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「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」



世の中が全般的に、ヤタラメッタラ「デジタル化」してきているわけです。

これに対して、反発を感じている人も、特に何も感じていない人も、それなりに居ると思いますが、何よりも驚くことは、「デジタル化」を大歓迎している人が、かなりたくさんいるということなわけです。

つまり、このあまりにも極端に急激な「デジタル化現象」を「とても便利になった」と思っている人が、けっこうたくさんいるということには、どうしても驚愕せざるを得ないわけなのです。

 ※ここで「デジタル化」と言っているのは「デジタル技術」のことではなく「社
  会現象」としての「デジタル化」です。
  つまり、「情報の記号化」ということですね。
  「情報を記号化するシステム」が社会の中で、短期間のうちに、試されること
  なく、領域を拡大してしまったことを「社会現象」という意味で「デジタル化」
  と言っているわけです。

これは、なにも「デジタル化」に限ったことではなく、20世紀以降に成って現れてきた「技術」や「科学」などの「文明の利器」の類には全般的に言えることですが、それらの「新しいモノ」が、どれだけの「利益」に成っていて、どれだけの「不利益」に成っているのかが、かなり不明瞭なのにもかかわらず、とりあえず「新しいモノ」が現れると、もろ手を挙げて大賛成する人が、必ず相当数いるということが、私にはとても驚くべきことのように思えるわけなのです。

たとえば、「原子力」ですが、平和利用だけを考えた場合でも、「リスク」はかなり高いのに、『過去に製造された「核兵器」がどれだけで、その廃棄にどれだけの労力や費用が掛かって、それらが人類を含む地球環境にどれほどの影響を与えるのか?』
こんなこと、わかる人って居るんでしょうか?
そこに統計や試算なんて成り立つんでしょうか?

もちろん、既に存在している「核(原子力)」を、初めから無かったことにすることはできませんから、『今すぐ、非核化すべし!』ということを言っているわけではないんですが、少なくとも、それを「便利になったこと」と考えている人がたくさんいるという状況は”驚き”以外の何物でもありませんね。
(まぁ、これは反対する側にも言えることなんですけどね)

 ※もちろん、これには逆の立場からの話も成り立つと思います。
  核に反対する人は核廃棄物処理などの作業を自分で行うつもりなんでしょうか?
  もしも、その気がないなら、そこを考えてからじゃないと、いくら反対しても、だ
  れも「核」を廃棄することが出来ないということに成ります。
  (もしも、それを徹底してやるとすれば、「徴役制」が必要に成ると思いますよ)
  新しく「原発」や「核兵器」を作らないということはできますが、どんな形であっ
  ても「原子力」が存続しているということは、常に「核のリスク」が存在するとい
  うことに変わりはないわけです。
  (まぁ、完全に無くしたとしても、また作ることはできるんでしょうが)

  そういう状況の中で、『自分は処理作業はしないけど、反対!』というのは、説得
  力に欠けるようiな気がしますね。
  完全に平等な「国民の義務としての核廃棄作業」を制度化することが出来ない限り、
  「核廃棄」はできないと思いますね。
  つまり、「総理大臣」が「核廃棄作業」に回されるかもしれないということです。
  (こんな制度がある国に住んでみたいですねぇ)

  でも、「自分がソンなことは絶対にしない人達」が政治をやっているわけですから、
  そんな制度作るわけがありません。
  (政治家って、「自分が満足する世の中」を作るために成るんでしょ?)
  
  それから、その場合、天皇陛下はどういう扱いに成るんでしょうね?
  そう考えると、よくわかりますけど、「制度」が出来たとしても、まだ足りないと
  思いますねぇ。
  天皇陛下が、廃棄される核施設に送られるようなことがあれば、命がけで止める人
  が現れますよね。きっと。
  本人が行きたいといっても聞かない人が現れるでしょうね。きっと。
  その前に、たぶん「暴動」が起きると思いますけどね。いろんな所で。
  (『皇族廃止!』という話でもありませんよ。)

 ※それから、これは「核」のような「リスクが見えやすい技術」に関してだけ言える
  ことでもないと思います。
  例えば、「自動車」や「飛行機」を例にとっても、それらによる事故で命を落とし
  ている人の数は、それらが十分に「リスクの高い技術」であるということを示して
  いるのは間違いのないことではないでしょうか?

  「原子力」などと違って、それらの「乗り物」を、人命にかかわるような重大な事
  故が起きない範囲で利用していくことは、十分に可能なことであるはずなのにもか
  かわらず、現状において、それをしようとしていないということは、すなわち、そ
  れらの「文明の利器」が「人間」よりも重要視されているということに他ならない
  わけで、それは、本末転倒であると言わざるを得ないことではないでしょうか?
  (はっきり言えば、「原子力」よりも、直接的に死んでいる人の数は多い)
  
  そういった意味を含めて、「文明を抑止する技術」まで備えた技術を、「高度な技
  術」と呼ぶようにしていくべきではないかと思います。

  以上、この記事とは直接関係のない「長すぎる注釈」でした。

そして、「核」以上に、「便利になったこと」が怪しいのが「デジタル化」だと思うわけなのです。

「核」の話だと、「原発事故」や「核兵器」の話になる場合が多いので、「反対派」がかなり多くなりますが、「デジタル化」に関しては、やはり「賛成派」が大多数だと思います。
(「原子力」は「最もリスクが見えやすい技術」で、「デジタル」は「最もリスクが見えにくい技術」です)

そこまでは、わかるんですが、「大賛成派」が、たくさん居るということが”驚き”なんですよね。
要するに、何の疑問も持っていない人が、けっこうたくさん居たりするというのが信じられないんですねぇ。
つまり、「デジタル文明」は、便利なだけのものであって、大きなリスクがないものだと思われているということが信じられないわけですねぇ。

でも、少なくとも、「デジタル化」によって「情報」は、管理されたり操作されたりする可能性が高くなったのは確かなことだと思いますし、それとは逆に、「ネット情報」ほどあてに成らないものは、この百年間ほどはなかったような気がします。
つまり、両方向のリスクがあるということですね。
(この辺で、すでに話が通じなくなってしまうことが多い)

要するに、「ネット情報」には、必ず何かしらの「オモワク」が入っているということですね。
一切「オモワク」を含まない「ネット情報」があっても、ほとんど人目に触れないようになってしまいます。

つまり、「情報」を「記号化」したことによって、管理したり操作したりすることに、ほとんど人的な労力を必要としなくなったわけです。
だから、「オモワク」を最小限のコストで全面的に押し出すことが出来るようになったということです。
それで、資本を持っている者の「オモワク」が極端に肥大化してしまうことに成るわけですね。
こう言ったことから、オモワクによって管理された「嘘ではないが真実性の極めて薄い情報」が大量に流通しているわけです。

さらに言うと、「デジタル化」は「記号化」であり「単純化」でもあるわけで、「デジタル化」された社会では、あらゆる局面において「単純化」が起きることに成るわけです。

「デジタル情報」」でも「アナログ情報」でも、問題なのは内容であって、「情報」が記号化されているか否かは内容とは無関係なはずなんですが、それはあくまで、「一件の情報」に関しての話で、「単純化」された情報が膨大な量になったときには、「内容」などはほとんど問題にされなくなって、とにかく「数量の多い情報」だけがすべてを覆いつくしてしまうわけです。

そして、「最も数量の多い情報」とは、常に「オモワクを含んだ情報」であり、「最も単純化された情報」なわけです。

これは、考えてみるとかなり恐ろしいことで、「情報」が「誰でも簡単に悪用できるもの」に成ったということです。

実際に「サイバー・テロ」という言葉が、普通に使われていたりするわけですし、それが、今言われているよりもさらに暴力的なものに成る可能性は十分にあるでしょう。

つまり、「原子力」と「核兵器」が不可分な存在であるのと同じように、「デジタル化」と「その暴力的な使用法」はセットなわけで、「暴力的な使用法」が開発されてから、『やっぱり、やめとけばよかったのに』と言っても、「核」と同じで、既に存在してしまったものを消すことはできないわけです。
(一度流れてしまった情報を完全に消すことはできません。これは意外と恐ろしいことだと思いますよ。)

これは、ほかのあらゆることにも当てはまることで、何をするにも「リスク」はつきものですから、「技術」が高度化するほどに、当然、「リスク」の方も高くなるわけで、「リスク」を先回りする習慣を身に着けていかないと、「技術」が進歩すればするほど面倒なことばかりが増えていくようになってしまうんじゃないでしょうか?

それに、「リスク」以前に、その「技術」が、『今の人類に必要なのか?』ということが、まったく問われていませんよね。
どう考えても不必要に高度化しているモノが多すぎるような気がするんですが、どうなんでしょうね?

