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「スタイル」と「スタイリッシュ」



「芸術」において、現在、唯一の「独創性」を示す要素は「スタイル」だと思うわけです。

ありとあらゆる「創意工夫」が出尽くした感のある「芸術」において、「スタイルが確立されたもの」だけが「独創性を示すことができるもの」だと思うわけですね。
それとは逆に、一見すると特徴的に見えるものでも、そこに「確立されたスタイル」がないと、、歴史上の膨大な数の作品の中に埋没してしまって、はっきりした「独創性」を感じ取るのが難しくなってしまうわけです。

だから、「スタイル」はある程度大切なものなんだと思います。
やっぱり、だれの作品か見分けがつかないというのは、創作者にとっては悲しいことだと思いますからね。


ただ、ここで、「スタイル」とは「形式」であるということを忘れてはいけないような気がするわけです。
つまり、「スタイル」を重視しすぎると「スタイル=形式」に乗っ取られて、「内容」が二の次になってしまう可能性が高いということです。

前述のように、現在においては「スタイル」が唯一の「独創性を示すことができる要素」だと思いますから、その「スタイル」が際立っていれば、「内容」とは関係なく「作者」を区別してもらえるようになります。
そのことが、作者としては、どうにも抵抗できないほど嬉しいことなので、やはり、どうしてもそちらに振り回されてしまうわけです。
それで、いつの間にか「内容」が二の次になってしまうということがあるように思うわけですね。

だから、「スタイル」とは、あくまで「形式」であって、「内容」とは無関係なものであるということを強く意識していないと、あっという間に乗っ取られてしまいますし、気が付いたら、自分の目指していたこととは、全然違う方向に向かって進んでいたなんて言うことにもなりかねないと思うわけです。

とは言え、やはり「自分のスタイル」というモノがないと、「自分の表現するところ」が自由に表現できないという面もあるんですねぇ。
つまり、「自分のスタイル」を持っていると、その「スタイル」の中で自由な表現ができるようになるんだと思います。
そうなると、「スタイル」が必要なのも確かなことだと思うわけです。

こういうの、困りますねぇ。


そこで、「スタイル」と「スタイリッシュ」の違いが、けっこう大きいんじゃないかと思ったわけなのです。

「スタイル」は「形式」ではありますが、あくまで自分の中の「内容」が実を結んで「形」となったものなんだと思います。
それに対して、「スタイリッシュなもの」というのは、「スタイル重視」という印象があって、「スタイルそのもの」を最も重要視するのが「スタイリッシュ」なんじゃないかと思うわけです。

要するに、「自分のスタイル」を追求していくときに、「スタイリッシュ」に成らないようにしていれば、「スタイル」に捕らわれずに「スタイル」を追い求めていけるんじゃないのかなと。
そんな風に思ったわけですね。


もちろん、「スタイリッシュ」が適している場合もあると思います。
たとえば、「デザイン」などは「スタイリッシュ」であることで、美しくなることは多いと思います。
そういった、「形式美」や「様式美」を否定する気はありませんが、「芸術」を「自己表現」と考えた場合に限って言うと、やはり、「スタイリッシュなもの」は「自己を表現するもの」ではないように思いますね。

要するに、「スタイル」は「形式」で、「スタイリッシュ」は「おしゃれな形式」なんだと思います。
つまり、「スタイルであることそのもの」を追求していくと、無駄なものはそぎ落とされていくし、最も単純化された「最小限の形式」だけが残るということだと思います。

でも、その「そぎ落とされて捨てられた部分」にも、「自己表現のエッセンス」がある場合は多いわけですね。

「自己表現」の過程において、結果的に『スタイルが確立されていく』ということはあっても、『スタイル自体を追求していく』ことによって『自己表現が確立されていく』ということにはならないような気がします。

だから、「スタイル」は「自己表現」を追求していった結果としての副産物のようなものであって、「知らず知らずのうちに出来上がっていくもの」というのが、一番望ましいんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。


「厭世観」と「厭社会観」



「厭世観」というと、あまりいいイメージがないんじゃないかと思います。
でも、それでいて、『「厭世観」なんてまったく意識したこともないよ』と言い切れる人も、また、そうたくさんはいないような気もするわけです。
(なにせ、この「ストレス社会」ですからねぇ)

でも、最近になって、「厭世観」とは少し違う「厭社会観」というモノがあるような気がして来ているわけです。
そして、その「厭世観」と「厭社会観」がいつの間にか入れ替わっていて、現在、「厭世観」と言われているものの多くが、実は「厭社会観」になってしまっているんじゃないかと思うわけです。
(と言っても、「厭社会観」という言葉は、ここで勝手に作った言葉ですけど)


「厭世観」と「厭社会観」の違いは、「厭世観」が「生きること」そのものに対する拒否感であるのに対して、「厭社会観」は、「自分が生きている社会」に対する拒否感と言っていいと思います。
まぁ、要するに、「厭世観」の方が、より根源的なものということですね。

本来の「厭世観」は「思考することの落とし穴」のようなものだと思います。
つまり、すべての人が、『人はなぜ生きるのか?』とか『何のために生きるのか?』とか『自分はなぜ生まれてきたのか?』などといった「思考すれば必ず行き当たる疑問」に対する答えを与えられずに生きているわけで、それこそが「考えて生きる」ということでもあるわけですから、その「落とし穴」にはまってしまって、「永遠に答えを得られない問い」を繰り返していれば、ほとんどの人が、そのことに疲弊してしまうでしょうし、そういう疲れ切った精神状態から、「生きること」に拒否反応が出てきてしまうのも、むしろ、普通のことなのかもしれません。

いずれにしても、「厭世観」は「考えて生きること」から発生するものだと思いますし、結果的には「やや厄介な状態」になってしまうのかもしれませんが、「考えて生きること」自体が悪いということはないと思いますので、その点においては、それほど忌み嫌うようなものでもないような気がするわけですね。
(「思慮深さ」の裏には、ほとんどの場合「厭世観」が隠れていたりしますから)

一方、「厭社会観」の方なんですが、社会が高度化した現在の社会においては、「生きること」と「社会の中で生きること」が、ほとんど区別できないほど一体化してしまっていて、「人間の生」が完全に「社会」によって包囲されているといってもいい状態になっているために、「厭世観」と「厭社会観」がすり替わってしまっていても、ほとんど意識されなることはないわけです。

 ※現代人は「社会の部品」として、生きさせられていると言ったら言い過ぎな
  んでしょうか?
  少なくとも、「社会」が今よりもルーズだったころまでは、「人間」に「社
  会の部品ではない部分」が、現在よりも多くあったと思います。
  「人間」は、さまざまな試行錯誤を繰り返して、自分たちの生活の中に、そ
  ういう「部品ではない部分」を、ようやく作りだしたわけです。
  つまりは、それこそが、人間の中の「人間的な部分」だと思います。
  ところが、そのせっかく作り出した「人間的な部分」を、「社会」が高度化
  し過ぎてしまったために失いつつあるというのが現状ではないでしょうか?
  それなのに、「教育」などによって、「人間」の中の「人間的な部分」がど
  んどん拡大されていきますから、それに対する「欲求」は高まっていく一方
  で、実際に生活の中にある「人間的な部分」はむしろ減少してしまっている
  のに、「人間的な部分に対する欲求」は拡大しているわけです。
  その結果、昔よりはるかに「楽な生活」や「豊かな情緒」の中に暮らしてい
  るのに、むしろ「人間の感覚」の中では、「人間の生」が完全に「社会」に
  拘束されてしまって、「人間の中の人間の部分」が息もできないほどの束縛
  を感じてしまうという意識が出来上がってしまっていると思うわけです。

