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「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづきのつづき)



二つ前の記事からのつづきに成ります。


芸術の「断片化」から発生した「極化」が「芸術のカルト化」につながってしまったんじゃないか?
そして、その「カルト芸術」の教祖が「マルセル・デュシャン」と言う人なんじゃないのか?
ということを前の記事に書いたわけですが、そうなると、「現在の芸術」とは、まさに、その「カルト芸術」の行き着いた姿なんじゃないのか?という疑問が出てくるわけです。

 ※ここで「カルト芸術」と言っているのは、必ずしも「カルト本来の意味」や「宗教的な
  意味」ということではなく、「極端な方向性を持った芸術」というような意味です。
  「カルト化」=「極化」と置き換えてもいいと思います。
  要するに、本来はそれほど重要ではないと思われるような部分をクローズアップし
  て、「極端に先鋭化した芸術」を「カルト芸術」と呼んでいるわけです。
  そして、そういう「カルト芸術」が「現在の芸術」の主流になっていて、そこに大きく
  関わっているのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプ
  チュアル・アート」であり、その中でも特に影響が大きいのが「芸術の断片化」とい
  う手法であろうということなわけです。


まぁ、この辺からは、私が勝手に思っていることなので、そういう話としてご了解ください。


「現在の芸術」を「カルト化した芸術」であると考えている人がどのくらい居るのかはわかりませんが、少なくとも、「極化」が「現在の芸術一つの要素」に成っているということは、誰もが認めざるを得ない所だと思うわけです。

そこで、「調和」などのような中間的な要素が、かなり切り捨てられているというのは確かなことだと思います。

そして、それを、あっさりと切り捨てられる人も居ますし、切り捨てられない人も居ます。

あっさりと「切り捨てられる人」は迷わず「カルト化」してしまいます。
そういう人は、ある意味でラクなのかもしれませんが、「迷い」を失ってしまうことで、「芸術の中心」からは離れてしまうわけです。
「迷いのないもの」は「芸術」ではないという前提で言えば、ということですけどね。

一方、「切り捨てられない人」は、「極化」と「調和」という両立不可能な「ダブル・スタンダード」に悩み続けることに成るわけです。
こちらは、「芸術の中心」にとどまろうとすることによって、身動きが出来ない状態に陥ってしまうわけです。

また、「極化」には見向きもせずに「やや古いスタイル」という「居場所」を選択する人も居ます。
しかし、その人たちもまた、、それを選択するうえでの「迷い」を吹っ切ってしまった時から、「芸術の中心」から少しづつ離れていってしまうわけです。

こんな風に言うと、『調和がそんなに大事なのか?』とか『美しくなくちゃいけないのか?』
みたいなことを言う人が居るかもしれませんが、そんなことを言っているんじゃありません。


そうじゃなくて、『一方的に切り捨てられていい部分なんてないでしょ?』ということです。
『そういうのを「流行」と言うんじゃないんですか?』と言うことです。

「迷わずにカルト化を選択する人」も「迷わずに安定したスタイルを選択する人」も、」けっきょくは同じように「芸術の中心」から離れてしまいます。
それらは、つまるところ「流行を追う人」です。
彼らには「流行」しか生み出せません。
「迷い」や「苦悩」を失った者に生み出せるのは、「流行」くらいだと思います。
「面白さ」や「楽しさ」だけでは、人を感動させることは出来ないと思うわけですね。

また、『その流行がもう百年くらい続いていますけど、一体いつまで続けるんですか?』ということです。
「流行」にも「それなりの価値」はあるでしょうが、「百年前の流行を続けること」には「それなりの価値」もないと思います。

そしてもっと言えば、『その百年前の流行に洗脳されていて、それに逆らえなくなっているんじゃないですか?』ということですね。
まぁ、一言で言えば、『そろそろ、目を覚ますときじゃないですか?』と言うようなことです。


