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「長い題」=詩のような題(その14)



「長い題」=詩のような題(その14)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)
今回のは、内容が暗いものが多いので、そういうのが嫌いな方は読まないほうがいいと思います。


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『きぼうとは』
よのなかを てらす ゆいいつの ひかり

きぼうとは
ひとを みちびく ただひとつの とうだい 

きぼうとは
それを たどって ゆきさえすれば
きっと いきることの いみに たどりつけるという
たった ひとつの みちしるべ


つまりは きぼうとは
もしも それが うしなわれてしまえば
ひとの こころから 
いきることの よろこびも うしなわれてしまうという  
のろいの じゅもん でもある

つまりは きぼうとは
もしも それが きえうせてしまえば
ひとの おこないの なかから
すべての いみも きえうせてしまうという
しの よげん でもある

つまりは きぼうとは
それが あたえられた ものにとっては
かがやき でもあり てんへ のぼる かいだん でもある

つまりは きぼうとは
それが あたえられなかった ものにとっては
あんこく でもあり ならくのそこへの いっぽんみち でもある


だから きぼうとは
すべての ひとに おなじだけ
すべての ひとに おなじように

そう かんぺきな タイミングで あたえられなければならない


つねに じゅんびは できている
じゅうぶん よういは ととのっている

このせかいには 
ひとりに ひとつの きぼうが よういされ

いつも かんぺきな タイミングを まっている
いつでも りそうの あいてを まっている


なんぴとたりとも
その タイミングを じゃま してはならない

なんぴとたりとも
その きぼうを よこどり してはならない


なぜなら きぼうが たりなくなってしまうから

そう つまり 
ひとりに ひとつの きぼうが あたえられなく なってしまうから
それでは だれかが しんでしまうから

そんな ときには たりない きぼうを わけあうしかない

たとえ それが かんぺきな タイミングでは なくなってしまうとしても
たとえ それが りそうの あいてでは なくなってしまうとしても

それでも そうするしかない


そう つまり
いまが そのとき なのだから
そう つまり
いつでも そのとき なのだから

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しゃかいとは 
ひとを しばる ロープ

ひとりの くびに いっぽんづつ まきついて はなれない

しめつけられるのが いやならば 
ロープで ひきまわされて なすがまま

ちゅうしんに むかって たばねられた
ロープの うずに まきこまれて なすがまま

まるで ロンドのように おどりつづける
まるで ロンドのように まわりつづける


いま ぼくは おどるのを やめよう
いま ぼくは まわるのを やめよう
もう おどらされるのも まわらされるのも やめてしまおう

たとえ くびを しめつけられて くるしくても
たとえ だれからも かえりみられすに しんでしまうとしても
もう にどと ロープの いいなりには ならないだろう

ぼくが しんで しかばねに なって
めいっぱい おもたい おもしに なって

きっと いつか この うずの かいてんを とめてやろうと 
ぼくは そう おもっているのだから

きっと たくさんの ひとが
そう おもっているに ちがいない

だから みんな 
いけるしかばねと なって かなしい おもいを かかえながら 
こどくという へやに とじこもっているに ちがいない


それだけが いまできる 『たったひとつの いきかた』なのだから
それだけが いまできる 『たったひとつの しにかた』なのだから

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しゃかいに てきおうする ということは

もっとも うまく
もっとも こうかてきに
そして もっとも てきかくに いきることであり

また それは 
もっとも ずるがしこく
もっとも ひとでなしに
そして もっとも こそくに いきる ということでもある


つまり しゃかいに じゅうなんに たいおうして いきるということは

こじんが しゃかいの ぎせいとなって
しゃかいのために じゅうじすると いうことであり

また それは 
こじんが しゃかいの なかで 
いかに ふるまうことが 
もっとも じこの ほしんに つながるのか ということを 
てっていてきに けんきゅうし ついきゅうすることでもある


ふたつのうち どちらの はんだんを とるのも 
かんぜんに あなたの じゆうだ

ただし ふたつのうち どちらの はんだんに もとづいて 
しゃかいに てきおう したとしても

『あなたは もうひとつの はんだんから のがれることは できない』

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『ひとは みな パート・タイムの にんげん 
のこりは ほぼ サル』

にんげんで いられる じかんは みじかく
サルの じかんは ながい


そんななかで 

サルの じかんに あっても 
なんとか にんげんで あろうとすること

それだけが 
にんげんに うまれてしまった ぼくに できる たったひとつのこと

サルに うまれてさえいれば そんなことは きにも しなかったろうに

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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