といっても、「大賛成」の人は減りませんけどね。たぶん。

要するに、「進歩すること」や「高度化すること」が絶対命題に成っていて、それを止めようとすることは「ネガティブなこと」であって、「人類の進歩や向上」を妨げる「悪いこと」であるという「思い込み」が出来上がってしまっているような気がします。

でも、実際には、『今も、人類にとって進歩や向上は必要なのか?』ということは、だれ一人問いただそうとしないわけです。
つまり、そういう「前時代的な進歩・向上」が必要なのか?ということですけどね。

要するに、いまだに『進歩や発展が必要不可欠だ』と思っているのは、やや考え方が古いと思うんですけどね。
そういう、人達に限って、『自分たちは進歩的な考え方をしている!だからこそ、新しいものを率先して取り入れるんだ』と信じ込んでしまっているわけです。
まぁ、実際には、進歩的なわけではなくて、その場の流れに身を任せているだけなんだと思うんですけどね。

そして、なぜ、その流れに逆らう人が少ないのかといえば、「社会」や「経済」に要求されるからだと思います。
しかし、それらは、「社会の意思」や「カネの意思」に基づいた要求であって、「人間の意思」に基づいた欲求を無視していることが多いわけです。

つまり、「人間」が「社会」や「カネ」の「手下」にされてしまっているわけです。

というわけで、私は、この現象を「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」と呼んでいるわけです。

『・・・・えっ、ダジャレ?』

『ええ』

「オーバー・ワーキング・スロー」と「アンダー・ワーキング・スロー」



私は、「スロー・アート」すなわち、「芸術作品の制作にできるだけ多くの時間を費やすこと」を、一つの目標にしているわけなんですねぇ。
(あぁ、無視してください。イカレタ人間のやることですから)
そして、さらに言うと、「時間」だけではなく、「労力」についても出来るだけ費やしていこうと思っているわけです。
(あぁ、気にしないでください。頭がサルなんで)


最近は「スロー・フード」に代表されるように、「スロー〇〇」という言葉が使われることが、けっこうありますけど、そういうときに、どちらかというと「自然回帰」とか「エコロジー」的なスタンスで語られることが多いと思います。

そして、その場合の「スロー〇〇」とは、「アンダー・ワーキング〇〇」であることが多いわけです。
まぁ、一言で言えば『無理しないで、のんびりやりましょうよ』ということなんだと思います。

それはそれで、私も大賛成なんですが、「現在の芸術」に限って言うと、それでは足りないような気がしてしまうわけなのです。


つまり、「現在の芸術」には「オーバー・ワーキング」が求められているように思うわけですね。
要するに、「現在の芸術」が、ある種の「行き詰まり」の状態になっているということです。
だから、そこから抜け出すためには、少しだけ「無理」する必要があるような気がするわけです。
それで、「オーバー・ワーキング」であることが求められてしまうんだと思います。

 ※ここで言う「オーバー・ワーキング」は、『かなりのところまで一所懸命にやる』という
  ことで、『死ぬまでやる』とか『命を削ってやる』ではありません。
  それを、やってしまうと芸術が不幸を生み出すという公式が出来上がってしまうので、
  それは、避けた方がいいような気がします。
  あくまで、その「オーバー・ワーキング」が創作者の幸福に還元できるギリギリのところ
  を目指すということですね。

本来ならば、『のんびりやりましょうよ』で、何の問題もないんだと思うわけですが、「現在形の美術」は、のんびりやっていたら、腐ってしまうんじゃないか?っていう感じがするわけです。
つまり、「賞味期限切れ寸前」に成っているようなところがあると思うわけですねぇ。
(「もう過ぎちゃってる?」の感もありますけどね)

そうなると、いくら「スロー・アート」とは言え、のんびりやっているわけにはいきませんから、「一所懸命」にやることに成るわけです。
その「一所懸命」を『ガンガンやっていこう!でも、時間はかけてネ』というのが「オーバー・ワーキング・スロー・アート」です。


でも、一般的に言われている「スロー・〇〇」も、一見すると、「アンダー・ワーキング」に見えますが、、実は、けっこう「一所懸命」なところは同じだったりします。

たとえば、この文明社会の中で、「自然回帰」や「エコロジー」を実践しようとすれば、意外と「ハード・ワーキング」に成ってしまうわけだし、それ以前に、現代は「忙しい時代」ですから、「スロー」であること自体が時代に逆行しているわけで、流れに逆らう分「ハード・ワーク」が必要になるわけですね。


ただ、違うのは、私が考えている所の「オーバー・ワーキング・スロー・アート」においては、必要性から「ハード・ワーク」が発生してしまうのではなく、「ハード・ワーク」であること自体も「芸術表現の一環」であるという考え方があるというところです。
「スロー・フード運動」などにも、これと少し共通した部分はあると思いますが、それを、より強調したのが「オーバー・ワーキング・スロー」という形です。
(いや、私が言ってるだけです)



もともと、「芸術」においては、「オーバー・ワーキング」であることが、「芸術表現の一環」として捉えられて来たところもあると思います。
それを、もう一歩進めて、『シャカリキに成って大量の作品を創作する』ではなく『シャカリキに成って少量の作品に力を注ぎこむ』にまで持っていくというのが「オーバー・ワーキング・スロー・アート」に成ります。
(「最後のサル脳保持者(ラスト・モンキー・ブレイン)」と言われています。ほっといてください。)

つまり、むしろ「オーバー・ワーキング」の方が目的で、「スロー」は結果ということに成ります。
一般的な「スロー〇〇」は、どちらかというと、「スロー」が目的で、「ハード・ワーク」が結果でしょうから、そこは逆ですね。

まぁ、それにつけても、「アンダー・ワーキング・ファスト」なものが、非常に多いような気がするのは、私だけなんでしょうかねぇ?

そういうものが、そんなにいいいんでしょうかねぇ。
そういうものには、それほどの「意味」も「価値」もないと思うんですけどねぇ。
なにせ、「低コスト&大量生産」ということですからね。

それなのに、なぜか流行るものは、ほとんど「アンダー・ワーキング」で「ファスト」なものなんですねぇ。
(売り手にとって都合がいいということなんでしょうか?)
なんで、みんな拒否しないんですかねぇ?


そんな風に思いますねぇ。
(以上、「サル脳だより」でした)




「美しさのモト」



「美しさ」というモノがあるとするならば、その「美しさのモト」に成っているのは、何なんだろうか?と思うわけです。
まぁ、そんなことに答えなんてあるわけではないんでしょうが、それでも、一応は考えないと収まりがつかないということですね。


そういうわけで、いつもそんなことを考えているんですが、私自身にとっての「美しさのモト」とは、「本質に向かうエネルギー」だと思っているわけです。


ありとあらゆるモノには、そのモノの最も根源的な性質である「本質」があると思うわけです。
そして、どんなモノでも、一番根源的な姿が一番美しいんじゃないだろうか?と思っているわけです。
(『自分がそういうことにしている』といった方がいいのかもしれませんけど)

そういうことで、その「本質」を表すことが出来れば「美しさ」を表現できるんじゃないだろうかと思うわけですね。


ところが、「本質」を直接表そうとすると、まったく何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
おそらく、「本質」は根源的過ぎるし、純粋過ぎるし、普遍的過ぎるので、人間の表現力を超えているんだと思います。

そこで、何とか「そこへ向かうエネルギー」だけでも表せないだろうかと思っているというわけです。


どんなものにも、必ず「本質」はあると思いますので、そこには「本質に向かうエネルギー」も必ずあるんだと思います。

そして、私の場合、「本質に向かうエネルギー」は「ブラック・ホール」のような感じでイメージしていることが多いんですね。
つまり、中心に向かってあらゆるものが吸い込まれて行ってしまうようなイメージです。
渦を巻きながら、中心の一点に向かって集約されていくというような感じです。

そういうイメージがあると、その「中心に向かうエネルギー」を乱すようなものは、「美しさ」を妨げるように見えてきますし、「中心に向かうエネルギー」をさらに増すようなものは「美しさ」も増幅するように見えてくるわけです。

そういう感じでやっているわけなんですが、なぜか出来上がってくる絵は『美しい?これが?』というようなものに成ってしまうわけで、そこのところの原因は何なんだろうか?と考えるわけなんですが、それは、おそらく「描いているモノの本質」ではなく、「描いている者の本質」によるところが大きいんじゃないだろうか?と思うわけです。

要するに、描いている「自分の本質」が、「そんな感じ」なんだと思います。
でも、それもまた、「本質」であることには違いないわけですから、『それも、きっと美しい!』・・・たぶん。


という風に思うようにしています。




「自分を表現すること」と「自分の好きなことを表現すること」のチガイ



「現在の芸術」において、もっとも多くの人が中心に近いものと考えているのは、おそらく「自己表現」だと思います。
でも、その「自己表現」という言葉には、あまりはっきりした規定がないような気がするわけです。


たとえば、自分の姿や顔を絵にすれば、それは「自己表現」と言えるでしょうか?
たとえば、自分の好きな作家と同じようなスタイルで創作すれば、それは「自己表現」と言えるでしょうか?
たとえば、自分が美しいと思うモノをそのまま表せば、それは「自己表現」と言えるでしょうか?