「現代美術」と言われるものが現れてきてから、百年ほどったっているわけです。

『それ、まだ現代なんですか?』

「現代美術」が現れてきた当時、それは「美術史的な時代区分」などではなかったはずです。
そういったことを抜け出すための言葉が「アヴァンギャルド」であり「モダン・アート」であり、日本語で言えば、「前衛」であり「現代美術」であったはずです。


それなのに、どこか根本的に変わってない、どこか根本的に自由じゃない、そういう印象があるわけです。
しかも、それが百年以上も続いている。

こんな風に言うと、今度は『いや、キミ、芸術は常に変わり続けているよ!キミが受け入れられないだけだよ!』と言う人が出てきます。

でも、やっぱり、そんなことを言っているんじゃないわけです。

むしろ、逆で、「変わり続けなければいけない」と言う呪縛にとらわれているんじゃないか?
「いま、変わらなければいけない所」は「変わらなければいけないということ自体」なんじゃないか?
表面的な変化だけが目まぐるしく入れ替わっていることで、「本質的な変化」が置き去りにされ、いつの間にか百年間膠着した状態が続いてしまっているんだと思うわけです。

つまり、「変わること」が「固定観念」になってしまっていて、「本来の変わること」とは正反対の意味を持つように成っていると言っているわけです。


しかも、それが「洗脳」のような状態に成っていて、刷り込まれてしまっているために、見えなくなってしまっているわけです。


こういう状態の中では、変われば変わるほど「呪縛」されていくし、「芸術」であろうとすればするほど「芸術の中心」からは遠ざかっていくように成るんだと思うわけです。

つまり、「負のスパイラル」に成っていると思うわけですね。


こういった状態を脱するためには、「芸術の20世紀」という時代をもう一度見直してみるしかないように思うわけです。
そして、その「キーワード」として最適なのが「マルセル・デュシャン」であり「トイレの便器」なわけですね。


ある美術展で、その「トイレの便器(しかも、レプリカ?)」をタメツスガメツいろいろな角度から見ている人を見かけました。

いや、一人だけなんかじゃありません。
来る人来る人の半数ほどの人たちが、単なる既製品の「トイレの便器」の前で考え込むような様子で、じっとみつめていました。

そういう人たちは「ナニカ」を見つけられたでしょうか?


かなりの人がナニも見つけられずに帰ったのでしょう。
そして、やはり、かなりの人が「ナニカ」を見つけて帰っていったわけです。

でも、おそらく、そこに展示されていたのが「芸術の断片」であると思った人は少なかったでしょう。


それは「料理」で言えば、野菜や肉や調味料です。
それが「料理の断片」です。

まだ、食べられません。


「服」で言えば、布地や糸です。

着ることは出来ません。


「住宅」で言えば木材や釘です。

住めるわけがありません。


それらと同じように、「トイレの便器」=「芸術の断片」は

鑑賞できないのです。


それを、
『玉ねぎって生で食べても食べられるっていうことに気が付かされました、発想の転換ですね』
『いやぁ、目からうろこですよ、料理って奥が深いですよねぇ、いろいろと考える機会に成りました』
と言わされていたところがあるわけです。


でも、そこで『パチンッ!』と催眠術師が指を鳴らすと、

『ただの玉ねぎじゃねぇか、何が料理だってんだ!ふざけるな!!』ということになります。
でも、「ただの玉ねぎ」は「料理の断片」ではあるわけです。

確かに、一応食べることは出来ます。
まだ「料理」ではないというだけのことです。


それを、無理して食べるんじゃなくて、『料理してくれ』と料理人に要求すればよかったんです。


「芸術」においても、同じで、「創作者」に対して『「トイレの便器」じゃ鑑賞するに物足りないから、もっと「創作」してから見せてくれ!』と「鑑賞者」が要求してよかったんじゃないでしょうか?