  そういう「社会的束縛」に対する拒否反応を、ここでは「厭社会観」と言っ
  ています。
  
  
つまり、「人間」が「社会の中」でしか生きられなくなってしまっていて、「社会から離脱すること」は、現在においては「(部分的な)死」を意味しますから、本来の意味での「厭世観」がそれほど強くない人であっても、「社会」に対して「違和感」や「疎外感」といった拒否反応を感じている人にとっては、「厭社会観」的な意味での「厭世観」が発生してしまうというわけです。

だから、本来ならば「社会に対する不満」や「社会への拒否感」にとどまっているはずの「厭社会観」が「現在という時代」においては、さらに根源的な「厭世観」と、ほとんど同じものに成ってしまうわけです。

ところが、「社会に対する不満」なんて、誰の中にも必ずあるものですから、それがいきなり「究極の苦悩」ともいえる「厭世観」と直結してしまっているということは、「厭世観」から逃れられる人がほとんどいなくなってしまうわけです。

しかも、本来の「厭世観」が、あくまで「知的な苦悩」であったのに対して、「厭社会観」の方はもっと実際的な「生きづらさ」であるわけですから、かえってこちらの方が厄介なくらいで、そこに、さらに本来の「厭世観」まで加わってしまう(区別できなくなる)可能性も高くなるわけですから、そこに捕らわれてしまった人はかなり厳しい状況になるんだと思います。

「現在の社会」で生きていくことを前提に考えた場合、この「厭社会観」から逃れる方法は、なかなか考え付きませんが、少なくとも、「厭世観」と「厭社会観」が、違うものであって、どちらも回避するのは難しいが、必要があって存在するようなものではないということが意識されていれば、どちらも「考えて生きることの一環」としてとらえられるような気がします。

少なくとも、「厭世観」は「生きること」の中にフィードバック(リサイクルと言ってもいいかもしれません)することができるものだと思います。
つまり、「厭世観」を持つことと、「生きること」は、常に相互に行き来する関係だと思いますし、それこそが「考えて生きる」ということだと思いますし、さらに、それは「哲学すること」ともいえるんじゃないかと思います。

一方の「厭社会観」は、さらに実際的な「生活術の中の一ジャンル」と捉えられるもののような気がしますね。
つまり、「厭社会観」を持つことによって、「社会」の中の「自分に不適合な部分」を見分けることが出来るようになれば、それを避けて生きていけるようになるということです。
(ただ、「不適合な部分」がけっこうたくさんあったりするんですけどね)

「厭世観」も「厭社会観」も、それらを全面的に押し広げていってしまうと生きにくくなりますが、むしろ、よくよく観察することで、「自分に適合する部分」を見つけ出すことは可能になるんじゃないのかなと。

そんなことから、この「ストレス社会」の中では、「厭世観」と「厭社会観」を区別していった方がいいんじゃないのかなと。


そんなことを考えてみました。
(実用性レベル=低)



創作を途切れさせないようにするための工夫



これは、あくまで、私のように「怠け者」で「根性がなくて」「三日坊主な」人に関しての話です。
だから、「いつも創作意欲にあふれている人」には、全く必要ないことだと思います。
(そこのところを、心して読むように!)

まぁ、要するに、自分で言うのもなんですが、私には「根気」というものがないんですねぇ。

とにかく、何をやっても続かないし、ちょっといいところまで行くと『もう、イイかな?』という感じでやめてしまうんですねぇ。
だから、今までに、なに一つ実績と言えるものがありません。
(『優秀な実績がない』という意味ではなくて、創作に限らず「ほぼ実績0」)

いや、「不真面目」なわけではないんですよ!
たぶん、「かなり真面目な方」だと思います。
たぶん、「真面目過ぎる」んだと思います。
たぶん、いろいろ「真面目に考えて」いると、いろいろな意味でやる気がなくなってきてしまうんだと思います。
不必要なところに限ってオクユカシイ人って居るんですね。
『べつに活躍しなくてもいいだろう』みたいな?
たぶん、持って生まれた性質なので変わりません。

「真面目さ」と「勤勉さ」は、必ずしも一致しません。
要するに、コンスタントにできないんですね、なんでも。

『ダ・カ・ラ!』
『自分の作品を創作しよう!』と思い立ったときから、いろいろ工夫してきたわけです。

まぁ、50歳を過ぎたころに、ふと『ナニカ残したい』と思って、「自分の絵」を描き始めたわけですが、自分が「怠け者」で「根性なし」だということは、よぉーく知っていたので、何か工夫しないと、きっとまた中途半端で終わるに違いないと思って、いろいろ考えたというわけなのです。

そこで、その時以来実践している「創作を途切れさせないようにするための工夫」というのをご紹介しようと思ったわけですねぇ。

以下、かなり情けない感じに見えるでしょうが、今のところ功を奏しています。

 注:「怠け者」じゃないと役に立たないと思います。
   でも、あまりにも「怠け者」だと実践できないと思います。
   つまり、「ほど良い怠け者」向けの工夫になります。
   
   とりあえず、今のところ「サル脳&実績0人間」でも、不思議
   なくらいに続けられています。
   もしかすると、かなり効果的なのかもしれません。
   でも、ただの勘違いかも知れません。

そんなわけで、「怠け者の人限定」の「創作を途切れさせないようにするための工夫」です。

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1.「創作の過程」の中に「ルーティン・ワーク」の工程を作る

これは、一番実用的なことのような気がします。

「創作」という作業は、なんだかんだ言って、いろいろと迷います。
そして、しょっちゅう、そういう「迷い」から抜け出せなくなるわけですねぇ。
というか、すんなり「迷い」が解決できることなんかめったにありません。

そういう時に、「創作」が途切れてしまうわけですねぇ。
そして、一度途切れてしまうと、なかなか戻れなくなってしまうわけです。
そんなことを繰り返しているうちに、どうでもよくなってしまって、そこで終わってしまうというパターンです。

このパターンを防ぐには、「ルーティン・ワーク」が有効なんですねぇ。

本来、「創作」は「ルーティン」であってはならないと思いますけど、それはあくまで「創作」の中の「コアな部分」だけでもいいんじゃないかと思うわけです。
つまり、「コアじゃない部分」に関しては、「ルーティン」であっても差支えないんじゃないかと思うんですね。
「創作」の中に、そういう「ルーティン」の工程があると「迷い」にハマった時にも、とりあえず、「迷わずやれること」があるわけです。
それで、とりあえず、そういう作業をやっているうちに、また、何かしらの「創作に向かう意欲」みたいなものが出てくるというわけです。
『毎日何かしらやることがある』というのがいいんじゃないかと思いますね。

 ※「コアな部分」まで「ルーティン」にしてしまえば、さらに「楽」に成ると思います。
  そういう考え方で、いったん「ルーティン」を確立した人は、非常に「楽になる」と
  思いますし、そういう人が長続きすることは多いと思いすけど、それでは本末転倒だ
  と思います。
  でも、「コアな部分」は残して、そういうやり方の中の「楽になる」所だけを使えた
  ら、少しいいんじゃないかと思うわけですね。

