人が客観的に判断するということができなくなってしまうわけなのです。

 ※客観的な基準としては「法律」がありますが、「法律」を基準にすると
  いうことは、「犯罪ではない悪」は、すべて「OK」ということになってしま
  います。
  「法律を基準にした悪」は「公的な意味での悪」ですね。
  つまり、公に向かって『これは悪である』と言っても許されるのは「法律
  を基準にした悪」すなわち「犯罪」だけであるということに過ぎません。
  
  その考え方だと、「法の網を潜り抜けた悪」が漏れてしまうので、ここで
  の話には適していないと思いました。
 
まぁ、要するに、本人にしか判断ができないということになるわけですね。
でも、その本人が「自己正当化」しているわけですから、そんなこと認めるわけがありません。

こういう構造で、いろいろな「ハラスメント」などの「傍若無人」が起きているんだと思います。

やはり、もう少し「批判的な視点」を見直して復活させないと、いつまでたっても同じ様なことが繰り返されて、いつまでたっても「傍若無人」で「矛盾だらけ」で「どう考えてもオカシイ」という社会から抜け出せずに、誰一人トクをしない世の中が続いて行ってしまうと思いますね。

 ※こう言う「時代」についての話で、必ず『そういうのはいつの時代
  にもあったことなんだよ。キミィ』という人がいらっしゃいますが、そ
  ういう人は「ナチスの時代」にも同じことを言うんだと思いますよ。
  (自分がユダヤ人でさえなければ)
  そういう人がたくさん居たからこそ、そういう時代が成り立っていた
  わけですから。

もちろん、「自己肯定」が悪いとは言いませんし、「否定的」なばかりでも、問題はあるんでしょうが、とりあえず、今に限って言うならば、間違いなく、足りないのは「ネガティブ」だと思うんですが、どんなもんなんでしょうか?


わたくしは、そんな風に思いますね。




「感動」は「一方的に受け取るもの」ではなく、「鑑賞者の能動的な行為」でもある



「感動」を「完全に受動的な行為」だと考えてしまうことがあるわけですけど、本来、「感動」はどちらかと言えば「能動的な行為」であって、「能動的な鑑賞」という「鑑賞者による積極的な行為」からしか生まれないモノなんじゃないかと思うわけです。


確かに「鑑賞」はある意味では「受け身の行為」なんでしょうが、その「受け身」をどこかのポイントで「能動的な鑑賞」という鑑賞者側の行為に切り替えない限りは「感動」を得ることは出来ないんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。

少なくとも、現在の芸術の在り方を前提にするなら、何も考えずに、ただ一方的に受け身の立場で「鑑賞」したとしても、「ただ単に美しいもの」や「ただ単にオモシロイモノ」と出会うことはあっても、それが「感動」にまで行き着くことは無いと思うわけです。

「現在における感動」は「鑑賞者」が「芸術作品に注がれた力」に比例する力を使って能動的に鑑賞した時にだけ発生する現象だと思います。

かなり昔の時代ならば、何も考えずに、ボウっとして「鑑賞」していても「感動」を得られる場合もあったんじゃないかと思います。
つまり、その時代に「芸術が提供していた美しさ」も「芸術に期待されていた美しさ」も、どちらも、人間が生まれながらに、ほぼ無条件で『美しい!』と感じるような美しさだったということですね。
だから、敢えて考えたり、見つけ出したりする必要が無かったわけです。
(その時点では、そう言うモノこそが「ホンモノの芸術」であったともいえるでしょうね)

しかし、現在の芸術で、そういう「単なる美しさ」を見たとしても「感動」まで届かなくなってしまったわけです。
『いや、そんなことは無い!』と言う人も居るでしょうが、これは「時代の流れ」ですから、誰にも逆らえないことだと思いますよ。

つまり、「ある一人の人が期待している美しさ」が、そういう美しさだったとしても、「時代が期待している美しさ」は、もう、そういう美しさではなくなってしまっているわけですから、一人の人の価値観だけではどうすることも出来ないことだということです。


それじゃあ、「現在の芸術が提供する美しさ」や「現在の芸術に期待される美しさ」とは、如何なるものなのか?

それは、「創作者の純粋性」であり「創作者の核」なんだと思います。
そして、それは「鑑賞者」にとっては、常に「他者」であり「異世界」であり「未知」であるわけです。
だから、なにも考えずに、ボウっとして見ているだけでそれが受け入れられることはあり得ません。

やはり、「他者」や「異世界」は「未知」ですから、常に「初遭遇」なわけで、『なんだかわからない』ハズですし、『なんか気持ちがザワザワする』に決まってます。
そうでなければ、それが「創作者の核」では無いということです。
「創作者の核」とはそう言うコトだと思いますし、「未知なモノ」とはそう言うモノなんだと思います。
要するに、落ち着かないんですね。

でも、だからと言って「落ち着かないこと」自体が「芸術」なわけではないし、そう言うモノが「感動」を提供してくれるとは限りません。
「創作者の核」は「鑑賞者」にとって、常に「落ち着かないモノ」、ですが、すべての「落ち着かないモノ」が「創作者の核」を持っているわけではありませんから、そういういろいろな「落ち着かないモノ」の中から、本物の「創作者の核」を持っているモノを見つけ出す作業が必要に成るというわけです。

なにせ、相手は「未知なモノ」なわけですから、いろいろと考えたり探したりしないと見つけられないということですね。

それで、結果的にそれを「見つけ出すという作業」が必要に成ってくるわけで、その「鑑賞者の積極的な行為」からしか「感動」は生まれないということですね。


まぁ、そんな面倒なことをしなくても「美しいモノ」も「オモシロイモノ」も見ることは出来るわけなんですけどね。
でも、なかなか「感動」にまで行き着くことは出来ないと思います。
だって、「異世界」や「他者」を「未知」のまま『オモシロイよね』とか『いいんじゃない?もしかして』とか『うんうん、見ようによっては美しいなり!?』などと言っているだけということに成るわけですから、それらは「感動」とはチガウでしょう?
「ワカラナイモノ」で「感動」できる人ってほとんどいないと思いますね。

『理解する必要なんかないんだ!感じるだけでイイんだ!!』
これ、間違ってると思います。
というか、勢いだけで誤魔化してると思いますよ。
『間違ってる』ならまだしも『誤魔化してる』はダメでしょ?
やはり、少なくとも、まったくワカラナイモノではなかなか感動できないと思いますね。


それから、「古い時代の芸術作品」を見ることで「感動」することは可能だと思いますが、それはあくまで「古い時代の感動」であって、「現時点での感動」ではないと思います。

たとえば、『モナリザ』を見て「感動」する人はいるでしょうが、その人は『モナリザ』が古い時代の絵であることを知って見ているわけです。
つまり、その人は数百年前の時代を含めて『モナリザ』を「鑑賞」しているわけですが、「現代」に暮らしていながら、その「時代」のいい所だけを見て「感動」しているわけですから、それを「現代に暮らしている人」が「現代の作品」を見て「感動すること」に、そのまま当てはめることは出来ないと思うわけですね。

