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「裏・コンセプチュアル・アート」



この前、このブログで「マルセル・デュシャン」について書いたので、今回も、それに関係したことを書いてみようと思います。


前の記事では、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプチュアル・アート」とは、つまるところ「芸術の断片化」であり、その「断片化」が「現在の芸術」を「カルト化」させて、「カルト芸術」と言うような状態にしてしまっているんじゃないか?と言うようなことを書いたわけですが、

『それじゃあ、どういう「芸術」ならいいのか?』ということです。

 ※ここで言う「芸術の断片化」とは芸術の中のある一部分だけを極端に強調して見せ
  ることで強い印象を生み出すという手法を、そう呼んだものです。
  必ずしも、この「断片化」がワルイと言っているわけではありません。
  しかし、全体から切り離された部分だけを強調することや、本質とは無関係の部分を
  強調して見せるというようなことは、「芸術の本質」から離れたことであって、「極化」あ
  るいは「カルト化」と言うべきことに成るので、出来ることなら避けた方がイイんじゃない
  か?と思っています。
  現在は、この「芸術のカルト化」が、一時のピークを過ぎて沈静化している状態ですが、
  その影響が潜在化して根強く残ってしまっているといったところだと思います。

「コンセプチュアル・アート」が持っている「反芸術」的な部分を裏返せばイイと思うんですが、その「裏・コンセプチュアル・アート」とは、いったいどういうものに成るのか?ということですね。

と言っても、もともと「反芸術」と言う時点で「芸術」が裏返されているわけですから、『裏返す』と言うよりも『元に戻す』と言った方が正確なのかも知れません。


まっ、「コンセプチュアル・アート」に「裏・芸術」的な面があるとすれば、「裏・コンセプチュアル・アート」」は「裏・裏・芸術」、つまり、「芸術」ってことに成りますかね。

百年たって、やっと戻ってきたってことなんじゃないでしょうか?
『まぁ、ずいぶんとお久しぶりねぇ、お帰りなさい』っていう感じですか?


さて、どういう「芸術」が、その「裏・コンセプチュアル・アート」に当たるモノなのか?
おそらく、その方向性こそが「現在の芸術」の進むべき方向を示すものなんじゃないかと思うわけです。


私は、「芸術の20世紀」において、「芸術」が「カルト化」して、徐々に目標を見失って行ったことで、「芸術の混迷」が創り出されてしまったのだと思いますから、その「カルト化」を裏返して元に戻すことが出来れば「混迷」からも抜け出せると思うわけですね。

それには、「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返して、「裏・コンセプチュアル・アート」にすればいいんだと思うわけです。
(まぁ、あくまで一つの考え方としてということです)


そこで、「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返すというのはどういうことなのか?と言うと、「コンセプチュアル・アート」の特徴である「芸術の断片化」を反転させればいいわけです。


つまり、一部分を切り離したり、本質からズレたことを強調したりしないで、「中心に向かう方向」で『最もストレートに「芸術」に取り組む』ということですね。

言い換えれば『ヒネラナイ』ということに成ります。


まさに、この「ヒネリ」と言う方法論こそが、「コンセプチュアル・アート」の本質だと思うわけです。

「創作」においても「鑑賞」においても、常にストレートな姿勢でそれにあたるのではなく、「ヒネリ」を入れた姿勢で「芸術」に対峙するというのが「コンセプチュアル・アート」の基本姿勢じゃないでしょうか?


それがワルイと言っているのではありませんが、そういう方法論を中心に据えてしまうと、中心の軸がブレて本質を失ってしまうということです。

そういう「ヒネリ」の姿勢と言うのは、あくまで「裏技」的なものであって、それを「メイン・ストリーム」に乗せてしまうと、本筋を見失うだけでなく、「ヒネリ」自体の魅力も一気に色褪せてしまうわけです。


もし、今でも、「感動を創り出すこと」を「芸術の意味」であると考える人が居るのであれば(人生の指針となるような「感動」ということです)、もう一度、考えてみてほしいわけです。


その「ヒネリの利いたオモシロイ作品」で「感動」できるのか?

その「最先端のアート」はあなたの心にいつまで残るモノなのか?

その「『いいじゃないか?人気があって、みんな喜んで見ているんだから』という奇抜な作品」があなたの人生にどういう影響をもたらすのか?


あくまで個人的にですが、私の中では「死ぬ時に残っていないようなモノ」は、「感動」でも「芸術」でもないと思っています。

そう言うモノは「娯楽」として捉えた方がイイと思うわけです。


「芸術」に娯楽的な要素があってはいけないとは思いませんが、少なくとも、それを「芸術の中心」に据えてしまうと、『じゃあ、ナニで「感動」すればいいんですか?』ということに成ってしまうわけですね。


「人生の方向を決定づけるような感動」ですね。
「生涯にわたって持ち続ける感動」と言ってもいいでしょう。

そんなに重たいものを求めて「芸術」を見る人ばかりでもないのかも知れませんが、「芸術の必要性」と言うモノがあるとすれば、そういうところにあるんじゃないかと思います。


だから、もうそろそろ「コンセプチュアル・アート」をヒックリ返して、「裏・コンセプチュアル・アート」にして行きましょうよと思うわけです。

つまりは、それこそ「本来あるべき芸術の姿」なんだからと。


そういう風に思うわけです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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