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「長い題」=詩のような題(その15)




「長い題」=詩のような題(その15)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『でも ぼくは それを せめない』
なぜなら きみの せい ではないから

でも ぼくは それを せめない
なぜなら ぼくが わるいわけ ではないから

でも ぼくは それを せめない
なぜなら だれも なにも していないのだから


それでも かなしいことは おきてしまう
それでも つらいことばかりが つづいてしまう

でも そんなときにも ぼくは それを せめない

なぜなら そんなもの だから
なぜなら そういうこと だから

なぜなら
だれも なにも していなくても かなしいことが おきると

よのなか そういうことに なっているのだから

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『てを ついて いこう』
あしだけで たって いられなくなったら

てを ついて いこう
こころの バランスを たもって いられなくなったら


からだの おもみに つぶされて
こころが くずれてしまう まえに
じめんに てを つこう

まず ひざを おり 
それを ゆっくりと ちに おろして
それから やさしく てを つこう

そっと てを ついて じめんに ふれたら

やっと だいちと つながって
やっと ちきゅうと つながって

そうして ひとつの ほしに なり
そうして ひとつの うちゅうに なり

エネルギーに みたされる
あっとうてきに みたされる


だから てを ついて いこう
この うちゅうの ひとつとして あるために

それで やっと いきていると いえるの かもしれない

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『ふういん と かいほう』

この ざつおんの なりやまぬ せかいの なかで
むじゅんの ひかりに みたされて

ありとあらゆる ほうそくが
せんぺんばんかの かいりつと なり

ありとあらゆる どうりが
へんげんじざいの こうそくと なる


その とざされた もんの なかに 
ふういんされた ひとの こころは
いったい いつに なれば かいほう されるのだろうか


はたして にんげんは それまで いきて いられるのだろうか  






「長い題」=詩のような題(その16)




「長い題」=詩のような題(その16)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『ひょうりゅうぶつのように』
ただ そこに ある


ひょうりゅうぶつのように
うみに ただよい

ひょうりゅうぶつのように
ひに さらされ

ひょうりゅうぶつのように
どこかに ながれつく


ときに おきざりに され
ときに きづかれも せず

ただ そこに ある

だが ときには 
だれかに ひろわれ
そして ときには 
たからの はこに いれられる

それでも やはり ただ そこに ある


そんな ひょうりゅうぶつのような こころを もった
そういうひとは たしかに いる

ぼくも はやく そういうひとに なりたい

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くうちゅうに しかけられた わなが ある
おもわぬところで ひっかかる