現代に生きていても、「時代劇」を見て楽しむことは出来ますが、それはその時代に生きていることとは全く違うことですし、「現代劇」を見ることとも違うことです。
本当に自分がその時代に行って、「水飲み百姓」に成ってもかまわないという覚悟があって「時代劇」を見ているわけではないわけですし、今の時代が『街中でいきなり切り合いが展開されるような世の中に成れば面白いだろうなぁ』ということでもありません。
だから、「娯楽」の域を出ることは出来ないわけです。

もしも、「娯楽」以上を望むならば、そういう「時代」を丸ごと受け入れる必要に迫られるわけですね。
「感動」というモノには、そういう「真剣勝負」の面があるということです。


つまり、「古い時代の芸術」による「感動」を「現在の感動」にしたいのであれば、その「時代」を丸ごと受け入れるほどの覚悟が要求されることに成るということですね。
その時点で、「能動的な鑑賞」に切り替わることに成るわけです。
でも、ハッキリ言って、そんな「芸術鑑賞」をしてる人なんていないと思います。

そうなると、やっぱり、「現在の感動」を得るためには、「現在の芸術」に対する「能動的な鑑賞」という「鑑賞者の行為」が必要に成るのかなと。


そんなことを思いました。



「デジタル画面の限界」:ネット上での「芸術鑑賞」は、これ以上普及しない!(かな?)



今の時代、なんでもかんでもインターネットということに成っているわけで、「芸術鑑賞」もネットの中で十分という人もかなり増えてきたんじゃないでしょうか?

それに、『やっぱり「芸術鑑賞」は生で見ないと』と思っている人でも、毎日美術館に行くわけではないし、どういう展示を見に行くかはネット検索で調べてからというのはごく普通の考えだと思います。

要するに、「芸術の価値」の多くの部分が、まず初めの段階で「パソコンやスマホの画面」で判断されてしまうわけですね。


現在の状況だけを見ていると、とてもこの流れが変わることはないように思えてしまうわけですが、本当に、この「ネット鑑賞」はこのままつづいて行くんでしょうか?
「ネット上の芸術鑑賞」は、定着して、この先さらに発展していくんでしょうか?

『そうでもないんじゃないのかな?』という風に、私は思うわけです。

例えば、音楽でいうと「CD」が現れてしばらくしたころ、「CD」はアナログ盤よりも音がいいということになっていましたが、現在はアナログ盤の音が見直されてきているみたいで、新譜の音源が「アナログ盤」と「CD盤」で同時に出されるというようなことも出てきているようです。
「CD」と「CDプレーヤー」が完全に普及して、ごく一部のオーディオ・マニアの人を除いて、ほとんどの人がレコード・プレーヤーを処分してしまった頃には、またアナログ盤の新譜が発売されるなんてことはもうないだろうと思われていたと思いますけど、実際にそういったことが起きてきているわけですね。
しかも、プレーヤーを持っている人がほとんどいないという、圧倒的に不利な状況の中で、そういうことが起きているわけです。
(まぁ、今のところマニア向けではありますが)

そう考えると、「美術鑑賞」においては、むしろ、まだまだ「ネット鑑賞」が圧倒的に優勢というほどではないと思いますし、今後もそういう流れが続いていくということも確実とは言えないと思います。

それどころか、「美術」においては、『今後、もうこれ以上「ネット鑑賞」は普及しないだろう』というような気もするわけです。

少なくとも、「タブローとしての絵」や「彫刻などの立体造形」等に関しては、どう考えても「ネット鑑賞」は、最適な環境とは言えないと思うわけです。
まぁ、要するに、「ネット鑑賞」においては、芸術の「生」の部分が、ほとんど削ぎ取られてしまうわけですね。
そして、それこそが、それらの作品の中の「芸術」の部分なわけですから、当然、不十分なわけです。

  ※本当の意味で、不十分なのは「ネット環境」というよりも、「「画一化された情報に
   基づいていること」なんだと思います。
   ただ、その「画一化された情報」が、「現状のネット環境」においては、大多数であ
   るということですね。
   ただでさえ「不十分」なのに、その上さらに「デジタル」が「芸術の生の部分」を削
   ぎ取ってしまうわけですから、不十分というよりも不適切といった方がいいくらいな
   のかもしれませんよ。

確かに、「デジタル画面」でも作品の「概要」は伝わると思います。
「すばらしい作品」が「すばらしい作品」であるということくらいはわかることが多いのだと思います。
でも、それだったら、言葉で『あの作品はすばらしい作品だよ』と言われたのとほとんど同じことでしかないわけで、「その作品」に触れたことにはならないような気がします。

つまり、「美術史の教科書」を読んだのと変わらなくなってしまうわけですね。
やはり、「教科書」であっても、「ネット鑑賞」であっても、それらはあくまで前段階ですらなくて、実際の作品に触れる機会を持つことがなければ、「芸術」に触れたことにはならないんじゃないかなと思うわけです。

 ※だからと言って、海外の美術館に行って有名な作品を見なければ、
  本当の「芸術鑑賞」とは言えない、なんて言う話ではありません。
  もちろん、「そこら辺に転がっている全く無名の作品」に対して
  だって、十分に「芸術鑑賞」は成り立つと思いますし、「ネット鑑
  賞」でも、その作品にしっかりと対峙することができれば、それこ
  そが、その人にとっての「芸術鑑賞」なんだと思います。
  というか、むしろ、その方が「濃い鑑賞」であると言えなくもない
  と思います。
  ここで言っているのは、「ネット鑑賞」が、そういう「作品と鑑賞
  者が対峙するための環境」として必要に十分なほど適している
  のか?ということです。

今は、ネット上で「これっ!というモノ」を探して、『それを見に行く』という考え方が主流だと思いますが、それだと、「生で見たときにイイと思えるはずだったモノ」を切り捨ててしまうケースが、かなり出てきてしまうと思います。

つまり、「ネット鑑賞」では『なんとなくイイかな?』ということぐらいしかわからないはずなのに、そこのところを無理やり「これっ!というモノ」を見つけ出してしまうわけですから、知らず知らずのうちに、かなり強引な取捨選択になってしまっているんじゃないかと思うわけですね。

そこで、「本当にいいと思えるはずだった作品」を振り落としてしまうケースが多くなってしまうんじゃないでしょうか?
(まぁ、『もしかするといいかな?』ぐらいのものを全部見に行ければいいのかも知れませんが)

また、それとは逆に、明快で分かりやすく「ネット鑑賞向きの作品」が選択される確率が高くなるわけですが、そういう作品はネット上では非常に「イイもの」に見えたとしても、「生鑑賞」においては、『そーでもない?』ということも出てきてしまうと思います。

そうではなくて、「ネット鑑賞」においては、「いい作品」では無くてあくまで「なぜかわからないけど、気になる?というモノ」を見つけ出しておいて、それを見る機会が訪れるのをじっと待っていて、その時まで、その作品や作者のことを忘れずにしっかり頭に刻み付けておくという考え方が必要になっていくんじゃないかと思うわけです。

むしろ、「ネット鑑賞の時点で、見たい!と思うモノ」は切り捨てていく、というくらいの心構えが必要になるんじゃないでしょうか?