私の場合は、「絵」の四辺のうち二辺に、「枠」と呼んでいるストライプの部分を描いているんですが、その部分は、単なる様式的な性質が強いので、完全にパターン化して描いていますから、ほとんど考えないでも描くことが出来るわけです。
(それなりに時間がかかるので、かえって好都合だったりする)

自分の制作過程の中に、そういう「パターン化した部分」を見つけ出して、『そこだけは考えなくてもできる』という工程を作りだしておくと、かなり「創作の習慣」をつなぐことが出来ます。

こういう「パターン化できる部分」は、見つけ出そうとすれば、見つかるもんだと思いますよ。
(あえて、見つけ出そうとしないと、なかなか見つからないかもしれません)
たとえば、「背景の部分」とか、何か「決まったモチーフ」を入れるとか、自分の作品の中には、たいてい自分の「癖」みたいなものがあって、いつの間にかいつも同じような感じになってしまう部分があると思うんですね。
そういう部分を、もう一歩踏み込んで、かなりなところまで「パターン化」できる可能性はけっこうあると思います。
(そういう「癖」が強調されることは、必ずしも悪いことじゃないと思いますよ)

『毎日何かしらやることがある』と「根性なし」でも、仕方なくやるみたいですねぇ。


2.「創作する場所」を作る

どんな場所でも、『ここが自分のアトリエである』と思えるような環境を作って、『そこに行ったら「創作」するしかない!』という風に気持ちを持って行けるようにしておくと、やるしかなくなりますから、「怠け者」でもやります。
「三日坊主」でも、四日目にもやります。
その「三日坊主の四日目」を続けていくという感じですね。
(なんか、自分で言ってて、情けない気がしてくるけど)

「場所」って意外と大きいんですね。
人間は、「場所」によって、「気持ち」を左右されていると思います。
「トイレ」に行けば、することは決まっています。
(『大か小かで迷うぅ~』という方は、とりあえず両方で)
(「たとえ」が、どんどん情けなくなっていくけど、そんなことは気にしないで!)

それと、同じで、「自分のアトリエ」でやることと言えば、「創作」しかありませんから。


3.毎日、必ず一定の時間制作する

まぁ、「仕事」みたいなもんですね。
(『タイム・カード打とうかなぁ・・・』)

これには、反発を感じる人も多いと思いますけど(私自身もそうでした)、意外なんですけど「仕事」だと思うことで「楽」に成ることがけっこうあるんですねぇ。

「お金をもらうこと」を前提にした「仕事」ではなくて、「自分のやるべきこと」としての「シゴト」ですね。
「役割」と言ってもいいでしょうが、「人に押し付けられた役割」ではなくて「自分で見つけ出した役割」です。
本当は、「仕事」にはそういう性質があるんじゃないでしょうか?

とにかく、ある程度、時間を決めてしまうと、「グッと楽」になると思いますよ。

私の場合、昼食後から夕食前までの7~8時間ほどの間の3~5時間くらいを制作にあてることにしていて、平均4時間ぐらい描いていますが、去年一年で創作活動を全くしなかったのは一日だけでした。
自分みたいな人間が、そんなことできるというのが信じられないんですけど、たぶん、夕食後はほとんど描かないようにしているのが、功を奏していると思いますね。
(というか、それ以上長い時間、描こうとすると、頭がぼぉーっとして来る)

「コンスタントにできない人」に限って、やるとなるとガンバッテしまうんですね。
どこかで、自分がコンスタントにできないのを知ってますから、『いけるときに行っとこう!』という気持ちが出てしまうんでしょうね。
で、力尽きてしまうわけです。

まぁ、考えたら、そんなの続くわけないんですよね。
「天才」じゃないんだから。
ところで、その「天才」って、どこにいるんです?
はっきり言えば、「凡人でも出来ること」を、やるだけで十分なんだと思いますよ。
それを、ただ単に、たくさんやったり、人が認めるまでやり続けた人が「天才」と言われるんだと思いますね。
だから、「やるだけ」で十分だと思いますし、「やり続ける」なら十二分だと思いますし、「凡人」でも十一分くらいまでなら行けると思いますよ。


4.「迷うこと」も「創作のうち」ということにする

それでも、どうしても「迷い」から抜け出せなくなる時は出てくるわけですが、そういうときは「迷うこと」自体も「創作のうち」だと考えるのがいいと思います。
(『「言い訳」?いや、ちがう!!』←ここは言い切りましょう)

というか、「迷うこと」は、もともと「創作のうち」だと思っています。
むしろ、「創作」の中でも「最もコアな部分」だといってもいいと思っているくらいです。

そういう時には、ただただ「作品」の前に座って(立っててもいいけど)「迷い」続けます。
その時間は、絶対に無駄ではないと思いますし、そう考えることで、「創作」がつながっていると言えると思いますよ。
(『いつも、いつも座ってるだけだとチョト厳しい!いや、時々立つと楽ですよってことじゃなくて』←これは言い切らなくていい)


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以上、「ほど良い怠け者の人限定」の「創作を途切れさせないようにするための工夫」でした。
『これさえ守っていれば、きっと「創作」をつなげることが出来る!』というほどでもないですけど、まぁ試してみてくださいナ。

『えぇー、自分なんか「ほど良い怠け者」だから、やってみようかなぁ』
てな感じ?




「捨てられない絵」が目標



私といたしましては、「捨てられない絵」を目指していこうと思っているわけなんですねぇ。
(本当にゴミとして捨てられてしまわないように!という意味です)

『それ、ハードル低すぎだろ!』っていう感じもするんですけどね。
逆に、『いやいや、そう簡単でもないんじゃないのか?実は』という気もするわけです。


実際問題として、自分が死んだ後も、評価額などの「経済的な価値が全くない絵」を、『頼むっ!捨てないで大事に保管しといてくれ、ヨロシク!!』と言っても、だれも聞いてくれる人なんていないですよね。

そうなると、なんとかして、「捨てられない絵」を目指すという方向で行くしかなくなるわけです。
つまり、「ソン・トク抜き」に、『この絵は捨てないほうがいいんじゃないか?もしかして』と思われるような絵ということですね。

で、さらに言うと、そういう絵こそ「普遍性を持った絵」なんじゃないかとも思うわけです。

たとえば、「流行の絵」というのは、その流行が終われば「最も捨てられやすい絵」に成ってしまうと思います。
また、最初に言った「経済的な価値」についても、それがいつまで続くかはわかりませんから、ほとんどの場合「今価値がある絵」でも「いつかは価値がなくなる絵」であるわけで、そうなったときには、けっきょく「流行の絵」とほとんど同じで、やはり「捨てられる絵」に成ってしまうということです。

まぁ、よほどの名画であれば、価値が落ちるということもないんでしょうが、実を言えば、そういう絵こそが「捨てられない絵」でもあるような気もするわけです。
つまり、価値が落ちないから捨てられないのではなくて、「捨てられない絵」であるから価値が落ちないんだと思うわけですね。

