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「創作者」→「鑑賞者」→「批評者」



私が考えるところの「芸術者」についての話です。

 ※「芸術者」と言うのは、「芸術家」という呼び名の代わりに私が使っている名称です。
  「芸術者」は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」という三者を指します。
  この「芸術三者」を完全に対等な関係と考えたいと思って、私はこの名称を使ってい
  ます。
  「鑑賞者」と「批評者」は同じ「見る側」なんですが、「鑑賞者」は「芸術」を肯定的に見
  る人で、「批評者」は批判的な視点をもって「芸術」を見る人というふうに考えています。

「芸術」においては、「創作者」→「鑑賞者」という順番は避けられない場合が多いわけですが(先に、「創作者」が作品を提示しないと鑑賞できないので)、本当ならば「鑑賞者」が起点に成るケースがあってもいいような気がします。

でも、「鑑賞者の求めるモノ」を「創作者」が探るようになるのは、純粋な衝動とは言えないので良くないと思いますから避けざるを得ないと思うわけです。


それで取り敢えず、「創作者」が起点に成るということが前提に成るわけですが、「創作者」→「鑑賞者」に続いて、「鑑賞者」→「批評者」という順番があった方がイイんじゃないかと思っているわけです。

そして、それをまた、「批評者」→「創作者」というふうに「創作者」に戻して循環させていけば、最初の起点が「創作者」であっても、三者が対等に近くなると思うわけです。


「称賛」と「批評」」との両方を受けたた後で、「創作者」にそれが戻っていくような流れが出来れば、三者が対等に成ると同時に、「創作衝動」の「純粋性」が保てるんじゃないかということですね。


現在の「芸術の場」においては、「玄人の批評家」が「素人の鑑賞者」よりも先に「作品」に触れることがほとんどです。


なにせ「玄人」ですから、当然情報に精通しているわけで、やはり、新しいものを見つけるのが「素人」よりも早いわけですね。

それで、どうしても「創作者」→「批評者」という順番が出来上がってしまうわけですが、「芸術作品」と言うのは基本的に、まず一番に肯定された方がいいんじゃないかと思うわけです。

なんと言っても、「芸術作品」には一律の評価基準を設定することが出来ないわけですから、いの一番に批判されてしまうと、その作品の良さが見えなくなってしまうわけです。
(「権威」をもって「絶賛」された場合は「その作品の欠点」が見えなく成りますけどね)

それに、どちらかと言うと「素人の眼」よりも「玄人の眼」の方が情報に左右されやすいわけですから、いちばん初めは、情報量が少ない「素人の眼」に触れた方がイイんじゃないでしょうか?


「玄人」には、その後いくらでも「批判の機会」はあるでしょうから、取り敢えず、「素人の鑑賞者」が一通り「その作品」や「その作者」に目を向けてから「玄人の批評家」が批評するという流れがあってもいいと思います。

そして、さらに「その批評」を「創作者」に返すという流れが出来れば、「創作者」が創作に対する「意欲」と「厳しさ」を失わずに活動を続けていくことが出来るんじゃないかと思うわけです。
(今は、一方的に「批評家」が批判したり激賞したりするので、「創作者」は常に振り回されていると思います)


現在の「芸術の場」が活力を失っている(そう考えない人も居るでしょうけど)のは、「素人の眼」が機能していないことによるところが大きいと思います。

なにかにつけて「権威ある玄人」が付けた「お墨付き」によってすべてが判断されてしまいますから、「権威を持たない素人」は従うしかないわけで、その方程式にのっとった鑑賞法ができない人は「芸術」を諦めるしかないということが、半ば公式のようになってしまっているわけです。

そこで、かなりの数の「素人の鑑賞者」が排除されてしまうために、「芸術の場」が活力を失っているように見えるわけですね。

 ※実際、『芸術なんてあまり興味ないよ』と言う人がたくさんいると思いますし、そ
  ういう人たちは、ほとんど、「現在進行形の芸術」には関わりを持とうとしません
  が、そういう人たちが、やや古い時代の「名画」や「名作」の展示には行列を作っ
  ているというのも、まず間違いのない事実です。
  つまり、本当なら興味のあるハズの人たちが、この公式によって排除されてしまっ
  ているということです。
  しかも、その人たちは相当な数だというのもまず間違いないことなんじゃないでしょ
  うか?

これから、この「芸術三者」が出来るだけ対等になって行って、「創作者」と「鑑賞者」が対峙するという鑑賞スタイルが一般的になっていくことで、「芸術の場」は新たな展開を見つけ出していくように成るんじゃないかと思います。

当然「批評者」としては、その両者の「対峙する関係」を公平にに見据えて、その双方に対する批判を加えることに成るわけです。

そうやって、「創作」と「鑑賞」が循環するようになっていけば、「芸術」という文化はある意味での「完成形」に達するんじゃないかと思います。

それが「次の芸術」へ展開していくのか?

それとも「芸術の終わり」が待っているのか?

どちらなのかはわかりませんが、現時点での「芸術」が未完成の状態であることは間違いないと思います。


少なくとも、現在の『誰かが右と言えば、全員が右を向く』という状態は、どう考えても文化としての「完成形」ではないでしょうからね。


というようなことを考えてみました。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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