そういう作品が「有名作品」であるとも限りませんし、気軽に行ける場所にある美術館で常設展示されているとも限りませんから、それをしっかり記憶しておかないと、せっかくその作品を見る機会が巡ってきても、その機会を逃してしまうわけですね。


そして、そういう考え方を選択するなら、やはり、そういう考え方に沿った見方をしていかないとならなくなるわけです。


要するに、「イイもの」を探すんじゃなくて、「気になるもの」を探すということなんだと思いますね。
「イイ・ワルイ」は二の次にしてでも、とにかく「気になるもの」や「引っかかるもの」ですね。
そういうモノを、いつも探していこうとして、「ネット鑑賞」をしていくと、けっこう「本当に気に入ったもの」に出会えるようになるんじゃないのかなと。

さらには、そういう見方をすることで、「本当の自分の好み」がわかってくるということもあるような気もします。
でも、いずれにしても、「ネット鑑賞」をかなりのところまで疑っていく必要が出てくるわけですから、「ネット鑑賞」自体には本質的な価値が見いだせなくなっていくと思います。

というか「ネット上の鑑賞」は「鑑賞」ではなく「資料」として扱われていくようになると思います。
まぁ、「パンフレット」や「説明書」みたいなものでしょうね。
それらは、どれも「資料」以上の発展性はないし、だれもそれを期待しませんよね。

まぁ、そんなわけで、「パソコン鑑賞」・「ネット鑑賞」は、もうこれ以上普及しない!(かな?)と。


そんな風に思っているわけです。

 ※これは、「芸術鑑賞」に対する「鑑賞者の姿勢」とも関係した話です。
  あくまで、「鑑賞者が作品と対峙する関係」を前提にして話をしています。
  「純粋な娯楽としての鑑賞」を考えた場合は、「ネット鑑賞」でも十分な
  のかも知れません。
  
  要するに、「鑑賞者」が「自分の人生の方向性に影響を与えるような作品
  に出会うこと」を目的として鑑賞するということですね。
  そのためには「まぁまぁいいな、という作品との出会い」は切り捨てても
  仕方ないと思うことが出来るか?ということに成るわけですね。
  そういう気持ちで「芸術」を鑑賞している人は、それなりに居るんだと思
  いますが、そういう人こそが「いい作品」や「見たいと思う作品」を「切
  り捨てることが出来ない人」でもあるわけで、そういうことから「ネット
  鑑賞」に振り回されてしまう確率も高くなってしまうということだと思い
  ます。
  



「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例する?




『人間は、いったい何のために生きているのか?』といえば、けっきょく「幸福」のために生きているんじゃないかと思います。


実際に、『この人、けっこう不幸なんじゃないか?』と思うような状況にある人(差別などを受けている人とかですね)でも、人生の中にほんのわずかな「幸福」を見つけ出すことができれば、それなりに何とか生きていけるんじゃないかと思います。

反面、生きていくのにはそれほど困っていない人でも、自分の人生の中に、一つも「幸福」を見つけられなくなってしまった人というのは、生きていかれなくなってしまうような気がします。

ただ、その「幸福」の捉え方が、人によってかなり違うので、一見不幸に見える人でも、まぁまぁ楽に生きている人がいたり、はた目には何不自由ないように見える人が、突然自殺してしまったりということがあるんだと思います。

そこで、その「幸福」というモノは、どういうことから生み出されているのか?と考えるわけです。
(もちろん、こんなことに結論なんてありえませんから、ただの話ですけどね)


私は、「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例しているんじゃないかと思うわけです。
つまり、『あれをしたい!』とか『こうしたい!』とか、それとは逆に『あれがしたくない!』とか『そうしたくない!』とかですね。
そういう、「欲求」とか「希望」とかといった「望むもの」がある人は、「幸福」なんじゃないかと思います。

反対に、「したいこと」も「したくないこと」もない状態で生きている人(こういう人がけっこうたくさんいるような気もするんですけど、それは、かなり信じがたいことだと思います)は、「幸福」」とは言えないように思いますね。

そういう人が、生きていかれるのは、「不幸ではないこと」を『幸福である』と考えているからなんじゃないかと思いますが、それは、一種の「すり替え」であって、「本当の幸福」ではないような気がします。
だとすれば、そういう人たちは、実は「生きている」のではなく「死んでいないだけ」なんじゃないかと思ってしまうほどですね。
(まぁ、「余計なお世話」でしょうけど)


要するに、「幸福」というのは「見つけ出すもの」でもあるんだと思います。
少なくとも、「あまりにも悲惨な状況」でなければ、自分の人生の中に「幸福を見つけ出すこと」は、そんなに難しいことではないと思いますし、「好き・嫌い」とか「したい・したくない」というようなことに対する「欲求」があれば、そこから、必ず「幸福」は見つけ出されることになるわけで、そういうことで人間は生きていかれるんだと思います。

そういうわけで、「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例するし、「人間」は「幸福」を見つけ出すことができれば、ほぼ生きていかれるし、「幸福」は「ほぼ見つけ出すことができるもの」である。

「完全に意欲を失える人」はいないと思いますから。
それは「悟り」や「解脱」と同じで「人間以上のこと」だと思いますよ。


ということを、「人間未満の人間」が考えてみた。
(説得力、低め)



「コンポジション」は「多重化」によって、さらに有効になる




「芸術」において、「コンポジション」という言葉は「構成」とか「構図」などと訳されますが、要するに「ナニカとナニカを組み合わせること」を「コンポジション」と言っているんだと思うわけです。


主に「絵」についていえば、それは「構図」と訳されることが多いわけですが、「色と色の組み合わせ」や「線による表現と面による表現の組み合わせ」など、単に「構図」とは言い切れない意味も含まれていると思います。

いずれにしても、この「コンポジション」は「絵」においては、全体のイメージを決定づける重要なものなんだと思います。

そして、その重要な要素である「コンポジション」を、「多重化」と結びつけることによって、さらに「有効性」を高めることができるんじゃないかと思っているわけなんですねぇ。

いろいろな話にしてしまうと、ややこしくなってしまいそうなので、一応、ここでは「絵」に限定した話とします。


「絵」における「コンポジション」は「構図」と訳されていることが多いようですが、「構図」は間違いなく「絵」の全体像を決定づける大事なものだと思います。

ただ、現在において「構図」というものは、もう出尽くしてしまっているということがあるわけです。
ありとあらゆる人が、数百年にわたって、ありとあらゆる「構図」を考案し続けてきて今日に至っているわけですから、当然、「新しい構図」に残された領域が極めて少なくなっているわけです。