「コンセプト」は「芸術」でもないし「芸術の本質」でもなくて、「芸術の断片」にすぎないモノです。
だから「鑑賞」することも出来ないし、「思考」することにもさほど大きな意味はないわけです。

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※ 2020年6月に追記
それは、確かに「純粋な芸術の断片」ではあるのかもしれませんが、それだけでは物足りないモノでもあるのは間違いないと思います。
つまり、「作品」として物足りないだけではなく、「コンセプト」としても、やはり物足りないモノであったということです。
少なくとも、わざわざ美術館に足を運んで入場料金を払って見るものではないでしょう。

それは、あくまで一度だけ、世界に向けて開示される必要があったということに過ぎません。
それを百年以上も開示し続けることには、意味がないのです。

おそらく、こういう状況がこれほど長く続くことはデュシャン本人も全く予想していなかったと思いますが、現在では、それを開示し続けることではなく、むしろ、そこに意味がないということを開示すべき時が来ているということを言わずに彼は居なく成ってしまいました。
これは、ほかの天才たちについてもほぼ同じことがいえると思います。
いろいろなことが「やりっぱなし」になっています。
もう、そろそろそれを認めなければならないような気がするのです。

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しかし、「時代」は「要求すること」の方ではなく「無理して生で食べること」の方を選択しました。
そして、『それこそがこそ芸術の本質である!』とされてしまい、今に至っています。


「芸術の20世紀」と言う時代は、この「トイレの便器」の繰り返しだったといってもいいくらいです。

「トイレの便器」の次は「トイレのスッポン」になり、その次は、そのまた次は、となって、ついには「トイレの汚物」まで行って、ようやく行き止まりに成り、そこからはほとんど身動きが出来ない状態に成っています。

つまり、次から次へと「新しいコンセプト」が提示され、その都度、それが「新しい芸術」であるとされてきたわけです。
そして、その「ネタ」が尽きてからは身動きが出来なくなってしまったということです。


そんな状態を繰り返してきたので、現在ではあからさまな「コンセプトだけ」というのは通らなくなってきていますが(もう「新しいコンセプト」もネタ切れだし)、その分「創作の領域」は狭くなる一方で、現在「新しい芸術」と言われるものはどんなものなのか?と言えば、つまるところ「新しいテクノロジ―」を駆使したものであったり、「新しい素材」を使ったモノであるわけです。

そして、そういう「新しいナニカ」を見つけ出して「芸術」とクッツケタ人が賞賛されることに成るわけですが、それは、言い換えれば、「新しい便器」に過ぎないということです。

つまり、「新型の便器」が開発されるのをじっと待っていて、『これっ!』というような「カッコイイ便器」が出てきたときに、それに乗っかった人が上手くいくということですね。

そして、見せられる側は、いつも「イロイロなトイレの便器」を見ていなければならないわけです。


いや、「新しいコンセプト」も「新しいテクノロジー」も「新しい素材」も、どれも、それ自体がワルイと言っているのではありません。


「コンセプチュアル・アート」が固定観念を破壊し、その部分で人の心や感性を解放したことは事実だと思います。

しかし、「解放」しただけでは、「芸術」とは成り得ません。

人の心の中にある「美しさと醜さ」を、ただ一方的に「解放」するのではなく、作者がその「美しさと醜さ」の中から何を選択し、何を「自分の表現」とするか、それらのどこを強調し、また、浄化しようと試みるのか、その「試行錯誤の過程」こそが、「創作」と言う作業であり、その行為を物質化することを「芸術」と言うんだと思います。

ですから、「美しさ」だけでも「芸術」と言うには足りないし、「醜さ」だけでも、それを「芸術」と言うには満たないと思います。
なぜなら、それらは、「芸術の断片」にすぎないからです。

しかし、それ以上に、その「断片化」自体を「芸術」と呼ぶことには、まったくもって意味がないと言わざるを得ません。


だからこそ、いま、その「新しいナニカ」とは、すべて「新しい便器」であって、「芸術の断片」に過ぎないモノ、否、「断片化された芸術のカケラ」と言うべきものであり、「芸術未満のモノ」であるということを見直す必要があるんじゃないのかなと。


