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「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのだろうか?



現在「芸術作品」を見るときに、「鑑賞者」はいったい「ナニ」を鑑賞しているんでしょうか?


まぁ、一昔前であれば、『当然、「作品の中の美しさ」を鑑賞してるんでしょ』ということだったわけですよね。
でも、これが「現在の芸術」ということに成ると、どうもはっきりしないところが出てくるわけです。


たとえば、「インスタレーション」と言う表現形態がありますけど、必ずしも関係があるとも思えないようなモノが、いろいろと並べられていたりするのを見て、「鑑賞者」が鑑賞しているのは、その作品の中の「ナニ」なんでしょうか?

それは、一般的に言うところの「作品の中の美しさ」を鑑賞していると言うのとは違うと思うわけです。

その並べられているモノや、並べ方、展示方法などから、「ナニカの物語」を感じ取ってそれを鑑賞しているんでしょうか?
または、もっと単純な「オモシロサ」を鑑賞しているんでしょうか?
それとも、その作品の奥に隠された「もっと深い意味」を見つけ出して鑑賞するのが、「インスタレーション」の正しい鑑賞法なのでしょうか?

まぁ、早い話が『見る人の自由でしょ』ってことなんでしょうが、それはそれでいいとしても、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とは、いったい「ナニ」なのだろうか?ということは考えてもイイように思うわけです。


「インスタレーション」のことはともかくとして、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なんでしょうね?


それが「単純な美しさ」でなくなってしまっていることは、多くの人が認めることでしょう。
「オモシロサ」を選択する人はそれなりに居るでしょうが、こちらも『「単純なオモシロサ」でイイんですか?』と聞かれたら多くの人が躊躇するんじゃないでしょうか?


でも、だからと言って『私は「複雑な美しさ」を鑑賞しているんです』と言い切れる人も、そう沢山は居ないでしょうし、それは「複雑なオモシロサ」でも同じでしょう。
 

さて、そうなると、いよいよ「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なのか?
と言う疑問に対する答えが見つからないわけです。


これは、おそらく現在、「思想的な意味での芸術」が与えられている方向性と、「実際の芸術作品」が持っている方向性が大きく食い違っていることによって、起きてきている現象だと思うわけです。


「思想的な意味での芸術」は「作者の自己表現」と言う方向性を与えられているわけですが、「実際の芸術作品」は「作者の自己主張」と言う方向で制作されていることが多く、また、それでないと評価されないというところがありますから、その二つが微妙にズレているわけです。


そして、その状態が百年ほども続いていますから、ズレが大きくなってしまったわけですね。


「自己表現」と「自己主張」の主な違いは、「自己表現」が「ありのままの自分」を現そうとするのに対して、「自己主張」は「自分のいい所だけ」を現そうとするということですね。

しかも、出来れば、その「自分のいい所だけ」をできるだけ誇張して大きく見せようとするわけです。


そして、これが一番大きな食い違いに成っていると思いますが、「自己表現」においては「作者」は「何らかの犠牲的な力を使う」ことに成りますが、「自己主張」においては「ほとんどの力が作者自身のために使われる」ことに成るわけです。


結果的に、「自己表現」において、「鑑賞者」が鑑賞するモノとは、「作者の苦悩」である場合が多く成るはずですが、「自己主張」においては「作者の快楽」を「鑑賞者」が鑑賞することに成るわけです。


どちらを鑑賞したいと思うかは、人ソレゾレでしょうし、「好みの問題」なんでしょうが、この「食い違い」を意識しないで「芸術」を鑑賞してしまうと、『あれ?いったい「ナニ」を鑑賞したんだろう??』ということに成りかねないと思います。


「作者の苦悩する姿」に共感するという人は「自己表現タイプの作品」を見た方がイイと思いますし、「作者の喜び」に共鳴するという人は「自己主張タイプの作品」を見ればいいんだと思うわけですね。


ただし、ここで言っておきたいのは、「心の動き」と言うのも物理法則のようなもので、必ず「作用と反作用」があります。


「自己表現タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の苦悩」に共感することが出来れば、その「反作用」として「自分の苦悩」が癒される可能性があるわけです。

でも、「自己主張タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の快楽」に共感したとしても、「自分の苦悩」が癒されることは無いと思います。

もちろん、鑑賞者が「自分の快楽」を求めている場合は、「作者の快楽」との共鳴作用によって、鑑賞者の「快楽」も増幅されるかもしれませんが、それは、「芸術」ではなく「エンターテイメント」の領域に成ってしまうと思うわけです。

まぁ、これは、すべてのケースに100%当てはまることだとは思いませんが、こういうことを理解するうえでも、「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのか?ということは考えてみてもいいのかなと。


そんな風に思いました。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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