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いつも「悪」が勝つのは「勝つことに徹したモノ」だから:~と言うことは「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、「悪」が勝ち続けるということです



小説やドラマの中では、いつもきまって「善玉」が勝つことに成っているわけですけど、現実には、ナカナカそう成らないんですよねぇ。

 ※これは、必ずしも「善・悪」についての話ではありません。
  そういう、究極的な意味での「善・悪」と言うことは、置いといて、「なんとなく悪い人」 
  と「なんとなくいい人」の間の話です。


こういうことって、当たり前になってしまっていて諦めてしまうことが多いんですけど、私の場合は、性格がかなり粘り強く出来ていて、「鉄の忍耐力を持つ男」と言われていますので、まったく諦めるということを知りません。
(すいません「嘘」です)

『お前、それシツコイだけだろ!』

「はい!」
(これは「本当」です)


まぁ、その話は置いといて。


現実に「悪」が勝つことが多いのは「悪」が「勝つこと」に徹しているからだと思うわけです。

この前、ここで「人間にとっての悪」とは「人間に成ろうとしないこと」ではないか?と書いたんですが、「人間であろうとすること」に縛られていない分、「悪」の方が「善」よりも「勝つこと」に徹することが出来るんですねぇ。


「善」の方は「人間に成ろうとすること」という足かせがありますから、少なくとも、そこの所は「勝つこと」に徹することが出来ないわけです。


と、ここまでは、『まぁ、そうだよね、勧善懲悪なんてことは理想に過ぎないんだし・・・』ということで、なんとなくやり過ごしてしまうようなことなんですが、よくよく考えてみると、そういう『まぁ、仕方ないよね』的なことでも無いんじゃないか?と思うわけです。

だって、「悪」が「勝つことに徹したモノ」であって、「善」が「勝つことに徹することが出来ないモノ」だとするならば、常に「悪」の方が有利ということに成りますよね。


一応、「法律」で「悪」を取り締まってはいても、「法の範囲内」や「法の適用外のこと」で「善」と「悪」が対等に勝負した場合は、いつも「悪」が有利ということに成るわけです。


つまり、「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、いつも「悪」が「社会的に有利」であるということですね。


現在、「ブラック企業」や「明らかにアクドイ方々」が、けっこう「社会的に成功」していたりするのは、こういったことからきているんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか?


まぁ、こういうことを言っても、『強いモノが勝つ、それでいいんだ!』という方もいるでしょうが、『イイわけないだろ!!』と言いたいですね。

そういうのを「弱肉強食」と言うのはカンチガイも甚だしいとしか言いようがありませんね。


「動物(たとえば猛獣)」には「動物の本質」があります。

だから、その「本質」に沿って「肉食獣」が「草食獣」を捕食することを「弱肉強食」と言っているわけです。
そして、それは「本質」に沿っているからこそ「美しい」わけです。

つまり、「人間」が「人間の本質」に反した行動をとっていながら、それを「弱肉強食」と言って「自己正当化」しようとすることは、それとは逆に醜いことであって、間違っても「美しいこと」でも無ければ、「自然界の摂理」でもなんでもないと思いますよ。

 ※敢えて「自然界の摂理」の中で言えば、「ハイエナ」や「ハゲタカ」のイメージに
  成りますけど、彼らには彼らの本質があって、それに沿って行動しているわけで
  すから、「人間」がそれと同じようなことをすれば、「「ハゲタカ未満」です。
  しかも、「人間の本質」からも随分とズレもてるとすれば、人間界からも脱落してし
  まうわけですね。
  その上、それ以前に相手に「足かせ」があって対等じゃないわけですから「弱肉」
  でも「強食」でもないですよねぇ。
  敢えて言えば「ズル食」ですか?私は成りたくないです。


要するに、「人間」は、いま「人間に成ろうとしているところ」なんだと思うわけです。
でも、まだ、その途中だから、ちょっと油断するとすぐに「人間以前の動物」に戻っちゃうんですね。


そして、「勝敗の原理」と言うモノが、その「人間以前の時代」からずっと持ち続けてきた原理ですから、それを持ち出されてしまうと、アッという間に、そこに引き戻されてしまうわけです。

確かに、「勝敗の原理」は「動物としての人間」が自然界を生き抜いていくために必要な「絶対原則」だったんでしょうが、そこから抜けて「人間」に成ろうということなわけで、もしも、そうでないのならば、また何世紀も前の「殺し合い」や「勢力争い」に戻るということに成るわけです。


もし、「人間」が「人間」としてやっていこう!という前提で考えるならば、今後、「勝敗」という原理を捨てる必要が出て来るんじゃないでしょうか?

つまり、「勝敗」に関わらず「人間性」を「社会の規準」にして行かないと成らなくなると思うわけですね。


これは「福祉」とは根本的に違います。

「福祉」は「人間性」を規準にしているわけではありませんし、「弱者擁護」的な面がありますが、こちらは、「人間性」を規準にして、そちらを「強者」として扱っていくという考え方ですから、そこのところが違います。
(もしかしたら「福祉」はあまり必要性が無くなるかもしれません)


いずれにしても、「悪が有利」っていう世の中って、

『どうなのよ?』

『なんで、こんなことに成っちゃうの?』


そんな風に思いますけどねぇ。


まぁ、要するに、ある意味で「善」は「自然の摂理」を捻じ曲げているところがあるわけですね。

でも、「自然の摂理」は「人間」にとっては、もう「古いスタイル」になってしまっているわけで、「人間にとっての摂理」ではなくなりつつあるということだと思うわけです。


つまり、今後も、「きれいな服」を着て「美味しい食べ物」を食べて、暮らしていきたいのなら、そちらの「新しいスタイルの摂理」に従って行動しなければならなくなるということでしょうね。

だって、「きれいな服」も「美味しい食べ物」も、みんな「自然の摂理」を捻じ曲げて「人間」が勝手に作り上げたものですから。

それとは反対に、もしも、「自然」に帰りたいならば、明日から、泥水を飲む覚悟が必要になりますよね。


私は、そんな風に思いますよ。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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