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昔はどこにでもあった「達成感」が、今は無くなってしまった



かなり昔の時代までは、「達成感」って、生活の至る所にあったんじゃないのかな?と思うわけです。

ところが「現在」と成ると、「達成感」は随分少なく成ってしまったような気がするんですねぇ。


たとえば、「狩猟民族」であれば「獲物を取った時」ですね。
これは、もう「マックスに近い達成感」だったに違いないでしょうし、「美味しい木の実を見つけた時」くらいでも「かなりなハイテンション」だったに違いありませんよね。


「農耕民族」だって、収穫は一年に一回と言うわけでもなく、季節ごとにいろいろな作物が取れるわけですから、そのたびに「マックスに近い達成感」は味わっていたんじゃないでしょうか?
(そういうのが「祭り」の始まりだったんでしょうね)


もちろん、「現在」に比べれば「生活の中の苦労」も比較に成らないくらい多かったんでしょうが、少なくとも「達成感」に限って言えば、毎日たくさんの「達成感」で満たされていたと言えなくもないような気がしてくるわけです。
(と言うか、「苦労」が多かったから「達成感」が生まれやすかったのかもしれませんね)


それに比べて「現在」はどうでしょうか?
ナントナク生活の中に「達成感」が見つけにくい感じがするわけですねぇ。


たとえば、「仕事」ですが、ほとんどの「仕事」がルーティン・ワークでしょうし、達成していても「達成感」は無いというのが実情ではないかと思います。

昔とほぼ同じ作業をやっている時ですら「達成感」だけは無いという状態なんですねぇ。


まぁ、「達成感」に満ちあふれた「心ときめくお仕事」をされている方もいらっしゃるのかも知れませんが、滅多に居ないでしょうから、無視して話を進めます。


取り敢えず、この『達成していても「達成感」が無い』と言うのが、現代社会の一つの特徴ではないかと思うわけです。


これはおそらく、「情報のマスコミ化」からきているんだと思いますね。

せっかくナニカを達成しても「より多くのナニカ」を達成した人と比べてしまうと、肝心の「達成感」が無くなってしまうということだと思いますが、「最も達成している瞬間の人」だけが「マスコミ化した情報」に成って流されるわけですから、その「マスコミ化した情報」に常にさらされている現代人は絶対に「達成感」を持つことが出来ない仕組みになってしまっているということです。


もし、どうしても「達成感」を得たいなら、常に「最高に達成した状態」をキープし続けなければならないわけですから、無理でしょう。


あとは、よく言われるところの『そんな競争心は捨ててノンビリ気楽にやればいいじゃない?』と言う考え方ですね。
確かに、その通りだと思いますが、現在、そういう考え方をすると、「競争心」と一緒に「達成感」も捨てなければならなくなるということです。


過剰な「競争心」を捨てることは、イイことかもしれませんが、現在の「マスコミ化した情報」は「競争心」を根こそぎ捨てることを要求してきます。

それでないと、またすぐに「達成感」を感じられなくなってしまうわけです。
それだけ「マスコミ化した情報」の影響力が強いということですね。

そして、「競争心」を根こそぎ捨ててしまうと、結果的には、ほとんどの「達成感」も失われてしまうわけです。
つまり、「達成感」自体が一種の「競争心」から発生しているという部分があるわけですね。
(「競争心」のすべてがワルイということは無いと思いますよ)


こういったことで、現代社会においては「達成感」と言うモノが極めて感じ難く、また、極めて持続しにくいものに成ってしまっているわけです。


こういう状況から脱するためには、「マスコミ化した情報」から抜け出す必要があるでしょうが、「マスコミ」を廃止するのは無理でしょうから、「情報」を制限する必要があるわけです。


なにかにつけて「報道の自由」と言われますが、『本当に報道が自由な方がいいのか?』と言う問いが完全に抜けています。
そういうことを考えていくと「無制限の自由」がイイとも限らないということが見えてくるわけで、盲目的に『自由がいいに決まっている』と言っているだけだとしたら、「ホンモノの自由」なんて守れるわけがありません。


やはり、「人間を苦しめる情報」については、無い方がイイに決まっているわけで、そんなものを守ることを「自由」とは言わないでしょう。


このことに限ったことでもないですが、「マスコミ」がもう少し「実質的な価値のある情報」を提供してくれるようになればいいと思うわけです。


つまり、やや特殊な「達成されたモノ」や「達成した人」の「情報」ではなく、ごく一般的に「誰もが達成感を得るための情報」ですね。


そうすれば、現代社会は物質的にも精神的にも、非常に豊かな世の中に成るような気がします。

その「豊かさ」と引き換えにするぐらい「重要な情報」って、いまマスコミが提供している情報の中に、どれだけあるでしょうね?


少なくとも、いま自由によって守られている情報と言うのは、ほとんど「どうでもいいような情報」で、本当の意味で「報道の自由」が守られているべき情報については、必ずしも自由な状態ではないわけです。

そんな中で「報道の自由」を盲信していると、かえって、「情報操作」されやすく成ってしまうんじゃないのかなと。


まぁ、話は完全にそれてしまいましたが、

そういう風に思ったわけなのです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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