これらは、確かに、「自己表現」ではあると思います。
しかし、「現在の芸術」における「自己表現」と言えるのか?と聞かれた場合には、即答できなくなりそうな気がします。

つまり、これらは、いづれも「表面的な自己」を表してはいても、「本質的な自己」を表していないところがあるわけです。

おそらく、「現在の芸術」における「自己表現」とは、「本質的な自己を表現すること」であって、「表面的な自己を表現すること」ではないでしょう。

そして、その「本質的な自己」とは、どのようなものかと言えば、つまるところ「自分が嫌いな自分」や「自分が認めたくない自分」のような「自分が好きではないもの」を含めた「丸ごとの自分」であるのだと思うわけです。

要するに、「表面的な自己」とは「自分が好きな自分」に限って「自己」と言っているような感じがしてくるわけですね。

 ※「嫌になるくらい好きなもの」とか「どうにも逃れられないほど好きなもの」
  というところまで行くと「本質的な自己」に入ると思います。

もちろん、「本質的な自己」には「自分が好きなもの」も含まれているわけですから、「嫌なもの」ばかりでもないわけで、「嫌いなもの」だけでも「自己表現」とは言えないと思いますが、やっぱり人間ですから、どうしても自分の「好きなもの」については表現しやすいわけですが、「嫌なもの」と成るとなかなか表現しにくいわけで、当然、「嫌いな自分」を表現した作品の方が少なくなるわけですし、「好きなもの」と「嫌いなもの」の両方を表している作品となると、さらに少なくなるんだと思います。

つまり、「現在の芸術」における「自己表現」とは、自分がそこから逃げたくても逃げられないような「性(さが)」のようなものを表現することなんだと思うわけです。
そして、そこには「自分の好きな自分」も「自分の嫌いな自分」も含まれてしまうということなんだと思います。
(これは、本人の考えとはほぼ無関係に含まれているものだと思います)

だから、「そこから逃げたくならないようなもの」では、少し足りないような気がするんだと思います。


「好きなもの」や「センスがいいといわれているもの」や「誰もが美しいと思うようなもの」だけでは、「自己の本質」を表現することはできないような気がしますね。
それらは、決して「逃げたくなるようなもの」ではないですからね。

いくら、『自分が好きなんだから~』と言っても、無駄だと思います。
その位置に「現在の芸術」がないわけですから、無理だということです。

『「美しさ」を使ってはいけない』とは思いません。
『「センス」は捨てなければいけない』という話でもありません。
『「自分が好きなもの」を表現するのなんて「自己表現」じゃないよ!』と言うつもりもありません。

だた、それだけでは、足りないと思うわけです。
たぶん足りないと思います。

どんな人にも、必ず「自分が認めたくない自分」がいるはずです。
そこだけは「パス」して、「自分の中の都合がいいところ」だけを表現していれば、それを「本質的な自己表現」であるとは言えなくなってしまうわけですね。


これを言うと、「芸術」から「楽しさ」を奪ってしまうような気もするんですが、私は「楽しさ」は「芸術の本質」とは少し違うものだと思っていますから、そこのところは、ある程度諦めるしかないと思っているわけです。

「楽しさ」を第一目的にするということは、「娯楽」を目指すということです。
「娯楽」はほかのものでも得られると思いますが、「本質的な自己表現」ができるものは限られています。
もしかしたら、「芸術」しか無いかもしれません。

だから、できれば、『楽しさを二の次にする』という、この「面白みのなさそうな発想」を大切にしていたいと思ってしまうというわけです。


そんなわけで、「自分が嫌な自分」を表現しようと思いますし、「自分が好きなこと」は「嫌になるくらい好き」に成ってから表現しようと思いますし、「みんなが好きなもの」は出来るだけ表現しないようにして行きたいなと。


そんな風に思っているわけです。



「自己表現」とは「自分に見えている世界」を描くこと



前の記事と似た話なんですが、「自己表現」は「自分に見えている世界を描くこと」でもあると思うわけです。


前の記事では、「自己表現」とは「逃れようのない自分」を表現することなんじゃないか?と書いたんですけど、人間は「自己の中」にも「逃れようのない自分」を持っていると思いますが、「外界の捉え方」にも、その「逃れようのない自分」が反映していると思うわけです。

実は、人間って、人によってけっこう「見えている世界」が違うんじゃないかと思うんですよね。

物質的なことで言えば、身長2メートルの人から見たら、身長160センチの人はすごく小さい人に見えているでしょうが、身長120センチの子供から見たら、大人はみな巨人です。

こういうのは人間だけでなく、ほかの動物でも同じことですが、人間の場合、さらに精神的な差が大きいわけで、その「精神的な世界観」には、際限がないようなところもありますから、そこにかなりの差が出てくるんだと思います。
つまり、人間の「精神世界」は肉体よりも個体差が大きいような気がするわけです。

これを「芸術」における「自己表現」に当てはめて考えた場合、どうなるのか?ということですね。

それぞれの人の持っている「精神的な世界観(=その人に見えている世界)」に、かなりの違いがあるとするならば、当然、そこから生み出される「自己表現」にも大きな違いが出てくるわけです。

たとえば、「芸術」の話に限らず、仕事上の事務的なやり取りをしている限りでは、『この人とは、見えている世界が違うんじゃないか?』とまで思うことは少ないですけど、話が、少しでも「精神的」に成ったとたんに、「世界観の差」が如実に表れてくることがよくありますよね。

そういう時には、それぞれの人が「自分に見えている世界」のことを話しているんだと思うわけです。
まぁ、ほとんどの場合は、かみ合いませんね。
でも、ほとんどの場合は、テキトーにかみ合ったことにしているわけです。
それでも、ほとんどの場合は、大した問題がないので『いんじゃないの?』ということですませることに、世の中では決まっているわけです。

まぁ、それはそれで『いんじゃないですか?』と思います。

でも、「芸術」でそれをやってしまうと、「芸術」がフヤケて行ってしまうよな気がしますので、一応、一所懸命に「芸術」をやっているつもりですので、やはり、自分が「芸術をフヤケさせる人」には成りたくないなと思いますので、まぁ、そこのところは少し頑張ってやって行きたいなと思っているわけです。

それで、やっぱり「自分に見えている世界」を描かないといけないだろうと思うわけなのです。

でも、これが、そう簡単でもなくて、前述のように生活の中では、いつも『テキトーにかみ合ったことにしている』わけですから、常にそういう見方をするような習慣が染みついてしまっているわけで、そこを見極めるのが非常に難しくなるわけです。

「自分に見えている世界」を描くというと、すんなりと見たままを描くというように聞こえてしまうかも知れませんが、実を言えば、「自分に見えている世界」が、いろいろな既成概念などと、ほとんど分け隔てなく整理もされずにゴチャマゼの状態で放り込まれているのが人間の知識や記憶なわけで、それをもとにして、その人の意識が「世界観」を再構成しないと、それを表現したり描いたりできないわけです。

つまり、「ただ単に、その人の目に映っている世界」と「その人が認識している世界」が、かなり違っていて、しかも、「その人が認識している世界」は、いろいろな「認識」が入り混じってしまっているので、その中から、「もっとも純粋な自分の判断による認識」を見つけ出すのは、意外と大変なことなんだと思います。

それで、ほとんどの人が、「独自の世界観」を持っているハズだし、その「独自な世界観」で捉えた「自分に見えている世界」を表現しているハズなのに、どこか均等な感じの作品が多くなってしまうんだと思います。

まず、なんと言っても、記憶や知識の中で、「自分に見えている世界」の記憶や知識と、「既成概念に影響された自分が見ている世界」の記憶や知識とを区別して、より分けるのが大変です。

なにせ、人間が生きていくには、そういった「既成概念」も必要不可欠で(例えば「言葉」だって一種の「既成概念」だろうし)、そういう「既成概念」を完全に排除してしまったら、おそらく、人間として生きていける人は居ないと思います。
(というか、それを「人間として生きている」とは言えなくなってしまう)

すでに、この段階で十分に難題なわけですが、前の記事で書いたことが、さらに困難な状況を生み出します。

要するに、人間は「ありのままの自分」をなかなか認められないんですねぇ。
だから、そういう「ありのままの自分」が持っている「独自の世界観」で見えた世界、つまりは、「自分に見えている世界」をそのまま表現してしまうと、「自分の中の醜い自分」や「自分の中の恥ずかしい自分」が丸出しに成ってしまうような気がして、逃げ出したくなるわけです。

そういうときに、「既成概念」を使うととても安心なんですね。
なんといっても、「既成概念」は、みんなの「共通概念」でもありますから、だれからも「後ろ指」刺されることもなくて、居心地がいいわけですよね。

そうなれば、わざわざ大変な「脳内仕分け作業」をして、わざわざ「本当の自分」を見つけ出して、わざわざ「自分に見えている世界」を描き出して、わざわざ他人から嫌われたり、馬鹿にされたりするようなことはしないのが普通だと思います。

しかし、これも前の記事に書いたことですが、そういう「本当の自分」から逃れられる人もまた居ないわけです。

さて、どっちをとりますか?
選択は、それぞれの人の自由です。

さて、「芸術」はどっちの人を選ぶでしょう?
「芸術の選択」は、人間には計り知れません。

一応、個人的には、「自己表現」とは「自分に見えている世界を描くこと」ということでやっていこうかなと。

出来る、出来ないは二の次ですね。

そんなこと、たいした問題でもないでしょ?