くうきで できた わなも ある
とうめいだから だれも みえない

そんな くうかんが 
そんな わなで うめつくされて 
もう のがれる ばしょは どこにも ない


うちゅうの はてまで わなが はりめぐらされた この せかいでは
にんげんの いきるばしょなど どこにもない

そうだ 『あしたからは かせきに なろう』
それなら ぼくにも できそうだ

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とうめいで めに みえない わなが ある

ひとの こころが つくりだす
だれにも みえない わなが ある

のがれることは できない


わなに かかると そのひとも 
いつしか からだが すきとおり
とうめいに なって わなに なる

そうなったら ひとじゃない
わなに なったら ひとじゃない

そう わなとは 
からだを うしなった
『ぼうれいたちが しかける トリック』だ

だから わなに かからず いきていく
わなに ならずに いきていく

ここまで なんとか いきてきて
あげくの はてに 
それが さいごの わなだと きづき

やっと わなに とらえられ
やっと からだを うしなって
とうとう わなを しかける がわに なる


ざんねんながら いきるとは そんなような ことらしい
ざんねんながら しぬとは そんなような ことらしい

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ぜつぼうと きぼうの あいだで

ぜつぼうしたひとは もう それいじょう いきられないのだろうか
きぼうが ありさえすれば ずっと いきていかれるのだろうか


いや じつは 
きぼうだけで いきられる じかんは みじかく
ぜつぼうだけで しんでしまえる ひとは すくない


りょうほうないと いきられない
りょうほうないと しねもしない

だからといって りょうほうあれば いきられるのか
だからといって りょうほうあれば しねるのか

そんなことは わからない 
きっと だれにも わからない


ただ ひとつ わかっているのは
ぜつぼうと きぼうは いつも そこに あるということ

かならず ぜつぼうと きぼうが まざりあって
すぐそこに あるということ

それが いいことなのか わるいことなのか
『それは だれも おしえてくれなかった』

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しゃかいとは
ひとの ちからを うばう もの

ひとの せいきを すいとって 
おおきく ふくれあがっていく もの


だから しゃかいのために はたらいては いけない
だから しゃかいに エネルギーを そそいでは いけない
だから しゃかいを にんげんの ちで こえふとらせては いけない


しゃかいが ふくらめば 
ひとは しぼむ
しゃかいが しんかすれば
ひとは ぜつめつする


つまり しゃかいの ために はたらくと いうことは
ひとを ほろぼすと いうことだ

ひとつも りっぱな ことじゃない

あとには しんかした しゃかいという マシンと
その ぶひんと かした にんげんという パーツが のこるだけ

そんなことに なる まえに 
ひとが ぜつめつする まえに

にんげんが しゃかいを つかっていこう
しゃかいが ぜつめつするまで

『きっと それぐらいで ちょうどいい』



「長い題」=詩のような題(その17)





「長い題」=詩のような題(その17)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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おりの なかで かわれている
どうぶつたちが おりの なかで かわれている

えさを あたえられ
せわを されて 
なにふじゆう なく くらしている

しかし
そこに やせいは ない
そこに しぜんは ない
そこに いのちは ない

ほんのうは うしなわれ
よろこびも なくされて
それを いのちとは いわない

きょうも たしかに いきて いる
からだは
きょうも たしかに しんで いる
こころは


そう 
この おりの なかでは
いきることが しぬこと であり

くうことも ねむることも
しぬこと である

きょうも あしたも
なに ふじゆう なく いきさせられて
なに ふじゆう なく しにつづける


そんな みえない おりの なかで
きょうも にんげんという どうぶつたちが

たっぷりと えさを あたえられ
ゆきとどいた せわの なかで

『りろせいぜんと かわれつづける』

まるで 
せいじゅくした おとなの にんげんたちには
えさと せわの ほかに
もう なにひとつ ひつような ものなど ないかのように

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『さんぜんかいも かれる はな』が ある

さんぜんかい さいて 
さんぜんかい かれる

それは うまれかわりとは ちがう

それは りんねする てんしょうでは なく
れんぞくする ほうかい


かたちづくられる はじから みるみる くずれてゆく

つまり 
うまれかわるために かいたいされて いるのではなく
くずれさるために けいせいされている

だが しかし
そんな なかに あっても

さんぜんいっかいめに さく はなは うつくしく 
さんぜんいっかいめに かれる はなも また うつくしい

その りゆうは えいえんに わからないだろう

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はねを おろして うずくまって いると
じっと うごかずに うずくまって いると

いつしか
しんぞうの こどうが きこえてくる
ちいさな といきも きこえてくる

いつのまにか 
そんな ちいさな おとが こだまして
きょうかいの かねのように なりひびく

これは しゅくふくの かねのねなのか
それとも いきることが はきだす かなしい ざつおんなのか

その こたえは 
この はねを はばたいて そらに まいあがり 
ちじょうを みおろしたときに わかるだろう

おそらく はっきり わかるだろう


でも いまは 
もう すこし ここで じっと うずくまって いよう

『この はねを おろして』

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『うずくまって はねを やすめていても』
けっして らくとは いえない

なぜなら うちひしがれて いるから
だから らくとは いえない

うちひしがれて いるのは からだだけ ではない
ぜんしん ぜんれいが うちひしがれて いる
だから けっして らくとは いえない


それでも ここにいると 

ここに こうして うずくまって 
はねを やすめて じっとしていると

もしも ここで しんだら
きっと ここが まいそうのちに なるのだろう

そんなふうに おもえてくる
ここが どこなのかも わからないと いうのに

だから けっして らくとは いえないと いうのに

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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