そう考えていくと「捨てられない絵」というのは、『ハードル低すぎ』どころか、かなりの難題ではないかとも思えてくるわけで、自分がいなくなった後まで残るような絵を描くというのは、それなりに大変なことなんだと思います。

で、その「大変なこと」を目指してしまったもんですから、大変なわけです。

『そんなこと目指さなくてもいいんじゃないか?』って気もするんですけどね。
でも、どうしても浮かんできてしまうんですよねぇ、自分の描いた絵が捨てられる光景が。
(こういうの、ホントにリアルです。売れる見込みが薄い者にとっては)

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『あぁ、もしもし、廃品回収業者さんですか?』
『えーと、絵なんですけどぉ、いくらぐらいで引き取ってもらえますぅ?』

「あー、うちは古物商じゃないんで、買取りはできないんですよ」
「でも、絵だったら普通に燃えるゴミで出せますよ。〇〇センチ以内の長さに切ってあればね」
(お住まいの地域の分別ルールに沿った長さに、お切り刻みくださいませ)

『えっ、燃えるゴミでいいんですか、つまり無料ってこと?ヤッター!』

燃えるゴミ?
つまり、邪魔?
要らないってだけじゃなくて、邪魔ってことなの?
(しかも、タダで捨てられることが喜ばれてる)

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どーしても、この悲しさに耐えられないんですねぇ。

それで、「大変なこと」なのは、わかってるんですけど、「捨てられない絵」を目指しているというわけです。

でも、そんな風に考えていくと、いろいろ見えてくることもあって、「捨てられない絵」のことを考えていると、当然「捨てられてしまう絵」についても見えてくるわけです。

先述のように、「流行のスタイル」はどちらかと言えば「捨てられやすい絵」ということに成りますし、「評価額」のような「金銭的な価値」も絶対的な要素とは言えないでしょう。
それどころか、「いい絵であること」もほとんど役に立たないような気がします。
「いい絵であるということ」は、要するにバランスがいいということですから、逆に言うと突出した部分がないということでもあるわけで、やはり、印象が薄くなってしまうということがあるわけです。
(「とんでもなくいい絵」であればいいんでしょうが)

けっきょく、この「印象」というのが「捨てられない絵」の条件なんじゃないか?と思うわけです。
見た人の中に「強い印象」を残せれば、その絵が捨てられる確率が低くなるだろうということですね。

もちろん、それが「いい印象」であれば一番なんでしょうが、それは「他人の好み」ですから、自分にはどうすることもできないことでしょう。

でも、とりあえず、「イイ・ワルイ」を抜きに「強い印象」ということだけを考えていくことはできるような気がするわけです。
「自分のスタイル」や「自分の感覚」を尊重したままでも、「強いインパクト」を追い求めていくことは可能だと思います。

要するに、「自分というモノ」を表現するうえで、「より自分であること」や「自分を強く表現すること」は、「印象を強めること」にもつながるし、結果的に「捨てられない絵」を残すことにもつながっていくんじゃないのかなと。
(だったら嬉しいんですけどね)


そんな風に思います。

それでも、捨てられた場合どうすればいいんでしょうか?私は...

1.まぁ、イイか?とあきらめる
2.誰か人のよさそうな人物を見つけて、絶対に捨てないように頼んでおく
3.『このゴミは、高額有料回収です』と書いて貼っておく

答え:自分で捨てる  『捨てられてないよ、捨てたんだもん』

「お前は一休さんかっ!?」





「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」



このブログでは、前から書いていることなんですが、「社会」には「人間(個人)」を阻害する性質があると思っているわけです。

「悪い社会」だから『人間が阻害される』ということではなくて、「社会そのものが持っている性質」の中に、「『人間(個人)を阻害する』という性質」が含まれているということですね。

これは、「今の社会に対する不満」を述べているというよりは、時代が進むにつれて高度化して来た「社会」が「『人間を阻害する』という性質」を日増しに強めてきているという話です。

そして、その「社会の性質」は、今に始まったことではなく、もともと「社会の根本的な性質」であるということを理解しないと、いかなる「政治」も「学問」も、すべてが無に帰してしまうような気がするわけです。
つまり、「社会の進歩」を前提としている限り、「社会」が進歩するたびに「人間疎外」も進歩・発展してしまうということです。
  

要するに、「社会の高度化」を、このまま成り行きに任せておくと、「人間」は「社会の奴隷」に成ってしまうだろうということですね。

「政治」は、基本的に「社会」を肯定するものですし、「社会」を推進し進歩させるものという役割を与えられてしまっているわけですから、そこのところを考え直さないと、「社会を抑制すること」はできません。
そして、その「抑制のきかなくなった社会」が『人間をますます阻害する』ということです。

「政治」だけに限ったことでもないと思います。
「社会」を進歩させると、「人間」がますます阻害されてしまうということが理解されていないと、その「社会」を前提にしたすべてのことが「人間を阻害する方向」で行われてしまうということですから、当然、「教育」も「芸術」も「哲学」もほかの学問も、すべて「人間」を阻害する方向で進められてしまうということです。

 ※完全に「アナーキー(無秩序的)な考え方」であれば、「社会」を前提に
  していないのかも知れませんが、そちらには、また別の問題が発生するの
  は、まず間違いないことでしょう。
  というか、それを、この「秩序漬け」・「文明漬け」の世の中で暮らして
  いながら言っても、あまり意味がないような気がしますね。
  

もともと、「社会」には「『人間を使役する』という性質」があったんでしょうが、過去においては、その「使役」が「人間の利益」に還元される比率が、常に「使役」を上回って向上してきたわけです。

しかし、現在の「高度化した社会」においては、その「伸び率」が次第に低下してきていて、それでいて「人間に対する使役」が増加していますから、どんどん「利益率」が低下していっているわけです。

 ※「社会による人間の使役」については、増加しているというよりも変質して
  来ているといった方がいいかも知れません。
  要するに、「肉体的な使役」から「精神的な使役」に変化してきたわけで
  すが、その「精神的な使役」が、現在に至って、さらに「精神的(知的)な
  作業」から、「ナニカを生み出すことを目的としない精神の消耗」という「不
  毛な労務」に変質したことで、人間にとっての負担が急激に増加したという
  ことだと思います。
  こういう一連の現象をひっくるめて「ストレス社会」というんだと思います。

20世紀中頃までは、「利益の圧倒的な伸び」によって、そこのところが見えなくなっていたわけですが、その伸びが頭打ちになってきたことで、「社会」が停滞しはじめて「ストレス」を抱えるようになり、現在に至っては、「社会の中で生きること」そのものが「ストレス」であるといっていいほどの状況に成ってしまいました。

そして、その「ストレス」こそが「社会による人間の阻害」に他ならないわけです。
だから、そこを抑制しないと、「ストレス社会」から抜け出すことはできないと思います。

要するに、「社会」をこれ以上発展させないほうがいいということです。
それで、肥え太っていくのは「社会」であって、「人間」は「奴隷」として使われるだけです。

 ※例えば、「公共事業」などにおいて「無駄」が指摘されることは多いですが、決して
  なくなりません。
  それは、「社会が根本的に持っている性質」に依って起きていることだからだと思う
  わけです。
  