そんな風に思っています。


 ※追記
 
こういう話においては、とかく、「既成概念」に左右されずに「独自の判断」が出来る人というのは特別な人であって、「特別な才能」や「特別な環境」や「特別な素養」が与えられた、ごく一部の「特別な人間」であるということが言われることがありますが、けっしてそういう話ではありません。

誰の中にも「本当の自分」は居るはずです。
だから、その「本当の自分が見た世界」も、誰もが必ず持って居るに違いあいません。
そこまでは、すべての人に均等に与えられた「自分という才能」です。

その「自分という才能」の優劣を競う時代は、もうとっくに終わっています。
そこからは、その「本当の自分が見た世界」を如何に表現するかしかありません。

そこで、その人によって、「本当の自分が見た世界」を隠している「既成概念」に違いがあります。
多くの「既成概念」を植え付けられた人も居ますし、ある「既成概念」に強烈に縛り付けられている人も居ますが、そういう「既成概念」にあまりとらわれていない人も居ます。

一見すると、「既成概念」にとらわれていない人の方が、いいように見えますが、実はそうでもありません。
「既成概念」に縛られている人には、「既成概念」を乗り越えて「自己」を解放する機会が与えられているとも言えます。
つまり、多くの「既成概念」を持っている人ほど、多くの「解放の機会」を与えられているわけです。

もしも、「既成概念」を全く持っていない人がいたとすれば(実際は、そんな人は居ませんが)、その人は何の苦も無く「本当の自分が見た世界」を表現することが出来るでしょうが、もうその位置に「現在の芸術」はありません。
「現在の芸術」が、その人が「乗り越えたモノ」を提示するように命じてくるわけです。
だから、その人は、『ナニを乗り越え、ナニから解放されたのか』を示さなければならないわけです。
それが、「現在の芸術のある位置」ですから誰にもどうすることもできません。

だから、結果的には、むしろ、多くの「既成概念」に、しかも強烈に縛られている人の方が有利だと言ってもいいほどです。
でも、実際には、すべての人が、十分に多くの「既成概念」に、そして十分に強烈に拘束されながら生きていますので、そこでの有利・不利ということも全くないというのが「現在」と言う時代における「芸術」の在り様です。


つまり、あらゆることにおいて均等な機会が与えられているのが「現在の芸術」に他なりません。
(本来なら、そう成っているはずなんですけどね)

そんな中で、それぞれの人が、それぞれに違う「自分が見た世界」を表現するような、そんな「芸術の世界」が展開されていけば、そこに示された「様々な解放」によって、見た人の心もまた「解放」されるように成るだろうと。

そういう風に思うわけです。





「昔の王様」と「今のカネ」どっちがエライ?



「今」っていう時代は、世の中全体が「おカネ」に支配されている時代だと思うわけです。
ちょっと昔の時代までは、「王様」や「殿様」に支配されていたわけですが、そういう所からやっと抜け出したのも束の間、今度は「おカネ」に支配されちゃいました。
みたいな所だと思いますね。

それで、それならば「昔の王様」と「今のカネ」はどっちがエライんだろうか?と考えてみたわけです。
(いや、本当にエライということじゃなくて、支配力が強いのはどっちだろうか?ということですね)

一見すると、「昔の王様」は絶対権力者なわけですから、すごくエライようにも見えるんですけど、実際には「世界制覇」を達成した王様はいなかったわけだし、今のような強大な軍事力や組織的な治安機構があったということでもないわけですから、所詮、「昔の王様」には、いつ失脚するかもわからないような不安定な要因はいくつもあったんじゃないかと思います。

それを、あとの時代に成ってから、歴史の教科書の中で見ていると「すごくエライ感じ」がするだけなんじゃないかという気もするわけですね。
(絶対君主が行った圧政や侵略などがクローズアップされてしまうので)

もしかすると、一般庶民は、現代人が思うほど「王様の支配」を意識して生活していなかったんじゃないでしょうか?
(あくまで想像ですが、政治や国家に対する一般庶民の意識は低かったでしょうね)

これは、一般庶民にとって王様が雲の上の存在だったからというだけではなくて、「王様の支配力」が王様の所属していた階層に近いところでは強い支配力であったのに対して、一般庶民階級のようなかけ離れた階層においては、完全に隅々まで行き渡っていなかったということでもあると思います。

今のようにマスコミがあったわけでもないし、教育が普及していたわけでもなかったわけですから、一般庶民は、ただ単に『長い物には巻かれろ』程度の感覚で服従していたようなところもあったような気がしますね。

そこへ行くと「今のカネ」は、完全に世界をスミズミまで支配しているといってもいいと思いますし、「政治」も「軍事」も「教育」も「マスコミ」も、すべて「おカネ」を基準にして回っています。
だからこそ、「その支配」を「受け流せない状況」があるわけで、その結果生み出され続けているのが「社会的ストレス」と言われているものだと思います。

そう考えると、「今のカネ」は、「昔の王様」なんか及びもつかないような絶対的権力を持っているといってもいいと思うほどです。
ただ、それが『人間ではない』と言うことです。

だから、「人間」が「おカネ」を使ってさえいれば問題ないんだと思いますが、実際は、「人間」が「おカネ」に使われているとしか思えないようなことがたくさん起きているのは否定できない事実だと思います。

 ※例えば「ブラック・企業」の経営者は、、みんな「悪人」なんでしょうか?
  例えば「ハラスメント」を行う人は、みんな「傍若無人」なんでしょうか?
  例えば「汚職議員」は、生まれながらの「悪徳政治家」なんでしょうか?

  そういう人たちを擁護するつもりなんか1ミリもありませんが、どう見ても
  「ごく普通の人」が、そういうことをやっているとしか思えないことがある
  のも確かなことで、そういう時に、そういう人たちが、『「おカネ」に振り
  回されている』としか思えないのも、また、確かなことなわけです。

そうなると、「おカネ」自体は人間でなくても、「おカネの支配」を実行させられるのは「子分の人間」ということに成りますから、その都度、その「子分=実行犯的な立場」に立たされた「人間」が、「おカネの支配」を肩代わりして実行することに成るわけです。
これを、その都度、「実行犯」だけを捕まえて裁いていても、あまり意味がないような気がしますね。
また、別の子分が、親分の代わりに鉄砲玉として「支配」を実行するだけですからね。

けっきょく「今のカネ」は「昔の王様」よりも、かなりエライんじゃないのかなと。
そんな感じもしてくるわけですが、そうなると、『あれ?いったい何のために民主化したんだっけ?』みたいなことに成るわけで、『なんか、かえって支配力強まってるんじゃないの?』みたいなことだったら、『なんだ、じゃあ、初めから王様とその手先でよかったんじゃないか?』と言うことに成ってしまうわけですねぇ。

まぁ、確かに、「王様の一存で殺される人」なんかは居なくなったわけですが、世の中全体を見た場合は、果たして良くなったのか悪くなったのか、そこのところが不確か過ぎるんじゃないでしょうか?

