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 Ⅱ.【真術の紀元 宣言】 

 
      ⑴ 宣言文


『 芸術の中心に位置する領域にあって「真実の追究」を創作の目的とするものを≪真術≫と名付け、≪新生芸術の20世紀初年≫をもって≪真術の紀元≫とすることを宣言する 』

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※以下、2019年10月に追記。
 
この「真術の紀元 宣言」の文章は、私自身が理解できていない話であって、五里霧中の中で手探りの思考の中から発せられた言葉であるということを、先にお断りしておいた方がいいだろうと思い、以下に追記します。


まず、「真術」という名称については、特別なこだわりをもって名付けたものではなく、どちらかと言えば、「芸術」の中で『最も中心に近い部分はどこなのか?』という、私自身が答えを出すことが出来ずにいる問いに対して、「何らかの目印となる言葉」が欲しかったと言うようなことです。

従って、『これが正しい芸術のある場所である』とか、『これこそが芸術の核をなす中心的な部分である』ということを言うつもりは毛頭ありませんし、どちらかと言えば、『芸術を実行しつつも、そういう固定観念を避けるにはどうすればいいのか?』という発想から仕方なく使った言葉であると言った方がいいでしょう。

本文や他の記事にも書いていることですが、私自身『真術は可能なのか?』ということや、『芸術の中心とはいったいどこにあるのか?』というようなことにすら、まったく答えを出すことは出来ませんでしたし、この文章を追記している現時点でも、それらのことに対する何の結論も得られてはいません。


そういう前提でありながら、それでも、私が言っておきたかったことを、以下に要約すれば、

1.現在「芸術」は、ほぼ無規定な状態であり、一面においては『「無際限の自由」を与えられている』とも言えるが、一方では、『その「無際限な自由」によって、拘束され身動きが出来なくなっている』とも言える状態だと考えられる。

2.現在「芸術」は、「中心」においても「外郭」においても無規定な状態だが、「中心」も「外郭」も規定されないものは、消滅するに違いない。

3.「外郭」を規定すれば範囲が限定されてしまうが、「中心」を規定しても範囲は限定されずに、自由な状態を維持することは可能である。

以上のようなことです。


現在は、「芸術」に関する判断や定義はすべて「個人」に依拠するものであり、誰でも好きなものを好きと言っていいし、イイと思ったものをイイというのが一番正しいということに成っていると思います。

これは、言い換えるなら、「個人の好み」こそが「芸術の中心」を成すものであるということです。

確かに、それは間違いとは言えませんし、正しいと言えば、そう言えなくもないと思います。
しかし、それだけで十分なんでしょうか?

「個人の嗜好」を否定するつもりはありませんが、『自分は、〇〇人が嫌いだから差別する』というのも「個人の嗜好」です。
つまり、「個人の嗜好」を全面的に肯定してしまうと、必ずや、そこに「差別」が生まれることに成ると思うのです。
これは、人種や民族に限ったことではなく、「個人」についても言えることでしょう。

『自分は〇〇君が嫌いだから差別する』

『自分は〇〇さんが嫌いだから、職場の上司として低く評価する』

『自分は〇〇氏の作品は嫌いだから、鑑賞者として低く評価する』

上の三つのことに、根本的な違いは無いと思います。
二つ目まではほとんどの人が否定するでしょうし、一番下の話はほとんどの人が否定しないと思いますが、実際には、三つとも共通に言えることは、『人間には好き嫌いがあるが、それを全面的に適用すれば差別に成る』ということだと思います。

要するに、「個人の嗜好を絶対とすること」を「差別」と言うのだと思います。
ところが、上の例で見れば一目瞭然ですが、その「差別」が「芸術」に関しては肯定されてしまっているわけです。

『「芸術」には「差別」など存在しない』という考え方もできるのかもしれませんし、『「個人の嗜好」こそもっとも「自由な芸術の判断」である』と考えることもできるでしょうが、問題なのは、「その自由」によって「不自由」に成っていることです。

現在、「芸術」は『自由でなければいけない』という「戒律」に縛られてしまっています。
たとえ、「個人」の中にであっても、「好き嫌い」以外の「規準」があってもいいような気がするのです。

人間が「好み」から離れられないのは確かなことでしょうが、「自分の気に入った相手としか話をしないこと」は楽しいことでしょうか?「自分が好きな食べ物しか食べようとしないこと」は豊かなことでしょうか?
それと同じで、「好きな芸術しか見ない、好きな芸術だけを評価する、好きでない芸術を毛嫌いして見ようともしないこと」は、果たして「自由なこと」なのでしょうか?

「個人の嗜好」を「芸術の中心」に据えてしまうのではなく、「芸術の中心」には「それ以外のナニカ」が、きっとあるハズという考え方をすることで、創作者も鑑賞者も「自由という戒律」から解放される部分があるのではないかと考えています。

このような考えが、現状を打開するための一つのヒントに成ればと思っています。








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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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