それは、なにも「構図」だけに限ったことでもなくて、「芸術表現全般」において言えることではあると思いますけど、なにせ「構図」は、先述のように「絵の全体像を決定してしまうような重要な要素」であるわけですから、その「構図」が似ていると、どうしても同じようなものに見えてしまうわけで、創作者の「そのヒト性」が見えにくくなってしまうわけなのです。


特に「抽象画」においては、『構図で決まってしまう』という性質が強くなると思いますね。
「抽象画」は、基本的に、ナニが描いてあるのかは伝わらないことが多いので、「ディテール」の部分で勝負するのは難しくなるわけです。
「ナニかわからないもの」の「ディテール=詳細な部分」では、やはり表現できるものが限られてしまいますよね。
(「抽象」は「ナニでもないものを創り出すこと」だと思いますので)

そうなると、どうしても、「全体像」で勝負することに成るわけです。
それで、「構図」の影響が大きくなるんだと思います。


少なくとも、「絵」を「平面」と考えるなら、基本的に「四角い(丸でも)平面」の中に、取ることができる「構図」というのは、ある程度限られてくるわけで、それはもう出尽くしてしまっているといってもいいんじゃないでしょうか?

そんな中で、「絵」に自分なりの「独自性」を見つけ出そうとすることが、かなり難しいわけです。

こう言ったことから、「現在形の美術」においては、「平面を離れた創作」へ向かう傾向があるのは確かなことだと思うわけです。
そういう方向性自体が間違っているとは思いませんが、そこに、やや安直な傾向があるのも否定はできないような気がするわけです。

確かに、古くからある「絵画」とか「彫刻」とかといった「既存の表現形態」を離れることには、ある種の解放感を感じることでもありますし、ある種の可能性も、そこにあるとは思いますが、それは『なんとなく、こっちのほうがオモシロそうだから』ということではないと思います。

今後、このような方向性がますます強調されていき、「平面」という意味での「絵」というジャンルが、「芸術の領域」の中で徐々に小さなジャンルになっていってしまうと、「芸術の広さ」は限りなく広がっていくのかもしれませんが、「芸術の深さ」は限りなく浅くなってしまうんじゃないかと思うわけです。
つまり、密度が薄くなっていってしまうような気がするわけですね。

とは言え、前述のように「構図」には限界がきているわけです。

そうなると、「コンポジション」を重視しつつ「構図」には頼れないという厳しい状況になるわけで、そこをなんとかしないと「芸術の密度」を取り戻すことは難しいということになってくるわけですねぇ。

さて、そこで、使えるのが「芸術の多重化」という発想だと思うわけです。
(まぁ、『私はそんなことをやってます』という話ですけどね)

「構図」というものを、「一様な平面における構図」と考えれば、その一つ一つの「平面」を重ね合わせて「多重化」すれば、「構図」と「構図」による「構成」、つまり、複数の「多重化」した「構図」どうしの「コンポジション」が可能になるわけですね。
つまり、「一様な平面」の中で、新しい領域がなくなってしまった「構図」に、「複数の平面」を重ね合わせていくことで、新たな「コンポジションの領域」が生み出せるんじゃないか?ということです。

といっても、簡単ではないですが、少なくとも、そこに新しい「空き領域」があることだけは間違いないと思います。

もちろん、こんなことを言っていても、自分が「多重化」をうまく使いこなせているのか?というと、まったくそんなことはなく、雲をつかむような作業を繰り返しているだけなんですが、それでも、そこに「空き領域」があることだけは見えてきています。
そのことで、とりあえず向かうべき方向があるわけですね。
「空き領域」だけは見えていますから、そうそう見失うこともありません。

それから、この「空き領域」は、現在に至って、はじめて「芸術に与えられた領域」なんじゃないかと思っています。
要するに、「抽象表現」というものが、ようやく人の意識の中に、抵抗ないものとして定着して来たことによって、この「空き領域」ができてきたと思うわけです。
(ある意味で、「抽象」が飽きられたことで「空き領域」が出来てきたと言ってもいいかもしれませんね)

つまり、「コンポジション」における「多重化」を考えるとき、「具象表現」ではむずかしいと思うんですね。
(これは「芸術の多重化」全般においても言えることだと思います)

と、ここで、話が長くなりそうなので、次の記事につなげます。




「コンポジションの多重化」は、今だからできること(今しかできないこと)



前の記事からの続きです。

「コンポジション(=構図や構成)」における「多重化」は、「平面」としての「絵」に「新たな空き領域」を提供してくれるんじゃないか?
そして、その「空き領域」は現在に至って、生み出されるべくして生み出された「芸術の領域」なのではないのか?
つまり、「抽象表現」というモノが一般的に抵抗なく受け入れられるようになりつつある現在に至って、その「一般化した抽象表現」を使うことで、はじめて生み出され、また、使うことができるようになった「領域」なんじゃないだろうか?
という話の続きです。


まず、はじめに、「具象表現」では「コンポジション」を「多重化」することができないということがあるわけです。

「具象表現」においては、主に「現実」が基準になりますから(「非現実」の中にも「具体性」は在り得ると思いますが、「現実」を伴わない「具体性」を使った表現を「具象表現」とは言えないと思うわけです)、「モノ」とか「空間」とか「距離」とか「大きさ」などという現実世界においては、消すことができない「存在」というものを無視することができないわけです。

ということは、「具象画」の中では「存在しているもの」を描く必要があるし、いかなるものでも「具象画」として描くということは、それが「存在していること」を基盤にして成り立っているということに成るわけです。

ということは、「具象画」においては、「ある一つの空間に存在しているもの」を描くことになるわけで、それは「同じ平面に描くこと」とほぼ同じことなわけですから、どうしても複数の平面を組み合わせて「多重化」するということが難しくなってしまうわけですね。

そこのところを、やや無理して、「具象表現」の中に「違う空間」や「複数の平面」を作り出すことは可能だと思いますが、どうしても無理がありますから、「いろいろな事象の多重化」というよりは「一つの事象のなかでの折衷」というような形になってしまうことが多いと思います。

 ※これは、たとえて言えば、夢の中で、いろいろなことがとっかえひっかえ
  現れてくるような感じになるわけで、それは「多重化」とは違うことだと
  思います。 
  それは、「コラージュ」のような感覚になると思いますが、「コラージュ」
  が面白いのは、「バラバラ」だからであって、融合された一つのものに成
  っていないという所なんじゃないかと思うわけです(夢も)。
  この場合の「多重化」は、そういう複数の局面を「融合する手段」として考
  えていますから、やはり少し違うものだと思います。

その反面、「具象画」の中に「非存在的なもの(存在であることを無視しているもの)」を描きこめば、それは「絵の中」とは認識されなくなってしまうわけで、当然「絵の外」という認識をされてしまうことになるわけです。