何よりも、昔は服従させられていたのに対して、今は自主的にやらされてますよね。
つまり、「民主主義」の名のもとに、すべてのことが「民衆」のやったことに成ってしまうわけです。
確かに、厳密に言えば「民衆」にも責任の一端はあるんでしょうが、「民衆」に影響力がある手段が与えられていないのも事実なわけですから、それが、すべて「民衆」のやったことに成ってしまうというのも考えもんだと思いますよ。

 ※「選挙」は「民衆に与えられた権利」というよりも、「現状の社会」を自己責任の
  名の下に、「民衆に丸飲みさせるための手段」として働いていると思いますね。

つまり、支配されているのは「民衆」」で、支配しているのは「カネ」であり「社会」であり、その手先として「支配」を実行させられているのは「人間」なわけです。
一見すると「支配する側の人間」と「支配される側の人間」に分かれているようにも見えますが、実を言えば、現代社会においては、「支配」と「被支配」は分けることが難しくなっていて、「全ての人」が「支配する側」でもあり、「支配される側」でもあるといってもいいんじゃないかと思います。

唯一「完全なる支配者」として君臨しているのは「社会」であって、その「完全な支配」を実行するための手段として使われるのが「絶対価」としての「カネ」であるわけです。


そんなわけで、とりあえず、言えることは「今のカネ」は「昔の王様」と比べても『かなりエライ!』ということかなと。

そんな風に思っているわけです。

 ※実を言えば、「今のカネ」だけじゃなくて「昔のカネ」も『かなりエラかった!』とは
  思いますが、昔は、今ほど政治や国家が安定していなかったんでしょうね。
  だから、国家の保証の下でしか「絶対価」と成り得ない「おカネ」は、今ほどの支
  配力を持っていなかったんだと思います。
 
  まぁ、時代とともに出世したんでしょうね「おカネ」。
  だから、「王様よりエラク」なったんでしょう「おカネ」。。
  それで、「さらにシタッパ」に成っちゃいました「人間」。。。
  




「芸術を芸術すること」と「哲学を哲学すること」


 注:この記事は内容のわりに長いです。
   読んでトクなことは何一つ書いてません。
   一般的に言って、お読みにならないことをお勧めいたします。

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「芸術すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「創作すること」が頭に浮かぶと思います。
「哲学すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「考えること」が頭に浮かぶと思います。

それでは、「芸術を芸術すること」とか、「哲学を哲学すること」と言った場合、どんなことを頭に思い浮かべるでしょう?

「芸術」で言えば、「芸術の批評」や「芸術の鑑賞」が「芸術を芸術すること」に当たるんじゃないかと思うわけです。
「哲学」で言えば、「哲学の諸説の研究」や「哲学者の思想の研究」が「哲学を哲学すること」に当たるんじゃないかと思うわけですね。

どうして、こんなことを考えるかと言うと、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」があまり区別されていないような気がするんですね(特に「哲学」の場合は)。

 ※これは「芸術」や「哲学」だけでなく「科学」などでも同じことがいえると思います。
  つまり、「科学すること」と「科学を科学すること」が、必ずしも区別されていなか
  ったりするわけですね。
  でも、「芸術」と「哲学」において、これらのことが区別されていないことの影響が
  わりと大きいのかな?ということですね。

そして、それらを区別していくと、見えやすくなってくることがあるんじゃないか?と思ったので、それを考えてみたわけです。

それから、もう一つ、このブログでも前から書いていることなんですが、「芸術する人」のことを、私は「芸術者」と呼ぶようにしているんですが、その「芸術者」という言葉には、「創作者・鑑賞者・批評者」の三者を対等な関係として考えていきたいという意味を込めているわけなんですねぇ。
だから、「芸術する人」だけでなく、「芸術を芸術する人」も含めて「芸術者」として考えていきたいわけです。
それで、そういう意味も含めて、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や「哲学すること」と「哲学を哲学すること」の違いを考えてみようというわけです。

まず、「芸術」についてなんですが、「現在の芸術の世界」においては、【「創作者・批評者」:「鑑賞者」】の比重がかなり偏っているということがあると思うわけです。

「芸術の世界」においては、「芸術の世界の人」というのは「創作者」と「批評者」だけであって、「鑑賞者」はあくまで「素人」または「部外者」ということに成っていて、プロフェッショナルなのは「創作者」と「批評者」であるという感じが非常に強いと思います。

 ※ここで言う「プロフェッショナル」は、必ずしも「お金を稼いでいる人」とい
  う意味ではなく、「専門性を持ってやっている人」という意味です。
  
  「プロフェッショナル」という言葉には、「専門性」という意味が、もう少し
  取り入れられてもいいような気がします。
  「金銭的な価値」に重点を置いて「プロ」を考えた場合、「プロの専門性」は
  堕落することも多くなるでしょうが、「専門性」に重点を置いて「プロ」を考
  えた場合は「プロの価値」が高くなることはあっても、堕落することはないは
  ずです。
  その「プロの価値」こそが、「金銭的な価値」に置き換えて相当な「本当のプ
  ロフェッショナル」の姿だと、私は思います。

しかし、実際には、「専門性を持った鑑賞者」は存在しますし、「鑑賞者」が「創作者」や「批評者」と対等に「芸術者」として扱われるようになれば、きっと、もっとたくさんの「専門性を持った鑑賞者」が出てくると思います。

現在は、どうしても「ごく一部のコレクター以外の鑑賞者」は、置いて行かれてしまう傾向があって、けっきょく、ここでも「カネがものを言う世界」が出来てしまっています。
(「コレクター」として認められるようになるのには、けっこうお金がかかりますからね)
そういうことではなくて、「鑑賞すること」自体が「芸術表現の一部分」として捉えられるようになっていかないと、「芸術」自体も循環できなくなって息が詰まってしまうと思うわけですね。

つまり、「芸術すること=創作」と「芸術を芸術すること=批評・鑑賞」が対等な関係で対峙しつつ循環することで、「創作」~「鑑賞」~「批評」~「創作」~という繰り返しで「芸術」が回り続けることが出来るようになって、その結果、初めて「芸術」が「表現」として成り立つんだと思うわけです。

だから、その「芸術三者」が対等でなかったり、循環していなかったりしている状態というのは、本当の意味で『「芸術」が表現されている』とは言えないような気がします。

そういうことから、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」が区別されて、それぞれに意味があると言うことが認識されるようになった方が、少しいいような気がするわけですね。

 ※今は、この二つが対等なものとして区別されていませんから、同じモノとして扱わ
  れてしまって、「創作」の優位性ばかりが強調されてしまうんだと思います。
  どうしたって、「作品」がなければ「鑑賞」できませんからね。
  それぞれの意味が、区別されていないと「鑑賞サイド」が絶対に不利ですよね。
  それでいて、職業的な「批評家」だけは影響力がありますから、ある意味では「創
  作者」以上の権威に成ってしまっているようなところがあるのも確かなことだと思
  うわけです。
  こういうアンバランスな力関係があるために、「芸術」が循環できなくなっている
  んだと思います。
  「鑑賞者」が「芸術の中心」がら排斥されるようになれば、結果的に困るのは「創
  作者」でもあるわけですから。
  (今、そうなってませんか?)

次に、「哲学」ですが、どちらかと言えば、「芸術」以上に区別されていないのが、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」だと思います。

こちらは「哲学を哲学すること」を「哲学すること」の本流だと思っている人の方が多いくらいなんじゃないか?とも思います。
つまり、「自分の哲学」ではなく「誰か有名な人の哲学」について研究することの方を「哲学の本流」だと思っている人が多いと思うわけです。
(そういう意味では「芸術」と逆ですね)

「哲学」は「真理を探究する学問」だと思いますが、その「真理」は、人間がどんなに頑張っても到達できないものだと思いますから、当然、「真理」を提示することが出来た人(哲学者)は居ないはずです。
ということは、特定の哲学の説の中に「真理」はないはずです。
ということは、ある哲学者の思想や生涯を研究し尽くしたとしても、「真理」に巡り合えることはあり得ません。
つまり、「哲学を哲学すること」というのは、初めから「真理の探究」ではないという前提で行われる、「哲学」とは少し違う作業だということだと思います。

 ※これは「哲学のテーマ」を「真理」以外のことに置き換えたとしても、ほぼ同じ
  ことがいえると思います。
  「哲学のテーマ」をほかのことに置き換えるとしても、どう転んでも「哲学のテ
  ーマ」は世界の根源的な様相にかかわっているでしょうから、人間に到達できな
  いものであることには変わりないと思いますので。

もちろん、「哲学すること」であっても、現実に「真理」に達することはないので、その点では同じなんでしょうが、少なくとも『真理を目指している』ということは言えるわけです。
でも、「哲学を哲学すること」となると、やはり『真理を目指している』とは言えないと思います。
「哲学すること」と「哲学を哲学すること」が、全く違うことだとは思いませんが、少し違う方を向いていることは間違いないんじゃないかと思うわけですね。

「哲学を哲学すること」の意味は、『真理の探究』ではなく「哲学的な思想に出会うこと」の意味だと思います。
(有名な哲学者の思想に限らずですね)
回りくどい言い方に成りますが「真理を探究した人が、真理には到達できないまでも、その真理に向かう思考の過程で持つに至った哲学的思想との出会い」ということに成るんじゃないでしょうか?
つまり、そこにあるのは「真理」ではなく、『いかにして真理に到達できなかったのか』という「不達成の記録」なわけですから、言ってみれば「不達成哲学の研究」が「哲学を哲学すること」ということに成るわけです。
だから、やっぱり「哲学すること」とは違うと思うわけですね。

ただし、だからと言って、そこに意味がないかと言えば、そうとは限りませんし、もちろん意味がある場合もあると思います。
ただ、『「哲学すること」とはチガウ』ということだと思います。