  道路行政において「道路整備」を望んでいるのは「人間」というよりは「社会」です。
  「人間」は、その「社会」に使役されて道路を作らされますが、その「使役」によって
  「ストレス」を受けた人が、疲れ切ってしまって外に出る気力をなくして、せっかく整
  備した道路を走る人が誰も居なくなってしまうというのが、「現在の社会」の典型的
  な在り方です。
  誰も走りませんからほとんど老朽化しませんが、それでも必ず定期的に点検されて、整
  備されますし、それどころか、しばらくすると、また新しい道路計画が持ち上がったり
  します。
  『この道路はあまり使われていないから』という理由で。
  こんなことが日常的に起きています。
  なぜかといえば、「社会」が要求するからです。
  そして、その「要求」に従って「人間」が「使役」されてしまうからにほかなりません。

今の発想では、何か問題があると、「社会」を改善して「より良い社会」を作ろうとします。
しかし、そのことによって「社会」が進化して発展していってしまうと、結果的に「人間を阻害する社会」も発展して進化していってしまうわけです。

「社会」を「人間」にとって使い心地のいいものにするには、「社会の根本的な性質」を把握して、利用していく必要があるわけです。
そして、その「社会の利用方法」に対する必要性が高くなってきていると思うわけです。

もともと、20世紀中頃までの「利益増加」は、「一つの国の中」にも「国際社会の中」にも、さまざまな不平等があったことによって、局部的に起きていた「利益増加」であったわけで、その「利益増加」の裏には「貧困」や「格差」があったことは、もう誰にも否定できない事実といってもいいわけです。
世界的な不平等の現実が見えやすくなった現在、もはや「濡れ手で粟の利益増加」は見込めなくなっているわけで、そういうことは誰のトクにもならないというのが現実でしょう。

そうなると、「社会」を発展させることの意味は薄くなると思うわけです。

もともと、「人間」が「社会」を発展させ続けてきたのは、「利益」や「効率」を上げるためだったんだと思います。
「社会」を高度化して「より精度の高い社会」を作ることで、「利益」や「効率」を高めれば、それが「人間の利益」にもつながるだろうという考えで、「社会」は、発展し続けてきたんだと思うわけです。

しかし、その「利益の向上」や「効率の向上」が「人間を阻害するもの」としての性質を強めてしまった現在、「利益追求」をあきらめて、「社会による人間の阻害」を低下させる方向に考え方を転換していかないと、完全に行き詰ってしまうと思います。

 ※現在は利益が余っていると考えた方がいいような気がしますね。
  だから、もう利益追求にシャカリキに成る必要は無いと思います。

もちろん、そうなれば、ナントカするしかなくなるわけですから、いつかはナントカなるんでしょうが、できれば早くナントカしてほしいもんだなと思うわけです。

そんなところで、話が長くなってしまったので、次に続けます。



「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」(つづき)



前の記事の続きです。


「社会」には「人間を阻害するもの」という性質があって、現在は、その「社会による人間疎外」が日増しに強くなっているので、「人間にとって居心地のいい社会」を目指すなら、「社会」を理想化したり進歩させたりすることは、むしろ逆効果で、「社会」を抑制する方向で「社会」を「人間」が利用するようにしていくしかないだろうと言う話の続きです。


まず、前の記事では触れていなかったことで、「人間にとって居心地のいい社会」というところに、ちょっとした問題があって、「人間にとって居心地がいい社会」には、二種類があると思うわけです。

それがこの話の本題だったんですけど、「人間にとって居心地がいい社会」には、「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」の二種類があって、しかも、その二種類の社会がなかなか両立しないということなんですね。

過去において、「人間の不平等を前提にした社会」があったために「精神面の豊かさ」と「物質面の豊かさ」が両立しているかのように見えていた時代(「文化・文明の爛熟期」と言われるような時代ですね)があったのは事実ですが、それは特権階級に限定された「豊かさの両立」であったわけで、「その社会全体」を見た場合は、いつの時代も「豊かさの両立」は達成されていなかったと思います。
まぁ、要するに、貧しい人たちがたくさんいたから、ごく一部の特権的な人が「両立した豊かさ」を享受することができたんでしょうね。

その後、そういう「封建制度」が崩壊していくのと入れ替わりに、産業面での飛躍的な進歩があったために、一時期、一般庶民も「豊かさの両立」の片鱗を体験できていたのかもしれませんが、それも長くは続かず、戦争などで寸断されてしまいます。
要するに、「利益」が増大したことで、それを独占しようという動きが出てきたわけですね。
(その頃の一般庶民に、「物質」はともかく「文化」が行き渡っていたというわけではないでしょうが)

それは、おそらく、前の時代の「封建制度」や「中央集権国家」の頃の習慣のなごりで、「利益」や「権力」をかき集めることが、「自分たちの社会」を良くすることにつながるという考えが捨てられなかったからだと思います。

それで、せっかく「民主化」したのに「不平等」を生き残らせてしまったし、けっきょく「国際的な不平等」は、むしろ、拡大してしまったということだと思います。
実際には、「人間」が、この時期から「社会を抑制しながら利用する」という「社会の利用方法」を身に着けていれば、現在に至って「社会問題化」してきていることの大部分が大きな問題に至らずに済んだんじゃないかとも思います。
(まぁ、ほかの問題が出てきていたのかもしれませんけどね)

 ※「社会」に対して否定的な方向性を持った考え方も、あるにはあったんだと思い
  ますが、「自然回帰」や「原始社会」的な方向性の考え方が、実質的に実を結ん
  だことは、ほとんどないと思います(宗教的な閉じられた社会以外では)。
  「社会」を「進歩」させるんでも「発展」させるんでもないのと同じで、「社会」
  を「捨てる」んでも「破壊」するんでもなく「利用」する方法が考えられてこな
  かったということだと思いますよ。

  実際に考えられてきたのは、ほとんど「社会が人間を利用する方法」であっ
  たような気がしますね。

そして、現在、「不平等」という、根拠のなくなった原理を前提に「社会」を構成するという矛盾からは抜け出しつつあるわけですが、やはり、「社会を進歩・発展させること」が「人間にとって居心地のいい社会」につながるという考え方からは抜け出せていません。
(要するに、「カネを絶対原理にした社会」から抜け出せないんですね)

ということは、そこに数十年後の「問題の種」が潜んでいるということに成るわけです。

まず、今でもまだ、「物質面で生きやすい社会」が「精神面で生きやすい社会」につながると思われていないでしょうか?