そうなると、つまり、「具象画」においては、「絵の中」と「絵の外」との間での「多重化」はできても、「絵の中」同士の「多重化」はできないということになるわけです。


ところが、その点、「抽象表現」を使った場合は、その絵に描かれているナニカが「存在している」という必要はありません。
というよりも、「非存在的なもの」を創り出す作業を「抽象」というんだと思いますから、むしろ「存在していること」を排除したいという感じもあるわけですね。
だから、「抽象画」の中では、「非存在的なもの」を「多重化」することが出来るわけですね。

そして、「存在」という束縛がない分だけ、自由な「多重化」ができるということです。
つまり、「ある一つの空間」とか「ある一つの世界観」とか「ある一つの事象」という「具象(具体)的なもの」に縛られることなく、その時々で、勝手に「事象」を入れ替えても、それを「一つの絵」の中で表現することができるということだと思うわけです。

まぁ、要するに、「具象表現」においては「多重化」が「違和感」につながってしまうわけですが、「抽象表現」においては、「多重化」が「違和感」を感じずに見られるということなんだと思います。
(「抽象画」は、「多重化」とは別の所での「違和感」を伴うわけですが)

以上のようなことから、「芸術の多重化」には「抽象表現」という形態が適していると思うわけですが、さらに言うと、その「抽象表現」が一般に普及して、かなりのところまで「違和感」なく受け入れられるようになった現在においてこそ、「芸術の多重化」がより有効になるということもあるんじゃないかと思うわけです。
(「抽象」は「違和感」を残したままの状態で飽きられて来ていると思いますけどね)

つまり、「抽象表現」が現在ほど普及していなかった頃までだったら、せっかく「違和感」なく「多重化」できても、それ以前に「抽象に対する違和感」が大きすぎて、意味がなかったんじゃないかと思うわけです。
(「芸術」は「鑑賞者」から拒否されてしまえば、そこで「行き止まり」ですからね)
(それでいて、「鑑賞者の評価」を目指してしまっても、やはり、そこで「行き止まり」です)

だから、「芸術の多重化」は、「今だからこそできること」なんじゃないかなと思うわけです。

さらに言うと、この時期を逸してしまうと、もしかすると、また意味を失ってしまうような気もするので、そうならないためも、それは「今しかできないこと」なのかもしれないなと。


そんなことを言いたかったわけなのです。



「人間」は「何世代先の人間まで」を見込んで行動することができるのだろうか?



よく、「エコロジー」のような「地球環境」についての話をするときなどに(いや、別にほかの話でもいいんですけど)、『子や孫の世代に対して責任を持てる行動を~』というようなことを言うことがありますけど、果たして、人間は「何世代先の人間」までを見込んで行動することができるんでしょうか?
それとも、人間にできるのは「今のことを考えることだけ」なんでしょうか?
あるいは、そんなことすらもできないんでしょうか?


『~考えることができるのか?』ということだと、何となく、たいしたことはできそうもないような気がしますし、逆に、『そんなこと、できないとダメなんですか?』という考えも浮かんできてしまうわけですが、『~考えてしまうのか?』ということならば、『きっと、人間は考えてしまうんでしょうね、決してわかりもしない何世代も先のことまでも・・・』と思うわけです。

要するに、人間って、「未来」や「未来の人間」を想定しないではいられないところがあると思うわけですね。
「未来」を無視できる人はいるのかもしれませんが、「未来」を想定しないでいられる人は、そうそう居ないような気がしますねぇ。

「数世代先の未来」だと、みんながみんな想定しているとは限りませんし、いつもそんなことばかり気にしている人は、むしろ稀だと思いますが、「明日のこと」を全く考えないで生きられる人となると、そういう人もめったにいないと思います。

まぁ、人間が「歴史」を記録するようになったことで、「時代」を感じるようになったのは間違いないでしょうし、それらの「歴史」や「時代」が学ばれるようになったことで、「過去」だけでなく「未来」も意識せざるを得なくなったというのも確かなことのような気がします。

そして、その後、人間は「進化という仕組み」があるということに気が付いてしまったわけです。
つまり、「現在の人間の行動や思考」が「未来の人間を決定づけていく要素」に成るということを知っているということですね。

いや、それが正しいかどうか?ということではなくて、人間がそう思っているということですね。
もしも、「進化論」が間違っていたとしても、「現在の人間」が、そこから逃れられないということだけは間違いようのないことだと思うわけです。

まぁ、そんなことを考えていくと、『人間は何世代先の人間までを見込んで行動することができるのだろうか?』ということが、少しだけ具体的なことのように思えてくるわけです。

つまり、『人間は何世代先の人間までを見込んで行動することができるのだろうか?』というよりも、『人間の行動は、何世代先の人間までを見込んでしまうのか?』という感じですね。

「現在の人間」が無意識のうちに考えていることが「未来の人間」に影響を与えていく可能性はあるでしょうし、その「無意識」の中には『その無意識が未来の人間に影響を与えるものである』ということも含まれているわけですから、どっちが「影響を与えた側」で、どっちが「影響を受けた側」なのかがわからなくなってくるわけですね。

こういうのって、面白いですねぇ。とっても。
まぁ、役には立ちませんけど。


こういうことを言うと、『根拠もなく、いい加減なことを言うな!』という人も居らっしゃいますが、『じゃ、その根拠って、ナニ?』っていうと、けっきょく詰まるところ、「定説」なわけです。

「定説」を「根拠」にしなければいけないとすれば、永久に「同じ定説」を使いまわしていかなければなりませんよね。
まぁ、世の中には覚えきれないくらいたくさんの「定説」があるので、それでも困らないんでしょうね。

だから、そういう「定説好き」の人から見ると、こういう話がすごくイライラするんだと思います。
要するに、自分たちがせっかく勉強した「定説」を足蹴にされたように感じるんでしょうね。
(そんなつもりはないんですけどねぇ)
でも、それだと「学のない人間」は何も言ってはいけないということになってしまいます。

『(有名な)誰ソレがこういうことを言っています』みたいなことを「後ろ盾」にしないと、モノが言えないんだとしたら、そんな世の中は、つまらないと思いますよ。

まぁ、そういうわけで、結論なんてありませんけど、こんなことを考えてみたというわけです。




「幻想美」と「理想美」



昔から、「芸術(美術)」は、「理想美」を追求してきたんだと思います。

でも、今の時代において、『その「理想美」って、どんなものなの?』と聞かれて、答えられる人がいるでしょうか?
この質問に答えられる人がほとんど居ないとすれば、おそらく、「今という時代」は「理想を失った時代」なんじゃないでしょうか?


この「理想を失った時代」を、「理想が相対化した時代」」という考え方に置き換えることもできるかもしれません。
つまり、「常に変わらないような普遍的な理想」ではなく「人それぞれの理想」や「その時々の理想」を追求するようになったという考え方もできるということですね。

でも、それだと『相対的なものを「理想」といえるのか?』という別の疑問が出てきてしまいますから、一応「理想を失った時代」といってもいいのかな?と思うわけですね。

さて、そこで、「今」が「理想を失った時代」であるとすれば、やはり「理想に代わるナニカ」が必要になるんじゃないだろうか?ということがあるわけです。
その「理想に代わるもの」を、「幻想」と考えてみたわけです。


かなり昔の時代までなら、「理想美」=「美しい人」とか、「理想美」=「美しい自然」などということに何の抵抗も感じなかったのかもしれませんが、「今」となるとどうでしょうか?

