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「社会的メッセージ」は「アート」と言えるのか?



前の記事と似たような話です。


まぁ、「芸術」が「目的」を持ってしまうと「純粋な芸術」ではなくなってしまうんじゃないのか?というような話ですね。

かなり昔の話になりますが、「メキシコ・オリンピック」が開かれたときに、当時のアフリカ系アメリカ人の人権確立運動である「公民権運動」の影響もあり、アメリカでの黒人差別に抗議したアメリカの黒人選手が表彰台の上で「抗議のパフォーマンス」を行ったという事件がありました。
表彰台の上で国歌が流れる間中、抗議のポーズを続けた選手たちがいたのを覚えている人も多い(多くはないか?)と思います。

あれって、「スポーツ」なんでしょうか?
いや、競技の話ではなくてですね、あの「抗議ポーズ自体」ですね。
つまり、表彰台の上で、黒い手袋をつけた拳を高く掲げて頭を垂れた状態で、国歌が演奏される間中ずっと微動だにせずに無言の抗議ポーズを取り続けるというパフォーマンス(ブラックパワー・ソリュートと言うらしい)自体が「スポーツ」なのか?ということです。

『あれ自体がスポーツなわけないだろ!』
まぁ、そうですよね。
あれ自体が「スポーツ」なわけじゃなくて、「スポーツ」で勝者に成ったから表彰されて、その晴れの舞台で「抗議のパフォーマンス」をやったから人目を引いたわけですよね。

つまり、あれ自体は「抗議」という「主張」であって「スポーツ」ではないわけです。
当然、そのこととその選手の「スポーツ選手」としての評価は無関係だし、逆に、その人の「主張」は、その人の「スポーツ選手としての評価」とは本来は無関係なわけです。
ただ、特殊な状況下で、三位以内に入賞した選手だけに「主張する機会」が与えられたということなわけです。

でも、これが「芸術」の話だとどうでしょうか?

「パフォーマンス・アート」という分野は、今では多くの人が「芸術のジャンル」の一つとして認めているものと言っていいと思いますけど、その「パフォーマンス・アート」と、メキシコ五輪での「ブラックパワー・ソリュート」のような「政治的パフォーマンス」とは果たして違いがあるんでしょうか?

「パフォーマンス・アート」には、いろいろなパターンがありますから、必ずしも政治的メッセージを含んでいるとは限りませんが、アーティストとしての評価が高い人の中に、そういう政治性の強いメッセージを「パフォーマンス」」で伝えている人が居ることは事実だと思います。
その「メッセージ」や「パフォーマンス」には共感できる場合もあるんですが、ただ、それが「芸術」であるのか?ということに関しては、私は『それは違うだろう』と思っているわけです。

つまり、「ブラックパワー・ソリュート」が「スポーツ」ではないのと同じように、そういう「目的を持ったパフォーマンス」は「芸術」ではないと思うわけです。

 ※しかし、また、そういった意義もなく『ただ面白いから』という理由で行われる
  「パフォーマンス」を「芸術」と言えるのかと言うと、また別の理由で『それも違
  うだろ』と思うことが多いわけですけどね。
  つまり、それだけ「パフォーマンス・アートの現時点での存在意義」というのは
  政治的意義や社会的意義によるところが大きいということなんじゃないかと思
  いますよ。

「芸術者(私は創作者・鑑賞者・批評者の三者を含めてこう呼んでいます)」が、「主張」や「メッセージ」を持っていることや、それらを人に伝えることは悪いことだとは思いませんし、むしろ、必要なことだと思います。
それに、私自身それらの「主張」に共感するケースも多いわけですが、でも、それと「それが芸術であるということ」は別だと思うわけです。

どう考えても「ブラックパワー・ソリュート」は「スポーツ」ではありませんし、「芸術」でもありません。
それなのに、どうして「パフォーマンス・アート」は「芸術」とされているんでしょうか?

