「世界先進国化」による「世界総精神疾患化」
だいぶ前に、このブログで「一億総精神疾患時代」と言う記事を書いたことがあるんですが、もう少し広げて「世界総精神疾患の時代」に成っているといってもいいと思う今日この頃なわけです。
「約70億総精神疾患」ということに成ります。スゴイですねぇ。
※前の記事は、日本の社会全体が「精神疾患」に陥っているように感じるという
記事です。
現在、「世界一大きな国」には「世界一人間的なウツワが小さい大統領」と言われる方が居らっしゃいますし、その方以外にも、「アリエナイ国家元首」は世界各国に点在していらっしゃいますよね。
※こういう「アリエナイ国家元首」が存在していることは、「多数決」と言うシステム
が崩壊していることを実証していると思いますが、その反面、社会全体が「精神
疾患」に陥っているために、「オカシナモノ」だけは確実に選ばれるという現在の
「多数決」の有り様を示しているとも言えると思います。
※「人間的なウツワが小さい」と言っていますが、「もともと持っているウツワが小
さいと」と言うよりは、「社会の病理」を反映して、精神疾患に陥った人の「自己」
があまりにも肥大化してしまっている場合に、彼らの精神の中における「人間性」
の部分の比率が極端に小さくなってしまっているというようなことです。
もともと、生まれ持った人間的なウツワに関しては、みんな同じくらいの大きさだ
と思います。
当然のことながら、彼らは批判されることがとても多いわけですが、ほとんどの場合、「彼らが特殊な人物であること」を前提として批判されているんじゃないでしょうか?
でも、私は彼らが特殊だとは思わないですね。
どちらかと言うと、むしろ、『まさに彼らこそ、現在の世界70億を代表する社会の中心的な人物なんじゃないのかな?』と思ってしまいます。
なぜなら、『世界中が総精神疾患に成っているから』ということです。
特殊なのは「人間的に小さい人」ではなく、「現在という時代」なんだと思うわけです。
実際、「人間的に小さい人々」の批判においては、「精神疾患」や「人格障害」と言う切り口で語られることが多いようですし、確かに、そういう人は極端な例だとは思いますが、でも、「特殊」なのか?と聞かれたら、『そうでもないか?』と思います。
そういう人が「世界一大きな国の大統領」に成ったことは「普通じゃナイこと」ですが、実を言うと、自分の身近にも至る所に「人間的に小さい人々」はたくさんいて、彼らはどちらかと言えば社会の中で高い地位についていたりします。
(実際、自分の上司や地域の有力者の中に居ませんか?「人間的に小さい人」)
ですから、その「人間的に小さい人々の代表者」が「世界一大きな国の大統領」に成るということは、むしろ、必然的なことであって、特殊なことではないということです。
※現在の「多数決」は「強烈にオカシナモノだけが確実に選ばれるシステム」に成って
います。
これは、まさに「芸術の影響」だと、私は思います。
これは、世界中が「先進国化」したことと関係があると思いますね。
もともと、「文明」が行き付く所まで行くと(社会が「物質文明」に覆いつくされて、「文化」が置いて行かれた状態ですね)、その社会には「精神疾患的な性質が出来て来るんだと思うわけです。
つまり、一人一人の「人間の精神疾患「」ではなく、「社会全体の精神疾患」ということですね。
かつては一部の豊かな国を「先進国」と言っていたのに、現在は、むしろ「先進国」の方が多いと言ってもいいような状態に成って来ていて、一部の国を除いては、「文明度」の差は少なく成って来ているんじゃないでしょうか?
