「毒親」と「親毒?」
最近になって、「毒親」という言葉を聞く機会が非常に多いなぁと感じています。
インパクトがある言葉なので、初めのうちは『えっ!毒親?』という感じで、いちいち反応していたような気がしますが、最近はけっこうよく聞くのであまり気にも留めなく成りました。
※「毒親」は子供の「毒」に成るような「ふるまい」や「教育」をしてしまう「親」のことです。
結果的に子供が精神的な抑圧を受けて、何らかの問題を抱えてしまうことに成ること
が多く、社会的な問題に成っています。
いわゆる「虐待」もこの一種だと思いますが、ハッキリした「虐待」とは言えないケース
でも、結果的に子供にとっての「毒に成ってしまう親」を含めて「毒親」と言うんだと思い
ます。
そして、「毒親」という言葉にケチをつけるつもりはないですが、実は、これ、「毒親」ではなくて、「親毒」なんじゃないの?と私は思っているわけです。
「毒親」と言うと、あくまで「ある種の親」に問題があって、そういう「問題が無い親」には関係ない話ということに成るわけですけど、『それにしては、あまりにも多いんじゃないか?』と思うんですね。
「問題が無い親」が、あまりにも少なくて、最近では、「超・毒親」から「やや・毒親」まで含めると、「ほとんどの親」が少なからず「毒親」なんじゃないか?とすら思うほどです。
そうなると、「毒親」と言うよりも「親毒」と言った方がイイんじゃないか?と思うわけですね。
つまり、「ある種の親」が「毒親」なんじゃなくて、「親」という存在自体が「毒」を持っているということなんじゃないかと思うわけです。
これは、おそらく昔の時代には無かったことで、現代社会が生み出している現象なんだと思います。
本来、「動物の親」は「子供の毒」に成るようなことはしないようにプログラムされているわけですが、現代社会が人間に対して「複雑すぎる要求」を突き付けて来るもんですから、「人間の親」がその要求を処理しきれなくなってきているんだと思います。
「社会の要求」が「人間の処理能力」を超えた時点で「毒親」が急増したんでしょうね。
そして、「毒親」の方が多数派に成った時点からは「親毒」ということに成るわけです。
要するに、「親」が「社会の複雑すぎる要求」に答えようとしたり、それを達成しようとしたりしていくと、結果的に「親毒」が発生してしまうということです。
ということは、それを避けるには「社会の要求」を無視する必要が出て来るわけですが、それは「社会的なドロップ・アウト」を意味しますから、そこでまた別の問題が発生してしまうという「二重のワナ」に成っているわけです。
こういう複雑に仕掛けられた「トラップ」を上手くかいくぐって「毒のない子育て」を達成できる「親」は必然的に限られてしまうわけで、「大多数の親」は「親毒」を発生させて「毒親」に成るわけですね。
そうなってくると、「大多数の子供」が「精神的な抑圧を受けることに成りますから、そのうちのかなりの数の人たちが、何らかの問題を抱えることに成ります。
そうすると、それがまた次の世代にも影響を及ぼすようになるでしょうから、典型的な「負の連鎖」が生まれてしまうわけです。
というか、その「負の連鎖」の状態が現在の「親毒」なのだと思います。
これを食い止めるには、「親毒」が発生してしまうメカニズムを一般的に広めて、そのメカニズムを意識して「子育て」をして行かないと「毒親」になってしまう可能性が高いということを普及させていく必要があると思いますが、『それを誰がやるんだ?』ということに成るわけです。
つまり、そういうことを担当していたのが「親」だったわけで、その「親」が「毒」に成っているわけですから、新しい担当部署が必要なんじゃないのかなと。
そういう風に思いますね。
※追記
『そんなにひどい親ばかりじゃないだろ』と思う人も居るでしょうが、これは「毒親」=「ひどい親」ということではなく、本来、親が選択しなかったはずの「子供の不利益に成ること」を選択する親が増え続けているということです。
「社会」が最優先にするのは「社会の利益」ですから、「社会の要求」に従っていくと、社会的順位が低い「子供」の「利益」が無視されるようになるわけですね。
昔の親はどんな子育てをするにも、基本的に「子供のため」という前提で子育てをしていたと思います。
(社会的逸脱者でなければ)
それが、現在では「子供のため」と言いながら、明らかに「自分の利益」や「世間体」などを優先して、その結果「子供の不利益」が生じていても、それを顧みないような親がたくさんいて、むしろ大多数と言ってもいいくらいです。
でも、これは必ずしも「親」が自己中心的な考えだけでやっていることではなくて、どちらかと言うと「社会の要求」に答えようとした結果だと思うわけです。
要するに、『社会的には良いことをしている』ということに成っているわけです。
つまり、そういう親たちは、それが、これから社会の中で生きていく「子供のため」だと思ってやっているわけです。
だから、多少のことではやめません。
「社会の要求」に答えようとし続けていると、何が「子供のため」で、何が「自分のため」で、何が「単なる世間体」なのかがわからなくなってしまうような構造が出来上がってしまっているんだと思いますね。
それから、「親毒」を受けて育った子供について言うと、強い「親毒」を受けて育った子供は、当然その悪影響を受ける可能性が高いわけですが、ほんのわずかな「親毒」に反応してしまう子供もいるように思います。
「親毒」は、本来の親には無いはずのモノですから、子供は、それに対してまったく無防備にできているわけで、ごく微弱な「親毒」でも、それを受け続けた場合、意外なほど強い抑圧を感じてしまう子供もいて、結果的には強い「親毒」を受けた子供と同じような影響を受けてしまうこともあるようですね。
むしろ、本当に問題なのはそういうケースなのかも知れません。
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