確かに、「物質的な豊かさ」が「ゆとり」を生み出すことはあるでしょうが、でも、それは、あくまで「最低限の物質的豊かさ」の話であって、「物質的な豊かさ」に比例して「ゆとり」が増えていくということではありませんし、もちろん、それが「精神的な豊かさ」をどんどん生み出し続けてくれるということでもありません。

「物質」であっても「精神」であっても、それらに形を与えて、「ナニカ」を生み出すには「労力」を必要とします。

だから、際限なく「物質」を生み出し続けようとすれば、当然「労力」を使い果たして擦り切れてしまうわけです。
でも、それに比例して「精神的な豊かさ」が与えられることはありませんから、「擦り切れた精神」は癒されません。
それで、「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」がなかなか両立しないわけです。

「精神」を生み出すのにも「労力」が必要なのは同じですが、そこで生み出されるのは「精神的な豊かさ」ですから、そこで「擦り切れた精神」は「その豊かさ」に癒されるわけです。
そこで欠乏するのは「物質」の方ですが、現在「物質」は余っていますから、それほど大きな負担にはならないと思うわけです。

少なくとも、現在は「必要最低限の物質」を生み出すのに、それほどの「労力」を必要としない時代だと思うわけです。
要するに、現在という時代は「物質の価値」が小さくなっていて、「精神の価値」が大きくなっている時代なんだと思います。

それなのに、「物質の価値」に重点を置いた「社会の利用方法」を続けているために、「精神面」が置き去りにされて、「精神欠乏」の状態になってしまっているんじゃないでしょうか?
(どちらかというと、利用されているのは「人間」の方だし)

そうだとすれば、「精神的な価値」に重点を置いた「社会の利用方法」を実践していけば、きっと、いろいろな問題が消えてなくなってしまうような気がしますね。

もちろん、こんなことで、すべてのことがうまくいくわけじゃありませんが、少なくとも、「今」は「問題」を増やすために「社会」があるという状態になっているように見えるわけです。
そこのところの原因がこんなところなんじゃないのかなと、思ってしまうわけですね。

このまま「社会」を発展させていけば、おそらく、ドコカで、ナニカが、行き詰まると思いますから、そうすれば、きっと、ダレカが、ナントカするとは思います。
そういうことは、その時が来れば、どこからともなく「エライ人」がやってきて、やってくれるんでしょう。

でも、それでは、また、次の時代に「問題の種」を受け継いでしまうだけです。
この「追いかけっこ」を続けている限り、いつまでたっても「人間にとって居心地のいい社会」にならないんじゃないのかなと。

『どこかで、追いつかないとネ』


そんな風に思ったわけなのです。


 ※実は、「社会を抑制すること」は一人でもできることだと思います。
  例えば、「仕事」について考えるとき、「収入」をある程度まで無視し
  た考え方を取り入れることは、必ずしも不可能なことではないでしょう。
  現在の社会で生きることを前提にした場合、完全に「カネ」を無視す
  ることは、ある意味で「死」を意味しますから、それは難しいと思いま
  すが、自分の生活の中に「カネ」とは無縁の領域を増やしていくこと
  は可能なことだと思うわけです。

  「カネ」は「人間に与えられた道具」ではなく、「社会が人間を使役す
  るための道具」だと思うんですよね。
  だから、「カネ」から離れた領域を創り出さないと、一方的にコキツカ
  ワレルことに成ると思いますね。
  
  それから、「社会」の最小単位である「家族」に限定して、その「最小
  の社会」を抑制していくことは個人の判断でもできることだと思います。
  (簡単ではないですけどね)





人が「その作品」を「好きになる時」・「嫌いになる時」



人が「芸術作品」を見たときに、「好きになる時」と「嫌いになる時」があるわけですが、そういうことはどこで決まっているんでしょう?
つまり、「人の好き・嫌い」を分けているのは、いったい「ナニ」なんでしょうか?

なんでこんなことを考えるかと言えば、まぁ、要するに、自分の絵が人から嫌われることがけっこう多いからなんですねぇ。

人に絵を見せたとたんに、その人の表情が、サァっと曇るんですよね。
そういう時には、こちらも血の気が引きます。
『あぁ、見せなければよかった』と思います。
(まぁ、さすがに『あなたの絵が嫌いです』と言った人は、今のところまだ居ないですけど)

そうかと思うと、まったく思わぬ人から『この絵、イイねぇ』なんて言われることもあったりしますから、それはそれで、また、『不思議だなぁ』と思ったりもするわけです。
(まぁ、これは「お世辞」なのかもしれませんけど)


本当のことを言えば、「人に褒めてもらうため」に絵を描いているわけではないので、そんなこと気にしないほうがいいんでしょうが、でも、だからと言って、「人に嫌われるため」に絵を描いているわけでもないので、やっぱり、そんなこと気にしてしまうわけなのです。

個人的には、『今後、芸術作品を「好み」で判断する時代は終わっていくだろう』と思っているんですけど、現時点では、ほとんどの人が『芸術作品は「好み」で判断するもの』という考え方だと思います。

そうなると、現実問題としては、どうしても「好かれるか・嫌われるか」という両極にもっていかれてしまうわけで、中間がないんですね。
だから、『好かれるために描いているんじゃない』でも、『嫌われるために描いているわけでもない』という二方向からの圧力によって、『どっちも良くないよ!』という状態になってしまうというわけです。

嫌われたくなければ「好かれる絵」を描かなくてはならないし、「好かれる絵」を目指せば「自分の絵」は描けなくなってしまいます。
「自分の絵」が「好かれる絵」でもある人はいいのかもしれませんが、そういう人ばかりでもないわけですから、そうじゃない人にも「せめて嫌われないような自己表現の在り方」があればいいのになと思うわけです。

まぁ、そんなことから、「人がその作品を好きになる時・嫌いになる時」ということを考えてみるわけです。


まず、「好きになる時」ですが、『なんで、その作品だけを選んで「好きになる」のか?』ということです。

おそらく、「人がその作品を好きになる時」は、「その作品」の中に「自分と同じ要素」を見つけたときというのが一番多いパターンなんじゃないかと思うわけです。
つまり、「自分が美しいと思っている美しさ」とか「自分が考える芸術のあるべき姿」のような、「その作品」と出会う前から、すでにその人の中にあった要素つまり、「自分との共通項」ですね。
「自分」と「その作品」の間に、そういう共通項を見つけ出したときに、「人がその作品を好きになる」ことが多いんだと思います。
逆に言うと、共通項を全く見つけられないときには、共感できないわけですから、どうしても「その作品を好きになれない」ということになるわけです。

もちろん、そういうパターンから外れている人もいるでしょうが、実際には、このパターンに沿った人がほとんどのような気がします。


そうなれば、当然、「人がその作品を嫌いになる時」は、「その作品」の中に「他者」を見つけ出したときということに成るわけです。
つまり、「自分との共通項」が無いだけじゃなくて、「ハッキリした他者=異物」を感じ取ってしまうと、「人はその作品を、ハッキリと嫌いになる」わけです。

これも、パターンから外れている人はいるでしょうが、ほとんどの人がこのパターンに沿って「嫌い」に成っているような気がします。


とにかく「他者」っていうのは、人にとって「異物」なんですねぇ。

「自分との共通項」がないだけなら、「好きではない」ということで済むんですが、「異物」を見せられたときはほとんどの場合、強い拒否反応が返ってきます。
そして、当然、その時「人はその作品を嫌いになる」わけです。

だから、「自分の絵」を描いてしまうと、なかなか「人に好かれる絵」には成らなくなってしまうんだと思います。


さて、そこで、「人がその作品を好きになる時」の方に話を戻すと、「自分の絵を描くこと」が「人に好かれる絵を描くこと」と一致しないということは、「人に好かれる絵」は「本当のその作者の絵」ではない確率が高いということに成ってしまいます。
少なくとも、「その作者の作品」としての性質が弱いということに成るわけです。
でも、「その作者」が、必ずしも、「自分の絵」をかなぐり捨てて、鑑賞者に媚を売った「受け狙いの作品」を目指していたというわけではないと思います。
(そう言うのは、むしろ、あまり好かれませんからね)