「今」でも、「美しい人」や「美しい自然」の中に「理想美」を見つけ出すことはできますし、「それ以上の美」が必要であるということでもないと思うわけですが、少なくとも「芸術(美術)」において、『それでいいのか?』と言われれば、『それでいいんです!』とは言いにくい状況があるわけです。

つまり、「理想が失われた時代」において「理想を追うこと」が「芸術」と成り得るのか?ということですね。

確かに、「芸術が追及するところの真実」について、「時代」とは無関係の「普遍的な真実」であると考えることはできるでしょう。
そう考えれば、「現在」が「理想を失った時代」であることと、「芸術が追及するもの」とは無関係であるとも言えるのかもしれません。

しかし、そういう考え方に基づいていくなら、常に、「すべての芸術」がほとんど同じものを追求していくことになってしまいます。
要するに、「一つの理想」に向かっていくということになるわけですね。
それは、一つの考え方としてあるでしょうし、そう言う考え方を否定するつもりはありませんが、実際には「芸術」には多様性もあっていいと思うわけで、多様性がなければ「芸術」は、とても狭くて堅苦しい、つまりは『こういうのが一番いいんだ!!』というような面白みのない世界になってしまうような気もします。

「芸術が古典的であった時代」までは、それでよかったのかもしれません。
そういう「時代」であれば、「理想」という一つの方向に向かっていく過程での、「小さなチガイ」の中にも、十分に多様性が感じられたんだと思います。
(だから、必ずしも「堅苦しくて面白みのない世界」に成らずにいられたんでしょうね)


しかし、そういう意味での多様性は、もうかなり前に出尽くしてしまいましたし、まさに、その結果こそが、現在の「理想を失った時代」なんだと思うわけです。

だとすれば、やはり、「理想に代わるもの」があっていいんじゃないのかなと。

それで、私の場合は、「幻想」を「理想に代わるもの」として考えているわけです。

「幻想」には、「実体」がないという欠点がありますが、実を言えば、それは「理想」も同じで、もともと「理想」にも「現実に存在するという意味での実体」は無いわけです。

その点については「理想」も「幻想」も似たようなものなのかも知れませんね。

で、どこが違うのか?

「現実」からたどって行って、より確固たる「頂点」を目指すのが「理想」なんだと思います。
それに対して、「現実」から「確固たる」を取り除いて、むしろ「曖昧」にしていくのが「幻想」なんじゃないでしょうか?

 ※もっと言えば、「現実的なこと」は考えずに「ゼロ」から「幻想の追求」を
  始めることもできるでしょう。
  そう考えれば、「抽象表現」は一種の「幻想美の追求」であるとも考えられ
  るような気がします。

だから、「理想」と聞いたときには、必ずしも『実体がない』とは思わないのに、「幻想」という言葉を聞くと「フワフワとした実体のないもの」という印象が出てきてしまうわけです。
まぁ、要するに、そこが「幻想の弱点」ではあるわけですね。

でも、いいところもあって、「幻想」は「曖昧」であるために、自由度が高いということがあるわけです。

「理想」は、一つの頂点に向かって行くという性質から、どうしても狭い領域に閉じ込められてしまう傾向があるのに対して、「幻想」は「曖昧」にしていくという性質があるわけですから、限りなく自由である可能性を持っていると言えなくもないわけです。

さて、そこで、その「曖昧」で「自由」だけど「実体が希薄」な「幻想」に、「実体」を与えることができれば、と考えるわけです。

もしも、「曖昧さ」や「自由度」を保ったまま、「幻想」に「実体」を与えることができれば、それは「理想を失った現在」において、「理想に代わるもの」に成り得るんじゃないかと思うわけですねぇ。

まぁ、私の場合そういう方向でやっております。
というだけの話なんですけどね。

一応、自分では、そういうのを「異・現実の世界」とか「異・リアリズム」とかと言っています。

そして、さらには、その「異・現実の世界感」を「日常空間」に持ち込んで、『日常生活と幻想の空間が一体化したらいいんじゃないの?』ということを「幻想の日常化計画」と言っているわけなのです。

まぁ、そんなわけで、お読みになられた方には『ナニ言ってるのか、サッパリわからなかった』のかもしれませんが、私といたしましては、一方的に、そんな方針でやっておりますです。ハイ。
(本当はわかってほしいです。うまく説明できないだけ)


「異現実の世界」は、創り出すもの



「幻想的」とか「幻想の世界」とかというと、現実離れした世界観というイメージがあると思いますが、実際の「幻想」は、けっこう「現実」をもとにしている場合が多いように思うわけです。
というか、「現実」との間の「小さなズレ」のことを「幻想」と言っている場合が多いという気もします。

 ※例えば「妖精」は「幻想」の代表的なものだと思いますが、ほとんど人間と
  同じ姿をしていますよね。
  (まぁ、羽くらいは生えてますけど)

だから、「幻想」は、必ずしも「現実」と対立するものとは限らないと思います。
とは言え、「幻想」を「幻想」たらしめている要素といえば、やはり、「現実離れした部分」ということになるのも確かなことだと思うわけです。


そして、その「幻想を幻想たらしめている要素」だけを集めていったらどんなものができてくるんだろうか?というようなものを、私の場合は「異現実の世界」とか「異・リアリズム」と言っているわけです。

つまり、「現実ではないもの」をかためて作り上げた世界ということです。
それが、「最も幻想であるもの」なんじゃないのかなと思うわけですね。

ただ、そこで問題なのは、その「異現実の世界」を見つけ出すための『ヒントがない!』ということなんですねぇ。

「現実」ではないので、「現実」の中に「ヒント」はありません。
それで、「自分」の中に「ヒント」はないかと思って探すわけですが、人間って「自分」のことが見えないんですねぇ。
「自分」の中には、きっとたくさんの「ヒント」があるんでしょうが、なかなか見つけ出すのが難しいわけです。
そうなると、あとは『ヤミクモ?』ということくらいしかなくなってしまうわけです。

そんな感じですから、きっと、人から見たら、テキトーにやってるようにしか見えないんでしょうが、自分といたしましては、なかなか四苦八苦しながらやっているわけで、楽しいと思うことなどほとんどなく、達成感もない中で、雲をつかむような作業を繰り返すのは、やったらめったら疲労感だけが残ることなわけですが、なぜか止めることだけはできないという、何ともどうしようもない状態と言えなくもないわけですが、それはそれで、けっこういい方なのかなと。

そんな風に思っております。

『勝手にやれば』

「ラジャ!」




『今の世の中はチョット・オカシイよ!』について



社会批判などをするときに、わりと簡単に『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言ってしまうことがありますよね。
(自分自身もよく言っていると思いますけど)
でも、『じゃあ、「いい世の中」ってどういう世の中なんだ?』とか『そもそも、「いい世の中」って、いつ、どこの国にあった世の中なんだ?』ということになると、たぶん、誰も答えられないんじゃないでしょうか?