つまり、「先進国」と「先進国じゃない国」の比率が逆転したわけですね。
つまり、世界中が先進国化しつつあるということです。
しかも、「物質文明における先進国化」に輪をかけて、情報流通の高速化が進んでいますから、まだ先進国化していない国までも、精神面では先進国化の影響を受けるように成っているんだと思います。
そういう世界的な状況の中で、「文明が行き着く所まで行き着いた国」が急激に増えて、世界中の人が、その「行き着いた文明」の影響を受けるように成って来ているんだと思うわけです。
一方、「文化」はそれに付いて行かれなくなって取り残されてしまっています。
それでいて、「物質文明の悪影響」だけは受け続けているわけです。
そして、とうとう「世界70億総精神疾患の時代」に成ったというわけですねぇ。スゴイです。
実際、「世界一人間的ウツワが小さい人」が世界一大きな国の大統領に成ることは、めったにありませんが、一般的な「人間的なウツワが小さい人」でしたら、そこらへんにたくさん居らっしゃいますし、むしろ、多数派と言ってもいいくらいです。
とくに、社会的地位が高い人に限定した場合は完全にそちらが主流と言ってもいいでしょうね。
※「人間的に小さい大統領」と、一般的な「人間的に小さい人」の違いが大きいと思って
いる人が多いのかも知れませんが、両方とも本質的な異常さには、それほどの違いはあ
りませんし、むしろ、一般的な「人間的に小さい人」の方が、身近な害が大きいとも言え
るのかもしれません。
これを「総精神疾患」と言わずして何というのか?と思うわけです。
現在「精神疾患」を免れることが出来ているのは、社会の主流からかなり逸脱した人だけで、一見まともに見える人こそ「精神疾患ど真ん中」に居ることがとても多いですね。
つまり、「社会的逸脱者」だけがマトモで、「社会適応者」の方が「精神疾患」に成っているという、まさに逆転現象が起きているわけです。
ところが、その、「逸脱者」も「社会的逸脱状態」を続けて居ると精神が歪んで来るわけですから、けっきょく、すべての人が「精神疾患」ということに成ってしまうわけですね。
違いがあるとすれば、自分が「精神疾患」であることを認めている側の人と、それを絶対に認めない人と言う違いですね。
「絶対認めない人」こそが「真の精神疾患患者」なんだと思います。
そして、それは「社会的に適応している側の人」である場合が多いわけですね。
この「世界的精神疾患」の状態を打開できるのは「芸術」だけだと思うわけです。
もともと、「芸術の20世紀」の示した方向性が、この状態を作ってしまったという傾向があると思いますから(私はそう思っております)、そこのところを改めさえすれば、自然にこの状態を抜けられるんじゃないかと思います。
(私はそう思っております)
先ほど、文明が行き付く所まで行き着くと「社会全体」が「精神疾患的な傾向」を持つようになると書きましたが、そのこと自体が「芸術の20世紀」の持っている方向性によるところが大きいんだと思うわけです。
もともと、極端な性質のあった「芸術の20世紀」の方向性がさらに先鋭化していくと、それが「精神疾患的な性質」と成って「社会」を毒するモノになってしまうんじゃなかと思います。
(私はそう思っております)
本来は、「文明」があまりにも先行してしまって、「文化」が付いて行かれなくなると「精神疾患傾向」が出て来るんだと思うわけですが(19世紀末の「退廃文化的傾向」などはこれに当たると思います)、、「芸術の20世紀」は「脱芸術」・「非芸術」・「芸術の破壊」と言う性質を多分に持っていますから、その「芸術の20世紀」を前提にして成り立っているすべての「文化」が、「逆文化」と言う方向性を持っているわけです。
だから、「文化的であること」が「文化を置き去りにすること」に成ってしまうわけですね。
つまり、「文明」が発展するとともに「文化」が推進されて行けば行くほど、『本当の文化が置き去りにされていく』と言う逆行現象が起きてしまうわけです。
まぁ、言ってみれば「負の掛け算」ですね。
だから、「芸術」が「芸術の20世紀」を前提にしている限り、この傾向は消えないと思いますし、逆に、「芸術」が「芸術の20世紀」を離れて、本来の姿を取り戻すことが出来れば、この傾向から、難なく脱出することが出来ると思うわけです。
まっ、なにはともあれ、もう少し「人間性」を見直していった方が、誰のためにもいいんじゃないのかなと。
そんな風に思います。
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