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「美術史」とは「芸術の崩壊の歴史」なのかも知れない?



これを言うと、また「古典回帰論者」と思われてしまうのかも知れないんですけど(実際は、そんなこと一言も言ってないんですけどねぇ)、近代以降の「美術史」って、結果的には「ゆるやかな芸術の崩壊の過程」であるという側面があると思うわけです。


その時代の「様式」とか「スタイル」等ということを無視して言うなら、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」の段階で、「美術」が一つの完成形に到達していたと言うことは出来ると思うわけです。

その後、「やや横ばい」の状態が続いたあと、「印象派」~「芸術の20世紀」という流れに至るわけですが、その「やや横ばい」以降の「美術史」って本当に「発展」や「進歩」の「歴史」なのか?という疑問があるわけです。


つまり、「美術」や「芸術」が「より一層・美術」であり「より一層・芸術」であったのか?ということです。
言い方を変えれば、「美術」や「芸術」は「人間の心の感動」を増やすことができたのか?ということですね。


例えばの話、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」とほとんど変わらないようなスタイルが、今も続けられていた場合と比べて、「現代美術」と呼ばれているモノは、本当に、「感動」を増やすことができているのか?

もしも、それが出来ていないのだとしたら、というより、もしも「感動」が減少してしまっているんだとしたら、近代以降の「美術史」と言うのは、「芸術の崩壊」や「芸術の縮小」の歴史であるという側面があるということに成るわけです。


『おそらく』というより、『ほぼ間違いなく』、「ギリシャ彫刻」や「ルネサンス美術」が、現代にいたるまで「現役の芸術」として存続していたとしても、それらは、相当数の人を「感動」させ続けるでしょうし、「美術史」という知識、すなわち「先入観」が一切なければ、『何百年同じことやってるんだよ!もういいだろ!!』と言う人は出てこないはずですから、その「感動」のギャップは、「ギリシャ時代」の人と比べても、今考えるほどは大きくないような気がします。


逆に、「現在形の美術」が提供している「感動」は、どれほどの普遍性を持っているんでしょうか?

少なくとも、「現在形の美術」が提供している「感動」には、「ギリシャ」や「ルネサンス」に比べると、かなりの偏りがあるような気がするわけです。


要するに、「芸術」に「感動できる人」と「感動できない人」が居るということですね。
その個人差が「ギリシャ時代」よりも極端になっているのは間違いないと思います。

また、時代的な普遍性に関しても、やはり、現代において数百年前の美術を見るのに比べて、現在の美術を数百年後に成ってから見ることの方が、「落差」は大きくなるだろうと思うわけです。

要するに、「現在の美術」は、「いつの時代でも」、そして、「誰にでも」、受け入れられるものではないということだと思います。

 ※これは、よく言われるように「日本だけ」の現象ではなく、ヨーロッパでもアメリカ
  でも「現代美術」を、本当に、理解して受け入れている人はほとんどれ居ないと
  思います。「現代美術」には、そういう「理解」を拒む性質があるわけですから、み
  んなが理解できるとしたら、むしろ、その方がオカシイんじゃないでしょうか?


いずれにしても、「人の心の感動」が増えているという実感がわいてこないわけですね。

そうなると、やはり近代以降の「美術史」と言うのは「芸術の崩壊の歴史」なんでしょうか?


私は、「美術史」の中の「近代~芸術の20世紀」と言うのは、「将来への布石」なのだと思うわけです。
つまり、「単なる美術」から「自己表現としての芸術」に移行するための「布石」ですね。

でも、その「布石」であり「過程」であり「一時的な崩壊」であるモノが、「完成形」として扱われてしまっていることに問題があるんだと思うわけです。

 ※「スランプ」と言ってもいいのかも知れませんね。スポーツ選手に「スランプ」は
  必要なモノだと思いますから。

今後、「芸術」が「普遍性」を目指さなければ、「崩壊の歴史」のまま終わるかもしれませんが、そこを目指していけば、「崩壊」は一時的なもので、それも必要であったということがわかってくるんじゃないかと思います。


「芸術」が「みんなに愛されるもの」を目指す必要はないと思いますし、実際に「みんなに理解されること」は難しいでしょうが、「みんなに理解できるもの」を目指さずに、「一部の人に理解されること」を目指したり、「理解を拒絶したり」することは、「芸術」の目的ではないような気がしますね。

 ※「愛されるかどうか」は「好み」の問題ですが、「理解されるかどうか」は「普遍性」
  の問題だと思います。
  理解したうえで、好きなものと嫌いなものを判断できるというのが理想的な状態だ
  と思いますね。
  本来は、「芸術」に「理解」は必要ないのかもしれませんが、現在は情報過多の時
  代であり、生まれた瞬間から情報が刷り込まれ続けるわけですから、その情報に
  振り回されていない人は居ません。
  そんな中で、まったく「理解」できていないものを「好み」だけで判断するということ
  は、「盲信」を生み出すことにしかならないと思うわけです。


近代以降の「美術史」が「芸術の崩壊の歴史」となるか「芸術の変容の歴史」となるかは、今後の展開にかかっているのかなと。

私はそんな風に思うわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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