つまりは、そんな風に思ったわけなのです。


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※ 以下も、2020年6月に追記

上に述べたことは、必ずしも「モダン・アート」全般を否定するものではありません。

芸術と言われている分野の中でも、美術は、「人間にとって必ずしも心地よくないモノ」を提示できる可能性を持っている分野だと思います。
マルセル・デュシャンの「コンセプチュアル・アート」が、そういう「美術の可能性」を示したのは確かなことでしょう。

それは、言い換えれば、「美しさの対極にあるものの美しさを提示する」という行為だともいえるでしょう。


たとえば、音楽で言うと「ものすごくウルサイ音楽(例えば、工事現場の騒音や列車の通過するガード下の音を組み合わせた音楽のような)」に「心地よさ」を感じる人はかなり限られてしまうでしょうし、その「心地悪さ」の中に「心地よさ」を見つけられる人も極めて少ないでしょう。
また、料理で言えば、さらにはっきりしてきます。
極端に「不味いモノ(例えばドブの水)」を「美味しい」と思う人はほとんどいないでしょうし、もしも、無理をしたとしても、それを飲み続けられる人は、まず居ないと思います。

しかし、「美術」では、それが可能な場合はあると思います。

「美術(=視覚芸術)」においては、そういう「心地悪いモノ」の中に「美しさ」を見つけ出せる人は、それなりに居るでしょうし、そういう「美しくないモノの中の美しさ」を創り出すことが出来る人も居るように思います。

「音楽におけるウルサイ音」や「料理における不味いモノ」に相当するような、一般的には「グロテスクなモノ」だと思われているようなものでも、それを見ることに、騒音を聞き続けることやドブの水を飲むことと同じくらいの苦痛を感じる人はむしろ稀だと思いますし、それとは逆に、そういう「心地悪いモノ」、言い換えれば「非美術的なモノ」」に「美しさ」を感じる人は、それなりに居るだろうと思います。
(これは、「音楽」においては、不協和音を使った音楽がそれにあたるかもしれませんが、それは、あくまで「西洋音階」を基準にした場合の「不協和音」ですから、その基準を抜いた場合は少し話が違ってくるように思います。)


その「美術(=視覚芸術)の持っている可能性」、、つまり、「美術~非美術へのつながり」を開示して見せたのが、「マルセル・デュシャンのコンセプチュアル・アート」の本質的な意味であり、また、現在の芸術におけるその役割であるような気がするのですが、いかがなものでしょうか?

確かに、方向性としては、それが現在の芸術に与えられた方向であるということは出来るのでしょう。

しかし、その「方向性を示しているだけのモノ」を作品としてしまった結果、それは、単なる「作品」から「傑作」に成り「名作」となっての都度「権威」を帯びていくことに成ってしまいました。
今となっては、そこにケチをつけることは、許されないような状況です。

そして何よりも、そのことによって、まさに「その方向性」が閉ざされているように、私には見えるのです。

今、こんなことを言っても『頭の固いヤツだなぁ、まったく!』とか、『あ~、自分が理解できないから、ムキに成って否定するんだろ』などと言われるのがオチなんでしょうが、でも、本当に大半の人が理解していたら「単なる既製品の便器」に目を凝らしている人がたくさんいるとは思えませんし、そういう展示をする美術館は『これは作品というよりは、当時の美術の方向性を示した指標のようなものであって、これ自体を鑑賞することには、ほとんど意味がありません。』と明示するべきではないでしょうか?

なぜ、そうならないかと言えば、やはり、それが既に「権威」として位置付けられてしまっているからでしょう。

もしも、そうだとすれば、それは、マルセル・デュシャンんがやったこととは正反対のことであり、また、彼が示した方向性を閉ざすものでもあります。
そして、現実に、そうなってしまっているために、「美術」の「向かう方向」が失われているように思うのは、私だけなのでしょうか?









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