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「神」はすでに自分の中にいた。「天才」とはみんなのことだった。居ないのは「普通の人」だった。



私は「天才の時代」は百年も前に終わっていて、「神の時代」はもっと前に終わっていると思っているんですが、『それじゃあ、今は何の時代なんだ?』と言われるならば、「普通の人の時代」なんじゃないかと思うわけです。


確かに、今でも「神」を信仰している人は沢山いますし、まして、「天才」については、出現し続けていると考える人が大多数なわけですが(というより『天才なんてもういないんだ』と言ってる人なんて居ません。不思議ですけど)、しかし、その「神」や「天才」の意味は「昔の神」や「昔の天才」の持っていた意味と同じ意味なんでしょうか?

「宗教」で言えば、この世界の「真理」をだれにでもわかるように説明している「宗教」は存在しないわけですが(「宗教」以外でも存在しませんけど)、もし、「宗教」に絶対性があるのであれば、本来そういうことが出来ている必要があるわけです。
ところが、ほんの僅かではありますが、そういう説明を「人間」が先にやってしまった部分が出てきているわけです。
もちろん、それは「真理」と言えるものでもないし、もしかしたら「ただのカンチガイ」かも知れない程度のモノなわけですが、それでも「神がやっていなかったこと」ではあるわけで、その「神がやっていなかったこと」を「人間がやってしまった」」と言うのは事実なわけです(少なくとも、「人間」には事実に見える)。

そうなると、当然「神への疑い」が発生するわけで、その昔「神への疑い」が無かったころまでの「信仰」と、現在の「神への疑い」を振り払っての「信仰」とは違う意味が出てくるわけです。

「天才」にも同じようなことが言えて、「昔の天才」は「ある特定のことが非常にうまくできる」という条件に当てはまっていれば「天才」であったわけですが、今は「ウマイ」=「天才」という単純なことでも無いわけです。

これは、例を挙げればわかりやすいと思います。

昔、「神への疑い」が無かったころまでは、「雷」や「日照り」などの気象現象や「地震」や「日蝕」などの天変地異はすべて「神のなせる業」とされていましたし、そこに「疑い」の余地はなかったわけです(だから「生贄」みたいな儀式があったんでしょう)。
でも、今は「神への信仰」を持っている人でも、そういう自然現象をすべて「神の業」とは考えなくなってきているわけです。
『いや、広い意味では「神の業」なんだよ』という考えの人は居るでしょうが、そこで「昔の神」と「今の神」の意味に少しでもチガイが出てきていることには間違いがないわけです(じゃないと「生贄制度」に戻らないと成らなくなってしまいます)。

「天才」で言えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の鏡文字(左右を反転したような文字)というのがありますよね。
あれは、何度聞いても『天才だなぁ』と思ってしまうわけですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
たぶん、私のようなウタグリ深い人間は『きっと、何か変わったことをやって有名に成ろうとしたに違いない』と思ってしまうでしょうし、きっと、『ダ・ヴィンチ』本人だって、今の時代に生きていたらそういう考え方をすると思います。

それに、『ダ・ヴィンチ』は軍事兵器なんかも考案していたりしますが、そういうことなんかも「昔」であれば、『さすが天才はこんなことまで出来たのか』と感心するだけなんですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
おそらく、『「芸術」をやる者が戦争に加担するとは何事か!』と批判されるに違いありません。
もしかしたら、そのことだけで彼の芸術家としてのすべてが否定されてしまう可能性すらあるんじゃないでしょうか?

 ※もしも、「ピカソ」の「ゲルニカ」が、「戦争批判的な絵」ではなく「戦争賛美的な絵」
  だったとしたら、やはり、その後の「ピカソ」の評価は変わってしまうでしょうね。

つまり、『ダ・ヴィンチ』や『ピカソ』でさえ「天才」でなくなってしまう可能性があるほど、「昔の天才」と「今の天才」は違う意味に成っているということです。
このことを別の言い方で言うなら、「神」も「天才」も絶対的なモノではなくなったということです。
でも、「神」も「天才」も絶対的なモノであることを前提とした言葉ですから、その概念が成り立たなくなってしまったということです。
だから、「時代」としても終わってしまっていると思うわけですね。

こんなことから、私は「神の時代」も「天才の時代」も終わっていると言っているわけです。

そして、何より、「終わってしまっているモノ」を「続けてしまっていること」がよくないと思うんですね。
要するに、「依存」しているように見えるわけです。

つまり、「神」や「天才」と言った言葉の中にある「絶対性」に「依存」してしまっているんだと思うわけです。
「個人」と言うよりも「人間全体」が「依存」しているんだと思います。

「依存」しているのは「絶対性」に対してですから、「神」を「ワンネス」と呼んでも「偉大なるもの」(「スピリチュアル」の人がそう言っているのを見たことがある)と呼んでもおんなじです。
「天才」についても、他の言葉で言い換えたっておんなじです。
「依存」からは抜け出せません。

『じゃあ、どうすれば抜け出せるのか?』ということなんですねぇ。

簡単です。
「絶対性」を諦めればいいだけですから。
『まぁ、「普通の人」でイイじゃないか』ということですね。

ただし、ここで、もう一つ問題があって、「普通の人」が、まだ居ません。
このブログでも何度も書いていますけど、「人間」は、まだ「人間」に成れていないと思うわけです。
ということは「普通の人」がまだ居ないということです。

「大多数の人」を「普通の人」と考えることは出来ますが、それだと「普通の人」がかなり低レベルになってしまうわけです。
「権力」を与えると必ず暴走するし、何かにつけて「自分」のことしか考えてないし、スキあらば人のことを蹴落とそうとする、それが現在の「大多数の人」ですから、もうチョット頑張ってもらわないと(『お前だろ!』「へぇ」)「普通の人」と言うのが「やや無意味」な感じがするわけですねぇ。
だって、それじゃあ「最低の人」とあんまり変わりませんからね。

なんで「人間」なのに「人間」に成れないんでしょうね?
要するに、成ろうとしないからだと思うんですよね。
もう「人間」に成ったと思って生きてますから、誰も「人間」に成ろうとしないんですねぇ。
だから、成れるわけありません。

逆に言うと、成ろうとすれば成れるんだと思います。
というより、「人間に成ろうとすること」こそが「人間の条件」なんだと思いますから、それだけでも十分だと思いますよ。
(現在設定されている「理想的な人間」には、将来も成れないでしょうね)

最終的に、言いたいのは、『もう、「神」は自分の中に居ると考えていいんじゃないか?』ということであり、『けっきょく、みんなが「天才」だったって言うことなんじゃないの?』ということであり、『今も昔も、チョット頑張れば誰でも「普通の人」くらいには成れるよ』ということなわけです。

まぁ、それだと「神」とか「天才」っていう言葉には、ほとんど意味が無くなってしまいますよね。
でも、チョット頑張って成った「普通の人」には、まだ「意味」が残されているんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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