「他人の哲学思想に出会うこと」が「哲学を哲学すること」の意味であって、それは「哲学すること」の意味ではないということが意識されてさえいれば、その「出会い」にも確かな意味が生まれると思います。
でも、それとは逆に、「他人の哲学思想に出会うこと」を「哲学すること」そのものだと考えてそれを行ってしまうと、そこに「哲学的な意味」はなくなってしまうような気がします。

「哲学」とチガウモノを「哲学」だと思って「哲学する」わけですから、そこに「哲学としての意味」が生まれるわけないですよね。
ハッキリ言えば、そこからの「哲学への発展性」もほとんどないと思いますね。
「チガウ方向」へ向かってしまっているわけですから、離れていくことはあっても近づくことはできないんじゃないかと思いますよ。
最初に方向性がズレた位置まで戻ってからじゃないと難しいんじゃないでしょうか?
要するに、それまでに習得したものを、かなりのところまで切り捨てるような意識がないと、戻れないような気がしますね。
(まして、その「自分が習得した知識」にしがみついているんだとすれば)

一度戻った後で、自分の中から生み出された思想があれば、それがどんなに単純なものであっても、どんなに不完全なものであっても、それは「その人の哲学」であり、それを考えることこそが「哲学すること」に成るんだと思います。

『自分は、そんなこと初めからわかってやっているから大丈夫!』と思っている人が多いような気がしますが、実際には『そんなことわかっている人』は、初めから「他人の哲学」ではなく「自分の哲学」を追究するような気がしますね。

ただし、、これは、「師弟関係」のように、直に接した人から受け継がれる「思想」に関する話とは、ずいぶん違う話だと思います。
つまり、『本を読んだ』とか『授業を受けた』とか『大学で専攻した』とかと言うようなことに関する話です。
そういうことから、吸収されるのは、主に「知識」であって「思想」ではないと思います。
なぜなら、「本」や「授業」から「思想」を吸収するには、その人の中にすでに「その思想に匹敵するくらいのサイズの思想」が存在する必要があるからです。
自分より大きいものを吸収できるわけがありませんからね。

 ※その哲学者本人に、長い時間をかけて直に接することで、「その人の思想」を
  丸ごと吸収できる可能性はあると思います。
  その場合は、必ずしも「その人に匹敵する思想」は必要ないのかも知れません。
  これは、「師弟関係」に限らず「親子関係」において、親から子に受け継がれ
  る思想があることを考えればわかることだと思います。
  「子供」が初めから「親」に匹敵する思想」を持っているわけではないのに、
  「子供」は確実に「親の思想」をコピーしますから。

  でも、それも「学問」においては、研究者同士の師弟関係など特殊な関係に限
  られるでしょうね。

やはり、「知識」はあくまで「知識」として吸収して、あとに成ってから「自分の思想」に役立てられたらいいんじゃないかと思います。
「知識」を「思想」として捉えてしてしまえば、改めて「自分の思想」を築き上げるという多大な労力を要する作業を行うことはなくなってしまうのが普通でしょう。

さらに言えば、「哲学」のようなジャンルに関しては、「思想全体を吸収すること」であっても「思想のごく一部分を吸収すること」であっても、ほとんど同じ「受け手側の容量」が必要だということもあると思います。
だから、「他人の哲学思想に出会うこと」と言っても、「本」や「授業」だけでは、それは、あくまで「出会い」にとどまるわけで、そこからの「哲学への発展性」には、ほとんど期待できないと思うわけです。

 ※こういうの言うと、怒る人も居るでしょうが、『なぜ、自分は怒るのか?』
  と考ええてみてほしいですね。
  その人が、本当に、「他人の哲学思想との出会い」から「自分の哲学」を導
  き出せたんだとすれば、こんなこと言われたぐらいで怒らないんじゃないか
  と思いますよ。


さて、ここで、いったん最初に話を戻します。

まぁ、要するに、「芸術を芸術すること」は、あまりに軽視されているし、「鑑賞」と「批評」も区別されていないような状態だということです。
そして、「プロの批評家」と「素人の鑑賞者」との間の関係も非常にアンバランスであって、それが「芸術」を停滞させている原因の一端なのではないのかと思うわけです。

そして、「哲学」においては、「難解過ぎる哲学」が「哲学の世界」を覆いつくしてしまっているために、それを修学するのに力を使い果たしてしまって、一番肝心な「哲学すること」が、そっちのけに成っているんじゃないだろうか?と思うわけですね。

さらに言えば、「そこで力を使い果たした人」こそが「教授」や「学者」に成っていくことに成るわけで、そうなれば、エラク成ったその人たちは、その後、その「難解すぎる哲学」を手放さなくなってしまうに違いないのです。
そうなれば、当然、その「教授」や「学者」から、さらに「難解すぎる哲学を修学すること」、つまりは、「哲学を哲学すること」に長けた人が、また、次も力を使い果たした後で、「教授」に成り「学者」に成るということです。
それで、ごく一般的な人が人生の中でたどり着いた、単純であっても「本当のその人の哲学」といえるものが、完全にナイガシロにされてしまうわけです。

要するに、「芸術の世界」では「芸術を芸術すること」があまりに軽視されているし、「哲学の世界」では「哲学すること」の方が、むしろ、除外されてしまうような環境が出来てしまっているわけです。
つまり、「芸術」と「哲学」において、まったく逆のことが起きていて、しかも、それらの反対のことがほとんど同じ結果を生み出してしまっているわけです。


ここで「芸術」と「哲学」において、なんでこんなことが起きているのか?ということです。

おそらく、これらのことは、「芸術」や「「哲学」において、本質が失われているということからきているんじゃないかと思うわけです。

「芸術」は「真実」を表現しようとするものですし、「哲学」は「真理」を探究するものだと思います。
ところが、その「真実」や「真理」が、人間には到達できるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「芸術」や「哲学」というのは、不可能なことを追求するという、人間にとっては極めて不条理で、不満足な作業の連続ということに成るわけです。
そこで、やっぱり達成感が欲しくなるわけですね。
その「達成感への渇望」が「芸術」と「哲学」において、共通して、本質が失われてしまった原因だと思います。

もともと、「芸術」は「現実(自然)」を表すことで「美しさ」を追求して来たわけですが、ある時から、それだけではもの足りなくなってきて、より「真実」に迫るようなものを表現しようとするようになります。
それが、印象派以前から続いてきて、現代の「抽象表現」に至った「現在の芸術の流れの源泉」だと思います。

ところが、その「抽象」が思ったほど自由でも簡単でもなかったので身動きが出来なくなってしまって、進むべき方向性を見失ってしまったというのが「現代美術」の現状だと思うわけです。

要するに、どうしていいのかわからなくなってしまったんだと思いますが、そんな無根拠な状態を無理やり肯定しようとしたために、「無根拠を自己肯定するための論理」が必要になって、「抽象以降の現代美術」には難解な論理がくっつけられるようになっていくことに成るわけです。

そして最終的には、「論理」の方に乗っ取られてしまい、「芸術」や「表現」が後回しにされるという本末転倒が起きてしまったということでしょう。

また、「哲学」においては、「真理」を探究するうえで、おそらく初めのうちは、自分たち人間のことや自分たちに見えている世界について探求していけば「真理」に到達できると思われていたのかもしれませんが、それでは「真理」の断片が垣間見えることはあっても、「真理」にまでは届きませんから、少しでも「真理」に近づきたかったんだと思います。
それで、どんどん難解になって行ってしまったんじゃないでしょうか?

でも、実際には、どんなに手の込んだ論理を立てたとしても、人間は「真理」に到達できませんし、本当のことを言えば近づくこともできないわけです。
それで、『もっともっと』とますます難解になって行って、最終的に「哲学」は「最も単純なことを最も難解に説明する学問」のようになってしまったんだと思います。

けっきょく「哲学」も「芸術」も「難解な論理」に乗っ取られてしまったんだと思いますね。
それで、本質を見失ってしまったことによって、「哲学すること」や「芸術すること」という、もっとも中心的な部分が失われてしまったんだと思います。


「芸術」の場合は、「芸術すること」が軽視されているわけではなく、前述のように、むしろ、軽視されているのは「芸術のを芸術すること」の中の「鑑賞すること」です。

しかし、その結果、創作者だけが肥大化して、自己顕示的な創作者や創作物だけが、人目を惹くように成ってしまっていて、「自己表現」と「自己顕示」が取り違えられてしまっていると思います。

そもそも「自己表現」とは、作者自身の中にある「真の姿」、つまり、もっとも「その人である姿」を、余さず、隠さずに表現することだと思います。
どちらかといえば、作者は「人に見せたくない自分」を表現しなければならなくなるということですね。
それに対して「自己顕示」とは、作者本人が「人に見せたい自分の姿」だけを強調して表現することだと思うわけです。
つまり、自分の中の一番いいと思っているところだけを表現することに成るわけです。

だから、「自己表現」と「自己顕示」は近いように見えて、まったく逆の方向性を持っているともいえるわけです。
そして、その二つが入れ替わってしまっているとすれば、「芸術の本質」が失われるのは当然のことだと思うわけです。


一方、「哲学」では、「哲学全体」が論理に走りすぎたために、その「論理」を競い合うことを「哲学すること」であると勘違いされているような気がします。
(これを『勘違いではない!』という人もいるんでしょうか?)