要するに、実を言えば、「いい世の中」なんて、今までに一度も実現されていないわけです。
というか、今までにあったのは「悪い世の中」と「非常に悪い世の中」だけであって、「いい世の中」はおろか「まぁまぁ、いい世の中」ですら、『本当に、そんな時代があったのかぁ?』とずいぶん怪しい感じもしてくるほどなわけですねぇ。
(「いい世の中」とされるのが、「バブル期」のような「ややイカレタ時代」だったりしますよね)

 ※こういう話をすると、『いやいや、昔に比べればゼンゼン・マシですよ』
  という人がいますが、そういう人に『えっ!?子供から大人まで自殺や
  イジメが蔓延するこの世の中が、あなたにとってはそんなにマシな世の
  中なんですか?』と聞きたくなってしまいますね。

要するに、「社会」とか「政治」というものに対して「理想」とか「信頼」を持ちすぎてきたんじゃないでしょうか?
だから、『きっと、いつか「いい世の中」が実現されるに違いない!』という思い込みが出来上がってしまって、その「思い込み」が独り歩きしてしまっているような気もするわけですね。

まぁ、こういうことを言うと、『なんでも悲観的に考えてはいけない』とか『そういうマイナス思考は何の役にも立たない』と思う方もいるんでしょうね。

でも、やっぱり『魚のいないところで釣りをしても、釣れないでしょ?』
『というか、それを釣りと呼べるのかどうかも怪しいんじゃないの?』と思ってしまいますね

まぁ、それぐらい、「いい世の中」は実現不可能なものなんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。


まず、なんといっても、「社会」が「個人を阻害するもの」であるということが認識されていないわけです。
だから、「社会の完成度」を高めていけば「いい世の中」になると思われているわけです。

でも、実際には「社会の完成度」が高くなると、むしろ「社会」は「人間」に対して高い要求を突き付けてくるようになるわけで、そういう「社会の要求」や「社会からの使役」についていけない人が出てきてしまうわけです。

こう言うと、いかにも「劣等な人間」が置いて行かれるというイメージになってしまいそうですが、実を言えば、『ついて行かれなくなる』のは「人間的な人間」であって、「劣等」かどうかは関係ありません。
逆に、『ついて行かれる』のは「機械的な人間」であるか、または「動物的な人間」であるわけです。
こちらも、「劣等」であるか「優等」であるかは関係ありません。

 ※これは、必ずしも「社会に適応できる人」が「人間性」において劣るという
  ことではありません。
  つまり、「人間性」が「その人の社会への適応度」に比例しているのではな
  く、「その人が社会から受けるストレス」に比例しているということです。

  要するに、「社会的なストレスを受けている人」というのは、その人の中の
  少なくとも一部分が、「社会」から置いて行かれているということに成るわ
  けですね。

ということは、「いい(完成された)社会」を目指せば、必ず「人間」が阻害されるということです。
つまり、「いい社会」であればあるほど、人間にとっては「いい世の中」から離れていってしまうモノだということなんですねぇ。

これは、「いい社会」だけでなく「いい政治」でも「いい経済」でも「いい制度」でも、ほとんどの「社会的秩序」に当てはまると思います。
でも、それでいて「秩序」も必要ではあるわけですから、そんなわけで「いい世の中」が実現しないというわけです。


それから、もう一つ大きいのは、「人間」は常に歴史とともに「社会に対する期待値」を上げてしまうということです。
例えば、「戦乱の世の中」から「平和な世の中」になっても、『いや、まだまだ、本当の平和とは言えない!』というように、どんどん「社会に対する期待値」を高いところへ持ち上げてしまうわけです。
(この話も、そういう話の一つですけどね)

ただでさえ、「社会」には「人間を阻害する性質」があるのに、その「社会に対する期待値」を、どんどん上げていってしまうわけですから、人間が満足するような「いい世の中」なんて実現できるわけがないですよね。

まぁ、それで、いつもいつも『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言っていなければならなくなるわけです。

それは、たぶん仕方ないことだと思うわけですが、そんな中でも、少しづつ「マシな世の中」が出来ていけば、渋々ではあってもそれはそれでいいのかな?とも思うわけで、それ以上を望むつもりはないわけなんですが、それにつけても、やっぱり『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言いたくなるような「今の世の中」って、いったいどうなのよ?とも思うわけで、どうして、こんなに豊かなのにこんなに貧しくて悲しいのだろうか?と言わざるを得ないわけなのです。


で、『なぜ、そうなってしまうのか?』と考えてみるわけです。

やっぱり、「カネ」をすべての原理にしてしまっていることに、一番の問題があるような気がしますねぇ。
前述のように、「いい世の中」は実現不可能だとしても、ある意味で、どんどん悪くなっているところがあるのも否定できないのは、やはり「カネという妄想」にとらわれてしまっているからではないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。

とにかく、「カネ」を原理として生み出されるものが、ことごとく「人間の幸福」を削ぎ取ってしまう性質があるわけです。
なぜなら、「人間」は絶対に「カネ」には逆らえないからです。

「カネ」に逆らうということは、ある意味で「死」を意味するところがあって、「世の中で生きていくための絶対価」として設定されてしまっているものこそが「カネという妄想」なわけですね。
(個人的に「カネに振り回されない人」もいるということとは別の話です)

だから、絶対に逆らえないし、逆らえば、その人の中の一部分が死んでいくわけです。
当然、逆らい続けていけば、本当に生きられなくなるということですね。
だから、『服従するか?』・『殺されるか?』の二者択一になるわけです。

そして、その「二者択一」が、人間に耐えられる範囲を超えつつある状態が「今」なんだと思うわけです。
つまり、世の中が二極化してきていると思うんですね。

「カネに服従する側」を選択した人は、極端に「カネ」に執着した生き方をしています。
(例えば、「IT系の起業家」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではなないんでしょうけどね)

「カネに逆らう側」を選択した人は、「生きること」自体を解脱しようとする生き方に向かう傾向があります。
(例えば、「スピリチュアル系」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではないんでしょうけどね)

といっても、実際は、時と場合によって「服従する側」と「逆らう側」を行ったり来たりしている人がほとんどなわけですが、そういう人達ですら、「服従する側」にいるときには、かなりな「カネの亡者ぶり」だし、そうかと思うと、一転して「逆らう側」に回ったときには、『えっ、聖人?』というようなことを言っていたりするわけです。
つまり、一人の人の中でも「二極化」が起きてしまっているということだと思いますね。