もともと、「芸術」も「表現」されるものですし、「主張」や「メッセージ」も一種の「表現」ですから、区別しにくかったということはあるんでしょうが、それを言ったら「スポーツ」だって身体的な「表現」ではあるわけだし、そんなに違いはないと思うんですけどねぇ。

おそらく「芸術」の場合は、20世紀初頭から続いている「コンセプチュアル・アート」の影響があることで、「パフォーマンス」も「芸術」の一種ということが通りやすいんだと思うわけです。

20世紀初頭に現れて来た「脱・アカデミズム」・「脱・古典」そして「脱・芸術」・「反芸術」というような流れがあるために、「芸術」と「芸術じゃないもの」の境界線と言えるものが、今ではもう無くなっていて、むしろ「芸術じゃないもの」の方が「より芸術的」であるという風潮があったりもするわけです。

そういう風潮の影響が最も色濃いのが「コンセプチュアル・アート」というスタイルだと言っていいと思います。

こういった流れの中で、現在では「パフォーマンス・アート」は「芸術のジャンルの一つ」として市民権を得るように成ったと言っていいと思います。

現在の「芸術」においては、外郭を規定することはもはや不可能だと思うほどですが、それは、如何なるものも「芸術」ではないと言うことが出来ないということです。
つまり、「芸術」を定義したり規定したりすることは出来ないということですね。

しかし、「芸術」と言うモノが存在する限り、外側の枠は規定できなくても「中心」はどこかに必ずあるわけで、厳密に「中心の位置」を測ることができないとしても「中心」は必ずどこかにあるわけです(例え、それが常に移動しているとしてもですね)。
だから、「芸術の中心」はどこかには必ずあるハズであるという仮定に沿って「芸術の中心」を仮想して、そこからの距離で「芸術」と言うモノを測ることは出来るハズなわけです。
つまり、だいたいこの辺が「芸術の中心」だろうと言う認識があれば(本当は、そういう共通の認識はあるんだと思いますよ。「なんでも芸術なんだ」と言う時に、ほとんどの人が多かれ少なかれ無理しているんじゃないですか?)、その「中心の位置」が不正確なモノだとしても、少なくとも「芸術」が存在することが出来るようになります。

要するに、私の場合は、「コンセプチュアル・アート」も「パフォーマンス・アート」も「芸術の中心」から、やや離れた位置にピン止めすることに成るわけですね。

そして、それを「芸術の中心」に近い位置にピン止めする人が居てもいいと思います。
ただし、その為には、それが「ブラックパワー・ソリュート」を「スポーツ」であると主張することと同じことであるということを了解している必要があると思うわけです。
そして、そうした「メッセージ」や「パフォーマンス」を「スポーツの評価に影響するモノ」として扱うこととも同じことに成るということを考える必要もあると思うわけです。
それが分かった上で、まだそれを「芸術の中心に近いモノ」として考える人が居ても、それは自由だと思います。

純粋に行われた「スポーツ」で、勝者に成った選手が、何らかの犠牲を払って「抗議パフォーマンス」を行うという行為には心を打たれるわけですが、それとは順番が逆に成って、「パフォーマンス」によって「スポーツ」における勝敗が左右されるようになった場合は、すべてが「茶番劇化」してしまうような気がします。

やはり、「芸術」も「スポーツ」も純粋だから美しいのかなと。
そういったことから、「芸術」は「無目的」な方がいいんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけなのです。

 ※メキシコ五輪で「ブラックパワー・ソリュート」のパフォーマンスを行った二人の黒人
  選手は、その後アメリカの陸上界でかなり差別的な扱いを受けたようです。
  (しかも、それに同調した白人選手まで自国で冷遇されたらしい)
  公には『神聖なスポーツの場に政治を持ち込んだカドで』ということに成っているよう
  ですが、「人種差別」的な意味があったのは間違いないでしょう。

 ※ここでは「パフォーマンス・アート」について、否定的に述べていますが、「アート」
  であれ「スポーツ」であれ、それらを使うことで世間的な注目を集めて、その機会を
  利用して「メッセージ」を伝えるということ自体を否定するつもりはありません。
  政治的あるいは人種的弾圧などのような、どうすることも出来ないような圧力があ
  る場合に、そういう「飛び道具」的な手段を使うことを批判しているわけではありま
  せん。
  ただ、ある程度「メッセージ」が伝わって目的が達成されてから、『あれは芸術では
  なく、純粋な気持ちで伝えたかったメッセージでした』と言う「説明」をしてほしいな
  と思うわけですね。
   
  こういう政治的あるいは社会的「主張」は、価値においては「芸術」を上回る場合も
  あると思いますから、そのために「芸術」が手段として利用されることはやむを得な
  い所もあると思いますが、そこで、そういうことを説明していかないと、「芸術の位置」
  がどんどんずれていって、そこからまた社会に問題が発生することに成ってしまいま
  す。
  現代は特にこの点における問題が非常に大きい時代だと思いますので、「パフォー
  マンス・アート」などのような「メッセージ性の強い表現」は、こういった「説明」をする
  ようにして行った方がいいと思うわけなんですね。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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