それなのに、なぜ、「その作品」が好かれるのかと言うことです。

そこに、世間に流布されている「常識」とか「定説」とかといった「万人にとっての共通項」というものの影響があると思うわけです。

『芸術とはこういうモノである』とか『こういうモノが美しいものである』とかといった「公共の共有概念」のようなものですね。
そういう、世の中で「絶対原理」のように作用してしまっている「万人にとっての共通項」があるために、それに沿ったものは「好かれる」し、それに沿っていないものは「嫌われる」ということに成ってしまうわけですね。

完全に「共通項」として万人に受け入れられてしまっていますから、あえて選択されることもなく、だれもが持っていますし、普段から、すべての人が、すべてのことを、そういう「共有概念」に基づいて行っているといってもいいほどですから、創作者が「自分の作品」を創作するときにも、無意識のうちに、その「共有概念」が使われてしまうわけです。
さらには、「万人」が共有しているわけですから、だれかに向けて媚を売るということもなく、それは当然のこととして選択されてしまうわけなのです。

 ※話を分かりやすくするために、「万人」という言葉を使っていますが、ここで
  言う「共有概念」とは、必ずしも「世の中のすべての人が共有している概念」
  という意味ではありません。
  「限定的な集団において、その集団内のほぼすべての人が共有している概
  念」ということも含めて「共有概念」と言っています。

ということは、つまり、その「共有概念に基づいた作品」こそが「人に好かれる作品」であるわけです。

「万人にとっての共通項」を含んでいますから、「万人に好かれる」ということですね。
実に、当たり前です。



ところで、その「共有概念」は万人が持っているものですから、当然、ほぼ全ての創作者も持っているわけです。

ということは、「自分の絵」を描く創作者も、それを持っているはずです。
つまり、それを、あえて切り捨てて創作する人が「自分の絵」を描いているということです。
しかも、その絵が「嫌われる絵」に成るという前提で描いているということに成ります。


こういうのを読んだ人は、どう思んでしょうかねぇ?

『あはは、そんなトンマは今どきいませんよ!』

『まぁ、お気の毒に、生まれながらのアホなのねェ、おかわいそうに』

という感じでしょうか?


でも、そういう「アホでトンマなもの」が「芸術」なんだと思うわけです。

もっとも純粋で、もっとも不利益的なものが、少なくとも「私の中の芸術」なわけです。
たぶん、「共有概念」に沿っていません。
たぶん、人から好かれません。

でも、せめて『嫌われないように』と思ってやっているわけです。

それでも、嫌われるって、どうなのよ?
という感じですね。


 ※ここで言っているのは、「共通概念」に基づいた作品がダメだということでは
  ありません。
  ただ、そういう作品は無条件に好かれて、そうでない作品は無条件に嫌われる
  というのは、偏りがあると思うわけです。
  少なくとも、「現在の芸術」においては「自己表現」であることは、重要な意
  味を持っていると思いますから、「作者にとっての自己」すなわち「鑑賞者に
  とっての他者」と出会うことは、「現在の芸術」においては重要な要素だと思
  うわけです。
  それを前提にして言うなら、すでに、世間に流通している「共通概念」をメイ
  ン・テーマにした作品には「そこで生み出された作者の自己表現」との出会い
  がないわけです。
  もしも、そういう作品ばかりを鑑賞するのであれば、「現在の芸術」の「最も
  中心的な部分」に触れたことにはならなくなってしまうのではないでしょうか?
  


「スロー&瞬間」



私は、創作に関しては、できるだけ時間をかけて制作するという考え方をしていて、それを「スロー・アート」と呼んでいるわけですが、その反面、『瞬間的に人を引き付けるような作品を目指したいなぁ』という気持ちもあって、いつもその間で迷い続けているわけです。

 ※一般的には、同じぐらいのクオリティの作品であれば、短時間で仕上げられる
  ことの方が『良し』とされることが多いわけですが、そこのところを逆転して、
  同じくらいのものを創作するのに『どれだけの時間や労力をかけられるか?』
  という方向で創作していこうというのが、私の言っている「スロー・アート」
  です。
  「エコロジー」や「自然回帰」的な意味で、この言葉を使っている場合がある
  ようですが、そちらとは少し違う意味に成ると思います。
  (まぁ、そんなに違うわけでもないんですけどね)

それで、どうせ迷うんだったら、「スロー&瞬間」でいいんじゃないか?という話です。


「スロー・アート」は文字通り『無駄でもいいから、創作にかける時間を惜しまずに、むしろ積極的に長い時間をかけるようにしよう!』ということなんですが、「瞬間」の方は作品を見たときの第一印象を重視するというところからきていて、それを「一瞥(いちべつ)の力」という風に言っているわけです。

人間には、ほとんどのことを「一瞥(いちべつ)」で判断する能力があると思うわけです。
いわゆる「野生的能力」みたいなものだと思いますけど、そういう能力は、だれでも持っていて、普段から日常的に使っているんだと思います。

たとえば、食べ物なんかでも「一瞥して美味しそうなもの」は、たいてい「実際に美味しいもの」でもあるわけです。
要するに、食べてみなくても見ただけで「美味しいこと」がわかるということですね。
そういうのは、普通に日常的にやっていることですから、普段は意識されませんが、実はかなりの「野生力「」だと思うわけです。
しかも、そういうことは、多くの場合「一瞥の瞬間」に判断されているような気がするわけなんですねぇ。

ということは、やっぱり、なんだかんだ言って、「芸術作品」でも、けっこう「一瞥の瞬間」で判断されているんじゃないか?と思うわけです。

「有名な作品」に成れば、じっくり見てもらえるんでしょうが、「無名な作品」を『まぁ、そういわずにじっくり見てくださいよ』と言っても、なかなか見てもらえないわけで、瞬時に判断されてしまうのもやむを得ないことなんだと思います。

そういうことから、「一瞥の力」がある作品を目指しているということなんですが、そのために一番考えることは、「強い色」ということですね。
「いい色」ではなくて、「強い色」を使うことをいつも意識しています。

それから、一つの画面の中に「白」から「黒」までの幅を、なるべく広くとることも意識していることです。

こういうことを考えて絵を描いていくと、どうしても「いい絵」から少しづつ離れていってしまうんですけど、そこを何とかこらえて、「一瞥の力を備えた絵」を描きたいと思ってやっています。

そして、それを『馬鹿なんじゃないか?こいつ』と思われるくらいに、長い時間をかけて制作しているわけですね。
それが、この「スロー&瞬間」です。

たぶん、ウレません。
もし、億が一(?)ウレても、絶対に採算が取れません。

 注:「億が一」=「万が一」×「万が一」

だから、ウレてもウレなくても、あまり変わりませんね。
だから、そんなことはぜんぜん気にならないわけなのです。

『強い!!』
(確かに、何かがズレていると思う)

そういう「スロー&瞬間」のお話でした。

こういう話を『いいんじゃないの』と思った、あなたって!