そんな感じで二極化してしまっていますから、いつも、どちらかに一方的に偏った極端なことしか起きなくなってきています。
ところが、とんでもなく偏った人以外の多くの人間は、その極端についていけないわけで、ここでも、また、「置いて行かれる人」が出てしまうわけです。

しかも、この場合は、ほとんどの人が「置いて行かれる側」になってしまいます。
ごく一部分の「成功した人」や、それとは反対に「物欲から解脱した人」以外のすべての人たちが、全部置いて行かれてしまうことになるわけです。

しかも、「解脱できる人」なんてほとんどいませんし、「成功する人」は居ても、それが続くことはやっぱりほとんどありませんから、だれも残れないのかもしれません。

そういうことで、「カネ」を原理にしていくと、「人間の幸福」がそぎ取られて行ってしまうんだと思いますよ。
そういうの、だれにとっても、なんのトクもないという気がしますね。

だから、もう「カネ」は二の次にした世の中に成って行って欲しいなと。

そんな風に思います。


 ※もしかすると、この記事を読むと、一見、「物欲を捨てる側」の話のよ
  うに見えてしまうかもしれないんですが、「人間」が「物欲」を捨てる
  という話ではなくて、「社会全体が支配されてしまっているカネという
  妄想」からナントカシテ解脱しましょうよ!という話です。
  つまり、解脱するのは「個人」ではなく「世の中」ということですね。
  人間は、そこに方向づけをするだけで十分なんじゃないでしょうか?
  でも、それも簡単ではないでしょうね。




「家に飾りたくない絵」を家に飾ったら、どうなるのか?



先日、自分が描いた絵を、ある初老のご婦人にお見せしたことがあったんですが、その時、その方が『うふふ、この絵は家には飾りたくないわねぇ』と言っていたんですねぇ。

ごくごく個人的レベルではありますが、私にとっては・・・・大災害です。
(言う方は、何の気なしに言ってるんでしょうが、言われた方にしてみれば大惨事です)

しかも、たぶん、そのご婦人にまったく悪気はなかったと思いますし、なにせニコニコしながら言うもんですから、『あははぁ、まぁ、そぉーですよねぇ、こういうの、家に飾りたくはないですよねぇー、気持ち悪いしぃ』と言うしかなかったというわけです。
(「二次災害」的な?)

まぁ、それは、まったくもって個人的なことですから、とりあえず置いといて、そういう「家に飾りたくない絵」を家に飾ったらどうなるのか?と考えてみたわけです。


「家に飾りたくない絵」というのは、本当に家に飾らないほうがいいんでしょうか?
また、そういう絵は、どうして、家に飾りたくならないのでしょうか?
どいうことで、「家に飾りたい絵」と「家に飾りたくない絵」が分かれているんでしょうか?ということですね。


ここで、まず、言っておきたいのは、「絵」は「家に飾るための絵」でなければいけないのか?ということなんです。
つまり、「家に飾るのに最適な絵」が「いい絵」なのか?ということですね。

 ※ここでは「現在形の芸術を考える上で、その方向性に沿った絵」という意
  味で、そういう絵を「いい絵」と言うことにして話をすることにします。
  だから、「良く描けている絵」という意味ではありませんし、「評価され
  るべき絵」ということでもありません。

「家に飾るのに最適な絵」とは、要するに「インテリア性の優れた絵」ということだと思います。
果たして、「インテリア性の優れた絵」は、本当に「いい絵」なんでしょうか?

確かに、「インテリア性の優れた絵」は、人の心を落ち着かせて、楽しませてくれるでしょうが、それだけで「いい絵」の条件を満たしていると言えるのでしょうか?
もし、そうなら、「とてもセンスのいい壁紙」も「いい絵」と言うことができるということになります。
しかし、実際には、やはり「壁紙」は「いい絵」とは言えないわけですから、そこには、何か違いがあるわけです。

詰まるところ、「壁紙」と「いい絵」の違いは「生産されたもの」と「創作されたもの」の違いなんだと思うわけです。

どんなに、美しくてすばらしいものでも、「生産されたもの」は「製品」であって「作品」ではありません。
要するに、そこに作者の意識が込められていない、または、その意識が薄いということです。
だから、それを「その作者の作品」と呼ぶには、「不足な感じ」がするんだと思います。

ということは、「いい絵」の条件には「作者の意識が込められていること」という条件も含まれているということです。

ところが、そうなると、「いい絵」が「家に飾るのに最適な絵」とは限らなくなってきます。
『作者の意識が込められている』ということは、「その作者そのもの」に近くなりますから、「好き・嫌い」も分かれるでしょうし、インテリアとのなじみも無視されることになるわけで、当然「家に飾るのに最適な絵」とは言えなくなることが多くなるわけです。

そして、これは、「壁紙」だけでなく「作品として創作された絵」についても言えることで、「作品として創作された絵」であっても、「作者の意識」が希薄な作品もありますし、それが濃厚な作品もあるわけで、やはり「作者の意識」が濃い作品は「家に飾るのに最適な絵」とは言えない場合が多くなるわけです。

そういうことを前提にして考えると、「家に飾りたくない絵」とは、「インテリア性が低い絵」ということになりますが、そういう絵の中に「作者の意識が濃い絵」も含まれているということになるわけです。

さて、そこで、そういう「家に飾りたくない絵」を、もしも家に飾ったらどうなるのか?ということですね。

私は、「家に飾りたくない絵」こそ「いま家に飾る意味」があるんじゃないか?と思っているわけなのです。
これは、私が勝手に言っていることですから、もちろん『誰が、見たくもない絵を家に飾るんだよ!?』という方もいらっしゃるでしょうし、『そういう絵は美術館で見るものだ!』という考え方もあると思いますし、それらの考えもごく当然だとは思います。

しかし、「現在」ということを前提に考えた場合、人間にとって「幻想」の必要性が高くなってきているように思うわけです。
そして、その「幻想」に最も近いのが「芸術」であり、その中でも「作者の意識が濃い作品」なんではないのかなと思うわけです。

一昔前の時代までは、「幻想」を「日常」に持ち込む必要はなかったかもしれませんし、「幻想であること」よりも「美しいこと」や「技術的に完成されていること」の方が、人の心を癒していたんだと思います。
でも、「現在」ということになると、それでは足りないというか、違うというか、どこかがズレているように思うわけですね。
だからこそ、「現代美術」と言われているジャンルが「非日常」を演出しようとする傾向があるんだと思います。

でも、どちらかというと、「演出された非日常」ではなくて、「日常の中に普通に存在する非日常」が必要なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、「非日常の日常化」ですね。
それを、私は「幻想の日常化」と呼んでいるわけです。
(「現在形の美術」で、主に行われているのは「非日常のエンターテイメント化」ですね)

そういう意味でも、『みんな「家に飾りたくない絵」こそ、どんどん家に飾ろうよ!』と言いたいわけです。

『ん?そう考えると、あのご婦人は褒めてくれていたと考えるべきなのか?』

「いえいえ、褒めてませんわよ、うふふ」

『・・・ですよね』

っていう・・・。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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