しかも、「哲学を哲学すること」の場合、その「論理」は「その人の論理」ではなく「誰かの論理」であるわけです。

それが「哲学を哲学すること」であることを前提にしているのであれば、つまり、それが「自分の論理」ではなく「他人の論理」であるということが前提に成っているのであれば、その「他人の論理」を使って論理を競い合うことに意味がないということがわかりやすくなると思いますが、それを「哲学すること」つまり、「自分の論理」であるとして考えてしまうと、その議論が「自分の論理」に基づいた「自分の議論」であると思ってしまうでしょう。
しかし、「他人の論理」をそのまま議論に転用するのだとすれば、それは「議論」ですらなく、まして「哲学」ではないと思います。

もしも、その人が、「ある有名な誰かの論理」を非常に正確に理解していたとしても、そこに「その人の論理」が全く加えられていなかったとすれば、それは「その人の論理」ではないでしょう。
そうなれば、それは「その人の議論」ではなく、「ある有名な誰かの議論」ということに成ります。
それは議論と言えなくはないでしょうが、「その人の議論」ではないでしょうし、「その人の哲学」ではないと思うわけです。

その上、そういうケースにおいて、そういう人がその「有名な誰かの論理」を正確に理解していることなどほとんどありませんから、そうなれば、もう、それは知識を羅列しているだけであって、ウイキペディアの記述を読み上げているようなものではないでしょうか? 

要するに、「芸術」においても「哲学」においても、「論理」に、重点を置きすぎたんだと思いますね。
それで、「本質」が失われる結果に成ってしまったんだと思います。

 ※実際には、「論理的」であることが問題なわけではなく、むしろ、問題なのは、
  「非論理的」であることの方が多いのかもしれません。
  「芸術」や「哲学」が、「真実」や「真理」を提示して見せることが出来ない
  ことの弁解として、「不必要に難解な論理」を使ってしまっていることに本当
  の問題があるんだと思います。
  そして、そういう時の「不必要に難解な論理」というのが、有り得ないほどに
  「非論理的」であったりするわけですね。
  


でも、これらのことには、さらに、根本的な原因があると思うわけです。
つまり、どうして「論理」に頼るようになっていったのか?ということですね。

おそらく、その原因とは、繰り返しに成りますが、「芸術」や「「哲学」で追究するものが、「真実」や「真理」といった根源的なものであり、それらがあまりにも純粋過ぎるために達成不可能なものであるということが問題なんだと思うわけです。
要するに、「芸術」や「哲学」において、その「本質」に向かうということは、「不可能」に向かうということであって、「達成」を捨てる意識が必要になる作業であるということです。

そして、その「不達成感」を補う意味で「論理」が使われてしまったんだと思うわけです。

「難解な論理」によって、「論理の迷宮」を築き上げると、結果的に、その「論理」の中に必ず、本人にも解析しきれないような部分が出てきます。
当然、他人に説明することもできません。
すると、そこだけは、誰からも見えなくなるなるわけです。
「論理の迷宮」の中にそういう「死角」を作り上げて構築しきってしまうと、もう、ほとんどその「迷宮」が崩されることはありません。
「論理の迷宮」についての矛盾や疑問を追求していくと、どこかの時点で、必ずその「死角」に行き当たります。
そこだけはだれにも見えませんから、それ以上はだれにも追及できないわけです。
だから、崩されることはありません。

本人にも見えなくなってしまうわけですから、本人ですら崩せません。

つまり、それが「ある種の達成」となるわけです。
それは、厳密に言えば「達成」とは言えないでしょうが、「達成感」を味わうことはできるということでしょう。
このことによって、「芸術の世界」と「哲学の世界」において「論理」が不自然なくらいに偏重されてきたんだと思います。

 ※最も厄介なのは、この「論理の迷宮」は、その気に成りさえすれば、誰にでも
  築き上げることが出来るということでしょう。
  それどころか、『誰にでもできる』というよりも、むしろ、『必ずそう成ってしまう』
  と言った方がいいくらいだと思います。

  これは「言葉」が根源的に持っている「二律背反的な性質」による所が大きいわ
  けですから、「言葉」を使った「論理思考」においては、「逃れられない罠」のよう
  なものだということですね。
  つまり、「言葉」を使った「論理」においては、世界を限りなく細分化して詳細に
  説明していくことはできても、世界全体を把握したり説明したりするということは
  できないということです(だから、真理には到達できないんでしょうね)。
  そして、その「詳細さ」が極限に達した時点からは、同じ「論理」が少しづつ言葉
  を変えながらグルグルと回り続けることに成りますから、難解に成っていく一方で、
  そこから先には、ほとんど意味のない「理屈の羅列」があるだけに成ってしまうと
  いうことだと思います。

  このように、「論理」が「逃れられない罠」にハマった状態を、ここでは「論理の迷
  宮」と言っています。
  


ただ、これも「論理」自体の問題ではなく、「論理の使い方や目的」が本質から外れているということが一番大きな問題なんだと思います。

現在の「芸術の世界」と「哲学の世界」を客観的にみると、どう考えても不必要に難解な論理が横行しているようにしか見えませんが、「それぞれの世界」の中にいる人達にとっては、それこそが「芸術の世界の常識」であり、「哲学の世界の道理」なわけで、そこに疑問を持つことは、「それぞれの世界」からの撤退を意味するわけです。
(「論理の迷宮」が、鉄壁の要塞のように作用してしまうわけですね)

だから、「芸術の世界」には「芸術の世界の常識」を持った人しか居続けられませんし、「哲学の世界」には「哲学の世界の道理」を重んじる人しか居続けることが出来ません。
それで、それらの常道がさらに強化されて行ってしまうというわけです。

その結果、現在では、その「不必要な難解さ」や「無意味な競争」に対して違和感を感じる人すら居なくなりつつあります。
これは、それぞれの「世界の中」でも言えることですが、それらの「世界の外」にいる人たちでも、そこにあえて疑問を投げかけ、問題を提起しようとする人は、もう、ほとんど居ません。
要するに、諦められてしまったということでしょうね。

それぞれの「世界の中」に居る人は、それが当然だと思っていますし、そこに居心地の良さを感じていますから、そこから抜け出そうとはしませんし、決してその安全な場所を変えようとはしません。
また、「世界の外」に居る人が、そこに一石を投じるような機会はほとんど与えられていませんし、もし、何らかの疑問を提示したとしても、「難解な議論」に巻き込まれて、「絶対に崩せない論理の迷宮」に引き込まれますから、結果的にはかき消されてしまって、なんの影響も残せません。

そして、今、「芸術」と「哲学」という二つの分野は、完全に孤立して瀕死の状態にあると思うわけです。

現在、「芸術」と「哲学」において出来ることは、「不可能の追求」に立ち返ることだと思います。
その「不可能性の追求」という作業の過程で、現れてくる「迷い」の中に最も純粋な「その人性」が発露します。
その「迷い」の表現こそが、現在「芸術」と「哲学」において指標と成り得る唯一の「可能性」を持つものだと思います。


話が長くなりましたが、この辺で終わりにします。

もはや、「芸術」と「哲学」においては「達成」を求める必要はなくなりました。
もう、「競争」は不要であり、勝つことにも、上昇することにも何の意味もありません。
「達成」のないところに「競争」は存在しません。

自己の内に向かって問い続け、その「不達成」の中の「不可能性」に現れる「迷い」を表出することだけが、現在「芸術」と「哲学」に示すことが出来ることではないかと思います。

つまりは、今、「芸術」と「哲学」に言うことが出来ることといえば、ただただ、『できませんでした』と言うことなのではないのでしょうか?
そして、その『できませんでした』を言うために、どれだけの力を使い、どれだけの時間を費やしたのかを示すことぐらいしか、「できること」などないのではないのでしょうか?と。


まぁ、そんな風に思ったわけなのです。



「理解できない絵」と「理解されない絵」



「抽象絵画」においては、あえて「鑑賞者の理解」を求めないような絵が多いと思います。
『「理解されること」が目的ではない』ということなんでしょうね。

でも、私自身のことで言うと、やはり『理解してもらいたい』と思ってしまうわけなのです。
(「理解されること」は第一の目的ではありませんが、一つの目標ではあります)

ところが、です。
そんな気持ちで、『「理解される絵」を目標にして「抽象画」を描いていこう!』と思って描いていくと、不思議なくらいに、「理解されない絵」に成ってしまうという、『非常に悲しいジレンマに陥ってしまうんだよね』と思っている今日この頃なわけなのです。

