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「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?



このブログは「芸術の20世紀喪失宣言」という題なんですが、その「芸術の20世紀」において最も象徴的な人物と言うのが「マルセル・デュシャン」なわけです。
(まぁ、他にもいろいろと「巨匠」・「天才」等々居らっしゃいますけどね)


このブログでは「芸術の20世紀喪失」ということをテーマにしていますから、あまり「20世紀の芸術」について書いてこなかったんですけど、自分の中で、「芸術の20世紀」の存在がかなり「喪失されたモノ」に成りつつあるようで、もう、その辺について考えても「20世紀の渦」に巻き込まれないような気がしてきているので、徐々に「芸術の20世紀」についても書いていこうと思っています。

 ※「芸術の20世紀」について語ってしまったら、「芸術の20世紀喪失」に成らなく
  なってしまいそうなんですが、この「芸術の20世紀喪失」というのは、もともと「仮
  のモノ」であって、「宣言文」の本文にも書いてあるように、最終的には、一旦、喪
  失した「芸術の20世紀」をもとの位置に戻すことを前提としているくらいですから、
  『本当に忘れてしまいましょう』とか『そこにはできるだけ触れないようにして、見な
  いようにして行きましょう』と言うことではなく、むしろそれとは逆に「芸術の20世
  紀」について考えるときに、常に『「芸術の20世紀」を喪失している』という前提で
  考えていくことで「芸術の20世紀」という時代の「特殊性」や「現在に与えている影
  響」を理解し易くしていこうという方向のものなわけです。
  つまり、あくまで「意識の中での喪失」であって、本当に消してしまおうということで
  はないわけです。

  というか、これも本文でも触れていることなんですが、そんなことできるわけないの
  でやりません。
  ただ「芸術の20世紀」を前提にし続けていると、「そのコンガラカッタ糸」の中に迷い
  込んでしまって、理解」とか「判断」ということが出来なくなってしまうので、そこをいっ
  たん離れて考えようということなんですね。
  つまり、この記事も「芸術の20世紀喪失」を前提にして書いているということです。
  だから、お読みになる方は「芸術のの20世紀」が『存在している』ということを前提に
  するのではなく、それを『喪失している』という前提で読んでいただけたら、少しはわか
  りやすく成るんじゃないかと思います。


これは「21世紀世代」の人が聞いたら、『何言ってんの?「20世紀」ってトックニ過去でしょ?』なんて言われそうですよね。


確かに、「21世紀世代」からすれば「20世紀」なんて『そんなの知らないよ』なんでしょうが、でも、実を言えば、私にとっても『そんなの知らないよ』であるのは同じなわけです。


私が「芸術」に関心を持つようになったのは’90年前後ですから、私がここで「芸術の20世紀」と呼んでいる時代の主な出来事は終わった後だったわけですね。
(しかも、何十年も前には、ほとんど終わっていたわけです)

つまり、私にとっても「トックニ過去」であるハズなんですね。


ところが、それが「トックニ過去」に成って居ないわけです。

私のような「20世紀世代」にとっても、また、「21世紀世代」にとっても、「芸術の20世紀」は、いまだに「トックニ過去」に成っていないんですねぇ。


つまり、「トックニ過去」のハズのモノが『ゼンゼン「過去」に成ってない!』ということなんです。

要するに、影響力が強すぎるんですね。
しかも『悪貨は良貨を駆逐する』の法則に従って、徐々に「悪い影響」の方だけが増幅されてきているように見えるわけです。

 ※一応お断りしておくと、批判的な話には成ると思いますが、べつに「芸術の20世
  紀批判」をすることが目的ではありません。
  「芸術の20世紀」が現在に与えている影響について考えていくことで「現在の芸
  術」に展開が生まれるだろうということです。
  逆に、そこを抜かしていくと行き詰まっていくことになると思うわけですね。
  「芸術の20世紀」はそういう意味において「やや特殊な時代」であるというそんな
  話になります。


そして、そういったことに、とっても深くかかわっているのが、「マルセル・デュシャン」と言う人だろうというお話でございます。


と言っても「デュシャン」は象徴的な人物と言うことで、あくまで彼一人のことでも無いわけで、「ダダ」と言っても、「前衛」と言っても、「アヴァンギャルド」と言っても、大差はないと思います。


しかし、それらもまた、象徴的なグループであって、本当は「芸術の20世紀全体」を一つの流れとして捉えないと、その真の意味は読み取ることが出来ないとも言えるわけですが、そうなると、かなり話が大きくなってしまうので、取り敢えず、ここでは「デュシャン」を中心に考えてみます。


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さて、『「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしったってうんだい?』と言うことなんですが、よく言われる「トイレの便器」の件ですね。
これが、まさに「芸術の20世紀」を象徴しているんですねぇ。


いわゆる「コンセプチュアル・アート」ですね。


「20世紀初頭」の当時、芸術の世界は「アカデミズム」から脱しなければいけないだろうということで、方向性を模索していたんでしょうね。


「19世紀末」に「印象派」が「脱アカデミズム」の一撃を加えた、その後の「次の一手」がなかなか見つからなかったんだと思います。

その状態が5年・10年と続くうちに、「脱アカデミック」や「既成概念の破壊」ということだけが、膨らんでパンパンになっていた時に「マルセル・デュシャン」と言う人が「トイレの便器」を美術展に出品しようとしたということです。


