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人は「価値」ではなく「意味」に感動する



「有名な絵」と「無名な絵」だったら、どっちで感動する人が多いんでしょうねぇ。

いや、あくまで、「有名な絵」=「スバラシイ絵」かつ「無名な絵」=「スバラシクナイ絵」ということを抜きに考えた場合ですよ。
だいたい同じくらいにスバラシイ絵が、「たまたま有名だった時」と「たまたま無名だった時」という条件でですね。


実際は、たぶん「有名な絵」で感動する人が多いんじゃないかと思うわけですが、『それ、はたして本当に感動してるんですか?』とも思ってしまうわけなのです。


つまりです。

『なんだかんだ言っても、ただ単に「有名な絵」だから感動したと思い込んでるだけなんじゃないの?』
ということです。

もっと言えば、「有名な絵」を見るときに、『見る前から、きっと感動するに違いないと決めてかかってるんじゃないの?』
ということですねぇ。


そういうの、実際に多いと思いますよ。

というか、ほとんどの「感動」って、その手の「感動モドキ」なんじゃないでしょうか?
(すいません!、言い過ぎです!でも、たぶんホント)

まぁ、それも「一種の感動」なんだと思いますから、否定するつもりなんか全然ないですけど、でも、そういう「予定調和」を含まない「純粋な感動」と言うのもあるんじゃないかと思ったりもするわけです。


で、そういう「純粋な感動」について言うと、「無名な絵」の方が「純粋な感動」に出会える確率が高いんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。


たとえば、『ゴッホ』ですけど(まぁ、他の貧乏絵描きの人でもいいんですけど)、『ゴッホ』が生きている間には、絵がチョットしか売れなかったというのは有名な話ですけど(1枚~数枚までの説があるらしい)、その時『ゴッホ』の絵を買った人たちって、どうしたんでしょうね?

大事にしてたんでしょうか?それともホッタラカシでしょうか?
捨てちゃった人なんかもいたんでしょうか?


まぁ、それはともかくとして、もしも、その『ゴッホ』の絵を買った人たちの中に、その絵を非常に気に入って大事にしていた人が居たとします。

その後、『ゴッホ』は大ブレイクして、その絵は一躍「無名な絵」から「有名な絵」に成るわけです。

確かに、「有名な絵」に成った『ゴッホの絵』は、その後、美術展などでたくさんの人を感動させることに成るわけです。
でも、それは、もしかしたら全部「感動モドキ」かも知れませんよね。


それに対して、「有名な絵」に成る前の「どこの誰だかわからないヤツが描いた絵」だった『ゴッホの絵』を買って、後生大事に持っていた人が、『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言って眺めている時の「感動」って、おそらく「感動モドキ」ではないだろうと思うわけです。


さらに言えば、もし仮に、その後も『ゴッホ』が売れることなく、その絵が「無名な絵」のままだったとしたら、そして、その人が、それでも、その絵を手放さずに後生大事に持ち続けていたとしたら、そして、物置や蔵の中に大切にしまっていて、時々出して眺めては、やっぱり、『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言っていたとしたなら、その時の「感動」こそが、本当の「予定調和」を一切含まない「純粋な感動」なんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけです。


たとえば、その家にお客さんが来るたびに、その人が、自慢の「無名な絵」を見せていたとします。


客人が薄暗い物置部屋に入って行くと、主人がパチンッと照明をつけます。
(時代的にはランプか?)

そこに浮かび上がるのは、まったく無名で誰が描いたかわからないけど、間違いなく『ゴッホの絵』であるわけです。


客人の中には、『へっ!誰の絵かもわからないような絵じゃね』と思う人も居るでしょう。
でも、その絵の持ち主と同じように『なんだかわかんないけど、この絵イイよ!』と思う人も居るんじゃないですか?

いや、きっといるに違いないじゃないですか?
だって、そこにあるのは間違いなく『ゴッホの絵』なんですから。

そういうのを「感動」と言うんだと、私は思っているわけです。


つまり「想定外の美しさに出会った時の衝撃」ですね。


「有名な絵」はどうしても先に「想定」が入ってくるわけです。

なにせ「有名」ですから。

そこら辺に転がってないし。


要するに、『ゴッホの絵』が、たまたま「無名な絵」としてそこら辺に転がっていた時に、「そういうモノに出会った人が受ける衝撃」を「感動」と言うんじゃないかと思うわけです。


これを言い換えるならば、『人は「価値」ではなく「意味」に感動する』とも言うことが出来ると思います。


「有名な絵」には、ハズレなく「価値」があります。
でも、その分「意味」は薄くなってしまうわけです。
(「想定外の衝撃」が無い分ですね)


「無名な絵」にはあまり「価値」はありません。
少なくとも、「一般に通用する価値」はかなり低くなってしまいます。
でも、そこには「意味」があるかもしれません。

つまり、そこに「想定外の衝撃」があるかもしれないということです。

そして、本当の「純粋な感動」とは、そういう所にしかないモノだと思うわけです。
(まぁ、めったに無いってことですけどね)


だから、「有名な絵」ばかり見ていても、『それじゃ、本物の「純粋な感動」からは、どんどん遠ざかってるのかもよ?』と。


そんな風に言いたいわけなのです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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