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「インター・ネット」で世界の距離は縮まったのだろうか?



『インター・ネットが普及したことで、世界が狭くなったよねぇ』と言うのはよく言われることですよね。

確かに、「インター・・ネット」にアクセスしさえすれば、世界中のどこの国の情報でもすぐに知ることが出来ますし、かなり専門的なことでも、知ってて当たり前の常識レベルのことでもだいたい知ることが出来るわけです。

つまり、「地理的な距離」も「知識的な距離」もそれだけ縮まったということです。


ところが、「地球の裏側のこと」は瞬時にしてわかるのに、「隣に住んでる人のこと」と成るとさっぱりわからなかったりもするわけです。

そして「隣に住んでる人のこと」は「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。


要するに、「インター・ネット」では「人と人の距離」は縮まっていないわけですね。


さらに言えば「地球の裏側に住んでいる、どこの誰だか知らない人のこと」も、「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。
つまり、「地理的な距離」が縮まったと思っているだけで、実を言うと、それすらも怪しいわけです。


一言で言えば、「インター・ネット」で縮められるのは、「マスコミ的な価値が認められた情報」における「距離感」だけなんですねぇ。
だから、「ミニ・コミ的な情報」、すなわち「隣の人のこと」みたいなものに関しては、まったく「距離感」が縮まっていないということです。


しかも、これだけ「インター・ネット」を基盤に置いた社会が出来上がって来てしまっていますから、もう、そこから離れることは、おそらくできません。

そうなると、このままドンドン「人」がバラバラに離れてしまって、「人間同士のコミュニケーション」と言うモノの存在が希薄になっていくような気がします。


だから、せめて『「インター・ネット」では「人間同士の距離」は縮められないよ』と言いたいわけです。


「インター・ネット」の中での「コミュニケーション」に依存してしまうと、「その人の中の人間の部分」が薄れていくような、そんな気がするわけですね。


これは「人間にとっての進化」ではなく「人間の機械化」ですね。
つまり、生物としての「進化」には当たらないと思うわけです。

そこで「進化」するのは「人間」ではなく「社会」です。


確かに「社会」は「進化」すると思いますが、「人間」はその「社会の部品」として使われるようになっていくわけです。

そうなれば、「人間の存在」自体も危ういといえるわけですから、もう少し「人間同士のコミュニケーション」を復活させていった方がいいんじゃないのかなと。


さらに言うと、これは国を挙げた政策として展開されないとできないことのような気がします。

現在の「インター・ネット社会」を見ているとこのような流れを止めることが出来るモノは、「インター・ネットの中」には存在し得ないと思いますね。

そう言うモノは、必ず排除されるでしょう。


「インター・ネット」も「社会」も、その点では生き物と同じで、「意思」のようなものがありますから、必ず「自己保存」を最優先します。
だから、「人間」は「社会の部品」にされてしまいますし、「インター・ネット」の中では「インター・ネット」に有益な情報だけが流通するようになります。

当然、「インター・ネット」を不活性化するような情報はカットされてしまうわけです。


それを防ぐには、「人間」の側もそれに対抗するような情報操作的な手段を講じる必要があるのかも知れませんね。

こういうのを特定の利益のための「情報操作」や「検閲」などと混同しない方がイイと思いますね。
むしろ、フリーな状態だと、一方的に「人間」が「社会」や「ネット」に検閲されていると思った方がイイと思いますね。

このことに限らず、「社会」や「メディア」のような「人間の集団によって形成される組織」には、それを形成している「人間(個人)の意思」とは別の、「組織の意思」が発生してしまうという性質があると思います。
作り出されるというよりも、むしろ、必ず出来上がってしまうと言った方がいいと思います。
だから、その状態を、放任して置くと、必ずその「組織の意思」が「人間(個人)の意思」を蹂躙するように成り、そして、最終的には、「人間がいつも虐げられる社会」を、人間が一生懸命作り続けるという羽目になるんだと思うわけです。

それこそが、現在社会の本質的な在り方であると言ったら、言いすぎでしょうか?

まぁ、当然『言い過ぎです!』とおっしゃる方もおられるでしょうが、それでは、なぜ、「無駄な公共事業」は無くならないのでしょう?なぜ、「誰も望んでいない制度」ばかりが作り出され続けるのでしょう?なぜ、「都市計画」が実行され続けているのに、街並みは一向に美しく成って行かないのでしょう?

さらには、これらのことについて、日ごろから、疑問を持っている人がほとんど居ないのは「なぜ」なんでしょう?

それらのことは、すべて「組織の意思」に基づいて実行されていて、必ず「人間」が、それを実行させられています。
そこに「人間(個人)の意思」が反映されることは、ほとんど無いのです。

それ以外の、説明が成り立つことはないでしょう。

そんな中で、「インター・ネット」だけが別物だということはあり得ないことではないでしょうか?


まっ、取り敢えず、「インター・ネット」を「万能」だと思うのはやめた方がイイんじゃないかなと。
(どんなものでも「万能」だと思わない方がイイと思いますけど)

というより、「万能」なんて、『とんでもない!』
『「インター・ネット」なんて、クソだろ!』と言う態度が必要なんじゃないのかなと。


どちらかと言えば、「役に立たないモノ」と言うくらいに思っていたほうがイイような気がしますね。
そろそろ、そういう方向が出てきてもいいんじゃないのかなと。

『もう、古いですよね、インターネットなんて』違いますか?

そういう風に思ったわけなのです。 


これを言うと、『そんなこと言っても、それをネット上で言ってたら説得力ないよねぇ』と言われそうなんですが、『そうじゃなくて、「道具」だからそれを使ってるんですよ!』ということです。

そういう風に「インター・ネット」は「人間のシモベ」であると、はっきりさせておいた方がイイんじゃないですか?と。

まぁ、そういう風に思ったわけですね。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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