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「多重化」で「芸術表現」を広げられるだろうか?



私が考えているところの「芸術の多重化」についての話です。

 ※「芸術の多重化」と言うのは、出来るだけ既存の表現形態の中で、多くの要素を
  取り込んでいくことによって、「芸術の領域」を広げることを目指して、私が使って
  いる言葉です。
  私自身の場合で言うと、「絵と額」とか、「絵と題」の間で「多重化」を目指しています。
  その場合、「既存の表現形態」に当たるのが「絵」で、「多くの要素」に当たるのが
  「額」や「題」に成るわけですね。
  つまり、「絵」という表現の中に、別の要素として、「額」や「題」を取り込むということに
  成ります。
  「絵」自体の中でも「多重化」しつつ、さらに別の要素も取り込んでいけたら、少しは
  「芸術の領域」を広げられるだろう、というようなことで、そんなことをやっています。


私は「芸術表現」は「多重化」していくしかないだろうと思っているんですが、それは、「多重化」で「表現の領域」を広げることが出来ると思っているからなわけです。

とは言っても「多重化」=「無限」というわけではないですから、所詮限りがあるわけですが、でも、それは「無限」ではありませんが、明らかな「有限」でもないと思うわけです。


「多重化」しない場合は、どうしても限界がすぐに見えてしまうわけですが、「多重化」することによって、「限界までの距離」をかなり延ばすことが出来ると思うんですねぇ。

実際、「現在の芸術」は、その「限界」に達した後、その状態を半世紀以上も続けて居るために行き詰ってしまっているわけです。

これは、他の分野に当てはめて考えれば当然のことです。


たとえば「料理」で言えば、大航海時代には、新世界が発見されるたびに「未知の食材」が旧世界に持ち込まれたわけです。

その頃までは、「料理」が「多重化」する必要がはなく、いつも「新素材」を使って「新しい料理」が生み出されていったんだと思います。
つまり、ほとんど同じ料理方法でも、「素材のチガイ」だけで、「チガウ料理」に成っていたということですね。


ところが、地球の全体像が把握されるに至って、もう「新大陸」は無くなってしまいました。
当然、「未知の食材」もネタ切れに成るわけです。


そこで、「多重化」が必要に成るわけですね。

つまり、限られた食材の中で、「料理」自体が「より複雑な料理」へと「多重化」していく必要が出てきたわけです。


単純に言って、「いい食材」に塩を振って焼けば十分に美味しくなると思います。
でも、それでは、すぐに「限界」が見えてしまいます。

まぁ、一言で言えば飽きてしまうわけですね。


そこで「未知の食材」が出現してくれれば、また飽きずにおいしく食べられます。
でも、もう「未知の食材」がなくなった段階に成ると行き詰ってしまうわけです。

それでも、また、しばらくして「同じ食材」に塩を振って焼けば、美味しく食べることは出来ます。
でも、それはもう「創作された料理」とは言えないわけです。


そして、この『創作されたものではなくなってしまう』という部分については、「すごく美味しくてまったく飽きない食べモノ」があったとしても同じことなんですね。
要するに、その段階に成ると、「美味しいだけ」じゃ物足りなくなってしまうということですね。


こういうことと同じことが、いま「芸術」で起きていることだと思います。


単純に言って、「美しいモノ」を見つけてきて、それをそのまま描けば「美しい絵」になります。
これが「塩だけの料理」に当たります。

十分に美味しいし、十分に美しいし、何か不足があるわけではありません。
ただ、今はもう、それらが「創作された料理」でも「創作された芸術」でもなくなってしまったということです。

それらは、いま食べても十分に美味しいし、いま見ても十分に美しいんですけどね。


少なくとも「創作された芸術」を目指す場合に限っては、それでは足りなくなってしまうということです。
そこで「多重化」するしかないと思うわけですね。


たとえば、「すき焼き」という料理がありますが、「多重化」の見本だと思いますねぇ。

「焼き物」でもあり、「煮物」でもあり、「肉料理」でもあり、「野菜料理」でもあり「豆腐料理」でもある。
しかも、「卵料理」とも言えなくもないという。

あんな料理を、「牛肉文化」を持たなかった日本人がいきなり創り出せたのはスゴイことだと思います。


「牛肉食文化」が無かったために、かえって自由な発想が出来たのかも知れませんね。

「すき焼き」の場合は、「新たな食材の出現」と「多重化」が同時に起きたということでしょう。


そちらはともかくとして、話を「芸術」に戻すと、「芸術」も「多重化」するしかないような気がするわけです。


出来ることなら、行き詰る前に「多重化」してもらいたかったモノですが、今からでも、「多重化」は有効だと思います。
というか、そこにしか行く方向が無いと思うわけですね。


「芸術」が「多重化」していくことで、「限界」を少し遠い位置に置くことが出来れば、「芸術」においても、ある程度の周期をもって、反復が可能になると思っています。


先ほど、ただ美しいものを描いても、それはもう「創作された芸術」とは言えないと言いましたが、一定の期間が過ぎて「完全に忘れ去られた食材」を復活させれば、それは「新たな料理」と言えるでしょうし、それと同じ意味で、「多重化」した「芸術」においては、ある一定の期間を経て、少しづつズレながら螺旋を描くように周期的に同系統のスタイルが繰り返されることは「創作された芸術」の範囲に含まれると思っています。


厳密に言えば「純粋な創作」とは言えないのかも知れませんが、逆に言えば、「厳密な模倣」や「厳密な伝統の踏襲」とも言えませんし、本当のことを言ってしまえば、「完全に純粋なモノ」なんて人間には創り出せないと思います。

だから、その辺の範囲までを「創作された芸術」に含めても問題ないように思います。


でも、芸術の流れがそういった「繰り返し」に成っていないところに問題があると思うわけです。


「芸術の20世紀」以降は、常に「最も新しい芸術」が賞賛されてきましたし、それは「次の芸術」が現れた途端に、「過去の芸術」とされてきました。


そして、「ポップ・アート」の後、その「次の芸術」は現れていません。
というか、「次の芸術であること」自体が飽きられてきています。

それで行き詰ってしまっているわけです。


そこで、『「多重化」しかないでしょ!』と言いたいわけです。


これからも、延々と「ポップ・アート」を焼き直し続けますか?
それとも、「多重化した芸術」を目指しますか?


と、そんな風に思うわけなのです。


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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