要するに、「パンパンに膨らんだ風船」に穴をあけたわけです。
それで、一気に『プッシュー』っとなたわけですね。

つまり、その時、「芸術の世界」が望んでいたものが、「破壊してくれる人」だったわけです。
そして、それをやった人が「デュシャン」だったということです。

その時点で、『「芸術の目的」は「感動を生み出すこと」じゃないのか?』とか、『今、これを「芸術である」としてしまったら百年後にどうなるだろうか?』ということを考えた人が居なかったんだと思います。

いえ、ホントは居たんでしょうが、時代の流れに押し流されてしまったわけですね。


まぁ、そんなゆとりがなかったんでしょうね。
それよりも、とにかく「破壊すること」や「脱出すること」が必要だったんだということでしょう。

それはそれで、一つの「正解」だったのかも知れませんが、それは、あくまで「その時点での正解」であって、「その後も正解であり続けるべきもの」ではなかったんだと思うわけです。

でも、それが『その後も正解であり続けてしまった』ということですね。
そして、その影響が百年以上たった現在までも続いているというわけです。


しかも、その影響の中の悪い部分だけが増幅されてきているわけです。


私はこの「コンセプト」と言うモノに象徴されているのは「芸術の断片」だと思うわけです。

つまり、「デュシャン」は「もっとも芸術らしくないモノ」を「芸術の場」に持ち出すことによって、「芸術」の中の「物質的な要素」(「作品」や「作品の中の美しさ」など)を取り除いて、「純粋に精神的な芸術」と言うモノを抽出して見せたんだと思うわけです。


ただ、それは「芸術」と言うよりも「芸術の断片」であったわけです。


これはなにも「トイレの便器」に限ったことでも無くて、「芸術の20世紀全般」にみられる傾向であるとも言えるわけです。

つまり、「芸術」を「全体像」で見せるよりも「断片」として見せる方が、ある一面だけが強調されて、「一種の強い印象」を生み出すことが出来るように成るということです。

『それに気が付いてしまった』と言った方がいいかも知れませんね。


実は、これは「印象派」の方向性とも共通していて、「印象派」は主に「光」と言う一面を強調することで絵を「断片化」し、「一種の強い印象」を生み出すことに成功したのだと思います。

ただ、「印象派」の時点では、その「断片」が絵から完全に切り離されていなかったために、つまり、あくまで「絵画」と言う枠の中での「断片化」であったために、「絵画と言う伝統」を破壊するには至らなかったということですね。
(これは「キュビズム」や「シュルレアリズム」なども同じですね)


そして、その「伝統の破壊」をやってしまったのが「マルセル・デュシャン」だったというわけです。


こう言うと、『やっぱり「デュシャン」のやったことは画期的だったんだ!』ということに成ってしまいますが、そうでもなくて、けっきょく彼がやったことは「印象派の続き」だったということです。

これは、他の「巨匠」や「天才」の方々にもほぼ同じようなことが言えると思います。
つまり、「芸術の20世紀」全体が、「印象派の続き」という一面を持っているわけです。

そして、「印象派」と「芸術の20世紀」に共通のキーワードが、この「芸術の断片化」ということだと思うわけです。
(それはこの時点までは、そんなに悪いことでも無かったんだと思います)


そこで、「印象派」の人たちには出来なかったこと、つまり「脱・芸術」をやってのけたのが「デュシャン」などの「ダダイスト」だったということでしょう。

 ※この点において、「デュシャン」は、ほぼ同時代の「ピカソ」や「ダリ」などと比べても、
  「芸術の20世紀」を象徴している人であるとは言えるんじゃないでしょうか?


「印象派」の人たちは、みんな「絵」や「芸術」が大好きだったんだと思います。
だから、「脱・絵画」や「脱・芸術」できなかったんでしょうね。

たぶん、「デュシャン」の場合、「芸術に対する愛」が屈折していたんだと思います。
だから、平気で「脱・芸術」することも出来たし、その後、絵を描かないでいても平気でいられたんだと思います。


「ピカソ」や「ダリ」は「脱・芸術」は絶対出来ませんよね。
そして、「芸術にとどまったこと」で彼らの方が作家としての評価」が高くなっているということだと思います。

でも、そうは言っても、「デュシャン」が」がほんとに「芸術」から離れられたのか?と言えば、そうでもないようで、やっぱり屈折してたんでしょうね。


ここまでのところを大まかに言うと、

1:「芸術の20世紀」という時代には、「芸術の断片化」と言う意味で「印象派の続き」という面が多分にある

2:「印象派」との違いは「脱・芸術」という面である

この二点を象徴している人物を一人上げろと言われれば、まず間違いなく「マルセル・デュシャン」を置いてほかにないであろうということですね。


と、ここまでは、一般的に言われているところと、だいたい一致していると思います。
(そうでもない?)


長くなってしまったので、この辺でいったん切って、次の記事には、その「脱・芸術」や「断片化」が問題だったんじゃないか?ということを書きます。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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