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「美人画」は今でもアリなのか?



昔から今に至るまで、「美しい人」を描くというスタイルは、ずっと続いてきたわけですが、そういう「美人画」に代表されるようなスタイルと言うのは、今でもアリなんでしょうか?

まぁ、「芸術として」ということなんですけど、このことにチョクチョク疑問を感じてしまうわけです。

これは、必ずしも「美しい人」に限ったことでも無くて、「美しいもの」全般に言えることなんですが、まず、「美しいもの」をそのまま描くことに、今でも「芸術」としての意味があるのか?という疑問があるわけです。

 ※「美しいもの」を描くこと自体がダメだと言うわけではなくて、「ナニカ」をプラスし
  てはじめて「創作」と言うのではないか?ということです。
  もちろん、そのまま描いても「創作」ではあると思いますが、「創作」の「作」の部
  分に比べて「創」の部分がやや少なく成るんじゃないのかなと思うわけですね。

「美人画」の場合は、「一般に認められた美人像」というものがあるわけで、それに沿った人を「美人」と呼んでいるという現実があるわけですから、「絵の中の美人」と「一般に流通している美人」がかけ離れてしまえば、それは「美人画」とは言われなくなるわけです。

ところが、「絵の中の美人」と「一般に流通している美人」が一致している場合は、「その絵」は、「社会的に流通している美しさ」をそのままなぞった絵ということに成ります。

ということは、「美人画」における「美しさ」とは、「芸術」が追求するところの「本質的な美しさ」ではなく、本来「芸術」が忌避するところの「偶像化された美しさ」であり、そういうものが持っている「表面的な美しさ」を表現として使ってしまえば、結果的には「芸術の中心」からは遠ざかってしまうんじゃないか?という疑問もあるわけです。

つまり、「社会」が「個人」に対して押し付けている「既成の美しさ」などの全ての「既成概念」は、出来るだけ「芸術表現」から離れたところに置いておいた方がイイんじゃないか?ということですね。

もちろん、「既成のもの」を一切使わないというのには無理があるでしょう。
「人間」は「神」ではありませんから、「すべて」を創造することなんてできるわけがありません。
それどころか、一つのモノですら、本当にイチから創作することが出来るのかと言うと、けっこう怪しい所もあるわけです。

でも、だからと言って、開き直って『美しいものは美しいでイイだろ!それでナニがワルイ!?』というのはチガウと思いますね。
そういうのは「自己正当化」だと思います。
(私はこの「自己正当化」が「人間の所業」として「最も醜いこと」の一つだと思います)

『出来るか出来ないか』ということではなくて、「できないこと」であってもそれを『やろうとする姿勢を示すこと』こそが、「現在の芸術」に出来る数少ないことの一つだと思うわけです。

先ほど、「美人画」に限ったことでも無いと言いましたが、これと同じことが「美人画」とは全く別のジャンルにも当てはまると思います。

それは「ポップ・アート」なんですね。

「ポップ・アート」は、今も延々と焼き直され続けていると思いますし、「ポップ・アートの焼き直し」こそが現在の主流と言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

そして「ポップ・アート」も、社会に既に流通している「既成概念」を使った表現形態なわけです。

「ポップ・アート」においては「記号」という言い方をすることがありますが、あれは言い換えれば「既成概念」に他ならないわけです。

社会の中で既に記号化された意味を持っているモノを「芸術表現」の中に取り込んで、二次創作的な意味を与えることによって再記号化するというのが「ポップ・アート」の基本構造だと思いますが、その「既成概念としての記号」と「再記号化された記号」のどちらに重点があるのか?ということです。
「再記号化~」の方に重点が置かれている場合は、そこに「芸術としての意味」があると言えるでしょうが、「既成概念~」に重点があれば「芸術としての意味」は希薄になってしまうでしょう。

それ以前に「ポップ・アート」が現れてから半世紀以上経ってしまっています。
そこに、はたして今でも「再記号化」という「意味」があるんでしょうか?
(というか、「再記号化」自体も、とっくに「既成概念化」してますけどね)

「科学」や「工業技術」に、今よりもはるかに大きな「希望」を抱いていられた半世紀前ならともかく、もはや、そこに「疑問」が付きまとうように成った現在において、その「科学」や「工業」を基盤にした「産業」や「経済」の中から、延々と垂れ流され続けている「記号」に「再記号化」するような根拠を見出すことが出来るんでしょうか?

まさにそれは、いまだに「美人」という「偶像」に「美のひな型」を求めている「美人画」と同じ状態になっているんじゃないかと思うわけです。

「偶像化された美人像」に依存して、そこから抜け出せなくなってしまう「美人画」と、底が見えてしまった「科学」や「工業技術」にいまだに依存して抜け出せなくなっている「社会」を、そのまま反映してしまっている「ポップ・アート」は、ほぼ同じ位置にあるということも出来るわけです。

そういうわけで、『美しいものを描きました』という「美人画」ではなく、『美しいものとは如何なるものなのか?』と問うような絵を、そして、『記号を再記号化してみました』という「ポップ・アート」ではなく、『なんとか記号と成るようなものを創り出そうとして見た結果がこの絵です』というような絵を、いつも目指していたいもんだなと。

そんな風に思うわけなのです。

要するに、自分の場合について言えば、「美しいもの」や「記号化されたモノ」を使うよりも、むしろそう言うモノを使わずに、自分で「ナニカ」を創り出してみたいという願望が強いということだと思います。
そして、そういうモノを「芸術の中心」に近い位置に置いた考え方をしているわけですね。





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