『とっても素敵よ!』



「共通言語(通じる言葉)」」から「オリジナル言語(出会う言葉)」へ



人間は「言語(ことば)」を身に着けたことで、コミュニケーション能力を飛躍的に向上させることが出来たんだと思います。
そして、その「言語(ことば)」とは、「共通言語」であったわけです。
しかし、人間は、そろそろ、そういう「共通言語」にも飽きてきているような気がするわけです。


そもそも、「共通言語」とはナニなのかと言えば、要するに、「通じることば」なんだと思うわけです。
そして、ただ単に、日本語とか英語というような「言語の種類」だけではなく、「共有されている価値観」とか「共有されている常識観」とかといった、基盤と成っている考え方や物事の捉え方があるから、「その言語」が通じるようになっているんだと思います。

その共有された「共通言語=通じることば」に、人間が飽きてきているという気がするわけです。

それで、その代わりに成ろうとしているのが「オリジナル言語」なんじゃないかと思うわけですねぇ。
それは、一人一人の人が、独自の感性や考え方で、「ことば」を構成するような「その人だけの言葉」ということです。
ということは、それは「通じないことば」に他ならないわけです。


「通じないことば」は、はっきり言えば、あまり実用的ではありません。
物事を正確に伝えたり、説明したりするには向いていないと思います。

ただし、その人が「自分」を表すのには向いています。
良く表せるんですが、残念ながら、それが人には伝わらないということです。
だから、あまり役に立ちません。

でも、だからと言って、まったく伝わらないということでもありません。
たとえば、英語しか話せない人と日本語しか話せない人でも、ナニカは伝えられたりします。
「英語」で伝えることはできませんが、「英語で話すこと」で伝わることが出てきたりするわけです。
何も話さなければ、何も伝わりません。
(テレパシーがあればねぇ…いや、テレパシーでも伝わらないのかも?)

それと同じように、「オリジナル言語」でも、伝わるものはあるはずです。
少なくとも、言語の種類として「同じ国の言語」を使っている場合、単語や文法は大体同じなわけで、それらの解釈に微妙な違いが出てくるだけですから、そこのところを、お互いに考えていけば、いろいろ伝わることも増えていくんだと思うわけです。
ただ、残念ながら、多くは伝わらないし、正確にも伝わらないということですね。

そして、人間の興味が、実用的な「共通言語」から、その不便な「オリジナル言語」の方に移行してきているような気がするわけですね。

といっても、これは今に始まったことではなくて、昔から、「芸術」においては「自己表現」として追求されてきたことだと思いますし、「学問」においても、独創的な研究をした人たちは、皆、「オリジナル単語」や「オリジナル言語」を使って自分の研究を表してきたんだと思います。
「哲学」などは、哲学者が「ことば」に「オリジナルの意味」を創り出すこと、または見つけ出すことこそが、「哲学」そのものであると言ってもいいくらいじゃないかと思います。

特に、「芸術の20世紀」において、「芸術」が「自己表現」としての方向性を確立したことは、現在に至るまで、強く影響していると思います。

 ※私自身は「芸術の20世紀喪失」という考え方をしているんですが、それは、
  あくまで、自分の「創作」に向かう姿勢を示すためのものであって、必ずしも
  「芸術の20世紀」を全面的に否定しようということではありません。
  それは『喪失するしかなかった』ということであって、「20世紀」に対して恨みがあ
  るわけではありません。
  だからこそ、「否定」でも「破壊」でも「削除」でもなく「喪失」であるわけです。


「自己表現」=「オリジナル言語表現」と言ってもいいくらいですから、「芸術の20世紀」は、まさにダイレクトにこの「オリジナル言語」を探求した時期でもあると思うわけです。

そして、さらに言うと、その「芸術の20世紀」が「自己表現」という芸術の方向性を確立したことによって、特定の「学者」や「芸術家」だけではなく、ごく一般的な人たちが、「オリジナル言語」の存在に気づき、それに興味を持つようになったんだと思うわけです。

ただ、現在は、まだ「オリジナル言語の使い方」が、確立されているとは言えないので、そこがネックに成って「オリジナル言語」が普及していかない状態だと思います。
(ここに「芸術の20世紀」の問題点もあるわけです)

なにせ、「通じないことば」ですから、通じませんし、「表現者にとってのオリジナル」ではあっても、「受け手にとってのオリジナル」はほとんど含まれません。
だから、ほとんどの人が「オリジナル表現」を受け取ったとたんにフリーズしてしまうんだと思います。
要するに、思考停止の状態になってしまうわけですね。
だから、興味がある人も、そこから先に踏み込めなくなってしまうんだと思います。

でも、それは、以前からの「共通言語」による「情報伝達」を目的とした言語習慣が残っているためだと思うわけです。
つまり、「オリジナル言語」においては、目的自体が少し違ってきたと言うことですね。

そして、その目的とは、おそらく「出会い」ではないかと思うんですねぇ。
つまり、「他者との出会い」こそが「オリジナル言語」の目的なんじゃないかと思うわけです。

もともと、「情報伝達」にも『未知なるものを知る』という目的があったわけですから、まったく別の目的に成ったということではないと思いますが、「伝達」は「伝わること=通じること」で成り立ちますから、「共通言語」を必要とするわけです。

要するに、「出会い」だけではなく、「理解すること」や「知ること」まで行って、初めて「伝達」されたことに成るということです。

でも、「オリジナル言語表現」においては、「理解すること」や「知ること」の意味よりも「出会うことの意味」を重視しているということですね。

といっても、これを一概に「言語の進歩」とは言えないと思います。
単なる「出会い」よりは、むしろ「理解」の方が進化した形なのかもしれませんが、「言語で理解できる範囲」が行き止まりに来たんだと思うわけです。
つまり、論理的な思考が行きつくところまで行って、もうこれ以上行く先がなくなったために、その「論理思考」の中でぐるぐる回り続けるしかなくなってしまったということじゃないでしょうか?
(近代以降の哲学などはそういう「無限ループ」に成っているように思えますね。よくは知りませんけど)

それで、いったん単純な形の「出会うこと」に、興味が戻ってきているんだと思うわけですね。
どちらかと言えば、「理解できないものとの出会い」こそが、「オリジナル言語表現」の目的であるといってもいいのかもしれません。
(「プリミティブ(原始的)な出会い」といってもいいのかもしれません)

もちろん、「理解されないこと」が表現者の目的なわけではないんですが、「オリジナル言語表現」においては、「理解されること」は二の次で、「自分であること」や「自分を表すこと」が第一目標になるわけです。
そうすると、結果的に「理解されにくいモノ」に成ってしまうということなんですね。

でも、「受け手」が「出会うこと」を第一目標にしている場合は、「その出会い」に「意味」が出てきます。

「理解すること」や「知ること」は「価値」を生み出すかもしれませんが、「意味」においては「出会い」にこそ、その本質があるといってもいいと思います。

「未知との出会い」には、「意味」があります。
それを「理解」できれば、さらに「価値」があると思いますが、あくまで「意味の本質」は「出会い」の方にあると思うわけです。

そして、さらに言えば、「理解」された瞬間に「意味」が「価値」に変換されてしまうと考えることもできるわけで、もう、そこに「意味」は無くなってしまう可能性すらもあると思うわけです。

そう考えれば、「意味」を重視していく場合、「オリジナル言語」を使っていくことに成るわけで、そのためには「出会うことば」としての「オリジナル言語」ということを、まさに「理解」していくといいんじゃないのかなと。
つまり、まさに、そこにこそ「価値」が生まれるということですね。

そんな風に思っているわけです。


『えっ、ナニ言ってるかわからない?』
『あぁー、オリジナル言語だからぁ』



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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