と言うわけで、初めから「理解されること」を目標とせずに描かれた「理解できない絵」と、私のように「理解されること」を目標にして描いているのに、結果的に「理解されない絵」に成ってしまうという、この二つのパターンには、いったいどんな違いがあるのだろうか?と考えてみたわけです。


まず、この「理解できない絵」や「理解されない絵」と言うと、「抽象画」をイメージすることが多いわけですが、実は「具象画」であっても、『一般的には、とうてい理解されないだろう』と思うような絵は、けっこうあると思います。

まぁ、どちらにしても、一般的にいう所の「美しいモノが描かれている絵」ではないということだと思います。

そういう「理解できない絵」や「理解されない絵」が急激に増えてきたのは、「芸術の20世紀」に入ってから「芸術」が「作者の自己表現であること」を求められるようになったことに因るんだと思います。
つまり、その「作者の自己表現」が、必ずしも「一般的に言う所の美しいモノ」ではないということなわけですね。

だから、必ずしも「抽象画」とは限らなくて、「具象画」であったとしても、「作者の自己」が強く表された絵は「理解できない絵」や「理解されない絵」になることが、多くなるわけです。


さて、そこで、「理解できない絵」と「理解されない絵」のチガイと言うことです。

作者自身が、「理解されること」を求めていない場合、当然、「理解されにくい絵」と言うことになるはずなんですが、実を言うと、現時点では、必ずしも、そうとは限らないような気もするわけです。


少なくとも、現時点では、「抽象画であること」を完全に否定する人は、かなり少なくなってきています。
本当の意味で「抽象表現」を理解したり、肯定したりしている人は、ほとんどいないような気がしますが、反対に、完全に否定する人もかなり少なくなったというわけですね。

まぁ、要するに、『抽象画とはこんなものだ』と言うような漠然としたイメージが、既成事実として一般的に広まっているので、その「一般的な抽象画」に当てはまっているものは、なんとなくではあっても「理解される絵」になるわけです。
つまり、「抽象画らしい抽象画」でありさえすれば、「その絵」や「その表現」が具体的には理解されなくても、「なんとなく理解される絵」には成ることが出来るというわけです。
(『これはきっと抽象画なんだろうな』ということが理解されるだけですけどね)


ところが、一方で、理解されようとして「抽象画」を描こうとすると、その「抽象画らしい抽象画」のイメージから外れた絵になる可能性が強くなるわけです。
と言うか、「抽象画」のイメージの中に「理解できない絵というイメージ」が組み込まれてしまっていますから、「理解できる絵」は「抽象画」ではないということにされてしまいますし、「理解されようとすること」も「抽象表現」ではないということにされてしまうわけです。


結果的には、「理解されること」を求めないで描かれた「抽象画らしい抽象画」は、「理解できないこと」によって「理解される絵」になり、「理解されること」を求めて描かれた「抽象画らしくない抽象画」は、ほんのわずかながら「理解できること」によって、かえって「理解されない絵」に成ってしまうという、何とも不可解なことになってしまうわけなのです。


しかし、ここで、「抽象画らしい抽象画」と言うことに、やや問題があるような気がするわけです。
要するに、「~らしい」と言うことが、「既成概念」に成ってしまっているわけですね。

「既成概念」から抜け出したくて「抽象表現」を使うようになったのだとしたら、「抽象らしいこと」はむしろ避けるべきことであって、「抽象画らしい抽象画」を描いたのでは、そういう意味で「既成概念から外れたれた抽象画」ではなくなってしまうわけです。

そうなると、「抽象らしい」を求めるのではなく「抽象らしくない」を求めるべきなわけだし、「理解できないもの」ではなく「理解できるもの」を求めるべきなんじゃないのかなと。

そんなことから、なんとか理解されるように描いているつもりなんですが、これが、まったく理解されないという、現実の壁があるわけで、その辺のところは、いったいどうしたらいいんでしょうか?と。


そんな風に聞きたいわけなのです。
(いったい、誰に?)




「長い題」=詩のような題(その12)



「長い題」=詩のような題(その12)です。

最近に成って、ようやく、この「長い題」ができるペースが落ちてきて、なぜかホッとしています。
ペースが落ちてホッとするのもおかしいんですけどね。

こんな「題」の付け方をするようになって、初めて気が付いたんですけど、「題」ばっかりできるのは考えもんですね。
(絵に合わせて「題」を作るとは限らず、独立した「絵の題」として作っています)
なんか、自分がすごくバカなんじゃないか?っていう気に成ってきます。

でも、めげずに「長い題」=詩のような題(その12)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『うつくしくは ないが かいぶつでは ない』

こわそうにも みえるが 
おそろしいと いうほどでは ない

どこか さみしそうに しているのに
ないている わけでは なく
ただ そこに たっている

つめたくて するどい はもののような ものなのか
やわらかくて あたたかい まわたのような ものなのか
その しょうたいは わからない

そういうものが いつも ひとりで たっている

だれの なかにも ひとりづつ

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『もしも はなに なれたら』

たいように せを むけて はしりだそう
その ぎゃっこうの なかで 
せっかく さいた あざやかな いろを うしなって しまうとしても

もしも はなに なれたら

つきあかりに てらされよう
その あおじろい ひかりに
いま はなひらいたばかりの みずみずしさを
すいとられて しまうとしても

もしも はなに なれたら

よろこびに みちて
おどるように はしりつづけよう

こんな くらやみの かたすみに 
この はなびらの いろで すこしだけでも あかみを うつすことが できたら
きっと それは はなさくことの よろこびに ちがいない

だから もしも ぼくが はなに なれたら
そんなふうに さいてみたいと ひそかに おもっているのです

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さめのように つめたく なりたいと おもっては いないだろうか


とりのように
じゆうに そらを とびたいと おもうのと おなじく

はなのように
うつくしく さきみだれたいと おもうのと おなじく

そして くうきのように
とうめいで ありつづけたいと おもうのと おなじく

こおりのように つめたく
たった いってきの なさけをも もたない
そんな かんぜんむけつな いきものに なりたいと おもっては いないだろうか

そんなものには だれひとり なれない というのに


ひとは ちきゅうじょうで ゆいいつ 
『さめよりも れいこくな いきもの』だと いうのに

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『こんとんと めいかいの あいだには』 しんじつが あり
しんじつが ないところには うそが つくりだされる

ひとたび うそが つくりだされて しまえば
それは またたくまに せかいを おおいつくし
この よのなかは うそに そまる

しかし うそにも かならず
こんとんが あり めいかいが あり
その あいだには しんじつが ある

だから この せかいは しんじつで おおわれている ということもできる

それならば なぜ しんじつのないところが あり
そこに うそが つくりだされて しまうのか

おそらく そのとき そこには
こんとんと めいかいだけが あり 
その あいだが ないのだろう

つまりは こんとんと めいかいの あいだに
だれひとり しんじつを みつけだそうと しなくなったとき

この せかいは すくいようのない あざやかさで
うそに そめあげられて いくことになるのだ

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すべての ルールを すてさろう
あらゆる ほうそくを ぬけだして ちゅうに まいあがろう

すべての かいりつを ぬぎすてよう
あらゆる おきてから かいほうされて あしばを うしなおう


『もう それを じゆうと よぶのは やめよう』
ぼくたちは もう じゆうが なにも あたえてくれないことを まなんだのだから

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに じゆうが ないとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに ルールという あしばが あるとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに かいりつという ふじゆうが あるとき

だから ぼくたちは 
『もう にどと じゆうに なにかを のぞむことは ないだろう』

すべての かいりつから ときはなたれて
すべての ほうそくから とびだして
ちゅうに まいあがった ぼくたちの こころに
じゆうが あたえうる ものなど なにも ないのだから


じゆうが あたえうるものは 
ぼくたちの こころのなかに すべて そろっていて

そんな ぼくたちの こころは
もう すでに 
くうかんと じかんを こえて ちゅうを まいつづけて いるのだから

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ひとには みな 
『いってきの いろ』が ある

その いってきを うみにながせば
たちまち うすまって きえてしまうだろう

その いってきを そらに むかって まいてしまえば
かぜに ふかれて きりのように かすんでしまうだろう

その いってきを つちに おとせば
すなぼこりに まみれて いろなど みえなくなってしまうだろう


そんな いってきの いろで せかいが うめつくされている

どの いってきも ほかの いろに そまってしまうことは ない
ほんとうは きえてしまうことも ない

ほんとうは だれの いろも みな おなじくらいに きわだって うつくしい

だから その いってきの しずくを
けっして つぶしては ならない
つぶしてしまったら ほんとうに きえてしまうから

だから その いってきを けっして つぶしては ならない

いかなる りゆうが あっても






プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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